2017年07月25日

園部秀雄物語(2/2)


〈2〉竹刀にいたる病
 さて、南ク継正先生が園部秀雄について若干触れておられたことがあった。
「剣道家はかつて園部秀雄という薙刀使いの女性に全員がやられたのに、そのことを誰も書いていない。これが、剣道が間合いを工夫しなかった悲劇だったのに」と。
「月刊剣道」に堂本昭彦という人が園部のことを書いたことがあるようだが、これも「対ヤリ」試合のことを書いて、剣道が惨敗したことは遠慮したのか書いていない。(ウェブサイトで見られる)

 また。南ク継正先生は『武道講義』のなかで、われわれは剣の世界に遊学した、それゆえ剣の世界がわかったと説かれていた。
 そして剣道家には、武道の理論はできない。剣の世界にもともといた者は、武道を理論化することはできない。剣道の者は、剣の世界はいいのだという自惚れがあるから、他の世界に遊学してもすぐ戻るとも説かれていた。

 刀には斬れるという宿命がある。
 『剣は創るものだ』というのが空手で、剣道ははじめから瓦を5枚も割れるようなものだ。刀があるから。
 ここから剣の堕落がはじまる。空手家は、最初は手が瓦に当たっても瓦は割れない、と思っているから、技を創る自覚はなくとも技をそれなりに創りはじめる。
 だが、剣道は昇段審査で試し切りをやるわけでもない。

 坊主は本当は、経を創らねばならないのに、経を読んでしまう。剣道は『読んでいるくせに経を創ったつもり』と同じうんぬん、と。
 園部秀雄に薙刀の理論が書けなかったのも、そんな事情からか。
 
「坊主は、本当は経を創らねばならないのに、経を読んでしまう」とは、至言である。仏教のことは教科書レベルしか知らないが、日本では道元や日蓮、親鸞あたりが、それなりに経を創ったのであろう。坊主は自力で「経」を創ればいいのに、読むだけ(=斬れる刀をもらってしまう)から、人生を見事に創ることができないということだろうか。

〈3〉会社人間は考えない
 これがまた、会社人間の生きざまの「構造的欠陥」ではないだろうか。
 会社人間は、いわば斬れる刀をもらったようなものである。斬れてしまう、とは、会社で仕事ができてしまう、と同じことだ。だから、その刀が「定年」でなくなると、剣をなくした剣士と同じ無力な存在になるのだ。
 道場で、なかなか(何度も教えているのに)型の順番を覚えられない人間がいたので、尋ねてみた。いささか傲慢な質問とは思いつつ…。

 「貴君は会社と家で人生の大半を過ごし、その行き帰りで日々過ごしているが、その間、何か考える、ということをしているのか」と。会社での業務などは、たしかにどうしようかなどと考えてはいるだろうが、それは本当に考えるうちに入らない。竹刀を他人に作ってもらって剣道をするようなものだ。まして自宅に帰れば、飯を食って、テレビを見て、寝るばかり。どこにも必死に考えなければならない物事はない。

 空手の練習をしたいといっても、社会人ともなれば時間は取れない。そういうなかで、いかに効果的な練習をしていくか、あるいは個人としての勉強をしていくかが勝負である。例えば多忙のなか、1日5分しか空手の予習復習に時間が割けないとしたら、その5分をどれだけ有効に使うかに頭を使わなければ、決して空手は上達せず、いつまでたっても型の順番すら覚えることができない。

 指導者もむろん教えはするが、それから先は自分の工夫である。工夫とは考えることなのだ。電車に乗りながらどうやったら型の稽古ができるか、トイレのなかでも出来る型の稽古はないか、そうやって自分で考えることが大事であって、君たちのような年配の、体も学生のようには動かない人間が、玄和会の空手をやる意義はそこにある。教わったことをくり返していれば、たしかに黒帯にはなれるかもしれないが、頭はよくなっていかない。

 会社を定年退職した人の老後は哀れだろう、豪華な退職金や年金をもらったとしても。それは会社人間になって、何も考えない人生を送ってしまった報いなのだ。端的には「考えることを技化」仕損なった罰でもある。
 サラリーマンはサラリーマンなりに「坊主にとっての経」を(レベルの差はともかく)創らなければならない。ただ経を読んでいるのが、普通のサラリーマンなのだ。これを称して、何も考えていない、という。

 「剣の世界にもともといた者は、剣の世界はいいのだという自惚れがあるから、他の世界に遊学してもすぐ戻る」という指摘は、一流会社の会社員にも当てはまる。仕事さえこなしていればカネが入ってくる。自惚れていられる。
 この「剣の世界」を、他の言葉すなわち自分の人生とか、趣味とか、なんやらかんやらと置き換えて考えることができるかどうか。

 さらに言えば、スマホに夢中の若者が多いけれど、彼らもスマホを買えばいわばすぐに斬れる刀を手にしたようなものになる。
 画面を指先ひとつの操作で、なんでもほしい情報が手に入る。連絡もあっという間だ。
 スマホがない時代は、ある情報を探すそのやり方も一つの、苦労して修得する技だったが、今は技はほとんどいらない。
 相手と連絡するのも、メールがあって簡単だ。昔は恋人と連絡するのに苦労したものだった。

 親の目をどうやってかわして、彼女に電話するかなんてことで悩んだものが、今はそんなことにアタマを遣うまでもない。
 こんなことにも、現代の人間は考えない習慣が根づく。




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2017年07月24日

園部秀雄物語(1/2)


〈1〉
 園部秀雄。薙刀(なぎなた)の達人であった。2006年9月にブログに載せた記事を多少書き直して発表する。

〈1〉園部秀雄の修行過程
 園部秀雄は、直心影流薙刀術15代目(継承は明治28年)。
 おばあさんになってからのものだが、写真を見たい人は以下のHPを。
 http://www.jikishin-naginata.jp/html/page2.html
 え? おばあさん? そう、園部秀雄は男みたいな名前だが女流武道家であった。幼名を「日下たりた」と言った。道場に十七歳で入門してわずかな修行期間で試合にでた。わずか三年で天下無敵の看板武芸者となっている。

 YouTubeでは以下で模範試合が見られる。
https://www.youtube.com/watch?v=NtJlD11pj5k
 「看板武芸者」とは何かというと、江戸期からあったものだろうが、相撲なんかと同じように、武芸は興行であって、旅の芝居小屋のように全国をまわって、腕に自慢の剣士と闘うのである。興行一座に勝てば米1俵とかの景品がもらえる。

 園部秀雄も、佐竹鑑流斎一座という撃剣興行で全国を回っていた。当時(二十代)は「日下秀雄」と言っていたらしい。まだ15代を継承する前が全盛期である。
 撃剣一行の客寄せは、飛び入り勝手、日下秀雄を負かした者に大賞品贈呈とうたい上げたもので、地元剣士たちにとっては、おそれを知らぬ不敵な挑戦、たかが女に負けてなるか、と熱くなったことであろう。
 だが、生涯、百何戦して一敗しかしていないという伝説が残っている。

 とにかく、当時はまだ剣道も全国組織ではなく、地方地方にそれぞれ道場・流派があって、それぞれが覇を競っていたのである。だからそういう道場の者も「なまいきな」と、試合を申し込むことになる。
 興行側は、異種試合で受けてたつのだ。つまり「薙刀 対 日本刀」「薙刀 対 ヤリ」「薙刀 対 鎖ガマ・分銅」でもありなのである。女性でありながら、そういう異種試合でもつねに圧勝したのだから、どれほど凄まじい実力かわかるだろう。
 園部の言葉が残っている。
 「先生について修行していた時はどんなことがあっても一日も休んだことはなかった。あるとき、手の傷が膿でひどく腫れ大根のようになった時がある。それを切ったら膿が畳一面に飛んだことがあった。それでも稽古は休まなかった。技よりは精神ですよ。」

 園部は、「技よりは精神」といっているが、薙刀の達人にして残念ながら、上達の論理構造は説けなかった(当たり前だ、上達の構造を解いたのは南ク継正先生が世界で初めてだったのだから)。この言葉に、彼女が達人になれた秘密があると思うのだが…。達人ならぬ私には以下のことぐらいしか言えない。 それは、この「それでも稽古は休まなかった」にある。

 この言葉の背景には、つらいとき、休みたいとき、疲れたとき、休みたかったが「それでも稽古は休まなかった」と言っているのだ。そのとおりに、その疲れたとき、止めたくなったときこそが、技の上達のチャンスだからだ。そういう筋肉も神経も疲れた時点でなお練習を続けることは、いっそう神経を通常以上に頑張らせなければならない。冬、寒くて手がかじかんでいるときこそ、神経体力の養成にはよいのだと、わが流派の最高幹部はおっしゃった。書道家ならば、寒さに手がかじかんでいるときに、習字の修行をするといいのである。もしかして、日本女性は昔の暖房もない部屋でお針仕事を、アカギレのできた手でやったから、頭がよくなったのではないか。

 初代若乃花も、柔道の木村政彦も、たしか疲れて動けなくなってからが稽古だと、至言を語っていたはずである。疲れてからの鍛錬は、それまでの練習を「加算レベル」だとすれば、「積算レベル」での上達が図られるのではないだろうか。
 私の道場でも、100本蹴りをやると、もう50本蹴ったあたりで、息も絶え絶えになり、形は崩れ、もう止めたいと顔に出してしまう初心の者がいたが、その息が絶え絶えになってからこそ、形やスピードなどに気を集中させろと怒鳴ることになる。

 閑話休題。話を園部に戻す。
 こうした武芸興行は、やがてすたれていく。きっかけの一つは日清戦争後に全国で武道ブームがおき、日本の伝統武道をきちんと組織的に運営していこうじゃないか、という機運がうまれ、京都に「大日本武徳会」が結成される。それが全国統一組織へと流れていったようである。この武道ブームは、「起きた」のではなく「起こされた」のではないかと思うが、ま、それは置く。

 武芸興行は人気がなくなり、園部の「佐竹鑑流斎一座」は解散した。その後、園部は多くの高等女学校で薙刀術を教えるようになった。東京世田谷区に道場修徳館(薙刀教員養成所)を創立してからは本格的に女子薙刀教師の養成に尽力し、女子武道としての薙刀術興隆に貢献した。宗源寺(杉並区下高井戸)に園部秀雄女史の墓碑がある。
 薙刀というと、会津戦争で亡くなった会津藩の中野竹子も薙刀の達人であった。



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2017年07月11日

前川喜平は役人のクズのクズ


 「加計学園」の件で10日、衆参両院で閉会中審査が行われ、野党側の参考人として前川喜平元文科事務次官が呼び出された。改めて発言を聞いても、国会で大騒ぎするほどの問題とは思えない。
 支那が安倍首相追放を企んで、野党と左翼メディアにカネをバラまいて、騒動を長引かせているのであろう。

 国会審査が行なわれる10日の朝、毎日新聞は一面トップで自社のアンケート結果を記事にした。
 獣医学部のある既存の16大学に毎日新聞が独自にアンケートを実施し、すべての大学から「獣医学部新設賛同なし」の回答を得、とりわけ5校は絶対反対を表明したというのである。
 つまり加計学園のような獣医学部新設による“過剰供給に懸念”は表明されたと。

 よりによって衆参両院で閉会中審査が行われる日に、野党や前川に有利になるような記事をぶつけてきた。
 はっきり言ってこんなアンケートは無効である。
 毎日新聞は「大学から回答があった」と、図々しく言うけれど、いったい大学の誰が回答したんだ? 新聞は私企業である、そこからアンケートが送られてきたとか電話がかかってきて尋ねられたといっても、いわゆる正規に答えなければならないものではない。

 学長が書名して答えたのならいくらかは信用があるかもしれないが、「大学から」では事務員が答えたんだか、守衛が勝手に答えたんだか不明である。
 バカな読者はこれで騙されるだろうが、そうは問屋が卸さない。
 責任がどれほど取れる役職の者なり、公式見解として出されたものとは言えないのは、すぐ気が付く。読者をバカにするな。

 「この他、獣医学部新設を巡る一連の問題には『教育行政を内閣が主導で行うことの危険さを感じた』『獣医師の状況に理解がない』などと批判が目立った。」
 と、こう書くが、なぜ危険なのか、どこに問題があるのか、どういう理解がないのかには全く触れないのは、卑怯な記事である。

 10日の審査会で、前川喜平は、自らの関与が認定されて事務次官を引責辞任するきっかけとなった天下り問題に及ぶと、気色ばむ一幕もあった。自民党の青山繁晴氏が、文科省が天下り先確保のために獣医学部の規制緩和を認めていないのではないかと指摘すると、「天下り問題と獣医学部設置の問題を結びつけるのはありえない」とムッとした態度をとった。

 天下りと規制緩和(許認可)が明らかに結び付いているのに、前川はどのように「関係ない」と言いきれるかを述べはしない。スッとぼけたのだ。
 全国の大学には、文部科学省の役人が天下るか、もしくは仕事のろくにないのに出向してのさばっている。

 例えば、海外からの留学生受け入れを増やしてきたのは、文科省の木っ端役人を出向させたり天下りさせたりするためである。主に支那からの学生を駅弁大学なんかに大量に留学させ、支援金をバラまくのは、文科省の木っ端役人を送り込むためである。
 やらないでいいことを、役人が出向や天下りのポジションを得るためにゴリ押ししたのである。

 文科省に限らないだろうが、官僚機構はピラミッド型の組織で、ヒラから係長、課長へと出世していくにあたって、役職の椅子は全て用意されているわけではないから、はみ出る者が出る。はみ出たものは文科省内にとどめておけないから、ひとつには全国の大学に出向させるしかない。

 だから文科省が大学の許認可権を握って離さない。すべて自由競争にすればいいものを、それだと不要になったり出世に負けた役人の持っていきどころがなくなる。
 獣医学部に関しては、そうした利権が牢固として存在したにちがいない。

 よって、私企業たる毎日新聞が、獣医学部の新設はどう思いますか? とアンケートを大学にだせば、文科省の出向した役人や天下ったOBなどが、文科省の意に沿う回答をせっせと書くに決まっている。だからこんなアンケートはイカサマである。
 新聞社にも各大学に定年後の記者を受け入れる枠があるから、立場は文科省と同じである。奴らがつるんで「獣医学部新設に賛同なし」の回答をデッチあげる。

 日本の文化もジャーナリズムも底の底を打ち、そしてさらにこうして底なしの堕落の様相を呈する。
 大学が文科省の木っ端役人どもの植民地と化せば、真面目な大学教員が困るし、子供たちが犠牲になる。教育のなんたるかもわからない文科の木っ端役人が事務員になって口を出し、授業もできないくせに教授になる。

 虎ノ門ニュースで武田邦彦氏が、文科省の許認可権と天下りには、どこの大学も困り果てていると嘆いていた。不正の温床だと。
 憲法改正で教育の無償化が俎上にあがるようだが、そんなことをすればまた文科の役人が大量に出向や天下りでウハウハになるだろう。それより学力の低下を国会で議論するほうが先決だろうに。
 教育を無償化するのなら、まずは文科省を解体してすべて自由競争にしてからだ。

 前川は不法な天下りを政府から咎められ、辞職させられた。それを逆恨みして、自分が行政を歪めたくせに内閣府によって行政が歪められたと詭弁を弄している。支那の言いなりになって安倍下しをしゃにむにやりたいメディアがそれに乗って、前川は優秀な役人だ、英雄だと褒めそやしている。
 一刻も早く前川は逮捕投獄すべきであろう。




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2017年07月03日

稲田朋美よ、先ずは脳細胞を変えろ


 稲田朋美防衛相が東京都議選の応援演説で「自衛隊としてもお願いしたい」と発言したことが、野党と左翼メディアによって大騒ぎになっている。稲田が撤回して謝罪したにもかかわらず、「謝罪したからといって許されるものではない、辞任しろ」とゴテている。彼らは安倍晋三首相に稲田大臣を罷免すべきとも言って気勢をあげる。
 バカ騒ぎである。

 たしかに稲田発言は軽はずみの誹りは逃れまいが、辞職しろだの罷免しろだのと野党・メディアがいきり立つほどのことではあるまい。野党と左翼メディアは、安倍をひきずり降ろしたいがために、ちょっとした閣僚や自民党議員の失言などを言い立てるのは、かえって醜い所業であるとは思わないのか。
 端的には、お前等に言う資格があるのか、である。

 野党も左翼メディアも、与党議員や閣僚のクビをとることとなると狂ったように騒ぎたてる。まじめに国会審議をやることを放り出して、人の言葉尻を捉えて正義ぶる。
 私は稲田朋美は防衛大臣には適任ではないと思う。以前にもブログで書いたが、国家の防衛を担う重要ポストにふさわしい顔つきになっていない。目がいつも死んでいる。しかし、今回の発言程度で「辞めろ」というのは腑に落ちない。揚げ足とりもいいところだ。

 安倍晋三首相は、自分の顔つきや立ち居振る舞いを首相として創ってきている。問題は以前指摘したが話し方であるが、それ以外はまずは合格だろう。G7サミットに出ても他と比べて貧相なところはなく、堂々として恥ずかしくない。
 だから全ての政策に私は賛成なわけではないが。

 稲田にはそれがない。大臣とは、大臣になった瞬間から大臣の顔、大臣の話し方、大臣の立ち居振る舞いになっていなければならない。しかし、彼女はいつまでたっても、大臣らしくなっていない。これは大臣の認識になっていないからである。
 例のミニスカートに網タイツはその好例である。
 大臣といい、閣僚といい、国家を背負って立つ人間というものは、5年後、10年後にそうなるべく努めるのではない。

 むろん知識や身の上手な処し方なんかは、徐々に学ぶことがあるにせよ、任命された瞬間から国家を背負って立っていると見えていなければ話にならない。
 これは何より人間の認識が問われるのであり、別の言い方をすれば器量、尊厳、貫禄、オーラ、圧倒的な押し出しとかとも言えるだろう。

 それがないから、稲田は国会で辻元清美なんかにいじめられて涙を流したり、今回のような軽はずみの発言をしたりしてしまうのである。あるいは役人を付き従えて外遊に行くときに、娘の趣味でまるで二十代のキャピキャピギャルみたいなぶっ飛んだ服を着ていくようなふざけたマネをする。
 若い娘ごときに、国家を背負って立つべき人間の品格にふさわしい服装がわかるはずがないのに。

 人間、見た目じゃないと言われるかもしれないが、その人の認識レベルは見た目に現れるのだ。それを指導できない安倍首相に任命責任がある、というべきであって、野党やメディアがわめくような閣僚の自覚がないだの、失言がアウトだのという瑣末なことが問われるのではない。

 民進党には、それがわかっている人間が一人もいないから、誰一人として国家の責任者、指導者に足る顔つきや風格を創った者がいない。政権側の言葉尻を捉えてわめくしか能がなくなる。だから国民の心からの支持が得られない。

 安倍が首相に返り咲いたときの、自民党の総裁選では、顔ぶれを見て最小の顔は安倍しかいなかった。石原伸晃、石破茂、谷垣禎一、町村信孝、あるいは立候補を目指そうとした野田聖子、小渕優子、みんな宰相の顔つきになっている者はいなかったではないか。クズばっかり。だから総裁に当選するのは安倍だろうと私には予測できた。むろんそれだけで首相が決まるわけではないが…。

 安倍は稲田を将来の首相にしたいらしいが、あり得ない話だ。まず顔つきを変えないかぎりは歯牙にもかけられまい。防衛相でこれだけミソを付けたらもうダメだ。
 稲田は、例えばイギリスのメイ首相やドイツのメルケル首相のような貫禄を醸し出すべく自分を創れば良く、そうすれば今回のような軽率な発言もやることはなかったのだ。

 メイやメルケルは、宰相になるやいなや、その認識のみならず、自分の脳細胞まで変えたのである。だからごく自然にあの堂々たる立ち居振る舞いができるようになった。
 ただちにお茶の飲み方から、歩き方、メガネのかけかた、髪型、笑顔の作り方、話し方、すべてに国家を担っている人間であると全親全霊を込めて、たとえ人様が見ていないところでも実践しなければならなかったのだ。

したがって、稲田に対して、菅官房長官が「誤解を与えかねない発言は注意するように」と言ったそうだが、それでは直らない。注意しろ、だけではまたやるだろう。本当はそんな防衛大臣にふさわしからざる発言は、したくてもできない脳細胞にすることなのである。




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2017年06月28日

毎日記者の浅ましさ


 本ブログを読んでくださるあなたが男性だとして、女性のアパレル店やデパートの婦人服売り場に一人でふらっと入り、そこで服を選んでいる見知らぬ女性に気安く声をかけたりするだろうか?
 女性がラックにかかっている服を取り出したが、なぜか試着もせずにラックに戻したら、つかつかと歩みよって「あなたは何故、服を戻したんですか?」と尋ねる、なんてことをするか?

 私はまず100人が100人、男はそんな行為には出ないと思う。
 ところが毎日新聞の記者はそれができるらしいので、驚いた。

     *     *

 ニューヨーク市マンハッタンにある世界最大級の百貨店メイシーズの婦人服コーナー。手にしたドレスのブランド名を見て、すぐにラックに戻す女性に出くわした。エレン・グリーンバーグさん(53)。「トランプ米大統領の長女イバンカさんが手掛けるブランドだからよ」と言う。別の百貨店でもイバンカ商品に気づき、「商品を置かないように文句を言った」と漏らす。

 トランプ一家が経営する企業やトランプに献金した企業に対する消費者の不買(ボイコット)運動が全米に拡大している。
 (6月19日付毎日新聞「現場報告 トランプと世界 〜リベラル派草の根の抵抗」

     *     *

 まるで三文小説を読むようで、記者が偶然居合わせた婦人服売り場で、こんなけなげな女性と「出くわした」なんでことがあり得ようか。さすが「百人斬り」を捏造した新聞の末裔記者らしい。話を面白くするためにこのシーンをデッチあげたのは明白である。

 好き嫌いは人の常、自由である。個人がトランプ氏を嫌おうと、どんな政党を支持しようと勝手だ。しかし毎日新聞が、これを草の根の抵抗運動だと言って、称讃するのは、かなり馬鹿げている。
 買わないのは勝手だが、店に対して「イバンカ商品を売り場に置くな」と文句をつけるのは、かなり品が無い行為だし、ガキのヒステリーであり、営業妨害である。

 一橋大学の学園祭で作家の百田尚樹氏の講演を企画したところ、サヨクが妨害して中止に追い込んだ事件が起きた。これなどもサヨクリベラルの仕業で、アメリカのリベラルがトランプが嫌いだから娘のブランドの不買をやらかすのと、共通した稚技に等しい行為だ。

 毎日新聞は庶民もこうして反トランプの“正しい考え”を持ち、それが全米に拡大していると、嬉々として記事にデッチあげるのは、異様というしかない。
 アメリカ民主党支持者のただの未練じみた嫌がらせであり、アメリカマスゴミの反トランプキャンペーンを鵜呑みにしているオバカがいるという話を、大仰に紹介するのだから、やはりアタマが悪すぎだ。記事にするような話ではない。しかも、大の男が婦人服売り場を用もなしにうろついていたら…なんてウソを書いてまでするとは!

 一部を紹介した記事は、なんと一面に掲載してあって、さらに三面には全頁をつかってこの「草の根リベラル」の活動の盛り上がりを記事にしている。アホか。
 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで、大統領が嫌ならその娘のブランド服まで嫌う人がいるには相違ないが、逆にトランプ支持でしかも娘のブランドが好きなご仁もいるだろうから、その両方の見解を紹介するのが最低限のスジだろうに。

 こんなくだらないことより、アメリカの政治状況を正しく事実と公平な見方で記事にすればいいのに。そういう取材も勉強もしないで、ストーカーよろしく婦人服売り場をうろつくとは。

 毎日新聞も(その他の反日サヨクメディアも)こうまで狂っているのは、ひとつには、先の米大統領選挙でテメエたちの予想と希望が外れて、ヒラリーが負けトランプが勝ったことが、許せないのであろう。そんなはずがないというのと、何かが間違えている、と、自分たちの考えがダメだったことを傲慢にも認めたがらない。
 その悔しさや不満が、意趣返しに発展している。
 中学生や高校生の不良が、オレは悪くない、学校が、教師が、親が悪いからグレてやったんだ、と他人のせいにするようなものだ。浅ましいったらない。

 作家の門田隆将氏が6月18日付の産經新聞でエッセイを寄せていた(「新聞に喝!」)。
 「本質的な論議もなく、最後まで駄々(だだ)っ子の喧嘩のような低レベルな争いに終始した国会を国民は、どう見たのだろうか。森友問題から加計問題に至るこの不毛の5カ月間を振り返ると、物事の本質を報じない新聞の責任にどうしても行き当たる。
 かつて新聞は、人々を目覚めさせ、教え導く存在として「社会の木鐸(ぼくたく)」を自任していた。しかし、今は誰もそんなものとは考えていないし、新聞人自らもその意識はかけらもない。単に、一定の主義主張に基づき、印象操作や国民の感情を煽るだけの存在になっている。
 (中略)
 自己の主義主張に都合のいい一方の情報だけを伝えて、都合が悪い情報は決して報じない日本の新聞。もはや、そんなものは「新聞」とは呼ばない。」


 「森友問題から加計問題」とあるが、あんなものは「問題」にはならない。安倍首相の揚げ足をとって引きずりおろしたいだけの野党と反日サヨクメディアがバカをやらかしただけだ。
 「物事の本質を報じない新聞」「自己の主義主張に都合のいい一方の情報だけを伝えて、都合が悪い情報は決して報じない」「印象操作や国民の感情を煽るだけの存在」
とあるが、今回取り上げた毎日新聞の「イバンカ商品不買運動」の記事もまさしく、これである。




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