2016年08月25日

甲子園マネー事情の暗澹


 ネットの動画で「高校野球のマネー事情 甲子園出場にかかる驚愕の金額とは!?」を見た。
 甲子園に行くには大変なカネがかかるというのである。
 番組で調べたところ、交通費、滞在費、記念グッズ代、応援グッズ代、道具代、チケット代などがある。

 交通費は、選手の移動もあれば応援団の移動もある。
 応援団が甲子園に駆けつけるには、バスで移送しなければならない。甲子園の駐車場には大型バス100台分しかない。1校あたり割当は50台になる。関西圏から来るならいくらか経費は押さえられても、九州だの東北だのからバスを連ねて甲子園を目指すなら、とてつもない費用がかかる。
 平均して1校あたり1往復のバス代だけで1千万円かかるそうだ。

 滞在費は、選手の宿泊代だけでなく、試合がないとき(次の試合まで)は近隣の野球グランドを借りて練習しなければならないので、その借り賃や交通費、弁当代もかかる。甲子園に出られるレギュラーだけでなく、控え選手も練習の手伝いに来るから、相当数の人数になる。練習試合を組めば、相手校への謝礼や豪華弁当代もかかる。

 記念グッズとは、学校ごとに出場記念の何かメダルとかを特注するのである。それの専門の業者がたかりに来るだろう。選手だけではなく、学校関係者全員にということになる。寄付してくれた人へのお礼もあるなら、大変な額にふくれあがる。まして優勝したら、大盤振る舞いしたくなるに違いない。

 応援グッズは、スタンドで応援する人たちが手にするもので、メガホン、チアガールの衣装、団扇などがある。
 道具代は、選手のユニフォーム、ボール、バット、カバンなどになる。あの硬球は1個1000円する。
 さらに甲子園のアルプス席で観戦するためには、チケット代がかかる。へえ、私は学校の生徒なんかだと高野連がただにしているのかと思っていたが。

 ちなみに、甲子園のアルプス席は600円、外野席は無料である。他の特別席はこれの倍くらい。

 甲子園の初戦を戦うのに必要なカネは、1校1千万円ほどになる。その後、2回戦、3回戦と進むごとに、1試合あたり2000万円かかる。決勝まで行ったら1億4000万円に達する。
 学校はこういう特別の行事を賄えるほど資金は有り余っているわけではないから、全部を寄付に頼る。在校生、OB、近所の人たちに頼んで回る。甲子園に行けそうな強豪校は、予選が始まる前からOBらに手紙で寄付を要請する。そうしないと、甲子園出場が決まってからでは遅い。
 高野連からもらえるのは数百万円だという。

 それでも寄付金だけでは足りなくなるから、借金をするのである。
 関係者のうち会計を知らない者は、チームに勝ち進んでほしいと思うだろうが、カネを預かる人は、どうか初戦で敗退してくれと願うのではあるまいか。

 手束仁という人が『高校野球マネー事情』という本を書いている。私は読んでいないが、驚くような実態が語られている。
 甲子園に行けばかかる費用…だけではなく、普段どれくらいこの部活にかかるか。高校球児の保護者サイドが1年間に支払うお金は公立・私立でも差はあるし、甲子園を目指している学校か、そうでないかによっても違ってくるだろうが、平均すると年間23万2,082円がかかるという。

(※内訳は、部費:28,925円、父母会費:27,811円、ユニフォーム代など:43,885円、用具代:46,235円、遠征費:85,226円) 
 平均23万2,082円は選手個人にかかる費用であって、部活の運営費はまた別途。運営年間費用は、概略、公立校の年間予算平均額が42万600円。私立校の年間予算平均額が77万3,000円となっている。

 これは平均なのだから、甲子園の常連校ともなれば、目もくらむような額になっているのだろう。
 50人もの部員がいたら、試合に出られる20人程度の生徒はまだいいが、補欠にすらなれないで、球拾いだけで3年間を終わる子が多数いる。部活なのに、こういう差別をしていいのか。

 今夏の大会では、大分高校の女子マネージャーがグランドに出たのはけしからんとなったそうだが、多くの野球部は、女性をマネージャーという名をつけて雑用をやらせる。部活だからただ働きだ。おむすびを用意したり、お茶をいれたり、用具を整えたり、弁当を手配したり…。当人たちがやらせてくれと言うからやらせていると監督らは言うだろうが、ただ働きをさせているだけではないか。

 こういう実態なら、親も子も野球で夢を実現したいと思い、必死の努力を傾注することになる。多くの野球少年は学業そっちのけで野球に打ち込む。プロになって稼げれば億万長者になれると思うのだろうけれど、そんなに甘い世界ではない。おそらく10万人に1人しかプロで稼げるようにはなるまい。

 で、挫折したあと、野球しかやってこなかった青年は社会を知らない、頭も悪い。これだから、野球賭博に手を出すバカも出る。
 華やかなプロの世界があると思えばこそ、親子で夢中になるんだろうが、浅はかである。
 まして、自分の野球での夢が、多くの人の莫大なカネで支えられている実態を考えもしない人間になる。「俺が応援団なんかを甲子園に連れてきてやったんだ」と傲慢になるだけ。

 一言で言って、これはもうとっくに「部活」の域ではない。巨大ビジネスである。むろんマスゴミもそれを主催し利権にしゃぶりつく。高野連も利権なのだろう。教育的にも問題がありすぎだ。こういうものを「経済効果」があると言う向きは狂っている。




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2016年08月24日

今上天皇の譲位について


 8月8日に今上天皇の「お気持ち」なる談話が発表になった。動画で見たけれど、情けない内容としゃべり方で見ちゃいられなかった。明仁自身も宮内庁も、天皇とは何かがわかっていないように思える。
 そもそも天皇が国民に向けて、自分の気持ちなるものを言うこと自体が、間違いである。憲法上でもあってはならないし、くどくど弁解するべきものではない。

 よく読むと、論理的整合性もない。表に意図が出て来ないが「君側の奸」に思えてしかたがない。宮内庁はクリスチャンの多い部署だし、この件で沈黙しているのも不審である。天皇皇后と小和田家、サヨクなどはマスゴミを私物化している。

 天皇とは、折口信夫が解いたように「ザイン・ニヒト・ザイン」つまり「非存在の存在」である。天皇という人間の実体はむろんあるし、生き死にもするが、国家のなかの存在としては「非存在の存在」である。その存在がシャシャリ出て、個人的気持ちを述べてなんとかしろというのは、おこがましい。

 天皇がそうして政治に口を出すというか、「存在」として出ばっていいことはなかった。後鳥羽、後白河、後醍醐、それに加えて孝明、明治、昭和が「俺が、俺が」で口をだしたときに国家は乱れてきた歴史がある。
 「非存在の存在」だからこそ、御所は無防備で良く、よく言われるように御所の塀は低くて要塞とか城には当たらない。

 天皇を戦後にGHQが「象徴」と呼ぶよう強いたわけだが、それは野蛮なアメリカ人らしい呼び方であって、もともと天皇は憲法で明記するまでもなく、「象徴」に近い存在であったのだから。何をいまさら、だ。

 それが、俺は疲れたからとか高齢になったからとか、急に死ぬと天皇の家族が大変だから…などと言うのは、まったく天皇というものがわかっていない。あの談話でいちばん驚いたことが、明仁が家族の心配を語ったことだった。特権階級に胡座をかいて、日々うまいものを食い、御殿に暮らしていながら、葬儀などの行事が長過ぎるし疲れる、などとよく言うワ。

 そもそも天皇は「非存在の存在」なのだから、一人の明仁が退位しようが譲位しようがどうでもいい話である。いなくなっては困るだけである。「お気持ち」のなかで、摂政には反対だ、と匂わせるのもけしからん話で、お前が言うなよ、である。

 私は明仁自身がそろそろ痴呆になってきたことを自覚したのではないかと思う。昨年だったか、フィリピンに行ったときの動画を見ていると、そうとう怪しいことが感じ取れた。もう表に出せない…と侍従や宮内庁は思っているだろう。皇后が必死に体を支え、指示をだしているから今はなんとかなっているが、公の場で取り返しのつかない醜態を見せてしまう恐れが目捷に迫っているのだと見える。

 今回の「お気持ち」表明をビデオメッセージにしたのは、もう記者会見でぶっつけ本番ではしゃべらせられないのだ。だからおそらく何度もやり直しできるビデオにしたのだろう。

 まだなんとかしゃべれるうちに生前退位(譲位というべきだ)を法制化してほしいと関係者が思ったにちがいない。退位と言ったら、その後がないことになるのだから、「譲位」すなわち皇太子に譲る、のである。退位などと平気で口にするマスゴミの連中のアホさ加減には呆れる。初めにスクープと言ってNHKが発表したが、NHKごときがスクープできるはずがなく、侍従あたりが意図的に漏らしたのである。NHKが不遜にも「生前退位」というバカ丸出しの言葉をつかったら、ほかのマスゴミも右へならえとは…。

 それに早いうちに、現皇太子夫妻を天皇皇后にしておきたい勢力がいるのだろう。雅子の親、小和田家がとりわけご執心だとか。
 徳仁、雅子を天皇皇后にしてしまえば、廃太子・廃皇太子妃にしろという国民の声を封じることができる。

 徳仁・雅子には天皇皇后が務まらないことは明白である。「畏れ多い」などと卑屈になる輩は、その懸念を口にしないけれど、無責任である。二人とも病気持ちだ。皇太子はカツラだし、尿もれパッドを着用している。雅子は精神病であり、怠け者、自分勝手、公式行事に全部欠席、いいことは何ひとつとしてない。

 ブログ「BBの覚醒日記」には端的にこうある。
「11分にわたって、読み上げられた天皇の「お気持ち」ですが、一言に約(つづ)めれば、こうなります。「バカ長男を確実に天皇にしたいさかい、ワテの目の黒いうちに即位よろしゅうにな、憲法たら破ってもうたら、ええやん。ほな頼んだで」ふだんは、GHQ作成の平和憲法護持を主張なさる方が(それ自体が憲法違反なのですが)、不出来長男のためには憲法違反せよと、政府と国民に申し付けたのが今回の「お気持ち」談話の全てです。」

 うまい表現だと思う。平成もあと2年で30年目だから、その辺りで長男を天皇に…という意向が見え見えだと思う。
 私は以前から「BBの覚醒日記」の皇室批判ならびに秋篠宮の即位を推す見解に賛成している。氏が最初にブログに出した、『陛下「お気持ち」談話に反駁させていただきます』に全く同感だ。
 http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/9938202e6ee4c06a41f7fbb74fd2d4c2
 私は何度ブログに書いてきたが、日本に天皇が存在することには反対ではない。世界に誇るべき、と言ってよい。ただ天皇教信者みたいに手放しで礼賛するものではないし、臭いものには全部蓋という態度は取りたくない。

 これは読売新聞の記事で見たのだが、天皇の談話が発表された翌日の記事に、歴代の天皇で生前に譲位された天皇を一覧表にしてあった。その中で「南北朝時代」として後醍醐や長慶を書いてあって、なんと北朝の光厳院を無視して記載していないのである。こんな卑劣がまかり通っていて、誰も言わないことに私は憤っている。光厳院も生前に皇籍すら脱して、一修行僧として南北朝戦乱の責任をとって譲位された。子の後光厳天皇に譲った。これを現在の宮内庁も天皇家も無視している。

 光厳院は歴代天皇にカウントされているが、北朝の天皇は宮内庁が介入してカウントさせないでいる。建前上は、現在の天皇は北朝のはずなのに。天皇教信者は、この大事な話をしらばっくれる。

 こういうことをやっておきながら、明仁は「天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました」といけしゃあしゃあと言うのだ。あんたが考える問題じゃない。
 ぐだぐだ言う前に、南朝正閏説を撤回しろ。それになにより、雅子のわがまま勝手な行状を叱責したらどうだ。

 バカな長男と、不埒な嫁を育ててしまって国民に申し訳ないと一言でも言ったらどうよ。




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2016年08月23日

男がすたる、女がすたる


 皆さんは篤姫をご存じだろうか?
 2008年のNHK大河ドラマは『篤姫』だった。私は天璋院篤姫を演じた宮崎あおいが大嫌いなので、いっさい観ることはなかった。どうせNHK大河ドラマは史実とは無関係の話をデッチあげるのだし、受験秀才のNHKの職員が演出するんだからバカにしている。
 宮崎あおいについては本ブログで「ドブネズミは汚い!」として、CMに出ていた彼女を批判した。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/231834218.html

 さて、そんなことはいいのだが、篤姫は周知のように薩摩島津家の出で、第13代将軍徳川家定の正室になった。この婚儀は、薩摩藩主・島津斉彬が仕掛けたものであった。将軍の正室は、五摂家または宮家の娘しかなれない。徳川の譜代でも難しい。だから島津家は篤姫をいったん近衛家に養女として入ったのちに、建前は近衛家から将軍家に嫁いだ。

 ちなみに西武流通グループの総帥だった堤清二も、昵懇になった芸者をいきなり嫁にするのは見栄えが悪いと思ってのことか、いちど「水野家」の養女にしてから、箔をつけた(汚れをとった?)のちに嫁にした。「水野家」とは、フジTVや産経新聞などの社長だった、水野成夫のことで、その縁で息子の誠一が後に西武の社長になっている。
 財界ってのはこういうことをやる連中さ。

 で、篤姫は将軍家に入り「広大院」となり、大奥を差配した。篤姫が将軍正室になったことは、外様大名が将軍の舅となった極めて異例の事態であり、島津斉彬が時の阿部正弘政権に食い込もうとした野望が見てとれる。篤姫を大奥に送り込んで、御台所として権勢を振るってくれることを期待したのであろう。

 時代は幕末の動乱期に突入する。やがて薩長の下級武士反乱軍が江戸に押し寄せる。そのとき、薩摩軍の西郷隆盛は薩摩から輿入れされた縁で篤姫を江戸城から救出したいと申し出るが、篤姫に一蹴されている。もとは西郷が、篤姫のお輿入れの際に準備に奔走した縁があったから、歴史の巡り合わせの皮肉である。
 徳川慶喜は無能でなにもできなかったが、篤姫は朝廷、薩摩(実家)、西郷軍に対して徳川慶喜の助命嘆願書を提出する。

 しかし冷酷な西郷と朝廷は、篤姫の「従三位」という位階を剥奪して応えた。篤姫は、反薩長の奥羽越列藩同盟に対して「逆賊薩長討つべし」と要請書状も送っている。
 明治の世となって、篤姫は薩摩側の援助の申し出も断っている。そして一生、薩摩には戻らなかった。生活は困窮したと伝えられるが、終生徳川の人間として生きた。

 原田伊織氏の新刊『大西郷という虚像』(悟空出版刊)の冒頭にこの篤姫の話が出て来る。
 原田氏はこの篤姫の生き方を「徳川に嫁いだ身として今更薩摩の支援を受けたら、下種な表現になるが『女がすたる』という想いで生きたのではなかったか。天璋院篤姫。彼女は、紛れもなく『薩摩おごじょ』であった。」としたためている。
 
 また、原田氏は篤姫の生きざまの話の前に、身近に知った薩摩おごじょの例をあげている。
 それは原田氏が広告会社に勤務しているときに、後輩に薩摩出身の女子社員がいたそうだ。STという彼女はもの静かだが仕事においては音(ね)を上げるということがなかった。

 あるとき原田氏が鹿児島に出張になったときに、その女性が「高校時代の親友が串木野でクラブのママをやっているから立ち寄ってくれ」と言って現地の親友に原田氏のことを連絡した。
 原田氏が実際にそのクラブに行ってみると、港町らしく荒くれの男たちがたむろしていたが、店の若いママは完全に男どもを支配していて、原田氏のために数人の男どもをカウンターに追いやり、ボックス席を原田氏のために空けた。
 以後は、原田氏の本からの引用にする。

     *     *

 私のために、奥のボックス席の数名の男たちをカウンターに追いやり、その煽りを受けることになったカウンターの若者数名に向かって。「今夜はお帰り!」と、あっさり命令した。私が恐縮して、慌ててそれを制しようとしたことはいうまでもない。が、彼女は私を制し、
「まり子の大事な方だからね!」
と、私を店中の男に宣言した。「まり子」といったって、店にいた男たちに分かるはずもないのだが、それを質す男はいなかった。

 それは、私に向かっても宣言していたようにも聞こえ、子音の発音の綺麗な威厳に満ちた言い方に、殆ど抗することなく観念したのであった。「まり子」とは、後輩STのことである。
 彼女は最後まで私の席を離れず、両側にも女性を付かせた。この夜は、港町の男たちにとっては実に不運な夜だったとしかいい様がない。観念した私は勧められるままにしこたまハイボールを呷ったのだが、結局、この若いママさんは、頑として勘定を受け取らなかったのである。

「そげんことして、まり子に何ていうね!」
 彼女は、STと私の関係を誤解したわけではない。彼女にしてみれば、親友が知らせてきた一夜限りの客であることは承知しているが、その客に失礼があっては「女がすたる」のである。そういう意味のことを、確かに彼女自身が口にしていたのだ。

     *     *

 原田氏はこのスナックのママを薩摩おごじょの典型ではないかと書いている。なかなかいい話だった。
 篤姫とこの串木野の若いママ、二人に共通するのは「気立てが良くて優しいが、芯の強い薩摩の女」というふうに原田氏は解いている。
 篤姫もこのママも、女の中の女である。レベルの違いはあるだろうけれど、立派としか言い様がない。

 昔は俗に「男がすたる」とか「女がすたる」という言葉はよくつかわれた。今は死語かも。昔の東映ヤクザ映画なんかは、ほとんどテーマは「男がすたる」「女がすたる」…そんなみっともない生きざまはしない、であった。渥美清の寅さんシリーズも、せんじつめれば寅さんは「男がすたる」ことはやるまいと彼なりに頑張る話であった。
 朝鮮人や支那人にはこれはとうてい理解できない「生きざま」であろう。

 本稿最後に述べておきたいのは、私は師と仰いだ方を、何があろうと、組織を仮に離れることがあろうとも、バカにした言いようはしないと決めている。不肖私を弟子にしてくださり、どんな学校だろうが軍隊だろうが受けられない超一級の指導を受けられたことは、なんの取り柄もなかった私にとっては大幸運であったからだ。

 組織を離れたからとか、考え方が違ってきたからと言うレベルで、くさす、揶揄する、嘲笑する、そんなことは「男がすたる」ことなのである。人様のブログにやってきては、南郷学派の悪口を言い、空手組織をはなからバカにせずにいられないゲスがいるが、そんな輩と対話をするなんてことも「男がすたる」のである。

 例に挙げた、串木野のスナックのママであれば、いくら親友の上司の男だとて、料金をちゃんと取るのが「正しい」のである。だが、それとは別の価値観がわが國の民にはハッキリと存在する。どんな野卑な人間ともブログでやり取りするのは「正しい」だろうが、男は「男がすたる」ことはしてはいけないし、女は「女がすたる」ことをしてはいけないのである。




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2016年08月22日

新聞記者のテイタラク


 この原稿を書いているのは、8月2日だが、毎日新聞の同日夕刊トップの記事を取り上げたい。

 東京都知事選で当選した小池百合子氏が2日午前、新宿区の都庁に初登庁した。その記事のはじめにこうあった。
 「都職員には『情報公開で信頼を回復していきたい』と訓示した。
 一方、出馬表明から対立してきた都議会自民党へのあいさつは数十秒で終わった。華々しく迎えられた登庁時の晴天から一転、昼前には雲が空を覆い、波乱含みの船出を予感させた。」

 これを読んで、思わず嗤った。記事の署名は、「高橋昌紀、円谷美晶、柳澤一男」とあるから、この中の誰かが書いたのだろう。
 たしかにこの日、東京は天気が不安定だった。晴れ渡ったかと思うと車軸を流したような土砂降りが続いた。しかし、それと都知事の初登庁はなんの関係もない。空模様と新都知事を「波乱含みの船出を予感させた」と結びつける(こじつける)のは、「バカか!?」というべき態度である。

 中学生の作文でも、こんなこっぱずかしい文章は書くまい。この低度の作文力しかないから、新聞はバカにされて購読者が激減することがわからないのか。
 この稚拙極まる記事の背後には、毎日新聞が本音ではあの欲ボケサヨクの鳥越を知事にしたかった思い、あるいは顔つきの死んでいた無能の増田と都議会ドンらの旧態依然を望む記者どもの思いが如実に感じ取れる。

 都庁の記者クラブに巣食う記者どもは、要するに旧来の都庁や都議が都民を苦しめようが税金をふんだくろうが、利権が牢固としてあろうが、知ったことではないのである。日々、適当に役人が流すニュースレリースをそのまんま本社に上げていればいいという、気楽な仕事ですんでいた。ところが、記者どもにとっても都議にとっても好ましい(言いなりになる)舛添が辞任に追い込まれ、あろうことか都民の怒りが澎湃として起こり、それにのって小池百合子が新都知事になってしまった。彼女は都政を刷新しますと一応は公約を掲げている。

 新聞社どもは都政を刷新し、改革を進めては困るのである。これまでのように、記者クラブで麻雀やったり昼間から酒を飲んだり、競馬新聞を読みふけったりしていられなくなるやもしれない。
 だから、小池は嫌だった。その個人的な勝手な思いが、冒頭の馬鹿げた比喩を書く醜態をさらしたのだ。

 ついでながら、私は小池は嫌いである。小泉政権のときの「郵政民営化」に賛成して、「刺客候補」になった女だった。いまだに許せない。ユダヤの一味なのだ。国会議員としてもさしたる成果は上げていない。選挙のやりかたが上手だっただけではないかと思う。ただ増田や鳥越になるよりはましかと思ったが、私が投票したのは桜井誠であった。落選覚悟で彼に入れた。

 さた、一方で、小池の都庁初登庁の写真を見ると、都の職員が大挙して出迎えていたが、ほとんど笑顔がない。仏頂面というか、歓迎していない顔、クソ面白くないという顔、無表情な顔がずらり並んだ。笑顔は10人に1人だったように感じた。
 いやしくも都民が選んだ、都民の代表たる新知事を迎える態度ではない。

 彼らはどんな顔で知事を出迎えようが、誰にも(マスゴミでも)咎められないから、好き放題だ。動員されて仕方なく、正面玄関に並ばされた、というふうなのである。「恒例行事だから」と言われて、並ばされたのだろう。だから面白くない顔をしている。


 役人は、サヨクが好きなのである。美濃部亮吉都知事の時代に、給与を大盤振る舞いしたあの古き良き時代が忘れられないのだ。
 美濃部は都の財政を大赤字にして破綻寸前にして、無責任に放り出した。次の鈴木俊一の都政が長期に続いて、役人出身知事と木っ端役人は仲が良かった。財政は健全化していったが、今日に続く都議との利権での闇はこのころに創られた。だから役人は、役人出身の知事も大好きなのだ。

 青島幸男はまったくの無能で、役人の言いなり。石原慎太郎も目立つことは好きだったが、都議会の意向に従順だった。猪瀬がその闇を変えようとしたら辞任に追い込まれた。舛添は韓国との癒着ゆえに、おそらく国家レベルの判断でスキャンダルを暴露されて追放された。

 小池が初登庁のときに、都議各会派に挨拶に行くと、自民党と議長は実に新知事に対して無礼な対応をした。議長は手を後ろにくんで偉そうにし、早々に退出するよう促した。自民党都議のボス内田は逃亡した。
 その不実は、都民に対するものである。奴らは都に寄生して税金を貪ってきてのだ。こういう実態を新聞は暴くべきを、冒頭に紹介したように、空模様に譬えて名文を書いた気になる醜態。
 こういうことをテレビが中継し、ネットで厳しく問われることが、いまだに古い体質の議員どもにはわかったいないのだ。

 小池がどういう手腕を発揮するかはまだわからないが、利権構造を打破できるかどうか。国会でも自民党内でもこれまで何もしてこなかった人間が今度こそ何かをやる…とは思えない。




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2016年08月20日

ボーッ


 昨日に続いて夏休みということで、2007年8月のブログの再録をします。


 題名の「ボーッ」とは汽笛の音ではなくて、人がまあ呆然としているというか、言葉を出さずにボケッとしている状態のことである。だから「ボケーッとしている」と言ったほうがいい。近頃のテレビドラマを見ていると、出演者が劇中でこのボーッとしている場面がやたらに目につく。

 例えば、若い恋人同士が話をしている場面。男が女に何かきつい言葉を浴びせる。すると女がしばらく呆然とする。男は何もいわずに立ち去る。それを女が「○○くん!」と呼びかけるが、追うでもなくただボーッと立ち尽くす。
 あるいは。男が女に「ほら君が欲しいと言っていたこれ」などと言って、プレゼントを渡す。女はまたしてもボーッ…なのだ。すぐにありがとうとか、いらないわとか、言葉を発するだろうが! と見ていてイライラさせられる。

 これは1時間弱の連続ドラマを制作するにあたって、脚本家と演出家が手抜きをしようという魂胆なのだろう。言葉を発しないで、人と人が見つめあうことは実際の生活のなかでないわけじゃないが、あんなにドラマのように始終ボーッとしていることはない。要するに、ボーッとする時間を長くとることによって、セリフを少なくし、場面を減らすことができるからであろう。つまりわれわれの普通の日常会話のテンポで1時間ドラマを創ってしまうと、おそらく脚本家の書いた台本では30分くらいで終わってしまうのだ。

 だから引き延ばすために、この「見つめあうボーッ」や「困惑したボーッ」「うれしいボーッ」「呆然たるボーッ」をしきりに入れる。
 これはNHKでも民放でも同じことだ。NHK大河ドラマでも、例えば家臣が「殿、いかがなさいます?」と問いかけると、またもや殿はボーッ、なのだ。間があく。とにかく沈黙する俳優を大写しにして、しばらく時間を稼ぐ手法の見苦しさといったらない。

 そんな沈黙のシーンを創ったところで、演技に深みが出るわけがなく、かえって水増ししたような印象ばかり残るのだ。だいいち黙っているだけで、何事かを語れるほどの実力のある俳優がどれほどいるというのか。
 最近私は邦画を見る機会がないが、これは映画だと(昔は)もっとちゃんとした会話のテンポというかやりとりに妙な長い間(ま)を置くことはなかった。ためしに黒沢明の映画でもご覧になって、昨今のテレビドラマと比較されると、私の言っている事が理解していただけると思う。

 テレビドラマの制作者は何を考えているのだろう? 話のストーリーはともかく、ある場面、ある場面で見ていくと、次に役者がこんな動作をするだろうとか、こんなセリフを言うぞとか、ここできっとキレて何かに八つ当たりするだろうとか、ここはきっと困惑して目を泳がせるなとか、とわかってしまう。演出が見事にワンパターンなのである。そうとう頭の悪い連中が脚本を書き、演出をしているのだろう。

 俳優も演技力がない。バカバカしいったらない。テレビ局としては、人気のタレントを出しさえすればスポンサーがつくので、芝居の中身はどうでもいいらしい。それにテレビで、ただでドラマを見ている大衆は、笑いと涙があればいいのだろうから、名演技なんか望んでいない。
 が、それにしても私は、俳優たちの「ボーッ」は気になってしかたがない。

 これがただへたなドラマの演出で済んでいるならまあいいが、一般大衆にまで浸透している気配なのがやりきれない。みなさんはそう感じたことはありませんか? こちらから何か言っても、向こうの特に若い人が、ボーッとすることがしばしばある。先日も、われわれが空手の練習をしているところへ、他のスポーツをやっていた若者がちょっと非常識なことをやったので、注意したのだが、そのときも「すみません」といわずに、ボーッとしている。

 これがテレビドラマの影響かどうかわからないが、影響される可能性はある。ひところ、ハンバーガーのマクドナルドが、アルバイト店員を使うのに、きっちりマニュアル化した対応をさせると話題になったことがあった。アルバイト店員にマニュアルにないことを聞くと答えられずに、ボーッとしてしまう。
 マクドナルドでハンバーガーを注文し、ついでに店員に「今何時ですか?」と尋ねると、もう答えられないで呆然とする、という笑い話さえあった。臨機応変、融通無碍ができないのだ。自分の頭で考えられない。
 
 話は飛ぶが、ハリウッド映画でもそうだし、日本の映画やテレビドラマでもそうなのだが、殴り合いのケンカ、決闘がインチキ極まる。悪玉と主人公が殴り合いを延々とやる。例えばシュワルツェナッガーとか、シルベスター・スタローンなどの映画がそうだ。グローブをつけたボクシングじゃないのだから、素手で何十発も殴られてなお立っていられるわけがないのだ。だいたい靴を履いた足で頭を思い切り蹴れば、一発で人は死ぬ。それを互いに殴り殴られ、何百発も応酬しあうことは不可能である。まして鉄の棒で頭を殴れば、血が出る程度では済まない。  

 ところが、こういう何発殴っても人は死なないというウソの場面をみんな見るから、町のチンピラがホームレスを殴って殺してしまい、「まさか死ぬとは思っていなかった」と驚く事例が多い。これなどは、まさに映画やテレビドラマの悪影響がもろに出ている。
 テレビの影響は恐ろしいのだ。

 だからテレビドラマの「ボーッ」も、それが相手に失礼だとはみんな思わなくなり、マネをするようになりかねまい。現にそういう傾向は生じている。こういうバカげたテレビドラマを垂れ流しているのは、やはりテレビも映画もみんなユダヤ闇権力が仕切っていると考えていいと思う。

 間髪を入れずに答えるとは、わが流派では厳しく指導されることだ。例えば指導者から何か質問されて、しばし呆然あるいはボーッとして返事をしないと、怒鳴られる。なんでもいい、「質問をもう一度お願いします」でもいいし「わかりません」でもいいから、まずは間髪を入れずに返事をしろと言われる。何秒以内でという決まりすらある。そうしないと頭は良くならない。だいいち、指導者にブスッとして返事もしないのは、無礼であって教わる資格がない。

 昔は学校でも、先生に質問されたらただちに答えるよう言われたもので、返事をしなかったら、戦前なら殴られ、戦後でも廊下に立たされたほどだった。それが今や、ブスッとして返事を返さない子どもが多いようである。先生が「わかったのか?」と怒鳴ると、「うるせえな、わかったからやってんだろ」などと逆ギレする。こういう子は殴ってわからせるしかない。
 まずは返事、これは鉄則だった。

 これを日々実践しなければアタマは良くならない、まして弁証法をものにすることなど不可能である。尋ねられても返事をしないなんていうのは、すなわち弁証法をどう学習すべきかがまったくわかっていないのだ。

 以前(2004年)、フジテレビのドラマ「僕と彼女と彼女の生きる道」で主演の草薙剛が父親役をやり、その子どもの凛(りん)役で美山加恋が好演したことがあった。ドラマ自体は下らなかったが、加恋の演じる凛の返事の仕方がすばらしかった。常に「はい!」とはっきりと、ただちに返事をするのだ。この「はい!」と常に敬語で親と接する様で美山加恋は大ブレイクしたのだった。

 おそらく多くの日本人が昨今の敬語も乱れ、返事も乱れている若者のありように憮然としていたからであろう。まあ制作者の意図としては、子役に敬語を使わせることで、両親の離婚に苦しむ子どもの気持ちを表現したかった程度だったのだろうが、私としてはストーリーはどうでもよくて、ただ美山加恋の「はい」を聞きたくて、何度かドラマを見るはめになった。

 だから、人から何か言われたら、美山加恋が演じた凛ちゃんのように、ただちに返事をしろよと、昨今の「ボーッ」とした演技しかしない役者どもに言いたくなる。脚本家も演出家も恥を知れ! 本当に、昨今のドラマの「ボーッ」は、思考停止だ。あれで日常生活も恋愛も成り立っているとは信じ難い。日本人よ、ボーッとしないで返事をしよう、それだけでも敵性ユダヤの日本人をバカ人間にする陰謀を阻止できるのだから。

 なぜかならばを簡単にいえば、ボーッとしないで、ただちに何か言う、返事をするのは、端的には「運動」だからである。弁証法は運動である。だからボーッとしているようでも私は考えています、というのはダメだ。決断してしゃべることが運動だからであって、それを実践するのが弁証法の技化だからである。

 例えばレストランや喫茶店に入ったら、ただちに決断して注文しなければならず、あれにしようか、それともこっちがうまそうだ…などと迷ってはならないのである。決断することを技化しなければならない。だからテレビドラマだとはいえ、役者がものを言わずにボーッとしているのは、決断ができないことを技化しているのである。それがすなわちバカになることだ。
 日本人みんなが弁証法の実力を持つことができれば、ユダヤの陰謀は見抜くことが可能になる。なにせユダヤどもは日本人をボーッとしているバカな民族にしたいのだから。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする