2012年05月22日

独占を排除すべし


 大相撲夏場所が、旭天鵬の初優勝で幕を閉じた。
 平幕の旭天鵬が優勝とは、相撲協会もよくやってくれるよと言いたい。しかも37歳8カ月の史上最年長の初優勝とは…。

 昔、幕内どん尻の貴闘力が優勝をさらったことがあったが、それ以来の大番狂わせだった。
 貴闘力が優秀したのは、いずれ彼が大鵬部屋を継ぐことになっていたので、引退前になんとしても1回は優勝させないとまずいと思ったのではないか。親方が幕の内優勝もしたことがないのでは、弟子はついてこない。さらにタニマチだって大横綱だった大鵬幸喜なら応援したが、大鵬の婿になっただけの貴闘力に代が替わって支援する気にはなるまい。格好がつかぬ。

 だからあの貴闘力の優勝のときは、とうてい実力で優勝したとは考えられなかった。何かが動いたのだろうと想像できた。
 のちに貴闘力は野球賭博に関与したことで、協会から解雇され、大鵬の三女とも離婚に至っている。

 だから、実力もないのに優勝させて親方にしても、結局はダメなのである。本人も精神的に負担だったろうと同情する。裏口入学をした子供は将来成功しないのではないか。

 今度の旭天鵬の場合は、現在は友綱部屋だが、本来所属していた大島部屋の親方の養子になっていて、すでに元理事・2代目大島親方から次代の年寄大島株の譲渡が内定されている後継予定者である。日本に帰化もしている。

 だから貴闘力の場合と同じ条件だ。だから引退前にせめて優勝させておきたい、ということだったのではないかと「邪推」している。ご祝儀の前倒しとでも言うか…。
 しょせん大相撲は興行であるから、そう思ってみればさほど目くじらを立てるほどの問題ではあるまい。
 ご勝手に、だ。しかし、貴闘力の二の舞にはなってほしくないものだ。

 一方で、「国営放送」NHKが、そういう特定の興行にばかり入れ揚げて、莫大な放送料を相撲協会に貢ぐとなると話は別である。
 NHKが大相撲を甘やかしてダメにしてきたのである。「国技」などと実体のない持ち上げ方を煽って、相撲を甘やかしたから、力士たちは努力しなくなった。

 相撲は、剣道や柔道もそうなのだが、独占企業、独占興行団体である。競争相手がいない。日本の統一組織である。NHK自体も国営でメディアを独占している。民間メディアはあるが、いわば税金で成り立っていて、その甘い汁に頼っているから、独占と同じで、だから努力がない。

 ほとんどが八百長の取り組みを、あたかも真剣勝負のごとくに脚色しているのは、実にNHKが悪いのである。旭天鵬が優勝したあとも、白鵬を優勝パレードのオープンカーに同乗させたり、モンゴル力士の草分けで苦節何十年などと言ったりしてヨイショしていた。ちょうど日本・モンゴル外交樹立40周年だから、すばらしいなどとも。…そこまでやるか?

 本稿で言いたいことは、話を戻して、独占はダメだという話である。
 相撲と同様に柔道も剣道も、日本では単一の組織になっている。そこが空手とは違うところだ。空手は、全日本空手連盟(昭和39年発足)があって、公益財団法人を名乗って、あたかも自分たちが日本の空手の元締めのようだが、全空連に参加していない空手組織はたくさんあって、統一しきれていない。

 いわばいまだ戦国時代である。だから発展の余地がある。
 剣道、柔道、それに相撲は、武道としてはまったく停滞してしまった。これは独占にしたからである。
 江戸時代から明治にかけては、いろいろな流派があって、まさに群雄割拠状態であった。

 柔道が嘉納治五郎の強引なやり方で、講道館柔道しかなくしてしまったし、剣道も同じ轍を踏んだ。群雄割拠にしておいたら、オリンピック種目にはならなかっただろうが、武道的には今の世の中でも西郷、三船、木村のような達人や名人が登場していたかもしれないのに、残念なことをしたものだ。

 剣道、柔道をやる人たちは、自分たちの組織が全国統一組織であり、それこそグローバルになっていることでご機嫌なのかもしれないが、そのためにどれほどのマイナスを生んだか考えたことがあるのだろうか?
 独占は競争原理が働かないからダメなのである。

 以下は増田悦佐氏の『3・11に勝つ日本経済』(PHP刊行)からの引用。すばらしく弁証法的である。

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 今、日本経済が直面している危機は、「ガラパゴス化」では、さらさらない。まったく正反対に、消費者の言うことをよく聞いて品質競争を続ける日本企業全体を、より少数の大企業、疑似独占とかガリバー型寡占とかいう事実上の独占(デファクト・モノポリー)に統合しようとする傾向こそが、ほんものの危機なのだ。

 企業統合を推進する連中の主張は、以下の通りだ。「日本は、主要産業すべてが寡占企業の数が多すぎる過当競争の世界だ。だから、慢性的に過剰投資体質で、低利益率にあえいでいる。寡占企業の数を絞り込んで、過当競争を脱却すれば、もっとフォーチューンの長者番付で上位を占める大企業が出て、企業利益率も底上げできる」。

 これほど、最初から最後までまちがいだらけの議論はない。自由経済に立脚した市場経済の世界では、競争はつねに脱落したら退場を迫られる過当競争だ。
 そして、すでにそれなりに充足している需要を横から割りこんで奪い取ることを目標として行われる投資は、つねに過剰投資なのだ。

 昔、といってもそれほど遠くない昔、「ムダを省くんだから、経済成長に貢献しないわけがない」という迷言を吐いて、財務大臣から総理大臣になった政治家がいた。市場経済というのは、どんなに突拍子もないムダに見えるモノやサービスでも、とにかく市場に出して消費者の判定を仰ぐ世界だ。そこで消費者に受け入れられれば、それが即経済成長だし、受け入れられなければ退場する。

 ムダな企業が必死に生き延びようとあがきつづけ、ムダな投資が行われ続けるかぎり、経済は発展する。「あの分野はあの企業が抑えているから」というような理由でムダな努力をやめたときから、経済は停滞し、退化する。

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 この増田氏がいうように、大企業の数を絞りこんで過当競争を制限し過剰投資を抑制したら国民経済全体が強くなるのではなく、過当競争と過剰投資が経済を成長させる原動力である。
 これがまさに弁証法的であるということだ。過当競争をなくしたほうが、ムダがなくなって良いとは、形而上学的誤りなのである。

 だから、ソ連は国内産業を過当競争と過剰投資に置かなかったから失敗した。今また欧米がその轍を踏もうとしている。北朝鮮も、共産主義でいるかぎりどんなに強盛国家を目指そうと、ダメである。

 ゆえに、大相撲もNHKも、独占にあぐらをかいていたから没落したのである。実力に疑問符の付く旭天鵬に優勝させなければならないおかしな事態にまで堕落した。
 柔道もオリンピックでメダルが取れなくなり、もうかなり前から「お家芸」ではなくなっている。独占にしたからである。

 手遅れではあろうが、相撲人気が復活したり、柔道が日本のお家芸に戻ったりするためには、群雄割拠にすると良い。
 プロ野球も、巨人が独占かつ独裁的になって物ごとを決めてきたらしいが、だから人気が落ちてきたのである。少なくとも、パリーグとセリーグをまったく別のモノにして、交流戦とか日本シリーズとかはやめて、本当はどっちが面白いかを競えば良いのであろう。ルールも好きなように変えたらいいのだ。面白いほうに観客は行く。それでいいではないか。

 同様に、教育界も東大を頂点とする馬鹿げたヒエラルキーが何十年と続いている。だから学級崩壊、援助交際、暴走族、モンスターペアレント、落ちこぼれ、不登校などの問題が次々に出て来たのである。そのことを見事に説いたのが『誰がバカをつくるのか?』(河本敏浩著)であるが、これについてはいずれ本ブログで取り上げたい。




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posted by 心に青雲 at 07:27| 東京 曇り| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2012年05月21日

たかが紅茶にミルク


 「紅茶にミルクを入れるのが先だったり、後だったり、はたまたミルクの代わりにコンデンス・ミルクを入れたり、といったことが、たんに個人の好みの問題やその地方の慣習といったことだけではなく、必ず「階級」という要因がつきまとうのがイギリスなのである。」
 (新井潤美『階級にとりつかれた人びと 〜英国ミドルクラスの生活と意見』中公新書)

 たかだか紅茶を飲むのに、ミルクの入れ方が階級のプライドの問題になっているというのだから、イギリス人はバカである。ささいな生活習慣にまで階級意識を持ち込んで、それを守る、こんな社会に生まれなくてよかったとつくづく思う。

 日本では、せいぜい世代間の好みの違いであって、恐ろしくも浅ましい階級対立にまでは発展していない。何にノスタルジーを感じるか程度の言い争いが、居酒屋なんかで繰り広げられる程度だ。

 この新井潤美氏の『階級にとりつかれた人びと』は副題に、「ミドルクラスの」とあるけれど、ミドルクラスと言っても、実は英国では「アッパー」「ミドル」「ロウアー」と区分されている。その中でも「ロウアー・ミドル・クラス」は、イギリス人の階級に関するこだわりがはっきりと現れる部分だそうだ。そんなロウアー・ミドル・クラスを中心に、イギリスの人々やイギリスの文学を考えていく本になっている。

 「ロウアー・ミドル・クラス」は、上流階級からは蔑みの目で見られるだけでなく、同じはずのミドルクラスの中の人なのに、「アッパー」や「ミドル」たちから笑いものにされて、はっきりと線引きされているとか。
 なぜバカにされるかというと、ロウアー・ミドル・クラスの人々は中身が伴ってないのに外見的なことだけ上の階級の人たちの真似をすることらしく、これが「分をわきまえない」と嘲笑される原因になる。
 
 日本で言うと「にわか成金」に近いだろうか。
 H.G.ウェルズは「タイムマシン」というSF作品で有名だが、ロウアー・ミドル・クラスの小説を沢山書いたのだそうで、英国文学は書く作家の階級を理解しないと本当の理解はできないのであろう。
 そういうことは、大学の英文学科なんかでは教えないのであろう。

 紅茶に入れるミルクばかりでなく、「アクセント、家、車、学校、スポーツ、食べもの、ファッション、飲み物、喫煙、スーパーマーケット、メロドラマ、休暇を過ごす場所、そして運動靴にいたるまで、生活のほとんどあらゆるものに微妙な、あるいは明白な、階級をあらわす名札がついてくるのである。」
 とこの本は語っている。

 やりきれたものではない。読むだけで英国社会というのは息が詰まってくる。
 こういう社会は、一部のアッパークラスの人間だけが社会をリードするようになっていて、下層の人間は馬鹿にしきっている。
 つまりグローバルスタンダードとは、こういう人を差別するのが当たり前だと思っている人間のクズのような「エリート」が、俺たちの言うことに従えと喚いているにすぎない。何をありがたがることがあろうか。

 こういう馬鹿げた話は、イギリスだけでなく欧米社会全体に共通する。うっとうしいほどの階級社会だ。

 有名な言葉に「ノーブレズ・オブリージュ noblesse oblige」があって、これは「高貴な人間には義務が強制される」とか「高貴な者のみが担わなければならない社会的責任」などと本邦では解釈される。

 Wikipedia でさえ、「実際の歴史では、貴族などの特権と贅沢を正当化する隠れ蓑となった側面もある」としたためているが、そのとおりで、こういう嫌みな格言なんかを作る神経には反吐が出る。嘘つきどもの典型的な虚飾がこの言葉であって、これを欧米の優れた倫理観だと吹聴する日本の知識人は頭が悪い。

 日本人はそんなことをわざわざ言われなくても、一般大衆でさえノーブレズ・オブリージュはわきまえている。つまり、自分が高貴な人間とか有識者だとか思っていないおばさん、おじさんでも自分には「担わなければならない社会的責任」なんてものは把持している。
 
 だから3・11の震災以降も、政府や高貴な人間になんぞ頼らずにみんなが協力してこの難局を乗り切ろうとしている。だから日本では、紅茶の飲み方は万人平等で、たんなる好みで構わないことになっており、そうした自由というか無階級社会が成立している。

 これが日本以外の国、欧米でも南米やアフリカでも、韓国支那でも、大衆は一握りの「高貴」に「糞面白くない」と思いつつ面従腹背するか、眼を盗んで刹那的な快楽を求めるクズばかりなのである。




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posted by 心に青雲 at 06:58| 東京 霧| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2012年05月18日

天皇陵のいかさま



 コメント欄に智象様から賛同をいただき、感謝申し上げます。
 「天皇に実家に戻ってほしい」とは、どこのことを実家とおっしゃっているのか…(笑)。
 私は彼らの実家は京都ではなくて、山口県の田布施町だと思うし、なんなら新羅のあった辺りにまで戻っても一向に構わない。

 ところで。関連して申せば、天皇陵がこれまたデタラメなのである。
 世界最大規模の仁徳天皇陵は、これまでにもしばしば、「あれは本当は仁徳天皇陵ではない」だとか「戦後すぐに実はGHQは調査に入っている」などと、語られることが多いが、真相は未だ闇の中である。

 あれは実際のところ、仁徳天皇陵だという確かな証拠などない。
 ほとんどの天皇陵はいかさまである。
 そのことを、加治将一氏は『失われたミカドの秘紋』(祥伝社刊)で説いている。

 天皇陵を完璧に比定したのは明治時代なんだそうだ。
 それも実際の比定作業は、科学的でも学術的でもなくて、見た目に立派な古墳に役人が勝手に「これは○○天皇の陵」と決めただけのことだという。

 天皇陵はそれまでは誰も顧みなかった。しかし明治になって、武家社会を否定しなければならず、新時代にふさわしい天皇制を造る必要があったために「天皇陵」をでっち上げたのである。
 
 『失われたミカドの秘紋』(92ページ)から、引用。

* *

 将軍に代わって大号令をかける巨星が天皇で、天皇を中心の近代国家建設を目指したのである。しかし江戸庶民の感覚では、将軍が山の頂きだ。将軍の上はありえない。もし、いるとすれば神だけである。ならば天皇を神にしてしまわなければならない。

 そこで天皇を神に変身させたのである。
 先祖を神とし、明治天皇をそこにつなげたのだ。
 天皇は神の子だといくら口で言っても限界がある。目をつけたのは古墳だ。見て分かるとおり、巨大古墳ほど神々を連想させるものはない。

 かくして神武天皇はじめ、見た目立派な古墳にべたべたと菊の御紋をつけまくったのである。むろん比定作業など眼を覆うようなやっつけ仕事だ。もっともらしい古墳を探しだしては、丸ごと洗車マシーンに突っ込んで、ピカピカに磨き上げただけで科学的な裏付けもへったくれもあったものではない。

 宮内庁は明治維新というどさくさに紛れて他人の墓を不法に専有し、それは国民財産の収奪に他ならない。

 (中略)

 陛下と縁もゆかりもない墓と知りつつ、税金を使い続けるのは不正支出であって、確信犯である。
 そして犯罪行為は、これに留まらない。
 古墳は遺跡だ。遺跡の調査を拒否し続けるのは歴史学、民俗学の破壊で、学問的損失は測りしれない。

    *          *
   
 加治氏は、作中人物の口を借りて「こともあろうに他人の墓を化粧直しして天皇陵とするのは天皇家を汚すもので、神をも畏れぬ所業だ」と語っている。
 宮内庁は万世一系などという大ウソを糊塗するために天皇陵をでっち上げたらしい。

 だから、というわけでもないが、天皇たちの“実家”は、決して京都や奈良、大阪といった辺りである証拠はない。
 仮にそうだとしても、だから尊い方々だとはならないのではないだろうか。




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posted by 心に青雲 at 06:48| 東京 晴れ| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2012年05月17日

皇居の愚


 東京のまん真ん中にある皇居。その面積は1.42km2である。

 東京ディズニーランドが0.51km2だから皇居のほうが約3倍大きい。
 東京ディズニーシーの面積は0.49km2でランドと合計するとちょうど1.0km2。
 皇居のほうがまだ1.4倍ほど広い。

 皇居周辺の道は1周約5キロなので、ジョギングコースになっている。

 皇居周辺の地価は軽くuあたり1000万円を超えるというから、仮に1000万円としても、皇居は14兆円もの資産である。もしこの皇居を売りにだせば、たちまち売れるであろうほどに土地の価値は高い。なにしろ都心の一等地である。

 そういう土地を「聖域」にしているのは、異常であり、時代錯誤の感覚である。と、私は思うが、多くの人はあれは「てんのうはん」が住んでいるからとか、日本の象徴だから皇居はそのままが当然だという歪んだ感覚を持つ。

 皇居を潰して高層マンション群にすれば、かなりの都民が職住隣接となり、過酷な通勤ラッシュに苦しまなくても済み、無駄な通勤時間に費やされることもない。マンション群の周囲にはたっぷり緑を残せばいいのだ。
 道路も地下鉄も皇居を横断縦断できれば、どれほどみんなが助かるか。

 それを愚にもつかぬ天皇一人のために、ディズニーランドの3倍の面積を占拠させている。

 天皇はただの象徴ではない。
 天皇の特権は、総理大臣や最高裁長官の任命権、国会召集、衆議院の解散、憲法改定、法律・条約の公布、国務大臣や官吏の任免、大使公使の信任状認証、その他の儀式の挙行を司る。
 さらには、不逮捕特権、免税特権を有している。

 なぜ? 誰かこうした特権や権利について合理的な説明をしてもらえないか? それは天皇だから、では答えになっていない。憲法に規定されているからも、答えになっていない。
 人類はもはや王権を必要としない社会へと進化していると私は思う。人は生まれでもって、高貴か卑賤かを決めるべきではない。だが天皇崇拝者たちは、「高貴」を残せと主張するのであろう。高貴を残せば必然的に卑賤のものという概念も実体も残ってしまう。

 高貴という概念は、媒介関係であって、上下、左右、裏表のように、上だけ、左だけというようには存在しないと同様、卑賤との媒介関係で成り立つ。
 天皇を高貴にしたいのなら、それを認める自分は必然的に「下賤」になる。なんでわざわざ自分を貶めるのか、わけがわからない。

 だから、天皇を社会にいただく意味はないと私は思う。それに加えて、先の戦争での責任である。ヒロヒト個人にだけ責任があったとは思わない。天皇制に問題があったのであり、天皇制をもとにした社会であったことを反省すべきだと私は思っている。



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posted by 心に青雲 at 11:57| 東京 曇り| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2012年05月16日

漢字の成り立ち


 加治将一著『失われたミカドの秘紋 エルサレムからヤマトへ 「漢字」がすべてを語りだす!』(祥伝社、2010年)は、小説仕立てであるが、仏教のベースはキリスト教だとか、儒教はユダヤ教、日本の初代天皇は天武天皇など刺激的な歴史のミステリーに挑んだ快著であろう。
 
 紹介したいものは多々あるが、私が最も驚いたのはタイトルにもあるように、漢字の成り立ちについてであった。
 
 多くの漢字の起源が旧約聖書の逸話を元にしたものだと著者は言う。漢字の字体統一をしたのは秦の始皇帝と言われているが、加治氏は、孔子が旧約聖書を見ながら漢字の多くを創ったのだ、という。

 孔子はチャイナ語で「コンスー」、これはユダヤの司祭、コーヘンと似ているからひょっとしたら孔子は、ユダヤ司祭の血をひく者かもと氏は言う。
 孔子の編み出した「儒教」は「ジュー教」であって、ジューすなわち「ユダヤの教え」の意味になる。
 モーゼの十戒は論語にうまく溶けていると加治氏は言う。
 
 聖書の逸話の例として幾つか紹介しよう。
 アダムとイブは神によって禁じられていた果物を食べ、自分たちが裸である事を知り、イチジクの葉で身体を覆ったという話がある。そこから「裸」の文字が作られた。裸のネは神の言葉を意味し、右側の果は果物。

 「皇帝」とか「天皇」とかの「皇」という漢字。これは分解すると「白」と「王」になる。つまり「白い王」が皇なのだ。
 この「皇」を初めて使ったのは秦の始皇帝である。始皇帝はいわゆる漢民族なんかではなく、白人系、すなわち中東の出身であった。

 「女」は、分解すると「く」+「ノ」+「一」である。
 「く」は「人」という漢字のくずし字で、「一」は1本を意味している。「ノ」はあばら骨のことだ。だから聖書の創世記にあるように、神がまず人間をつくり、その男からあばら骨を1本抜いて女を創ったというエピソードがあるが、そこから創った漢字だというのだ。
 
 ちなみに、聖書による最初の人間であるアダムは、男ではない。神がアダムの肋骨からイブを取り出したから男になったのである。とても弁証法的な解釈とでも言うべきか…。

 「船」。「舟」は櫂を横に取り付けた舟の絵文字である。「八」は、ノアの方舟から組み立ててあるという。方舟に乗船したのはノアの家族8人なのである。「口」は「人」だという。

 その他、いくつも例が挙げられている。
 漢字は、加治氏によれば周(紀元前1046〜紀元前221年)の時代に出来たとする。
 文字は殷代に登場するが、まだそのころは甲骨に刻まれた絵文字である。漢字として整ってくるのが周なのだ。だから周(春秋時代)の人間とされる孔子が、旧約聖書の創世記を見ながら、こじつけのようにして漢字を創ったとしてもおかしくはない。
 その証拠は、孔子の旧家の壁から出土した竹簡だそうだ。

 孔子がどういう人間だったかの考察もあるが、カットする。

 次に紹介するのは、日本の天皇のルーツへの考察である。
 5月9日に本ブログにアップした「昭和天皇死去の〈日〉」に取り上げたが、主に宮内庁が画策して、昭和天皇の死去の日にちを都合の良いように変えた可能性が大きいことで分かるように、日本の天皇に関して宮内庁はひたすら隠すのである。例えば学術研究のために古墳を調査したいと言っても、絶対に認めない。

 こんなスジの通らない横暴なことはないのだが、その彼らが隠している天皇の闇を探っているのが、この『失われたミカドの秘紋』なのだ。

 加治氏は、始皇帝が築いた秦の民族は、北東ツングース系騎馬民族であると説く。
 彼等は、一つはイスラエルやトルコ系民族がインドを経由し、あるいは真っ直ぐに東進するなどしながらやってきた人々である。彼等秦の民族は朝鮮半島に流れ、やがて辰韓(後の新羅国)を開く。「秦」=「辰」で音が共通する。
 
 その辰韓=新羅の一部は、馬韓(後の百済国)と同様に、日本列島の出雲地方などへと渡り着く。そこで住み着き、またそれ以前の日本列島にいた人々との間に交易を続けていく。

 その秦=辰韓からの民族グループが、現在の宮内庁を根拠地にして活動しているものと、民間においては三井財閥のグループとなっている。
 三井は、ユダヤ(アシュケナジー)の元締めであるロスチャイルドとつながっている。つまりは同祖ではないかということだ。
 天皇を利用して日本を支配してきたグループこそ、中東を出自として、秦や新羅に連なる渡来の民族だというのだ。

 秦(しん)とは、日本では秦(はた)という苗字の一族がその系統である。彼らは、八幡神社や稲荷神社の総元締めである。

 イエスは実は磔刑で死んではいないという伝説も面白い。
 イエスは実は双子で、弟のほうが身代わりに殺されたが、本人イエスはインドへ向かい、その地で布教したとも伝えられる。
 有名なレオナルド・ダビンチの「最後の晩餐」の絵で、中央のイエスのすぐ右で指を1本たてているのが、ユダ・トマスという男で、これがイエスの双子の弟と言われる。

 そのイエスたちの血が混じった可能性のあるのが秦民族で、彼等が流れ流れて日本に来て、現在の日本の宮内庁を支配しているのでは…と、加治氏は示唆して著書を締め括っている。

 なにしろ日本にはイエスの墓が青森県戸来村にあると伝わるくらいである。 
 Wikipedia によれば「日本において『桔梗紋』と言われるこの村の旧家に伝わる家紋は五角の形であり、ユダヤのシンボル六芒星である『ダビデの星』と酷似しているとしイスラエルの失われた十氏族やイエスとの関わりを指摘する説もある。 現在でも戸来小学校の校章はダビデの星と同じ形の籠目である。また、戸来村では子供の額に健康祈願などの意味合いを込めて墨で黒い十字を書く風習があったという」とある。

 どうもまったく根も葉もないことではなさそうである。

 天皇家も新羅系にあることはよく言われる。
 その天皇を動かしてきたのが、古代においては藤原氏であったが、彼らが娘を朝廷への輿入れし、外戚化を続けてきた。そのシステムを始めたのが百済国王子豊璋の息子が藤原不比等だというのだ。以来、途中で新羅系の源氏に政権を奪われたりしながらも、延々と朝廷を支配し続けてき、現在は宮内庁を取り仕切っているのだという示唆なのである。

 これは以前にブログで何度となく取り上げたが、八切止夫氏の考察になる日本民族の成り立ちにも共通するところが多く、実に面白いものであった。


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posted by 心に青雲 at 07:00| 東京 曇り| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする