2017年01月19日

予期不安とは何ぞや


 だいぶ以前に毎日新聞「子ども相談室」に以下の記事があった。

Q・小5の娘、先のことを心配し、食事もとれない
 小学5年の娘が急にいろんなことを不安がるようになりました。夏休み前の林間学校もバスに酔わないか、肝試しは怖いかなど心配し、1週間吐いて食べられなくなりました。今は元気ですが、いつまた始まるかと不安です。(大阪府、40代母親)


 これに対して、臨床心理士・西脇喜恵子氏が回答している。 
 「A・悪い結果ばかりではない−−−−体験で学んでいくはず」
として、これから起きることを想像して心配になってしまうことを「予期不安」というが、子供がこのような不安にさいなまれた時には、うまくいった林間学校でのことを思い出してみればいいんだ、というのだ。どうして「林間学校がうまくいった思い出」だと断定できるのかがわからないが…。

 予期不安は、悲観的な想像をもとにしているが、実際に起きる出来事は、すべてがすべて、心配したとおりの悪い結果に終わるとは限らない。この臨床心理士は、林間学校もそうだったはずでしょ、と決め付ける。「あの時、あれだけ心配していたけど、実際には大丈夫だった、という思いが、次の不安を少し軽くしてくれるはずです」というが、そんなバカな。実際に心配が当たった場合もあるだろう。それはどうするんだ?

 「思春期の予期不安は、一時期で終わることも少なくありません。乗り物酔いが不安なら、酔い止め薬とか嘔吐(おうと)に備えての袋をかばんに入れておいてあげる。周りの心配はその程度で十分かもしれません。予期不安には、不安に思って心の準備をするからこそ、危険や最悪の事態を避けられるという良い面もあります。いわば転ばぬ先のつえのようなものです。娘さんと一緒に、不安との上手な付き合い方を考えてみてはいかがでしょうか。」


 と、こうなのだ。能天気を絵に描いたような臨床心理士ではないか。
 思春期の問題がなに一つとして解けていないくせに、よく言うよ。
 思春期はこの方の言う「予期不安」が極端に膨れあがる。当人にも理屈ではわかっているつもりであっても、不安が恐怖へと抑えられないほどになるものだ。それは脳細胞が急激な生々発展を遂げている真っ最中だからである。

 そのあたりの理論は、南ク継正著『弁証法・認識論への道』(三一書房)(現代社全集版では第2巻)に説かれている。そういうことを何も知らずに、よく平然と臨床心理士だと名乗れるものだ。
 体験して学ぶのはあり得るけれど、思春期をその他の幼年時代やあとの大人と一緒にしてはいけない。思春期拒食症も同じことで、体験の問題ではないのだ。

 相談者の子供は小学校5年生だそうだが、やや思春期が始まるのが早い。おませなのかもしれない。そうなるのは、テレビやマンガで早くから性を教えられるからだ。

 「娘さんと一緒に、不安との上手な付き合い方を考えてみてはいかがでしょうか。」って、それがわからないから相談しているんじゃないか? この年代の子は、トイレに行くのも恐がる場合がある、それを友だちからからかわれるからだ。「ウンコしに行ったんだろう」とか「あいつ、今日は生理なんだ」などと男の子からはやし立てられ、ショックを受ける場合もある。それがために女性は便秘になったり、生理が止まったりする場合もある。大変怖いことである。それも経験、で済まされることではない。

 あるいは小学5年生ともなれば、将来母親になる準備としてヘソまである厚手のパンツを履いて、腰を冷やさない習慣付けをしなければならないが、そんな厚手のパンツを履いていると分かれば、これまたからかいの対象になる。それで恰好を気にして、やがて生理痛、帝王切開や流産、不妊などで苦しむことにもなりかねない。

 この思春期の過ごし方を甘く考えてはいけない。自然に体験を通して学ぶ? 冗談じゃないんだよ。自然に任せていいわけがない。
 自然に任せたら、愚劣なテレビタレントのマネをして、あれがカッコいいと思って薄着やら厚化粧をするようになる。タバコを吸う、夜更しをする…と、健康は二の次にされてしまう。

 思春期は端的にいえば、性に目覚める時期である。この新聞の相談者の場合も、「バスに酔わないか、肝試しは怖いかなど心配し、1週間吐いて食べられなくなった」というのは、異性を意識してのこととも考えられる。異性でないとしても、苛めを相当に気にしているらしい。バスに酔うこと自体を心配しているのではなかろう。

 この子はバスに酔っている像が浮かんでいるのではなく、酔って吐いている自分をみんなが冷やかしたり、バカにしたりしている像、あるいはもっと深刻に、好きな男の子に嫌われている像が浮かんでいるのだろう。だから強烈な不安になる。
 この人間の“創像”の謎が心理学では解けていない。

 臨床心理士・西脇喜恵子氏が、まったく性のことを考慮していないのが私には信じられない。また、この子にはどんな像が浮かんでいるのかがわかっていない。学校の教師も、もしかしたらこんな場合、乗り物酔いの薬でも持たせればいいと思っているのではないだろうか。とんでもないことだ。この子はみんなに苛められる恐怖におののいているにちがいない。それが小学3年生なら10の反映でしかないものが、思春期には1万もの反映になる。それがこの臨床心理士にもわかっていない。

 そこを教師はわかってやって、十分なる教育を日頃やらなければなるまい。どういう教育かといえば、自分が嫌なこと、あるいは嫌だなと思う言葉を、人にはしない、使わないという徹底した躾である。端的には、子供なりに相手の立場にたって考えられる人間にすること、これであろう。

 思春期はクラス全員がいわばイライラしているのだ。それが小学5年生くらいから始まる。すべてにイライラし、構ってくれないからと言ってイライラし、構うからと言ってはイライラする。それが成長過程なのだということを教師も親もわかっていて、子供にそれを教えておくことではないか。

 それを受験だけに価値を強制して他のことは野放しにするから、思春期に多くの子供たちの顔が歪んでいく。あんなにかわいかった小学生の子が、中学生になるともういっぱしの不良、ふてくされた顔、生気のない顔に変わってしまう。傷ましいと言ったらない。

 子どもはイライラを親や教師、友だちにぶつける。それを厳しく叱られないから、イライラのまま過ごしてしまい、荒れてもいいんだという認識になってしまうのだ。だから逆にちょっと弱気、内気な子ども、あるいは想像力(空想力)の強い子は、この相談者のように、強烈な不安にさいなまれていくのだ。

 いろんなことを不安がるようになった、というが、これを一応思春期の問題と切り離して考えてみる。
 人間は社会的実在だから、社会という対象の構造に見合って自分を創るように教育される。そうしなければ人間になれない。ところが、ともすると自分勝手に自分を創ってしまう。

 つまり主観を優先させて、ものごとを判断したり行動したりすることをやる。認識は全部主観である。この相談者が「いろんなことに不安になる」のは、主観である。主観によって認識が歪まされるのだから、社会的実在たる人間は自分の認識を社会という対象の構造にみあったものにしなければならない。

 われわれは子どものときから、現実(外界たる対象)を強烈な像として描きつづけることで、普通の人ならば現実がより強烈に反映するようになるのだ。現実たる対象の構造に自分の認識を合わせられていけば問題はないのに、塾通いやテレビゲームで対象の反映を薄く創ってしまうと、外界を反映が乏しくなる。反映が少ないとは、必然的に頭の中の対話(認識どうしの会話)が多くなる。頭の中の対話がつまり不安である。それでこの相談者の子のように、外界で創った認識ではなく、自分勝手な主観で内界の対話をして不安を自ら増幅させていく。

 簡単にいえば、幼児のときからしっかりと外界を反映すべく、友だちと遊び、ケンカをし、好きになったり嫌いになったりをくり返して、現実のまともな反映をするような認識と脳細胞になっていれば、不安は生じても、それが極端に肥大化して悩ませる事態には、なるまい。

 塾通いやファミコンゲームで現実の反映を薄くしているのだから、ますます現実のありようが楽しいものだとか、辛くてもたいしたことはないと楽観的に思える状態に育っていない。現代の親は、ただただ勉強ができて、言う事をきく子が良い子と勘違いしている。子どもに厚着をさせる、危ない遊びはせさない、いじめさせない、服を汚させない、極力ケガをさせない。木登りなんてとんでもない。子どもがナイフを持って学校に来ると、大騒ぎして取り上げる。

 と、こうなのだ。乱暴はいけないと育てられる女性一般にありがちな勘違いである。
 これらは大人が子どもの外界の反映を無理に遮断しているのである。子どもはそれこそ一度も辛い経験をしないで成人してしまう。だから不安な状態に直面することにもろい。





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2017年01月18日

稲田朋美は売国奴


 稲田朋美防衛大臣が、暮れも押し詰まった12月29日に靖国神社の参拝を行なった。例によって反日サヨク新聞が、「公人としての参拝か?」と尋ね、稲田は否定してみせるという茶番が続いている。
 こういう質問をくり返すバカさ加減に、サヨクは反省ができないほどにアタマが劣化している。
 公人か私人かなんて分けられないし、分ける意味はないのに、反日新聞は中韓におもね(カネをもらい)、かつ国内サヨクにこのくだらない情報を買ってもらうためにやらかしている。

 稲田は昨年8月15日に、突如アフリカのジブチへ視察に出かけ、全国戦没者慰霊祭にも靖国にも参拝しなかったことで、国会で野党からさえ嘲笑された。記者から参拝できなかったことへの後悔もあるのかと問われると、「それはありません」と答えていた。
 これまでも、8月15日にこだわっていたわけではない」と突っぱねている。

 これは欺瞞であろう。たしかに8月15日にこだわる必要はないと言えるが、それでも国家にとっては一大イベントであったし、国会で野党に嘲笑されたら涙を浮かべたとして、国民を失望させたのだ。それを失態だったという思いがあるから、年末ぎりぎりの日時で「今年中に」行ったことにしたかったのだと思われる。

 安倍晋三首相は稲田を自分の後継の首相候補に育てたい意向だと噂されているが、稲田にはその自覚がなさそうである。今年、防衛大臣になってからも失態ばかり続けた。服装やメガネまで娘の指示で身につけ、センスのなさに呆れられている。
 それにつけても、国会議員、大臣の貫禄がない。顔つきも引き締まっていない。暮れの靖国参拝の折も、ボケっとした顔で受け答え。
 好き嫌いは別として、小池都知事の貫禄のありようと比べて情けないかぎりである。安倍も人を見る目がない。後継の育て方も失敗している。

 実力もないのに、安倍にかわいがられているだけでトントン拍子の出世。これでは野党与党を問わず、女性の国会議員からの嫉妬はすさまじいものがあるだろう。何をやっても「調子に乗りやがって」と罵倒されて、足を引っ張られる状況を作ってしまっている。
 暮れに靖国に参拝したときも、記者団に囲まれてそつなく、揚げ足を取られない受け答えに終始した、
 
 失点を取り返して、もう一度保守層の支持を回復したいなら、もっと毅然とした対応であるべきを、逃げの姿勢では、ますます保守層の心証を悪くするばかりであった。
 防衛大臣なのだから、国家を背負ってたっている自負、誇りを体現した顔つき、語り口、立ち居振る舞いをしなければならない。そんなことも知らないバカ娘に頼って、チャラチャラしたファッション、しまりのない顔では、中韓は大喜びだろう。

 昨年6月、稲田朋美は自民党政調会長のとき「財政健全化を経済成長に頼るのは雨乞いのようなものだ」という発言をした。稲田に期待を寄せていた保守派は多かったようだが、彼女が経済オンチで、勉強していないことに落胆した声をずいぶん聞いた。
 経済に成長戦略を柱とするアベノミクスの考えとは真逆の、財務省のヒアリングに騙されて「日本ダメ論」「日本成長しない論」を展開し「増税派」に寝返ってしまった。

 それよりなにより、私が稲田朋美をダメだと思ったのは、「百人斬り」報道名誉毀損訴訟の原告側弁護人として一躍名を馳せながら、敗訴したことだった。意図的に敗訴になるよう仕掛けたとされる。

 「百人斬り訴訟」については周知のことと思うが、平成15年にご遺族が毎日新聞、朝日新聞、本多勝一らを相手どって、名誉毀損で、損害賠償と謝罪広告を出すよう求める訴訟を起こされたものである。しかし、東京地裁では原告敗訴、高裁、最高裁でもついに真実が認められることはなかった。わが道場でも有志が訴訟支援のカンパを募るなどして、微力ながら支援したが、非常に残念な結果である。

 本多勝一のルポに対し、山本七平氏が詳細に、かつ理路整然と「百人斬り」の欺瞞を反証した。日本刀(軍刀)では、100人はおろか1人斬れば歯がボロボロになってしまって斬れなくなる。軍刀というのは、飾りに近い指揮刀なのである。野田少尉は大隊副官であって、いわゆる白兵戦闘に参加する立場にはない。向井少尉も歩兵砲小隊長であって、白兵戦は行わない。そもそも当時、向井少尉は手足を負傷していた。両者とも兵科・所属が違うから、二人で相談して「何人斬れるか」などとゲームができるわけがない。

 山本七平氏の論証でもう決着はついている。
 近代陸上戦闘で、白兵戦を積極的に行って、戦果を競うなどということはない。いくつ敵の首をとったかなどは、戦国時代の発想である。バカ丸出し。

 稲田は百人斬り裁判でも決定的な証拠をジャーナリストの水間政憲氏から譲り受けて「わー、これすごい」とまで言っていたのに、それをあえて使用せず結局敗訴。
 原告側の名誉棄損された少尉の娘さんは死の床まで「なぜ、稲田さんはあの資料使わなかったのかしら。残念だ」とおっしゃっていたそうで、これは驚きである。

 水間政憲氏から《稲田朋美政調会長に公開質問状》が出されている。この主旨は、簡単である。
 百人斬り裁判では、毎日新聞社は最高裁まで「事実を取材し事実を報道した」と主張していた。事実でないことが立証されれば、原告の勝訴となるのは明白だった。
 「百人斬り競争」が事実であれば、最高の武勲として野田・向井両少尉には各2〜3個「金鵄勲章」が叙しされていたはずなのに、野田・向井両少尉に金鵄勲章が一つも授与されてない。
 勲章すら1個の授与されていないのは、そんな“戦功”の事実はなかった紛れもない証拠なのだ。

 このことを水間氏は地裁公判中に「内閣府賞勲局の回答」として稲田氏ら弁護人に渡した。これは決定的な証拠だった。
 毎日新聞が当時連載中に掲載した野田.向井、両少尉の写真を撮影した佐藤振寿元毎日新聞カメラマンまでがついに、あれは捏造記事だったと地裁で証言したにも関わらず、勝訴に持ち込めないというのは、稲田ら弁護人が無能か、意図的に負けるようしたのだ。

 稲田にとって百人斬り裁判は国会議員進出のための売名行為だったのだろう。勝訴すると南京大虐殺等の支那・韓国の反日運動に支障をきたすので、在日トップの宮内オリックス社長等からの圧力があったのではないかとも言われる。
 結局、稲田は水間氏へ回答はしていない。

 裁判の途中、「百人斬り訴訟を支援する会」が分裂する事態もあり、後味の悪いものになった。
 稲田は、雑誌「Will」に寄稿した文章で、野田・向井両少尉の処刑直後の痛ましい写真(周囲で支那人が拍手している)を、遺族の許可もなく掲載した。これは法律には触れなくても、ご遺族と日本人同胞への裏切り行為である。

 裁判では真実を明らかにすることは出来なかったが、今後も支那のデタラメを暴いていくだろうし、毎日新聞、朝日新聞の報道を許すことはなく、卑劣なありかたを忘れない。この事件は、小林よしのり氏も「戦争論」などで取り上げたおかげで、多くの若者の知るところとなった。真実は少しずつ日本人のなかに浸透しつつある。

 稲田は自民党のなかでは、チヤホヤされていくのだろうが、いずれ化けの皮は剥がれるだろう。



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2017年01月17日

英語で「知」が劣化(2/2)


《2》
 先週の本ブログで、元巨人の桑田投手の言葉を紹介したが、野球もさすがにアメリカ発祥だけあって、勝つか負けるか、アウトかセーフかの二分法のゲームである。結果だけを求める。桑田は勝つか負けるかの「結果」だけが野球でも、また人生でもないと説くのだった。

 現実の野球は、アウト・セーフ同時もあれば、引き分けもあるし、審判の誤審もある、外野フライが風に流されてホームランになるなど、曖昧なものだ。それでもアメリカ式野球は二分法で決着させる。
 審判が絶対で、ビデオで見ても明らかな誤審であっても、判定は覆さないというやり方は、日本人には納得しがたいが、アメリカ人はそうしないではいられない。
 日本の相撲では行司が判定しても、あとで審判が協議しているのは、アメリカ人には理解できないのではないか。

 日本の相撲も勝ち負けを競ってはいるが、「同体とみて取り直し」「不戦勝」、優勝でないが殊勲賞や敢闘賞もあれば、勝ち越せば「給金直し」とも言われるなど勝負につきものの曖昧さ、アナログ性を配慮している。さらには仕切り、塩撒き、勝ち名乗りなど、勝負の「結果」以外に見所がたくさんあるものになっている。

 それゆえ、相撲は結果だけではないことが外国人力士にはどうしても理解できない。白鵬や日馬富士などのモンゴル勢は、横綱が相手に張り手をだすのは美しくないとか塩の撒き方にも美がある、なんてことがわからない。「これは決まりだ」と教えれば実践する。

 聖徳太子の「十七条憲法」でも明治維新の「五か条のご誓文」でも、あれは弁証法的である。「和をもって尊しとなす」や「万機公論に決すべし」である。神のことばが絶対だとか、国王の命令が絶対だとは言わない。
 
 これをとりわけ戦後は、日本語はあいまいで非科学的だ、英語は論理的で答えをしっかり出すから優れているとする風潮があった。たしかに白か黒かだけの答えを求めるならば、英語は便利かもしれない。学的研究者のなかには考える際には英語で考えるといい、論理的言語だから、と学生に勧める奴もいた。それは誤りである。

 受験秀才はそうなる。正答か誤答か、白か黒かには分けやすいのだろう。その結果だけを求めることにアタマが量質転化してしまう。
 あの連中はとりわけ英語が得意である。
 見事に官僚がそういう発想になり、大学教授もそうなる。わざわざ国費にたかってアメリカに留学して、あちらの思考になじんで帰ってくる。

 で、「知」が劣化するのだ。本来的には日本語こそ対象の曖昧さや流動性やらに見合った概念や言葉が創られているから、論理的なのである。アメリカになじめる連中だから、GHQの押し付け憲法も、日本語になっていない憲法も平気でいられるバカになる。

 南ク継正先生の著作は、英語に翻訳できないそうだ。学問誌『学城』では発刊初期に『武道の理論』の英訳が試みられていたが、2〜3回ほどで立ち消えになった。やはり無理だったのかと思う。「潔い」のような言葉が翻訳できないといった事例もあるのだろうが、つまり、南ク先生の文章はすべてにわたって弁証法であり、かつそれに見合った日本語で書かれているからである。

 外国人で南ク継正先生の著作や南ク学派の学問書が理解できるようになるためには、日本語をしっかり学んでもらうしかない。やがてそうなるだろう、日本が存続するかぎりは。
 
 一方で支那も言語が、白か黒かであって、「ニュアンス」が表現できない欠陥言語である。日本語は「私は酒を飲む」と言う場合、「私も」「私が」「私でも」「私には…」など助詞によって、曖昧さを表現できるのに、支那語では「私 飲む 酒」という単語をある規則によって並べるだけ。だからニュアンスがない。
 で、国際政治では居丈高になるか、しょげるか(逃げるか)で結論を出したがる。

 もうすこし、日下氏の本のつづきを紹介する。
     *     *

 日本国憲法は、戦前と戦後の歴史の紐帯(ちゅうたい)を断ち切られている。米国に次ぐ「民主主義の実験国」を建設することを日本国民に強いたものと言える。 
 いささか極端に聴こえるかもしれないが、その本質を「言葉」から見れば、日本語ではなく英語でモノを考える日本人をつくることである。

 七十余年を経て、それは「世界標準」とか「グローバル・スタンダード」といった言葉で日本人に浸透し、アメリカ主導の価値観を普遍性と見なし、それは日本という国が従属していくことを求められる過程を示している。

 同時にそれは、日本が本来持っていた独自性や可能性を今後も自ら制約し、未来を閉じることにもなりかねない。憲法改正論議は必要だが、ともすれば日本の特質や独立の視点を置き忘れ、ただ単に英米と同じような民主主義国家になるべきだという方向に傾きがちなことに、私は異なった視点を示しておきたい。

 (中略)
 普遍主義の亡者になってはいけないということである。気概を持ったローカリズムでよい。
 そして一国の憲法とは、普遍的な地球人類の理想を追求するものである必要はなく、そこに暮らす人間のローカリズムに根ざした価値観、歴史的な慣習や常識に照らしてつくればよい。そこに立ち返ったとき、日本は自らを守る力を持つと同時に、もっと自由で豊かな国になれると私は思っている。
  (引用終わり)

     *     *

 媚中・副島隆彦は、慰安婦問題にしろ南京大虐殺にしろ、それがあったかどうかじゃなく、世界標準に従えばよいのだとほざくアホである。欧米と支那が白だといえば、それに文句を言わずに従えばよいと主張する。
 正義も誇りもいらぬ、先祖の名誉もいらぬ、ただ日本が世界に孤立しないよう、世界、とりわけ欧米と支那の言うことに従っていろというのだ。

 それがグローバル・スタンダードだと。あの男も、英語をもっぱら得意とする物書きだった。だからなのだろう。日本人の心がわからない。だから弁証法も無視できる。

 アメリカではトランプが大統領になって、グローバリズムは後退し、アメリカのナショナリズムや独自性を大事にする流れになるのでは…と予想する向きがある。そうかもしれない。当分は様子見だ。
 世界的思潮として、グローバル・スタンダードが退潮していくとすれば、まことに望ましい傾向である。
 憲法だって、対外関係を意識せずに成文化できるだろう。

 世界史の流れで言えば、これまでの世界の覇者は、ローマ帝国から始まってイギリス、アメリカにいたるまで、彼らの言語もその像も、白か黒かの二分法を元にやってきているが、それでは解けない問題があったり、問題を起こしたりしてきたのではないだろうか。
 だからその行き詰まりを感じて、彼ら自身が弁証法を考えたり、ファジーと言い出したり、“東洋の神秘”に惹かれたりしているのだろう。

 ところが我が国は、もともと二分法だけではない思考なのだ。世界を同じひとつの考え方やルールにして、究極的にワン・ワールドをつくろうという発想はない。
 これからは日本も世界もその発想に気づく時代がくるのではなかろうか?




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2017年01月16日

英語で「知」が劣化(1/2)


《1》
 日下公人氏の新著『新しい日本人が日本と世界を変える』(PHP刊)を読んでいて、憲法の問題が記述してあった。これまで言われてきたこと以上のことを説いてあったので、紹介していきたい。
 「日本人が英語を主体に考えると『知』が劣化する」という節からである。

     *     *

 日本人の大きな特質がその融通無碍なところにあるとすれば、憲法を成文化するに当たっての言葉の問題についても指摘しておこう。
 日本国憲法が事実上、GHQによる草案(英文)を邦訳したものである以上、そこに並んでいる言葉は日本人の精神やこころを反映していない。日本人はいかなる価値観を持ち、日本はどのような国家として歩んでいくかを示す意味から憲法を考えた場合、対外的な問題を意識した「説明しやすさ」は不要である。

 まず、日本人同士に「説明しやすさ」は要らない。日本語で率直に語れば通じるもののはずである。英文や漢文を意識するから、逆に彼らの価値観に引き込まれて自らを失う。
 安倍首相は、日本を「美しい国」にしたいと語ったが、憲法の前文に我が国のあるべき姿を記すとき、私なら「やすらぎの国」とか「思いやりの国」といった言葉を入れる。あるいは「潔い国」と。

 英語圏で理解されるかどうかなどということは考慮する必要はない。日本が成文憲法を持つならば「日本語の力」というものを意識する必要がある。
 私の経験から言えば、日本人が英語を主体にモノを考えはじめると「知」が劣化する。これは日本語にあって英語にない単語やニュアンスがたくさんあるからかもしれない。

 アメリカ人を相手に講演するとき、通訳付きでも話がなかなか伝わらなくてくたびれるのは、根本的に文明や文化、思想が違うからである。そのなかでアメリカ人にわかることだけを伝えようとして、彼らの言葉で考えると、ものすごく程度が下がってしまう。
 (引用終わり)

     *     *

 例えば、として日下氏は日本語の「潔い」は英語にない(ならない)と言う。Nobleでもgracefulでもなく、強いていえばManly という古い言葉が近いのだと渡部昇一氏が教えてくれたそうだ。
 これでは「男らしい」程度になっちゃうだろうに。つまり米語にはないが、古いヨーロッパには潔いの感覚が多少はあるのだろう。

 もしも憲法前文に「潔い国」と書き込むとしたら、きっと害務官僚からは異議が出る。外国人に意味が伝わらない、だからNobleとかgracefulに相当する日本語にするべきだ。高貴な、とか、優雅なとかに換えることになる。「潔い国」の意味ではなくなってしまう。

 「英語圏で理解されるかどうかなどということは考慮する必要はない」「『日本語の力』というものを意識する必要がある」。この一文には目が覚める思いだった。かくいう私も、どこかしら欧米コンプレックスがあって、世界の人たちに日本の特殊性をわかってもらう努力が必要だろうと思っていたからだ。

 和歌俳句、能、武道などは理解してもらえまいが…理解しあうことが大事であろう、くらいの感覚だった。しかし、文化の歴史が違うのだから、欧米や支那やらが日本をわかることはできない相談なのだ。
 文科省は、小学校5年生から英語を必修課目にすると言っているが、とんでもないことである。中学からで十分だ。

 英語は読み書きできるようになっても、日本人として大きな欠陥を持つようになる。日下氏が言うとおり「知」が劣化するからだ。
 たとえば柔道は、スポーツ化されてオリンピック種目になってから、武道ではなくなった。あれは見事に世界の標準に合わせた競技の枠に入れようとしたからだった。世界柔道連盟では今後、「有効」は止めようと言い出している。奴らはどうしても白黒二分にしたいのだ。

 「潔い」にしても、これは対象たる社会のありようが、曖昧にも関わらず、どうしても白黒つけないとうまく人間関係、社会関係が立ち行かないと見てとって、いわば弁証法性を断って、形而上学的答えに決める、その過程を日本人は意識するゆえに、やむを得ず「潔い」という行動を決断するのだ。
 さらに日下氏の論考を引用する。

     *     *

 アメリカはまだ二百四十年しか歴史がないから、敗者は敗者、退場するだけであって、それを飾る言葉がない。言葉がないということは概念がないということである。
 ただでさえ英語による思考は二分法になりやすい。白か黒かである。もともと契約のために発達した言語だから仕方がないが、対象となる社会現象や自然現象は、たいていアナログである。

 アナログをデジタルで表現すると、グレーゾーンを切り捨てることになる。洋裁で言えば、布地の裁ち屑がたくさん出るようなもので、日本語はその裁ち屑を掬い上げる微妙なニュアンスが豊富である。
 日本人の憲法を成文化するなら、きちんと日本語で考えられ、日本語で書かれるべきだと思う。それでは世界に説明できない、理解されないというのは、他者に寄り添うことが習い性となっている証左である。彼らに考えさせればよい。

 日本に関心を持ち、日本と付き合いたいと思えば、彼らのほうが勝手に学ぶ。大事なことは、彼らがそう思うような力のある日本、魅力ある日本であり続けることではないか。
 実は、日本は大日本帝国憲法を制定した明治時代から、自らの生存と独立のため日本の特質を削り取るという自己矛盾の世界に生きてきた、言葉も、概念も、自らを守るために自らを削り、他者のそれを取り込むということをやってきたのである。

 「文明開化」と呼ばれたものが、それである。日本の近代化は、その過程だった。
 憲法もまたその例外ではなく、明治憲法の制定に当たって、それ以前の日本の伝統を汲む努力がなされたことはたしかだが、それでも成文憲法を持ち、西欧型の近代国家に並ぶということが、いつしか生存と独立の手段としてではなく、目的化し、さらには外国に合わせることを自慢するような日本人まで出てくるようになった。
 (引用おわり)

     *     *

 これは非常に端的に日本人の近代化の宿痾を言い当てている。
 日下氏は残念ながら弁証法を学んでおられないようで、「英語による思考は二分法になりやすい。白か黒かである」とか、対象となる社会現象や自然現象はアナログなのに、それをデジタルで表現すると、グレーゾーンを切り捨てることになる、などと説くが、それが「形而上学的」であって、日下氏の言いたい「二分法でないもの」「対象がアナログだからアナログで考える(表現する)」が日下流に言うなら弁証法的なのである。



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2017年01月14日

迷い道 槿恵 クネ


 「高山正之の放言バー・リークス#13」(12月24日付)
https://www.youtube.com/watch?v=PsBVJw_-QzI
 高山正之、杉田水脈、西村眞悟が酒を飲みながらの鼎談をしている。ちょっと飲み過ぎだろうと思うけれど。
 その番組の最後のほうで、杉田水脈が渡辺真知子の歌謡曲「迷い道」の替え歌を披露していた。(56:16〜57:33) 
 傑作なので、こちらで紹介しておきたい。

  現在 過去 未来 
  あの国についてなら
  私は千年恨んでると
  誰か伝えて
  まるで時代じゃないの
  支那にはいい娘になって
  一つ反日で政策間違えて
  大統領 槿恵(クネ) 槿恵(クネ)

  セウォルは沈んでるの
  その頃どこにいたの?
  男と逢っていたと噂で聞いたけれど
  一人産経の支局長捕まえて
  大統領 槿恵 槿恵

 韓国人の奴らが聞いたら、またカッカと火病を起こすだろう。
 哀れな民族だ。
 つくづくああいう国に生まれなかった幸運を噛みしめる。霊能者と自称する人によると、前世で功徳を積んだ人間しか日本人には生まれてこられぬとかや…。妙に納得できそうな気がする。

 朴槿恵が大統領になったころは、日本のサヨクマスゴミは大はしゃぎで、今度の大統領は親日的で、なにしろ知日派だった朴正煕大統領の娘だから、いい人なんだと、ウソを垂れ流していた。それがあのザマではいったいどう弁明するんだろうマスゴミは?

 媚中・副島隆彦は、安倍晋三は無能低脳で世界で相手にされていないが、朴槿恵は東アジアで有数の政治家だ、世界で認められていると豪語していた。今はだんまりだ。
 また媚中・副島隆彦は、尖閣諸島海域では日本の海上保安庁の船が不当に支那漁船を挟み撃ちして痛め付けており、戦争を引き起こそうとしている、と「暴露」していた。それが平成22年9月、違法操業していた支那漁船が、海保の巡視船に体当たりする狼藉を働いたことが露見した。

 副島はそれを否定していたが、一色正春氏がインターネットの動画サイトに投稿し、動かぬ証拠が国民の知れるところとなったら、副島はだんまりを決め込んだのである。そういう卑劣な男である。いまだに彼の信奉者がいるのが信じられない。

 それにつけても、インターネット動画とはいえ、杉田水脈の替え歌が堂々披露されるとは隔世の感がある。10年前は考えられなかった。いずれあと10年もしたら、新聞もテレビもこうなっていくだろう。そうでなければ奴らも生き残っていけまい。
 今はまだ旧来秩序、すなわちマッカーサーの押し付けた歴史観による言論空間が支配的だが、徐々に崩れていく。

 今年はその始まりになっていくのではないか。あくまで希望的観測が大半だが…、アメリカでトランプが大統領になって、グローバリズムやらリベラル色やらが覆されていくとすれば、日本のサヨクメディアは成り立たなくなっていく。
 今年はEUが崩壊し、支那も崩壊して、世界は新秩序に向かうほかなくなると予測できよう。

 今年の大注目は、まずはヨーロッパの移民・難民問題である。中東や東ヨーロッパの難民が英独仏伊などに流れ込んで災厄をもたらし、ナショナリズムが先行して難民排斥となるなら結構な話である。それを見て、日本でも安易に難民を受け入れたら大変だと言う世論がなんとしても形成されてほしい。

 そうでないと、今、朝鮮半島の混乱が今年はいっそう激しくなるからだ。南朝鮮が新大統領になって落ち着けばいいが、経済的に崩壊してしまった以上は、韓国民が逃げ出すし、暴動が起きて収拾がつかなくなる。そこで北朝鮮が南に侵攻してきたら、韓国が持ちこたえられない。トランプは韓国を助けないだろう。またトランプは韓国難民はアメリカには受け入れまい。
 そうなれば韓国から大量の難民が日本に押し寄せる。

 これが阻止できるかどうかが、これからの日本が明るい未来か暗黒の未来になるかの分かれ道である。
 日本のマスゴミは、ザイニチに支配されているから、マスゴミは挙げて朝鮮半島からの不法難民を受け入れるべく騒ぐ。民進党、共産党、公明党がこれに同調する。

 そんな大激動の世界になろうとしているときに、日本はオリンピックの準備やら大阪万博誘致で忙しく、国会は天皇譲位問題一色になりそうだ。能天気丸出し。

 にしても、韓国では2018年2月に平昌冬期オリンピックが予定されている。会場準備の遅れも懸念材料だし、政情不安、経済失速で本当に開催されるかどうか怪しい。そんなくだらないことで混乱して、いっそう韓国が弱体化するのも迷惑な話である。


posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする