2015年07月31日

支那人「爆買いツアー」の終わり(1/2)


《1》
 先日、京都・大阪に行くことがあった。
 私としては支那人が行かない神社仏閣を選んだのは正解だったが、先日述べたように大阪城に赴いたのは…わかってはいたが失敗だった。にぎやかな観光地は、やつらが我が物顔で跋扈している。

 新幹線の中でも、支那人家族が大声でしゃべる、幼児を泣かせる、しょっちゅう座席を離れてどこかへ行く(喫煙だろうが)、迷惑このうえない。
 支那人は複数の客だったら、新幹線には乗せるな(まあ一人ならしゃべるまい)。

 最近登場した「自撮り棒」を若い支那人カップルが持っていて、人通りが激しいところでも構わずに立ち止まって、背景を入れながら自分たちを写真で撮っている。棒が突き出すから危ない。
 大阪城公園に行くと、支那人とおぼしき老婆が、カセットデッキを地面に置いて大音響で支那の曲を流しながら、太極拳をやらかしていた。

 下品な顔の集団が歩いているなと思えば、必ず支那語が飛び交っている。

 ところがここに来て朗報がとびこんできた。
 上海株式市場で大暴落が始まった。ついに始まったか!これは昭和12年暮れ、南京陥落で提灯行列を日本で行ったとき以来の、提灯行列をやったらいいほどの喜ばしい話だ。
 支那に巨額の投資をしていた伊藤忠もバブル崩壊で大損をしそうであって、あの元大使、丹羽宇一郎の大失態になった。

 宮崎正弘氏のメルマガ(7月13日付)では、なぜこうした事態に至ったかを解説したうえで、「残された手だては二つしかない」と説いている。

     *    *    *

 大暴落は秒読みだが、中国に残された手段はあるだろうか? 可能性は二つあるように見える。
 第一は市場の閉鎖である。
一ヶ月ほど思い切って株式市場を閉鎖すれば、この間に様々な処理が出来るだろう。
なにしろ一党独裁の国ならば、この緊急事態を乗り切る強引な手段も、予測可能である。

 第二は、通貨の切り下げである。
 つまり人民元は完全な変動相場制への移行が難しいうえ、ドルベッグ体制となっているため、対ドル相場を、30%程度切り下げるのである。
 「そんな乱暴な」と思われる向きもあるかも知れないが、実際に中国は1993年にいきなり30%、通貨切り下げを行った『実績』がある。

 これにより輸出競争力が回復でき、若干の海外企業の直接投資も復活する可能性がある。
 デメリットは石油、ガス、鉄鉱石など輸入代金が跳ね上がること、もうひとつは日本に観光旅行へくる中国人の「爆買い」ツアーが激減することだろう。
 というより現在の爆買いツアーは、もうおしまいに近く、中国人の発狂的海外ツアーも沙汰止みになるだろう。
 
 かくして中国の発狂的投機の時代は終わりを告げる。

     *    *    *

 「日本に観光旅行へくる支那人の『爆買い』ツアーが激減する」というのだから、こんな素晴らしい話はない。
 どこの観光地も、空港も、インバウンド(外から入ってくる旅行)が行き詰まって収益は減るだろうが、これまで敬遠していたまじめな日本人同胞の観光が戻ってくるんだから、良いではないか。

 そもそも現在の支那人「爆買いツアー」は、日本の大手旅行代理店はほとんど企画催行をしていない。やればぼろ儲けは見込めるだろうが、やらない理由の一つは、支那の旅行代理店と組んでツアー客を集めてもらう仕掛けにならざるを得ず、となれば支那側からの料金回収ができなくなるリスクがあるからだ。

 旅館やホテルに泊まると、風呂だのトイレだのに支那語の注意書きがあって、これを見るだけでも、二度とこんなところに泊まりたくないという気にさせられる。日本人が寄り付かなくなる。

 それに、ホテルに泊まればアメニティグッズは根こそぎ持ち帰る。
 飛行機に乗れば、汚し放題、備品をかっぱらう。日本人客から苦情が出る。CAが彼らを憎悪するのは当然である。
 天候の影響で飛行機が延着したとか、ちょっとトラブルがあれば、すぐさま賠償金を要求してくる。
 そんなトラブルへの対応で、旅行代理店は振り回される。

 日本の旅行代理店は、丹羽宇一郎や副島隆彦のような実態を見ることのできない媚中派より賢明だから、手を出さないのである。

 2年ほど前に京都の高山寺に行ったことがあって、そこの重要文化財の前には案内係が立っていた。それがなんと支那人の女だった。
 支那人観光客相手に、説明するために常駐している。それほど支那の観光客が多いからだが、これは免税店でも事情は同じだ。

 どこの店でも支那語がしゃべれるスタッフを置かなければならない。つまりは支那の観光客が、日本在住の支那人に仕事を提供するという需要をつくりだしている。
 もしかして風俗ででも働くしか能がない支那人女が、カラダを売らずに高い給与をもらえるチャンスをつくりだしている。

 日本の旅館や量販店などは、支那人爆買いツアーで売上げは伸ばせるだろうが、通訳だけのために支那人を雇わねばならないから、その分コストがかかる。

 しかも、日本人客が支那人を嫌がって遠のくから売上げは激減する。日本語で普通に買い物ができると思ったら、店員が支那人で話が通じなかったら、二度とそんな店には行くまいと、日本人なら決断する。

 支那は従来から策謀の国であるから、支那人観光客を日本に送り込むことで、日本在住の同胞に就業の機会をつくっていると思うべきである。
 支那では外国からの投資も減ったし、大量の失業者があふれている。この問題を解決する一助が、爆買いツアーなのであろう。

 ジャーナリストの有本香氏が語っていたが、支那では共産党政府が会社ぐるみで台湾や日本に旅行に集中的に行くことを奨励しているそうだ。資金援助までしてくれる。政府は台湾には年間50万人を旅行に送り込むぞと宣言して、送り込んだ。支那国民の自由な意志で台湾や日本に行くわけではない。半ば強制なのである。

 台湾はそれで中共に取り込まれたのだと。
 要するに経済が「支那頼み」になっていく。日本でも馬鹿な木っ端役人が、「経済成長が鈍化しているから日本は観光立国にならなければ」、などととんでもない馬鹿を言い出している。それで税金を使って、やれ世界遺産登録だ、自然遺産登録だのに血道を上げる。テメエらの利権拡大のためだ。

 その思惑を見透かされて、先般は長崎の軍艦島の登録の件で、韓国にイチャモンをつけられ、観光商売のためにはと屈従してしまった。
 こうして日本人がこぞって、支那さまやコリアさまのご観光に、そして御爆買いに来てください、と揉み手をするように堕落していく。

 支那にしてみれば、ただの紙切れを人民元と称して刷りまくって、人民に持たせて台湾や日本に送り込めば、先方を「支那頼み」の経済へと堕落させていくことができる。
 台湾はその計略のために、媚中の国民党政権が居座っている。

 日本の場合は、ギリシアやスペインのように外国人に観光に来てもらわないと困るような脆弱な経済ではないから、さほど利き目はなかろう。それに、ついに支那のバブルがはじけたので、支那のそういう策謀は終わりになる。めでたい事態だ。

 有本氏は、そうした状況のなか、沖縄は、支那のターゲットになりやすい、と指摘している。沖縄も産業がほとんどなく、米軍の落とすカネ、税金の横取り、観光で成り立っているから、支那からドッと爆買いツアーが来てくれれば大歓迎になる。
 そうして支那に取り込まれていく。






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2015年07月30日

鶴見俊輔の死に はしゃぐサヨクメディア


 朝日新聞7月25日付社説に、鶴見俊輔の死を受けてチンケな見解が述べられている。

 「安倍政権が安全保障関連法案を強行に推し進め、戦後日本が歩んできた道筋を大きく変えようとしている夏に、鶴見俊輔さんが世を去った。93歳だった。
 リベラルな立場からの発言・執筆で、戦後の思想や文化に大きな影響を与えた哲学者で評論家。反戦平和のために行動する姿勢を貫いた知識人だった。」


 毎日新聞もそうだったが、このタイミングで鶴見が死んだニュースは、彼らサヨクが、お仲間を悼みつつ安保法制阻止のキャンペーンのためには、舞い上がりたいほどの好機だったことが伝わる。それが朝日社説にあるように、鶴見の死を取り上げるにあたって、「安倍政権が…強行に…」とマクラを振っている文章に如実にあらわれている。

 そりゃそうだろうなと嗤えた。
 安保法制の審議が衆院から参院に送られて、やや反対運動が低調になりかけた時期に、まるで測ったように(笑)鶴見が死んでくれて、それっとばかりに、鶴見にかこつけて9条は守るべきというキャンペーンが張れるからだ。

 「死せる孔明生ける仲達を走らす」のつもりだねえ(笑)

 鶴見俊輔などは学の世界では本来は取り上げるに値しない人物だが、サヨク批判の一環として叩いておくべきか。
 彼を何の疑問も抱かずに、「哲学者」と書いているマスゴミの不勉強には呆れる。哲学を研究したら「哲学者」かよ? それならば、例えばカントやヘーゲルの本を読んで感想文を書いた人はみんな哲学者になってしまうぜ。

 何か鶴見が哲学をものしたとでも? 学の論理体系を構築し、それで対象たる世界の森羅万象の構造を解き明かしたのか? 何もやっちゃいないではないか。
 マンガ的に言うなら、フランスのシェフのなかにはレジオンドヌール勲章をもらった人物がいるが、フランスパンとフランス産赤ワインで食事をしたらレジオンドヌール勲章をもらえるのか、と言うようなものである。

 史上、哲学者と称して良いのは、ゼノン、アリストテレス、トマス・アクィナス、カント、ヘーゲル、エンゲルス、南郷継正くらいものである。そのくらいの教養は身に付けて新聞記者になれよ。

 哲学とは、簡単に言えば総合大学の全教科をひとまとめにしたものだ。
総合大学には、医学部、工学部、政治経済学部、商学部、理学部、農学部、文学部などがあって、それ全部を究めてこそ哲学者なのである。
 ちなみにWikipediaでヘーゲルの著作「エンチクロペディ」をご覧あれ。同書の目次が載っている。目がくらむ思いがするはずだ。

 鶴見は社会科学全部すら究めなかったじゃないか。

 鶴見俊輔は、単身アメリカに留学し、ハーバード大学を卒業したから、受験的頭では秀才であった。ハーバードを出たのなら、まずはアメリカの手先になって帰国したのである。日米戦争が勃発した後に、彼は一端逮捕されながらも、日本への交換船に乗って帰国できたのは、いよいよ怪しい。工作員にされたと見られよう。都留重人なんぞと似ている。

 彼はアメリカのプラグマティズムを日本に紹介した。あんなものは、学の体系ではなく、思想とも言えないシロモノである。いわばサブカルチャーだ。日本にはない考え方だったせいで、鶴見はマスゴミに「学者」として登場、登録された。そこからサヨク運動にのめり込む。
 サヨク論客の芝居を演ずる一人になった。

 「思想の科学」を発刊して、サヨク的“論壇”を主導した。「思想の科学」も、今や凋落、やがて忘れられていくだろう。そもそも「思想」と「科学」はなじまない。思想はその人の考え方であって、しかも時代の思潮レベル、つまりある程度社会に影響を及ぼした考えを言う。ニーチェなんかは思想家と言ってよかろうが、哲学者ではない。

 科学は、「科」の学であって、全てを網羅して論理体系を構築する哲学の中の、分科した分野を指す。
 科学とはなにかの定義は、わが流派の教科書である『空手道綱要』にこう書かれている。
 「科学とは〈事実〉をありのままに見、かかる事実を構成する、かかる事実を貫く〈論理〉を導き出して来、それを本質に迄高める事によって体系化された認識である」


 鶴見俊輔は、自称、他称で「哲学者」と言いながら、「思想・思弁・思惟」の区別と連関も言えず、かように「科学」の定義もできなかった。馬鹿げたサヨク市民運動に関わったからでもある。
 ただのサヨク御用達、朝日や岩波といった左翼系のお仲間評論家にしかなれなかった。サヨク新聞の記者どもも、こうした学的定義を不勉強のゆえをもってグチャグチャにしているから、鶴見俊輔を追悼するにあたっても、デタラメな記事にしかならない。

 朝日新聞にはまたこんな記事もあった。
 「作家の大江健三郎さん(80)は『デモで歩きながら、鶴見さんにアメリカの大衆小説や漫画の話を聞くのが楽しみでした。僕は鶴見さんを通じて、アメリカの庶民文化を勉強したんです。幅が広くて、底が深いのに、決して威張ることがない。僕たちの世代がデモをすると、すっと溶け込んで下さって、若い人たちと愉快に話されるんです。上の世代と下の世代を自然に結んで下さる方。信頼して尊敬していました』と悼んだ。」

 相も変わらず大江は間抜けだ。デモをするのはご勝手だけれど、鶴見がアメリカの大衆小説や漫画の話をし、大江がそこから「アメリカの庶民文化を勉強した」と自慢げに語れる風景に、語るに落ちただなと感じる。
 小説家ならアメリカ大衆文化を知っておいてもいいであろうが、鶴見が「学者」の仲間に入れてほしければ、アメリカ大衆文化の詳細などと関わるものではない。そんな閑はないはずだ。

 鶴見も大江もその堕落を気にもしない頭脳だから、非論理的な「9条を守れ」になり果てた。つまり大衆が「戦争って嫌」の、自分にわかるレベルに引きずり降ろして戦争を語るしかできなくなった。

 これも自称「哲学者」梅原猛が、鶴見俊輔をこう語っている(産経新聞Web版)。
 「鶴見さんが中心になって発行した雑誌『思想の科学』の影響力は大きく、難解と思われていた哲学を民衆の立場に降ろして分かりやすく語ろうとした。戦争中の思想が戦後の思想に移る中で、人間がどのような苦労と矛盾を経験したかを明らかにしたのも功績だ」

 ほらね。「難解と思われていた哲学を民衆の立場に降ろして分かりやすく語ろうとした」でしょ。民衆に哲学とは何かを語っても、理解できるわけがない。それを民衆にわかるように説いたら、それは堕落である。
 論理の体系である哲学を降ろせるものなら降ろしてもいいが、その後で民衆を引き上げることをしなければ、自称哲学者は民衆と相互浸透して、論理の斬れ味があっという間にダメになる。

 「なめたらアカン〜♪」だ。

 戦争の定義、もしくは戦争の論理構造は、それこそ「難解」なのである。庶民にはわかるわけがない。国家学の一部として、あるいは人類史の一分野として解かれるべきを、鶴見俊輔のように、民衆がわかるレベルに降ろし、自らも降りてしまえば、結局は「戦争は悪だよね」の9条のお守り役や「べ平連」に落ちるしかなかったのである。

 鶴見俊輔や大江健三郎に共通する欠点、ないし壮大な誤解は、本を読めばアタマが良くなると思っていることだ。彼らは大学研究室や書斎に引きこもって万巻の書を読んだのだろう。だから哀れ、大衆レベルに自分を落とすことで、大衆よりまし、のレベルを誇るのみとなった。

 本ブログで何度も紹介して来たが、裸足でジャリ道やアスファルト道くらい歩かなければ、アタマはよくならない。
 サヨクは、歩くと言ってもゆるゆるとデモ行進か? それでアタマが良くなるわけがない。そういう連中が、本ばかり読んで創った頭脳で考えたレベルが「9条を守れば戦争にならない」の、妄想である。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(3) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2015年07月29日

官災が招いた新国立競技場の失態


 新国立競技場を造ろうというのに、なんとイラン人女の、格好ばかりつけやがったデザインを、文科省の無能役人と天下りのクズどもがよってたかって決めてしまった。で、カネがかかりすぎると非難されて撤回になった。白紙撤回が間に合って良かった。

 どうして日本人デザイナーを起用しないの? 民族の誇りをまるで持たない連中だ。日本人にはオリンピック競技場は造れないのかと侮られる。文科省のなかのザイニチが主導したのではないか。

 新国立競技場建設の醜態の責任は当然、安倍首相にある。文科省の木っ端役人がいまさら言うまでもなく無能・無策・無責任なのはわかっているはずであり、下村大臣もリーダーシップがとれる器じゃないことはわかっていたはずだ。記者会見をやっているときの目は死んでいる。

 なのに丸投げして、誰もチェックしなかった。
 サメの脳と呼ばれる無能な森喜朗がトップでは、ひどいことになるのは予想できたのに。

 しかも、この期に及んで、五輪担当大臣に遠藤利明なる愚鈍を絵に描いたような男を起用してきた。要するに「お飾り」で済むと安倍首相は考えていたということだ。
 遠藤大臣が有能な男なら、就任してただちに新国立競技場建設の見直しを宣言し、すばやく仕切っていただろうに、な〜んにもやらなかった。
 おおかた、地元選挙区に戻って、「大臣就任祝賀会」の宴会梯子でもやっていたのだろう。

 これではダメだと、途中でわかった関係者は多数いたようだが、たいていは見て見ぬ振り。責任をとることから逃げた。主体性ゼロ。マザコン丸出し。護憲派そっくり。
 イジメを見ても知らぬ存ぜぬで通そうとした、教師、校長、教育委員会、文科省役人どもと精神構造は一緒。

 建築界も東大閥がのさばる。だからそこに属さない安藤忠雄は、始めから東大のいじめを避けるために、深くは関わらないつもりだったのだろう。きっと、今度の騒動の背景には、国立競技場建設の主導権を奪い返したい東大閥建築関係者の陰謀があったであろうが、闇の中。

 安倍首相が「白紙」と宣言した段階で、あのザハ案の競技場の設計図すらなかったのだから、文科省もJSCも無責任も極まる。誰かがなんとかするんだろうとしか思っていなかったのだ。
 デザイン公募と言ったら、設計図まで含めての話でなければなるまいに、安藤忠雄は無責任に「俺はデザインだけ見た」と抜かす。

 なのに、マスゴミ記者はそれを問いただす見識も気概もある者はいなかった。
 機能性を無視してデザインだけ見ましたと抜かした時点で、安藤は無責任建築家の烙印が押される。
 言葉の遣い方がそもそも間違いだ。デザインという概念を間違えている。正しくは「見てくれ」であって、安藤は「俺は“見てくれ”だけで選んだのさ」と正直に答えるべきだった。

 競技ができればいいんじゃない。使い勝手はどうなのかを含めてデザインである。
 駅からのアクセスはどうか、トイレは行きやすいか、掃除はしやすいか、ケガ人や病人がでたときはすぐに対応できるか、ゴミは集めやすいか、火事や大地震のときの避難路はどう確保してあるか、湿気対策はどうか、芝に日は当たるのか、積雪があったらどうなるか、職員たちが快適に仕事できるか、などと無数のチェック事項はある。

 見てくれはいいが、使い勝手が悪過ぎて、職員や観客が困惑している施設はゴマンとあるだろう。機能のベストを追及した結果が「美」となるのがデザインなのに、見てくれ先行では、必ず「使いにくくて困る」という当事者の声があがる。

 それは完成後に実際に運用してから発覚する。そのころには安藤忠雄も森喜朗も、下村博文も、文科省の役人Xも、「俺は知らない」とトボケる。迷惑をこうむるのは実際に使う客や、選手や職員たちだ。
 それを考慮しない点がなによりまずい。総工費の不可解な水増しもひどいが、機能をなんにも考えずにデザイン=見てくれを承認した安藤らの罪は万死に値する。

 森喜朗はあれほど、新国立競技場はあらたなレジェンドを後世に残すんだから、カネをかけてもいいとか言っていたくせに、批判されたらコロッと態度を変えて「あのデザインは嫌いだった、カキがどろっと崩れたみたいで」などと、発言した。
 全く見た目しか眺めていないというバカさ加減。

 そもそも2020年の東京オリンピックは、1964年のときほどの明確な目的が欠落している。何のためにやるのか意味が不明。言うに困って「お・も・て・な・し」とは。あるいは震災からの復興を世界に示すのだとか。
 だから森喜朗が言葉だけは「レジェンド(伝説)」と格好はつけようとしたものの、内実はなんにもない。

 これでは新国立競技場建設の明確なビジョンが描けるわけがない。基準も思想もないんだから、「見てくれ=見た目」だけで選んじゃう。国家としての夢が語れていない。
 五輪の思想性の高みを政治家が提示し得ないのだから、下村文科大臣だけを責められない。民主党がやいのやいの言う資格はない。目くそ鼻くそを笑うでしかない。さはさりながら、事務屋以下だったのだから、辞任は当然だろう。

 話は少々脱線するが、帝国陸軍は「輜重輸卒(しちょうゆそつ)が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち」などと揶揄する戯れ歌があった。軍需品の運搬兵のことだ。
 最前線で戦闘に従事する陸兵は認めるが、兵站を担う兵は軽んじられた。

 また帝国海軍では、潜水艦から戦艦に至るまで、軍艦は敵の軍艦と決戦を行なうのが任務であって、タンカーや輸送船なんかを標的にしない(したくない)とする風潮があった。

 自軍の兵站を軽んじるばかりか、敵の兵站を叩けば敵前線が弱体化するのに、その戦の常識を重視することを嫌がった。欧米の軍は林秀彦さんが言うように「量」の思想で戦争をやるから、兵站は最重要と捉えるが、日本軍は「質」にこだわって兵站をバカにした。

 その感覚が今も残る。ゆえに、国立競技場は見た目、見てくれだけが最優先で、兵站に相当する使い勝手などは二の次にされるのだ。
 海軍でいえば、敵輸送船より、小さくとも駆逐艦や魚雷艇なんかを攻撃対象にしたがった軍艦乗りと同じ。

 本来的には、デザインを決める際には、大きな競技場で日々縁の下で運営されている専門家を招いて、意見に耳を傾けなければいけないのに、見てくれだけの安藤忠雄なんかに決めさせちゃって、バカみたい。
 イラン人では、日本のさまざまな事情、例えば交通アクセス、屎尿処理、気候、職員の資質、運営主体の役人のありようなど、知るはずがない。そんな毛唐にデザインを任せるなんて、信じられん。

 これはスポーツの世界でも誤解されていることにつながっている。
 アスリートは、筋肉のつきかたを誇る。マスゴミも筋力やメンタルの強靭さばっかり褒めそやす。しかし、運動を規定しているのは内臓であって、内臓が食べ物を人間のカラダにする。それを司るのが脳細胞だ。

 同様に、競技場を見てくれだとか、おもてなしの心とか抜かしている奴は、いうなれば筋肉の見事さだけでスポーツができると思うようなものである。競技場にとっての内臓の働きとは、これまで述べてきたような縁の下の力持ち的な、使い勝手の良さに相当する。
 あのスポーツをやったこともなく、競技場の裏方もやったことのない、安藤忠雄やデブのザハにはわからないことなのである。

 奴らは、建築と藝術性との関係が、端的には「相対的独立」であることすらわかっていないブタどもである。
 相対的独立とは、三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』には、「切りはなすことができないにもかかわらず、その一方がある限界の中では他方と関係なしに変化できるということ」と定義している。

 あのザハ案を「素晴らしい!」と思った連中は、いうなれば藝術性…と言えば綺麗事すぎるから、せいぜい「見た目」だけで判断してしまった。「切りはなすことができない」本来の建築の概念を抜かして舞い上がったのだから、切腹してもなお足りない。

 ザハ・ハディドも安藤忠雄も、見た目重視の建築家である。ザハは、「アンビルド」(建てられない)の建築家として有名だそうで、それくらい、実用性を基本に据えずに、見た目の奇抜さで勝負しようと言う愚かな建築家が揃ってしまったがゆえに、ついに新競技場は陽の目をみなくなった。

 見てくれが良さそうな案を3つ4つ候補として、ゼネコンに振って使い勝手はどうなるかを設計させつつ見積もりをさせ、予算や工法を充分に検討して、使い勝手が満点で安く早くできる案を採用すれば良かったのに、そんな仕切りすらできないとは。
 そしてダラダラ責任回避をやったあげくに「ここまで来たら止められない」とする理由だけで、2520億円を押し切ろうとしたのだ。

 これは支那事変が終息できずに、また、思想性の高みで捉えることができずに、対米戦争に突っ込んだヒロヒト以下の指導者たちの無計画性と同工異曲。
 現在の護憲派どもが、(安倍内閣も同じだが)、そもあらまほしき国家とはいかなるものかを言えないくせに、それに輪をかけて戦争状態になったらどういう計画に基づいて対策を立てておくか、責任は誰がとるかを、な〜んにも考えないのと一緒。





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2015年07月28日

大阪城を見ての感慨(2/2)


《2》
 21世紀の今日の私たちの豊かな生活のありようも、頭脳の見事さも、戦争の積み重ねがあったからである。だからもっと戦争をしろなどと言っているのではない。それが私たち人間の存在の論理構造だと言っているのである。

 信長、秀吉、家康が生きて戦っていた戦国時代は、いうなれば地球の天変地異に相当する。多くの人が死んだ。文化財も焼失した。感情的にはそんな辛い時代に生きるのはまっぴらだと思う。
 だが、彼ら英雄は確実に日本人の認識と脳細胞の実力を、1ランク上にしたのである。

 日本史には大きな戦争時期がいくつかあった。白村江の戦い、源平の戦い、元寇、南北朝争乱、応仁の乱、戦国時代、幕末争乱…と数えてみることはできよう。その都度、(とまでは言えないかもしれないが)それを乗り越えた日本人は、文化をいわば持ち上げてきた。
 江戸初期に芭蕉が俳句を創り出したのも、和算が隆盛になったのも、戦国時代を経て日本人の頭脳が磨かれたからである。

 もしも戦国時代がなく、だらだらと平安時代のような社会が19世紀まで続いていたら、日本人は白人の植民地侵略に立ち向かう実力は持てなかっただろう。
 そういう戦国時代の苛烈な戦争を経験した日本人の魂が、大阪城には結実していたはずなのである。

 例えば、インドネシアとかヴェトナムとか、白人の植民地にされた国々にも部族同士の小競り合い程度はあったろうが、戦争はただの戦争でしかなかったのだ。
 殺し合いやケンカはどこにでもあったろうが、多くの国はケンカはケンカとしか捉えなかった。

 だがそれを「武道」に高めたのは、わが先祖だけだった。
 インドネシアやヴェトナムなどは、日本人が創った魂を込めた城郭(という文化)を創ることができなかったから、やすやすと白人に蹂躙されてしまったのだ。

 日本人は戦争を見事に捉え返して、城や神社仏閣を造り、能などの演劇を創り、文学にしたため、絢爛たる学問を構築し得たのは何故なのかを思うとき、民族レベルで戦争の厳しさに対応したがゆえに頭脳が研磨されたとみなければならない。それが主体性なのである。
 主体的かつ「生命懸け」で対象に関われば、民族の単位で頭脳がレベルアップする。

 「戦争にも量質転化」、とはいうものの、量が質に転化する際のその質をいかなるレベルに“するか”、“なるか”は、人間の意志が介在する。意志すなわち主体性だ。
 ただの取っ組み合いのケンカが、支那ではわずかに武術として修練されるレベルにはなった。しかし今では太極拳のような健康体操か、せいぜい奇抜な動きをするスポーツにしかならなかった。勝負論も上達論も彼らは創れなかった。
 
 でも日本では、空手という武道になり、それが実に武道哲学にまで生成発展を遂げた。
 戦争も同じことだ。戦争を戦争とだけ捉えたら、なんの生成発展もない。ただの殺し合いで終始する。「戦争はいやだ」という結論しか導かれなくなる。

 人間にはいかにも物欲はある。なぜかならば、人間はモノがなければ生きていけないからだ。だから集団として誕生した人間は、その集団=共同体の物欲で、他共同体と常に対峙せざるを得ない。そこに国家の誕生する必然があった。
 当然、はじめはモノの奪い合いであった。モノの中には奴隷にする人間も含まれる。

 とりわけヨーロッパのあたりは寒冷地であったから、そうしたモノの奪い合いが常に激しくあった。熱帯地方のように、食べ物が自然に湧いてくるほどに豊穣に恵まれなかった。奪い合うしか生存できないという土地柄である。
 だからユダヤのような、金融支配で他人の労働の果実を奪う仕組みを考え出した連中が、謀略の一環で戦争を起こすようになっていった背景が考えられるべきなのである。

 彼らは古代ギリシアや古代ローマの文明に憧れつつも、奪い合いは奪い合い、ケンカはケンカとしか捉えられなかった。アレキサンダーやチンギス・ハーンが登場しなかったゆえんである。

 戦争を金儲けのチャンスと捉えたのがユダヤであったから、彼らの仕組んだ第一次世界大戦、第二次世界大戦のヨーロッパでは何も生まなかった。戦う魂の主体性が欠けていたからだ。勝てばいい、でしかない。
 その後の、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争…と、ユダヤが仕組んだ戦争はいささかの人類の文化に生々発展をもたらさなかった。

 そうした歴史に真摯に学べば、サヨク護憲派がいうような、「戦争は絶対いけないことでしょ」「イジメにあっている友だちを助けることって暴力だからいけないんだよね」と、こうはならないのである。

 昔、共産党の野坂参三は、国会審議の場で「二つの性質の戦争がある。一つは正しくない不正の戦争である。是は日本の帝国主義者が満州事変以降起こしたあの戦争、他国征服、侵略の戦争である。同時に侵略された国が自由を護る為の戦争は、我々は正しい戦争と云って差し支えないと思う」と、述べていた。

 この低度の考え方が今日までサヨクの伝統思考になっているのには、驚き呆れる。9条を守れという人たち、支那や南北朝鮮は正しい戦争をしていて、アメリカ帝国主義だけが不正の戦争をする、とする人たち。みんなこんな低脳である。

 ただのケンカを武道にし、ただのお茶喫みを茶道にし、ただの死者への慰霊を能にし…、そういうことをやってきたのは、世界では日本だけである。その優れた能力を、「戦争反対」「体罰禁止」「命は大切」などと愚劣なことを言って、ドブに棄てていいのか。

 空手はケンカだ、ケンカでいいじゃないか、と捉えることはできる。そう教えている流派もあるだろう。しかし、それはケンカから空手を見てしまうことになる。戦争を物欲や憎悪だけで見るのと同じだ。
 そうではなく、文化遺産として、思想性高く空手を捉えてきたから、われわれの流派は「日本武道の再興」を掲げて高みによじ登って来た。

 昔、大相撲に小錦という巨漢…というよりデブすぎる力士がいた。彼はハワイ出身であったので、「相撲はケンカだ」とほざいたものだった。しかしケンカのつもりで向かっていったら、相撲を文化遺産、あるいは技の錬度と捉えている日本人力士にひねられていた。

 もうひとつ大相撲で言うと、名古屋場所で横綱白鵬が、逸ノ城を寄り切りで下した直後、相手のアゴを右手で突き上げた。
https://www.youtube.com/watch?v=oxuoKEClnzw
 マスゴミは、白鵬の行為を「ダメを押すようだった」とおべんちゃらを書いていたが、あれはダメ出しではなく、明らかに逸ノ城へケンカを売っているのだ。横綱の位を剥奪すべき行為であった。

 これはテレビの解説者たちも「まずいですね」と言っていたが、あれなどもやはり白鵬がモンゴル出身だから、どうしも相撲を思想性高く捉えることができないせいである。白鵬は確かに強いけれど、あの立ち会いの張り刺しは醜悪である。下位の力士に張り手を喰らわす。勝てばいいとするのは、相撲を高みに捉えていない証拠だ。
 そこが日本文化と、外国文化の決定的違いなのである。

 人間は何をやるにしても、自分の分かりやすいレベルに降ろしたがる。戦争は人殺しでしょ、とか、親や兄弟が戦死して悲しかった、とか、戦時中は食べるものがなくて苦労したとか、勝ったか負けたかとか、分かるレベルに引き降ろす。
 9条を守りましょうとわめいているお馬鹿さんたちは、自分の分かる概念の戦争に引きずり降ろし、語りたがる。

 だからアレキサンダーの思想性の高みを分かろうとしない。
 アレキサンダーのことばかり論じてきたから、たまには世界史のもう一人の英雄チンギス・ハーンのことも少し書いておこう。
 東洋史学の碩学・岡田英弘氏はこう書いている。
 「チンギス・ハーンのモンゴル軍の戦争のやり方が、それまでの戦争と全く違って、無条件降伏か死かの原則を貫いたのは、自分たちは、天から世界征服の使命を授かった種族であり、戦争はその神聖な使命を果たす手段であると、かれらが確信していたからである。」(『チンギス・ハーン』朝日文庫)

 
 かくのごとく、チンギス・ハーンの軍は戦争を「神聖な使命を果たす手段」と捉えていたのだ。つまりは、ただの物欲の赴くままの殺し合い、略奪ではなかった。いうなれば文化の伝搬である。往時としては、これが人間らしい生き方をするために、の、戦争であった。

 現象的にはチンギス・ハーンの軍は、降伏しなかった所は徹底して殲滅したけれど、さすが英雄である、文化形態としての目的意識性に転化することに成功しているのである。
 だからチンギス・ハーンの子孫それぞれがユーラシア各地に国家を樹立して繁栄させた。

 こういう思想性の高みを、サヨク護憲派は分からない。分かる実力がない。
 大東亜戦争で、日本が世界史に燦然と輝く偉業(植民地からの解放)をなしたことなど、認めたくない。きっと女を性奴隷にしたにちがいない、強制連行したにちがいない、大虐殺したにちがいないと、そういうレベルの低い分かり方をしたいのだ。自分自身がよく分かるレベルで納得したい。

 大阪の人たちは、秀吉を親しみを込めて「太閤はん」と呼ぶのは構わないけれど、大阪に商売を根付かせてくれたとかの、自分たちがわかるレベルで理解しようとする。その成れの果てが、あの天守閣なのだ。

 戦争を魂レベルで捉えそこねた人たちが、レプリカ大阪城を再建したから、冒頭に酷評したようにラブホのような外観になってしまった。





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2015年07月27日

大阪城を見ての感慨(1/2)


《1》
 先日、私は初めて大阪城を見に行った。レプリカだと聞いていたので、どれほどダメなものに成り果てているかを一度見ておきたかった。
 天守閣を見て、これはひどい!と うめいた。大阪の人たちには悪いが、あの城は魂の片鱗すらない。
 まるでラブホのような造り。大阪の“文化”の悪い面が集約されたような腑抜けた感じ。

 天守閣は壊して、石垣や掘りなどの往時の遺物だけ残した公園にしたらよいと思う。大阪の人は「太閤はん」が誇りらしいが、だったらなおのこと、その誇りを大事にして、どうせレプリカなのだからあのラブホみたいな天守閣を破棄すべきではないか。

 さもなくば、天守閣を大阪のどこか繁華街へでも移築しなさいよ。観光名所にして、支那人を呼び込んだらいい。中は免税店にしてさ。

 今の大阪城は秀吉が創建した当時の城ではない。天下を奪った徳川家によって大阪夏の陣後に徹底的に破壊された。そのうえで徳川幕府は、あの土地に西への供えとして城を適当に再建した。主に毛利の長州と、島津の薩摩への備えである。だから、その当時の天守閣も現存していないが、秀吉が天下を睥睨する魂で建設したような、威容はなかったのではないか。

 江戸時代中にも火災でなんども焼失した。とくに天守閣は1665年に現在の天守閣は落雷で焼失し、その後うっちゃっておかれ、再建されなかった。慶應4年、徳川慶喜が脱走したあとにも薩長ゴロツキに荒らされほとんどが灰燼に帰した。
 昭和6年に大阪市民のカンパなどで天守閣が再建されたのである。

 こんなものを日本の名城と呼ぶのは無神経すぎる。
 誰にも、初代の大阪城を建造した秀吉の魂を理解できないまま、外面だけ城の格好を作った。
 この感覚はわかる人にしかわかるまい。
 城は実用性第一である。戦争の際の砦であり、生死に関わるし、国家的統括の中枢であるからだ。

 だが当時は実用第一で造成したにも関わらず、いうなれば見事な藝術性というか…、魂のこもった城を創ることができたのである。
 もう一度作り直せばどうかと言うにしても、そんな魂のある建築家は日本にはいない。最近造り直した姫路城にしても、往時のスピリッツを再現できたかどうかは、心もとない。

 建築界は、なにせあの無責任な安藤忠雄なんかが第一人者だそうだから、絶望的である。かつては戦国武将らは建築のプロでもないのに、見事な城を建てた(職人はむろんプロだったが)。
 今はもっと技術も感性も磨かれたはずが、もう誰も城を建てられない。
 なぜか…に思いをしばし巡らさざるを得なかった。

 しばらく前の本ブログで、戦争の構造論を説いたことがあった。6月30日付「アレキサンダーはかく語りき(2/3)」である。

「よほどの認識の高揚、主体性がなければ戦えない。認識のシビアさが否応なく生まれてくる。それを史上、大規模にやった英雄たちが、人類の認識を新たなステージに上げたのに違いない。その創成しかつ発達した主体性ある認識で、人類は立派な国家を建設したり、技術を発明発見させ、見事な藝術を創作できたのである。 人類は戦争をしたから、サルから人間になれたと言ってもいい。それが戦争の構造論である。」

 この箇所を、天寿堂の稲村さんがご自身のHPの「談論サロン」で、取り上げてくださり、「見事な戦争の構造論」と評価していただいた。
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=tenjumichi&mode=res&log=207
 また、ある医師からは「安保法制をめぐる最近の論考を拝読し感銘を受けております。最近ますます気迫に満ち、鋭さに磨きがかかっているように拝察します」と評価をいただいた。

 アレキサンダー論を自分で読み返してみて、気迫に満ちているなと我ながら想う。これは熱いアスファルトの上を裸足で歩くことを20年以上も続けてきた成果だろうと思う。

 秀吉は戦に明け暮れ、そして天下統一、その当時の認識の高揚を形にした城、全国を統括するための城であった。それに共鳴し得るだけの魂を我々が喪失したことが無念でならない。大東亜戦争の偉業を、ほとんどの人がドブに棄てた。だから大阪城のぶざまな姿体に平気でいられる。

 〈生命の歴史〉は、地球上に誕生した生命体が、地球の地殻変動と自らの働きかけによって、生成発展してきたその論理構造を言う。南郷学派が措定した論理構造である。
 すなわちそれが21世紀の弁証法だ、と。
 〈生命の歴史〉は、地球の、自然の生成発展を捉えたものであるが、その論理構造は、人類の歴史、いうなれば人類社会の歴史にも当てはまるものである。

 生命体は、地球の天変地異に翻弄されつつ、自らを新しい地球環境のステージに合わせて自らを変革し、生成発展してきた。
 巨大な地球規模での火山の爆発、地震、台風、津波、造山運動、海流の発生などが起きるたびに、生命体は多くの犠牲を出したはずである。死屍累々であったはずで、その痕跡が化石となって発見される。

 生命体が人類にまで生々発展するには、大きく言って、単細胞、カイメン体、クラゲ体、魚類、両生類、哺乳類、サル類、そしてヒト、さらに人間へと生々発展したわけは、逆説的には多くの天変地異で死んだ生命体のおかげである。

 戦争は、いうなれば地球の天変地異を人力で行なったものである。地球の地殻変動が〈生命の歴史〉を創ったように、人類の歴史は戦争を経験して発展したのだ。大戦争によって多くの兵士が殺され、婦女子が蹂躙されたのは、あたかも火山噴火から逃げられなかった生命体のようなものであった。

 その〈死〉にだけ着目すれば、悲しいに決まっている。あってはならぬことだし、平和を希求するのに異論はない。しかし、くどく言ってきているように、〈生命の歴史〉にとって天変地異が必然であったように、人類の歴史にとって戦争は必然であった。そうでなければ生命体の生成発展も、人類の生々発展もなかったのである。





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2015年07月25日

高英起なるザイニチ


 先日、拙ブログ「安保関連法案審議の茶番」で、チャンネル桜に登場していた瀧澤氏や菅沼光広氏の発言を紹介した。
 その番組『討論!対日謀略機関の暗躍と日本』には、ザイニチの高英起(コウ・ヨンギ)が末席に座っていた、この男は北朝鮮情報専門サイト、デイリーNKの東京支局長だそうだ。

 チャンネル桜もなんでこんなザイニチを登場させるのだか…、これだからあそこは信用ならない。
 さて、その『討論!対日謀略機関の暗躍と日本』の座談会のなかで、インテリジェンス研究家を名乗る柏原竜一氏が、突然、「余命3年時事日記って知ってますか? あれおもしろいですよ」と切り出した。

 評論家・宮崎正弘氏が、すかさず「あれは今三代目なんだよ」とフォローしていたが、大方は知らなかったらしい。年配の人たちはやはりネットには疎いのか…。

 柏原竜一氏が「ザイニチは通名も複数もてなくなり、廃止方向にいくと、『余命3年時事日記』が書いてます」と話し出すと、デイリーNKの高英起が発言を遮り「ネットのデマですよ」と反撃を始めた。
 「ネットのデマに踊らされると、恥ずかしいぞ」とかなんとか、嘲笑もした。

 司会の水島聡氏が話をまとめて次に行こうとしているのにおかまいなく、高英起は柏原氏に「賭けてもいい。デマだ噓だ」と血相変えて否定しつづけていた。
 ふ〜ん、高は顔つきもはっきりそれとわかる朝鮮系で、興奮すると目が吊り上がり、火病の兆しがはっきり現れて傑作だった。

 ザイニチにしてみると、「余命3年時事日記」の書くザイニチが追い込まれるという話は、触れてほしくないヤバイ案件なのであろう。だからムキになって否定しにかかった。

 高英起は北朝鮮や韓国情報の専門家を自任しているのだから、当然北朝鮮や韓国の情報機関の人間とコンタクトを取っているはずであり、もしかすると何重もの工作員だとしても、いささかも驚かない。

 チャンネル桜の水島氏が、ザイニチの資金源の一つがパチンコなのだから、拉致問題の解決のためには、パチンコを潰さないと圧力にならない、と発言すると、これまた狂ったように否定し始めた。
 パチンコのあがりなんか微々たるものですよ、そんなことより韓国にいる脱北者が北に送金しているカネのほうが巨額だ、と叫んだ。

 水島氏は、パチンコの資金がいくら北に流れているかの額より、パチンコが犯罪の温床になり、警察組織の天下り先になっているなど、北朝鮮との関係でピリッとしないのでは、日本国民として恥ずかしいことではないかと語っているのに、これまた目を吊り上げ怒声に近い大声で「パチンコをつぶしても北への圧力にならない」と、水島氏を罵っていた。

 高がパチンコ業界を必死にかばっているのが明白。嗤えた。
 答えが完璧でないと承服しないで、決死の形相で相手を罵るとは、実に朝鮮人の性向(火病)の典型である。

 日本人同士だと、ケンカをしてもある程度仲直りが出来たとすれば、多少不満足でも、そこで落としどころだなと両方が判断して、一応は鉾を収めるだろう。
 50年前の日韓国交正常化とはそうしたものだった。

 しかし韓国人は、徹底して相手を屈服、屈従させ、土下座させ、尊敬しますと言わせるまで、ケンカは止めない。いつまでも補償金が取れると思っている卑しさ。

 従軍慰安婦問題でもそうであるが、日本側としてはもうさんざん謝ったじゃないかと思っているのに、奴らは執念深くくり返し謝罪させるだけでは気がすまず、ドレイにならないと満足しない。
 日本人ならまあ七割も正しければいいじゃないか、となるのに、韓国人は十割以上でないと承知しないようだ。

 ときに「清濁合わせ呑む」度量が必要だが、ザイニチはそれができないのだろうか。

 護憲派もサヨクもザイニチが入り込んでいるせいだろうが、かたくなな考えを変えようとしない。
 9条は絶対で、いささかの字句の変更も解釈の変更も許さない、国際情勢がどう変化しようと、わが国の存立が危機になろうが、一度決めた憲法は、何がどうなろうと変更も廃棄も許さないと言い続けている。

 サヨク護憲派は、政府が集団的自衛権を無限定に拡大解釈してくるかのように非難して、目を吊り上げて、これは戦争法案だとわめくが、そのありさまは、まさにザイニチの火病そっくり。
 従軍慰安婦は「性奴隷だった」と、事実無根であろうとも喚き散らすさまとそっくり。






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2015年07月24日

岩手矢巾北中学生自殺の無責任体制(2/2)


《2》
 前回紹介した宮ア正弘氏のメルマガに投稿されているSSA生さんが、7月21日付の記事にも投稿されている。

     *    *    *

(読者の声1)岩手県の中学生が自殺したことをマスコミがいつもの調子でその顛末と責任の所在を探しています。
 又おなじマスコミでは安保法案が憲法違反だとか個人的/集団的自衛権がどうだこうだと別個に報じています。しかしこの二つは全く同じ問題なのです。
 この中学生はいじめにあったときに、「自衛権を発動」し、いじめる相手に戦いを挑むことをなぜ思わなかったのでしょう。

 彼は喧嘩などは弱かったのでしょうか。しかし例えこの生徒が柔道や空手を身に着けていても、学校は(そして日本国憲法は)たとえそれが正義の為であっても力による解決は絶対禁じてきました。つまり憲法学者でも日本はいかなる武力行使(いじめ)に対しても力で反撃することは、それに備えること(つまり軍隊を持つこと)も含め憲法違反であると今でも断じている人が大勢いるのです。

 要するにこの自殺した中学生も日本国民も個別的自衛権、言い換えれば生存権(殺されそうになったら戦うこと)まで認められていないと憲法学者は主張しているのです。
 この中学生のいじめを見ていた周りの生徒はどう対応したのでしょう。
 彼らは自殺した生徒がしつこくいじめられているのを見て、果敢に(緊急必要時には力の行使まで含め)止めに入ったのでしょうか?

 きっとそうはしなったことでしょう。なぜなら生徒たちはいじめにあっている生徒を守ることは、つまり「集団的自衛権」の発動はいかなる場合でも、いかなる方法でも憲法で認められていないと学校で(教師の逃げ腰、そして政治の世界で)教えられてきたからです。
 これを放置すれば、いつかはいじめをする生徒は自分をいじめるようになるかも知れなくても、ただただ見て見ぬふりをしなさいと学んで来たのです。 

 それに今回のことで少しも報道されていないことは、いじめた生徒のことです。彼はおそらくそのいじめが少年を自殺にまで追い込みかねないことまでは考えが及ばなかったと推測できます。
 それ故きっと今になって大変後悔しているに違いありません。
 つまりいじめの張本人も心に深い傷を抱えて人生を送ることになりましょう。もし日本の社会がそして学校が集団的自衛権(つまりいじめにあっている生徒を皆で守り合う必要性)を現行憲法より重要で、当たり前のことと教えていれば、かような悲劇は避けられたはずです。
(SSA生)

(宮崎正弘のコメント)教育現場で体罰を禁止した結果でもありませんか?

     *    *    *

 長々と全文引用させてもらったが、大変優れた着眼である。宮アさんのコメントも正鵠を射ている。
 安保法制の論議でも、サヨク護憲派は、こうしたSSA生さんの指摘の観点は、まったく無視している。ただひたすら戦争は悪だ!だけ。それも支那や韓国に対しては抗議しないのだから奇々怪々である。悪い意味での狷介不覊。
 それがどれほどこうした陰惨なイジメを招いているかには、知らぬふりをつづける。

 「例えこの生徒が柔道や空手を身に着けていても、学校は(そして日本国憲法は)たとえそれが正義の為であっても力による解決は絶対禁じてきました。つまり憲法学者でも日本はいかなる武力行使(いじめ)に対しても力で反撃することは、それに備えること(つまり軍隊を持つこと)も含め憲法違反であると今でも断じている」

 ここが非常に肝心なところである。
 以前、私は電車内でケイタイ電話で平然としゃべっている男をやめるように注意したことをブログに書いたけれど、仲裁(?)に来たJRの職員は、まったく頼りにならなかった。逃げの一手であった。「お客さんどうしで話し合ってください。JRは車内放送で注意はしていますが、直接にケイタイを使う客に止めろとは言わない」と宣告した。

 まだある。これも先日、スーパーで買い物してレジに並ぼうとしたら、買い物かごが前に置いてあって、要するに順番を確保しておいてテメエはもう一つ買い忘れたものを取りにいっていたのだ。戻って来た男が割り込んで来たから、注意したら逆ギレして「ガタガタ言うんじゃねえ」と怒鳴り始め、店長が飛んで来た。

 私が手短に事情を説明したが、店長は、あなたのおっしゃることはわからないではないが、ともかくお客さまどうしで話し合ってください、の一点張り。逃げまくり。店長がレジに並ぶ時は、買い物かごを置いたままにしないでくださいと一言言えばいいのに、言わない。言えない。言いたくない。

 いずれの事例も、これが戦後教育の成果なのだとしみじみ感じた。別に武力行使(殴るとか、逮捕するとか)をしろというのではないが、「反撃」はいけない、「暴力に備えることもいけない」、そして「正義」の行使であってももめ事には関わらない、それが見事に徹底されていて、驚いたものだった。

 つまりは、学校で生じた生徒同士のイジメや暴力沙汰に、学校は関知したくないという姿勢と、JRやスーパーの関知せずの対応は同じである。
 学校教育のときから、今の若い人たちは「見て見ぬふりをしなさい」と、文科省の木っ端役人、ニッキョーソ、教育委員会などから教えられて来た。
 これがイジメを生む温床である。矢巾北中の担任女教師も同様に、誰がイジメをうけていようが、自殺しようが見て見ぬ振りをするのが正しいと思い込んでいる。

 「生徒たちはいじめにあっている生徒を守ることは、つまり「集団的自衛権」の発動はいかなる場合でも、いかなる方法でも憲法で認められていないと学校で(教師の逃げ腰、そして政治の世界で)教えられてきた」
 「これを放置すれば、いつかはいじめをする生徒は自分をいじめるようになるかも知れなくても、ただただ見て見ぬふりをしなさいと学んで来た」

 そのとおりである。
 何度も言ってきたが、私は当面は日米同盟で国を護るしかない、と。
 日米同盟を今やめれば、ただちに尖閣諸島と沖縄は支那に、対馬は韓国に攻め込まれる。国内のザイニチが武装蜂起しかねない。南シナ海を通過する日本のタンカーが次々に拿捕されるにちがいない。

 しかしわが国はやがてアメリカの属国から脱して、またユダヤの策謀を跳ね返して、自立していかなければと主張している。そのためには、人間は社会関係で人間になるのだという基本中の基本を忘れて、戦争は嫌だと呪文だけ唱えていれば何事も起きないとするようなキチガイ思考に囚われてはならぬと言ってきた。

 自民党を100パーセント支持する人はほとんどいないだろうが、せめて戦争というものをまっとうに捉えられる国家、国民にならねば将来が危ういのである。だからやむなく私も安倍内閣の安保法案には賛成している。
 民主党や共産党、サヨクメディア、大学に巣食う研究者どもが護憲派となって、ばか騒ぎすること自体を批判してきている。
 彼らは、ものごとをすべて見て見ぬふりで済ませろ、というのだから、キチガイである。そしてあまりに幼稚、あまりにマザコンである。

 いかにもアメリカは日本で同盟のよしみを使って戦争に引き込むかもしれない、しかし、一方でロシア、支那、南北朝鮮も、日本に戦争を仕掛ける危機は目捷に迫っていることには、彼らサヨクは見て見ぬふりをしている。そっちのほうは絶対にありえない、だって悪いのはアメリカだけだもん、というのだ。
 私はアメリカだけじゃない、全部が悪い連中なのだと言っている。

 よしんば百歩譲って、そうした危機はまだない、関係修復も試みられているじゃないかとする意見、あるいは安倍首相が靖国神社に行かなければすべて丸く収まるんだ、を認めたとしても、この世界は端的に「常在戦場」なのである。林秀彦さんの言葉として紹介したが、「戦争自体に『過ち』という添加物はない」し、「現文明に平和の概念など、実は含まれていない」のである。
 だから国家の危機的状況の出来(しゅったい)に備えることは絶対に必要である。

 なのに、危機的状況に備えること自体が、戦争を招くからいけないとする、こんな馬鹿げた話があるか。
 これが学校では、イジメがあると認めたら、かえってイジメがあることになって学校が荒れる、PTAも騒ぐ、反抗的な子供を刺激する、だからひたすらにイジメはないことにしたい、とする関係者の卑劣を生んでいる。

 学校長や教育委員会は、なんとしてでもイジメがあったとは「認識していない」と言い張る。気づいていても気づかぬふりをしたい。支那や南北朝鮮が日本を攻撃してくる(イジメてくる)のを「認識していない」と言いはって、9条を掲げていれば平和なのだと、とぼける。

 そんな見て見ぬふりをしたい、もめ事に関知したくない、その暗雲が日本を覆っていることが、岩手の少年の悲劇を生んでいるし、これからもイジメやそのせいでの自殺は続くにちがいないのである。
 こうした日本人の心的状況を、維持し、さらに病膏肓にしていけば、俄然テメエたちに有利になると承知しているのが、米、支、韓、露、北なのである。

 それから最後に一言。SSA生さんは、苛めた生徒は「今になって大変後悔しているに違いありません」と書いておられる。それに対し同じ宮アさんのメルマガにST生という方が異議を唱えている。
 「後悔なんかしていない」と。そうだと思う。後悔していると見るのは甘過ぎる。

 ST生さんは苛めた奴は「如何に責任逃れをするかを考えています」と指摘している。私も同感だ。苛めた少年は、厳しい言い方だが、そもそも粉ミルクで育っているはずであり、人間の脳になっていない。だから人間らしい「後悔」や「反省」はできないはずである。






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2015年07月23日

岩手矢巾北中学生自殺の無責任体制(1/2)


《1》
 またしてもではあるが、宮崎正弘氏のメルマガの「読者の声」には、とても上質な意見が寄せられる。これも感心した投稿だった。

     *    *    *

(読者の声1)岩手県の中学生が自殺したということで、例のごとく現場はあたふたと、お得意の「第三者委員会」の設置で「事実調査」を実施したいとか、責任の所在はどこかなど、マスコミも一緒になってさがしまわっているようにみえます。
 このような問題が起きるたびに「人の命の大切さを学ばせるべき」とか、カウンセラーの充実とか、思いやりの精神を育む教育行政をといったむなしい発言が飛び交います。

 私の娘はアメリカで教育をうけましたが、やはり日本人であることからか、なにがしかのいじめにあいました。
 その時、娘は先生にいじめを訴えると先生は答えたそうです。「断固戦いなさい!」と。
 またもう一人の男の子供も同じいじめにあったとき、まだ英語もろくにしゃべれないときでしたが、徹底的に取っ組み合いと殴り合いを校内で実行しましたが、学校からは何のお咎めもありませんでした。

 アメリカでは自己防衛や正義の為には戦え!と言うのが教師も含めた社会共通の大切な「教材」であるからです。
 日本ではどうでしょう。
 いじめにあった子供は、実力行使はご法度、そして教師は見てみないふりをするなどおろおろするばかり。

 それ故、子供は大人が不都合なことから如何に逃げるかといった方法を”存分に“学ぶと同時に、ただただ相手のいじめを甘受し、耐える以外方法はありません。然るにそれが限度を超えると気持ちの持って行き場を失い命を絶つことに繋がるのです。
 また日本では、時々教師が「子供達からどうして人を殺してはいけないのですか?」と聞かれ答えに窮するそうです。この教師の言葉には驚きました。

 答えは簡単なのです。
「あなたは人を殺してもよいということは、あなた自身も今すぐにでも誰かに殺されてもよいと宣言しているのですよ!それでもいいですね?」と答えるのが、国際的にはあたり前なのだから。

 日本では「人の命を大切にする」教育を徹底させるなどと言った「ふにゃけた」意見が主流ですが、どうして自分の命や尊厳を守るためには時として戦わねばならないという世界では当たり前の事を教えないのでしょうか?
 これこそが盛んに探し求められている「グローバル世界で通用する人材養成」となるのです。

 そういえば日本国憲法では他人の善意を「完全かつ最終的に」前提とした文脈で書かれていて、それが一番大切だと主張している人が今でも大勢います。ここがいじめのすべての始まりなのです。
(SSA生)

     *    *    *

 私も中学2年生のときに、イジメにあいかけた。そのときに私は断固戦う決断をして、首謀者に立ち向かった。それっきり、イジメはなくなった。
 だから、このSSA生さんが言う通り、いじめにあったら断固戦いなさいというのが正解である。

 苛められたほうがいじけるから、おもしろがってさらにイジメがエスカレートするのである。多少のイジメは学校時代に経験すべきとは思うが、人を自殺に追い込むとか、殺したとかいうレベルは教師や親が阻止しなければなるまい。犯罪であるから。
 そこまで徹底して苛めるバカ者は、教育関係者が腑抜けで何もできないことを見抜き、なめきっている。それを教育関係者は知りながら、とぼけつづけている。

 誰もがうすうす感じていながら知らんふりしていることは、イジメぬくワルにはザイニチが多く含まれていることであろう。彼らは衆を頼んで学校や教育委員会などを恫喝する。だから何も言えなくなっている。
 「なんとか市民団体」で、政治的活動を行っているものは、ほとんどがザイニチ組織である。権利を言い募り、悪を暴くことは弱者への差別だと言い張るのは、日本人のマインドではない。

 SSA生さんが説くように、憲法には他人の善意を「完全かつ最終的に」前提とした文脈で書かれていて、「ここがいじめのすべての始まり」なのである。いじめている子がいると認めること、その子に注意することは、他人の善意や信義を疑うことにつながるという論法だ。そもそも人をそんなイジメをしているなどと疑ってはいけません、というわけだ。
 これがサヨクの言い分であり、ザイニチの支那人や南北朝鮮人の言い分であることは、少し考えれば見抜ける。

 憲法9条はまさに、その主旨の貫徹である。だからザイニチたちは必死に日本人になりすまして、「9条を守れ」と叫ぶ。他民族(他人)を、日本侵略してくるなどと疑ってはならないと。実にザイニチどもに都合のよい解釈ではないか。
 他人の悪意を疑うものは、せっかくの善意で接してくれるはずのアジアの人たちの信頼をうらぎるものだと…。

 では他人を信じ切って、相手の言い分だけを飲み込み続ければ、万事うまくいくのか? しかりそのとおりとサヨクは言うのだ。アホか。
 世の中には詐欺師もいれば、腹黒い奴もいる。騙す、約束は守らない、常にウソをつく。そうしたザイニチの特性に目をつぶって、言いなりになれというのか?

 常に日本では、こうしたイジメが起きて子供が死ぬと、「命の大切さ」を大人が訴えることになっていて、それがこのたびの安保法制の審議にももろに露呈している。支那を疑ってはいけない、米中が接近しようと言う動きもあるんだから、第一におたがいの「命の大切さ」を訴えていれば、きっと善意の人たちのココロを動かして、戦争は止められると、実にザイニチや支那、南北朝鮮に都合のいい結論になる。

 こうしたザイニチ成り済ましの言い分を、そのまんま聴く日本人、これを間抜けと言わずして、ほかに何というべきか。
 「自分の命や尊厳を守るためには時として戦わねばならないという世界では当たり前の事」である。

 矢巾町の少年が、誰にも助けてもらえずに自殺したことは痛ましい。本来なら父親が励まして、断固戦え、それが男だと言ってやるべきだったのに、今になって担任教師や校長を恨んでますと言うのは筋違いである。
 さはさりながら、担任の女教師も責任をとって表に出て弁解するなり謝罪するなりすればいいのに、まあ、これは昭和20年にヒロヒトがやらかしたように、逃げまくっている。

 学校や教育委員会に守ってもらって、とぼけきるつもりだ。
 誰も責任をとろうとしない。目下、イジメがあったかどうか調査中だと? この無責任なこと。
 有事になっても、絶対に自衛隊が出撃することは許さないとわめくサヨク護憲派どもの無責任と変わらない。

 矢巾北中学の担任女教師は、自分に非があろうとなかろうと、嫌であっても公に出て、言い分なり反省なり反論なりをすればいいではないか。
 それが主体性である。なにも犯罪者扱いしようというのではない。これからの教育界のためにも、教育はどうあらねばならぬかを考えていくためにも、逃げてはいけない。むしろ、逃げていることの無責任自体が糾弾されるべきである。





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2015年07月22日

育児を学校の正課に(2/2)


《2》
 赤ん坊とはどういう存在なのか、生理構造はどうなのか、認識が人間的統括する子供に育てるには認識学の勉強をどうやったらいいかを、せめて高校時代に、男女とも正課として教えなければならない。
 それがないから、育児ノイローゼや児童虐待が起きるのだ。

 また、生理不順や生理痛がなぜ起きるか、不妊や流産がなぜ起きるかも学習させるべきだ。女の子は小学校のうちから毛糸のパンツを履いて、ミニスカートやヘソ出し服、薄着がどれほどの害かを学校でしっかり教えるべきことである。

 だから不妊や育児で悩む母親、あるいは虐待してしまう母親を一方的に責めてはならない。科学的見地を深めて、それを学校で教育する体制がぜひとも必要である。
 しかし、なぜそれが教育者に理解できないで、施策が実行できないのか。

 それは本当はきちんとすべき文科省の役人、保育の専門たる大学教授、マスゴミの記者が不勉強、というより関わろうとしないからである。学問、とりわけ生理学、医学、看護学、認識学が理解できていなければ方策は立てられないが、その方向に舵を切れば、それまでの既得権益が失われる。

 大学で育児や保育を専門にしてきた連中は、教えていることが全部ウソになるのだ。だから新しい学問とか、育児の考え方を取り入れたくない。せいぜいアタマの悪い外国の取り組みなんかを日本語で紹介して食い扶持をいただくのみ。新しい学説には見て見ぬ振りをする。

 例えば、赤ん坊の夜泣き。
 夜泣きは理由なく泣く事だと、医師や育児専門家は抜かす。
 夜泣きとは、生後半年頃から1歳半ぐらいの赤ちゃんにみられる、夜間の理由のわからない泣きを指す、となっている。

 夜泣きは原因がよくわからないため、これといった解決策がない、と。「赤ちゃんはどうして泣くの?」に答えて「赤ちゃんは泣くものだから」であり、それがたまたま夜に泣いているだけと、専門家どもは言う。
 日本の生活環境は木造家屋で近隣にも音がもれやすいから母親が気にしすぎるからいけないとか。

 こんなテイタラクなのである。若い母親たちがかわいそうだ。
 しかし認識学で解けば、これは赤ん坊が夢を見るからである。赤ん坊は夢を見た経験がないから、自分が見た夢が怖い。だから驚いて、かつ恐怖で泣き叫ぶ。

 こういうことはすでに私たちの流派では解明されているのに、育児、保育の専門家や医師は不勉強だし、新たに本物を勉強したくないから、無視するのである。

 「夜泣きは…赤ん坊は泣くものだからです」と、漫談みたいなことを言っていれば、大学の職、保育士の職が失われずにすむ。その利権を手放したくないから、何の向上心も目指さない。もしかすると、夜泣きの遺伝子を見つけに研究室にこもるとか?
 奴らはさらにこう言う、科学ではわからないことがあるものです、と。

 本来なら学校では、夜泣きの構造を説き、赤ん坊はどんな夢を見るのか、どんな夢を見させたらいいか、赤ん坊はなぜむずかるのか、それを止めさせるにはどうしたらいいか、講義できなければいけないのに、そういう大事な教育がどこにもない。

 赤ん坊の気持ちがわかる親になるにはどうしたらいいか。
 何も知らない女性や男性が、親になって途方に暮れるのも無理はない。子育て経験者の母や祖母だって、学問的な育児を知らずに、ただ苦労したなあとの感慨と、少ない経験で乗り切るだけなのだ。

 この現状は、だからナイチンゲール以前の看護の場と同じだと言っている。
 何度も本ブログで説いてきたが、母乳で育てないとどうなるか、紙オムツではどんな弊害があるかを、医師や育児の専門家は解けなければいけないのに、わかろうとしない。

 真実を知ることを粉ミルク企業や、紙オムツ業界が妨害しているのも知らずに、テレビの宣伝を鵜呑みにする親ばかり。
 高校の授業でその弊害を説いておけば、日本人がこれほどまでに劣化しなくて済んだだろうし、育児や教育で苦しむことはなかったのに。

 先程から男も育児の教育を受けるべきだと書いてきたが、子育ての中心は母親ではあるが、亭主が無理解では、協力もできないし、かえって育児の妨害をしかねないから、勉強させなければいけない。
 
 出産・育児を、自然成長性なり経験則なりに任せ切って、学校できちんと教えないから、悲惨な事態が続出している。
 性同一性障害が起きる、同性愛になる、引きこもる、不登校になる、すぐキレる子になる、発達障害が生じる、感情薄い受験秀才になる、結婚してもセックスレスのまま、新興宗教にのめりこむ、人の気持ちがわからない人間になる……。

 こうした現代の深刻な問題の根っこは、本来的には家政学が確立されていないからだ。家政学を小学校、中学校、高校、大学の授業でしっかりと履修させれば、現今の子供の深刻な問題はなくなっていくであろうに。
 そんな研究も学問も、考えられていない。
 
 現在の学校で教えるとしたら、家庭科とか保健体育とかだが、そんなものは周辺教科などと蔑まれて、教えるほうも教わるほうも真剣に取り組まない。
 文科省は教育既得権益の擁護者だから、ほったらかし。

 厚生労働省も、今挙げた問題が教育の成果で解消されると、病院や製薬会社が困るから、彼ら既得権益の保護者である木っ端役人は、手を打とうとしない。







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2015年07月21日

育児を学校の正課に(1/2)


《1》
 19世紀末にナイチンゲールが登場するまでは、病院での看護といってもただ家政婦が、それも無教養の下層の女たちが適当に、投げやりに働いているだけだった。
 彼女がクリミア戦争での看護で一躍名を馳せたとき、野戦病院では傷や病気で亡くなる者より医師や看護婦のいい加減さで、本来なら快癒するはずの兵士が亡くなっていく実態を、彼女は見抜き、衛生面や看護婦の指導などで画期的な改善を行った。

 そのことに気づき実践を始めたのは、今では信じられないだろうが、人類初だったのである。
 今では当たり前の、病院のベッドに敷く清潔で真っ白なシーツは、ナイチンゲールの発明であった。

 ナイチンゲールは、看護とは何かを学的高みで定義し得た先駆者である。ただナイチンゲールの著作『看護覚え書』に、さりげなく書かれていた一言を、日本で、薄井担子先生が再措定し、ナイチンゲールに敬意を表して「ナイチンゲールの発見」として世に出した。

 薄井先生が措定した「ナイチンゲールの看護の定義(一般論の構造)」とは「看護とは、生命力の消耗を最小にするよう生活過程を整える」、これである。この一言に対象論、目的論、方法論が見事に示されている。
 この定義により、看護学は医学より先に(医学を追い越して)学問になったのである。

 しかし世の中はメクラ千人、多くの医師や看護婦らの嫉妬や無理解で妨害を受け、不勉強きわまるマスゴミの記者の無能によって、シカトされて、薄井学派の看護学は異端扱いをされて話にものぼらず、学とはもわかっていないべテラン看護教師低度が出しゃばりつづける。

 しかし、薄井先生のご努力で教え子たちが少しずつ増え、看護学校や看護大学で、正しい看護学が教えられるようになってきている。
 そして最近では、薄井先生の後継者にふさわしい学究も登場してきている。何度か本ブログで取り上げた神庭純子氏もその一人である。

 神庭氏の『初学者のための「看護覚え書」』は、医師や看護婦は必読の書である。

 さて、看護の世界は最初に言ったように、最低の家政婦レベルから、ナイチンゲールが登場して大変革をなしとげ、徐々に看護というものが人々に重要性が認識され、改善改良がなされてきて今日にいたる流れがある。

 これを看護教育の視点でいえば、昔の家政婦レベルなら、現場でああしろこうしろと言っていれば済むことで、とりたてて学校はいらなかった。それがしだいに、看護婦も学校教育が必要とされ、その教育内容の充実が図られていった。
 日本でも准看護学校から、高等看護学校へ、そして大学医学部のなかの看護学科になり、専門の看護大学が出来、ついには大学院までに発展したのである。

 それだけ医療と看護の中身が増え、充実し、論理化が進み、それに対応するために教育の高度化が進められてきた。
 つまり、もう経験に頼っていれば良かった看護のレベルではないし、医師の手伝いで済んでいるレベルでもなくなった。
 
 いまだに医師の中には、看護なんかは医師の助手だ、と思い込んでいる馬鹿が多いが、それはアタマが悪いせいもあるが、大学医学部のカリキュラムに看護学がないからである。看護学ばかりでなく、栄養学すら医学部では教えない。
 それがどれほど患者を苦しめているかを関係者は思いもしない。

 ここまでは今日の話のマクラで、本題として取り上げたいのは育児である。
 最近は、母親が育児に自信をなくし、うまくいかなくてイライラし、あげくに虐待までしでかすニュースに接する。

 子を虐待し殺してしまう母親が出るということは、母親の責任を言う前に、そういう母親を創った文科省や教師らの罪である。
 そもそも、今の母親たちは、子供の育て方をどこで教わったのだ?
 学校に家庭科や保健体育科はあっても、正しい子供の育て方ひとつ訓練していない。
 
 最近は、「偽母乳」の販売が問題化した。
 ちょっぴりの誰かの母乳に、粉ミルクと水をまぜたものを、赤ん坊に飲ませるアホな母親がいるらしい。そんなものを販売する業者も悪いが、手をこまねいている厚労省の木っ端役人もひどい。
 これもちゃんと正しい子育てを学校で教えないせいである。

 母乳といえども、訓練次第である。赤ちゃんを産んで最初の数日は母乳が出にくいけれど、母子ともに努力すれば必ず出るようになる。その出にくいときに、病院が将来の病人を仕込んでおくために明治や森永の粉ミルクを、無知な母親に与えてしまう。母親は怠けて、粉ミルクに頼ってしまう。母乳にすると乳房の形が崩れるからとか抜かす。

 母乳の訓練を母子ともに怠ければ、粉ミルク会社の邪悪な目論見にハマってしまう。
 皇太子妃が愛子を出産したときに、主治医の産婦人科医が、「母乳はむずかしいですから」と抜かしたことが忘れられない。おかげで愛子は粉ミルクで育ったのだろう。そこで大きくつまずいた。
 「むずかしい」とは現象論である。人間は人間になるために、人間としての努力をしなければならない、この原則を医者が無知だから、こんなぶざまなことになる。

 だから真面目に学校で人間とはを教えろと言っている。
 なのに学校であるのはあろうことか、セックスに関してだけ。ニッキョーソは性教育は熱心にやらかすのに、そのあとの子育ては知らん顔、勝手にやりな、家で親から教われ、とはひどくないか?
 たしかに昔は、大家族が一般的で、経験を積んだ祖母や母がなんとかフォローできたが、現代では核家族になり、女も働きに出ている、何も知らないまま母親になる。

 これは、ナイチンゲール以前の、看護はデタラメな家政婦がやっていた状況と同じである。
 つまり、私は看護が専門家を養成し、学問のレベルで捉えられるようになったと同様に、出産育児に関しては、女性も男性も、しっかり教育を授けなければならないと思うのである。






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2015年07月20日

子供に「快」の認識を身につけさせよう


 ある若いお母さんから久しぶりにメールをもらい、そこにこの7月に2歳になったお嬢さんのことが書いてあった。
 「ヤダヤダがはじまり、魔の二歳児のはじまりです(笑)」

 「魔の二歳児」と書いてあったので、またお節介の虫が騒いで、少し幼児教育の大事性を説いてメールで返信した。
 それが概略、以下である。

 2歳児くらいの「やだ、やだ」は、その時期の子供はそう言ってみたいだけなのだ、と私たちの流派では教わっていた。
 例えば、「ニンジン嫌い」というときは、初めは本当に嫌いなわけではなく、嫌い、いやだと言ってみたいのだと。
 それを親が勘違いして、この子はうまれつきニンジンが嫌いなんだと思ってしまうので、好き嫌いができる。

 唯物論者ならわかっていただけようが、生まれつきの性格とか、生まれつきの好き嫌いなんかあるわけがない。すべて人間は教育され、自ら創って「そうなる」のである。
 子供が、食べたこともない食べ物に対して「嫌い」という場合は、考えてみれば明らかなように、初めから好き嫌いがココロに備わっているわけがない。

 「嫌い」という言葉、もしくはそういう像を覚えたので、つかってみたいのである。そして親の反応をみるようになる。どこまで抵抗すれば自分の意志が通用するかを子供なりにみている。
 観念論者は、うまれつきに好き嫌いがあると信じているから、いくらそうじゃないと説いても、聞く耳はもつまい。

 親がニンジンを嫌いだったから、子供もニンジン嫌いになるのは遺伝だな、などと愚かにも思い込む。なんでもかんでも遺伝、遺伝にして物事をわかったつもりになるから、度し難い。
 その一歩目を間違えるから、子供の性格が歪んだり、アタマが悪くなったりするのに、すべては遺伝か偶然の生まれつきにする。

 生まれつき、と思ってしまえば、子育てに努力はいらなくなる。なかには放任主義だなどと、そんな主義があるかのような馬鹿げた思い込みが跋扈している。ただの無責任、ただの怠慢でしかない。
 この狂った考え方がなくならないかぎり、さきごろ岩手県矢巾町で起こった中学生の鉄道自殺だとか、イジメだとかは解決しないであろう。

 2歳くらいからはじまる「嫌だ。嫌だ」は、赤ん坊の自我の芽生えであるから、喜ばしい成長と見るべきであって、決して「魔の二歳児」ではない。
 幼児が「いやだ」と言った時は、食べ物を食べるか、親の言う通りに行なうかすれば、こんなに良いことがある、という「快」の像を子供に描かせるのがコツである。

 叱れば意固地になり、泣いて意志を通そうとしてしまう。無理強いすれば、子供は楽しいとか嬉しいとかの像ではなく、わがままになる、強情になるという像を持つようになっていく。
 親が夜泣きする子に激昂して殺してしまうとか、言うことをきかない子供にタバコを押し付けて折檻する、などは、親のこうした無知に起因する。

 よく、「この子はいつもニコニコして明るい子だ」と言われる子がいるでしょう? それは親が良い像をいつも描かせてあげることに成功したからである。
 一つの例を挙げよう。
 
 ある保育園に女の子が通っていた。その子は幼いながらかわいい子だが、欠点というほどではないけれど、本人は「色が黒い」というコンプレックスを抱いていた。どういうわけかすぐ下の弟は色白なのである。
 さて、保育園である昼食のときに大根の煮付けが出た。この女の子は大根が嫌いと言って食べない。

 そこで優しい保育士の女性が、「あら、大根食べないの? 大根は白いでしょう? だから大根を食べると色白の肌になるのよ」と説明したら、その女の子は嫌いだったはずの大根をバクバク食べるようになった、との話である。
 これが「快」の像を描かせて成功した事例である。

 別の事例を挙げる。
 海水浴に行っていたとき、家族連れがやってきて、1歳か2歳の子供を抱いて海に浸からせようとしているのを何度か見た。
 生まれて初めて海を見た子に、「ほら楽しいでしょう」とばかりに親が子供を抱いて、海に入れてしまう。
 子供はショックで泣き叫ぶ。

 子供は親にしがみついて、その日はずっと親から離れない。海デビューに失敗する。

 いくら親に抱かれていても、子供にとっては海は未知との遭遇であり、びっくりなのである。初めから海に対して「快」の像などあるわけがない。恐怖でもあるだろう。親はすでに海水浴とはどんなものかの像があるから、子供もきっと喜ぶはすだと勘違いする。
 バカだね〜、ほんとに。

 初めは波打ち際で、砂遊びをさせ、わずかに小さな波が幼児の足下に打ち寄せて、危険はまったくないようないシチュエーションで経験させることだ。やがて大人が海に入って楽しそうにしている様子を見せて、子供から海は「快」なのかなと思わせ、ぜひ海に入ってみたい気にさせれば、無事に海デビューが成功するのに。

 それを、親が海に入りたくないと泣きわめく子供の気持ち(像)を考慮することなく、「いくじなし」と笑うとか、叱りつけてはダメである。
 日常のこういうことのくり返しが、量質転化を起こさせる。何をやるにも臆病になるとか、素直でなくなるとか、好き嫌いが激しくなるとか、いつも不機嫌な顔つきになるとか、なんでも拗ねる、だだをこねるとか…。

 先に述べたように、大根の嫌いな子に、良い像を描かせて能動的にしてやれば、子供はいつも明るくニコニコしているかわいい子に育つのである。
 『赤毛のアン』の場合は、アンは孤児院育ちで、本来はひねくれた性格に育つはずが、奇跡的に(物語だから)、常に前向きで「快」を探す認識に育った例である。

 少女マンガの『キャンディ・キャンディ』の主人公も、孤児院育ちの設定で、だからいつも「幸せ探し」といって、なにごとも良いほうに物事を考える癖をつけた例である。
 小説『足ながおじさん』も、そうした事例である。
 フィクションと思わずに、やればできる、の例として学ぶべきであろう。

 「魔の二歳児」ではないのだ。苦労はするけれども、この時期ほど、子供を明るい子に育てるチャンスはないと捉えなければいけない。
 詳しいことは、史上初の認識学の体系的書、海保静子著『育児の認識学』(現代社)を、熟読されることだ。

 「快」といえば、子供が手に触れるものにも疎かにしてはならない。
 例えば文房具である。鉛筆、ハサミ、定規、ノート、筆、紙、などはケチってはいけない。高級品を使わせることである。
 百均で売っている習字用の筆と、1本5000円の筆では書き味がまったく違うことくらいは、わかるだろう。どうせ子供だからと、安物を与えては、「快」の感覚は育たない。

 学校へ持っていくと盗まれるかもしれないから、高級品は家で使えばいい。子供は絵を描いたり、文字を書くのがすきになる。そうした親のココロ遣いは子供に伝わり、よって、いつもニコニコかわいい子に育つ。

 ほかにも、親が童話を一緒に読み聴かせ、一緒に童謡をたくさん歌えば、子供は「快」の感覚を身に付けていくのである。例えば「泣いた赤鬼」のような童話を、くり返し読むことで、子供なりに人を苛めてはいけないんだなと学習できるであろう。

 先きごろの、岩手の中学で鉄道自殺した男子生徒の問題は、親も教師も、あの子にどうやって「快」の認識を身につけさせ、一方で耐える認識を能動的に修得するかを教えてやらなければならなかった。

 いじめたほうの子も、他人と仲良くすることを「快」とする訓練を親がしないで、むしろ人やものごとに嫌な感情を抱くようにしつけた結果、歪んだ認識になったのである。
 おそらく、イジメに「快」を覚えてしまう子供は、幼児期に、母親から童話を聴いたり、童謡を一緒に歌ったりしたことがないに違いない。

 病院での看護も、同じ問題であって、ナースはいかに患者に前向きな「快」の認識を持たせる働きかけをするかが、本来の職務なのである。
 ところが病院は、金儲けだけが主眼だし、認識に働きかけても治療費が請求できるわけじゃないから、誰もやらない。





 
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2015年07月19日

「強行採決」の不可解


 7月15日に「安全保障関連法案」が特別委員会で採決され、翌16日には衆院本会議で可決された。
 その15日に、安保法案に反対する民主党議員どもが、みっともないプラカードを掲げ議長の議事進行を妨害して大声を張り上げるパフォーマンスを見せた。醜態である。

 議長や自民党・公明党席に向けてプラカードを掲げてみせるなら(みっともないにしても)わからないでもないが、あれは明らかに、全員がテレビカメラや新聞社のカメラに写るようにやっていた。
 マスゴミのカメラ陣もそれを待っていた。「これで明日の1面トップの写真は決まり!」とでもウキウキしている雰囲気が如実に現れていた。

 仲間の護憲派のおバカさんらに、「ほら、僕たち頑張ってるでしょう!」と頭を撫でてもらおうという魂胆。それに「反対しろ」とカネまでくれて命令してくださった支那と南北朝鮮のスジに、忠誠をお示しし、ご奉公するためであったのは明白。

 サヨク系マスゴミには「強行採決」の文字が踊った。
 強行採決と聞くと、朝鮮人が「強制連行」で労働者や慰安婦を奴隷のように働かせたとか、植民地にして朝鮮人を本土へ「強制連行」したと抜かす大ウソを想起させる。自発的に勝手に日本に来ておいて、あるいはカネ儲けができると日本にやってきたくせに、被害者づらをするとは、実に噴飯ものだが、「強行採決」も同じだ。

 民主党はさんざん議論して(疑問だけれど)、それでも与党を論破できなかったのだから、負けである。テメエたちがただのイチャモンや揚げ足取りに終始し、国家とは何か、安全保障はいかにあるべきかを何も言えなかったのである。
 言うに事欠いて、憲法違反だと? 
 何を抜かすか、9条がそもそも憲法違反、国連憲章違反、言葉だけで平和が保たれるという精神病者のタワゴトではないか。

 雑誌「SAPIO」に連載している業田良家氏の4コマ漫画で、「平和小学校の校則」という作品が最近発表されたそうだ。以下で見られる。
http://www.news-postseven.com/archives/20140722_266027.html?IMAGE&PAGE=1

 小学校のホームルームで、先生が児童たちに注意している。
1.先生『勉強もできずケンカに弱く金持ちの子、そんな子が一番いじめをうけやすいからね、注意しろよ』
2.生徒『ホントだ 確かにいじめたくなるぞ (バーカ 金渡せや)』 先生『コラ やめろ』
3.先生『君たち助けてあげなさい、友だちがいじめられているぞ』
4.生徒『校則で集団的自衛権は認められていませんから(さよならー)』 先生『どんな校則やーー』

 なかなか的を射ていて笑えた。むろん民主党や共産党らサヨクの護憲派を皮肉っているのだ。
 集団的自衛権とは、ただこれだけの話であるのに、護憲派どもは、戦争法案だ、戦争に引き込まれる、自衛隊員が死ぬ、悪意のない支那や韓国を敵視してはいけない、とこうくる。

 歯止めがない、議論が尽くされていない、「総合的判断」だけじゃいくらでも恣意的に運用される、とサヨクはわめく。妄想に歯止めがかけられないのはお前たちだろうに。
 日本が自ら交戦権がないとして、手足を縛っていたら、他国はどう出るか、その際はどう対応できるのか、についてはまったく議論がされないでおいて、何が「強行採決は暴挙」と言えるのか。

 これも宮崎正弘氏のメルマガに投稿されていた「読者の声」からだが、6月17日の産經新聞は次のように書いているそうだ。
「強行採決を『野党が反対を唱える混乱の中、与党が強引に行う採決』と定義すれば、民主党政権時代の平成22年3〜5月だけでも、10回行われている。当時の長妻厚労相が所管する衆参厚労委では『子供手当』法案などで計4回行われた」
 つまり、民主党はテメエたちがさんざんやったことを、今度は掌返して「議会制民主主義の破壊だ」などとイチャモンをつけている。

 そのうえ、産經紙の阿比留記者が、民主党政権時代に菅直人首相が「議会制民主主義というのは期限を切ったあるレベルの独裁を認めることだ。4年間なら4年間は一応任せると」(平成22年3月)と答弁したことを明かしている。
 缶カラ菅にしてはまともなことを言ったが、それも所詮はご都合主義。立場が変わると、テメエが言ったことをひっくり返す。

 総選挙をやって、第一党になったところから首相を出し、組閣させて政策を実行させる。そういうシステムで一応みんなが了承している。

 「4年間なら4年間は一応任せる」けれど、ちゃんと歯止めとしても国会での審議が保障されているのだから、ナチスやスターリンのような独裁が行なわれるわけではない。暴挙はどこにもない。
 民主党がああして騒いで「強行採決」のように見せているだけなのだ。昔の社会党のような乱闘にならないだけ、日本の議会も大人になったか?

 かつての社会党は、そもそも自衛隊が違憲だ、日米安保は違憲だと、バカなりに一貫はしていたものの、国民にあまりの阿呆さに見限られて泡沫政党になりさがった。沈没する船から抜け出したサヨクが看板だけ変えて「民主党」になって、「薄めたサヨク」になっただけだから虚しい。主張が曖昧だ。日米安保も認める、自衛隊も認める、だが限定的にしろという主張でしかないから、気勢があがらない。

 そのうえ、本家の支那と南北朝鮮が目立って落剥してきているから、反対闘争が盛り上がらない。サヨク頼みの支那共産党が、経済的落ち込みで焦り、日本が投資を引き上げないように願っているから、いつもなら絶対反対、軍国主義復活などと無謀で無茶な絶叫的宣伝文句が見られない。だから、民主党もバックの強硬姿勢に支えられないものだから、「乱闘してまで」の意気はない。

 民主党が「議論が尽くされていない」なんて言うのは、ふざけるのもいい加減にしろ、だ。いったいいつまでダラダラ、イチャモンや揚げ足取りをつづけて、税金のムダ遣いをやらかすのか。
 「なぜ今なんだ?」などという言い方も、ガキのケンカのレベル。野党やサヨクメディアから「拙速」との批判浴びせられたが、それはおバカさんたちの方に決定的に問題意識と危機意識が足りないだけ。
 テメエの主張ともいえない言い掛かりを、与党が飲まないからといって、議論をやり直せとは、呆れてものもいえない。

 さらに15、16日の両日は、サヨクマスゴミが国会議事堂前の歩道にわずかに集まった反対派をこれでもかと大きく取り上げて、安倍内閣批判を煽ったことも醜悪だった。
 サヨクマスゴミは野党とタイアップでもしているかのように「戦争法案反対」のデモを100人規模でも何度も放送していた、とする「声」があった。

 野党とタイアップしていたというより、マスゴミはザイニチ支那人・南北朝鮮人に支配されているから、やつらの指示で護憲派を宣伝しているにすぎない。

 国会議事堂前の歩道で集会をやらかすことは、無届け集会であり違法である。自分たちは違法でもいい、自民党の違法は許さん、なんてムチャクチャだ。違法集会であることをサヨクマスゴミはトボケていた。

 翌日の新聞では、何と6万人も集まったとあったが、それは主催者発表である。昔はデモがあると、主催者発表と警察発表の両方を書いていたが、サヨクはそれすらやらなくなった。6万人ではなく600人なのに、ひどい水増しをやったものだ。みじめだね、サヨク諸君。支那や南北朝鮮と同じ手口。

 宮崎正弘氏もメルマガでのコメントで「自分たちの主張に沿った集会ですと二十人くらいの例外的なものでも大きく写真入りで報じ、保守の集会はたとえ数千人が集まっても一行も書きません。安保法制に反対しているのは戦略的思考のできないお馬鹿さんたちが数百名ほどでしょう。国会議員会館前の歩道にいるのは、いつもの「活動家」ばかりですし。」
 と書いている。

 それにしても、日本の政治家もマスゴミ記者も世界情勢の刻々の変化を知ろうともしない奴らばかり。
 兵頭二十八氏のブログをご覧あれ。
http://sorceress.raindrop.jp/blog/2015/07/#a001503

 今後、石油は値下がりする、そのわけとは。
 アメリカはイランの経済制裁をやめる(核開発の容認)ことになったが、そのわけとは。
 イスラエルは崖っぷちになった。サウジも崖っぷち。そのわけとは。
 石油確保のありかたは1945年以前と以後では変わった、そのわけとは。

 などが解かれている。こうした世界情勢を知れば、日本が否応なく戦争がいつでもできる準備を怠るわけにいかず、米軍の後方支援を蔑ろにできない情勢がひしひしと迫ってくる。
 こうした国際情勢の日々を勉強もしない一般大衆に、マスゴミが世論調査と称して誘導しながら、何パーセントが安保法案に反対などと抜かして、喜んでいるレベルの低さに唖然とする。
 護憲派の大学教授らにも。

 鳥小屋の中で雄鶏同士が突き合っているような国会と、その周辺の馬鹿げた騒ぎにばかり目を向けていると、またもや大東亜戦争での読み違い同様のことをやらかしかねないというのに…。
 「強行採決」だの「暴挙」だのと、言葉遊びをやっている場合か。








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2015年07月18日

戦争と戦死を同一視する日本人(3/3)


《3》
 再び『海ゆかば山ゆかば』からの引用

     *    *    *

 戦争自体に「過ち」という添加物はない。
 もしあるとすれば、敗者がそれを自虐史観に結びつける一点のみである。
 何度も繰り返したが、戦争は日本民族以外の人間性の必然だからである。

 現行の文明が続く限り、パレスチナとイスラエルがすべてを帳消しにして“水に流す”などということは、未来永劫、金輪際、太陽が西から昇ろうともありえない。
 コリアが日本人を好くなどということも同様であり、シノアにいたっては一秒の間断なく、日本殲滅を画策している。いつか必ず、それも遠からず、実行に移されるだろう。
 
 (中略)
 現文明に平和の概念など、実は含まれていない。
 経済のみがすべてを支配する文明だからである。恒久平和の実現は、経済のメカニズムを破壊し、矛盾することになる。
 経済とは、それ自体、戦いのメカニズム以外の何ものでもない。

 経済文明による一見人間の進歩と見える綺麗事も、その隠れ蓑に過ぎない。たとえば医学の進歩が文明の恩恵に見えたとしても、それは医療費として経済に還元される。現文明の生み出したもので、金に関わりのないものなど、一つもない。
 教育の水準向上も、教育費にはねかえってくる。

 文明の進歩の象徴は、最後には金に結びつく。ということは、争いに直結している文明なのである。高度産業社会とは弱肉強食の論理以外の何ものも持たない競争社会のことであり、競争社会とは、読んで字のごとく争う社会なのだ。

 ということは、争いに勝つことが最優先される社会なのであり、その筆頭が軍事力である。これも金に換算される。あらゆる社会のシステムは、自国の軍事力を発想の基盤に持っている。
 持っていないのはいまの日本だけだが、明治の日本は持っていた。ただそのときの日本はあまりにも貧乏だったので、戦争に経済以外の添加物を加味せざるをえなかった。

 それが軍歌になって現れた。経済力と対角線上にある、正反対の力、即ち精神力である。

     *    *    *

 この文章のあとに、林さんは、軍歌には「必勝」に類する言葉が多く使われてはいるものの、それ以上に軍歌は死ぬことを美化する言葉が目につく、と言ってから、本稿最初に紹介した、「戦争を知らない日本人は、戦争と戦死を同一視していた」に続くのである。

 日本人にとって戦争とは、経済のメカニズムそのものであるとか、量の文明と量の文明のぶつかり合いだなどとする“世界基準”を持っていないのである。
 だから、今国会審議で、サヨクどもは集団的自衛権がどうの、憲法に照らしてどうのと、まったく無意味な、揚げ足取りかイチャモンしか付けられないでいる。

 ここまで林さんの論考を読んでいただければ明らかなように、そもそも「戦争反対か賛成か」という設問は、成り立たないことがお分かりいただけよう。集団的自衛権や個別的自衛権に賛成か反対かの設問もありえない。そんな問いを抱き、真面目に口角泡を飛ばして言いあうなんてことは日本だけの奇観である。

 「A国との戦争には反対だ」とか「B国とC国の戦争に介入するのは反対だ」とかは、成り立つ議論である。しかし戦争一般に「反対」は言う意味がない。そういう基本認識もない輩が、護憲を言い募るのだから、まったく幼稚すぎてやってられない。

 まっとうな戦争の概念を与野党が共有して、国民も意見の相違はあっても、わかったうえでならば、議論の成り立ちようもあるだろうに、まったく無い物ねだりだ。とどのつまりは「戦争って戦死することでしょ、いけないことでしょ。戦争の悲劇は繰り返しちゃいけないでしょ」と、それしか話題になっていない。

 さらに、7月14日石破茂地方創生担当相は間抜けにも、記者会見で、安全保障関連法案について「国民の理解が進んでいるかどうかは各社の世論調査の通りであり、まだ進んでいるとは言えない」「物事が極めて抽象的で、(国民が)リアルに考えにくい」と指摘したそうだ。

 石破はテメエが首相になり損ねたので、安倍総理を個人的に恨んでいるから、愚かにもマスゴミに向かって「俺は安倍より賢いぞ」と言って、実は足を引っ張る。大局も歴史もわからないアホだ。
 それに、戦後70年もアメリカの属国に成り下がって、安全保障についてな〜んにも実行してこなかった自民党が、やっと安倍晋三によってリーダーシップをとろうとしている。

 石破が国民の理解が進んでいないなどと、よくいうわ。今までテメエも何をやってきたんだよ。テメエも進んで日本の安全保障でリーダーシップをとればいいじゃないか。なんで他人事みたいな言い方になるんだ? アホか。

 そもそもで言えば、安倍首相の失敗は、公明党に歯止めされたかと思うが、フルスペックの集団的自衛権を提案しなかったことである。「限定的」集団的自衛権と言ってしまったものだから、野党やサヨクからつるし上げを食うというか、揚げ足取りばかりを招いたのだ。

 何が、どこまでが限定かなんてことを延々と言いあう仕儀となった。
 フルスペックです、国連憲章に合わせて、かつ同盟国と協調して集団的自衛権を運用します、と言えば、それで終わりだったものを。

 石破が言うような、国民的理解などは達成されまい。百万言を費やしても、大衆はバカはバカなので、戦争とは何かがわかっていない、分かろうともしないのだから。
 こんなものは、実際の戦闘が起きていない以上、抽象的に語る以外にあるか。もしもリアルに考えろと言うなら、想定される支那やコリアの侵攻を遡上にあげなければならなくなり、外交の場でそんな仮定の話をすれば、支那や南北朝鮮とただちに険悪な事態になる。

 それができないから、オブラートに包むようにしか審議できない。
 戦争とはどういうものかを国民がわかっていれば、(彼らの言う)リアルな像をわざわざ提示しなくてもわかるはずなのに、そういう教育を、戦後70年、サヨクマスゴミが自虐史観の名のもとに妨害してきたではないか。
 国民の理解、とりわけサヨク庶民の理解を待つとは、「百年河清を俟つ」である。

 本稿で書いたように、明治の時代に起こった日清日露の戦争にしても、国民の理解を得ようと待っていたら、わが国はどうなっていたか。大東亜戦争は逆に軍部の暴走があったとは言いながら、衆愚政治に頼るわけにいかない事態はあるのである。

 「戦争自体に『過ち』という添加物はない」
 「現文明に平和の概念など、実は含まれていない」
 この論理の理解がわれら日本人には求められるのであるが、自虐史観に洗脳されてきている軟弱、無責任な大衆(=護憲派)に説いてみても、理解できる脳は持ち合わせまい。




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2015年07月17日

戦争と戦死を同一視する日本人(2/3)


《2》
 昨日につづいて、林秀彦さんの名著『海ゆかば山ゆかば (日本人と軍歌)』を下敷きに語っていきたい。
 林秀彦さんはこうも説いている。島国だったし、江戸時代からの“鎖国”の流れで、日本人は外国を知らなかった。「外国のイメージがないと比較は生まれず、その対比としての国家意識も生まれず、愛国心も育たない」と説く。そのとおりだった。
 
     *    *    *

 はじめて大衆の中に育った世界地図の感覚は、その後戦火の拡大に伴って南へと視野を広げてゆく。とどのつまりは米英だった。日本人の目はやっと世界全体に行き渡り、自分たちの国家の位置を認識した。もし戦争という前提がなければ、日本がかくも速やかに国際化を果たすことはできなかったろう。

 それこそ福沢諭吉のランク付けで言う「半開」のまま、今日にいたっていたに違いない。明治以来の数度の戦争は、最も直截的な日本の国際化だった。自ら戦争に巻き込まれることこそ、それを本質とする白人文明への参加の必須条件だった。

 戦争遂行可能を実証することが、彼らの仲間入りができたという唯一のパスポートだった。軍歌はそのパスポートに押された啓蒙のスタンプだった。

   (中略)
 明治からの軍歌はその地図を一層鮮明にし、国家の意味と、その目的意識を共有するのに役立った。
 国家のアイデンティティとは、要するに世界観から生まれる自己認識で、視野の広い世界観を持つことである。このアイデンティティは、戦争の勝敗を超え、いまでも貴重なものである。

 そして私たちは、それを見事なまでに失っている。自虐史観に完全に冒されたからである。私たちは名ばかりの国家を持っているに過ぎない。
 一体自分たちを取り巻く世界とはなんなのか、誰ももう知らない。
 今日も絶えず続いている世界中の殺し合いに対しても、庶民は“われ関せず”と無関心を決め込んでいる。
 

     *    *    *

 林さんが言ったとおり、日本人の多く、とりわけ現在の安保法案にしゃにむに反対する護憲派どもは、自虐史観にしがみつくばかりで、「自分たちを取り巻く世界とはなんなのか」知ろうともしない。
 戦死は嫌だ、それしか言わない。

 政治家も官僚も大学教授も、毎年1カ月くらいは自衛隊に入ってさまざまな訓練を受けて来い、と。
 実態をなんにも知らずに、勝手なことばかり言っている。
 私が一般大衆にも徴兵制を、というのは、そういうことである。
 若者は国家を考えるため、安全保障を知るために半年か1年は軍隊に入れるべきである。

 辛い戦争を経験することで、日本人はやっと世界的視野を摑みかけた、その戦争の意義は冷静に捉え返さなければ、これから厳しい世界で生き抜くことができないのは明らかだ。それをさせまいと、支那、南北朝鮮、アメリカなどはずる賢く立ち回っている。
 世界的視野を持っていれば、自衛権を放棄する愚劣な憲法を押し頂いていられようはずがない。
 
 林秀彦さんは、ナチスドイツと連合軍の戦争は、「量と量の文明の戦争だった」と説く。それはアレキサンダー以来の、そしてチンギス・ハーンやナポレオンへと続くのが、彼らにとっての通常の戦争であり、歴史のくり返しに過ぎなかった、と。

 ところが日本が挑んだ戦争は、連合軍の(世界常識の)量の文明の勝負ではなく、質で挑んだ戦争だった、と林さんは解くのである。その質を具現化したものの一例が軍歌だった。

     *    *    *

 明治から大東亜戦争までの間にできた日本の軍歌は、私たちが量半分、質半分の戦争をせざるを得なかった悲痛な過程を具現している。軍歌の中の歌詞は、どれも、無意識であろうとも、相手のテリトリーを進むときの磁石・羅針盤の役を果たしている。

 量の差は認めざるをえない。だがそれを獲得するノウハウも技術もまだ伴っていない。限度がある。多分半分以下だろう。それは承知している。だが、対等・対立の姿勢を崩せば、野蛮国に逆戻りするしかない。彼らはその日が来るのを禿げ鷹のように待っている。残りの半分を何かで補充しなければならない。

 となれば、それは伝統としての自国の文明、二千年以上かけて育んだ文明、即ち質の文明の要素をもってするしかない。

     *    *    *

 日本は戦争に、自国の文明の要素を持ち込んだ。その一例が軍歌だったというわけだ。
 日本軍の規律の峻厳さもその一例で、だからなんぼ間違っても支那軍のような野盗・馬賊のような略奪、虐殺はできない軍隊であった。南京虐殺があったわけがない。

 なのに副島隆彦は卑劣にも、支那が言うから、あるいは世界基準でそうなっているんだから反論するな、日本軍は悪業非道をやりましたと言え、証拠もないのに南京虐殺はあったんだ、などと狂ったことを言う。

 副島の言うことは、白人の世界の土俵に従っていれば、日本人の質の文明や誇りや尊厳なんか忘れろという暴論になる。林さんが言う「要するに量の文明のシステムに、未開国や半開国(日本のこと)を巻き込んでおきさえすれば、個々の戦闘で大阪場所、名古屋場所の違いはあっても、所詮は同じ土俵上のゲームであり、行司衣装を纏っているのは常に彼ら白人」であって、その白人様の行司に黙って従えと、副島は言う。

 日本人は、欧米に比べて足りない量をなんとか質で補おうとしてきたのだ。軍歌のなかには、そのあまりに無謀な、矛盾に満ちた、だが「それ以外にない悲痛な思いが、その余裕のない切羽詰まった歌詞のなかに込められている」。
 「この歌詞を軍部による洗脳だとか、全体主義国家の策略だと受け取るとすれば、それは日本伝統の詩心というものに対する完全な音痴を意味する」

 そのとおり。護憲派サヨクどもは、この意味で完全な音痴、あるいは白痴というべきである。彼らのココロにあるのは、「戦争=戦死」しかないから。たかが殺し合いにしか見えない戦争にも、深い文明・文化の要素が考察できることを知らない。




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2015年07月16日

戦争と戦死を同一視する日本人(1/3)


《1》
 「戦争を知らない日本人は、戦争と戦死を同一視していた。」
 これは林秀彦さんの名著『海ゆかば山ゆかば (日本人と軍歌)』にあった言葉である。この言葉は見事に日本人の戦争観の核心を突いている。
 この戦争観は、現在の安保法制議論の中で、護憲派サヨクの宿痾につながっている。

 本ブログで徴兵制復活を提唱すると、こだまのごとく「殺す気か!」との反応が返ってくる。
 いくら、それとこれとは別だと説いても、まったく聞く耳を持たないご仁がいる。そういう人は非常に多いと思われる。
 私にはその反応が理解できないでいたが、また『海ゆかば山ゆかば』を読み直してみて、「日本人は戦争と戦死を同一視している」の言葉に改めて接して、謎が解けた気がする。
 つまり「戦争を知らない」から、そうした混同や誤解が起きる。

 日本の軍歌(戦時歌謡)は、勇ましいもの、闘魂を鼓舞するものはあるのだが、どこか戦意昂揚だけではない、悲しみ(哀しみ)、や厭戦気分を感じさせるものが多い。

 「ラバウル海軍航空隊」は古関裕而作曲の勇ましい軍歌だけれど、

 「沈めた敵艦 堕とした敵機も
  忘れて見つめる夜更けの星は
  われに語る戦友(とも)の御霊(みたま)
  勳は高し ラバウル航空隊」


 このように、戦死の想いが顔を出す。ほかにも「同期の桜」とか「空の勇士」「空の神兵」などもそうだ。
 多くの軍歌が「戦争=戦死」を滲ませており、つまりは日本人の思いがそこに通底していると感じ取れる。

 ところで話は違うが、私の友人で大学時代に海外に留学し、勤務でも欧米に赴任していたことがある男に聞くと、あちらではとても「海外ニュース」が多いそうだ。日本でも海外のニュースをやっているけれど、大半は国内の出来事ばかりだね、と語っていた。
 新聞でもテレビでも、ニュースではそんな感じ。
 
 BBCとかCNNなんかを見ると、たしかに海外の動静に非常に注視していることがわかる。
 新聞はまあざっと広告を除けば20ページくらいが中身だとすると、海外の政治動静に関しては1ページ。経済やスポーツを含めてもあわせて2ページ程度で、あとは国内のどうでもいいようなニュースばかり。

 どこぞで中学生がイジメで自殺したとか、キレた父親が自宅に放火して子供が何人死んだとか、山の奥から他殺死体が見つかったとか、朝顔市が始まったとか、沖縄で基地反対のデモがあったとか…ほとんどが国内のニュースばっかり。
 メディアも悪いけれど、大衆も海外の動静なんかに興味がない。

 それが日本人の特性らしい。日本では江戸のかわら版もそうだったし、明治になっての新聞も、やれどこの社長が芸者の誰それを引いたなんてニュースばっかりだった。夏目漱石が朝日の社員になって、小説を連載していたころの紙面は、そんな色街の噂なんかが埋め尽くされていた。

 これでは情報に対する考え方が根底から外国と違う。勝負にならないノー天気ぶり。
 このことは、外国のほうがニュースとは何か、何が大事かをわかっていると見える。とりわけ欧米は戦争に明け暮れてきたのだから、常に海外の動静は睨んでいなければならないと承知しているのだ。

 また、隙を見つけたら騙し、奪い、優位に立とうと虎視眈々狙っている。国家同士とはそういう関係だ。それゆえ、通信社すなわちスパイを、各地に派遣して情報を集める。危機感がなせる業である。

 情報を集めるだけではなく、ドイツであれば、デフォルトしたギリシアや危ういイタリア、スペインなどの様子を国民にも逐一マスコミを使って知らせて、印象操作をするし、政府への支持をとりつける意味もあろうし、団結を促す意味もあるだろう。

 そうやって欧米は常在戦場でやっている。日本は、当事者以外にはどうでもいいようなニュースばかりだ。その典型が、終戦記念日が近づくと、せっせとくり返される「悲しみを風化させるな」のキャンペーンで、新聞は紙面を埋め、テレビも特集を組む。
 それらは、現実の生き馬の目を抜く国際社会の動きとは無関係に、どういうわけか存在している。

 この感覚が国民共有であるかぎり、憲法改正は不可能である。サヨク・ニッキョーソが主導する「平和」「平和」と読誦(どくじゅ)さえしていたらいいんだという妄想に皆がなびく。そこへザイニチ反社会勢力が流れに棹さす。
 
 話を戻すと、「日本人は戦争を知らない」とは、かくのごとく海外情勢に関心が低いことからも明らかなのである。だから戦争はすなわち戦死にしか結びつかず、「悲劇をくり返すな」の悲鳴にしかならない。

 昨日は衆議院の安保法制審議において採決が行なわれ、可決した。「反対」を絶叫していた民主党の辻元清美が、インタビューを受けながら「私の祖父は戦争で亡くなったんですよ」と言って、わざとらしい涙を流してみせていた。これぞまことに、戦争は戦死と短絡するしか能力がないアホの見本だった。

 要するに、現在の安保法制審議で、護憲派サヨクが血相変えて「反対」を叫んでいるのは、戦争に反対しているというより「戦死」に反対していると考えたほうがしっくりくる。

 ふだん、テレビや新聞、雑誌のニュースで、国内のもめごとにしか関心がなく、そうなるように洗脳されてきている大衆にしてみれば、海外の動静は即、戦争を含んだ外交や諍いであることなど、自分の日常には関係がないとしか思えないのだ。

 害務省管轄の海外の大使館は、情報収集なんかやっちゃいない。現地の新聞の切り抜きをアルバイトの子に切らせているだけ。あとは日本から「視察」と称して観光にやってくる国会議員の接待で忙しくしているだけ。腐り切っている。体裁ばかりは世界に出ているが、ココロは内弁慶なまま。

 こんなテイタラクな害務省を抱えていて、国際情勢が的確に判断できようか。安倍内閣は集団的自衛権の発動の決断は、内閣が総合的に判断して決めると言っている。それはスジではあるが、その判断のもとになる情報が、無能な害務省役人どもにできるんだろうか? という心配こそ、国会で審議しなければいけないのに、違憲か合憲かなんて下らない茶番に時間を費やしている。





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2015年07月15日

ルンペン落剥の理由


 さる5月17日未明、川崎市川崎区の簡易宿泊所「吉田屋」から火災が発生し、死者10人を出す惨事になった。
 吉田屋は昭和35年の建築確認申請で「木造2階建て」としたが、火災時は事実上3階建てだった。

 それを聞いて思い出したことがある、
 小松左京が披露していた笑い噺である。

 「釜ヶ崎のドヤ街で火事があった時、簡易旅館の二階で寝ていた男が、窓からとびおりて逃げ出そうと、外の通りへ蒲団をほうりだし、間髪入れず投げ出した蒲団の上に飛び降りたところ、一瞬前に投げおろした蒲団がもうかっぱらわれていて、とびおりたおっさんはかたい舗道に腰骨をうって、ひどい目にあった」


 大いに笑わせてもらった。
 場所は大阪と川崎で違うけれど、ありそうな話だ。

 簡易宿泊所は、東京なら山谷、大阪なら釜ヶ崎(あいりん地区)、それに川崎市にもある。
 昔、用があって釜ヶ崎に行ったことがある。昼間から、酔ってうろうろしている男がいるかと思えば、側溝の上なんかに寝ているご仁がいたりして、よそから行った者にとっては独特の雰囲気には緊張を強いられた。

 それはそうと、ああいう人たちは、私の子供のころはルンペンと呼ばれた。ルンペンストーブなんて言葉もあった。最近はあまり聞かれない。これにも時代性があって、ルンペンと呼んだのは、まだマルクス主義が盛んだったからである。
 
 ルンペンの語源は、ドイツ語(Lumpen)で、布切れやボロ服を意味した。それをマルクスが、労働意欲を失った無産者や労働階級からさえも脱落した極貧層を、ルンペンプロリアートと書いた。
 そこから日本では、浮浪者のことをルンペンと呼ぶようになったのだそうだ。

 で、マルクス主義が凋落するにつれて、ルンペンといういわばマルクス主義用語も廃れたのではないかと思う。まあ差別語だと言われて、マスゴミが自粛して使われなくなったことが大きかろう。
 ホームレスはアメリカから入って来た言い方なのか。また、ひところは、レゲエと呼ばれた。自由な生き方をしていると…、褒め言葉に近いようなニュアンス。アホか。

 もとから(赤ん坊から)ルンペンであった者は多くはないだろうから、大人になってから脱落したのであろう。
 最近は、住宅街にもゴミ出しの朝にどこからともなく現れて、空き缶や古新聞などをかっぱらっていくようになっている。

 英語ではこういうその日暮らしを、Hand to mouth と称する。
 日本に居ることにこだわらずに、韓国や支那に帰るか、東南アジアにでも移住すれば、もうちょっとましな生活ができるのではないかと思うが、そうしないのは、認識だけでなく脳細胞までがルンペン化してしまったからであろう。一念発起して…などと認識を変える意欲もないのだろうが。

 ルンペンにまで落剥するにはそれなりの原因はもろもろ考えられはするが、私はそういう人はなんといっても親に恵まれなかったのだな、教師に恵まれなかったのだろうなと思う。ザイニチならば国家に恵まれなかったとなるだろう。
 人間は最初の像は母親が創るのである。母親が良い人でないと、子供は像の創り方を間違えたところからスタートさせ、あとの人生を狂わせるからだ。

 赤ん坊の認識は「三つ子の魂百まで」と言われているとおりに、その最初のあり方で人生の9割以上が決まる。
 それを創り直すのは不可能ではないが、非常に困難である。

 まして、今はテレビドラマなんかでも、シングルマザーが流行しているかのように、またそれが自由な生き方だなどと推奨しているごとくである。とんでもないことで、片親の子はどうしたって像がいびつになる。

 2005年、NHKの朝ドラ「風のハルカ」でヒロインの母親役を真矢みきが演じたが、この母親がある日突然、人生でやりたいことがあると言い放って、離婚し、子供を棄てて出ていってしまう。女房に逃げられる間抜けな亭主の役を渡辺いっけいが演じた。NHKはここでも日本人の男を侮蔑する意図をあらわにしていた。

 NHKは家庭崩壊より好き勝手に生きる女性を肯定的に扱った。ひどいドラマだった。
 ああいう破廉恥ドラマを作るのは、当然日本人に成り済ましたザイニチであったろう。

 両親が揃っていても、常に不仲で、母親が夫をバカにして、子供に悪口を吹き込んでいれば、これまた子供の像は歪んでいく。
 なのに、学校の教師は片親の子に何かフォローするかといえば、何もしないであろう。あいつらは、教育とは子供の自発的勉強意欲を支援するものだ、と恥知らずな屁理屈を抜かす。

 ホームレスどもは、まずは赤ん坊のときに親から歪んだ像を描くことを修得させられたのである。その像と像の創り方の歪みを修正し、やり直すチャンスを周囲がつぶし、悲しいことに本人もどうしていいかわからぬままに、路上生活やら、せいぜい簡易宿泊所の常連になって、清潔感もなくし、悔しいとか情けないとかの像ができない人間になる。

 彼らはついに、自分を人間的に統括するすべを学び損ね、その結果がルンペンなのである。
 なかには、会社をクビになり、家族からも離縁され、生活保護も受けられなくなった者もいるだろうが、それだって、もとは最初に自分を育ててくれた母親のせいなのである。
 もう取り返しはつかない。

 こうしてルンペンになるにはなるだけの理由があると解かずに、サヨクの連中は、言葉さえなくせば、実態が消えるとでも思うので、「ルンペンは差別語だ」とわめいて禁止しろの運動をやらかした。
 もとの意味が「ボロ切れ」だから、人間に対して使うのは穏当ではないなどと。

 この姿勢、この言葉狩り、これぞまさしくザイニチども言い分そのまま。「チョーセンジン」と言うな「支那人」と言うな、「北鮮」と言うななどを搦めて、あれも差別語、これも差別語と荒れまくった。めくらもダメ、チンバもダメ、片手落ちもダメと言い募った。
 言葉なんてものは、それをつかうときに差別や侮蔑の感情をこめれば、どんな言葉だって差別語に替わるものなのに。

 この「差別言葉さえなくせば、実態が消える」とは言霊信仰にも通底するだろうが、サヨク人権派とくいの、9条で「戦争をしない」という言葉さえ書いておけば、戦争という実態、現実は消える、という精神病者のごとき世迷い事を吐く連中の、常套手段である。

 ザイニチ日本人なりすましどもは、この手を使って日本人の間抜けサヨクを煽り、差別語を糾弾して世の中からなくす運動をやらかして、マスゴミや一般大衆を萎縮させる“戦争”を仕掛けたのである。
 それが見事にハマって、日本人はことごとく何事にも萎凋し、いざというときのために武力行使できるよう法整備をしておこうというだけのことさえ、血相変えて猛反対、戦争は怖い、戦争は死ぬ、戦争は悲しい思い出だけ残すと、ただそればかり。

 学校でイジメがあれば、誰も戦えと言えない。ひたすら話し合いましょう、のテイタラク。
 例えばルンペンと嘲られたくなければ、自分が努力して、現実と戦ってルンペンを脱すればいいだけのことなのに、自分は悪くなくて、差別語をつかう人は思いやりがないからいけない、などと甘ったれる。






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2015年07月14日

「地の塩」か「悪魔の砂」か


 「地の塩」とは、聖書に出てくるイエスの言葉である。
 神を信じるものは腐敗を防ぐ塩のように、世の中の模範となりなさい、と。それが今では敷衍されて、イエスの言葉の狭い意味を超えて「人間はかくあるべし」、として用いられるようになっている。

 井上由美子氏の脚本で、ドラマ『地の塩』(全4回)が2014年に発表された。
 考古学者の石器捏造をテーマにした力作であった。ふだんチャラチャラした役しかもらえていない大泉洋が、シリアスな主役を好演した。

 毎回のドラマのなかでくり返し「地の塩」についての以下のフレーズがくり返された。
 「地の塩、神は人をそう呼ばれた。それは闇の中でも信頼と真(まこと)を尊ぶ唯一無二の存在だから。だが、その心が失われたとき、美しい塩が悪魔の砂と化すであろう。」


 別に私はキリスト教徒ではないが、「地の塩」とは好きな言葉である。
 ドラマの最後に、松雪泰子演じる出版社の編集者がこう呟いて終わる。
 「でも、塩をめぐって人々は戦いをくり返しました。地の塩って、もっと深い意味があるんじゃないか…」

 そのとおり、言葉はいかようにも都合のよいように解釈されるからだ。人は誰でも自分は「地の塩」だと思っている。もしくはそれに向かって努力している、と。どんな強盗殺人犯だって、弁解はもっている。しかし、いうなればすべての価値は相対的であるから、これが絶対のありようだとは言えない。それで争いになる。
 自分こそ地の塩で、相手は悪魔の砂だと、罵り合う。

 その災厄を一番もたらしたのは、ほかならぬキリスト教であって、信仰する自分だけが正しくて、対峙する相手(異教徒)は「悪魔の砂」だと決めつけて殺戮・略奪を無慮何億回とくり返してきている。
 つまり「地の塩」とは、自分らの勝手な言い分を糊塗するための方便に使われてきたのだ。

 美しいバラには棘がある、というようなものだ。

 イエスは実在しなかったとは思うが、信徒たちに言わせると、最後の審判のために近いうちに再降臨するんだそうだ。しかし、もし天国でイエスが地上をこの2000年眺めていたら、自分が放った一言が、こんなにおぞましく、むごい結果をもたらしているのだから、恥ずかしくてもう一度地上に降りてこられないはずである。

 自分は敬虔なクリスチャンですなどと自惚れる奴は、よく平気でそういうことが言えるものだと思う。
 そうした根源的な人間どうしの争いをなくす妙法は、まだ発明も発見もされていない。
 しかし僅かながらの燭光と言うべきは、価値とは相対的なものだということを知ることである。それが長い長い歳月を経て獲得した人類の叡智ではなかろうか。

 端的にいえば、相手にも相手の言い分があり、条件次第で正しさは変わり得るとわかってくれば、むやみにケンカにならずに済むのである。

 ところが、どうしても人間はそれをふまえて他人と対峙することができない。一つには教育の場がそうだからではないか。○か×かで、幼いころからテストされ、徹底した二者択一をアタマに叩きこまれる。
 護憲派サヨクはその典型で、戦争か平和かでしかものを考えられない。

 換言すれば、○×でしか考えられないアタマは、「即自」であって、「対自」になり切れていない。自分だけが「地の塩」と固執している。

 安倍内閣の安保法制では、○か×かでは決められない、いわば△というかグレーゾーンに対応できるように、法律を制定しておくべきだとする、まあ第一歩である。
 なのに護憲派サヨクは、グレーゾーンなんかあるか、きっと×に持って行くに違いないと騒ぐのだ。デマである。

 南郷学派は、○か×か、世間で有名でないものは×だと決めつけるご仁がいる。哀れとしかいいようがない。こうした弁証法の初歩すらわかっていないのに、自分こそ弁証法を駆使できると豪語していたりして…。
 あるいは。

 憲法は唯一無二の聖典であって、絶対的価値、不可侵であると護憲派は言う。それが反日勢力にいいように使われているというのに。
 9条こそ「地の塩」だ、安保法制は「悪魔の砂」だというわけだ。
 
 「経済コラムマガジン」(7月6日)ではこう言っている。

     *    *    *
「立憲主義」という言葉は「死語」

 ろくでもない日本の憲法学者は議論のすり替えを行っている。ただ彼等の言うことがいつも非科学的で非論理的なため、これが分かりにくいだけである。ところが一般の人々は、憲法学者を「最高法令である憲法を研究する雲の上の存在」と勘違いしているため、彼等の言うことを疑うことなく受入れてきた(情けないことに自民党の中にも護憲派憲法学者を信奉している者がいる)。憲法学者は、これを良いことに威張り散らかしている。また護憲派・左翼は、彼等をおだてて利用している。

 典型的な議論のすり替えが「立憲主義」である。憲法学者はこれを憲法を逸脱すると政府(つまり安倍政権)の動きを牽制する言葉として使っている。だから「護憲論者は、今の安倍政権の暴走を止めるのが日本国憲法」だと胸を張り、むしろ「日本国民を守ることを邪魔し、中国軍の暴走を助長している」のが日本の護憲派といった妙なことになる。   (後略)

     *    *    *

 立憲主義だけが○で、それ以外は×だとする考え方である。「憲法学者は、これを良いことに威張り散らかしている」とあるように、彼ら研究者どもは、この○×式の大衆の思考に乗って、稼いでいる。
 こんな愚劣な人間どもを放置していれば、日本人が世界のトップランナーになる日はこない。

 それにしても、護憲派サヨクは、立憲主義だけが至上の規範だと勘違いして、それだけを拠り所に新安保法制に反対しているけれど、その無責任な態度にはいささかの反省がないのには驚く。
 では代案でもかまわぬから、国家の安全保障の計画を出してみてくれ。そして有事になったら誰が責任を取ってくれるのかも、ちゃんと示せ。

 少なくとも、ときの政府が責任をとって武力行使の決断をし、軍隊を指揮する以外に、どうやって防衛することができよう。
 野党は愚かにも、自衛隊でなくて警察で対応できるじゃないかなどと、イチャモンをつけてくる。

 日中戦争の口火になった第二次上海事変は、蒋介石軍が無法にも上海の合法的な日本人居住区を攻撃してきたのだ。背後にナチドイツやアメリカがいた。斉南事件や通州事件の、もっと大規模な惨劇になるところだった。

 警察力では防ぎ切れず、やむなく日本軍が救援に行って、蒋介石軍の暴行略奪を防いだのである。
 こういう歴史をまったく勉強しないで、他国の軍が攻めてきたって警察が防げばいいじゃないか、とは、恐ろしい無知である。






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2015年07月13日

南北朝鮮はカタキである


 軍学者・兵頭二十八氏のブログ「兵頭二十八の放送形式」7月4日付には『まず仇[カタキ]をとれよ』と題して、北朝鮮とろくな交渉もできない日本政府と官僚を批判している。

     *    *    *

 さいしょからこうなるとわかっていながら小芝居を続けて行く理由は、いったいどんなヤバイ「密約」のせいなのか?
 2002年9月17日に金二代目が小泉純一郎に「横田めぐみは死亡している」と通告した時点から、日本国政府の課題は、「救出」以上に「いかにして拉致犯罪に報復し、死亡した人も含め被害者とその係累の怨念を晴らし、国家としてキッチリとオトシマエをつけさせるか」であるのに、この課題は無いかのように誘導する政府(自民も民主も)。それにマンマと乗せられている馬鹿保守メディアの数々……。トホホ、です。
 かねがねわたしは日本政府の外交力はヤクザに劣るのではないかと疑ってきた。ヤクザならそのようなとき、「会談」の前に、ひとつ、することがあるでしょ? 

     *    *    *

 昨年、北鮮が今度こそちゃんと拉致の実態を調査して報告します、と“約束”したとかで、安倍内閣は嬉々として制裁の解除を始めた。
 兵頭氏が言う「最初からこうなるとわかっていながらの小芝居」と評しているのはこのときのことで、サヨク護憲派のごとき北朝鮮べったりで拉致に関してはだんまりを決め込む卑劣漢はともかくとして、多くの日本人は、朝鮮人がちゃんと約束を守って拉致した日本人を返すとは信じていなかっただろう。

 きっと北鮮が約束を破るとわかっていた。なのに、安倍内閣は待ってましたとばかりに制裁解除に踏み切り、挙句またしても騙されて恥をかいている。…というか兵頭氏がいうように、「ヤバイ密約」があったとしか考えられない。
 日本の外交力はヤクザにも劣る、とはまさにしかり。周辺諸国から嘲られているだろうに。

 保守系の評論家どもは、先のサミットを見て、安倍外交が世界を動かす時代になったなどと、舞い上がっているようだが、拉致被害者さえ取り戻せないで、何が外交力だ?
 菌正日は北鮮が拉致したことを公式に自白し、謝罪しているのに、政府も国会も、非難決議一つするわけでもなく、報復するわけでもない。何やってんの?じゃないか。

     *    *    *

 「横田めぐみ法」をつくって、北鮮のまごうかたなき手先機関たる総連と関係した人物の入国(再入国も)を認めない。そうして総連を撲滅してしまう。最低線、そのくらいの、誰の目にも見える「復仇」をやってからでないと、なにより被害者たちが浮かばれないでしょ。外交チャンネルの「会談」とか「交渉」とかは、そのあとの話でしょ?

 反社会勢力をヨイショするわけじゃないが、彼らは報復の「エスカレーション」を開始するときに、その数段階先の手立てまで瞬時に脳内で構想して、肚を括って出ます。この「拡大エスカレーション予測」の訓練が、日本の政治家と外交官には、できてない。それで、さいしょのアクションすらためらってしまい、ケジメをつけずにうやむやに終わってくれることを願う。筋はちっとも通らない。ますます反近代志向の特亜三国は日本を侮る。日本人民は将来も危険に晒される。ホント、頼りにできませんわ。

 儒教圏人を屈服させるためには真実の宣伝によって相手の面子を真正面から潰していくことです。容赦なく第一手から最終手まで、近代自由主義世界の正論によって面子を潰し続ける。これが大原則。むろん、敵は対抗する。それにもどんどんエスカレートで応酬する。総合的な立場は最初からこっちが圧倒的なので、敵は手遅れにならぬうちに屈服します。北鮮が屈服しないのは、日本外務省にはヤクザが自得している程度の知恵すらも欠けているからです。

     *    *    *

 兵頭氏の言うとおり!
 なのに、政府と国会、官僚のざまはなんだ? 今の安保法制が合憲か違憲かとか、自衛隊が死ぬことがあってはいけないとか、いずれアメリカの戦争に引っ張り出されるにちがいないとかのデマをああだこうだと言いあっている。

 北朝鮮による拉致がいっかな解決しない最大の障害は、憲法9条があって、国の交戦権は禁じられているなどと、愚劣の極みの縛りがあるからだ。そのせいで横田めぐみさんは帰ってこられない。
 護憲派連中の背後にも中にもザイニチがうようよいると述べてきているとおりであって、それに騙される日本人のアタマの悪さには辟易する。

 サヨク護憲派こそが、横田めぐみさんら何百人もの拉致された同胞の奪還を妨害している。奴らは、長年、拉致なんかないと言いはってきた卑劣漢であった。だから今も拉致問題の解決を妨害してくる。9条を守れとは、即、北朝鮮に拉致した日本人を帰させるなと言う意味である。

 自衛隊を国軍に復帰させ、徴兵制を敷き、憲法を破棄して戦争ができる国に戻れば、北はすぐにも拉致した日本人を返してくるだろう。

 兵頭氏が「最初のアクションすらためらってしまい、ケジメをつけずにうやむやに終わってくれることを願う。筋はちっとも通らない」と書いている。これこそが主体性の喪失、マザコンの露呈でなくて何だろう。
 口先では、日本の拉致被害者を取り戻すなんて言いながら、「言うだけ」。それなら北もザイニチも、痛くも痒くもない。

 9条があって、「憲法研究者」にすぎないアホの極みが偉そうに出しゃばるおかげで、日本が戦争に討って出られないことを見越して、北朝鮮やザイニチが拉致問題解決を悠々と妨害しているという、このスジを通した見方ができない連中は、国賊である。

 先日も奈良の香芝市で、小学6年生の女児が拉致される事件が起きた。比較的すぐに解決したから良かったけれど、護憲派どもはあれがなぜ解決できたか考えられるだろうか。それは国家に警察という暴力装置があるからである。

 国家の暴力装置がなかったら、拉致された女児は帰ってこなかった。これが北鮮による拉致である。
 ついでながら、拉致被害家族を救う会は決して「9条があるから家族を奪還できないでいる」とは発言しない。西岡力のような国際基督教大学の怪しげな人間が入り込んでいるせいではないか。

 香芝市の事件では、いわば腕ずくででも犯人を逮捕・拘束できる実力と権力を持っているから、犯人もおとなしく捕まったのだ。抵抗されて警官の生命が危うい時は射殺しても許される。
 つまり社会を統括している権力には暴力は必要なのである。これは国家論の重要な柱ではないか。

 警察を暴力装置と言うことを嫌う向きがあるが、これは学問的定義の話である。軍隊も国家の暴力装置である。
 国家に警察という暴力装置がなければ、犯罪は野放しになる。ザイニチ窃盗団なんかが跋扈しているのに、阻止できなくなる。

 9条を守れなどというザイニチ一味は、つまりは、日本社会に警察はいらない、と言っているのも同然なのである。
 警察は合法だが、軍隊(自衛隊)は違法だから違うなどと、下らないことは言わぬことだ。これは論理の話である。
 論理的に思考すれば、集団的自衛権は違憲だ、自衛隊が違憲だなどと寝とぼけたことを言えようはずがない。

 ザイニチ一味は、例えば放送局や出版社が「北朝鮮」と呼んで、「朝鮮民主主義人民共和国」と言わなかったとすると、ただちに集団で放送局や出版社に押し掛け、業務を妨害し、最低でも当該担当者を左遷させるまでやめなかった。
 これは威力業務妨害であり暴力である。しかし国家も警察も守ってくれなかった、法律がなかったからだ。

 そのあおりを食らって、多くの優秀なディレクターや編集者が窓際に追いやられ、クビにされた。家族も経済的に追いつめられ、持ち家を手放したり、子供が大学に行けなくなったりした。
 メディアも後難を恐れて口を閉じてきた。
 代わりに在日韓国人がメディアに「在日枠」を獲得して、入り込んだから、日本のメディアはメチャクチャにされた。
 うまく立ち回った奴が出世し、ザイニチにへつらって信念を曲げた。

 それを強いてきたのが、サヨク、ザイニチ、護憲派である。大江健三郎や瀬戸内寂聴はその仲間である。
 彼らはなんだかんだと能書きを垂れて、9条を守れと言い募ってきた。屁理屈はなんでもつけた。特亜を刺激してはいけないとか。今は、きっとアメリカが日本の若者を戦争に引きずり込むとデマを叫ぶ。

 日下公人氏が鋭く、「サヨクは必ず相手の糧道を断とうとする」と指摘していた。それが彼らの常道である。
 サヨク護憲派どもは、規制する法律ができると、暴れ回ることが難しくなるから、必死こいて9条を守れ、戦争する国にするなとわめく。かつては(今も)言葉狩りをやって罪もない人たちから職業を奪い、子供の未来を奪った。

 自分はサヨクじゃないけれど、今はともかく9条だけは守らなくては、などとトチ狂っているご仁は、かつて言葉狩りをやって、人様の糧道を断つことをやったサヨクと同類になる。
 きっと9条を守るためなら、それに反対する人間にはなにをしてもいい、と言い出すだろう。
 恥を知れ。






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2015年07月11日

同性婚を認めるな(3/3)


《3》
 では、夢がいかに性の異常を引き起こすかを考えてみよう。
 夢の原基形態はすでに説かれているように3つある。人間が起きている間に外界が反映した像、生理現象(痛いとか、排尿したいとか)が反映した像、さらにそれら記憶した像。
 これが夢のもとになる像である。

 外界の反映像は五感器官が受け取ったものであり、視覚や聴覚などのありよう、性能、異常などによって像の出来上がり方はちがってくる。ソムリエなんかは嗅覚が研ぎすまされすぎた例であり、盲人は逆に視覚の像を欠いた反映像になる。

 もしこの時点で子供が、とりわけ思春期で五感器官が爆発的に成長していて、像の反映と形成がすさまじい時期にあたっていれば像は大きく五感器官のレベルで歪まされる可能性がある。
 それが仮に男の子だとして、嗅覚を例にとれば、母親の匂いがふと、強烈に嫌なものとして反映することがあり得る。例えば母親が厚化粧していて嫌な化粧品の匂いがしたとか、腋臭を感じたとか。
 
 そのときに同時に、母親に叱られたとか、嫌味を言われたとか、となると、「クソババア、死ね」というような強烈な像が形成される。たった一度ならまだしも、思春期だと親との衝突はしょっちゅう起きる。くり返される。子供はますます母親を憎悪していく。女の匂いを嗅ぐたびに、反吐が出る、ともなる。

 したがって親はとりわけ子供の前では気を緩めて、だらしない言動をしてはならないのである。刻一刻と、子供に試されている。

 それが起きている間の五感器官を通しての反映像である。
 これが夢のもとになるとは、さきほど言ったとおり。内界の像はひとまず置くとして、記憶像が睡眠中は抑制がきかないから、脳細胞を占めるようになる。いわば好き勝手に像を浮かべる。

 寝る前に嫌な思いで寝ると、その嫌な像が暴れ出す。母親に叱られたとかの思いが睡眠中に像としての動きになる。しかも赤ん坊の夜泣きもそうだが、思春期は脳細胞が強烈に成長するときは、脳は眠りながらも成長するので、像はより強烈に創られ、勝手な増殖を起こすのである。

 赤ん坊は夢が未経験のことだし、統括が効かないから怖さが強烈になって、夜中でも大声で泣きわめく。思春期では夜泣きはないが、像が勝手に暴れ回ることにもなる。
 そのために、朝起きると寝る前よりもさらに母親が疎ましく、憎悪の感情に増幅されている。

 母親が嫌い、女も嫌い、見るのも嫌、不潔! とこういった認識が膨らむ。だから学校に行って、初恋の同級生と逢っても、ガラリと感情が変わっていて、昨日とは違う自分になっていて、あんなに恋こがれていた彼女がゾッとするほど嫌いになり、同性ならそんな嫌な思いをしなくていいんだし…となっていきかねない。
 それも思春期ゆえに、同性を恋する思いが強烈に強くなっていくことにもなる。

 では話を戻して、内界の夢の問題を考えよう。
 睡眠は、人間の場合は起きている時にフル稼働している五感器官を休ませるための時間である。
 内界とは呼吸するとか血液が流れるとか、食べ物を消化するとかの生理現象のことで、これが睡眠中はふつうなら五感器官が休んでいるので内界の統括が専念できるようになっている。

 起きているときの労働によって生じた歪みを修復し、生物体に戻すことが睡眠の役割である。
 ところが睡眠が十分とれないと、生理構造の歪みがとれない。
 睡眠が十分とれないとは、そもそも時間が短いとか、質が悪いとか、熟睡が妨害されるとかが考えられる。
 昼間の労働が座りっぱなしだったとか、体の片側ばかり酷使する運動だったとかでもその疲労を修復する睡眠が十全に働かなくなる。

 風呂に入ればその疲れのアンバランスが回復できる時間になるが、戦場とか捕虜収容所とか会社へ泊まり込むとかで風呂にも入れないと、いよいよ夢は歪むし、体も修復できなくなる。
 その結果、内界すなわち生理構造が歪む。修復が完全にできないまま翌朝を迎える。
 神経自体も休むことがないから、歪んでいく。神経の元締めの脳も休めなくて歪む。これがひどくなると精神病だ。

 睡眠中に外界が、音がうるさいとか、明る過ぎるとかで安眠妨害される。あるいは内界で排便排尿に行きたいとか、空腹だとか、歯が痛むとか、蚊に刺されるとか、そういったことが熟睡を妨げる。
 さらには食事が悪いと、内界に病気が発生する。その病気が睡眠中の夢まで歪ませていくのだ。

 わけても近頃は家族で団欒しながら食事をとることがなくなり、父は残業、母もパート、子供は塾通い、ひどいのになると毎日コンビニ弁当で済ませてしまう。成長に必要な栄養が十分摂れないまま。しかも勉強のし過ぎやゲームに夢中のあまり運動不足。

 風呂にゆっくりつかることなく面倒だからとシャワーで済ませたり。
 これでは体が全部発育不全になっている子が多くなる。
 それが夢を生理的に歪めるのである。

 加えて先にいったように、寝る前に悲しいことがあった、親とケンカした、ストーカーにつきまとわれて怖い思いをした、借金が返せなくて窮している、などのココロの強いトラブルを抱えていると、これがまた熟睡を妨げ、夢が歪む。実体も神経も歪んでいく。

 寝具が重過ぎるとか、寝具が薄くて寒いとか、マクラが合わないとか、これらも内界の状態を歪ませる。
 生理機能を異常化されるのである。怖い夢は、こうしたことが原因になる。

 睡眠中の内界の像がさまざまな要因で歪んで形成されると、起きているとき形成された外界の像、思春期で親を嫌った男の子でいうなら、母親と大げんかし、憎悪した外界の反映像が強烈に歪まされることになる。
 夢は統括がきかない。だから記憶された像が暴走したり、歪んだりすることを制御できない。

 これまで述べてきたように、感情の歪み、暴走、憎しみの連鎖などは、起きているときに考えたり感じたりすることだけが原因ではない、夢もその一因となり得ると、ご理解いただけただろうか?

 現実の反映である像が、内界の像や記憶の像と、睡眠中に統括がきかないなかで、暴走してしまう。それによって、起きている時の感情や考えすら夢と相互浸透をうけて、とりわけ思春期には恐ろしいことに、男なのに女になりたいとか、女は穢らわしいとかの思いが、性同一性障害や同性愛などの「病気」にまで発展していくのである。

 再三述べているとおり、同性婚がしたいなどの性の異常は、病気である。絶対に自然なことではない。
 病気とは、を「学城」12号の瀬江千史先生の論文(医学概論講義)から引用させていただく。

 「病気とは人間の正常な生理構造が外界(の変化性)との相互浸透の過程において、徐々にあるいは急激に量質転化して歪んだ状態になったものである」


 この一般論が、同性愛やら性同一性障害などの病気にも当てはまるのは当たり前で、
「すなわち人間が病気になるにはなるだけの過程があり、その過程とは、外界の変化性との相互浸透の過程以外の何物でもないのであるが、それは人間が生きていること自体が、外界の変化性との相互浸透の過程そのものであるから」

と説かれているとおりなのである。

 同性婚を支援しようとするボランティアは、人権がどうたら言う前に、まずは同性愛やら性同一性障害などの機序を学的に学ばねばならない。認識学、医学、看護学などの修得は必須である。それをやらずして、勝手な“善意”に酔い痴れるべきではない。

 この問題は、例えば旅人が歩いていて、左右に分かれたY字路にさしかかり、右へ行けば正常だったのに、ダメになるとわかっていながら、あるいはそうと知らずに、左の道を選んでしまう。そして次の岐路でもダメな左を選び、その次も…と左を選んでしまうよう量質転化を起こしてゆき、右の正常な道へ行けなくなり、隘路にはまり込んでしまった…。

 そういう事例なのである。だから生まれつきではないと説いている。治すには最初に間違ったY字交差点に戻って、右へ歩み直すしかないが、それは自分で間違うほうへ決断するよう量質転化してしまった以上は、ほとんど不可能なのである。

 もう一つ付け加えれば、ココロの病から立ち直る手段はないではない。それは大志、誇り、情熱である。自分の異常さを人様に認めてもらおうとするのではなく、大志、誇り、情熱を必死に自力で培うことだ。それを培う時期は思春期なのであるから、肝心のその時期に志や誇りや情熱を燃え上がらせる代わりに、同性を好きになるほうへ情熱を傾けてしまえば、根っきり葉っきりそれっきり。
 これはボケやアル中でも言えることである。精神力、これしかない。

 決して、「風穴を開けて」などと甘ったれたことを言うのではない。同病相哀れむでココロの傷を舐め合うことでもない。己の間違いを認めて、自らを変革しなさい。




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2015年07月10日

同性婚を認めるな(2/3)


《2》
 人間は人間らしい付き合い方をしなければならない。同性婚を願う者どもは、愛情に性差はないなどと抜かすが、それは個対個でしか考えていなくて、社会関係がない。これがセクシュアル・マイノリティ問題の核心であるが、わかる人は少ないだろう。

 人間は集団即種として誕生した。集団なしには生きられず、集団には規範がなければこれまた生きられない。だから赤ん坊のときから、親が子供を社会関係におくべく教育を行う。他人のことを考えられる人間に育てる。そう育てば、アタマはおかしくはならない。

 社会関係をしっかり保ちつつ個としての自分を生かすことである。性的関係もその枠から外れない。それがしっかりと教育されなかった人間、自分勝手に個性が大事とやってしまった人間が、ココロを育て損ない、同性を好きになり、もしくは自分の性を嫌悪したりする過ちを犯すのだ。

 同性愛も性同一性障害もココロの病である。生まれながらに、生殖器は男だがココロは女だとか、その逆も、あり得ない。主に思春期に認識が歪み、同性を恋するようになるだけのことで、生まれながらなんてバカな話はいっさいない。

 ただしココロの病とは言ったけれど、本当はココロもカラダの機能なのだから、カラダの病と言っても良く、そこには何重の構造が存在している。

 自分でおかしくなっておきながら、「生まれつき」だの「遺伝」だのなどとよくもそういうウソを抜かす。それを認める医者も無恥。
 性同一性障害は遺伝子に異常が見られるから先天的だと抜かすようだが、ならば赤ん坊で比較してみろ。男は男、女は女の遺伝子になっている。それが育ち方の歪み、異常によって、「おかしい」と言われるようになった頃の遺伝子は狂わされているのだ。
 機能が実体を作る例である。

 以下に少し、なぜ同性愛になるかの構造を説くが、そういう学的論理を無視して、差別だ、言葉の暴力だと誹ることは無礼である。

 さまざまなケースはあろうが、代表的な事例でいえば、例えば女の子が、父親の浮気を見たとか、犯されそうになったとかが起きて、ために極端に嫌悪するような事態が生じる。
 あるいは、父や兄がことさらに少女の目の前にエレクトしたペニスを見せつけたために、少女がショックを受けたとか。
 父が母を家庭内暴力でいつも痛め付けているとか。
 少女が突然の初潮で驚いているさなか、男子たちに嘲笑われ、ショックを受けたとか。このケースは男を憎悪するか、逆に女である自分を否定しようとするか…。

 男はみんなケダモノだ、汚れていると思い込んでしまい、第二次性徴期にその関心が同性に向いていく。それが同性愛の発症の仕組みである。
 しかしショックを受けた当人も、たいていは黙っているし、親なんかも触れないようにするから、医者らは真相が見てとれない。

 当人にも責任はあるが、一番は親だ。親はそういう後ろめたさがあるものだから、子供が異性ではなく同性が好きだとなったときには、理解者のように振る舞うか、逆に責任回避で激怒してみせるか、であろう。正常な育て方がなされていれば、そしてちゃんとした食事や睡眠をとっていれば、決して同性愛にはなりはしない。詳しくは明日述べる。

 まずもって、サヨク人権派は認識とはがわかっていない。
 そこを簡単に説けば、認識とは原基形態においては最初に誕生する認識は対象の頭脳における反映である。対象が頭脳に反映した像が認識である。ただしこれは原基形態であって、そのあとは対象は外界ではなくなっていき、内界の反映が出てくる。
 その内界の反映がくせもので、これが大きく性同一性障害や同性愛の成立にかかわってくる。それは夢であるが、これに関しては明日のブログで説いてみたい。
 
 ここに女の子がいたとして、最初に父親の不倫を見たとか、自分が父親や兄から性的いたずらをされたとすれば、それは最初は外界の反映であったが、その像は内界でいわば反芻されて、憎悪、嫌悪がくり返し頭脳に反映されていく。
 韓国人が反日に狂うのは、この内界の憎悪を政府もマスゴミも反芻させるからだ。

 それが思春期の、男の子は男になり、女の子が女になりにいく時期と重なれば、その認識は爆発的に大きくなる。
 「思春期の認識・実体の論理構造」を勉強しないでおいて、セクシャル・マイノリティを認めろとは何たる怠惰。

 その上、頭脳活動のそうした内界での創像が、きちんとした食事や睡眠をとらないことによる脳の正常な成長が生じれば、いよいよ像は歪んでいく。
 父親がだらしない、とすれば、だいたいそういう家庭は生活が歪んでいるものだ。だから生活面でもますます認識が歪む悪い条件が後押しする。

 一括りにはできにくいが、同性愛になっている人は、生活が乱れている例が多い。かつてエイズが大流行したとされた時期、エイズになるのは同性愛者だと言われた。そのわけは、同性愛になる連中はおおむね、生活がデタラメだから、食事もデタラメ、だから感染症が防げなかったのだ。

 セクシュアル・マイノリティになりかけの、中学生や高校生くらいならば、東洋医学系の治療によってカラダ全体の歪みをただすことで、転落を阻止できるかもしれないが、大人になってからでは手遅れであろう。

 おおむね、同性愛になる子供は、親に見捨てられたも同然の子がなる。さびしくて誰かに愛してほしいが、異性はけがらわしいと思うから近づけない。だから同性を求める。もしくは自分の性を憎悪する。
 普通の子は正常に成長していけば、認識を外に出したがるのに、寂しい思いをさせられて育った子は、内に閉じこもるようになる。

 林秀彦さんの『海ゆかば山ゆかば』(現在は「日本の軍歌は藝術作品である」)にこんな一節があった。
 「里の秋」という童謡で、終戦直後にラジオで流された。その3番の歌詞はこうだった。
 「さよならさよなら椰子の島 お船に揺られて帰られる ああ父さんよご無事でと 今夜も母さんと祈ります」

 林さんはここで「いまの子供で『帰られる』という敬語を使える子供が何人いるのか? 何人もいないとすれば、それは母親の責任である」と語る。
 本稿のテーマに合わせていえば、母親が父親を尊敬の念をもち、それを子供に教えない。日常でも敬語はつかわない。
 だから、子供は異性に憧れを持たなくなるし、カッコいい同性の大人を見て自分も…とはならない。

 どの家庭でも、親にたとえ会社からの帰りでも「帰られる」という敬語をつかっているのなら、子供の認識は歪まないはずなのであり、異常な性の意識に染まることもないであろう。

 その意味では、性異常者はたしかにかわいそうな生い立ちがあったのだ。
 親として欠陥がある者が子供をつくってはいけない。被害は全部子や孫に行ってしまう。
 そうした視点をもったうえで、セクシャル・マイノリティをいじめたり差別したりしてはいけないのである。私はただ、うまれつきではない、ちゃんと成育過程で歪みが起きたのだと真実を明らかにすべきだと言っている。

 親に苛められた子は、内に閉じこもるようになり、やがて自分の世界だけが正しいと思うし、そこを秘密の花園にしようとする。絵を描いたり、音楽家になったり、華道家になったりする例は多い。むろん藝術家全部が、ではないが。
 三島由紀夫と親しかった美輪明宏は、見事に男色のようだが、ほらごらん、スピリチュアルな世界なんて、あるわけない世界を妄想してそこに閉じこもっているじゃないか。

 三島由紀夫はゲイで有名だった。だから彼の小説は面白くない。百年後には残っていないだろう。同様に、古今の和歌の世界でも男色があったろうが、良い作品はあるまい。男女の恋を歌ったものが名作になった。
 男が女を好きになる、恋をするとは、尊敬から始まる。仰ぎ見るところから始まる。現今の、逢ってすぐホテルへ急行するような陋劣なる恋は論外である。

 三島由紀夫の小説の題を借りれば「永すぎた春」のほうが認識は豊かになり、成熟が図れる。逢って数時間後に肉体関係が結ばれると、男女お互いに尊敬が生まれないし、認識はズンだれる。

 林秀彦さんは『失われた日本語、失われた日本』でこう書いている。
     *    *    *

 恋は、お互いの敬語から始まるものです。それは決して女性だけが男性に対して強制されるようなものではありません。男性にとっても、敬語をもって接することができないような女性は、恋の対象にならないのです。

 男女相互の敬意は、恋だけではなく。良い夫婦関係にとっても不可欠なものです。日本人はどのような人間関係のなかにも、相手への敬意をにじませるという民族的な習性を持っていたのです。それは遠慮や、忖度や、気遣いや、いたわりや、寛容といった形で外に現われ、言葉がその細かなニュアンスを表現させる機能を持っていました。 
 敬語は人を大切にするためのもっとも的確で、かつ美しい表現です。

     *    *    *

 相手を尊敬すれば、微妙な言葉遣いが意識される。
 「これ食うか?」とか「ほら、食べな」とかはどこにも相手への気遣いはないが、「召し上がりますか?」「召し上がれ」という言葉を選べば、相手をまずは尊敬する認識が生まれる。馴れ馴れしくはしない。

 しかし同性のカップルの場合、この毎日の記事にもあったが、同性愛どうしが「意気投合して」いっしょに暮らすようになっている。つまり尊敬から恋がはじまらない、「同病相哀れむ」から始まってしまう。そこには気高さを求めるような微妙な心遣い、微妙な言葉遣いが不要であろう。

 同性愛だってお互いを尊敬しているぞと反論されるだろうが、そこは違うのだ。同性への尊敬はあり得るだろうが、それは社会人レベルの認識であって、男女の仲にあるような燃え上がる認識も、甘酸っぱい認識もないし、哺乳類のDNAに支えられた性を含んだ尊敬の気持ちではない。

 しかも、性同一性障害だという引け目はどうしても持たされる。
 いくらこれは遺伝なんだとか、体と心の性別が異なっているだけだと思い込もうとしても、世間は許してくれない。辛い現実を前に、できるだけこの「不条理」な世界は見たくないとする認識が働く。何度か述べたが喫煙者が世間の非難する目を、見ないことにしてタバコを吸ううちに、反映を鈍くし、人の気持ちがわからない人間になっていく論理構造と同じだ。

 彼らはそういうコンプレックスを抱えたまま大人になる。世間の冷たい目を無視しようと努めているから、感性はいやが上にも鈍くなっていく。
 そのコンプレックスを抱いた者どうしが惹かれ合うのだから、正常な男女の恋とは始めから異なるのだ。

 こんなことをいくら言っても、同性愛者はそもそも感情的に異性を好きになるということを拒絶し、理解し得ないのだから、とうてい分かるまい。「わかってくれないほうが悪い」「差別だ」としか思わないだろうね。

 結局、同性愛は認識が深まらない。深まらなくてもいいという向きには別に構わないが、人間と生まれて認識が薄く育つのは悲しいことである。認識が大雑把になる。
 異性であれば、相手を一段高く見て憧れるとか、緊張感のなかで付き合いが始まる。構えた話し方でなければ、相手に軽蔑されたら大変だと思って考えぬくから、認識が深まる。

 しかし同性で愛し合うなら、意気投合しさえすればよく、心の傷をなめあうことで満足する。構えた会話はいらない。気が置けない仲間だと思えば、孤独が癒される。大満足できる。異性の場合は、気が置けない関係になるには時間がかかる。その時間が大事なのだ。

 認識が薄いと、他人の気持ちがわからない人間になりがちだ。自分の権利ばかり主張する人間になる。およそ看護婦には向かない人間になる。スジが通らない話を平気でわかったつもりになる。
 ほらだから、9条は絶対守らなきゃとか、ジェンダーフリーが理想だとかスジの通らないことを言う人間と仲間になれる。






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2015年07月09日

同性婚を認めるな(1/3)


《1》
 毎日新聞は7月2日付と7月4日付の2回も、
 「日本で同性婚が認められていないのは、人権侵害」として、全国の同性愛者ら451人(2日現在)は7日、日本弁護士連合会(日弁連)に人権救済を申し立て、国へ法制化を勧告するよう求める。」とする記事を大きく載せた。

 2日の記事では、男同士のカップルが実名で登場。4日には女同士のカップルが同じく実名で登場させた。

 男性どうしの場合は、2人で買った住宅に同居している。
 家の名義人である一人が亡くなった場合、家はもう1人の男に自動的には相続されない。「養子縁組や公正証書の作成で『相続』はできるが、2人が望むのは対等な関係。相続実現のために費用をかけることにも違和感を覚える。『選んだ人生の伴侶が同性というだけで、すごく不平等』。
 なにが違和感だ、アホか。

 次に女のカップルは、共に性的少数者の女性を支援するNPO法人の理事を務め、日弁連への訴えを「社会を変える大事な動き」と賛同した。

 同性婚では、相続を指示した遺言書や、事故や病気で手術の同意などが必要な際に配偶者と同様に扱われることはない。配偶者控除や健康保険の被扶養者としての保険給付もない。「異性なら婚姻届で解消できる問題」に日常的にぶつかる。

 で、彼女らは結婚という「お墨付き」が得られたら、社会の理解も進むと期待している。」
 「私たちも表に出ることで、風穴を開けられたら」

 要するに、同性婚が社会的に認められるよう「法制化」しろと、勝手な言い分を語っている。それを毎日新聞は当然のように、後押ししていい気になっている。
 冗談じゃない、社会を変えてもらっては困るし「風穴」も開けてはいけない。

 なぜ、同性の結婚が法律で認められていないか、この連中はいささかも考えずに、自分たちが不利益をこうむっているから人権侵害だと言うのだ。
 一言目には「権利」二言目にも「権利」…と言い募る連中で、ふだんザイニチが「権利」「権利」と連呼するざまと同じだ。

 つまり「性同一性障害者」の権利を言い立てているのは、ほとんど在日のくせに日本人に成り済ましている連中が市民団体と自称して活動の中心になっている。
 日弁連は、(毎日新聞は正体をとぼけて明かさないけれど)反社会的勢力、反日勢力、在日武装勢力に丸抱えされている組織である。

 だから凶悪犯の弁護や、市民運動が政府を告訴する場合は、日弁連が担当し、地裁の判事もザイニチに蚕食されているから、非常識な判決が出ることがある。
 サヨク市民団体が自衛隊は違憲だ、原発も有罪だというような訴訟を起こすと、だいたい地裁ではそのごり押しが通ってしまう。

 同性婚を認めろとの運動は、日本の法的秩序を乗っ取っている反社会勢力が主導する活動の一環である。
 日本の伝統文化を破壊するのには実に積極的な連中である。
 同性婚を認めろと騒ぐ連中は、サヨクで同時に護憲派で、毎週国会を取り囲んで反対を叫び、地方公聴会会場の外で大声で妨害するのも彼らである。
 ついでにいえば、支那の南シナ海侵略、チベット、内モンゴル、東トルキスタンへの虐待、尖閣諸島への侵攻、あるいは朝鮮戦争やヴェトナム戦争での性暴力には、だんまりを決め込む。

 護憲派なら、憲法24条に記載されている「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」を尊重したらどうなんだ?

 毎日新聞で「人権救済」などと能書きばっかりの記事を仕立てた藤沢美由紀記者も、おおかたザイニチにつながっているはずだ。
 ザイニチはどんな問題でも、執拗に日本の伝統文化を破壊しようと小細工を仕掛けている。

 「両性の合意」じゃなくて、同性の合意でもいいことにしろとは、主張自体が違憲じゃないか。24条が時代に合わないというのなら、9条だって時代に合わなくなったのに?
 異性婚(正常な結婚)と同性婚(異常な結婚)が同じに扱われてよいわけがないではないか。

 はやい話が、精神異常者が社会の重要な仕事(例えば教師、判事、警官など)に就くことは許されない。人権もへったくれもあるか。
 人権より以前に、社会が正常に機能することが優先される。
 それと同じである。社会規範と大きくはずれた行動をとっていながら、平等に認めろとはよく言えたものだ。

 結婚は、当然に社会にとっては子孫を産んで育ててくれることを念頭に置き、期待している。同性婚の場合は、そもそも子供は生まれない。
 仮に同性婚の2人が養子をもらって育てるとすると、そういう映画があったが、大人2人が認識が歪んでいるのだから、それらに育てられれば子供もおかしくなるだろう。

 だから社会としては認められないのである。正常な結婚でも子供を生まない(生まれない)場合はあるが、それは個人の自由である。
 社会は、子供が生まれて引き継いでくれることで成り立つ。始めから子供が生まれないカップルなんぞに、法的制限がかかるのは当たり前である。

 今の時代、同性婚や同性同棲だからとて、法的処罰の対象にこそなっていないが、それは大目に見ているだけであって、本来、人類としては避けなければいけない原則である。
 現代では、裁判にかけられたり、火あぶりにされたりといった残酷な罰はないけれど。むしろこれからは規制をかけたほうがいい。

 異常な行動をとれば、世間から冷たい目で見られて当たり前だ。それをけしからん、人権侵害だ、自由の束縛だと正常な市民を罵るとは呆れた所業。
 例えば不動産屋だって、同性愛の者どうしに部屋を貸せば、非常識な人だから何をするかわからない、隣近所とトラブルを起こしかねないと見て、断るのは当然である。

 それは不当だと言う前に、同性愛の歪んだ認識を治しなさい。それだけで解決する。
 それに加えて、嘘つきで、約束は破るし、恩は徒で返すザイニチが先頭になって活動しているんだから、まともに相手にはされない。

 古代ローマ帝国は同性カップルを許し、野方図にしたから衰亡したのである。それを自由だ、人権だと騒ぐほうが異常である。わが国は「結婚は両性の合意」の理念で成り立ってきたのだ。古来、男色があったことは事実だが、それは人間が認識的実在だから起きてしまうことであって、精神病の一種であることに間違いはない。
 自然の動物は本能に従うから、そのような本能に逆らう生殖行動等は起きない。

 人間も本能は失っても動物なのだから、生殖に関しては同性での婚姻は許されない。
 人間が認識的実在であるために、狼に育てられた子のように何にでもなれる可能性はある。だから男なのに女の認識になってしまうことも起きる。

 人間は哺乳類のDNAを持っているから、正常に育てば異性を好きになり、それを抱いて子供を作ろうとする衝動が起きる。これが自然であり、正常な哺乳類のDNAの働きである。
 それを認識が強引無惨に押さえ込んで、男なのに女になるとは、異常そのものである。

 性的少数者の人権だと? バカ言ってんじゃないよ。日本でなんとか生活させてもらっているだけでありがたいと思え。それ以上、何をなまいきに要求するんだ。

 先日、ドラマ『陽はまた昇る』で警察学校の鬼教官が訓練生に、言った話を紹介した。
 「どいつもこいつも文句ばっかりイッチョ前。何もできないくせに、権利ばかり主張する。お前たちは、ガタイだけ、能書きだけ、緊張感のかけらもない、そのうえ謙虚さが微塵もない」と。
 そしてこれが現代日本を覆っている暗雲だと言った通り、同性愛者どもも、まったく同じ。能書きや権利ばっかり主張して、同性愛を公認したら社会がどうなるかはまったく考えない。

 人間のDNAといえば、私たち人間は社会なしには生きられないDNAになっている。人間は「サルの群れ」から進化したのだから、社会として誕生したのであり、社会的実在としてしか生きられない。
 その真理を、鬼教官は訓練生に説いているのだ。
 その社会の規範にもなっているのが、両性の結婚である。よって自分勝手な歪んだ認識で群れ=共同体の存在そのものを否定する同性婚を認めるわけにはいかない。







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2015年07月08日

変えたくない、変えられない…(2/2)


《2》
 3・11の震災でも、津波から逃げ遅れて亡くなった人々の多くは、「津波なんかたいしたことはあるまい」と高を括ったせいで失敗した。何が問題だったかをいまだに反省しないで、「悲しみは風化させてはいけない」とたわごとを言っているような人間は、また同じ過ちをくり返すだろう。

 防災に強い街づくりも否定しないし慰霊もたまにはやったら良かろう、けれど一番肝心なことは、アタマ自体を防災そのものにしておくことではないのか。危機管理が常にアタマにあるような人間になっておくことこそが、あの津波の悲劇をくり返さないための教訓である。リスクに対して、「まあ大丈夫だろう」と高を括る、そのアタマの働かせ方を棄てる以外に、本当の防災はない。

 振込み詐欺の被害があとを断たない。それは詐欺にひっかかるアタマになっているからである。常に四方八方に警戒を怠らないアタマを創っておけば、詐欺の被害には合わない。なんぼ「気をつけましょう」とポスターを貼っても効果はあるまい。
 要するにアタマを変えられないから、何度でも詐欺にかかる。

 同じことが、9条さえ守れば戦争に行かずに済むなどと、途方もない妄想に固まっていて、新時代をどう切り開くかに努力しないサヨクの輩に言えるのである。つまり、戦略的思考ができないアタマになりきっている。おとなしくして支那・韓国を刺激しなけりゃ、嵐は過ぎ去るさ…、としか方策が考えられないアタマはみじめだ。

 再三言っているように、日本人は赤ん坊のときから失敗するようになった。粉ミルクに紙おむつ、寒くもないのに靴下履いて(足裏を鈍くして)、英語早期教育、受験勉強、スマホゲーム、そうやって脳細胞をボロボロにしてきた。

 そういうように人間体も、脳細胞もヤワになり、新幹線の中でガソリン被って焼身自殺するバカまでが登場してきている。
 鬱か、痴呆か、そんな奴ばっかり。しかもそういった怠惰な人間失格に寄り添ってあげたいと、介護に人が集まって、何の生産性もない仕事に「やりがい」なんかを見つけようとする。

 その深刻な事態を認識することもなく、内閣の提案した法案に、イチャモンしかつけない、情けなさ。

 我々の空手ではよく言われるが、昨今の若者たちは体力がなくなった、と。その一例として、マラソン大会での選手達の無様なありようだ。走りながら、ガバガバと水や特性ジュースを飲みまくっている。その容器をまた平気でポイポイ道路に棄てる。

 昔は約42キロ、水も飲まずに選手は走り続けた。今の進んだ体育理論で水分補給が必要だと証明されたからだと抜かす向きもあるだろうが、じゃあなんで昔の選手は平気だったんだよ。おそらくアフリカの原住民は水も飲まずに走り続けて平気だろうに。
 こういうように、世界中の人間の体力が落ち、認識力もヤワになったから、馬鹿げた「体育理論」がのさばるようになった。

 戦時中、日本の兵隊は小さな水筒ひとつで、支那の戦場を30キロもある装備を背負って歩きに歩いた。むろん甲種合格した健康な若者だからでもあったが、そんな行軍は取り立てて残酷な措置ではなかった。
 それだけ人間体が頑丈だったのだ。

 軍歌『父よあなたは強かった』の歌詞を見よ。
「兜も焦がす炎熱を敵の屍とともに寝て 泥水すすり草を噛み」 「骨まで凍る酷寒を 背もとどかぬクリークに、3日も浸かっていたとやら、10日も食べずにいたとやら」とあるではないか。
https://www.youtube.com/watch?v=IhhwjiFPnrQ

 戦場はたしかに過酷だが、そういう苦労を日本人はこなしてきた。
 むろん小学生だって、熱中症で倒れる奴なんかいなかった。
 どういうことかと言えば、人間体が頑丈で、大変な事態でも耐えぬくことができたからである。

 一言言っておけば、弁証法を学びたいと言う方は、この軍歌をしみじみと聴いてみることである。歌だから誇張はあるに決まっているけれど、自分がそれくらいの人間体と頭脳の実力を創らずに、弁証法を駆使できる頭脳にはならないのである。

 大戦中の日本の将兵の写真を見てみるがいい。みんな颯爽、毅然、実に気品のある良い顔をしている。支那人や朝鮮人とは隔絶した「人間の顔」だった。
 ところがこの平成の御代、日本人は支那人や韓国人と区別がつかないズンだれた顔になった。AKB48のライブに集まる若者の顔を見てみろ、サル以下、正視に耐えまい。

 これは人間体が落ち、脳細胞がだらけてしまったからだ。脳細胞は人間体の一部なんだから、人間体がボロになれば脳もボロ、その機能たる認識もボロにならざるを得ない。
 だから最近の戦後生まれの若い作家の作品はクズばっかりになっただろうに。カラダもアタマもボロになったからだ。

 そんな輩が、傲慢にも9条を守れなどとズンだれたことを抜かしている。そういう生意気なことを言う前に、テメエの顔つきをまともにしろ。
 YouTubeで警察とか自衛隊とか消防士とかの訓練場で、新人が鍛えられる番組がいくつも見られる。それを見れば、入ったばかりのふやけた若者の顔が、3カ月経ち、半年経ちすると、見事にいい顔になり、人間体もできてくる。

 とりわけ足腰が鍛えられて頑丈になる。神経が隅々まで活性化する。そうした土台力(体力と脳の実力)がまともにならずして、どうやって国を護り、世界史の先頭にたてるというのか。

 日本人はそういう鍛え方をしないかぎり、21世紀の新時代の先頭に立てるわけがない。だから徴兵制を復活させねばならない。
 昨日紹介した産経の皆川氏は、「今時、徴兵なんかやってもそんな素人の兵は足手まといになるだけだ。武器は高度に電子化され、専門の訓練を経たプロでなければ戦えないんだから」と言う。だから安倍内閣が徴兵制を敷くはずがないと。だが、問題はそんなことにはない。

 これからの日本を背負って立つべき若者を、人間体や脳細胞を見事にしなければならないからである。集団力を使って、共同生活をさせ、「泥水すすり草を噛み」という体験をさせることだ。

 話は変わるが、ギリシアが財政破綻した原因は、公務員の高額な給与や人数の多さにあった。愚かなことに失業対策として役人を大幅に増やして国民の4人に1人が公務員になった。年金は現役で働いている時と同じ額がもらえる。国家としてろくな産業がないのだから、これじゃあ財政が破綻しないほうが不思議。

 彼らギリシア人どもは、変われない、変えられない。だから没落する運命である。あんな状態にした責任はドイツにもあって、ユーロ圏から安い労働力を呼び込んで儲けてきたのだが…。

 一方で日本でも財政赤字の原因の多くは公務員の高額な給与にある。国家公務員の今夏のボーナスは(管理職を除いて)職員の平均で61万9900円。昨年より3万3200円アップ。みんな血税を奴らがかっぱらっていく。
 公務員給与を高くすることでしか景気対策がなし得ないなんてバカな話。公務員家族の飲み食いで消え、景気は良くならなかった。

 公務員の給与やボーナスは、人事院が「民間企業に準拠して」決めることになっている。人事院の定義する「民間企業」とは、「従業員50人以上の企業の、従業員50人以上の事業所」だから、大企業の本社部門と同等になる。

 公務員はいつだってお手盛りで、民が不況でも構うことなく、謙虚さの微塵もなく、大企業並みにもらえる。給与とボーナスが低いと、公務員のなり手がなくなって市民生活に支障が出る、とふざけた理由で、優雅な暮らしを保障している。
 だが、民間は実施賃金が25カ月連続のマイナスだ。

 ギリシアは対岸の火事ではなく、日本の地方も産業らしい産業がないので、若者が大学を出ても地方には受け皿になる職場がない。地方では一戸建ての家を新築して車を買えるのは公務員だけ、が現実である。
 地方の平均年収は200万円程度なのに、公務員の平均年収は730万円だ。

 公務員はお手盛りで給与が決められるからいくらでも引き上げて行く。地方では公務員は特権階級であり、公務員になるには親も公務員と言った世襲化が進んでいる。
 公務員は採用にあたっては、一応一般公募だが、受験者はたいして差はない。それなら縁故を優先させたほうが、親の人となりはわかっているし、人情としても理屈にあっている、などと役人どもは言いながら、「世襲」が続く。

 税収は公務員の人件費に消える。地方では公務員が絶対権力を握ってしまって、改革派の市長を選んでも公務員たちが団結して追い出してしまう。地方は、東京都の住民の税金の横取りと、中央からの交付金で成り立っている。
 ギリシアと同じ構図になっている。

 役人どもは新たに介護保険制度をこしらえた。老老介護が深刻だとかもっともらしい理由をつけ、結局はテメエらの利権に仕立てた。 
 そしてブラック企業も顔色なからしめるような、薄給で介護職員をこきつかう。こうなると、もうやめられない、止まらない、カッパ海老セン、である。

 こうして見れば明らかなように、ギリシアも変われなかったし、日本も変われなかったのだ。21世紀にふさわしい頭脳を鍛えねば、といくら説いても、誰も聞き入れない。圧倒的に人数の多い木っ端役人が、ただただ現状維持にのみ、精力を注ぐからである。

 日本でも役人の人口は4人に1人だと評論家の屋山太郎氏が言っていたが、こういう木っ端役人連中は何の考えなしに現状維持を支持する。憲法なんか変えたくない。9条のままでいいと思う人が少なくとも4人に1人はいるのだ。そういうバカにザイニチが日本人になりすましてサヨクを演じ、変えなければいけないという声を封殺している。






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2015年07月07日

変えたくない、変えられない…(1/2)


《1》
 たまたま産経新聞WEB版で見つけたのだが…産経新聞出版の皆川豪志編集長が、こんな記事を書いている。
http://ironna.jp/theme/289

      *    *    *

「トラウマ」になっている日本人

 「あまちゃん」や今放送中の「まれ」などを除けば、NHK朝の連続テレビ小説の定番は「戦前戦後を生き抜いた女性の一代記」です。当然、戦時下のエピソードはヒロインの人生の中で大きな転換期になります。夫が戦死したり、息子が赤紙で招集されたりして泣き崩れる。憲兵に足蹴にされたり、町内会で村八分にされたりして、全体主義の怖さがしのびよる。

 そして、空襲警報の鳴る中、火の海を逃げ回り、最後は命からがら生き延びて、戦後の平和な世の中のありがたみを感じる…。
 この手のお話は、ほぼ1、2年に一度の割合で朝のお茶の間に流され続けてきたわけで、日本人の頭の中では、かなりの「トラウマ」になっているのではないでしょうか。

 別に批判しているわけではありません。これが「戦争」というものであれば、もちろんだれが観ても絶対に反対ですし、二度と起きてほしくありません。先人の苦労を知ると言う意味でも必要なドラマだと思いますが、気になるのは、日本人の「戦争」のイメージが、まさに、この朝ドラの定番シーンとまったくかぶっているのではないかということです。  (後略)

      *    *    *

 NHKの朝ドラなんか見てはいないが、ニュースや天気予報を見るためにテレビをつけると、たまにチラッと見させられることがある。
 タイトルとストーリーは毎回違っても、登場するヒロインがワンパターなのには心底あきれる。

 おっちょこちょいで、でも一途で、過剰に人に親切で、何か(小さな)夢は持っていて、よく勘違いしたりされたりしてはトラブルになる。
 周囲の親や祖母などは良き理解者であるが、父親か母親か兄弟なんかが失踪していたのがふと戻ってくるとか。徹底してヒロインをイジメ抜く嫌な役のやつがいて…。

 恋はするが決して性的なシーンは演出しない、毎週なにか問題が生じては、ヒロインが巻き込まれては最後には真心で誤解が解けて一件落着、と、こんな不自然な話ばかり。半年間、毎日15分のドラマにしたてるのだから、無理して話を作っているのが見え見えで、「アホクサ」である。

 脚本家も楽だろうね〜、NHKの番組担当者から、こういう話で書いてくれと言われ、沈香も焚かず屁もひらず、言いなりに毎年似たような話さえデッチあげていりゃ済む。そのNHKの意向にきっと加えられるのが、産経の皆川豪志氏が書いているように、朝ドラのワンパターンの一つ、先の戦争に関する表現である。

 かならず戦時中の日本を悪く描いてくれ、ひどい時代だったことを強調してくれ、アメリカは正義の味方だったと書けと、注文をつけられるのにちがいない。
 反日サヨクのザイニチがマスゴミを支配しているからそうなる。
 戦争なんだから少なくとも、敵味方、それぞれ言い分はあったのに、ただただ日本が悪かった、暗黒の時代だった、軍や特高が理不尽な弾圧をくり返した、と、そればっかり。
 支那やアメリカの悪業にはいっさい触れない。

 たしかにテレビを見るぐらいしか時間の過ごし方を知らない愚鈍な連中の楽しみだから、皆川氏が書く通りの下らない、間違った史観でよろしいのであろうが、だったらこんな朝ドラを見ているバカどもに選挙権を与えるな、と言いたい。

 NHK朝ドラのくだらなさは、それで言い尽くされる。多言を要せず。
 しかし、それでも皆川氏が言うのはこうである。
 「問題なのは、集団的自衛権をめぐる安全保障関連法案を「戦争法案」と呼ぶ野党や一部マスコミです。今回の法案が決して「戦争をするための法案」ではないことぐらい心ある国民ならわかっていると思いますが、それでも「戦争する国になる」「徴兵制になる」などの情緒的な批判は、「朝ドラ歴史観」にはまった日本人をぞっとさせるのには効果絶大なのです。」


 同感だ。護憲派どもは、こんな「朝ドラ歴史観」に洗脳されて、安保法制改訂に反発している。

 よくニュース番組では、街の声として「今の若い人は戦争を知らないけど、もうあんな戦争は二度とごめんだ」という声だけを訴えさせている。誰だって戦争は御免なのは、古今東西同じ。それがどうした?
 朝ドラなんかをしょっちゅう見ていれば、そういう思考しかできなくなるだろう。

 まったく「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」である。
 私は本ブログで以前取り上げた原田伊織著『明治維新という過ち』に同感で、あれは長州のゴロツキに日本が乗っ取られた政変だったと思う。

 けれど、その一方で、江戸時代と明治時代では、なにもかもガラッと世の中が変わったことは確かである。いいとか悪いとか言っているのではない。
 1868年を境に、江戸時代のものは全部なくなった。チョンマゲも、草履も、建物も、着物も、食うものも。

 こういうと、変わらなかったものだってあるぞ、とイチャモンをつけてくる愚か者がいるだろう。もしタイムマシンに乗って、江戸時代に行けたとしたら、誰でも「うわあ、なにもかも今と違うなあ、同じ日本とは思えないなあ!」と感嘆するにちがいない。
 そのレベルで、一般性として、江戸時代と明治時代はガラリと変わった、と言っているのだ。

 1948年にGHQに押し付けられた憲法の時代は、たしかに大きく社会が変わる時期だった。しかしそれも70年が経過して、当時は想像もできなかった社会になった。誰もがクルマを運転し、ケイタイ電話を持ち、女は半裸の格好で街を歩き、大挙海外旅行にでかけ、パソコンを操ってインターネットで世界中がつがなった。
 なのに、あのデタラメ憲法だけは絶対変えない、なんて言っていてアタマは正常か?

 人間はどうしても、古い時代をひきずる。過去が棄てられない。現状を変えるのは大変なのだ。幕末から維新への転換点で、上にいた武士ほどアタマが変えられず、洋服を着ながらチョンマゲのまま、腰の刀をさげてみたりする奴もいた。激しい抵抗があったが、やがて刀を捨てることになった。

 今もそうだ。戦後、サヨク護憲派はアメリカの戦略や、支那・韓国の思惑で生き延び、厚遇されてきた。税金を横どりしては反日をやらかしていられたのだ。その甘い生活が変えられない。うまく行っていると思える奴ほど認識は変えられない。
 そういう愚か者が多いから、NHK朝ドラの反日演出が抵抗なく受ける。

 映画『アレキサンダー』のなかで、インドまで長駆進撃したマケドニア軍の兵士たちは、旧時代の価値観を捨てられなかった連中であった。つまり言うなれば、NHKの朝ドラ史観に染まっているようなものだ。
 アレキサンダー1人(独り)が時代を先取りすることができていたのである。彼だけが人類は古いものは棄てなければいけないと分かっていた。それはアリストテレスが教えたのだ。

 21世紀になって、アメリカの横暴はやや衰えはしたかもしれないが、いかにも奴らの戦争に日本が巻き込まれる可能性はある。一方で支那や韓国など反日勢力に侵攻される危険も大きくなってきている。われわれは変わらなければならない時代に入っているのである。変われなければ、仮に9条を守ってみたところで、日本は終わりだ。

 江戸から明治に変わった時のように、なにもかも変えなければ新しい時代の先頭に立てないばかりか、支那や韓国の奴隷に落ちる可能性も高い。さあ、どうするんだという時なのである。
 民主党の某ゴーマン女みたいに、「二番じゃダメなんですか」なんてノー天気なことを言っている場合じゃない。

 憲法だって棄てなければならない。良いものなんだからそのままでいいじゃないかと言う人もいるだろうけれど、それではダメなのだ。明治時代だって、チョンマゲに草履でも暮らせただろうに、なにもかも変わったじゃないか。そうしなければ世界の怒濤の流れに押し流されるばかりだったのだ。武士の格好で日清・日露の戦が戦えたというのか?

 我々は21世紀にふさわしい認識になり切らねばならないのである。認識だけではなく、脳細胞が変わらなければならない。たとえどんなに日本国憲法が理想だと思えたとしても、旧いものは躊躇なく棄てなければ、それに引きずられてしまって脳細胞が新しい世界に見合ったものにならないからだ。

 個人レベルで言っても、たいていは40歳を過ぎたら、新しいものを受け入れられまい。60、70になったら、もう脳細胞が変えられようがない。明治維新は過ちもあったけれども、当時、二十代、三十代の若者が先頭を走ったから、変革に成功したのだ。旧時代のアタマを持った老人には不可能だった。

 今の日本にはそんな若さは、どこを探しても見つからない。ただわれら空手流派を除けば。
 この沈滞こそが、アメリカの戦争に引きずり込まれるリスクとか支那の侵略とかよりも重大なのだ。

 護憲派の存在が象徴的であるが、彼らは良く言っても20世紀の感覚になっているまま。9条自体の善し悪し以前に、そのアタマがどうしようもないのだ。だから努力して、ココロのなかのチョンマゲ、ココロのなかの羽織袴を棄てなければならない。



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2015年07月06日

後進国援助の功罪


妻:安倍さん、いろんな国に援助のばらまきを続けてるわね。この前はウクライナに、今度はメコン流域国に7500億円、だって。
夫:そうだね。どこからカネが湧いてくるんだか。税金と…、過去の後進国に貸したカネが戻ってくるのと…かな。
 支那のAIIB設置に対抗してというか、コケにするかのように、安倍首相は、公的資金によるアジア向けのインフラ投資を今後5年間で約3割増やすと表明したんだ。

 中身はアジア開発銀行(ADB)や政府開発援助(ODA)を通じた融資を含め、約1100億ドル(約13兆2千億円)の投資拡大を目指すそうだね。
 アジアでは、鉄道や道路などインフラ整備に毎年100兆円が必要とされている。安倍首相は「質も量も。二兎(にと)を追う」と語った、と報道されている。

妻:カネを貸すってことだから、日本の債権が増え、将来は利子がついて戻ってくるし、アジアの諸国のインフラも整備されて幸せに、便利になるんだから、悪いことではないわね。
 もっとも韓国は有償2億ドルの借款さえ返さなかったけど。

夫:う〜ん、援助が悪いとは言えないけれど、ゾッとする話でもあるなあ。
妻:は? なにがゾッとする、よ。
 アジアのインフラが遅れている国が、貧乏から脱出して、暮らしも安定し、産業も起こってくれば、いいことばかりでしょう。安倍さんが二兎を追うというのもわかるわ。

夫:まあ、反対する理由は…どう言ったらいいかむずかしい。
 ちょっと考えてみてよ、じゃあ、日本の援助や支那のAIIBでカネを借りた国が、順調にまじめにインフラに投資したとして、豊かになったとしよう。
 当然これまでは、貧しいがゆえに子だくさんであっても、幼いうちに栄養失調や病気でバタバタと子供が死んで行く社会だった。
 それが病院がつくられ、衛生も改善し、子供が死ななくなり、ちゃんと教育も受けられるようになって知的水準があがってくる。

妻:そうよ、それが目的なんじゃないの。
夫:まあ、つづきを聞きなさいよ。その結果、人口は増えていく。
 実に支那は、僕らが子供のころ、まだ毛沢東が実権を握っていたころは、6億の民と言われ、でも戸籍に登録していない子がたくさんいるからまあ7億人くらいじゃないかと言われていたんだ。
妻:ああ、それが今では14億なんですってね。

夫:それじゃああんまり多過ぎると思ったのか、毛沢東が文化大革命をやらかして、せっせと人民を虐殺して減らそうとしたんだが…、1億人は殺しただろうとされるが全然効果なし、というのもすさまじい話だ。
妻:うん、殺しても虐げても、子づくりだけは阻止できなかった。

夫:そうだ。誰にでも夜はくるってことだな。
妻:何をバカなことを…。

夫:それで幾夜もが過ぎて、あっという間に人口倍増だ。ケ小平がやったことになっていて実はユダヤ勢力が仕組んだ改革開放経済が成功したのと、外資が莫大な投資を行ったから、すさまじく豊かにはなった。格差はひどいとはいうものの、政府高官が国家のカネを外国に持ち逃げするほどには、カネができた。

 だから人口が爆発的に増えた。で、成長期は労働者が足りないくらいに余っていたから、失業問題はなかったが、このところの経済減速、投資の失敗、外国資本の引き上げなどで、失業が深刻になってきているわけだ。

妻:ということは、人口は増えたが、それを食わせていくだけの仕事がない、となったのね。
夫:そうだ。だから支那はせっせと後進国に行ってインフラ事業を援助しますと言って、投資しつつ、現地の住民を労働者として雇わずに、支那から仕事にあぶれた者を連れていく。

 労働者各自の民度が極端に低くて、自分勝手な支那人労働者は各地で現地人に嫌われ摩擦を起こしている。
 ニカラグアでも、支那による運河建設に反対の声があがるようになった。

妻:あなたはとくに支那人が嫌いだからねえ。
夫:これは好き嫌いの問題じゃないんだ。
 支那の例でわかるように、国が豊かになり、人口が増加すると、成長期はいいが、経済はアップダウンするものだし、繁栄がずっと持続するはずもない。必ず失業問題が発生するんだ。
 それがね、今は支那人だけ(?)で済んでいるのが、アジア全域に広まり、いやアジアだけではない、アフリカでも南米でも…となったら、いったいどういう事態になると思う?

妻:世界全体で豊かになれば、失業は多少の波があっても人類としては解消の方向に行くのではないの?
夫:そうだろうか。それはよくサヨク連中が言うことなんだが、あまりに甘い幻想ではないのか。 
 残酷な話だが、今は東南アジアでもまだ貧しくて、人口も増えないが、日本を始めとして経済援助が成功していった場合どうなる?
 医療水準もあがって、増えた人口の人たちが、今の先進国と同じ生活水準を望むようになるだろう。

妻:世界は破滅する、そう言いたいのね?
夫:そうだ。温室ガス規制なんてのはイカサマだが、インフラが整備されて工業化が進めば、当然CO2が増える。それを先進国はもう地球に酸素がなくなるから止めろ、と後進国に命令できるのか?

 後進国の社会が豊かになって、人々が幸せになると、だいいちに食糧はどうなる? 日本だけではない、世界中で食糧が足りなくなるはずだ。

妻:なるほど。資源エネルギーも、鉱物資源も、産業の技術も、海の資源も、なにもかも奪い合いになるわね。
夫:そうなんだ。はたして日本や先進国は、自分たちの取り分、食べるものなどが減ることにどれほどの覚悟があるのか。

妻:だけど、食糧増産は少しずつでも農業技術の発展で増えてきたのでしょう。品種改良とか開墾・感慨とか栽培技術、家畜の肥育技術、養殖、食糧保管技術などが進歩してきたから、地球上にこれだけの人口が養えるようになったんだから、これからだってそういう発展は期待していいのよ。

夫:それはたしかに一面の真理であるが、それが現在の行きついた先は、養殖、ハウス栽培、遺伝子組み換え、化学肥料、除草剤、殺虫剤などに頼らざるを得ない食糧生産を生んでいる。すべて人工的になっている。全部が地球から離れて磁性体も酵素もなくしている。
 形ばかりは野菜ですが…とか、一応肉の味はしますが…とか、そんなものばっかり。

妻:そうなのよ、だから素材そのものの深い味わいがなくなったから、ちゃんと食事をつくる主婦でさえも手のこんだ料理ばかり、味付けを濃くしないとおいしくならないことになってきた。
 地球上の人口が激増すれば、いよいよそういう人工的な食べ物に頼っていかなければいけなくなるわね。
 食べれば食べるほど病人が増えるという矛盾も抱えるわね。

夫:その一方でね、これまでそうだったように、後進国になんぼカネを注ぎこんでも、彼らは欧米や日本のような発展ができない。
 援助資金はみんなどこかに消えてしまう。グレアム・ハンコックの『援助貴族は貧困に巣食う』を読めば、どこに消えるかは明らかだ。みんな援助した側にいわば還流される。

 嫌な言い方になるけど、それゆえに後進国が後進国のまま、先進国に食い物にされているから、幸いにして近代化もせず、人口も増えない。

 それに言っては悪いが、後進国の住民は根っから怠け者で、農業だろうが漁業だろうが医療だろうが、改良、工夫を全くやろうとしないテイタラクだからね。欧米が植民地にして徹底した愚民政策をやり、原住民に教育を授けなかったせいもあるが、住民自身に向上心が見られない。

 後進国が貧困だから、自然は(森林伐採などはあるが)残されていて、地球の環境保全の一翼を担ってくれている。
 先進国と支那がじゃんじゃん公害をまき散らしても、後進国の自然環境が助けてくれている。
妻:すさまじい矛盾よね。

夫:世界中のみんな、学者もマスゴミも官僚も政治家も、この矛盾には目を背けている。地球温暖化防止だとか、貧困をなくせとか、南北問題の解消をとか、後進国の債務はチャラにしてやれとか、一応もっともらしいことは言うが、本音はどうなんだかね。
 
妻:なるほど…。
夫:他にもあるんだが…、現在のようにグローバル資本主義が広がると、国家も資本家も長期的視野に立たず、短期的利益を追及するようになる。
 
 日本がやってきたような、長期的展望を抱いて、税金や国民の貯蓄を活用して(財政投融資)インフラを整備し、企業は企業で技術力を育て、ノウハウの蓄積をしていかないと、生産力向上は実現しない。しかしそれだと、企業家にとってはなかなか利益が生まれてこない。よって、面倒なことはやめて技術なんか外から買ってくればいい、他国をいじめて奪い取ればいい、となっていく。

 そうやって自前の技術力が育たなくなる、英国が凋落したり、支那の経済が行き詰まってきたのも、長期的視野というものを蔑ろにして、株主が望むとおりに短期で利益が出ることばかりに専心する。
 同じことが後進国でも起きる。

 50年後、100年後に、一流の工業国にしようとするのではなく、短期的に、即席に利益をあげ、国力をつけ、民を豊かにしようとしてしまう。技術やマネージメントなどの蓄積は無視され、手っ取り早い手段ばかり求めるようになる。

 安倍内閣が巨額の援助をしようというのは、手っ取り早く日本企業の技術を買わせることが目的だ。親切なようでいて、実は後進国の真の意味での発展、インフラの整備、技術力の育成が、自前自努力の「蓄積」を妨げてしまう。
 日本だけが技術力や経済力で一人勝ちをするなら、良いようではあるが、日本だけがグロ=バル資本主義の網から逃れているわけではない。
 相互浸透する。日本も目先の利益ばかり追い求めるようになる。

妻:結局、日本が後進国の援助をしていっときインフラが整備され、国家の文化文明を担う人材が育成されてきたとしても、インフラという構造物なりその維持のノウハウなりは、自前自力でやってこないと、インフラはやがて老朽化するから、50年後あたりから、使えなくなって、元のインフラ不備の後進国に戻ってしまうわね。
夫:そのころには我々はもう生きてないけどね。






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2015年07月04日

生半可な覚悟の愚か者たち(3/3)


《3》
 田中美知太郎(西洋古典の研究者)がこう言ったのはよく知られている。「憲法でいくら平和を唱えてもそれで平和が確立する訳はない。ならば憲法に、台風は日本に来てはならないと記すだけで台風が防げようか」
 こんな小学生でさえわかる理屈を、護憲派は理解できない。

 台風の被害を避けるために、憲法に「台風は日本に来てはいけない」と書いておけばいいじゃん、と3歳の子が言ったら、大人は笑って「かしこい子だ、かわいいね」と頭をなでてくれよう。小学1年生が同じことを言ったら、これも笑いつつ「お前はひょうきんでいいよ」と言って済ませるだろう。

 でも大人になっても真剣に言っているとしたら、精神病だと疑われる。
 9条を守れば戦争にならないと言う大江健三郎なんかは、この類いで、精神病である。

 こんなバカどものアタマを直すには、男も女も徴兵して、強制的に集団生活に叩きこむしかあるまい。そこで食べ物の好き嫌いをなくしてバランスの良い食事を習慣付け、さらに夜更かしをしない暮らしを強制することで、脳細胞が活性化する。
 それしか処方箋はないのに、安倍内閣も自民党も、サヨクの反発を恐がって、中途半端な法制改訂に汲々としている。

 わが国は戦争に負けて軍事力も産業基盤もインフラもズタズタにされたが、日本はもともと先進国であり、インフラの建設能力は保有していたため、戦後に瞬く間に復興したし、軍事力も旧軍の生き残りや体験が生かされてまたたく間に戦える自衛隊が復活した。

 産業も軍事も教育もなにもかも、短く言っても江戸時代以降の私たち先祖が営々と築いてきて、蓄積された実力があったからである。
 今や、「自衛隊は軍ではないぞ」と言われ、アメリカ軍の下請けでしかないわけだが、それでも支那や韓国、北朝鮮、ロシアが日本に攻め入ってこないのは、旧軍からの実力の蓄積に、向こうが一目置き、脅威を感じているからだ。
 日米安保があるからだという理由は否定しないが、それだけではない。

 わが国民はありがたいことに日本の蓄積の恩恵を受けているがゆえに、馬鹿げ切った9条を押し頂いていても、戦争に巻き込まれずに済んでいる。これを忘れてはなるまい。

 出版界でいうと、岩波書店は破格に高給がもらえる。夕方4時には退社できる恵まれた会社だ。世間も文句なく信用してくれる。
 これができるのは、今の社員が頑張っているからというより、過去の良書を出してくれた先達の蓄積のおかげである。
 で、その蓄積に胡座をかいてきた岩波は、今では時代を変えるようなすごい本は出版できなくなった。

 しかしいつまでもあると思うな親とカネであって、今だけ良ければいいと考えていると、岩波のように、日本人はすべての面で退化、劣化していく。

 なんでもいいのだが、例えば「地球」の像はたいていの人は今の地球の像を思い浮かべるだろう。しかし弁証法では、100億年の自然の流れ、歴史の流れを抱え込んだ像なり図なりになるのである。
 「戦争」の像も、9条信者どもは、今の戦争かせいぜい大東亜戦争の像だけで考えてしまう。それは非弁証法である。だからアレキサンダー以来の戦争の流れを抱え込んだ像とは何かを、本ブログで提示してきた。

 端的に言えば、今の我々の平和と繁栄は、先祖の苦労の蓄積の賜物である。弁証法的にいえば、何千年もの先祖の苦労の流れを抱え込んでいるのである。
 もちろん、その“蓄積”はトライアル・アンド・エラーのくり返しだ。先祖が失敗してくれたおかげで、私たちは繁栄が享受できている。
 本主題に合わせて言うなら、警察も明治からの先達の「割に合わない仕事」でも耐えて、後世の私たちのために蓄積してくださった警官の実力のおかげではないか。軍隊もそうだ。

 それなのに、能書きばっか、権利ばっか、楽したいばっか、でやったらどうなる。50年後には今日のギリシアのようになっていくのだ。観光しか収入がないだなんて。どこまで堕ちれば気が済むのか。
 だから私たちは、国家の存在は必然である。個人で生きていると言うなら、日本語を使うな、電車にも乗るな、道路を歩くな、衣服も着るな。

 これは「国のために死んでいく制度には我慢できぬ」とほざいた俳人・金子兜太とそれに賛同して記事にしたサヨク新聞に言っているのだ。
 金子のような9条信者の意見を許していくと、今説いたような、先祖の努力の地道な蓄積を想い、感謝するココロが失せて行く。
 失敗に怯えるココロを創ってしまう。

 国家とは何かを教えることを国も日教組も教えなくなったから、人々はみんな刹那的な生き方を求めるようになった。
 ドラマで鬼教官が言った「おまえたちは旨いもの食って、女を愛することしか考えていない」ボケナスばかりになった。

 我々の先祖がなしてくれた、自分のことより未来の子孫のために今、国に尽くすのだという思想がどんどん消えて行く。
 再三言うが、主体性の確立とは、個人が勝手に信条として把持すればできるものではない。
 それは戦える魂そのものだからだ。国のため、組織のため、未来の同胞のためとするありようと直接に勝ち得るものである。

 今のアメリカや支那がやっていることは、実体的技術や認識的文化遺産は、自力で培うのではなく、よそから買ってくれば良い、軍事力で恫喝して奪えばよい、として、実に短期的刹那的なものの見方で済まそうとしている。日本もそうなりつつある。

 アレキサンダーの例で言うなら、彼の軍がインドまで到達して、将兵に厭戦気分が満ちた時に、もういいやと撤収するのが凡人であって、目の前の幸せを求めることであった。
 だがアレキサンダーは、未来の人類のための、あらたなステージを用意するために進撃をつづけた。

 軍の進撃の一歩一歩が、未来の人類の文化文明のための“蓄積”になって生きると信じたからである。

 産業力にしても、文化藝術にしても、軍事力にしても、そうした実力は“蓄積”によって日々磨かれていくのだ。
 だから日本軍(自衛隊)が、戦争放棄の愚劣な憲法に縛られたまま、いささかの実戦を経験しないでいれば、時々刻々とその“蓄積”は消えていくのである。
 米軍の後方支援をしているときに、他国軍から自衛隊が攻撃を受けたら大変じゃないか、とうろたえるバカがいる。結構じゃないか、絶好のチャンスだ。戦え! それが貴重な実戦経験になる。
 
 9条に縛られたままなら、われらの主体性が消えていく。軍事力に限って言っても、われわれの先祖が、戦艦大和を造り、零戦を駆使し、特攻をあえて敢行したことの、われわれだけの宝、ノウハウや主体性が無惨になくなっていく。

 村上春樹の長編小説に『羊をめぐる冒険』があって、読みたくもないが、奴のファンだという人が熱心に語っているのを聞いたことがある。 
 主人公が北海道に住む「羊男」に逢いに行くらしい。羊男は羊の皮の衣装を頭からすっぽりかぶっている。戦争に行きたくなかったため隠れて暮らしているという設定。

 で、たしかその羊男は、霊能力だかがあるにも関わらず、なにもしない、ただ生きているだけがいいんだ、みたいなことを言うそうだ。本当にくだらない、主体性ゼロの今風な若者に迎合した小説だと思ったものだった。

 要するに、9条を守ればいい、戦争はまっぴら、社会にもまれるのも嫌、国家と関係なく生きたい、そういう作者の思いが書かれているだけ。村上は韓国には、もういいと言われるまで謝り続けようなどとアホなことを抜かしているのは、こういう主体性なしの作家だからである。
 
 日本の若者に主体性がなくなったから、村上春樹みたいなキモイ男の小説がうけるようになった。
 そして何度も書いたが、現在の若者たちの母親が怠けて母乳を与えなかったせいで、牛のミルク、牛になるための食べ物を与えられたせいで、人間なら持ち得るはずの魂が持てなくなったので、おぞましいことに村上春樹なんかが好まれ、どこか敵国が攻めて来たらすぐ降伏すれば殺されずに済むじゃないか、などと現実をまったく捉える力がなくなる。

 母乳をちゃんと飲まなかった人間は、食べ物の好き嫌いも激しくなりがちで、努力して嫌いな食べ物を克服するココロが育たない。好きなものばかり食べる。たとえばラーメンとかハンバーガーとか。
 だから食べ物が偏り、癌になる確率が高くなるばかりでなく、精神病にもなりやすくなる。
 
 努力して嫌いな食べ物をなくした人間は、精神病にはなりたくてもなれないほどに、しっかりした脳細胞に育つ。
 ドラマ『陽はまた昇る』では、はっきりとは描かれていないが、警察学校でただ鬼教官にしごかれるだけでなく、24時間全寮制で暮らすことで、食事もバランス良くなり、睡眠の取り方もまともになることを半年つづけるので、若い警官たちは主体性がちゃんと宿る脳細胞の条件が整ったのである。

 それが彼らをして、生半可ではない職務への覚悟や、情熱、思いやり、使命感などが認識のなかに育ってくるのであろう。

 私の友人にも、現在の国会論戦の「有事法案」は、アメリカの指示だから、反対すると言うものもいる。アメリカと支那は裏で手をくんで日本を憲法9条のままにしておいて、もし戦争をおこせば「憲法に違反した侵略国」とレッテルを貼りにくるだろう、と。
 
 世界は刻々と「ワンワールド」へ進んでいる、だからそれを食い止めるためにも現在の安保法案には反対だと、主張する。
 その心配はある。しかし、ただ9条を護れと言うだけでは、日本人がワンワールドに抵抗して国を護る気概ある人間は生まれてこない。
 9条にしがみつくのは、民族の最重要課題である、主体性の確立を妨げてしまう、と私は一貫して述べている。
 「うまいものを食って、女と愛し合うために生きているような」いまどきの若者が、アメリカや支那の陰謀に勝てるはずがない。護憲派はその大事なことに触れずに、9条さえ守っていれば、のほほんと生きていけるんだとのたまう。






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2015年07月03日

生半可な覚悟の愚か者たち(2/3)


《2》
 さて。
 安倍内閣は、こう言っている。
 「海外で紛争が発生してそこから逃げようとする日本人を、同盟国であり、能力を有する米国が救助してわが国に移送しようとしているとき、日本近海で攻撃を受けるかもしれない。このような場合でも、これまでは日本自身が攻撃を受けていなければ、船を守ることも、日本人を救出することもできなかった」

 それでいいのですか?と。だから法整備をして、武力行使で守ろうという姿勢を(支那や韓国に)見せる必要がある。素直に読めばそのとおりじゃないか。
 ところが主体性のないバカどもが、あわてた支那や韓国の意向を受けて(カネをもらって)、猛反発を始めた。税金を食い物にして、揚げ足取りやイチャモンばかりつけている。

 安倍は信用できない、だって靖国神社に参拝したからだ、支那や韓国との首脳会談を逃げているからだ、帝国主義アメリカの議会で演説させてもらっておべんちゃらを言ったからだ、…といったあたりを根拠にしている。

 で、もしかしたら解釈をさらに拡大して戦争に突き進むにちがいない、具体的歯止めがないから自衛官が死ぬことになるに決まっていると、再三言うように、妄想を膨らませてイチャモンをつけているだけ。
 これは「風が吹けば桶屋がもうかる」式の、無茶ないいがかり。

 既に言ったが、これは結婚式を挙げようとしているカップルに、どうせ離婚するんだ、きっと離婚するんだから、止めておけというようなものだ。結婚後にはいかにも浮気の可能性はある。一緒に暮らしましょうとの約束だけで成り立っているのだから、危ないといえば危ない。しかし相手を幸せにしますと言いあって、信じて結婚するんだろうに。

 「警察はそもそも不公平な世界だ。楽して出世していく奴もいるが、寝る間も惜しんで働き、へたをすれば命も落とす。こんな割の合わない仕事はない」
 これは、私たちが置かれている「平和ニッポン」の実態である。

 楽して儲けている奴はいるだろう。だがほとんどの国民は割の合わない思いで生きているだろう。しかし、それでもいったい誰のおかげでこんないい国に暮らせているんだ? 割が合わないとか不満があっても、世のため人のために頑張ってくれる人がいるからではないか。

 看護婦は薄給で、労働時間も過酷なのは周知の事実だ。それでいいというのではないが、それでも彼女たちは、割の合わない仕事を誠意をもってやってくれているから、私たちは一応安心して病院に行けるのだ。割が合わないと言って辞めていく看護婦は多いにも関わらず。
 それは彼女らが「生半可な覚悟」では臨んでいないからである。

 それなのに、金子兜太のように「国のために死んでいく制度には我慢できぬ」と抜かすアホがいる。これは病院に入院したとき、やかましい規則があるのは我慢できぬとわめく愚かな老人と同じである。誰のおかげで病気が治るのか、考えもしないバカ。

 誰もが税金は取られる一方で、宗教法人は無税、大企業も法人税消費税を逃れる。国民は戦争に巻き込まれる一方で、コネを使って徴兵忌避し楽なことをやって戦地にいかない奴もいる。格差がある。異性にもてるやつもいれば、縁のない奴もいる。不公平な世界である。

 不条理はできれば改善していくべきではあるが、だからといって、個人の権利ばかり言い立てていいわけがない。
 見ず知らずの他人様が、どこかでいつでも頑張ってくれているという感謝のカケラもないのがサヨクだ。見事にザイニチのマインドそのもの。

 集団的自衛権を法制化すると、かわいそうな自衛官が死ににいく、と涙ぐむなんて、自衛官への侮辱である。それは本来、日本人のマインドではない。これもザイニチどもの考え方だ。
 自衛官らは護憲派の甘ちゃんと異なり、生半可な覚悟で赴任しているのではない。

 まして護憲派は、まったくPKOですら現場に行きもせず、実態からかけ離れた上辺の話だけで、無礼にも「自衛隊の身を心配している」と押し付けてくる。
 ただの臆病者でマザコンのくせに、能書きだけはまったくイッチョマエで、違憲だからとか、支那を刺激するなとか言って臆病を隠したいからウソをつく。

 そういう現実をなめきった護憲サヨクの言い分を、国を護ってくれている自衛官たちがどんな気持ちで聞いているか。彼ら防人への観念的二重化、すなわち人の気持ちもわかろうとしないで、サヨクどもは自分勝手に「自分だけが正しい」としか言えない馬鹿者である。

 それゆえに、若者は半年でも1年でも、徴兵にかけて寮生活をさせるべきだと、私は主張しつづけている。徴兵即侵略かよ? 徴兵制のある国が、理由もなしに戦争をしかけまくっているのか? 
 せめて、ネットで『陽はまた昇る』を見て、訓練生に自分を二重化して鑑賞してほしいものだ。

 「それが嫌なら警官になるな」の台詞は、「それが嫌なら日本にいるな」と言い替えることができる。アメリカでも支那にでも移住したらいい。移住先なら幸せが手に入ると思うバカはどうぞ。

 祖国は周囲敵だらけだ。アメリカだって同盟があっても信用してはいけない。アメリカのせいで戦争に巻き込まれる可能性はある。まさに「生半可な覚悟」ではわれわれは存立し得ない。
 だから絶対に戦ってはいけません、などというタワゴトに付き合っている暇はない。

 「お前たちのように、世の中をなめきった奴は生きている資格はない」と鬼教官はいう。護憲派はこの言葉が身にしみないだろう。世の中を舐めきっているから、9条を護れなどとノー天気を言っていられる。同朋が支那や韓国に蹂躙されても、知ったこっちゃない、子孫が危険になろうと知ったかぎりじゃないと。

 戦後このかた日本は、自分さえ悪いことをしなければ他の国から悪いことはされないというフィクションを前提にして、ボケ〜っと生きてきた国である。それをいまだに護憲派どもは言い募る。
 ボクちゃんたち、ボケ〜っとしてたいんだもん、と。

 この思いが若者にも蔓延して、背骨がふにゃふにゃになっていて、このドラマで鬼教官が指摘するとおりの、最低の、主体性のかけらもなく、耐えることすら知らない人間が警察官になろうとしてくる。

 これを称して「世の中をなめきっている」と教官は評した。自分は何もしなくても、まあ税金だけはとられるけれど、無事に暢気に毎日ゲームやスマホで遊んでいられる、という「フィクション」を前提にして無駄に生きている。






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2015年07月02日

生半可な覚悟の愚か者たち(1/3)


《1》
 昨日まで3回の記事はアレキサンダーに関する論考であったが、今日はタイトルは変えるが、同じ論考の流れでドラマ『陽はまた昇る』を再度とりあげる。

 アレキサンダーの軍隊が、そして世界制覇が、人類に何をもたらしたかの考察をしたためてきた。劣等歴史家はなんども言うが、資料がなければ認めない連中だが、小説家らは想像の翼を広げて、見えざることをも見る実力を駆使する。

 『プルターク英雄伝』はその一例であろう。プルタークは紀元127年没の著述家であるが、以来二千年、全世界で読まれ続ける大ロングセラーだ。それほど人類は英雄を崇拝してきている。

 ではさらに『医学教育概論(5)』(瀬江千史・本田克也ほか著 現代社)から引用しよう。

    *    *    *

 「陽はまた昇る」のドラマの中で、医学教育の観点から見て興味深かったことが、もう一つありました。それは、新任の鬼教官の教育方針です。
 彼は警察官として現場を知りつくし、苦労をなめつくしてきただけに、「そもそも警察官とはいかなるものか、現場に出たらどのような実力をつけておかなければならないのか」という視点から少しもぶれることなく、日常生活での出来事も、警察官としての実力をつけるべく解決していくようにと、訓練生達を厳しく教育していきます。

 これは、本書の読者であれば周知のように、私達が説いてきた医学教育と、論理的に重なるものであり、このドラマの脚本家井上由美子の実力に、思わず敬意を表しました。

 すなわちいかなる専門といえども、専門家を育てたいと思えば、まずはそのゴールとしての像(警察官とは、医師とは、看護師とはの像)をしっかり描かせ、そこへ向けて単に知識を詰め込ませるのではなく、現実的に解決していける実力をつけさせることが必要であるということです。

    *    *    *

 警察学校ではいくつかのクラスに分かれ、その30人ほどのクラスを「教場」と呼ぶ。半年間、寮生活を送りながら警察官になるための訓練を行う。
 ドラマでは、そこへ訳あって佐藤浩市演ずる元捜査一課の鬼刑事が教官として赴任してくる。

 警察学校の訓練生たちは、娑婆っ気が抜けず、本気で人のためになろうと思って警官を志したものはおらず、普通の企業に就職できなかったから、固い警察にでも入ろうかというそんな「デモシカ」連中である。まるで公僕たるの自覚がない。

 まさに今時の若者。それを鬼教官がしごきあげるストーリーなのだ。
 訓練生たちは次々にクレームをつける。訓練が厳し過ぎる、ケイタイを卒業まで取り上げるのはやりすぎだ、雨なのに外でランニングさせるな、わかるように説明しろ、と一見もっともらしい要求や不満を叫ぶ。むろんそれは彼らが「ゴールとしての像」が持てないからなのだが…。
 それを鬼教官が一つひとつ潰していく。事実でわからせていく。

 例えば。鬼教官はこんなふうに言う。
 「お前たちは、(教官から注意されると)そうやってその場しのぎで取り繕おうとする」
 「警官はそもそも不公平な世界だ。楽して出世していく奴もいる一方、寝る間も惜しんで働き、へたをすれば命も落とす。こんな割の合わない仕事はない。それが嫌なら警官になるな」
 「お前たちのように、世の中をなめきった奴は生きている資格はない」

 「うまいものを食って、女と愛し合うために生きているような君たちに、銃を持たせ、手錠の掛け方を教え、人殺しを取っ捕まえるやり方を教えるのが、ここ警察学校だ」
 「警官になるということは、ときには隣りにいる奴を疑い、落ち度を探し、徹底的に追いつめる、それがこれからの君たちの仕事だ。生半可な覚悟じゃ勤まらないんだよ」


 こう言われた訓練生たちは「むかつきます。せっかくやる気になってがんばっているのに、水をぶっかけるようなことばかりなぜ言うんですか」と。
 鬼教官はこう言い返す。
 「むかつくのはこっちだ。どいつもこいつも文句ばっかりイッチョ前。何もできないくせに、権利ばかり主張する。
 お前たちは、ガタイだけ、能書きだけ、緊張感のかけらもない、そのうえ謙虚さが微塵もない」

 
 どうです。これが現代日本を覆っている暗雲である。
 権利ばっかり主張して、平和安全法制に反対する護憲派のありようそのものじゃないか。
 主張も生きざまも「生半可」なのに、文句ばかりは一人前、国家のために何もできない癖に権利ばかり主張して、「能書きだけ、緊張感のかけらもない、そのうえ謙虚さが微塵もない」

 アメリカも支那も韓国も、日本に対して「隣りにいる奴を疑い、落ち度を探し、徹底的に追いつめる」のが常態である。日本も嫌でもそうしなければ生き残れないのに、分かろうとしないのがサヨク護憲派である。
 
 『陽はまた昇る』の脚本の井上由美子さんは、見事に現代の大人たちの醜態を暴いている。

 ドラマのなかで、男子訓練生の一人が女子寮に忍び込もうとして露見するが、逃げたため誰だかわからない。濡れ衣を着せられた訓練生(三浦春馬)が、習ったばかりの鑑識のやりかたで犯人(クラスメート)を見つける。
 しかし、女子寮に忍び込んだとなれば退学させられる。友の窮状を理解した三浦春馬は、自分が身代わりになって「実は犯人はボクでした」と名乗り出る。

 しかし、鬼教官にウソが見抜かれて逆に追及される。「ボクは友だちを売りたくない」と叫んで真犯人を隠そうとする。
 それで鬼教官が諭す。

 「人を傷つけたくない、追い込みたくない、責めたくない、一見相手のことを思っているように見えるが、それはヒューマニズムに酔いたいだけだ。
 恐がるな。人に嫌われることを恐れるな、嫌われたり、憎まれたりすることを引き受けるのも、警察官の仕事だ」

 「お前たちは、警察官である前に人間だと言うのだろうが、それは半人前の人間がよく言う台詞だ」


 見事、現下のサヨク護憲派の特徴を言い当てている。
 支那人や韓国人には嫌われたくない、傷つけたくない、責めたくない、悪かったのは日本だから…と一見優しい人間のように振る舞うが、現実を何も直視しないで、ヒューマニズムに酔いたいだけ。

 自衛官である前に人間なんだから、戦場にいくかどうかの選択権はあるとか、無駄に血を流してはいけないとか…、そっくりじゃないか。
 集団的自衛権とやらで戦争に行かされて、「人を傷つけたくない、追い込みたくない、責めたくない」と言っている。それはヒューマニズムに酔いたいだけという言葉にもぴったり合う。

 沖縄のサヨクが「ぬち(命)どう宝」などと気味悪いことをクソ真面目に言っているのと同じ。端的にいえば、生命なんかたいてい百年は持たないでみんな死ぬ。
 「名句」にこんなのがある。「雨の日曜の午後何をするかにも困る何百万という人々が、不死を求めている」

 これはアメリカの作家スーザン・アーツが語った言葉だ。
 うまいことを言ったものだ。「命の大切さ」などとアホでも言えることを後生大事にして、その実、やりたいことは何もない。
 だからこそ古語にあるように「生死一如」を求めるのが人間ではないか。

 支那人や韓国人を「傷つけたくない、殺したくない、責めたくない」と、ほ〜ら、言っているじゃないか。…だって、憲法で戦争しちゃいけない、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」生殺与奪の権利を委ねましょう、とうたっているじゃないですか、というわけだ。

 こうして能書きだけ、緊張感のカケラもない愚か者ばかり声高に叫ぶ、それも反日サヨクの背後にいるザイニチどもに操られているというのに、反戦平和主義を気取っている。
 




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2015年07月01日

アレキサンダーはかく語りき(3/3)


《3》
 アレキサンダーの師・アリストテレスは、周知のようにプラトンの弟子であった。プラトンが書簡集で、学習する者たちは寮生活を何年ももったこと、その大事性を説いている。

 このことは昨年5月8日付の本ブログで「ドラマ『陽はまた昇る』が説く教育の奥義」で取り上げた。
 これは『医学教育概論(5)』(瀬江千史・本田克也ほか著 現代社)に紹介されていたものである。
 古代ギリシアでは、貴族の子弟たちは寮生活をし、文武両道で師について学問をした。

 『医学教育概論(5)』では以下のように解説している。
 「ここで(プラトンが)『〔教える者と学ぶ者とが〕生活を共にしながら』と記されているように、人間は同じ志を持った人間との、濃密な関わりの中でこそ成長していけるのは、時代を超えても真理なのです。このことは、歴史上初めて学問を(現象論とはいえ)体系化したといってよいアリストテレスは、このプラトンの門下生であったことが、実際の証明となるでしょう。」

 こういう学びを経験してきた指導者アリストテレスが、若きアレキサンダーに就いたのである。当然に、アレキサンダーは同年齢くらいの子供たちと文武両道の寮生活を送ったと思われる。映画でも格闘技を練習しているシーンが描かれる。

 やがて、アレキサンダーはマケドニアの軍を率いてペルシアを打倒し、世界征服へと向かっていく。すなわち、マケドニアの将兵たちは野戦で寮生活を続けたのと同じである。それが彼ら人間をいかに量質転化させたかは、映画はおろか、おそらく誰も説くことはない。

 もう一度、『医学教育概論(5)』(瀬江千史・本田克也ほか著 現代社)に紹介されていたドラマ『陽はまた昇る』の重要なポイントを再録しよう。

    *    *    *

 警視庁警察学校を舞台にして、入学してきた30名の訓練生が、新任教官である元警視庁捜査1課の鬼刑事(佐藤浩市)との戦いを経て、警察官をめざして成長していく様子を描いたものでした。

 このドラマを、医学教育という観点から見ていると、実に示唆に富む内容が多かったのです。その中で一番大きなものは、寮生活の重要性です。「今時の若者」と言われる、しっかりした人生の目的もなく、警察官になる自覚もなく、何となく入学してきた訓練生達が、お互い無視したり、反発したり、けんかしたりしながらも、助け合い、かばい合い、そして鬼教官に対して一致団結して挑みながら、最後に警察官へと成長して巣立っていくことができたのですが、これは、寮で24時間共同生活を送ったからなのだ、と分かることがとても大切です。

 この寮生活というのは、残念ながら現代ではほとんどなくなってしまいましたが、昔は、旧制高校にしても旧制中学にしても、また看護学校にしても、みな寮生活が義務づけられていたのです。
 従って、多感な若者達が何年間にもわたる寝食を共にする生活を過ごすことによって、お互いの人間性に触れ、切磋琢磨しながら、共通の目的に向かって成長していくことができたのでした。

 学生生活は本来ならそうあるべきであり、ましてや人間と人間との関わりが希薄になり、本音をぶつけ合うことがあまりにも少なくなり、相手を傷つけたくない、自分も傷つきたくないという風潮の現代だからこそ、卒業したら生身の人間を対象とすることになる医学部や看護学部は、たとえ1年間なりとも全寮制にする必要があるはずなのです。

 そのような人間と人間とのぶつかり合いを経験していない学生が、医師や看護師になって現場に出ると、患者の一言で傷ついたり、スタッフとのやりとりで腹を立てて感情をむき出しにしたり、上司の叱責で落ち込んで、うつ状態になったりすることが、往々にしてあるのです。

 そしてそのような現状を目のあたりにすると、逆に指導医の方が恐れをなしてしまい、これはまた、新人医師や看護師が実力をつけていく上で、大変不幸なことと言わざるを得ません。
 したがって、人間としての実力をつけるためにも、医学生、看護学生の寮生活を是非実現して欲しいと、医学教育の立場から強く願うものです。

    *    *    *

 昨今の話題に照らして言うなら、安保法制改訂に反対している護憲派どもは、まず寮生活を送ったことがないはずである。だから社会性が欠如し、些かでも傷つくことを恐がる。
 そうした己の幼稚さを隠しごまかすために、衆を頼んで、「きっと安倍は戦争を起こすにちがいない」と、理屈にもならぬことを叫ぶ。

 そのことはまた触れるとして、プラトン、アリストテレス、そしてアレキサンダーが経験し、意義を見出していた共同生活、軍隊での生活の中身は、『医学教育概論』に説かれている内実を把持していたのだと理解することが重要である。

 あのアレキサンダーの時代に、人類は若者が寮生活で鍛えることの大事性を発見し、捉え返し、積極的に実践するようになったのだ。
 戦争と「直接に」それが新しい文化を支えるいわば冠石なのだと、あの時代の先端にいた人たちは気づいた。
 それはアレキサンダーの軍がもたらした、一つの“財宝”だったと言ってよい。

 アレキサンダーはそれがわかっていた。しかしインドまで来ていた将兵たちは、もう国に帰りたい、女房や子供の顔を見たいと甘ったれた。自分たち軍隊が、これは人類史上の必要な戦争であり、世界の認識、そして脳細胞の高みを昇らせる実践なのだとは、見てとれなかったのだ。戦地の暮らしと共同生活はもううんざりだと、なっただけ。

 私も今の時代の感覚でいえば、アレキサンダーの遠征は長過ぎたとは思うけれど、大事なことはそんなことじゃない。
 人類が若者の共同生活の大事性を発見し、直感的であったとは思うがそれが人類を飛躍させるカギだと悟ったこと、これである。

 平時の寮生活より、野戦での軍隊生活のほうがむろんシビアで、だからこそ、そうでなければ得られない“宝”があると、彼らは悟った。言うなれば、金銀財宝や土地や女を得るなんてことは一時的である。すぐに忘れ去られる。しかし、人間の新たな段階での飛躍は、カネでは買えないものだった。

 これを人類にもたらしたから、アレキサンダーは偉大であり、「大王」「巨星」と呼ばれるのである。

 人間はある程度、シビアな局面にぶつかって、精神的かつ肉体的にそれを乗り越えるような修行・修業の場を持たなければならない。
 そういう場面にぶちあたったときに、逃げるならず行くならずに追い込まれ、その場合、最悪の場合は精神病になる。つまり精神病に逃げ込んで現実逃避をするのである。

 逃げきれることができる人間、逆に攻めることができる人間は精神病にはならない。なることができない、と言ったほうが良かろう。しかし、シビアな体験を持ちそこねた人間は主体性が持てなくなり、精神病に逃げるほかない。これが現在の護憲派である。

 そうだ主体性こそ大事なのだ! と最初に発見したのはアレキサンダーだったと言っては、牽強付会にすぎるかもしれないが、人類はここで、それまでのただ対峙する他共同体を襲って略奪するだけの行為から、抜け出したのだと思う。

 だからアレキサンダーは、将兵からの「もうやめようや」の声を退けて、さらに東へと進撃せざるを得なかったのである。
 格好良く言うなら、時代が、あるいは人間の認識が、量質転化を起こしきるまでは、進撃を止めてはならなかった。

 現在の護憲派どもの「9条を護れ」「若者の血をながすな(そうと決まったわけでもないのに)」との大合唱は、アレキサンダーの進撃を「止めろ」「止めろ」と大合唱したマケドニアの将兵と同じ腰抜けなのである。
 言っておくが、私は9条を撤廃して大日本帝国がやったように、世界戦争に討って出ろなんて言っているのではない。

 人間は失ってはならない魂があるのだと、言っておきたいのだ。
 魂をなくした連中が護憲派になっているテイタラクを責めている。
 3回にわけてアレキサンダーの論考を行った。これが、私が彼・アレキサンダーと“対話”したものである。常々言うように、下らない友だちや恋人はいらない、歴史的偉人を友とし、師とすればそれでいいのだと。本稿がその成果である。






posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(4) | エッセイ | 更新情報をチェックする