2015年08月31日

東大法学部卒の法匪が今日も跋扈する


 安保法案に根拠なく反対するサヨク護憲派どもは、安倍首相がまた戦前のように支那を侵略したり、朝鮮半島を植民地にしたりしようとしている、だから戦争できる国にしようと集団的自衛権を容認し、憲法9条を骨抜きにしようとしている、と主張する。

 これは明らかにデマである。「そうなるかもしれないじゃないか、いや、なるに決まっている」という欺瞞だけが根拠で、集団的自衛権や憲法解釈に反対するなら、日常で何もできなくなる。すでに何度も書いたように、結婚も、会社に入社することも、海外旅行に行くことも、外食することも、リスクがないではない。そのリスクが嫌だというなら、何もするな。

 結婚も入社も、なんでもサヨク連中はやっているくせに、集団的自衛権や自衛隊の海外派遣だけはダメだと言い張るのは、精神病である。
 ヴェトナム戦争は当時の南ヴェトナム政府と同盟を結んでいたアメリカが、集団的自衛権を行使して軍事介入した。一方の北ヴェトナムも、中共やソ連が集団的自衛権を使って南を攻めた。それで大戦争に発展した。

 だから、集団的自衛権を認めると日本はきっと、アメリカの起こした戦争に集団的自衛権を名目に参戦して大戦争になっていくと、こうサヨクはのたまう。
 そうした例はないではないが、ではすべての国が保有している権利の集団的自衛権を常に発動して、世界はどの国も戦争をやらかしているのか? ほとんどやっていないじゃないか。

 この件に関しては、安倍首相はなんどもそういう戦争参加の仕方はしないと答弁している。三要件に合わないなら自衛権は発動しないというのだから、話はそれで終わりである。なのに、きっと戦争をする気だとさわぐのは、だだをこねているだけだ。

 彼らがちょっとでも自衛隊の海外派兵を認めないとしている根拠は、支那事変への誤解が根本にあるようだ。
 平和で善良で争いごとを嫌う支那人を、日本軍が一方的に侵略した“前科”があるうえに、そういう侵略を指導したA級戦犯を、あろうことか安倍首相は断罪しないで、堂々靖国に参拝している。つまり、支那事変の反省をしていないから、平気で靖国に行くことができるのだ。

 …と、こういうデタラメな言い訳をする。自衛隊を軍隊にすると、またぞろ侵略をはじめるに決まっていると。ちょっとでも自衛隊の言い分を認めることは、軍部独裁になって、満州事変や支那事変をおこした軍部を想起させるというわけだ。まさにこれは支那や韓国の言うデタラメそのもの。

 満州事変はソ連の諜報工作であったし、支那事変はPKOで上海や北京に駐在していた列強の軍隊にあって、日本軍だけが狙われて戦争を仕掛けられたのである。
 むろん何度も言うように、仕組まれた戦争にやすやすと乗って、自分たちも野心まんまんで支那に進駐していった日本軍に間違いはあったが、日本が侵略をしたのではない。

 こんなことは少し勉強すれば明らかなのに、なんと日本の学校の歴史教科書は、自虐史観一色である。だから受験勉強の絞り滓ほど、日本が悪かったと洗脳されている。

 官僚どもになるのは東大が主力である。ほかは東大の亜流で、独自色をだせるほどアタマは良くないし、根性もないから、東大に右へならえである。
 東大の史学科は、明治の愚かなお雇い外国人教師が、勝手に空想した日本の歴史は遅れていたからこうだろうという偏見に満ちていた。それを馬鹿正直に押し頂いた連中が東大出て官僚になり、東大に残った研究者は、その考えで徒弟制度を組んだ。

 東大の研究者どもは、歴史学にモラルを持ち込んだ。現代の価値観のモラルで歴史を見る愚をおかし、それが連綿とつづく。だから東大生だった大江健三郎も、憲法すらモラルで見る馬鹿をやった。
 9条こそ最高のモラルだと唱えている。旧日本軍の行為はすべてモラルに反していた、アメリカ軍や支那軍は善だったと、こうなる。

 これは西尾幹二氏が語っていたが、戦後一時期ヘルベルト・マルクーゼの思想が一世を風靡したことがあった。マルクーゼはユダヤ系ドイツ人で、ヘーゲル、マルクスの研究家、ナチスを嫌ってアメリカに亡命している。端的には修正マルクス主義者とでもいうユダヤ人で、これが東大に巣食っていたサヨクに持てはやされた。

 そのマルクーゼに汚染された東大法学部から、サヨク官僚、とりわけ法務省に絶え間なく供給されてくる。そのため、彼ら法匪が男女機会均等法とか、人権擁護法案とか、外国人地方参政権付与とか、国会図書館一部改正法とか、サヨクがうれしがる法案を次々に出す。政治家は勉強しないから、法匪の言いなりになる。

 国会図書館改正法は、国会図書館に「恒久平和調査局」を設置しようという趣旨である。鳩山由紀夫、保坂展人、辻元清美らの反日の議員提案だったが、背後で操っているのは法務官僚である。何度も提案されつつ廃案になっているが、油断はできない。
 
 サヨクが独占する東大法学部に巣食う法匪と、その弟子として官僚になったりマスゴミの記者になったりした連中は、どうしても自分がアタマが良い人間だと自惚れる。なんでも俺たちが決めるのさ、正邪の判断も俺たちでなければできないんだと思い込んでいる。

 だから歴史も正邪で見たくなるのだろう。
 悪い戦争と正しい戦争があるとか、悪い戦争も良い戦争もなく戦争それ自体が悪なんだとか思いたいようだ。
 その考えのトップにしたがって、大衆は東大様の言う通りと思い込む。

 戦争には道徳的に良い悪いはない。だからどこにも謝罪する必要はない。当然、正しい戦争か悪い戦争かという区別は現代の国際法にはないし、戦争自体を悪とする国際法もない。
 誰がみたってあからさまな侵略は国際法違反とはなっているが、支那をみれば歴然としているとおり、戦争する国は、つねに自国が正しく敵国は悪いと宣伝する。侵略じゃなくて自衛だとか、非圧迫民族が救援を求めていたからと、なんのかんのと正当化する。

 それが実にたくみだったのが、アメリカや支那だった。
 かつてヨーロッパ中世の戦争では、戦争は悪を滅ぼす戦争なので、相手が全滅するまで終わらない。
 その結果があまりにも悲惨だったために、先進国が集まって戦争に道徳的な判断を下さず、ルール違反かどうかだけを問題にすることに決めたのがウェストファリア条約であった。

 日本軍だけがルール違反をしたのではない。何度も言うが支那事変は蒋介石がソ連に締め上げられて戦争を仕掛けたのだ。PKOに参加していた日本軍だけを襲ったのである。それを宣戦布告もしないで支援したのがアメリカだった。

 真珠湾攻撃がルール違反だというなら、その前に「義勇軍」とウソをついて参戦していた米軍はもっとタチが悪い。
 だから東京裁判でパール判事が示したとおり、日本軍は国際条約から見て無罪だったのである。

 ところが、東大の法匪どもはアメリカにおもねって、東京裁判を有効と主張して、GHQからの追放を逃れ、戦後もアメリカに国費で留学でき、その後も官僚機構や大学で出世できる道をのうのうと確保してきたのである。

 このたびの安保法制は、安倍首相がなんとしても成立を図りたい案件であって、自民党もそれで一致はしているが、法匪どもは面白くないのであろう。だからほとんどの法律の専門家と称する法匪連中は反対のための反対をしている。テメエたちにもの言う資格なんかないのに。

 理屈はまったくない。違憲だと無理なこじつけを抜かすだけ。自衛隊の存在は違憲じゃないが、集団的自衛権行使は違憲だなどと、法律の専門家は言うセリフとは思えない醜態。

 護憲派サヨクは、こういう法匪が跋扈している日本の現状を、まったく理解しないで、お仲間だと思っている。
 どこまでも汚ないのが東大出の法匪官僚や記者であるのに、そういう不潔な生きざまと非倫理性を見てみぬふりをする大衆も同罪になる。

 東大の劣化とたちの悪さの背景の一つには、いまや東大は金持ちの子弟ばかりが合格するからだ。受験に多額のカネをかけるから、受験秀才になってパスする。
 つまりは貧乏人は排除され、そうした志ある者がパスしない。
 金持ちどもは必然的に、現状維持が最も望ましい。だから戦後サヨク体制が彼らによって維持されて行く。



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2015年08月29日

加藤陽子、みじめな、あまりにみじめな…(2/2)


《2》
 外交とは端的にいって、実利だけの交渉ごとではない。それぞれの国の文化や品格や誇りを賭けた戦いである。
 戦時中の満州での「五族協和」や、「大東亜共栄圏」の構想は、実利でもあるし、白人の植民地支配からの脱出を図るための思想であった。それ自体は称讃されていいし、われらの誇りである。
 決して支那人はそういう「解放」は言わなかったクズどもだ。

 加藤陽子がそういう構想はいけなかったというなら、戦後のEUも悪だし、ASEANも、支那の政治圏構想も、すべて悪だといわねばならない。
 媚中派の加藤陽子が、支那が言い出したAIIB構想は、当然、これは戦前の大東亜共栄圏と同じ発想だからやめろ、と主張したのだろうねえ?

 日本が信託統治をしたサイパンやパラオといった南洋諸島、満州の満州人や支那人がどれほど日本に感謝しているか。
 黄文雄氏が説いていたが、満州には実に華北から百万人の支那人が(無許可で)潜り込んできた。平和で安全で、商売が成り立つからだ。

 日本軍が悪辣な馬賊を退治してくれたからであった。日本軍にも綺麗事ばかりではなかったが、すべてが悪だったのではない。どちらかといえば、すべてが悪だったのは、蒋介石のほうだし、スターリンのほうだし、アメリカであった。

 作戦自体は無謀ではあったが、インパール作戦は日本がインド独立を支援する約束を果たすために敢行した。インドはそれを忘れていない。だから昭和天皇が死去したとき、長く喪に服した。

 戦争後もそうした白人支配を跳ね返して、自立した国家になろうという思想は、ヴェトナムやインドネシアに残った日本兵が受け継いで、果敢に戦い白人に勝ったのだ。それはみごとな“外交”ではないか。

 彼ら現地に残った日本兵は実利だけなら、さっさと復員すれば良かったのに、彼らはそうしなかった。そういう志や信義が害務官僚の石射猪太郎や東大に巣食って税金をふんだくる教授どもにはわからない。

 映画『ムルデカ』くらいは観てからものを言え。
 (ムルデカはインドネシア語で独立)(以下は予告編)
https://www.youtube.com/watch?v=hiUTLHjvmHI

 さて、記事のキモである加藤陽子の安保法案批判。
 引用する。

     *    *    *

 日本人が平和憲法を守ってこられたのは、在日米軍の存在があったからであり、また米国の核の傘のおかげなのだ、といった論調です。

 ただ、9条には、国内的な存在意義がある点を忘れるべきではありません。9条の存在によって、戦後日本の国家と社会は、戦前のような軍部という組織を抱え込まずに来ました。
 戦前の軍部がなぜあれだけ力を持てたのかといえば、国の安全と国民の生命を守ることを大義名分とした組織だったからです。

 実際には、大義の名のもとに、国家が国民を存亡の機に陥れる事態にまで立ち至りました。軍部は、情報の統制、金融・資源データの秘匿、国民の監視など、安全に名を借りておこなったのです。

 このような組織の出現を許さない、との痛切な反省の上に、現在の9条があるのだと思います。

     *    *    *

 在日米軍がいたから、平和つまり支那やロシアからの侵略がなかったという話はどこかにすっ飛ばして、軍部が悪かった、軍部という組織の成長を阻めたから意義があった、と話をすりかえている。
 アタマ悪いなあ。

 戦時中に、軍が「情報の統制、金融・資源データの秘匿、国民の監視など」を行なったのは、当然である。アメリカやドイツやイギリスはそういうことはしなかった、あくまで自由に、情報も全部公開していたとでも言うのか?
 これではまるで「NHK朝ドラ史観」そのまんま。

 軍が統制していてもなお、村岡花子なんかクリスチャンは、米軍の手先になったのだ。取り締まるのが当たり前ではないか。
 9条が言っていることは、国際紛争の解決には、それが直接わが国をおびやかすものであっても、武力行使はしない、だから陸海空その他の戦力も保持することは禁じる、というものだ。

 結果として、加藤がいうような「9条の存在によって、戦後日本の国家と社会は、戦前のような軍部という組織を抱え込まずに」すんだとは言える。結果としてというより付随的に、だ。
 いかにもそれで自衛隊は違憲のままで、戦前のような確固とした組織は持てなくなった。それが70年続いた平和の原因だと言い出すから、おかしなことになる。

 韓国も中共も、その他どこの国家でも軍の組織は持っている。そういうやっかいな組織を持っているのだから、加藤の言い方にしたがえば、すべてが侵略戦争を毎日のようにやっている、となる。
 戦力を持たず、軍と言う組織も持たないから平和だった、とする、サヨクのお定まりの言い分。アホか。

 ようするに加藤は支那や南北朝鮮は永遠に悪くないのだ。悪かったのも、これからも悪いのは日本だけ。無茶苦茶な意見である。
 日本はアメリカの属国だった。だから支那や南北朝鮮は、日本を占領している米軍の軍事力が効いていて、日本を侵略できなかっただけのことである。

 9条はそのみっともない実態を隠蔽するために使われて来た。加藤陽子らサヨクは、そのお先棒を担いできたのである。
 日本人は目覚めて主体性を持つようになることを阻止したいのが、支那、南北朝鮮、アメリカらである。

 東大の教授がアホになるにはアホになるだけの理由がある。一つには受験勉強の絞り滓で、知識だけはたくさん詰め込んでいるが、論理能力や生き生きした感情、厚みのある品格などはごっそり抜け落ちている。

 それに東大を4年間、大学院を経て助手から教授へと、ずっとずっと赤門をくぐり続ける毎日。
 人間が発展する、あるいは歴史性を持つためには、場所移動が必要である。Chenge of the place,Chenge of the brein.
 東大に巣食って税金をちゅうちゅう吸いつづけて何十年、そうやっていれば哀れな東大教授にしかなれない。

 いい気になって東大の椅子に座り続けた報いである。
 偏僻に執するまでになった、哀れな研究者。

 何度も言うが、中共が文化大革命をやらかしている最中は絶賛し、終息して実は無辜の民が何千万人殺されただけだったと知ると、素知らぬ顔して、自分は礼賛なんかしていないと、しらばっくれる、そういう人間になったのは、東大での対立物の相互浸透による量質転化であった。





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2015年08月28日

加藤陽子、みじめな、あまりにみじめな…(1/2)


《1》
 加藤陽子(54)は東大教授で、日本近現代史専攻。このご婦人が毎日新聞8月16日付の「戦後70年 思う」とする連載コラムに登場あそばされた。インタビュー記事であり聞き手は栗原俊雄となっている。

 およしなればいいのに写真付きで記事に仕立ててある。中年太りの体形をなさっている。ご尊顔はGoogleで検索されるといくらでも出てくる。
 「9条の意義 見つめ直す」。このタイトルからしてアホくさ、というべきものだ。これだけでこのコラムの言いたいことが読まずとも知れてしまう。

 東大の近現代史となれば、著書を読むまでもなくサヨクである。
 加藤は東大の右派ともくされる伊藤隆の弟子なのに、裏切って(?)サヨク史家になった。
 自分たちの大先輩の歴史研究者が、みっともなく学問とは相容れない徒弟制度を敷いて、象牙の塔として独占してきたかは、決して口をつぐんで言わない。
 なにが戦後70年に思う、だ。
 では聞くが、おぬしら東大の社会学系の教授たちは、これまでの70年間、どんな見解をマスゴミで述べてきたんだ?

 毛沢東が「大躍進」とか「文化大革命」とかで、国民を何千万人も殺戮しているのを知りながら、そらトボケてないことにし、中共は新国家を建設し、アメリカや日本の帝国主義に反対し、弱小の周辺国への支援を優先させてきた、と大ウソを振りまいてきたのは、東大を頂点とする研究者どもである。

 中共が、チベットやウイグル、内モンゴルに侵略して、民を塗炭の苦しみにおいこんだことも、すっとぼけてきた。
 ありもしなかった南京大虐殺、従軍慰安婦、毒ガス作戦などなど、中共のウソを黙認してきたのも東大の教授どもだった。

 いまやあの朝日でさえ、慰安婦記事の捏造を認めざるをえなくなったほどに、サヨク論壇は退潮し、岩波の「世界」なんかはサヨクの多い公立図書館しか置いてない。誰も読まなくなった。

 北朝鮮による日本人拉致も、そんなことは事実無根だと言いはりつづけてきたのも、社会党や共産党だけでなく、東大などの社会科学系の研究者どもであった。
 東京裁判におけるBC級“戦犯”の裁判記録は、国会図書館に保管されながら、サヨクに都合が悪い箇所があるという理由で、ただの内規で閲覧が妨害されてきた。それを陰険にやってきたのが、加藤が所属する左翼の連中であった。

 こういったウソ、デマ、捏造、真実の隠蔽を、マスゴミの支援によってまかり通ってきて、今日なお、安保法案は戦争法案だとデマをとばし、「ファシストくたばれ」とわめくのが、加藤陽子らサヨクである。

 護憲派の平和を愛する心優しい方々よ、諸君の“理論的”背景を学者と自称して主導しているのが、ウソ、デマ、捏造を支那や南北朝鮮に関して書きまくってきた東大教授だということに、恥ずかしさはないのか。

 これは譬えてみれば、前科10犯の結婚詐欺の男がいたとして、また女性に「こんどこそ君を愛している、本当の恋だ、結婚しよう」と言ったら、あなたなら一も二もなく信じるかね?
 東大のサヨク歴史家や法律研究者どもは、戦後さんざんそういう偽善、欺瞞をマスゴミに偉そうに垂れ流してきた。詐欺である。

 文化大革命はすばらしいと褒めそやし、次は改革開放経済はすばらしいと言い、南京虐殺はあったと抜かし、その舌の根もかわかぬうちに、安倍の安保法案についても堂々発言するのだ。信用しちゃっていいの?

 新聞・テレビはいまだにサヨクが占領しているようだが、いわゆる論壇、時事評論や社会学的論文を掲載する「総合雑誌」の分野では、保守系が圧倒している。

 加藤陽子について、Wikipedia には「安倍晋三首相の歴史認識を批判し、特定秘密保護法に反対し、『安倍政権を特に危険だとみなして』集団的自衛権に反対する『立憲デモクラシーの会』呼びかけ人となっている」と表記されている。

 だから毎日新聞はお仲間を引っ張り出してインタビューしたのだ。安倍首相を批判する前に、おぬしのしまりのない体形と品のない顔つきを直してからものを言いなさいよ。

 それにしても、加藤陽子さま、あなたは中共の肩をもつけれど、支那の国民が何千万人も殺されたり、チベットやウイグルで大虐殺があったりしたことについて、ウソをついてきたことに反省はないんですか? と聞きたいものだ。
 そういうことにはマスゴミも同罪だから、知らん顔している。

 加藤陽子はこの毎日新聞の記事の中でもピンぼけな発言をしている。
     
     *    *    *

 最近、「リットン報告書」「英国人リットンを長とする国際連盟調査団による満州事変報告」を再読し、日本に欠けていたのは実利主義の観点だったと思い至りました。当時の日本は、支那政治の不統一と混乱を言い立てていました。しかし報告者は、平和を維持し支那の統一と近代化を進める道こそが、隣国日本の経済を最も潤すはずだと説いていたのです。

 (中略)
 日中戦争勃発時の外務省東亜局長、石射猪太郎も、回想録のなかで、こう語っています。「外交ほど実利主義なものがあるであろうか。国際間に処して、少しでも多くのプラスを取り込み、できるだけマイナスを背負い込まないようにする」。今こそ、味わうべき提言でしょう。

     *    *    *

 ほんまにこの低度が東大教授かいな、とあっけにとられる発言である。
 加藤陽子は安保法案反対の立場だから、要するに支那を敵視してはいけない、支那は正しい、支那とは友好でいけと、こうなる。
 満州事変の解釈がこの低度とは。リットン調査団は、ユダ金から派遣されてきていたのである。戦後、サヨクの自虐史観が神様のごとく扱って、リットンの言う通りにしておけば、戦火は拡大しなかったのに、と言うようになった。

 加藤はそうした前任者の轍を踏んでいるだけ。「再読して思い至った」とは言いも言ったり。
 しかし満州事変も通州事件も、上海事変も、そのあとの日本の対応に間違いもあったが、仕掛けたのは蒋介石や張学良、ソ連やアメリカの工作員だったのであって、実利主義でいけば支那と戦争にならなかったなどと言うのは、まったく見当はずれである。
 
 外務省東亜局長・石射猪太郎が言っていることは、無内容である。これが外交の専門家の言うセリフか? 外交は実利だけではない。この男も在米勤務が長かったから、プラグマティズム的思考に伝染されてきたのだろう。






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2015年08月27日

「学問の自由」が侵害される!?


 また毎日新聞の記事からだが、つぎからつぎによくくだらないネタを拾ってくるものだ。
 8月22日付記事が2つ。いずれも安保関連法案反対のおバカがまた登場してきたという内容。

     *    *    *
〈安保法案:90大学で反対 教職員、学生ら有志が表明〉
 参院で審議中の安全保障関連法案を巡り、各地の大学で教職員や学生たちが反対したり廃案を求めたりする動きが加速している。多分野の研究者でつくる「安全保障関連法案に反対する学者の会」のまとめによると、有志が反対の意思を表明している大学は22日現在、約90大学に上っている。

 各大学で発足した有志の会は、ホームページを開設して声明などへの賛同者を募っている。
 名古屋大では、教職員や学生ら有志の会が今月5日に発足。ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英・特別教授や元学長の加藤延夫、平野真一両名誉教授ら約150人が呼びかけ人に名を連ね、賛同者は420人に。設立趣意書は「(法案は)人々や社会の幸福を破壊し、大学の自治や学問の自由が危険にさらされる」としている。
  (後略)【樋岡徹也、石戸諭】

     *    *    *

 そして、「安全保障関連法案に反対を表明する大学は次の通り」としてずらずらと大学の名前が連なっている。大学が公式に表明しているのではなく、その大学に籍を置く者が勝手にやっているだけのに、こういういかさまをやる。
 みんな民青の仲間なんだから、どこの大学にもインキンタムシみたいな民青はごろごろいる、というだけの話。

 共産党だと、堂々と名乗らず、一般市民を装って人を騙そうという魂胆に薄汚くもいぎたないものを感じる人、多数、という事情を彼らは考えもしない。
 昔から共産党組織民青は、あまり考えもない学生なんかを言葉たくみに誘って、いずれは共産党に入れようとしてきている。

 同じ共産党の浅知恵は以下の運動でも。

     *    *    *

〈安保法案:中高年も黙ってない 「ミドルズ」結成〉
 全国の40〜50代の「中年」を中心にした男女が、安全保障関連法案に反対する団体「MIDDLEs(ミドルズ)」を結成し、22日に国会前で初めての抗議集会を開いた。 

 学生団体「SEALDs(シールズ)」が法案への抗議行動を続ける中、「親世代も黙っていられない」と千葉県野田市の行政書士、岩脇宜広さん(56)らがインターネット上で呼びかけ、賛同した20人をメンバーに、7月に活動を始めた。

 これまで「法案が可決されれば二度と平和国家に戻れない」との声明を発表するなど、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)で活動の輪を広げた。初集会には同世代の大学教授らも招き、呼びかけで集まった約300人(主催者発表)が「戦争反対」「集団的自衛権いらない」と声を上げた。
 (後略)【平塚雄太】

     *    *    *

 じつに嬉しそうにサヨク毎日新聞は記事にしている。あからさまな偏向。安保賛成派の活動は意地でも載せない、これが「品格がない」とする所以である。
 毎日新聞はこれら活動の見出しに「学問の自由を守れ」と付けているが、オヌシ正気か?
 彼ら民青は、「(法案は)人々や社会の幸福を破壊し、大学の自治や学問の自由が危険にさらされる」としている。

 国会で審議されているのは、あくまで国家の安全保障の話であって、学問の自由を守るべきか否かの話はまったく議論されていない。
 そういう味噌も糞も一緒にして、とにかく自民党や安倍内閣に反対のための反対を言いつのるって、本当にバカか?

 集団的自衛権が容認された法律が成立したら、学問の自由が損なわれる? なんのつながりもない。デマである。
 まだしも「風が吹けば桶屋がもうかる」のほうが話がつながっている。
 そもそも今の大学に、学問をやっている者がいるのか? 税金をふんだくって、役にも立たぬ重箱の隅をつつくような浮世離れした研究をやっているくせに、「学問の自由」だと!?

 戦争中のナチスドイツとか今なら支那や中東のイスラム国なら、学問の自由は制限されていた、ないしされている、と明らかに言えようが、日本のどこにそんな流れがある? くだらない研究をそれこそ好き勝手にやらかして恥じないのが大学に巣食う者どもではないか。
 
 安倍首相がいつ、安保法案の説明で、「これが成立したら、大学の自治はなくすし学問の自由はなくなる」と言った? バカ言ってんじゃないよ〜♪
 こんな取り上げるにも値しないデマを、天下の毎日新聞が、はずかしげもなく記事に仕立てたもんだ。

 こういったサヨク連中に、現在、支那には学問の自由がないが、諸君らは当然、中共にも抗議の声をあげるんでしょうね? と聞いてみれば、彼らは怒りを含んで沈黙するだろう。日本ではデマでしかないが、支那やイスラム国では現実の問題なのだから、文句を言えばいいじゃないか。

 スペインでは、チベット族に対する残虐行為の首謀者として江沢民に逮捕状を出したそうで、実際に捕まりはしないだろうが、その意気は壮とし得るではないか。それを日本のサヨクも真似て、学問の自由を侵害している支那やイスラムを非難しなさい。

 ところが大学に巣食う者どもは、支那や韓国、あるいはアメリカなどと「文化交流」するのが大好きで、何も学的成果を挙げた試しがないものだから、そういう友好行事だけは熱心にやって、税金を有意義に使っています、と言う。

 この毎日新聞で記事にしてもらった連中は、像がなんにもない。集団的自衛権の像もなければ、学問やその自由の像もない。像を伴わない言葉だけで遊んでいる。
 高度過ぎようが、「自由とは必然性の洞察である」と説いたヘーゲルの言葉の像すらあるまい。
 政府とか役所からあれこれ介入されたくないだけのことだろう。

 そのくせ、何度も言うが、森銑三さんが研究した西鶴論考は完全無視。海保静子先生の『育児の認識学』も無視、無視だけではない、本をださせない、発言させないという暴挙を、官民挙げてやらかしているくせに、なにが学問の自由だ。

 それが特殊だというなら、医学・医療界でも同じ。大学医学部は東洋医学を無視、発言は絶対にさせない。そうして学問の自由を奪っているのは、「安全保障関連法案に反対を表明する大学」の連中ではないか。
 東洋医学と西洋医学が統一されて、それこそ仲良く手をつなぎ合ったら、どれほど患者が苦しみから救われるかしれないのに、利権を手放すまいと、妨害している。どこに自由がある?





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2015年08月26日

寝屋川の少年少女殺害事件の闇(3/3)


《3》
 この事件の教訓はまだまだある。
 世の中において「力」をなめてはいけないということだ。
 この事件の犯人は、少年たちより自分の暴力のほうが確実に上回っていると確信したから犯行に及んだ。子供たちは当然のことながら力に負けたのである。

 サヨク護憲派らは、自分が力を持たなければ平和がやってくる、暴漢も見逃してくれると信じ切っているが、それがいかに妄想でしかないかは、こうした事件を見ても明らかなのに。

 もしもあの少年少女が護身術を学んでいたなら、そもそも用心深くなり、深夜に危険な所をうろつくなどしなくなるし、万一襲われたとしても、武技を使って相手を怯ませることは中学生でも可能であった。
 マスゴミは同級生らが通夜で「ひどい、犯人を許せない」と泣きじゃくる様子を記事にしているが、「許せない」のだったら、どうやって報復するとでもいうのか。そんなことを呟いても意味はない。

 これを教訓にして武術を習おうとか、学校の正課に空手を認めてもらおうとか、やはり力には力の保持が抑止力になるのだと言うようになるべきが、「許せない」と言うだけ。
 マスゴミも決してそういうまともな対応方法を記事にしない。甘やかすのみ。どこからも護身術を習わせようという声は聞かれない。

 だから自衛隊は違憲だ、他国の侵略をうたがってはいけない、暴力に対応するには話し合いで、平和主義で、という論調に誘導する。
 そうやってサヨクマスゴミが醸成してきた戦後このかたの緩んだ“空気”こそが、今度の寝屋川の凄惨な事件を招来したのに。

 今回の場合、どうやって連れさられたかの詳細はわからないけれど、仮に犯人に手を持たれてクルマに連れ込まれそうになったら、大声で助けを求めながら、すばやくしゃがみこむと良い。重心が下がって、大人と中学生の少女の体力差があっても、犯行者は容易には少女を引きずっていけなくなる。

 もう少し勇気があるなら、犯人の足の甲を踏むと良い。犯人は手をつかって子供を連れ去ろうとしているのだから、いわば足はお留守になっている。子供のほうは手が使えなくされていても足は使える。
 だから足で相手の足の甲を思いっきり踏むのだ。足の甲は急所だから、中学1年の少女でも十分効く。

 犯人は足が狙われていると感じたら、必ず怯む。あるいは実際に踏まれれば痛くて、手を放す。そこで逃げればいい。
 これなどは簡単な防御技ではあるが、とりたてて習熟に期間を要するまでもない。万一のために少し練習しておくだけで十分使える。

 大声をあげられ、しかも拉致に手こずれば、犯人は焦って逃げた可能性が高い。単独犯なら十分対応はできたはずだ。
 こういう程度の護身くらいは、親や学校が教えておくべきではないのか。それすらも、サヨク教師は暴力はいけない、話し合いで解決しなさいと言うのだ。

 抵抗すればリスクは高まる、と。国家も同じで、9条をないがしろにすれば戦争のリスクが高まるからいけない、というのと同じ。
 少年少女は抵抗しなかったから殺されたのに、きっと少しでも抵抗したから殺されたんだ、対抗しなければ犯人も殺そうとはしなかったはずだ、とでも言うのだろうね、サヨクは。

 中学生や高校生が、戦前のように学校で武道が正課になっていて、誰もが剣道や柔道の有段者だとなっていたら、ああいう朝鮮人変質者であっても手出しはしにくくなる。それが抑止力である。

 この簡単な論理を、サヨクマスゴミや教師どもは絶対に言いたくない。言えば、9条は害になる、人間性に悖ると宗旨替えしなければならなくなるからだ。

 それから少女たちは殴られた痕があったそうだが、一発で倒されたのならそれまでではあるが…、まだ意識があったなら頑張れたかもしれない。
 というのは、おそらくあの子たちは親からも教師からもぶたれた経験がなかったと思われるからだ。

 殴られた経験がないと、初めて殴られた衝撃は大きい。殴られた経験をしていれば、こんなものかと思えるのに、大パニックになってしまいかねない。
 ボクシングを見ればわかるように、彼ら選手は殴られても殴られてもファイトに向かう。

 ボクシングの場合はグローブで衝撃を和らげているせいでもあるが、選手はいつも殴られなれているから、「こんなもの」という認識ができあがっている。
 しかし生まれて初めて他人、しかも敵意をもった暴漢に殴られるとは想定外で、激しい恐怖、しかも痛みに我をわすれてしまう。

 戦意喪失、抵抗する気力を失う。おそらくであるが、それはあの2人の子供にも起きたであろう。
 日ごろから教師や親が体罰をしていれば、殴られたりぶたれたりしても慣れが生まれ、抵抗できるようになる。

 吉幾三が昔歌ってヒットした「おら東京さ行くだ」にある、信号ねえ、新聞ねえ、電気もねえ、「おらこんな村いやだ〜」から大都会に出てきたら、幹線道路の前に出ただけで恐怖でたちすくむだろう。
 しかし都会で暮らしているなら、危ないと承知しているが恐くはない。同様に恐さはどのようなものかを知ることは大事なのである。

 国家レベルでも同じことで、いつも戦争の緊張感があって、軍備もちゃんと整っていて、たまに戦死者が出る、そんな状態なら、ゆえなき恐さは減る。
 それを絶対に争いからは逃げろとだけ言っていると、尖閣諸島で支那漁船が体当たりしてきただけで、パニクってうろたえ、どうしていいか分からなくなる民主党政府みたいになるのだ。

 警察も消防でも、その訓練のなかにはある程度の危険を冒しながらやっているはずである。それで恐怖に慣れておかねば、犯人を逮捕したり、炎の中に飛び込んだりはできない。
 訓練中に殉職するケースは必ずある。個人的には気の毒だが、社会の安全のためには払わねばならないリスク、犠牲である。

 そうしたリスクがあるからと言って、訓練を机上だけにしたり、そもそも警察や消防をなくすべきだと言ったりする者がいるわけない、と思いたいが、実はいるのだ。それがサヨク護憲派である。

 一つ付け足すと、今度の事件は警察のやらせではないかとおっしゃってこられた方がいるが、その可能性はあるけれど、私はその説はとらない。
 むしろ、ザイニチの犯人は人身売買でカネを稼ごうとしたが、二人に抵抗されたために殺してしまったかもしれないと思う。ヒューマン・トラフィッキングだとすると、その実態が公開されると、世間もショックが大きいし、犯罪組織などにとっては都合が悪いので、警察と組んで隠蔽し、ただの猟奇殺人に仕立てるのかもしれない。

 
 





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2015年08月25日

寝屋川の少年少女殺害事件の闇(2/3)


《2》
 先週土曜日のブログにしたためておいたが、本事件は親と子供の育ち方に根本原因はある。

 「寝屋川で殺害された中学生の少女は、親の管理もずさんだが、あれはきっと、親も子供も粉ミルクで育っているから、深夜に寝ることもなく繁華街を徘徊できる脳になっているのである。人間の母乳で育ち、人間としての躾を受けてきていれば、夜は素直に眠るようになっている。」

 こうした事件の遠因に粉ミルクがあることを知るべきである。
 粉ミルクでは哺乳類レベルのDNAしか赤ん坊に伝わらない。
 赤ん坊は母乳で育つべき時期に、母乳つまりは母親の血液が転化したものから、人間のDNAを受け取らなければいけないのである。
 それが粉ミルクでは、いうなれば牛のDNAが注入されることになる。

 先週の段階では少年がまだ行方不明だったから「少女」とだけ書いておいたが、少女も少年も、である。
 きちんと人間として育てられれば、夜は眠くなって起きていられなくなるのが実体も認識も健全に育った子なのである。
 街中で野宿できるのは、まさに牛である。

 私の友人で、今どき珍しく5人も子供をつくったものがいる。彼の家に行って泊めてもらい夜遅くまで飲んだことが何度かあったが、1歳や3歳の子供たちが深夜まで起きてはしゃいでいるのだ。11時、12時ころに私と友人が寝ても、まだ階下では子供たちが騒いでいる。
 これはおかしくなるぞ、と思っていたら、やっぱり5人のうちの3人が不登校児になった。
 精神障害になった子もいた。

 睡眠や生活習慣をいい加減にすれば、こういう報いを受ける。親も「だって、子供が寝ないんですもの。朝は遅くまで寝てますから、全体では寝たりているからいいでしょう」こんな言い訳を奥方から聞いた。
 子供が毎年生まれていたのでは、家事が多忙になって、ちゃんと子供を躾けられなかったのは分かるが、あまりに世間知がなさ過ぎた。

 高槻で殺された少女と少年の家庭は、おそらくこんなだらしない生活をしていたのであろう。だから親の責任だと言っている。
 ついでながら、少年は当時クロックス(サンダルのような履物)を履いていたらしい。こんな履物では全力で走って逃げられない。
 まったく不用心だ。

 マスゴミは、子供たちが明るくて、学校では人気者で、未来の夢はこんなだったなどと歯の浮くようなおべんちゃらを書いているが、そんなお涙頂戴の記事を書いて大衆に新聞を買ってもらおうとする、さもしい、いじましい心根には心の底から軽蔑する。
 よしんば物議をかもしたとしても、きちんと取材して、社会に警鐘を鳴らすべきが新聞の本来の役目だろうに。

 平田奈津美も星野凌斗も、あの時点で殺されなくて、生きて成長したとしても、成人するころにはまともな人生は送れないようになっていたであろう。こう言えば、あまりに侮辱した発言だ、思いやりはないのかと誹る人もいようが、そういう人こそ「人間とは何か、どうあらねばならないか」を無視する、非情な輩と言うしかない。

 学校の教師どもにも重い責任がある。もしかしたら犯人よりも責任は重い。犯人が悪いのは当たり前だが、ああいう人間は社会には必ずいる。悪魔はどこにでもいる。まして大阪なんだから、危ない朝鮮人はいくらでもいる。

 自動車が高速で行き交う国道へ、信号機もないのに飛び出せば轢き殺される。
 今回の事件はそういう類いなのだ。クルマの激しく行き交う道路に飛び出せば轢かれて死ぬように、子供が深夜にうろつけば、魔の手にかかるということを教えなかった親と教師が悪いのである。

 親も教師も、明るくて優しい子で、学業成績もまあまあならいいとしているから、日本人になければならない品格とか誇りとかを教えられていない。
 本来の教師(親も)はどうあるべきかをイメージしていただくために、天寿堂稲村氏の論文の一節を引用したい。わが流派の本部道場で少年たちを指導していた女性のことである。

     *    *    *

 私が直接指導を受けた女性指導者は、年下でありながら人間的に尊敬できしかも学問文化の素養がにじみ出ていてその品格たるや本当に見事でした。そのような女性指導者が二人おりましたが、それぞれ個性的で違うにもかかわらず、二人ともそれはそれは美しくしかも頭の良さでは足元にも及ばない見事さでした。そのうちの一人が少年部の指導をしていた時には、子供たちまでその女性指導者の品格が見事に反映されてそれはそれは素晴らしい子供たちでした。その姿は今でも忘れられません。こういう事実を神戸だいすきさんは知らないで、勝手に決めつけているのです。

     *    *    *

 私もこの優れた女性指導者にゼミで教わったから、よくわかる。
 自ずと襟をたださずには置かないいわばオーラが出ていた。こういう指導者になる気もない人は教師になってはいけない。こういう指導者に指導されれば、子供が深夜の繁華街をうろつくはずがない。

 なにより大事なのは、指導者の人間性であり、品格であり、高い論理性である。尊敬されない指導者では、たとえ「夜遅くまで外で遊んでいてはいけませんよ」と、教師が生徒に言ったとしても効果はない。どうせ今頃、担任教師は「私はちゃんと注意していました」と言い訳を述べているだろうが、教師の責任はそんな表面的なところにはない。

 以前にも本ブログで取り上げたが、ドラマ『女王の教室』で天海祐希が演じた教師こそ理想である。

 例えば親が子供に、「もう9時ですから、おやすみなさい」と言ったとして、その言葉を子供がどう受け止めるかが問われるものである。子供が「またかよ、うぜえよ」との認識になるのはどうしてかを親も教師も考えていない。

 「もう寝なさい」と親が子供に言う場合に、その言葉と親の人間性、品格とか誇りとか思想性とかが手をつないでいるかどうかである。それがないから親も教師も子供に軽蔑され、背かれる。

 先週後半にブログにしるしたことにつなげて書けば、親も教師も「良い顔」をしていないから尊敬されないし、言うことをきいてもらえない。

 諺に「人を呪わば穴二つ」とある。他人を悪くいえば、自分にも返ってくるということだ。彼らの親はどうやらシングルマザーらしいが、おそらく夫を憎んだのであろうから別居に至ったのだ。夫を憎めばそれは自分にも返ってくる。それが生活の乱れや、子供に叛かれる形で現れる。

 また結びつけるかと言われるだろうが、現在の安倍政権の安保法案を、根も葉もなく悪しざまに罵る護憲派サヨクたちも、この「穴」に落ちている。首相を批判する根拠があるならともかく、無茶苦茶な屁理屈で悪く言いつづけているのだから、それはみごとに自分にはね返ってくるのだ。
 
 私にはサヨク護憲派と、この少年少女の親がダブってみえる。
 アメリカ、支那、韓国らの危険性を絶対に認めないとは、中学生が深夜に家出して徘徊しても危険はないと言う認識に通じる。
 支那などの外国勢力のリスクに備えるには、単に安全保障の法律を整備するだけではなく、日本人が主体性を取り戻して、外国に隙を見せない国民にならねばならない。

 子供が深夜に勝手に外出して、魔の手にかからぬためには、根本から親も子も人間性を磨き、主体性を身につける努力をするしか防ぎようはない。毎日新聞は、対応に困ったあげくに「地域で見守りましょう」とか提言している。と言ったところで、深夜の2時3時まで見張っているわけにはいかない。

 憲法9条で、戦争をしないことを宣言しているから、支那や韓国が戦争をしかけてくるはずがないと妄想するのは、この町には「犯罪防止」の看板が駅前に立っているし、大阪には悪い人はきっといないから、攫われるなんてことは起きないと思い込んでいたあの親や子供と同じである。

 大阪はいまやザイニチの天国で、大変危険な町になっていることを、マスゴミがちゃんと言わないことも悪いのである。
 犯人の山田浩二が、ザイニチ帰化人ではないかと疑うサイトも出現していた。昨日紹介したように、産経新聞もほのめかしていた。金品目的の誘拐でもなく、感情のまま残忍な殺し方をするのは、おそらくは半島出身者なのであろう。

 ガムテープを顔にぐるぐる巻きにして窒息死させるやりかたは、日本人には思いつかない。身の毛のよだつ殺害方法である。





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2015年08月24日

寝屋川の少年少女殺害事件の闇(1/3)


《1》
 大阪府寝屋川市立中木田中学1年の男女2人が相次いで遺体で見つかった事件。平田奈津美(13)星野凌斗(12)とも凄惨な殺され方をしている。

 毎度こういう中学生や高校生の重大事件が起きるたびに思うのは、親の無責任である。
 どうして親は、中学1年生の子供を深夜に外に遊びに行かせるのか、外泊まで許すのか、異性と付き合うのを許すのか。
 マスゴミは、被害者が殺害されたことを慮ってだろうが、絶対に親を責めない。そんなバカな。

 深夜、それも徹夜で寝屋川市駅付近の街中をうろつけば危険がいっぱいであることは、当人たちもわかっていないはずがなかろう。でもまさかと高をくくって街中を徘徊している。
 しかし、一番悪いのは犯人よりも親である。

 殺害した犯人が裁かれるのは当然ではあるが、それ以上に、子供をちゃんと家で寝かせない親が悪いのである。残酷な言い方だと誹られるだろうが、子供を殺したのは親である。あとで書くが、教師も重大な責任がある。

 二人とも、親に見捨てられているも同然である。
 星野凌斗は8月12日午後9時ころ、「女の子の家に泊まりに行く」と行って自宅から出かけた。なんでこんな非行を親は黙って許したのか。少年が男友だちの家に泊まりにいくなら、わかるし、その場合でも親同士で連絡をとるものだが、そんな気配はない。

 平田の母親は翌13日午前1時ごろに帰宅したときに2人は家にいなかったと報じられている。この親は深夜まで何をやっているのだ? 無責任きわまる。
 母子家庭では母親が働きに出ざるを得ないから、おそらく食事もきちんと健康な心身をつくるものが与えられていなかっただろう。それもまた子供と親の認識を歪める。

 平田奈津美は家から簡易テントを持ち出しているから野宿も覚悟だったのだろう。
 その晩はずっと徹夜で街中を徘徊していた。商店街の防犯カメラに映っていた。星野凌斗はその後、別の女子生徒に「2人で泊まりに行っても良いか」と繰り返しLINEでお願いしたということだが、いずれも断られている。信じられないやりとりだ。

 中学生の子供がなにがなんでも家に帰りたくなくて、深夜に徘徊するなどは、本来は起こりえない。それをあえて、親にウソをついてでも家出を強行したのは、よほど家庭に問題があったからである。いずれ週刊誌あたりが家庭事情を暴露するのだろう。

 でも、新聞やテレビは親を非難しない、その“優しさ”が、読者・視聴者に受け入れてもらえるからにほかならない。お追従でニュースに仕立てるから、誰にも責任を問わないでいられ、要するに不運だったとか、犯人が悪いと言ってすませる。皮相の見である。

 親をきびしく反省させないこの日本の風潮があるかぎり、こうした未成年に危害が加えられる事件は後をたたないだろう。
 
 8月21日になって、容疑者逮捕、少年の遺体発見と事態は進んだ。
 22日付の毎日新聞には、遺体発見を知らされた少年の家族のことが載っていた。

     *    *    *

 「いやや」。星野さんとみられる遺体が見つかったという速報が入った午後9時過ぎ、星野さんの自宅からは女性の絶叫が響いた。叫び声は5分ほど続き、いったんおさまったが、その後、おえつが漏れた。

 星野さんの家族や友人はこの1週間余り、街頭に出たり、通行人に情報提供を呼びかけたりして、無事を祈りながら行方を捜した。星野さんの母親は京阪寝屋川市駅近くの駐輪場に置かれた星野さんの自転車の荷台に「りょうとへ はやく帰ってきて。おこらないからママ、たおれるよ。おねがいやから ママとこ帰ってきて」とメモを張り付けたが、かなわなかった。

     *    *    *

 このウチは母子家庭だそうで、そこにこうした事件を招く要因の一つが隠されていると思うが、この母親の反応も異常である。
 死を知らされて、受入れたくないという感情が「いやや」の絶叫となったのは分からないではないが、少年宅の外に待機している記者連中のところにまで聞こえる大声とは…ちょっと日本人のマインドとは言いにくい。

 外部に聞こえるように意図して大声を何度もあげたとみえる。いかに自分がかわいそうかをわかってくれ、であろう。
 こういうのは、韓国人や支那人がよくやっている。
 それから母親が少年の自転車の荷台にくくりつけたメモも、異常とまではいわないが、おかしい。「ママ、たおれるよ」と書き付ける母親の認識が、である。

 ここにも、自分が、自分が、の認識が表れている。少年の安否よりも自分の不安をおさめてほしい、が優先している認識なので、こういう文言になる。
 少年が家出をせざるを得なかった何かが、母子の間にあったと思われるが、母親はこれからもそれを隠しとおすだろう。

 また、少年の母は「いやや」とともに「どうして!」と叫んだそうだが、どうしてと尋ねる(?)までもない、自分が招いた惨事なのだ。「どうして」と言うのは、自分には責任はないのに、とする認識である。

 夜9時に単に同級生の女の子と遊ぶからと言って、外出するとは思えない。一時は「京都に行く」と言っていたらしいから、これは家出と見たほうがいい。日常的にそういう母子の約束がないデタラメな家庭なのかもしれないが、少年が帰宅する時刻も告げていかないのを親が問題にもしなかった理由は何だ?

 殺された少年は韓国のボーカルユニット「ビッグバン」の歌が好きだったそうで、ここにもなにがしかの“特徴”は表れている。
 渋々彼らの歌を聴いてみたけれど、白痴音楽で、まともな神経では聞いていられない。
 顔つきも「醜悪」の一言。

 日本にもザイニチかもしれないあの手の歌手グループはいくらでもいる。エグザイル、ダパンプ、AAAとか。
 あれらは本人だけでなく、周囲のスタッフも気品のかけらもなく、気品などバカにしている。例えれば、夜の繁華街の認識で歌っている。そんな堕落した歌を中学生や高校生が好むことは異常である。

 まして中学1年生が聴く歌ではない。下品で無内容で、聞いているとこちらまでアタマが空っぽになるような不快感。

 親や教師が、どういう歌を好きになりなさいと教えず、ほったらかしにして、程度の低い友人たちで相互浸透した結果、あんな連中に憧れを持つことになった。韓国人どもは、チンピラふうの品性下劣な格好をして、へたな歌を歌っている。それを好きで聴くことで、いじましい認識に育っていたから、平気で異性との深夜の徘徊ができることになった。

 また産経新聞WEB版には、犯人は少年時代、枚方市の団地に現在とは異なる姓で、両親と妹の4人で暮らしていた、という記事が載った。つまりは朝鮮人だったものが、帰化したのか、通名を使って日本で暮らしていたのである。産経もなにに遠慮して、こうしてぼやかすのか。

 中学だけ卒業して高校へも行かず、万引きしたりしてぶらぶらしていたとか。中学時代、友人とは距離を置き、「1人でいることが多く、ひとりぼっちという印象。急にハサミを振り回すこともあった」という。
 犯人山田を知る中学の同級生は、「あいつならあり得ると思った」と語っているそうだ。朝鮮人として日本人にいわれなき「怨」を抱いていたと考えれば、彼の行動の原点は見えてくる。

 犯人がザイニチだとして、こうまで認識が歪むのは大きくは韓国が激しい反日をやっているからだ。山田は自分が社会で恵まれない、落ちこぼれている、友人もいない、将来は真っ暗、この現実をすべて日本が悪いと思うことができる。それを祖国韓国が後押ししてくれている。

 もともとカッとなりやすい民族性なところへ、悪いのは俺じゃない、日本人だと思い込む。だから残虐な殺人をやっても彼のなかでは許されると考えるだろう。
 韓国の反日は、ここまで影響を及ぼしていると思う。
 少年少女は、その韓国が仕掛けた戦争の犠牲者とも言える。





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2015年08月22日

人間は「良い顔」に創らねば(3/3)


《3》
 ところで。
 本稿は昨日までで終わりにするつもりだったが、天寿堂HPの「談論サロン」に新しい論文「学問でこの世界をどこまで解き明かせるのか?」がアップされたので、それに関して一言言っておきたい。本稿に関わることなので。
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=tenjumichi&mode=res&log=208
 
 稲村氏は盛んに「神戸だいすき」女史とその仲間たちのブログを取り上げて反論したり諭したりなさっている。
 私はブログ「神戸だいすき」は、もうとっくに読むのはやめているから女史とその仲間たちの文章などは読んでいないが、この稲村氏の論文で、どんなことを最近言っているかを知った。
 彼らは南郷学派を実に口汚く罵るのを常としている。

 私のブログにもこうした手合いがコメント(誹謗中傷)を入れたがるが、セキュリティ機能で排除するようにしてある。まれにくぐり抜けて投稿してくるものもいるが、読まないで棄てる。
 私のブログなのだから、私が方針を決める。

 稲村氏は彼らに律儀に反論しておられて、優しい人柄に感心するが、これは無駄である。
 いくら説いても、汚ないコメントを好む人たちはわかる気はない。「神戸だいすき」ブログにもそんな気はない。

 それは本稿で説いたように、自分で南郷学派の勉強もしないで勝手にただ気に食わないからと罵倒しても論理的には箸にも棒にもかかっていないことがわかっていないからだし、その批判的言辞に気品のかけらもないからである。
 本稿で書いたように、それでは論争のステージに上がる資格はないのだ。

 稲村氏は「南ク学派は、人類の英知の結晶である学問の歴史に必ず残る正真正銘の学問の本流を行く正統派です。」としたためておられるが、要するに1冊でも南ク継正先生の本を読めば、まともな人間として成長してきた人間ならば、稲村氏のような感想を、理解はたとえ未熟であっても抱くものなのである。

 卑近な例でいうなら、ミシュランガイド3つ星の京都の老舗割烹で、5000円も1万円もするランチを食べた人なら、百人のうち99人は「うまい。感動した」と言うのである。味がわかるならば、だ。でも一人くらいは「べつに、うまくはない、高過ぎる。うちの近所のラーメンのほうがうまい」と言い張る人間も出てくる。

 南ク継正先生の本を読んでも、すばらしいと思えなかった人は、哀れ、この味音痴と似たようなものなのである。味音痴は感覚器官が壊れているせいであるか、よほどひねくれているかだ。

 南ク先生の本は本物だ、自分が本当に探しもとめていたものはこれだったのだと、読めなかった人間は、その時点で落ちこぼれるべくして落ちこぼれたのだから、いくら説いても理解できるわけがないと私は悟ったのである。
 ずいぶん友人と語らったが、多くは聴こうともしなかった。

 昨日も書いたが、人間として本来あるべきは、論理と品格とが仲良く手をつないでいる。そういう顔つきや話し方や、文章や楽器の演奏や…になっていなければダメである。
 むずかしく言えば「対立物の統一」となっている、あるいは「非敵対的矛盾」の創出である。
 
 稲村さんは丁寧にも、
「神戸だいすきさんは、その中身を見ようとしないで断片的な話だけで自分の経験と結び付けて、つまり、相手のレベルを知ろうとしないで、自分の経験した婦人会の事実を短絡的に結び付けてカルトだと断定してしまうという間違いを犯してしまっています。それが集団はカルト化する、という決めつけです。

 これは特殊性の一般化という論理操作のよくある誤りですが、これを犯すということは、神戸だいすきさんの弁証法が自己流で、人類の英知の結晶の学問の歴史から弁証法の基本を学ぼうとしていないために、一般性・特殊性・個別性の論理の区別と連関という論理学の基本すらが分かってないための誤りと言えます。」


 と書かれている。私はとうの昔にこのことに気付いて、女史を説得するだけ時間のムダだと、これも悟ったのだ。
 稲村氏はかつてHPの論文で、神戸だいすき女史を「弁証法の達人」とほめそやしたことがあった。私はそれは間違いだと書いたことがあったが…、稲村氏もようやく、女史の弁証法は言葉だけだと気付いたようである。

 稲村さんはまた、神戸だいすき女史の空虚な罵倒言辞を紹介している。
 「私が玄和会を憎むのは『道義なき』ゆえだ。日本武道を標榜しながら『義なき』とは、何事ぞ! 詭弁を弄して戦争に導こうとする主体思想の本質を知れ!その名称から『日本』をとりはずされるのが、よかろう。日本の思想ではないのだから。」

「武道のくせに、人間性の陶冶をうたわず虚勢をはって、やたら難しい言葉をろうして威張るばかり。おっしゃるように、いっていることと、やっていることがくいちがいます、なぜくいちがうかというと、理論に無理があるからです。つまり、一見、立派そうな言葉を羅列しますが、理屈が通っていない。キラキラした言葉で目くらましているだけで、なんの意味もないからです。つまり、整合性がありません。」


 わが流派が戦争を導こうとしているとは驚きだ。会員の私も聴いたことがない。公式にそういう発言をした証拠でもあるのか? 誤解どころか、あまりにひどい妄想である。
 女史は安保法案も戦争法案だと妄想しているようだから、同じ思考回路らしい。

 断っておくと、わが流派が公式にも非公式にも、安倍首相の安保法案について言及したことはない。
 私や稲村氏の見解は、あくまで個人的なものである。

 これに対する稲村氏の的確な反論は、例えば「理論に無理があるというのであれば、具体的に理論のどこがどのように無理があるのか指摘しなければ、批判したことにはなりません。ところが、それは何もありません」とある。そのとおりで、神戸だいすき女史の決めつけは取り上げるにも値しない。

 あとは稲村氏の当該論文を読んでいただけば十分である。
 ただ、本稿の流れに沿って言うならば、として、私の見解を付け加えておく。

 それは再三言ってきたことだが、精神性の高みとか品格とかが身に付いている人間は、端的には育ちが違うのである。
 そもそもで言えば、赤ちゃんのときに粉ミルクで育ってしまえばそこで大きくつまずくのだ。人間の脳にならずに牛の脳になってしまう。これでは人間の人間たるゆえんの精神、あるいは品格は理解できなくなる。

 寝屋川市で殺害された中学生の少女は、親の管理もずさんだが、あれはきっと、親も子供も粉ミルクで育っているから、深夜に寝ることもなく繁華街を徘徊できる脳になっているのである。人間の母乳を飲んで育ち、人間としての躾を受けてきていれば、夜は素直に眠るようになっている。

 次には家庭の教育だ。親しだいであるが、親が無責任で子供をほったらかしにし、愛情をたっぷり注がないと、これも子供のココロは歪む。躾ができていなければ、社会的認識、公という認識がわからないのだから、精神性や品格は育ちにくい。
 平気で自分では論文をブログや書籍として出すわけでもない(できない)のに人様の文章に誹謗中傷することだけが喜びにできる脳に育ってしまう。

 さらには受験勉強だ。知識だけは記憶する秀才にはなるが、それによって失うのがみずみずしい感性である。受験勉強だけやれば、五感器官が磨かれないから、感情像もお粗末にならざるを得ない。
 精神性の高みや気品などは、感情像であって、いうなれば理屈とは違う。

 子供の時に、野外でのスポーツ、虫取り、魚釣り、草むしり、植物栽培、木登り、とっくみあいのケンカ、などのような五感器官を鍛える運動をしなかった人間は、認識(像)がうすっぺらになっているから、像の厚みそのものといえる人間の精神性の高みや品格などの像は形成できなくなるのである。

 昨今では、コンピュータゲームに熱中した幼少期を過ごしたケースでも、こうした像の厚み、みずみずしさは失われるのであり、やっかいなことに、自分ではそのうすっぺらな像しか脳に結ばなくなっていることに気付けずに、自分は正常だと思うのである。

 像がうすっぺらだからこそ、相手の気持ちがわからない。根拠もなく誹謗中傷された側が、どんな嫌な思いをするかの真摯な像が描けない。平気で罵倒したいから罵倒する。
 感受性が人間になっていないから、2チャンネル的な言辞を読めたり投稿できたりする。

 本稿冒頭に取り上げたのは、芥川賞作家・又吉直樹のことだったが、昔の漫才師とは違って、何の芸もないのにテレビで「出来レース」で大仰に手を叩いて笑ってもらえることができる彼の像の薄っぺらさ。

 それに彼自身が「あほが書いた小説です。あほなりに人間を見つめて書きました。生きているとしんどいこともあります。そんな時、散歩したり本を読んだりすると、少しだけ楽になることがあります。誰かにとって、そんな本になれば嬉しいです」と言っている。
 この彼の像のうすっぺらさ。それに神経の歪みは、彼もこうした人間の代表である。
 感覚器官もボロなら、創る像も薄っぺら。

 そういううすっぺらな像しか描けない人たちに、稲村氏は誠実に説こうとなさっているが、それは再度言うが無駄である。氏自身も書いておられるが、ご自分の論理能力が彼らのおかげでさらに1ランク上がった成果はあるだろうが。

 彼らうすっぺら人間が覚醒するには、小難しい本を読むことはいったん棚上げして、五感器官(とくに足裏)を鍛えて、像がみずみずしさや厚みを帯びることができるよう、出直すことなのだ。
 と言っても、てんから南郷学派を受け付けないのだから、やはり言うだけ虚しい。

 稲村氏は8月21日付のHP論考で「神戸だいすきさんのブログを取り上げるのは、時間の浪費どころか問題の本質を明らかにするもの」と反論されている。
 さらに、
 「神戸だいすきさんのブログはとても影響力が大きいので、神戸だいすきさんの南郷学派に対する誤解・偏見を取り除いておくことは、日本の未来は本物の学問のみが切り開いていけるのですから、とても重要なことなのです。実際コメント欄を見ると、南郷学派の本を読んでもいないで実態も知らないのに、神戸だいすきさんたちの悪口の影響で反感を持っている人が増えてしまっているのではないかと思うからです。これは、日本にとってとても不幸なことだと思います。」


 と優しく述べておられる。そのお気持ちは尊いし、立派なことだ。
 この問題が、論理の食い違いや誤解にあるのなら、無駄ではないだろう。
 しかし、再三本稿で言ってきたように、論理と気品は仲良く手をつないでいなければならず、そこがそもそも分かっていない人たち(神戸だいすきとその仲間たち)にいくら説いても理解できる基礎がないのである。

 昨日も書いたが、まったく手応えのない人たちに説くことは、稲村氏自身の論理能力はたしかに高めるが、相手には通じない。問題は、論理の実力は高まる一方で、相手とのやりとりによって品格が相互浸透しないように(落ちないように)重々気をつけねばならないことなのだ。

 最後に一言。ネットにはずいぶんと支那や韓国の介入が行なわれている。彼らは国民にカネをまわさなくとも外交や宣伝工作にいくらでも回せる。ネットの中には、カネに目がくらんでそういった工作によって宗旨替えしたブログやHPがある。

 あれ?以前と言っていることが違うな、と思ったら、疑ったほうがいい。安倍首相の悪口をしきりに言うようになったとか、護憲を言い募るなどは、怪しい。
 これに対して、いくら真摯に諭そうとしても徒労で、聴く耳は持っていない。









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2015年08月21日

人間は「良い顔」に創らねば(2/3)


《2》
 南ク継正先生の論文は論理の高さだけではなく、「直接」レベルで高い精神性と気品を感じさせる。こういう「対立物の統一」できている文章は昨今めったに見られない。
 弁証法なり認識論なりは、いってみれば数学のような “無味乾燥な論理”なのではない。論理と直接の精神性の高み、品格、温かみなど備わっていなければならないはずである。

 いうなれば南ク先生も、南郷学派の方の論文も、論理と品格とが仲良く手をつないでいるということなのだ。それもレベル高く。

 南ク継正先生のお顔は一般には出ていないから知らない人は多かろう。しかし、私もそうだったが初めて会った人間は、こんな素晴らしい顔の方がいるのか! と驚く。南ク先生が何をされている人間か全くしらない民宿のおかみだろうが、店員だろうが、そうした感想を何度も聞いたものであった。

 知りもしないでイチャモンをつけるご仁は、南ク継正先生ほどの立派な顔や立ち姿に、自分がかなうだけのレベルに達しているかどうかを問うべきなのだ。顔つきや話し方などで足下にも及ばないということは、論理レベルでも、品格でも、人間性でも負けていると知るべきである。

 かなりレベルは落ちるけれど、一例を挙げてみるので、それで察してもらいたい。
 ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れ、英国に捕われてセントヘレナ島に流刑になるとき、船がイギリスの港に立ち寄った。イギリス人の民衆は、ナポレオンをあざけるつもりで大勢見物にやってきたそうだ。
 ところが偶然、ナポレオンが外気を吸いに甲板に出てきて、舷側に立った。

 悪罵を投げつけていた民衆は、静まりかえり、みな帽子をとってナポレオンに敬意を表した、と伝えられている。あまりの偉大さ、威容に民衆は敵であることを忘れて圧倒され、尊敬せずにいられなかったのだった。
 この例で、南ク継正先生の存在を間近に見た人の驚きを想像してほしいし、偉大さをわかっていただけたらと願っている。

 卑近な例でいうなら、みなさんはご飯を食べるときに、洗面器に入れて手づかみで食べられますか? 東南アジアの田舎に行ったならともかく…。
 ご飯を盛るならどんな容器でも一緒、とはなるまい。その容器、食べ方も文化であり、文化のない、品のない食べ方は我慢できないようにココロが技化している。

 論理でも藝術でも、洗面器にご飯を盛られたようなものは、受け付けないものである。安保法案に反対をして「ファシストくたばれ」と怒鳴っていい気になっている輩、人の言説を誹謗中傷し、揚げ足をとって(WWW)などと末尾に付けて人の気分を害することを喜びにしている輩。これらの者は、便器に座って洗面器でご飯が食べられる人、と言われるのだ。

 高潔な血が通っているかどうかを感じ取っているかどうか。
 南ク先生を悪し様に言う者がいるが、そういうご仁は必ずこの精神性の高みや気品で、同等もしくは凌駕するレベルで批判することができていない。それをまったく理解していない。「その論理はまちがいだ」と勝手に言うのはともかくとして、自分が南ク先生レベルの精神性の高み、品格の美しさを把持して論じなければ、それは「失格」である。「中傷」では論争のリングにさえ上がることは許されない。

 遠回しに言うのもなんだから率直に言うと、天寿堂稲村氏は最近、南ク継正先生を批判する論考をHP上に掲載されているが、そこに感情のままに書く姿は哀しいものである。「なんじゃこりゃ」などと南ク先生の論文をあしざまにおっしゃっているが、そういう言葉を遣えば、自らの論理の品格を落とすことになる。

 稲村氏が「大恩をうけた師」と言いながら、揶揄的言辞を弄するのはいかがかと思う。南ク継正先生ご自身が、極真空手について、大山倍達の弟子達が極真から別れたら師の悪口を言うのは哀しいと書かれているのに…。
 批判をするなというのではない、自信があればやればいいと思うが、相手をバカにする表現は避けなければいけない。

 「人生、意気に感ず」を私たちは南ク継正先生から教わったのではなかったか。
 弁証法を学ぶ意義といった場合も、「昭和維新の歌」の歌詞のように「盲いたる民 世に踊る」「混濁の世」にあって、弁証法でこそ人類社会と地球環境を再生・発展させると、意気軒昂に説くのはもっともだが、日本語でしか表現でき得ないような品格を、人類に目覚めさせていくことも忘れてはなるまい。

 話を戻すと…これは一つには、旧制高校の伝統が失われつつあることに起因するのかもしれない。旧制高校の寮歌に親しめば今でも感じ取れるのは、そのすさまじいまでの思想性の高みであり、下品に落ちない人間性の美しさである。
 小説家たちも、ほとんどこの旧制高校の良さは失われたし、出版界や新聞界もそんなことを気にする人間はいなくなった。

 昔は旧制高校を出た人間レベルでなければ、出版界では相手にされなかった。森銑三氏はだから彼ら以上の努力をしたのだ。林芙美子や吉川英治などは、旧制高校を出ていないから、大衆小説でとどまったのである。
 そこを踏まえて、又吉直樹がまともな作家になりたければ、旧制高校の魂レベルの文化、教養を独習しなければならないのである。

 大江健三郎は新制大学の卒業だから、ついに旧制高校の精神性の高みをいわば体現することができなかった。

 音楽学校できびしい鍛錬を積んで一流となった歌手は、わざと音程をはずそして歌おうとしても歌えなくなるものである。音楽の精神性の高みや品格が身にしみ込んで、それを崩すことができないほどに技化するのである。

 文章も同じだ。文章はテクニック以上に、日本人ならばこその精神性が表現できなければいけないし、また文章を受容できなければならない。文章を書くにも、読むにも、「精神性の高みや品格が身にしみ込んで、それを崩すことができないほどに技化」していなければ、ならないはずである。

 弁証法の学びで忘れてはならないのが、人間にとっての気品、精神性の高さを直接に学ぶことではないのか。

 私がわが流派の空手に入門して驚いたのは、一つ一つの技、突きとか蹴りに精神性の高みや気品があるということだった。これが南ク継正先生が創った空手なのか! そしてこれが旧制高校の伝統の精神性なのか! という感動とともに道場へ通ったものだった。

 もう少し書き加えると、日本人は志や「人生、意気に感ず」を失ってきている。
 例えば8月18日付毎日新聞に小国綾子記者がコラムを書いていた。
 詩人ということになっている石垣りんを取り上げてこうしたためていた。

 「(石垣りん)は詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』の題名でも分かるように、彼女は身近な言葉で詩をつづり、『生活詩人』と呼ばれた。『“生活”が付かないと一人前じゃない詩』と謙遜する一方、『私の詩から“生活”がはがれ落ちたら、ただの詩になってしまう』とも語った。
 (中略)それゆえ自分や他者の『小さな声』に敏感だった。」

 とこう解説している。何が趣旨かというと、今の安倍政権はこうした「ちいさな声」や「生活」そのものを蹂躙して戦争へ持っていこうとしていると言いたいらしい。

 安倍反対のためならネコの手も借りたいという心情で、こうまで牽強付会をやらかすとはあきれる。
 以前、小沢一郎は副島隆彦からさえ「選挙の神様」と言わしめながら、惨敗して取り巻きも激減したあと、政党助成金ほしさに山本太郎と野合して「生活の党うんぬん」と名乗った。その小沢の政党感、国家感を批判したことがあった。

 国政に関わる政党の名前に「生活」と名付けるとは、世も末で、小沢の野望の貧相なことにあきれたものだったが、石垣りんも同様で、鍋や釜を題材にしたければそれは勝手だが、詩とは本来は「志」を述べるものであった。それを喪失したものは、みっともないだけである。
 
 まして、生活感覚が国家百年の大計に関わる法案に、シャシャリ出るものではないのである。

 石垣りんは、ただ「生活」にこだわった詩を書いたら、詩壇で受けたから、それでファンもついたし、「詩人」として本を出していけるとふんで、いつまでもその線で作詩をつづけただけのこと。
 画家の東郷青児が、売れるからという理由で、くる日もくる日も同じ絵を何十年描き続けて終わったようなものだ。

 このけちくさい態度こそが、旧制高校の心意気の欠如であり、また昨今の文芸作品から新聞・雑誌の記事にいたるまでの、ふやけた、いじましい、自分ばかりが大切よ、の文章があふれかえる現状を招来したのである。

 石垣りんなる詩人が、生活をテーマに創作するのは勝手だが、それと国家レベル、人類史レベルの高みを論じるべき国家の安全保障論議に、話をもちこむこの毎日新聞記事が大きく狂っているのである。
 こんなことができる社会になってきたことの背景に、本稿で述べたように、文章や言葉と直接の精神性の高みを失ってきた日本のみじめさが露呈しているからなのである。






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2015年08月20日

人間は「良い顔」に創らねば(1/3)


《1》
 又吉直樹という三流お笑い芸人が、文芸春秋社主催の芥川賞を授賞したとかでマスゴミが騒いでいる。
 芥川賞は、もう完全に時代遅れで価値もなくなっているのに、いまだマスゴミがさわぐので命脈をかろうじて保っている。

 私はこんな受賞作を読むほど物好きではない。本ブログでも最近の、金原ひとみ、西村賢太、田中慎弥らを俎上にあげて酷評してきた。又吉の小説も同列にある。

 私が過去の芥川賞で驚いたのは、尾辻克彦(赤瀬川原平)の授賞だった(1981年)。
 当時、この顔は…ちょっとここでは書けない…最低の顔だと思ったものだった。
 きわめつきに顔に品が無く、薄ら笑いを浮かべている。

 赤瀬川原平の名でマンガを発表していた男だったが、どういうつもりか小説を書き、なんと芥川賞をとった。漫画家なら、別に顔つきうんぬんを言う気はなかったが、文学の椅子に座るのは耐え難い思いにさせられた。漫画家だって手塚治虫氏は良い顔をしていた。

 マンガはしょせんサブカルチャーだから我慢するが、文学は国の文化の高峰に位置づけられるべきものである。
 顔つきと文学は関係ないじゃないか、専門家が授賞に値すると認めた小説なんだから、それは偉いんだと言う人が当時いた。文芸誌の編集をやっていた男だったが。
 多くの人がそれに賛同するのだろうが…。

 で、今度の又吉の顔つきである。正視に耐えない。漫才師だから、個性的な、おもしろい顔をしていればどうと言うことはないが、漫才師にしても、実にねくらでつまらない顔をしている。目が死んでいる。
 かつての漫才師は、「ヤスキヨ」「オール阪神巨人」「大助花子」にしても人を笑わしてやろうとするエネルギッシュさを感じとれたものだった。「タカ&トシ」でも、芸で笑わそうという意気込みがある。

 又吉の「ピース」は、テレビ局の指示で周囲が大仰に手をうって、笑ってくれる仕掛けに甘え、支えられているだけではないか。ザイニチ芸能界の手ゴマでしかない。

 われわれの流派では、こう教えられる。「空手家だからといって恐い顔をするのではない、良い顔をしろ」と。その金言をいただいている身としては、良い顔になろうと努力する気のない又吉には触れたくもない対象なのである。

 又吉がどんなものをやっているのか、見るまでもなかったが、一応YouTubeで見ると、やっている芸もまったく面白くない。よくあんな何の芸もないコンビがテレビに出てこられるものだ。

 それに、文学をもし志しているとしたら、テレビの下劣なバカ番組に出てこられるわけがない。テレビのバラエティだかお笑いだかは、ザイニチどもが徘徊する最低のステージである。正視できない世界である。あんなものに関わる人間は、人としての誇りがない、思想性の高みもない。だから人間じゃない。

 だから小説を読まなくても、顔だけでそのレベルが察せられる。下品な芸人をやってテレビで稼いでいるだけで、作品のレベルもわかるのである。漫才と俺の文学は別だ、とは言えない。生き方も、顔つきも、話し方も、その人物の作品であり、常に評価の対象になっているからだ。

 この大事性が、昨今の世相では重視されなくなっている。絶望的な気分にさせられる。そこに気付かない人には文化を語る資格はないと言うべきである。

 ものごとを考え、表現する場合、それを事柄として表出するのではなく、表現者の精神の高さ、美しさが同時に問われる。
 例えば、ロートレックはアル中でどうしようもない男ではあったが、娼婦を描いても品格は失わなわなかった。彼が貴族だったからだ。その精神性の高みが彼の絵を藝術たらしめている。

 ついでに言うと、パブロ・ピカソの絵はどことなく品がない。ピカソはスペインの田舎の村の出身で、父親が美術教師だった。その影響で幼いころから絵を描いて画家になることに成功したけれど、貴族の良き文化、思想性や気品は身につけられなかったのである。

 この大事性は文学でも音楽でも言えることである。
 昔は当然のこととして、文学の世界では表現者のいわば倫理的課題というか、精神性の高み、心根の美しさ、品格などが読者の読解の課題として意識されていたのだ。
 このことが、近年ますます蔑ろにされるようになった。

 井原西鶴の小説は『一代男』ただ一つしかない。その他の、大学の国文科に巣食う者どもが「あれもこれも」と西鶴作品にしているのは、全部ウソである。
 『一代男』もエロスは一つのテーマになっているが、あれは『源氏物語』を下敷きにした日本でもトップクラスの気品あふれる文藝作品である。

 その他、『好色五人女』だとか『好色一代女』は、気品のかけらもない大衆小説である。
 いうなれば、夕刊紙とか週刊誌に書かれるポルノだ。西鶴が書いたとはとうてい考えられない。
 そのことを精緻に検証した森銑三氏の業績を、国文学界も出版界も無視しつづけている。

 森氏は明治28年生まれで、貧しくて高等教育を受けられなかった。図書館臨時職員、代用教員、雑誌社勤務など様々な職につきながら、独学で文学・国史の研究に専心した方である。
 東大を頂点とする国文学界は、要するに森氏が東大を出ていないというだけでバカにして、相手にしないのである。

 そういう国文学研究者どもが、精神性の高みを把持することはありえない。「自称学者」だがクズである。
 文学は、そんな学歴や学界の徒弟制度や出版社のコネなどを後生大事にする俗世界とは隔絶した高みにある。それをとぼけて精神性の高みをうんぬんできるはずがなかろう。

 いつの間にかわが国は、表現者が書いているテーマ自体はそれぞれでどうでもいいが、表現者の気品や魅力がにじみ出なくなった。それらが感じとれなければ、読むには値しないのである。
 新聞の巻頭コラム「天声人語」とか「余録」とかを見ればわかるように、あの筆者達は世間では知られていない知識を冒頭の「まくら」にもってきて(ドヤ顔して)、無理スジで主題につなげてみせる。主題の中身は大学生でも書けるものばかり。

 精神性の高みや気品といったことより、知識の多寡や情報の出所、どれだけ暴露しているかばかりが決め手になっている。

 それにあの下品な副島隆彦を見ればあきらかである。仮に彼がどれほど世に中の裏側を暴露したとしても、文体ににじみ出る下品さは隠しようがない。聴くところによると、彼の熱海の自宅はピンク色の目を背けたくなる下品な家だそうで、それはそうだろうなとわかる。

 彼が原作者になったマンガ『属国日本史 幕末篇』は、最後のほうで副島は自分が風俗で遊ぶさまを描かせている。彼が風俗で遊ぶのは勝手だが、なんで本のテーマと無関係な風俗遊びのマンガを入れて、わざわざ下品にするのか理解不能である。

 副島の無惨はともかくとしても、私たちが日ごろ読んでいる(読まされている)新聞や雑誌の記事やエッセイの文章が、ほとんど気品は精神性の高さを感じさせない。

 私の高校時代の恩師は、学徒動員で兵隊にとられた人だった。兵隊に行く前、戦争の激しいさなかに、朝日新聞に当時連載されていた永井荷風の『濹東奇譚』を読むのだけが楽しみだったと聞かされたことがある。
 あの小説は、要するに荷風その人らしい人物が、隅田川の東側の遊郭(玉ノ井)に通う落ちぶれた話である。扇情的なところはなにもない。

 今読むと、どうってことない小説のように見えるけれど、わが恩師はあれが軍部へのプロテストだったのだと語っていた。
 荷風は戦時中に、人々が大事なココロを失っていくことに対して、軍部にはわからないようにしながら、気品や精神性の高みのある文章を書いていたのである。あえて遊郭を舞台にしながら、卑しくならない、という筆力で。

 昨今はそんな芸当のできる作家はいないのではないか。表現者の精神の価値の下落が著しい。どぎついテーマならいい、おもしろい話題ならいい、読み手にショックを与えればいい、等身大の飾らない自分と共感できればいい……そういう文章ばかり。

 ベンジャミン・フルフォードとか、リチャード・コシミズを称讃する人がいるが、彼らがもし本当に世界の陰謀を暴露しているとしても、あの語り口の下品さを見るだけで、大きな「?」が付くはずなのだ。

 日本の文学や評論の萎凋の原因は、日本語とその基盤たる認識の、日本語ならではの優位性から解かねばなるまい。日本語は主語、述語、目的語などの配列の言語構造が、世界に類を見ない独自性があって、そのうえ「てにをは」で微妙な認識の揺れが表現できる。オノマトペも豊富で多彩な認識の表現に適している。

 観念的二重化とか、感性を磨くとか、論理的記述などに適している優れた言語である。
 だからこそ、これまで述べてきたように、日本語は精神性の高さをしっかりと包摂できる言語であった。
 なのに、英語の影響もあってか、言語は実用の視点でしか見なくていいとする風潮が現れた。

 人間の品格と直接の文章の品格とか精神性の高さは、受験勉強ではおよそ関係がない。「もののあはれ」の意味を言われたとおりに覚えれば良くて、実際に体感レベルで「もののあはれ」とはこういうことだな〜としみじみ味わう認識の実力は、受験では問われない。問われないどころか邪魔にされる。

 そういう世界が戦後教育界でつくられ、それでつくられた人間ばかりが世に送り出されてくるから、芥川賞作家の質がガタ落ちになったのである。又吉の小説が何十万部も売れたそうで、つまりは読者層もその低度になったのである。




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2015年08月19日

人との会話が成り立つためには(2/2)


《2》
 裄V寿男氏の『バルカンから響け!歓喜の歌』には、こう書かれていた。
 マケドニアの楽団員たちに何を言っても変わらなかったそうだ。時間を守れ、連絡なしに勝手に休むな、練習中自分のパートが終わると隣りの人とおしゃべりを始めるな、人の話を聞け、と口を酸っぱくして怒ってもダメだった。

 すべて裄V氏は良かれと思って注意しても変わらない、変われない。だから「こっちが変わるしかない。そうでないと、バルカンでは仕事はできない」と悟るのだ。
 「おしゃべりするな」と頭ごなしに怒っても彼らは何が悪いと反発する。そこで、指揮者の裄Vさんはおしゃべりしている者に「あと何小節で君の演奏だよ」と言う。そうすることで演奏者も緊張感を保っておしゃべりしなくなったという。

 演奏中、テンポが遅れている者には「遅れている」と言っても正しいテンポにならない。そういう場合は「ちょっと急いでください」と言う。急ぎすぎていたら、「急ぐな」ではなく、「ちょっと遅く」と言えばいい。

 否定的に言われると受け入れないが、肯定的言回しをするだけで反応が全然ちがってきたそうだ。
 自分の評価を気にする人が多いから、いいところがあったら褒める。
 こういう例が、対象(人)のココロ、つまり認識の構造に分け入るということである。あの土地ではそれが正解になる。観念的二重化の例である。

 裄V氏は、マケドニア語を知らず言葉も通じない(会話は英語で)なかだからこそ、懸命に観念的二重化を学んだのであろう。
 これは認識論の先駆者・海保静子先生が、口をきいてくれない保育園児を対象にして苦闘したからこそ、人間の心の謎を解けたのと同じことだ。

 ただ…、裄V氏は書いていないし気付いていないのかもしれないが、コソボの人たちがかくまで非協力的でだらしないのは、単なるバルカン・メンタリティのせいだけだろうか。
 彼らにしてみれば、野蛮な国日本から来た指揮者の言うことなんか聞いていられるか、という思いがあったのではないか。

 彼がコソボの政府から与えられた住居は、まるでカプセルホテルの1室のような、三畳ほどのアパートである。これが外国からきた指揮者(コソボフィルハーモニー交響楽団首席指揮者)への「もてなし」か? いくらコソボが貧乏であろうとも?
 指揮者もなかなか認められて食っていけるようになるのは大変なのだろうが、こういう仕打ちに「しょうがない」と割り切れるのはどうかと思う。

 指揮者がもし、イギリス人やドイツ人だったら、彼ら団員はもっと素直にいうことを聞いたのではないだろうか。
 バルカンというのは、日本人にとってはヨーロッパであるようなないような微妙な地域である。日本人はヨーロッパといえば、英仏独伊西蘭あたりを思い浮かべるのであって、彼らこそ日本人の憧れであり、一方で劣等意識を強いられる存在であり続けた。

 しかし、バルト三国からベラルーシ、バルカン、ウクライナ、のあたりは「めくるめくヨーロッパ」ではない。そういう気楽さが我々にも、裄V氏にもありそうである。しかし彼らにしてみれば、野蛮な東洋の小国の人間が何を抜かすとする優越感は持つであろう。

 そして思うのだが…、裄V氏のやったことは称讃していいのだが、はたして本当にそれでいいのかは、やや疑問が残るのである。
 音楽家みずからが、コソボで民族融和の音頭取りをやる。誰も文句はつけられない。けれど、音楽家は音楽で勝負すべきものである。

 彼はYouTubeにアップされているが、新宿のホコ天でフラッシュモブをやっている。ベートーヴェンの「第九」第4楽章のサビのところを5分ほどに縮めて、雑踏の中で演奏していた。
https://www.youtube.com/watch?v=ozNv7r0aETc
 ベートーヴェンを大道芸レベルに落としてやるのは、クラシック音楽に対する侮辱である。

 クラシック音楽の思想性の高みを、いったいどう捉えているか。
 サプライズのつもりかもしれないが、フラッシュモブはあざとい。偶然演奏者がその場に現れて、演奏に参加していくなんて、バカバカしくてみていられない。偶然じゃないことはただちにわかってしまう。当人たちだけがその芝居に自己満足。

 裄V氏が新宿の雑踏でフラッシュモブをやったのはコソボの音楽家たちとの悪しき相互浸透の結果であろう。紛争の地で音楽で人の心をつないだ実績は認めるが、そのレベルで音楽を考え過ぎたのだ。
 しかも彼は、「地球市民」になろう、なんて結論を本にしたためている。愚かしいかぎり。

 コソボやアルバニア、セルビアなどは長くオスマントルコの支配下になって、抑圧された状態だった。さらに第二次世界大戦のあとはソ連の衛星国ユーゴスラビアとなって、これまた主体性を育む機会を喪失した国々である。「バルカン・メンタリティ」はその圧政の結果であろう。
 彼らは生きのびるために、自己を偽って本来の先祖からの宗教を改宗している。キリスト教だったものが支配者の指示でイスラムに変えたり、イスラムがキリスト教になったり。

 だから現地の人間は「なんちゃってイスラム」や「なんちゃってギリシア正教」となっている。
 それでさらにこじれて憎しみあって殺し合いを続けている。
 宗教がすでに人間のさまざまな悩み苦しみを救えないことがここでも露呈している。
 
 そうしたメンタリティは、おいそれと立ち直れるものではない。かの国はろくな産業がない。誇るべき文化もないと言っていい。
 金融で稼ごうという才覚もない。電気はしょっちゅう停電、水道も断水する。列車やバスを利用するにも、運行が不定期であてにならない。

 そんな環境では、音楽を鳴らしたところでたかが知れている。
 本当は何をすべきかは、彼ら自身が覚醒するしかない。
 かつて憎しみ会った民族同士が和解することは欠かせないけれど、それだけでは全体に広がるまい。

 なかなか言葉では表現しずらいのだが、コソボの民族紛争というべきか国家の自立は、そう単純にモラルで語れる問題ではない。
 それを彼らも上手に表現できず、思想としても定立できていない。
 だから「平和」なんて言葉を気安く遣うな、となる。  

 で、話を戻すけれど、裄V氏がベートーヴェンの曲を、ホコ天の大道芸レベルで気楽にできてしまう、この妙な軽さが、日本に出来してきている不思議な「空気」ではないか。
 裄V氏には西洋へのコンプレックスがない。あっけらかんと「地球市民になろう」などと言える。

 明治以来、日本人は西洋の文明を仰ぎ見て、追いつきたいと念願してきた、一方でいくらがんばっても追いつけない異質な文化に、夏目漱石や森鴎外以来、苦しんできたのである。とりわけ学者や藝術家、政治家などはそうだった。

 それが、昨今の情報化時代の到来のせいもあるだろうが、若い世代に西洋への劣等感が消えつつある。地球市民だとか、「人類みな兄弟」とかを、なんのためらいもなく信じているようだ。
 若い世代のは西洋に対してずっと日本人が抱いてきたような異質性の感覚を持ち合わせていない。
 裄V氏の活動を本で読んで、それを改めてわからされた。
 
 日本が日本である、ありたい、という気持ちは、古い時代は支那を媒介に自己を捉え、江戸時代になると支那や南蛮を外して「即自」的でやっていけたが、明治以降は「対自」になることを西洋によって強いられてきた。西洋という媒介があって、日本とは何かを意識してきたのである。

 ところが、最近の若い世代は、無媒介の認識がいわば成立しつつある。劣等感が消えるのはいいことであろうが、これは形を変えた「即自」への回帰なのではなかろうか。
 自分らしく生きれば、西洋とも支那ともアメリカとも溶け込んでいけると信じ込んでいるかのようだ。
 本稿のテーマ、人との会話がなりたつかどうか、で言うなら、西洋人と日本人は会話が成り立たないという苦しみから、われわれの先達は認識させられることから出発し、苦悩してきている。それが本筋なのだが…。

 先達は西洋と同じレベルで討論できるとか、藝術を語り合えるとか思っていなかった。それほどには覚醒していた。西洋の先進性と、日本の文化、日本人のメンタリティとどうつながるのか、先人達は必死に考えてきた。それが今の若い世代は、あっけらかん、問題の意識にすらのぼっていないようだ。つまり、旧世代からみれば実に根の浅い文化意識レベルに落ちている。

 西洋と、その鬼っ子のアメリカは、文化文明を誇りつつ、アジアやアフリカを馬鹿にし、平然と残酷な殺戮を行ない、植民地支配を行なってきて、いまも反省のかけらもない。アジアやアフリカの人たちは、西洋に対して手も足も出ない屈辱に耐えるか、慣れるかしてきているが、日本人の若い世代のような、西洋へのわだかまりが無く、あっけらかんと「地球市民」になろうよ、などとは言わないであろう。

 たとえばイスラムの人たちのヨーロッパやアメリカへの憎悪は、今後100年や200年で消えようはずがない。それが中東の紛争を複雑にし、過激にしているのは、誰でもわかることである。
 日本の若者、あるいは戦後に個性教育を受けてきた世代は、そういう深刻さ、根深さがまったく理解できない。

 平和だけが最高価値だと思い込み、9条が理想じゃないかと、現実の恐ろしさをまったく見ることなく信じ込む。
 そういうノー天気につながっている。




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2015年08月18日

人との会話が成り立つためには(1/2)


《1》
 宮崎正弘氏のメルマガ(8月11日付)に、裄V寿男著『バルカンから響け!歓喜の歌』(晋遊舎)の書評が載っている。そのなかで宮崎氏は「平和、平和という呆け念仏は日本でしか通じない」と書いている。この意味がサヨク護憲派にはとうてい理解の及ばぬところだろう。

 裄V寿男氏は、コソボ、マケドニア、セルビアなどで楽団を指揮した日本人である。テレビでも紹介されたこともあるからご存知の方も多かろう。私もこの本は読んだ。
 簡単にわかるにはこのNHKの番組
https://www.youtube.com/watch?v=-F2HetDAFoQ
 詳しくはこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=rKtGmrTKve4

 内戦、内乱、民族浄化、おぞましい民族、宗教入り乱れての戦争をくり返し、国土も民心も荒廃した旧ユーゴスラビアに、音楽こそが人々の心を繋ぐと信じて演奏活動を続けた方である。

 その道のりは簡単ではなかった。日本人とはまったく違うメンタリティに最初は打ちのめされる。そのバルカン・メンタリティとはモチベーションが低い、活気がない、時間を守らない、約束は無視、人の話を聞かない、向上心ゼロ、などだそうで、裄V氏はそれに苛立ちつづけ、周囲に受け入れられずマケドニアを後にすることになる。

 しかし裄V氏は挫けなかった。隣国のコソボというさらに厳しい環境に入って出直すのである。彼らのメンタリティに合致した指導法で、今度は周囲の信頼を勝ち得ていく。そして、ついには紛争で関係が断絶していたセルビア・アルバニア・マケドニアなどの対立する民族の団員を集めて「バルカン室内管弦楽団」を設立し、演奏会を実現するに至る。

 その裄V氏は、「世界平和コンサートへの道」というプロジェクトを推進しようとしたが、現地では「平和」という言葉がおいそれとはつかえない。現地の人は、「平和」というのは時期尚早だと言ったそうである。
 氏はやむなく『共栄』とか『交流』というタイトルをつけるしかないと考えていたそうだ。
 
 日本のサヨクなら、平和を実現するのだから、「平和」という概念でいいじゃないかと思うだろう。だがそれこそが、対象(バルカンの人々)のココロの構造に分け入っておらず、自分の日本人サヨクのメンタリティを相手に押し付けるだけなのだ。

 卑近な例でいえば、甲子園でゲームをしている高校球児に、野球といえども争いは良くない、仲良くやりなさい、と説教するようなものである。これを押し付けと言う。

 平和をもたらすはずの国連軍部隊が、実はろくでもない民間軍事会社だったりする。どこの民族も軍も、平和のためと称して殺戮し、家や町を奪う。
 こういう勉強をしないで、サヨク護憲派どもは、「戦争反対」「平和を願おう」「正義の戦争なんてない」などと馬鹿を言う。

 裄V氏がつまずいたのは、はじめは彼が日本人としての像しか持っていなかったせいである。バルカンにはバルカンの社会という現実=像があることを知らずに、言葉(文字)で考えて、ただ「仲良く」とか「平和」とか言えば通じると思い込んでいただろう。
 
 しかし裄V氏は、一度失敗したことを反省して、その土地・社会の実像を摑もうとしたのだ。現地に滞在して像で捉えることに成功した。
 これは裄V氏が指揮者であるから可能になったことであろうかと思う。その意味は、コンダクターは楽団員一人ひとりの認識や技量が摑めていなければ、名演奏などできるわけがないからである。
 指揮者がただ、「おれの解釈を忠実に演奏すればいいんだ」と、演奏者たちをただの“楽器”並みに考えていたのでは不可能である。
 
 指揮者であるからこそ、演奏者一人ひとりとの会話をくり返し、相手のココロと自分のココロの相互浸透ができる実力、観念的二重化ができる実力を把持していたから、その実力をもって民族の違い、宗教の違いを乗り越えて、楽団を結成させることに成功したのである。

 異民族どうしでなくとも、人との会話が成り立つためには、どれほどの実力が要求されるか。医師や看護婦、教師、藝術家などの必須の条件なのだが、たいていはわかっていない。
 ここでも対象の構造に分け入っていく実力がなければダメである。
 その構造をさらに言えば、会話の構造からさらに相手の認識の構造へと深めていかなければならない。

 分かりやすい例でいうなら、デートで食事をしているときに、彼女が「ちょっと失礼」と言って席を立ったとする。このときに男はどういう彼女の行動の像を描くか。トイレに行ったのか、化粧を直しにいったのか、少し時間を空けるからその間に男性らしく支払いを済ませてね、なのか、二次会の場所を考えておいてね、なのか、そういう認識を読み取らねばならない。

 こういう訓練をまったくしてこないで成人するのが、超受験秀才なのである。端的には恋人の気持ちが全く理解できないで、失恋をくりかえすか、結婚しても不幸になるケースが多い。

 二重化ができない、つまり対象たる女性の認識の構造を見てとれない男は振られるのである。
 そういう対象の構造がわかるためには、一般教養の実力が求められるだけでなく、認識論の実力が必要である。
 人の気持ちがわからない人は、映画やテレビドラマをよく観たほうがいい。人間の心の機微がわかるようになる。

 「学城」11号掲載の、橘美伽氏の論文『武道空手とは何か、その中で護身空手とはどのような位置づけであるべきか(五)』には「『会話』ができるためには一般教養レベルでの五感情像で考える実力が必要である、と説かれている。

 一般教養の実力を踏まえて認識論的実力がなければ、対象を考える場合に、“文字”としてしか考えられない、別言すれば、実際の具体の生き生きした“像”が浮かべられないことになる。
 柳澤氏の場合、最初の失敗は、対象を“文字”で捉えようとしたのだろうし、それを反省して“像”を創ることをやって成功したのである。

 民族が違っても、言えばわかるはずだとか、叱ってわからせようとする場合の、その「言う」は“文字”を言っているのである。

 この場合の「一般教養」とは、人間としての共通性はどこにあるか、またそれぞれの国の特殊性はなんなのかがわかる教養力である。
 副島隆彦のように、日本人、支那人、朝鮮人は同じアジア人どうしだと思い込むのは、まったく一般教養が欠落している、とこう言われるのだ。「アジア人」の像が出せるものなら出してみろ、「アジア人」の概念規定をやれるものならやってみろ。

 ここで観念的二重化を復習しておけば、これは自分の観念を二重化すること、つまり自分のアタマのなかでもう一人の自分を創り出すことである。
 自分が実際に見ている世界が、現実に目で見ている像とアタマの中の目で見ている像と、二重になることだ。
 これは人間なら誰でも行なっていることではあるが、それも創り創られてできてくるものだけに、実力は人さまざまになる。

 観念的二重化が完璧といえるほどになるには、現実にあることやあったことがアタマの中の像とズレず、歪まずに、二重になることである。事実と観念の一致をみることだ。

 「会話」ということで言うなら、他者の認識を自分の認識とあまりズレないレベルで二重化できなければ(像が描けなければ)、会話は成り立たない。
 会話している相手が想い描いている像(現実)を、自分が同じように想い描く(観念的二重化)ためには、そもそもその相手の人となり、人柄、教養、常識などを通して、さらにその場の空気のようなものや流れを踏まえなければならない。

 天然ボケはこういう二重化が下手な人間である。幼児期から、相手に二重化する勉強を怠ってきた報いである。
 支那人や朝鮮人は、そもそも二重化してわかろうという気のない人種である。彼らは相手にだけ二重化を要求する。
 つまり、こうした観念的二重化は、教育により、また訓練によりまともに育つものであるのだ。

 コンダクターの修行をきちんとされた裄V氏だからこそ、性別、年齢、国籍、宗教を超えて観念的二重化に成功したと言えよう。
 だからバルカンでは、日本のサヨクのように「平和」のお題目を唱えたり、憎しみを乗り越えようと、“文字”で押し付けようとしても失敗するのである。




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2015年08月17日

世の中の恐ろしさをわかっていない護憲派


 昨年8月21日の本ブログで、リーアム・ニーソン主演の映画『96時間』を取り上げた。詳しくは本ブログを検索して読んでいただきたいが、これは娘を拉致誘拐された主人公の元CIAの工作員だった男ブライアンが取り返しに行く話である。

 ブライアンは妻子と別居しており、ひさしぶりに会った娘に女友だちとどうしてもパリに行きたいから許可書にサインしてくれと頼まれる。未成年の海外旅行には父親の許可が必要らしい。ブライアンは危険だといってサインに応じないが、娘に激しく反発され立ち去られる。母親もパリが危険だなんてことがあるか、あきれたとブライアンを罵る。

 ブライアンは仕方なく許す。ところが娘を空港までクルマで送っていくと、実際はパリだけでなく、ロンドンやベルリンなどへ、音楽バンドの追っかけで行くのだと判明する。

 ブライアンは母親に怒る。「騙したな! 豪勢な暮らしに慣れすぎて、世の中の恐ろしさを分かっていない」と。
 しかし時既に遅く、娘をパリに送り出すしかなかった。そして案の定、娘たちは誘拐されてしまう。

 本ブログ「あまりに自堕落でネクラな若者たち」(8月5日付)で書いたけれど、日本は平和ボケである。
 ブライアンのせりふのように、「豪勢な暮らしに慣れすぎて、世の中の恐ろしさを分かっていない」。
 「分かろうとしたくない」までにダレきっている。

 だから「戦争反対」、「二度と若者を戦場に送るな」、「平和の尊さを噛みしめよう」、などと太平楽を言っていられる。世界はすべて腹黒く、恐ろしいことには目を向けない。
 三陸の人たちは、先の大津波でひどい目にあった。二度と悲惨な犠牲を出さないためには、防潮林、防潮堤をつくり、住居は高台に建てるなどの対策が必要だが、護憲派サヨクは、そういうことをしたら、かえって津波を誘発するからやめろというのだ。要はそういう理屈になる。
 
 映画『96時間』では、娘たちは東欧系の犯罪組織に誘拐されるのだが、彼らは善良な親切な、気さくな人間を装って近づく。どこぞのボクシング3兄弟の父親みたいな人相なら、誰でも警戒するだろうが、敵も商売だ、計算づくで接近する。

 これもブログで紹介したが映画『ヒューマン・トラフィッキング』では、恋人や親戚が女を騙して犯罪組織に売り払うケースが扱われている。
 まさかと油断する認識が悲劇を生む。

 日本人は人が良過ぎて、昨今の「振り込め詐欺」なんかもそうだが、すぐ人を信じてしまう。そこをアメリカ、韓国、支那らにつけ込まれる。
 平和な日本、飽食の日本に慣れ過ぎていて、彼らの恐ろしさが分かっていない。

 だからアメリカは悪いが、支那や韓国は隣りどうしで悪いことはしないだろうとか、逆にアメリカは同盟国だから悪くはしないだろうなどと、勝手に思い込む。
 日本は憲法で「誘拐、拉致は悪いことです。だから安心して日本では暮らせます。海外に行ったときも、日本人なら見逃すように」と書いていけば、悲劇にあわずにすむと、そう思っているのが護憲サヨクだ。

 彼らはたくみに猫なで声で近づいてくる。何かを諮るときは油断させる。結婚詐欺、振込め詐欺の事例をみればわかるだろうに。
 これが世間の常識である。
 だから支那や韓国は、喉から手がでるほどにカネをほしがっていて御しやすい民主党やサヨクマスメディアを籠絡して、背後から日本を侵略しようとする。
 何も軍事力で侵攻してこなくていい。今の安保法制の論議でも十分である。

 左翼のなかの勘違いの一つが、国際金融マフィアを持ち出してくることだ。実際、彼らユダ金が戦争をしかけてきたことに疑いはない。しかし戦争はそれだけではないのだ。支那はチベット、ウイグル、内モンゴルなどに侵略して、虐殺圧政、ほしいままにしてきた。あれは必ずしもユダ金の差し金ではない。

 それにユダ金にしても支那にしても、武力衝突だけが戦争ではない。サイバー攻撃もあるし、宣伝戦もあるし、金融戦争もある。
 現在支那が日本に仕掛けているのは、武力衝突ではない。そんなふうに思わせておいて、その他の戦争を実行している。

 例えば…。
 日本に贖罪意識を植え付ける、支那・韓国は日本にひどい目にあわされた被害者だと信じ込ませる、他国を敵視してはいけない、友好が第一だと思わせる、二度と戦争はいやだ、軍備を持つこともいけないと…、こういうプロパガンダが大手を振ってできる絶好の機会が、今、なのである。

 たぶん、支那は今度の集団的自衛権行使容認の法制で、サヨクが負けて法案が成立しても一向に構わないと思っているだろう。勝負はそこにはない、と踏んでいる。
 これはすでに本ブログ5月23日の兵頭二十八氏の『こんなに弱い中国人民解放軍』を紹介したときに言及しておいたことだ。

 シナでは、昔から軍事的勝利よりも政治的勝利が大事にされている、と。
 よしんば戦争でコテンパンに負けたとしても、そんなものは宣伝次第でどうにでもなる、と考えられている。
 大東亜戦争でも個別の戦闘では日本軍は連戦連勝だった。しかし、日本はシナ人の宣伝戦で負けた。
 日本にとっては、輝かしい勝利のはずの南京陥落でさえ、シナ人の手にかかると「南京大虐殺」として、いまだに日本を自虐史観で縛っている。

 もう一度、兵頭氏は説くところを引用する。

     *    *    *

 なぜ、彼らは宣伝に強いのだろうか? それは、彼らシナ人の人生が宣伝そのものだからである。宣伝・即・政治であり、また人生なのだ。
 約1800年前に編纂された著名な古典兵法書の『孫子』には、「宣伝」という条目が存在しない。何もあらためて文章化して説教するまでもなく、シナ人ならばみな子供のときから実践していることなので、当然のように省略されたのである。

 ところがほとんどの外国人は、シナ人にとって「兵」(=戦争)とは政治宣伝と融合した行為であることを、多彩なシナ古典の行間から読み取ることに失敗する。

 この事情は今も変わらない。シナ人は他者との競争・闘争の最初のステージから最終段階まで、常続的に「どうやったら宣伝で勝てるか」を意識し続けている。それについてボスたちは、あらためて部下を教育する必要もないし、マニュアルを手渡す必要もない。
 (中略)

 この事実に無知であるため、外国人はしばしば意表を突かれる。実戦で負けても宣伝で勝てば、戦争という政治には勝ったことになる。彼らシナ人にとっては、政治的勝利は、「真実」よりも重要で価値あることなのだ(ゆえに「歴史」について外国人が彼らといくら語り合っても、何の実りももたらされはしない)。

     *    *    *

 この兵頭氏の考察は、『こんなに弱い中国人民解放軍』の白眉であるとしたためておいた。
 支那人は常に宣伝戦を仕掛けている。このたびの安保法制でも、彼らは知恵の限りを絞って、日本に宣伝戦を仕掛けている。
 むろんカネを惜しみなく使っているだろう。マスゴミを手なずけ、民主党を、そして自民党・公明党の媚中派を抱き込んで、日本人を骨抜きにして主体性を喪失させれば、目的は達するのだ。

 安倍首相の戦後70年談話は、マスゴミを使って日本人に、常に支那の「ご意向」を気にするように仕向けてきた“成果”があらわれていた。そんなもの内政干渉なんだから、支那がどうこう言うべきではないと突っぱねておけばいいのに、サヨクは「支那様がどう言うか」ばかり心配している。
 そういう怯えた、いじけた認識を日本人に持たせつづけることが、奴らの狙いだ。

 支那や韓国は、日本人が常に加害者だった、悪いことをした、と思わせておけば、巨額のカネを強請りとることができる。実際、ずっとそうしてきた。日本のサヨクは、言ってみれば自らすすんで彼らの人質になって、身代金をなんぼでも払いつづけているようなものだ。

 支那や韓国は卑劣だから、こうした関係さえ築いておければ、それで十分で、ことさら尖閣諸島を襲う必要もないくらいだ。尖閣諸島を自国に編入するより、儲けになることを企むに決まっている。
 支那は尖閣諸島に侵攻すれば、もしかしたらアメリカが出てくるかもしれないが、宣伝だけしていれば、武力行使しなくとも、いくらでも政治カードに使える。

 兵頭氏が解くように、支那の人民解放軍は日本の自衛隊と武力衝突すると、かなり負ける確率が高い。だから武力侵攻は見せかけである。

 日本人には支那の軍事的脅威があると思わせる一方で、サヨクメディアを通じて、そんなことは虚構だ、どこにも戦争の兆候はないと言わせている(たとえば鳥越俊太郎)。
 どこにも武力衝突の危機はないんだから、安心して「9条」を守っていればいい、という屁理屈につなげる。

 なかには、知った風にユダ金が裏で画策しているだけで、支那に害意はないなどとうろんな見解を言うものもいるが、それは武力衝突だけを考えているにすぎない。

 支那が尖閣諸島や小笠原近海に押し寄せたり、戦闘機を接近させたりすると、武力行使を匂わせるか見える。副島隆彦なんかはこれをすべて日本とアメリカのせいにして、アジア人同士を戦わせようとしているなどと言うが、支那は本格的武力衝突は考えておらず、そういう雰囲気だけつくっておいて、本当の底意を隠しているのである。







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2015年08月15日

やめられるのは、自分のレベルを落としたから


 日本は戦争に一度負けただけで、戦勝国に屈従して押し付けられた憲法をいただき、9条で戦争を放棄して来た。
 どこの国にもいわば自然法として認められている個別的自衛権も集団的自衛権も、「保持はしているが行使はできない」などと、霞ヶ関の法匪どもが発狂しているとしか言えない愚劣な解釈を続けてきた。

 それをこのたび、多少はまともにしようというのである。それも受け身的なケースでの法整備にしかすぎない。それの何が悪い?
 軍隊を持つのをやめ、戦争をやめ、徴兵もやめ、あげくに体罰もやめ、公共の場での不埒な行為にも注意することをやめ……て、今日に至っている。

 これらはかつては、当たり前にあったことである。軍隊を持ち、必要なら自衛の戦争をし、学校でも家庭でも体罰があった。
 それが日本の誇りであった。どこの国でも、戦争に参加した軍人兵士は誇りである。体罰も教育上必要なこととして、世界中で認められている。疑念の入り込む隙はない。

 日本では戦死すれば靖国に祀られた。どこの国にも、戦争で亡くなった方や巻き込まれて死んだ方を慰霊する施設はある。
 なのに、支那と韓国は日本だけはそれを許さないというのだから、ひどく政治的で悪辣である。

 支那と韓国にイチャモンをつけられて、天皇や政治家が靖国参拝をやめてしまったのが日本である。
 やめるということは、その誇りや犠牲的精神や正義を守るといった立派な認識を否定することである。
 それをただ「やめただけ」と言うことはできない。
 やめられたのは、自分のレベルを落としたからやめられたのである。

 そのことがサヨクもわかっていないし、保守だってわかってはいないだろう。
 例えば、何か社会のため、人のためにボランティアをやろうと決心して、始めたものの、3日坊主で止めてしまった、と言った場合、ボランティアをする立派な認識を棄てたのである。

 ここに高校生がいたとして、始めは東大や京大など一流大学を目指していたとしても、勉強するのはかったるいし、どうせダメだからと、東大受験をやめ、志望大学をどんどん落としていって、果ては名前を聞いたこともない末流大学や専門学校に落ちぶれていくのと同じことである。立派な大学に行こうとする自分の高いレベルの認識を棄てたからそうなった。

 支那事変や大東亜戦争は、ユダヤに仕組まれた戦争ではあったけれど、発端は何かといえば、合法的に支那に居住していた日本人に対して、蒋介石のファシスト軍が無法にも戦争を仕掛けてきたから反撃に出たまでである。
 当時は斉南事件、通州事件など、無辜の日本人が支那人に虐殺されていたのだ。

 今やマスゴミは通州事件などいっさい語らない。支那に遠慮しているだけでなく、木っ端役人や政治家、マスゴミが寝た子を起こすなとか、自虐史観でやっていればいい人に見られるとか、でやっていきたいからだ。つまり、誇りを棄てたから、通州事件に蓋をしていられる。

 日本は支那居留民を助けるために軍隊を送って反撃した。これが真実なのに、日本のマスゴミや役人は支那の言う「抗日」だけが真実だということにしておきたい。
 日本軍がそこから収拾せずにだらだら戦争を拡大したのは失敗であったが、軍隊はわれわれの誇りであった。同胞の危機を救うためであったのだから。

 それをなんと! 戦後はやめたのである。同胞がもし危機に陥っても、助けてはいけない、戦争に加担してはいけないと、サヨクはいきり立った。憲法は絶対なんだから、と。

 これは再度いうけれど、ただ「やめただけ」と強弁することはできない。
 やめられたのは、自分たちの崇高な、犠牲をも厭わない精神のレベルを落としたからやめられたのである。

 こうして日本人の魂を抜きとるよう努めてきたのが、支那であり、南北朝鮮であり、アメリカであった。戦争をやめようね、体罰は暴力だよね、上昇志向もほどほどにして等身大に、自分らしくありのままに生きればいいのさ、と甘い言葉をかけてきた。

 話は変わるが、私の子供の頃は、学校に鉛筆削り用のナイフ(肥後守)を持っていくのは当たり前だった。私たちより前の先輩たちもそうだった。
 ところが何時の間にやら、ナイフは学校に持って来てはいけないことになった。怪我すると危ないからと。

 誰でも肥後守(ひごのかみ)に慣れるまでは、失敗して指なんかを切ってしまい、よく赤チンなんかを塗ってもらったものだった。
 ところが、今は親も教師も、ケガをしない、させないことが教育だと思っている。
 ナイフ持参すら「やめて」しまった。

 大きなケガをしないためにも、ナイフで指を切る程度の経験はしておかなければならない。また他人を傷つけないためにも痛みを知っておかねばならないから、われとわが身で多少の痛い思いをしておくことが大事である。
 失敗して血が出れば、もっとうまくやらねばとなって、指先の感覚が磨かれ、アタマも良くなる。

 ナイフなんかは、昔のように全員に持たせればよい。そうすれば子供どうしでの殺傷事件は逆に起きない。
 子供にナイフを持たせれば、たしかに危なかろう。だが、そのリスクをあえて引き受けて、難しいことに挑戦するから、アタマもよくなり、手先も器用になり、人を思う心が涵養されるのだ。

 これは先にも言ったように、ただ「やめた」だけでは済まずに、多くの大事な教育のチャンスを棄て、認識のレベルを落としてしまったのである。
 あげくに、戦争は嫌だという非論理的なアタマになり、きっと悪いことがおきると怯え、支那や韓国のような強く出る相手にシッポを巻くようになってしまった、それが護憲派である。認識のレベルがあまりにも幼稚である。

 学校でナイフを禁止した影響がここにも出ている。
 憲法を守ることが大事なのではなく、国と国民を守ることなんだとまっとうなことをいくら説かれても、その理屈を認めたら自分が戦争に行って傷つくことになるわけだからと、断固として認めない。
 ナイフで鉛筆を削るなんて、もし指を怪我したら大変じゃないか、という捉え方と共通する。

 毎日新聞 8月01日付にこんな人生相談が寄せられていた。
 「一度、離婚し復縁した夫は、卑屈、偏屈で、態度であてつけます。悪いところはお互いあると思いますが、夫にはぞっとするほど冷たいところがあります。じっと耐えるべきなのか別れた方がいいのか。夫のような人とはどう接するのがいいのでしょうか?(40代・女性)」

 私ならさっさと別れなさいと言うが、こんなおかしな夫や妻で苦しんでいる家庭は多いだろうと思う。こんな男が出てくるのは、親が悪く、教師が悪かったのである。
 鉛筆を削るナイフを持たせなかったこともその一因であった。

 それにこうした男はきっと受験秀才(受験の絞り滓)だろう。これは空手で言うと、実際の組手をやらずに、技の(当てない)上達だけで黒帯にしてしまうようなものだ。 
 人生は戦いであるし、思いやりでなければならない、その現実を味わうことなく成人した悲劇である。

 それにこの相談してきた女性は、辛抱すべきでしょうかと聞いているが、「辛抱は逃げ」である。辛抱するとは、意欲がない、という意味だからだ。人生は自分の目標を「ただ、つかみとるのみ」であるから、辛抱したって成果はゼロである。

 闘え、頑張れと励ます以外にこんな人生相談に答える道はない。戦えない弱い人間だっているとグズグズ言う者もいるだろうが、それがどうした。強くなればいいじゃないか。生まれつき強い人なんていないんだから。
 強くなる努力を怠けていたいだけではないか。

 ココロもカラダも強くなるためには、リスクから逃げずに闘魂を磨くしかない。
 日本人は鉛筆削りすらリスクを嫌がり、リスクがないことを一番の価値にしているようだが、それが無意味な9条なんかにしがみつかせるのだ。





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2015年08月14日

「ファシストくたばれ」の非論理性


 国会前で歩道を占拠して反日活動を行っている連中の叫びを、YouTubeで聞いてみると、太鼓をバンバン叩き、「ファシスト くたばれ」とか「安倍は辞めろ」「戦争反対」などと、怒声でシュプレヒコールを延々繰り返している。熱に浮かされた興奮状態。
 疲れもいとわず、あれだけ怒声がずっと繰り返すことができるのは、支那や韓国からカネをもらっているからなんだろう。

 あの行為は完全に日本人のマインドではない。韓国人か支那人のマインドである。デマを叫んでいるのだから。ザイニチが主導し、それに雷同している哀れな日本人もいるらしい。

 仮に私が今回の安保法制に反対の護憲派だったとしても、あの連中と同じ仲間だと思われるのは、とてもじゃないが耐えられない。
 しかしサヨクメディアも、護憲おばさんもあれを称揚するのだから、彼らもザイニチなのである。

 国会の審議をNHKの中継で見ても、政府答弁のどこがファシストなのか…無茶苦茶である。同じ法案に反対するにしても、「ファシストくたばれ」では、意味が通じないと、民主党やサヨクメディアは仲間をたしなめることはしないのか?

 「ファシストくたばれ」では、韓国でドイツとのサッカー試合で韓国人観客が「ヒトラーの息子たちは帰れ」と横断幕を掲げたレベルである。何でもいいから悪罵を投げつけているだけ。
 ただ自分と政治姿勢のちがう相手を意味も知らずに「ファシスト」と罵っているアホさ加減。

 例えば、シンデレラのように現れた美人のタレントが、テレビ番組を席巻し、CMも出ずっぱりになった超人気アイドルになったとする。これを嫉妬した他の芸能事務所がその娘を追放するには簡単である。週刊誌にカネを払って、このタレントは暴力団と深い関係があるとか、両親が犯罪者だとか、未成年なのに男と肉体関係になっているとか、ザイニチだとか、根も葉もない噂を流せばよい。
 一気に人気が落ちるだろう。

 芸能プロはそれが恐いから、そうとう神経を使う。
 同様に、安保法制に反対する主張を掲げるなら、国会前の無法集会で怒声を張り上げる連中は排除するべきである。オウンゴールになってしまう。
 あれはほとんど拡声器による暴力である。偽右翼の街宣車の怒声とそっくり。

 なのに、反対なら共闘しようというのは愚かである。つまりあれは日本の護憲派をいっそう愚かにし、社会を見る目を喪失させ、普通の大衆を逆に嫌悪させ、日本人を分裂させる策謀とも見て取れる。そういうことを仕掛けてくるのは、アメリカであり、支那、南北朝鮮である。

 偽右翼の街宣車は、ザイニチが行なっている。日の丸や旭日旗を掲げ、大音量で軍歌を流して、善良な日本人が保守に反感を持つような宣伝行為なのである。
 護憲派どもは、誰でもいいから、何してもいいから共闘して安倍を倒そうとするのなら、それは成功したとしても、大きな汚点となって残るのである。

 結局、民衆に馬鹿にされる。決して民主党や共産党は天下をとれない。
 民主党は、国民みんなが憤った北朝鮮による拉致に、口先ではなんか言ったかもしれないが、党としてなにもしなかった。コミットしたのは松原仁だけ。むろん自民党にも、額賀、二階、森喜朗などのように、南北朝鮮との利権にどっぷりで、拉致問題に背をむけてきた者もいるが、民主党や共産党は、党として同胞救出に冷淡であった。

 その連中が、今は安保法制に反対している。これは党としても、党員としても、相当恥ずべきことだろうに…平然としている。
 護憲派の人たちは、拉致に冷淡だった人と同類なのである。
 民主党は、磯崎首相補佐官の法的安定性発言でいきり立って「辞職しろ」とわめいてみせたが、北の拉致と戦うことを放棄しているのは、これは「法的安定性」に背くことではないのか。

 護憲派や民主党は、大学に巣食う憲法研究者を持てはやして、味方だと言いたいようだが、これも相当恥ずかしいことである。
 日本国憲法の成り立ちはデタラメであった。GHQが1週間でつくって日本に押し付けた国際条約違反の憲法なのだから、よしんばそこにどんな美辞麗句が書かれていようとも、護るべきものではない。

 そんなものを拒否するのが、国家の誇りであり主体性である。
 憲法研究者だとて、憲法と自衛隊の関係について合理的に説明できるはずがない。だから解釈変更は可能か、いや可能じゃないなどと言いあっている。

 憲法の誕生の経緯はどうであれ、平和主義はいいじゃないか、戦争放棄は理想じゃないかとサヨクは言うが、それこそが「法的安定性」無視である。理想が語られているんだから法的安定性は関係ない、としているのがサヨクで、こんな馬鹿げた話はない。

 誰が考えたって、サヨク以外は、憲法と自衛隊を比べれば、憲法のほうに問題がある。
 「経済コラムマガジン」氏が言うように、「日本の憲法学者は学者ではなく、異常な思想を持つ政治活動集団である」のだ(8月3日付)。http://adpweb.com/eco/
 憲法研究者どもは、自衛隊の存在も違憲だという者が多い。
 ところが民主党やサヨクメディアは、自衛隊は容認し個別的自衛権や専守防衛は認めている。

 社民党のボケ老人村山富市が、首相になったときに安保条約も自衛隊も容認したのだ。
 なのに、民主党やサヨクは、憲法研究者(憲法学者ではない!)の異常な発言を「それみたことか」と欣喜雀躍する。そうとうみっともない話である。
 参院に審議が移ったら、泡沫政党の福島瑞穂が、ミサイルは武器か弾薬かなどと、あっと驚くような愚論を展開してみせた。

 それを称讃するサヨクメディア! 民主党も「福島瑞穂よ、アホなことは言うな」とたしなめるべきなのに、援軍だと思っているようだ。

 ファシズムがすなわち戦争をする思想や体制だと思うことは、短絡もいいところだ。
 ファシズムはファシズムであり、戦争は戦争で別物である。
 第二次世界大戦では、蒋介石の支那軍はあきらかにファシストだった。だから蒋介石のほうから上海事件を起こして戦争をおっぱじめたのだ。それを支援したのだから、アメリカもファシズムだったじゃないかと言えるのである。

 戦争は国家行為として断罪されることはない。主権の存するところ自由である。戦争それ自体を罪にすることはできない。
 ところが、そこへ主としてアメリカが、正しい戦争と悪の戦争というおかしな理屈を持ち出したのである。

 だからニュルンベルグ裁判や東京裁判の“芝居”が正当化された。
 ドイツや日本は戦争に正邪はないはずで、戦争自体を裁くことは不当だと主張した。これは正しい。
 しかし、ニュルンベルグ裁判の検事代表だったアメリカの司法長官だったロバート・ジャクソンは、「公戦における被圧迫民族の救済は可能で、刑罰戦争は正当だ」と主張し、これがナチや日本を断罪する根拠にされた。

 ならばアメリカは、黒人や支那人苦力を差別し、インディアンを虐殺し、ハワイを奪ったりしたことは被圧迫民族への罪にならないとでもいうのか。
 アメリカは勝手にシリアやイラクに介入するかと思えば、一方でチベット、ウイグル、内モンゴルなどの支那からの被圧迫民族については救済に向かわないではないか。
 こういうふうに白人はご都合主義で卑劣だ。

 そういう歴史背景くらいは知ってから「ファシスト」という言葉を遣えよ。




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2015年08月13日

骨の髄まで自己喪失した奴隷民族


 1977年9月、日本赤軍のハイジャック事件が起きた。首相・福田赳夫は「人の命は地球より重い」との迷言を吐いて、人質と交換に応じ、犯人の言いなりになって獄中犯6人を釈放したばかりか、彼らに税金から600万ドル(当時の16億円)をくれてやって、国外逃亡を認めた。

 世界に日本の恥をさらした瞬間であった。
 テロリストに屈した。まさに「命(ぬち)どぅ宝」の世迷い事を実践したからだった。
 このたびの安保法制審議で、サヨクが主張する「戦争はいやだ」「9条を守れ」などと聞くと、あの事件を思い出す。

 福田赳夫にその決断を促したのは、おそらく害務省の官僚と、自民党、それに社会党あたりだったのだろう。多くの国民も、なんとなく釈然としないながらも福田のとった措置を支持したのではなかったか。とりわけサヨクは。

 人質に犠牲が出ても、断固戦え、妥協するなという声は当時は少なかった。「超法規措置」に多少の批判が出ただけだったように記憶している。きっと超法規的措置を認めたら9条も廃棄されちゃうかもと心配したのだろう。

 もう一つ世界に恥をさらしたのが、アメリカが仕掛けた湾岸戦争のときに、ときの海部内閣は自衛隊を派遣しない代わりにと、110億ドル(1兆1千億円)のカネをパパブッシュ大統領にふんだくられた。どう使われたか、いまだに不明といわれる。
 クウェート政府は、軍隊を派遣した国には感謝したが、日本は含まれていなかった。

 この2つの事件では、いかにも日本人に犠牲者は出さずに済んだ。だが、めでたしめでたしで終わらなかったことは、まともな日本人ならば理解できたのである。

 日本人はいっせいに「日本の常識は世界の異常」とか「腰抜け国家」とか軽蔑されるようになった。
 それでなくても、もともとイエローモンキーと馬鹿にされ、アジアで無謀な戦争をやらかし、白人から植民地を奪った許されざる奴と言われていたところへ、追い打ちかけてこうした2つのみっともない事件を起こしたのだ。

 もともとよろしくなかった世界中の日本に対する悪感情は、くすぶっていたレベルから、修復できないほどに憎しみの炎となって燃えさかった。そして日本は脅せばいくらでもカネを出すという評判が定着した。
 支那もアメリカに教えられて、日本を脅しては巨額のカネを搾り取り、経済大国にのし上がった。

 韓国も北朝鮮も、「従軍慰安婦」だの「徴用工」だのと同じ言い掛かりをやり続け、さらに日本を脅してカネを奪おうとしている。北の拉致が解決しないのは、北が日本をゆする種にしているからである。
 その原因の主要な部分は、福田赳夫の日本赤軍釈放と、海部俊樹の湾岸戦争への寄付行為である。

 私の尊敬する作家・林秀彦さんはこう言っていた。
 
     *    *    *

 もし「ジャパン・バッシング」が「嫌われている」という意味だけならば、まだいいのである。日本と日本国民にとって一番のマイナスは、その世界の意識の中に軽蔑が強く含まれているということなのだ。ジャパン・バッシングがその常套句として用意し、実際に外国の新聞に雑誌にテレビに、そして人々のじかの会話として使われているものは、ざっと挙げても以下のような言葉だ。

 偽善者、無責任、義務からの逃避者、利己主義、無能、無為、無策、臆病、偏狭、近視眼、名誉心皆無、無礼、傲慢、誇りなし、矜持なし、破廉恥、裏切り者、自尊心皆無、独立心皆無、意気地なし、成り金、ケチ、ズル、……。

 同じような意味も重なっているが、こうした言葉は実際に私が外国で直接間接に受けた言葉である。今日だって受け続けている。
 いや、外国だけではない。国内の日本人が日本を憂い、悲しみをこめ、同じ批判の言葉を投げ掛けている。
 (中略)

 われわれは敗戦により、完全にアメリカの植民地となったのである。一見そうと気付かないのは、植民地化のアプローチが時代で変わり、昔と同じ形態でないだけのことで、ある意味では、もっと狡猾な、手の込んだ複雑なアプローチがなされている。そのため、国旗や紙幣を変えられる以上に、始末におえない属国になった。独立自尊の意識は国民から徹底的に喪失した。

 骨の髄まで自己喪失した奴隷民族が目下の日本民族の姿なのだ。必然的に、われわれは世界の人々から根っから馬鹿にされているのである。嘲笑されているのである。
(『ジャパン、ザ・ビューティフル』中央公論社 より)

     *    *    *
 
 9条を護れと叫ぶお馬鹿さんたちは、骨の髄まで奴隷根性になっていることを自覚することすらもうできなくなっている。
 国家も個人も、自己責任と独立自尊の魂を堅持しないではいられないのが、世界中の人々なのである。
パレスチナ人たちを見よ、クルド族の人々を見よ、東トルキスタンの民を見よ、彼らの抵抗が「9条を護れ」の馬鹿者どもにはわかるまい。

 「戦争しません」と言っていれば、戦争しなくて済むなどと言えば、世界中の人たちから馬鹿にされる。
 世界中の人が、平和を願いながらも、命より大切なものがあることを知っているからだ。
 集団的自衛権すら嫌だと言えば、林さんが挙げたような、「偽善者、無責任…」などと罵声を浴びることになるのに、気付きたくないのが護憲派どもだ。

 ただ、奴隷の平和だけがいいとする。支那や韓国にどれほど犯されても、耐え忍んでいればきっといつかは認めてくれると、オシッコをもらしながら念じているだけ。




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2015年08月12日

戦後日本文学の蹉跌(2/2)


《2》
 ちょうど60年安保の最盛期に、開高健、大江健三郎、野間宏、亀井勝一郎、竹内実、松岡洋子が「中国訪問第三次日本文学代表団」として支那に行っている。
 開高以外の者たちは、行く先々の挨拶で「米帝打倒!」「日支人民の友好」などを叫んで、支那側に迎合したが、開高だけが文学の話をして、周囲を白けさせたという。

 当時、開高は30歳、大江は弱冠25歳であった。大江は大学卒業してまだ2〜3年の若さで、世間を知らない「おぼこ」だったから、開高より支那から受けた洗脳のひどさが深刻だったであろう。
 サヨク護憲派は、大江さんは味方だ、ノーベル賞をもらったほどの偉人なのだから正しいはずだと思い込むようだが、もう少し調べてから判断したほうがいい。

 支那は当時、毛沢東の「大躍進」政策の失敗で飢餓がピークに達した時期であって、死亡者の累計は4,300万人に及んだとも言われる。しかし、訪問団がそれを知る由もなかった。毎晩、大ごちそうを振る舞われ「かんぺい、かんぺい」と茅台酒をあおっては酔いつぶれていたそうだ。

 支那は自国で飢餓が広がっていようとも、将来日本を支配するための「待ち駒」として打っておくために、大江と開高という新進作家を招待したのだ。大江と開高は、見事に支那に利用された。開高の岩波書店から出した『過去と未来の国々』を読むと、その感を深くする。コロッと騙されている。

 チベットの残虐な圧政から人民を救ったのが中共軍だったとか、日本軍が南京で大虐殺をしたなどという大ボラを、蝋人形館で見せられて、信じ込んでいる。
 当時は共産党の支那についての情報が乏しかったから、まさかすべてがプロパガンダだと彼らが疑わなかったのは無理もないことであるが…。

 支那側は訪問団に過去の日帝の罪過の跡を見せつけ、一方で米国帝国主義と戦う素晴らしい日本人民、と持ち上げられた。要するに中共は、エドガー・スノウやアグネス・スメドレーなどのように日本の作家を手なずけたのだ。
 
 開高は自ら世界中を歩き、またヴェトナム戦争を見て、左翼からは距離を置くようになった。晩年には短編『玉砕ける』で、支那の共産党と文学者の不条理に言及したが、まだこの訪中時に洗脳されたアタマからは脱却しきっていないようだった。

 開高より若く、学生からじかに作家になってしまった大江は、世間が腹黒く、騙すものだというような世間知に長ける間がなく、自らの反米意識を強化し、媚中派になっていくのである。
 大江の後の政治活動を見ると、このときの中共から受けた洗脳でのアタマのダメージには深刻なものがあったといわざるをえない。

 ほかのメンバーはみんな左翼だった。野間は日共から除名されていた。亀井も若い頃はマルクス主義者だった。竹内も松岡も支那専門家として日本の論壇で活躍した。松岡洋子はスノウやスメドレーなどの中共プロパガンダのルポの翻訳者である。
 みんな手もなく支那に籠絡されたのだ。

 支那はしたたかにこういう策略をもちいてくる。開高や大江が訪中したときにも、彼らが面会し話を聞いた支那人は、みんな中共が用意した人間で、言うべきセリフもあらかじめ決められていたのだ。
 まさかそうとは知らず、日本の作家たちは支那人たちが自由に話してくれたと騙され洗脳されて帰ってきている。

 その手口は今も継続されている。媚中派の作家やジャーナリストどもは、同じように騙される。
 民主党は小沢一郎が党首のころだったか、100人もの国会議員を率いて訪中したし、最近では自民党の二階がやはり若手自民党議員を大量に引率して習近平に逢いに行っている。

 60年当時は「米帝打倒」で日本人を煽り、今は「アメリカの戦争に巻き込まれる」で日本人を煽動しているのが支那なのだと、簡単にわかりそうなものなのに、護憲派は昔と同じ過ちを犯している。

 みんな支那に籠絡されて帰ってくる。
 これが支那が仕掛けている“戦争”なのだ。
 騙されるのは、結局、自分の思うことを大事にし、そして思うことから行動する癖が身に付いていることに何も疑問を抱かない人間になっているからだ。

 人間とは何か、どういう存在かから捉え返して、どうあらねばならないか…からは行動することを自家薬籠中にしておけば、支那の計略に騙されることはないだろうに。

 自分勝手に判断して、落とし穴に落ちたり自滅したりしてきたのが、日本の作家たちであった。





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2015年08月11日

戦後日本文学の蹉跌(1/2)


《1》
 昨日、触れておいた大江健三郎の問題に関してであるが、これは大江に象徴されているが、戦後日本文学の宿痾というべきテーマにつながる。
 大まかに言って、戦後の日本の文学界(とくに小説)は、大東亜戦争をどう捉えるかから出発した…はずであった。

 「はずであった」と書いたのは、その姿勢がズルから出発したからである。
 戦前の日本と戦後のアメリカに強姦されたあとのような日本との齟齬に目を向けた作家もいた一方で、あの戦争を非人間的な行いだったとする見方を中心とする作家がいた。後者のほうは、マルクス主義的な歴史観や社会観を持った作家、つまりはサヨク思想に染まった作家がいた。

 戦争中は、軍部にへつらって戦意昂揚の従軍記を書いていた作家達は、コロッと転向して戦後のGHQ民主主義に迎合していく。
 そのありようが実は醜悪だった。
 吉本隆明は昭和30年の論文『前世代の詩人たち』で、壷井繁治や岡本潤らプロレタリア詩人を俎上に上げて論じた。戦前は愛国詩、戦意昂揚詩を書いていたくせに、戦後は共産党に入ってGHQ民主主義を礼賛する転向を行なった。にも関わらず、戦前の詩ですら実は「戦争反対」と「抵抗」の詩だったと強弁するようになった。

 ごぞんじ、日本共産党が戦時中に潰滅して転向したのに、軍部に最後まで抵抗した唯一の組織だったなどとウソを言ったこととそっくり。韓国が日本として戦争に参加したのに、戦後になって実は米英と共闘して日本軍と戦った戦勝国になったとウソをついているのとそっくりである。こう言えばわかりやすいだろう。

 プロレタリア詩人どもを左翼の同伴者である、小田切進や平野謙ら評論家がグルになって、壷井や岡本のような転向組の文学者どもを、持ち上げたことを吉本は暴露した。
 吉本の指摘で、彼らは本心はグウの音も出なくなったが、それでも破廉恥に商売は続けた。

 戦後民主主義の作品にケチをつける奴は、反動、反共主義者、民主戦線の撹乱者との罵声が浴びせられた。今も安保法案に賛成の声には罵声を浴びせるサヨクと、体質は同じである。

 吉本の『前世代の詩人たち』は、この論壇文壇を覆う空気とタブーへの戦闘宣言であった(吉本隆明全著作集第5巻、所収)。
 三浦つとむの弁証法に関する論文は、こうした戦中世代のイギタナイ転向への激しい反発があったから、後に「試行」で吉本と三浦は同人になるのである。

 吉本は(三浦も)これがために文壇、論壇から異端児扱いを受け続けた。
 吉本が発行した「試行」は論壇、文壇からは徹底して無視された。出版界もその動きに同調した。それでも編集者のなかには良心的な人間もいたから、「試行」に論文を書いた人間に注目して引き上げようとしてくれた者もいたのだが。

 だから南郷継正先生が「試行」に論文を掲載したために、それだけの理由で、論壇や出版界か無視される運命にあったのである。
 こうしたことが、日本の戦後文学のスタートだったし、戦後サヨクのずるいスタートであって、それが反省なく今日につながっている。

 作家たちが戦争に協力し、戦争翼賛の記事や詩を書いたとしても、なにもそれを一夜にしてひっくり返して、実は軍部に協力したのではありません、民主主義を守ろうと抵抗していたのですと弁解し、文壇でよってたかって隠蔽することはあるまいに。

 いかに戦前から作家や詩人たちのアタマがお粗末で、文学のかけらも分かっていなかった証左でしかなかった。
 このタブーに振れさせないいわばシンジケートが文壇、論壇、出版界、そしてマスゴミに結成されたのである。

 何度も言うが、そこから戦後の文学も学的論文も出発させられた。だからあとから登場する作家たちも、この世界の「掟」に逆らえなかった。
 左翼かそれに近い第一次戦後派の作家たち(野間宏や梅崎春生ら)は、戦争そのものを文学でどう捉えるかを考えていたろうが、自分たちが軍隊に自由を奪われたとか、理想とする西洋に逆らい、しかも敗北させられたみじめなありようを見つめていたかと思う。
 しかし見つめ方がボロすぎた。

 第二次戦後派作家の多くは、西洋の小説を範にとる傾向が強かったのもその影響だったろう。
 西洋の、フランスやイギリスの第二次大戦で「間違わなかった」組の文学や学術に憧れるというか、自分の教養はそちらにあるんだ、日本国民もそっちの教養に身を任せるべきだと、「文化人」どもはなびいた。

 大江もその手合いで、薄汚い遅れた日本の文化や政治をアタマから拒絶したところから出発した。あまりにみじめな敗北を喫した日本に愛想をつかせたのも当時としては無理もなかったが、それを主導した知識人たちはやはり大きな間違いをかかえていた。

 戦争を経験して、戦争をどう捉えるかに挑むべき時期に、多くの作家が西洋への敗北感とか、社会主義的捉え方で総括しようとしたことは日本文化にとっては第一の悲劇であった。

 戦前は軍部の翼賛をこととし、終戦を境に進歩派を任じるという破廉恥に、食うためとはいえ、自分が確固たる信念を持てない無様さに忸怩たるものがなかったはずがなかろう。だがそれは出せないし、よしんば出したところで異常者扱いされるだけだから、ウソでもいいから戦後民主主義などの既成概念にすがったのだ。

 次に周知のように、戦後文学のさらなる新傾向というべきだろうが、「第三の新人」群が登場する。第三次戦後派の意味である。これは文藝評論家の山本健吉が唱えた分類で、安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作、庄野潤三といったあたりが代表的作家とされた。

 第三の新人をうまくまとめた評者に服部達がいた。それを引用する。

     *    *    *

 青春時代すなわち戦争の時代が経ったあと、彼らの手に残されたものは、いっこうに見栄えのしない、みずから信じこもうとする熱意も大して湧きたたない、平凡で卑小な自我であり、そうした自我を背負いながらともかく今日まで生きてきたという、起伏に乏しいだけに扱いにくい記憶に過ぎなかった。

 (……)彼らは、逆手を使う以外になかった。外部の世界も、高遠かつ絶対なる思想も、おのれのうちの気分の高揚も信じないこと。おのれの自我が平凡であり卑小であることを認めること。
 (服部達「劣等生・小不具者・そして市民」)

     *    *    *

 日本の戦後文学はここがひとつの転換点となった。「逆手を使う」と服部は書くが、そうではなかろう。それしか考えられないアタマになっていったのだ。
 時期的に第三の新人を継ぐ世代として出てきた作家、開高健も大江健三郎もそうだったし、最近の芥川賞作家達も、文学は極私的で、非政治的で、非学問的で、いじましく小さくまとまって、何を書くかよりもどう書くかのテクニックを競うばかりになっていった。
 
 それを出版させる文藝誌の編集者たちも、彼らと相互浸透し、それで売れるものしか登竜門を通さなくなっていった。
 自分はなんでもないもの、とりたてて自己主張をしないもの、等身大にすら生きられない落ちこぼれの自分、信じられるものがないことに開き直る自分、こんな作品ばかりが世にはびこった。

 こうなったのは、昨日のブログで説いたように、作家も対象の構造に分け入る実力を身につけるスベを追及することなく、自分の思いが大事、自分の思いから行動するの愚を身上としたからの誤謬だった。
 だから大江に代表される作家たち、そして最近の新人作家のほとんどが(村上春樹のように)護憲派になびき、「戦争反対」になっているのも故なしとしない。

 「戦後派」の作家は、すくなくとも戦争体験を極私的にだけは捉えず、社会の問題は社会の問題として究明しようとする魂はあったろうが、第三の新人以降は、対象(社会)の究明より、自己の思い、感じをどうやったら安らえるかにばかり関心を向けるようになっていくのである。

 開高健は、自己の戦争体験をふまえて、社会事象や戦争という自己の外に存在する対象をどう捉えることが自己を安らうことになるのかと問いかけ、社会派的作品を目指し、またヴェトナム戦争を取材するなどして外へ目を向けつつあったが、自らの生活の乱れで心の病まで発症させて、結局、私小説に拘泥することで終わった。

 大江は東大生のときからいっぱしの作家になってしまったがために、サラリーマンなどの実生活の経験を積まなかった。よって現実と格闘する実力を身につけず、外国の思想家や作家を参考にするしか己の生きる道を見つけられなかった。書斎にこもって本を読めば賢くなれると勘違いした。対象の構造を自力で学的に解明するに至る道は放棄したのだ。

 彼ら小説家の欠点は、むろん現代の知識層にも相互浸透した。社会という対象の構造に文学としての切り込みをできず、自分の想いだけをこねくり回すだけの人間が、それを読む人間を同じような私小説的人間にしていったのだ。

 自分だけが人から認められていないとか、何をやっても中途半端だとか、さりとて社会主義を信奉してすべて社会が悪いせいだとするほどにアホでもない。いじましいだけ。 
 だから、世界の荒波に対峙しなければならない事態を極端なまでに忌み嫌う。それが「戦争法案反対」「徴兵制反対」「9条を守れ」の叫びになる。

 どこにも対象の構造に分け入る魂がない。何度も言ってきたが、ダチョウが敵に襲われた時に砂に頭だけ埋めて隠れたつもりになっているのと同じ。
 どうやったら対象の構造に分け入れるかとは、例えばアメリカ、支那、韓国などが過去にやらかしてきた悪事をしっかり分析しなければならない。それを日本人の共通認識にすることである。

 そのために、自らを知ること、つまりわれわれ日本人の特殊性は何なのか、そして欧米人や支那人や朝鮮人を知ることは欠かせない。彼らも世界市民だとか、話せばわかるはずだとか「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」とお題目さえあげておけば、みんなわかってくれるなどというのは、ただの怠け者である。




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2015年08月10日

「人は思うことから行動する」とは


 人間はどうしても、自分の思うことを大事にし、そして思うことから行動する。人間とは何か、どういう存在かから捉え返して、どうあらねばならないか…からは行動しない。
 だから人間は頭デッカチであり、自分勝手にやって、落とし穴に落ちたり自滅したりする。

 その極端な例が、犯罪者であったり、苛めることに快感を味わう奴だったり、落ちこぼれたり、車椅子生活にしたり…と枚挙に暇がない。「性的少数者」なんかもそうだし、子供が生まれなくて人工授精にすがるケースもそうなのである。

 言ってみれば、こうすれば正常な生き方ができるとわかっていながら、それを無視、破り、高をくくって、自分の思うことから行動する。
 この世界は運動しているのだから、運動を運動として捉える弁証法抜きには、何も世界を解明できないのに、自分勝手に誰それの思想が好きだから、なんていう理由で猿真似に走るのである。

 分かりやすい例でいうなら、甲子園に出たいと思っている高校生球児が、野球の基本と言われる練習の、キャッチボールとか素振りとかは必ずやる。やらないことはありえない。
 これが「ねばらならない」から出発することである。自分の思うことを大事にして、バットよりテニスラケットを振りたいとか、キャッチボールよりボウリングの玉転がしをやるなんてことはない。

 東大を受験しようとしている高校生が、名も知れぬ末流大学用の勉強だけをすることはありえまい。これが対象を正しく捉えているのである。東大志望者が東大用の勉強をすれば間違いがない。
 自分勝手にやれるはずがない。
 本来は、対象が自分勝手な勉強、修得をさせてくれないものなのだ。

 ところが、それがわかっていながら、やっぱり人間は自分が思うことから行動する。
 個性が大事だ、自由だ、自分らしく、などと愚にもつかぬことを言って…。「戦争って嫌」と思うことだけが自分らしさなんだから、あまりに哀しい。

 今は学校時代から「そのままの自分でいいよ」「ありのままの自分でいいんだ」「等身大でいい」と教育されて育ってくる人間が多いそうだ。
 よって「アナと雪の女王」の歌(Let it Go)みたいに、「ありのままの姿見せるのよ ありのままの自分になるの〜 ♪」と陽気な歌が好まれる。(あの歌を聴いたときはゾッとした)

 会社に入れば、会社には会社の方針や目的があって、そのルールに従わなければならないのに、「ありのままの、自分らしくやっていきたい自分を認めてちょうだい」と主張する若者がいる。その私たちを理解しない管理職のほうが悪い、と言うとか。

 文科省の寺脇研という木っ端役人がやらかした「ゆとり教育」の成果がこれである。これが日本人自滅への道のトドメを刺されたのだった。
 だから、戦争とはどういうものかも、人類の歴史はなんだったか、これからどうすべきかを学問的に捉えたうえで判断することができない護憲派サヨクを生んだ。「わたしが戦争は嫌なんだもん」で、話が通ると思うのは、戦後の愚かな教育の成果である。

 先日のブログで、鶴見俊輔を取り上げたときに、科学とはの定義を紹介しておいた。
 「科学とは〈事実〉をありのままに見、かかる事実を構成する、かかる事実を貫く〈論理〉を導き出して来、それを本質に迄高める事によって体系化された認識である」

 これに対して、これまでの人類史の主役だった宗教は、事実から導き出した論理に依拠せずに、誰か教祖なんかの勝手な思いを盲信した連中がこれぞ真理だ、生きざまだとしてきたものであった。
 対象の構造を研究することなく、自分の勝手な考えを対象に押し付けてきたのが宗教である。これぞ観念論であった。

 人類が対象の構造を捉える実力がなかった長い長い時代にはやむを得なかったけれども、今や科学の時代であり、唯物論や科学によって対象の構造、そしてそれを捉える人間の認識の構造まで含めて解明すべき時代になったのである。

 冒頭に、「人間は自分の思うことを大事にし、その思うことから行動する。人間とは何か、どういう存在かから捉え返して、どうあらねばならないか…からは行動しない」としたためた言葉に戻るけれど、この「思うところから行動するありかた」のいわば頂点が宗教であったが、科学的に「人間とは何か」の構造論を究め、どうやって「ねばならないか」を知って、そこから行動するかを決定しなければならないのである。

 つまり、すべてのモノゴトに関して、対象の構造はこれが正解だ、こうすれば対象の構造に見合った行動ができる、という極意ともいうべきか…“規範”というか“法則”というかを、導き出そうと孤軍奮闘してきたのが、南郷学派だったと言えるのである。
 ほかに、どこの大学や研究機関や、個人がそんな偉業に手を染め、かつ完成に至ったというのか。

 譬えに挙げたように、甲子園に出たい高校球児にとって野球の基本を必ずやるとは、野球という対象の構造に適応した決断と実践が欠かせないように、すべてのモノゴトには、すべてのモノゴトに共通する法則性があるはずだとして、究明に挑み、成果を上げ得たのは、南郷学派だったのである。

 対象の構造に従った練習を真面目にやるなら、誰でも(才能とかは関係なく)空手なら黒帯にくらいにはなれる。大相撲で言うなら三役くらいには誰でもなれるのだ。天賦の才なんかじゃない。

 その究明のためには、過去のしがらみにがんじがらめになっている観念論は徹底して排除しなければならなかった。それを「唯物論魂の堅持」と称した。

 それでもなお、多くの盲いたる民は自分の思うところから、自分勝手にやること以外に考えられないので、自分勝手な思いだけで言動をする。
 わが国を取り巻く、邪悪なアメリカ、支那、ロシア、南北朝鮮などがどんな国なのか、どんな民度なのか、そうした対象の構造を究めることを怠けている。きっと自分たちと同じ考え方をすると思い込む。自分たちが平和を願えばそれが自然に叶うなどと馬鹿を抜かす。

 これはもう東大に入りたいとか甲子園に出たいとか願いさえすれば、湯島天神に絵馬を懸ければ、きっと神様がかなえてくれると思うような愚劣である。東大に行きたければ、甲子園に行きたければ、その対象の持つ構造に自らをあわせて努力するしかない。戦争を避けたければ、対象たる近隣諸国の邪悪さを研究しないわけにはいかないし、準備をおさおさ怠らぬことである。

 大江健三郎は、戦争の準備ではなく平和の準備をすればいいんだと、馬鹿を言った。9条を守れば平和の準備ができる、と。
 これが有名な作家なのだから、唖然呆然である。彼の小説は対象の構造を究めようとするのではなく、自分の思いばかりを書くテイタラクだから、こうやって自滅したのである。
 この件については明日、もう少し考えてみたい。

 ビルマの首相だったバーモウは、回想録で、ビルマが独立を勝ち得たのは日本のおかげだ、大東亜戦争は白人植民地政策に対する東洋人の反撃突破作戦だった、と述べた。連合軍が勝手に「民主主義対ファシズム」とする図式はまちがいだと断言している。適性支那や韓国以外の国ではこういう評価はかなり多い。

 ところがマスゴミはこうした見解が述べられていることを一切報じない。ひたすら日本が悪かった、戦争で庶民はひどい目にあった、しか言わない。白人迎合主義である。ユダ金の下僕だからだ。
 アジアの指導者の発言を伝達することすらしない。少なくとも、両方の意見を学校で教えたなら、子供は「うん? 何が正しいのだろう?」となって、ものを自分で考えてみようという能動的な姿勢が培われるのに、それは一切封じられる。

 これでは科学的に対象の構造に立ち入ってみようとする学の姿勢は育たない。
 私の子供の頃は、親は戦争に行っている世代だから、苦労した話はしたが一方で、東京裁判がいかに不条理で、にも関わらずインドのパール判事が公平なものの見方をしてくれたんだということを教えてくれていた。

 だから白人はいかに邪悪で、日本を敵視しているかを知ったうえで、何が正しいのか、対象を見て取ろうとする姿勢は教えられたのである。
 それすらアメリカや支那らは日本人から奪おうとしてきた。
 まんまと騙され、考える実力すら失ったのが護憲派だと、こうなる。


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2015年08月08日

護憲派の「おもねる、へつらう、デタラメを言う」


《1》
 安倍首相が7月20日、フジテレビの「みんなのニュース」に生出演して「国民の疑問」に答えたそうだ。私はYouTubeで一応見た。
 フジは「国民の疑問」と言いながら、ほとんどはザイニチを出演させたり、タレント事務所所属の左翼コメンテーターばかりを選んだり、実に恣意的な番組だった。
 
 司会のフジテレビの伊藤利尋アナウンサーの態度も、一国の総理に対して無礼な振舞いが目立った。バイアスがかかった者を司会に起用すべきではない。
 フジはバックの映像に、先般の衆院特別委員会での採決で、民主党が「強行採決をしたかのような芝居」を流し続ける失礼な演出をやらかしていた。

 本来的には、あんなサヨク贔屓の映像を流すのだったら、首相は出演を取りやめて、席を蹴って帰ってくるべきだった。いつも不機嫌を絵に描いたような顔をしていた佐藤栄作や橋本龍太郎なら、怒っていただろうに。

 なんとかして、安倍総理を吊るし上げたい、野党に替わって貶めたい、という意図が露骨であった。せめて賛否両論あるんだから、公平な立場で放送すべきを、ザイニチに支配されているフジらしく、下品な振舞いに終始していた。
 まるで韓国のテレビ局で、安倍首相が一生懸命説明しているかのようだった。

 安倍首相も馬鹿なことをしたものだ。民放のそれもザイニチ牙城のフジテレビに出るとは…。TBSよりはまだしもいいか? NHKも偏向しているが、公平性の担保という点では安保法制の説明に安倍首相が出演するなら、NHKを使うべきだった。

 安倍首相の火事を例にした絵解きは、大衆向けにはわかりやすいだろうが、国家の高みからの安保法制の必要性を説くものではなかったのは、不満が残る。
 しょせんテレビは、大衆白痴を相手にしているのだから、首相が自ら出向いて説明すること自体に、彼の志の低さが表れていた。

 首相もっと悠然と構えて、世界を睥睨する姿勢を見せれば良い。
 テレビ出演なんかは、官房副長官あたりにやらせればいい。

 「安保法案に反対で、国会前で違法の無届け集会をやっている人たちは『平和を願えば平和が続く』と言っているが、それなら、ウクライナでもいいし、イラクやシリアに行って説得してきたらどうなのですか?」と言えばすんだ話である。
 現地の人からはひとこと「アホか」と言われて追い返されるだけだろうが。

 国家が自衛権を持つと、近隣諸国を侵略しはじめるとか、子や孫が人殺しになるとかサヨクは言うけれど、どうしたらそういうデタラメな理屈になるのか、わけがわからない。
 しかし、多くのメディアはそうしたデタラメやデマを真面目に信じて偉そうに報道するのだから、精神病である。

 戦後70年、日本はアメリカの属国にされた。だからアメリカの直々の軍事力に守られて、他国から侵略されずに済んできたのであって、憲法9条のおかげなんかではない。
 そのおかげで軍事費が抑えられ、経済発展できたとはいいながら、アメリカが仕組んでザイニチにひそかに乗っ取らせてきたのだ。
 だから、日本人の魂が滅んでいった。

 アメリカ、支那、韓国の思惑どおりに、日本人は腑抜けにされた。
 それが大問題であって、安倍首相は「日本を取り戻す」と言った中身でなければいけなかったのに、なんとフジテレビにのこのこ現れて、火事になったら…の「わかりやすい」説明をやらかすテイタラク。


《2》
 俳優・宝田明(81)は、サヨクのアジテータになることを決心したそうだ。彼のことは2月2日の本ブログで、NHKの番組で安倍政権批判に通じる見解を述べようとしてアナウンサーに制止された件を取り上げた。

 今度は日大芸術学部でのトークイベントで、心置きなく「反戦を訴えた」と、わざわざ毎日新聞が記事にした。(8月3日付夕刊) 
 俳優だから政治・思想に中庸でなければと控えていたが、還暦すぎてから、ノンポリをやめて、(サヨクになった)んだと。

 「今また、暗い時代の到来を危惧しているという。『戦争放棄をうたった憲法を70年近く熟成させてきたのに、その大事な樽のたがが簡単にはずそうとしている』と怒り心頭の様子で安倍政権の安保法案を批判。『決して忘れてはならないのは、戦争の現実だ。今、政治が危ない』と学生や参加者に向かって声を張り上げた。【奥村博史】」

 こいつもサヨクの常として、言葉でものを考えていて、像で考える実力がない。戦争放棄の9条が熟成してきた? なんのこちゃ?
 これは日本語ではない。デタラメである。現実をなにも反映した言葉ではない。
 先に言ったように、戦後70年の日本はアメリカの属国だから、支那の国共内戦にも、朝鮮戦争にもヴェトナム戦争にも武力で参戦させられなかっただけのことである。

 さらに「忘れてならないのは戦争の現実だ」というが、戦争で殺し合ったり、庶民が苦しんだりするのは一面の事実であって、それが戦争のすべてではないのだ。これがいくら解いてもサヨクには理解できない。結果として、日本軍がイギリス、オランダを破ったために植民地解放の端緒になったことをどう捉えるんだ、宝田明は?
 
 戦争が行なわれていなければ、いまだにインドネシアはオランダ領だったろうし、インドもシンガポールもイギリスの植民地だったはずだ。宝田は、では、アジアは植民地のままで良かったと主張するのか?

 「阿る」という言葉がある。「おもねる」と読む。「諂う(へつらう)」という言葉もある。どちらもほぼ同じ意味だが…。
 「阿る」も「諂う」も、自分の考えや気持ちを曲げて、人の喜ぶことをしたり言ったりして、取り入ろうとすること。自尊心のかけらもなく、お世辞を言ったりご機嫌をとったりして、相手にごまをすること、といったところか。

 宝田明にしても、毎日記者の奥村博史にしても、こいつらは阿る、諂うが身に付いている。宝田は俳優=河原乞食だから、根っから阿る、諂うが商売だし、マスゴミの記者も大半は広告主やサヨク読者に取り入ろうとするのが商売である。

 彼らは「戦争はいや」「戦争反対」「戦争は辛かった」とするレベルの一般大衆におもねて、へつらっているのである。観客や視聴者、読者に媚びている。
 それだけではない、憲法を押し付けて民主主義を教えてくれたアメリカ様にへつらって9条はすばらしい、理想だと言う。

 また一方で、支那人や朝鮮人には、ほら僕たちはいつだってこうして謝っているでしょ、悪かったのは僕たちだって反省し続けているし、「従軍慰安婦」も永遠に賠償すべきだって主張しているんだよ、ね、良い子にしているでしょう、と。阿諛追従。ご都合主義。

 こんなザマは主体性ある人間、誇りある人間の為すべきことではない。宝田明も毎日の記者も、どう言えばサヨク大衆が泣くか、怒るか、笑うか、安倍晋三を罵ってくれるかを熟知している。それを戦前から知りつくしてやってきた。だから毎日新聞は「南京戦で百人斬り」などという戦意昂揚のための大ウソをこいたのだ。

 今もその体質はいささかも変わらない。
 9条を護れ、戦争法案を阻止しろなどと言うやつは、これはもはや主義主張の話ではないのだ。その人間の人格の問題である。もっと言えば精神病理の問題であろう。

 宝田明の言うことは反戦ではなくて、大衆を馬鹿にし、見下し、見くびっている。当人は傲慢になり、大衆はこんなものだと高を括っている。
 大衆に主体性なんか説いてもわかりゃしない、戦争は嫌だよねと言っておきさえすれば、注目してくれる、拍手してくれる、と。






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2015年08月07日

どこに「物言えぬ空気」があるか


 ささいな記事であるが…、長野市中心部の商店街「権堂アーケード」で、ある商店主が、安全保障関連法案などを批判する垂れ幕の付いた七夕飾りを設置したところ、「祭りにふさわしくない」との意見が市などに寄せられ、自主的に撤去したという。
 毎日新聞7月25日付夕刊の記事である。

 なにを動員しても構わないから、世論は安倍内閣に反対していると誘導したいのがサヨクマスゴミ。反対のためならネコの手も借りたいってか?

 商店主の50代男性は「今声を上げなければと思ったが、周囲に迷惑がかかるので撤去した」と話していると記事にはあるが、こんな非常識なことをやらかすのはサヨク活動家に決まっているのに、新聞はそこをズルして書かず、善良な市民が声を上げたといったイカサマ記事に仕立てる。

 堂々意見をおおやけにしたいのなら、匿名でなく名を名乗れよ。誰が垂れ幕を作ったかは、サヨク新聞はだんまり。

 七夕飾りに安保法案批判の垂れ幕がずらずら出ているのは、祭りにふさわしくないのは当たり前だ。
 商店主の男性は、「戦と書きアンポと読ます」「わが子も孫も人を殺(あや)める」「日本存立の危機事態は君だ」「戦争原発バラマキの愚策」「米国に人命差し出す狂気」などと安保法案への異議や安倍内閣批判など、自ら考えた14種の標語を垂れ幕7本の裏表に書き、つり下げた。

 これに「七夕にふさわしくない政治宣伝。事実をねじまげ宣伝している」といった批判が市に数件寄せられた。かなり偏った主張であり、ウイットもなく下手である。
 護憲派の諸君は、こんなアホンダラと仲間と思われるのは恥ずかしくないのか?

 「市担当者は24日、批判があったことを伝え、商店主は同日、垂れ幕を撤去。市産業政策課は「市として撤去を要望したことはなく報告しただけ」と説明している。【巽賢司】」
 と書かれている。

 市担当者も、かように逃げ腰、及び腰で「要望したんじゃありません」と無責任。まあ市の職員が出て行くのではなく、本来は祭りの実行委員会とか世話係のボスなんかが行って嗜めればよかったろう。
 床屋政談レベルの政治活動は、夏祭りの雰囲気を壊すから撤去しろと言えばいいのだ。

 もしもこういう政治主張を七夕の飾りにするのはよろしいというのなら、われもわれもと政治的主張を掲げたり、個人攻撃をしたり、地元の市会議員なんかの宣伝をしたり…が許されることになる。
 あるいは、商店自身のセールの告知とか、ストリップ劇場の呼びこみとかも許されなければ不公平だ。中傷合戦も許容しろというのか。
 子供のための祭りが吹っ飛んでしまいかねない。
 
 この記事を書いたおバカの巽賢司記者はさらに念を押して、ジャーナリストで9条の会の大谷昭宏を使って「物言えぬ空気漂う」と題してこう喋らせる。
 「今、こんなことを言うとまずいのでは、という物言えぬ空気が漂っている、その表れだ。個人の願いを書いて何が悪いのか。そのために祭りがこわれるわけではないし、市が批判を報告する必要もない。」

 まったく、狂気はお前だ、大谷。物言えぬ空気なんかどこにもありはしない。戦争中みたいに、戦争は嫌だと言えない空気があると言いたいんだろうが、こうまで事実をねじ曲げていいわけがなかろう。吉本興業に所属しているんだろうに、何をえらそうに。
 たなばたに個人の願いを書いているだけって…、いい大人が七夕に真面目に願い事を吊るすか? 法律で決まっているわけじゃないけれど、幼児と小学生がやることなんだよ、そんなものは。

 大人が書くとすれば、母親が子供につきあって、「○○ちゃんが健やかに育ちますように」なんて書けば、誰でも微笑ましい光景で済ませる。しかし…50代の男が? バッカじゃないの。
 言いたいことがあるなら、デモをしてもいいんだし、ネットで自分の主張をしたっていい、駅前でビラを配ってもいい、新聞に投書もできる。表現の自由、言論の自由は保障されているんだから。

 物言えぬ空気が漂っているというのなら、戦えばいいじゃないか。
戦いもしないで、「そんな空気が漂う」のは良くないと…、みっともないとは思わないのか。

 こんなぶざまな反対運動をしていたのでは、サヨクの諸君、馬鹿にされるだけなのだよ。喜ぶのは支那と韓国だけ。
 これだけ知能が低いのでは、安倍首相やらユダヤやらの陰謀に勝てるわけがなかろうに。

 サヨクマスゴミが本来の21世紀にふさわしい報道機関たらんとするならば、支那や韓国に指示されて反自民を誘導するのではなくて、何を学ぶべきかの公平なありようを説くことである。
 学問レベルで「戦争とは何か」「歴史とは何か」「戦争から学ぶとは」「学んだ学問レベルの戦争や歴史が自分の人生にどのように生かせるか」を説くことである。

 そんな高いレベルのことが可能なご仁は、サヨクにもいないし、保守にもいない。それがわが国の危機的状況なのである。右も左も、端的には本物がない。とくにサヨクはデタラメだと私は指摘してきている。

 池田信夫氏のHP「アゴラ」に書いてあったが、かつて民主党と自由党とが合併したときに、小沢一郎が主導して人数さえ増やせば第一党になれると、政策をいい加減にしておいて、辻元清美などの社民党からの逃亡族を招き入れたために、民主党はサヨク的水ぶくれになった。
http://agora-web.jp/archives/1649528.html

 今度の安保法制の審議を見ていると、かつての社会党時代の「なんでも反対」野党に戻った。だから国民も、安保はよく分からないが(分かろうとしないで)、一方で民主党じゃダメだと理解しつつある。だから自民党がサヨクメディアの卑劣なキャンペーンで支持率を下げたが、民主党もどん詰まりに支持率が落ちた。

 民主党は、もともとは社会党右派と自民党左派の合併だったから、自衛隊は容認の方針だったのに、小沢や鳩山が仕切って左傾化が強まり、今やかつての社会党左派みたいになった。
 自衛隊は容認するけれど、憲法9条は死守なんて、まったく矛盾した方針で、グチャグチャになっている。

 結局、長野市の七夕で商店主のサヨク店主が掲げた程度のお粗末な言い分とまったく同じレベルが民主党に成り果てた。

 産經新聞の阿比留瑠比記者が、7月27日付の同紙コラムで、こう語っていた。
     *    *    *
 タレントで「ウルトラマンダイナ」の主演も務めた つるの剛士氏が、15日付の自身のツイッターでつぶやいた安全保障関連法案に関する発言が「炎上」している。問題とされたのは、以下の内容だ。
 「『反対反対』ばかりで『賛成』の意見や声も聞きたいなぁって報道やニュース観ていていつも思う。賛成派だって反対派だって平和への想い、戦争反対の想いは同じ」

 ごく常識的で当たり前のことを語っているだけだと感じるし、一方的な主張に偏りがちなメディアへの警鐘とも読めるいい指摘だ。ところが、これに安保関連法案の反対派はカチンときたらしい。次のような猛批判が寄せられている。

 「アホすぎる」「戦争に行く覚悟はあるのですか」「法案推進してる側は『戦争賛成』なんだよ」…。
 安保関連法案を批判する分にはどれだけ激しくても言論の自由だが、賛成したり、中立的な意見を表明したりすることはタブーであり、それは許されないこととされているかのようだ。

     *    *    *

 ほらごらんな。大谷昭宏の見解と逆ではないか。自分と違う意見の人をこうやって押さえつけ、罵倒、恫喝の嵐を浴びせる。互いに意見を闘わせるのは結構だが、意見を言うことをタブーにする、「物言えぬ空気」を押し付けているのは、護憲派のやることである。
 これはやっぱり火病であろう、つまりザイニチが「カチンときた」のである。






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2015年08月06日

護憲派の病理の一考察


 近視は近くを見すぎることで起こるものとされている。
 読書、テレビ、パソコン、携帯、スマートフォン、DSなどを長く見続けている生活を送っていると近視が進みやすくなるのだと。

 それは端的には間違いである。
 「読書やパソコン、携帯、スマートフォン、DSなどを長く見続けて」という中身が、正解へのヒントとしてある。
 読書やテレビを見る形態は、あれは目を使っていないのだ。「見て」いるのではなく「見えている」。

 「見ている」と「見えている」の違いを解くことが、視覚の構造論である。
 本来、生命体にとっての目は、「これはなんだ? あれはなんだ?」と能動的に問いかけるように見るようになっている。人間も本来はそうである。ところが読書やテレビなどは見る努力をさほどしなくてもいわば目に映っている。見ようと必死に努力しなくても、楽に目に入ってくる。

 見ようと努めるように目を使わないから、それが量質転化して近視になるのである。
 嗅覚も同様で、目の前の大福が数日経ったものなら、腐ってないか? と鼻を近づけて臭いを嗅ぐだろう。これが本来の嗅覚の使い方だが、例えば部屋の中にいて、とくに臭いが気にならなければ、私たちはその部屋だって必ずなんらかの薄い臭いはあるが、嗅覚は能動的にならない。

 こういう構造上の違いがある。
 構造上の違いは、そもそも感覚器官は脳が統括しているのであるが、人間は動物と異なり認識が統括する。五感器官の感覚は人間だけが、認識次第となる。
 だから動物の感覚は一重構造だが、人間は二重構造になる。
 
 そのため、視覚で限っていえば、その資格の働かせ方は直接に認識の働かせ方になるのが人間である。
 人間にだけ認識が誕生したのは、サルが樹上生活のなかで視覚を二重化させたことから始まっている。このことは『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社刊)を熟読していただくとして先に進む。

 やさしくいうなら、ボーッと、受け身で、なんとなく、見えている見方をしているのは認識がそのように統括しているからで、当然そこにおいても量質転化は起きるのであって、認識の働かせ方が能動的ならざるあり方になっていくのだ。

 受験秀才で理系研究に進んだ者、テレビをボケッと見てばかりいる者、役人、大学教授、スマホゲームに夢中になった者、こういう連中はだいたい目が死んでいる。
 しかし漁師をやっているとか、農家でも研究熱心な生産者になろうとしている者などは、目が生き生きしていることが多い。

 さて、おたちあい。
 またもや、であるが、護憲派サヨクたちの病理につながる話だ。彼らは、受験勉強の絞り滓が多く、幼い頃から「現実」に対して「これはなんだ? あれはどうしてだ?」と問いかけるように認識を働かせてくること、はなはだ少なかったのだと推測できる。

 端的には数式を覚えなさいと言われて、それをただ暗記することのみ得意になったのであって、好きになった異性にどうやってキスするかに胸ときめいたことなどなく育ってしまったのである。
 答えは与えられるもので、その正解を言えればよいと育ってしまっている。

 受験秀才は、眼光を鋭くする、なんてことはやったことはなかろし、考えたこともなかろう。目を能動的に使ってこなかった。

 だから認識の近視とも言える宿痾になっている。
 9条があるから戦争にならずに済むとか、「集団的自衛権は保有しているが行使できない」という詭弁が信じていられるなどというのは、認識の不全や未熟、病気としか言いようがない。
 
 メルマガ・国際派日本人養成講座 ■■ H27.08.02 ■ からの引用。

     *    *    *

 2004(平成16)年4月、ペルシャ湾で日本のタンカー「高鈴(たかすず)が武装勢力に襲われたが、アメリカの海軍と沿岸警備隊が護ってくれた。「高鈴」の乗組員は全員無事だったが、米海軍2名、沿岸警備隊1名の合計3名の若者が命を落とした。

 しかし、アメリカ側は「同じ活動をやっている仲間を助けるのは当たり前だ」と語った。当時、陸上自衛隊がイラクで人道支援活動で展開、航空自衛隊はクウェートからイラクに支援物資などを空輸し、海上自衛隊がインド洋で同盟国の艦隊に給油活動をしていたからだ。

 しかし、その後、小沢民主党が「インド洋での給油は憲法違反」としてテロ対策特措法の延長に賛成しなかったため、給油活動を行っていた海自は帰国を余儀なくされた。

 その途端、日本に対する評価はガタ落ちとなった。「日本の油を守るためにアメリカの若者が死んでいるのに、日本人は国内の事情で帰るのか」とアメリカは反発した。イギリスのファイナンシャルタイムスは一面で「これは武士道ではない。日本は臆病ものだ」とまで書いた。

「高鈴」の逆のケースを考えてみよう。日本近海で米海軍の艦船が中国の軍艦に襲われた、とする。救援依頼の電波を受信して、海上自衛隊の護衛艦が駆けつけたが、国内法の事情から、海自は米国艦船を守るために中国の軍艦と戦うことができない。

 米海軍の艦船は日米同盟によって、日本近海で日本を守るために活動をしていた。それを日本が助けないとは何事か、と米国民は激高するだろう。その瞬間に、日米同盟は深刻な危機に陥る。いくら条約があっても、米国民は身勝手な日本を守るために、米青年の血を流すことに猛反対するだろう。

 日本を含む太平洋の西半分を自らの覇権下におこうとする中国にとって、唯一の障碍は日米同盟だが、その同盟にクサビを打ち込む最も簡単な方法がこれである。

     *    *    *

 これはアメリカがペルシャ湾で軍事行動をしていたこと自体に問題がある、と、言えぬことはない。にしても、だ。日本のタンカーは戦争に参加していたわけではないのに、テロリストに襲われたのである。これを見て見ぬふりをしろと、護憲派サヨクはのたまうのである。

 そんなことで自衛隊を派遣したら、たちまち全面戦争に巻き込まれ、若者は戦場に送られ、悪夢の徴兵制が復活し、愛する支那を怒らせてしまう、…というのだから、精神病というほかない。

 近視になる理由のように、現実を見る努力をしないで、新聞なんかで「見えている」ものだけで、なんとなく平和がいいなあというだけの認識に、サヨクはなっているのだ。

 こうした当たり前の、きびしい現実を見ない、見たくないで育ってきたから、認識的近視になって、憲法さえ守ればあとはなんとかなるんだ、世界中が平和を守ったと尊敬してくれるんだと強弁するとは、あきれてものも言えない。

 すでに本ブログで説いたが…、
 磯崎首相補佐官の発言は、「法的安定性は関係ない」と言ったのは失言であるけれど、彼が言おうとしたことは、国と国民を護るために必要な措置が大事であって、法的安定性はそれよりも重要な問題ではない、と語ったのである。
 ところが野党とサヨクメディアはこの「関係ない」と発言した点の言葉尻を捉えて、審議をストップさせ、辞職しろなどとわめく。またもや税金のムダ遣い。

 公的安定性と、国民の安全とどっちが大事なのか、これがサヨクどもには見えないのだから、ほとほと嫌になる。
 明らかに戦力である自衛隊は9条違反である。野党はそれを根底から問うなら馬鹿は馬鹿なりにはスジは通るが、自衛隊は合憲だけど、集団的自衛官は違憲だとは、まったく狂っている。





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2015年08月05日

あまりに自堕落でネクラな若者たち


 わが空手の流派には、年に何回か合宿がある。
 昔は真夏のお盆のころに、海辺で5泊6日の強化合宿があった。
 朝は3時ころに叩き起こされる。まだ満天の星空の下で、誰もいない砂浜を存分に動き回ったものだった。
 春や秋の合宿は山間部で行なわれたが、これも早ければ3時ころには全員起床がかかる。

 大学に入学したての新入生が空手部に入って、我が流派の合宿に初めて参加すると、まずこの未明に叩き起こされて練習が始めることに驚くようだ。
 こんなことに驚いているのは、普段の生活があまりに自堕落で、緊張感がなさすぎるからである。精神が弛みきっている。

 受験は緊張感がありました、と反論するかもしれないが、あんなものは緊張のうちに入らない。世界情勢を見れば、惰眠を貪っているのはわが日本だけである。
 中東も、ウクライナも戦火のただ中である。
 入試のときにも爆弾が飛んでくるかも…という中でなら緊張があると言ってもいい。

 大地震に見舞われたチベットでは、親を亡くした子供たちが続々と支那人らにさらわれ、人身売買の危機に見舞われている。チベットだけでなく、人身売買はどこでもある。必ず、弱者や緊張感がない人間が狙われる。

 日本だけが平和ボケであって、「戦争は反対」だとか、徴兵は嫌だとか言っていられる。だから空手の合宿で、未明の3時に起こされただけでびっくりするガキが多発する。
 最近は自称イスラム国は、ロシアあたりにも若者をリクルートに行っている。ロシアの若者に職がないから、高給に引かれて地獄の戦場に赴くらしい。

 そんな危機感を日本人だけが持っていない。支那や韓国を刺激するから安保法制の整備はやめろなどと平気で言っていられる。
 どの国も、生き残りに必死である。金満国家で、どこのラーメン屋がうまいか探訪して歩きたい、などとノー天気が言っていられるのも日本だけ。

 どこもかしこも国家の存亡が懸かって、必死である。外野のわれわれが、ロシアはけしからんとか、イスラエルは汚いとか言っている場合ではない。それぞれに言い分があって、何が正義かなどというものはない。

 アメリカの大統領は悪で、プーチンや習近平はきっと善人なのだなどと言いきれるものはなにもない。なのに、サヨクは昔からアメリカの核は汚いが、ソ連や支那の核はきれいだなどと、“お笑い”をかましていた。

 林秀彦さんの言葉として「戦争自体に『過ち』という添加物はない」「現文明に平和の概念など、実は含まれていない」を紹介したが、今日ただいまの世界情勢を見ればただちにこれは納得が行く名言のはずなのである。

 世界は瞬きする間に激動している。なのに、「安倍総理はなぜ今、戦争法案を通そうとするのか」などとほざくのは、ノータリンにも程がある。
 明日、家に泥棒が入ると決まっているわけではないのだから、今、家にカギをかける必要はない、というようなものである。アホか。

 現今、安倍内閣が提出した安保法制で騒がしいけれど、彼の祖父は60年安保のときに首相だった関係で、よく安倍晋三は比較される。
 60年安保がなんであったかは、すでに本ブログで説いた。あれは財界と池田勇人、右翼が仕組んで、全学連に資金を渡して大騒動に発展させたものであった。誰も改訂する日米安保条約の中身を知ろうともしないで、マスゴミに煽られて「アンポはんたい」「岸を倒せ」と叫んだだけである。

 財界、右翼、池田勇人の仕掛けは成功して、樺美智子も殺されて、岸信介は退陣に追い込まれた。岸はCIAの手先であったが、梯子を外されてというか、日米同盟改訂だけ終わったら、退陣させられる運命だったのだ。
 世界とはそういうものだと、まじめに考えなければならない。

 今度も裏ではいったい何が仕組まれているか、われわれには計り知れない。衆院での可決以来、サヨクは国会周辺の無法集会で「安倍を倒せ」に転換しつつある。マスゴミも安保法制では負けそうなので、安倍内閣打倒にシフトしつつあるかに見える。財界はいまだに支那で儲けられると勘違いしているから、もっと親支那派の首相に替わってほしいだろう。

 財界や支那、南北朝鮮がカネを出して、安倍内閣を引きずり降ろそうとしてきていると思われる。自民党の中にも、テメエが首相になりたいからそろそろ安倍政権をひきずり降ろしたい勢力もいるだろう。
 こういった連中は、資金援助してもサヨク活動家を煽っているのだろう。ところが彼らが期待するほど、つまり60年安保のころのようには盛り上がらない。

 どう転んでも大衆は政治に翻弄される運命ではあるが、にも関わらず、我々は一度しかないこの人生を、あたら無駄にはできない。平和ボケでは世界の激動に対応できないのだ。

 多くの日本人は、権力者によって、あるいは周辺国の陰謀によって、日本の真実の姿を知ることもなく、学校時代には受験一辺倒で、さらにどこのラーメンがうまいだの、タレントの誰が結婚するだの、しょうもない話題に取り囲まれて、ボケきっている。

 若者の顔が、これほどまでに情けないありさまになってしまった。
 目に輝きがない、誇りがない、情熱がない。で、ガタイばっか、能書きばっか、権利ばっか、謙虚さの微塵もない…。
 夢中になっているのは、スマホなんかのゲームばかり。
 それでマスゴミに煽られると、自力で考えもせずに「戦争法案なんでしょ? じゃあ嫌だわよね」となる。

 及ばぬながらも自分で勉強して、世界情勢を摑もうとか、そもそも世界とは、自然とは、を究明しようとかの誇りも情熱もない。
 雄志勃々の野望なんか、どこにもないテイタラク。雄志勃々という四字熟語すら知らないって? 人間、情熱や誇りがあるなら、こういう自己を奮い立たせる言葉くらいは覚えて、遣いたくなるものなのだ。
 人様の怪しげな、根拠のないブログを夢中になって読んで、世界の陰謀がわかったつもりになってはならないのに。

 なんでも対象を、自分のわかりやすいレベルの引きずり降ろして、そのレベルでわかることは簡単である。テメエの情けないレベルで分かったつもりになって、人を批判するのもたやすい。
 そういうアホには野心がなく、情熱もないのだ。

 人のブログを荒らして、揚げ足をとって不愉快にさせれば嬉しいという輩のいじましいこと。どうしてそう根暗になれるのか私には不可解だ。ネクラを相手にする暇はない。
 人間プライドがあれば、人様の見解を嘲笑する前に、自分の主義主張の旗をしっかり地面に刺しているだろう。

 例えばアレキサンダーの映画を観たなら、自分はこう思ったと述べるのがスジであり、それがプライドある人間である。間違っているとかいないとかは別問題だ。なのに、自分では同じアレキサンダーの映画を観ることもなく、ただ人の意見、感想にイチャモンをつけるだけの人間は、あまりにネクラで哀れである。

 人生に野望がある人間ならば、英雄のことを知ろうとするものだし、戦争を勉強しておかなければと思うものである。野望とは、即、戦いに挑もうとすることなのだから。





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2015年08月04日

護憲派に外患誘致罪の適用を


 国会議事堂周辺ではデモや集会は禁止である。
 昭和63年に施行された「国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域の静穏の保持に関する法律」に明記されている。
 少し引用すると…。

第一条  この法律は、国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域における拡声機の使用について必要な規制を行うことにより、これらの地域の静穏を保持し、もつて国会の審議権の確保と良好な国際関係の維持に資することを目的とする。

第五条  何人も、国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域において、当該地域の静穏を害するような方法で拡声機を使用してはならない。


 そのうえ、警備中の警察官の命令に違反した者は、六月以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処するとなっている。現在の安保法案に反対している護憲派どもは、明白に違法行為を行なっている。
 警察も役所だから仕事を増やしたくないし、国会議員も集会に参加していることもあってか、むやみに逮捕者は出していないが、逮捕しても一向に構わないのである。

 サヨクマスゴミは、このデモ禁止の法律を知っているのに、空とぼけて、反対派の正当な意思表示だと煽っている。
 法律はあっても厳格な適用は警察が控えることは良くある。
 自転車で道の右側を走ったり、並走したりすることは違法であるが、よほどの事故でも起きなければ大目に見ている。

 家の樹木が塀の外にはみ出していれば、これも違反であるが、まあ普通は咎めるほどのことはない。
 法律とはそういうものである。このことはサヨクも民主党も承知しているだろうに。なのに、安保法制だけは重箱の隅を突いて、ありとあらゆる想定される具体例を出して説明しろというのは無茶である。

 庭木が塀の外に1センチ出ているだけで警察がとんできて逮捕され、あげくに庭木全部を刈らなければいけなくなるのか、などと騒いでいるのが護憲派どもだ。
 ただの言い掛かり、揚げ足取りである。

 国家の一大事と、自転車低度の交通法規ではむろん同一に論じられるものではないが、すべてに裁量はありえると承知しておくべきなのだ。自転車の乗り方は警官の裁量で済む話、国家の危機事態は首相の裁量で決定するしかない。国家の大事は、より責任が重いのは言うまでもない。

 サヨク諸君も、昭和20年8月のポツダム宣言受諾の決断は、ヒロヒトが下したことになっていることを信じているだろう。ヒロヒトは法律上はそうした決定をなし得る立場にはなかったはずで、でも、みんな納得して従ったんでしょうに。

 安全保障関連法案に関連して磯崎陽輔首相補佐官が「法的安定性は関係ない。わが国を守るために(集団的自衛権の行使が)必要かどうかが基準だ」と述べたことで、野党が一斉に噛み付いて、辞任を要求している。
 磯崎氏の発言はまともであるが、野党に揚げ足を取られるに決まっているのだから、法案成立までは黙っていれば良かった。

 野党は、磯崎発言がけしからんというのなら、大東亜戦争の終結にあたってヒロヒトが下した決断も、あれは法的安定性に違反した決定だと非難するべきである。
 自転車の右側通行を厳格に取り締まって、すなわち法的安定性をシビアに適用したら、逮捕者続出となり、世の中はうっかり歩けない恐ろしい社会になりかねない。

 民主党は、尖閣諸島で支那漁船が日本の海上巡視船に体当たりして、船長が逮捕されたとき、法的安定性を無視して、「支那との友好」だかなんだかで、あっさり釈放してしまった。
 テメエたちは何をやっても良くて、自民党はダメと言う屁理屈は通用しない。
 

 ところで、「余命3年時事日記」に以下のQ&Aがあった。

Q by ゲルピン at 2015年07月29日
 安保法正反対デモしている連中は尖閣諸島を支那が占領したら外患誘致罪で逮捕される覚悟しとけよ。
 ちなみに有罪になったら死刑しかないからな。情状酌量とか出来ないのでよろしく。

A あな恐ろしやですな。しかし、ご指摘のケースでは逮捕処理は想定されてないようだ。どうも民間任せらしい。7月9日からこれが可能となった。
 外患誘致罪の適用は安保法制反対議員がターゲットで安倍総理の中国名指しはその布石だな。従前から野党はこれを警戒していて、衆院での採決では欠席戦術をとった。
 対中国を前面に出した以上、万が一反対して尖閣衝突となれば一発死刑である。欠席の場合、賛否は記録されない。どうも腰が引けている。今後、命がけで反対できるかは疑問だな!


 サヨクどもはもともと国会前集会が違法なうえに、拡声器をめいっぱい使って「反対」を怒鳴っていたのだから、覚悟のうえなのだろう。
 サヨクどもは外患誘致罪(刑法81条)ってなんだか知らないのだろうな。

 外患誘致罪は、「外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者」に適用される。
 「通謀して」は、「意思を通じて」という意味だから、国会前で安保法制反対の気勢を上げる行為は、立派に支那や韓国と戦争状態になったら、彼らの利するよう国会審議を妨害して意思を通じたことになる。

 ほかに外患援助罪や内乱罪という法もある。外患援助罪は事後的な外国勢力との加担が問われるが、外患誘致は外国と組んでその軍事力が利用される点で内乱罪よりも国家の存立が危険にさらされる危険が高く、また、自ら外国の軍事力を利用しようとする点で外患援助罪よりも主体的であり、そのためより悪質となる。

 民主党や社民党、生活の党などは、極めて支那や韓国と親しい間柄であるのみならず、「ザイニチ外国人への地方参政権」の賦与に熱心であるから、当然罪の対象になり、その政党と仲良く違法集会に参加していただけで、お仲間と判断される可能性はある。

 外患誘致罪は「死刑」のみが定められている。また、外患誘致罪については、未遂だけでなく、その準備行為である予備罪及び具体的な計画を行う陰謀罪も処罰され、1年以上10年以下の懲役刑が課される。国内でだけでなく、国外でも上記のような行為を行った場合にも適用され、外国人にも適用される。

 つまり、ソウルや北京であちらのブタどもと一緒になって、慰安婦がどうの、安倍内閣非難の集会をやらかした日本人(岡崎トミ子)も、対象となる。鳩山由紀夫や翁長雄志などは、外患誘致罪が適用される可能性がある人間である。

 ただし、明治時代にこの外患誘致罪が制定されはしたものの、戦前においても一度も適用されたことはない。かといって、舐めてかかれば、いつなんどき牙を剥いてくるかわかったものではない。

 国会前の違法集会だけの容疑で逮捕されたのだから、すぐ出られるとたかを括っていたら、なんとその間に尖閣諸島に支那の武装警察が上陸し、武力衝突が起きて外患誘致罪が適用となって一気に死刑にまで至る可能性がある、ということだ。
 しかもその法律は、国際的に認められているのだから、国連が人権侵害だといって助けてくれはしない。

 国会前で勝手に、通行人の妨害をしながら「戦争はいらない」「憲法9条を守れ」などと訴え、「安倍政権の暴走を止めよう」と、ストレス発散目的でいい気持ちで叫んでいると、恐ろしい事態が…、なのである。お覚悟召され。

 安保法案反対の違法集会をやらかしていれば、必ず一旦緩急あるときは逮捕される、とはなるまいが、さはさりながら、ちゃんと外患誘致罪があるのだから、これはサヨクが集団的自衛権を認めたらただちに自衛隊が戦争に出てゆくなどという可能性よりは、はるかに現実的である。

 しかも、サヨク護憲派どもは、守るべきは憲法ではなく国と国民であるのに、それが理解できない低能を目一杯、国際社会にさらけ出している。これは自衛隊のみならず、善良な国民を侮辱している。世界中から日本人は心底馬鹿だ思われる。

 集団的自衛権の行使を認めたらいきなり戦争になっちゃうんだとか、徴兵制が敷かれて兵隊にされちゃうんだというような護憲派の言い分は、とほうもない論理の飛躍である。
 非論理的な反対のための反対をサヨクやザイニチが仕掛け、でもって、やっぱり駆り立てられてしまう愚かな大衆が残念ながらいる。

 集団的自衛権を認めると、アメリカの尻馬に乗って世界中で戦争やるんじゃないかっていう事をしきりに言って、無知な大衆を洗脳しようとする輩がいる。これまでアメリカはそういう不埒をやってきた。日本もやたらとアメリカには追随的であった。だが、安倍内閣はそれはないと今度の法制で確約しているではないか。
 
 それでも信じられない、やりかねない、と言うのは、さんざん譬えで述べたように、これから結婚するカップルに対して、きっとどちらかが浮気する、性格の不一致が出てくる、だから結婚はやめておけと強いるのと同断である。

 サヨク政党もサヨク護憲派も、虚言、妄想、ウソ八百で、政治をいたずらに混乱させ、審議に無駄な時間を費やして、税金をガバガバ棄てることはすべきではない。




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2015年08月03日

邪推を得意とするサヨク新聞


 なんでもかんでも邪推、曲解するのが得意なサヨク新聞には反吐が出る思いだ。
     *    *    *

《最低賃金:首相が主導 過去最大の18円増(毎日新聞7月29日付)》 
 厚生労働相の諮問機関「中央最低賃金審議会」(会長、仁田道夫・国士舘大教授)の小委員会は29日、2015年度の最低賃金(時給)の目安額に関し、全国平均で18円引き上げることを決めた。3年連続で2桁の引き上げで、上げ幅は日額から時給に変更した02年度以降最大。今回は、審議会とは別に、安倍晋三首相が大幅引き上げの意向を表明。安全保障関連法案を巡る内閣支持率の低下に、「経済の好循環」で歯止めをかける思惑がうかがえる。

 審議会は労働と経営双方の代表者と、学者ら有識者の3者で構成する。
 (中略)
 今回は、物価上昇に加え、今年の春闘が17年ぶりの高水準で妥結したことを踏まえ、労働側は大幅引き上げを主張。経営側は中小企業の支払い能力などから消極姿勢を見せていた。

 だが、審議会の議論と並行して政府が大幅引き上げへの地ならしを進めていた。安倍首相は16日の経済財政諮問会議で大幅引き上げの検討を指示。23日の諮問会議では宮沢洋一経済産業相が引き上げの環境整備のため、中小企業支援策を提示した。最低賃金が審議会の「外側」で議論されたことには厚労省内からも「聞いたことがない」と驚きの声が上がった。ある同省幹部は「支持率対策だ」との見方を示す。【東海林智、阿部亮介】

     *    *    *

 この記事にはご丁寧にニ度も、時給最低賃金を大幅に上げたのは、安倍首相が支持率を上げたいとする意向が反映されていると書かれている。
 こういう裏読みを絶対してはいけないと言うのではないが、あまりにもいじましいというか、嫌いな奴のことなら何を書いてもいいとする、異常な“正義感”に反吐が出る、と言いたいのだ。

 安倍首相に、かような思惑があったかもしれない。しかし、そんなことは本人が告白したわけではないのだから、事実ではない。毎日記者の勝手な歪んだ推測でしかない。
 それを自分の口でいわずに、厚労省幹部がこう言っているとか、「思惑がうかがえる」とか、を記事に仕立てて、読者に「安倍って嫌な奴」と思わせる印象操作である。

 こういう奥歯にものの挟まった言い方で、でも印象操作するのは、万一、安倍首相側からこれは事実無根で、名誉毀損にあたると訴えられたときに、いや、私が断言したんじゃない、あくまでそう言われていると言ったまで、と逃げを打てるように、なのである。

 街にこんな噂が流れている、とする低度を記事にしたら、新聞社の見識が疑われる。
 テメエたちは学校でのイジメはいけないと言いながら、よってたかって推測の域を出ないことを、あるいは噂をかき立てるのは、イジメじゃないのか。

 最低賃金の改正というネタを、ただ安倍首相降ろしに利用したいだけ。この汚れきった根性。これが受験勉強の搾り滓となった秀才のぶざまな末路だ。

 しかもマスゴミは、売れさえすればいいから、大衆に媚びる記事の書き方をする。それだけではなく、支那や韓国、あるいはアメリカからカネをもらって書き立てる。財界の意向がもしも「安倍退陣」であるなら、財界から広告をいただいている関係で、あることないこと平気で書く。
 書くことで政府を困らせると、「お手柔らかに…」と頼まれて官房機密費なる裏金(つまり税金)をふんだくることができる。

 そういう輩だから、昔からブンヤのことを羽織ゴロと呼んだ。
 不見転(みずてん)芸者と同類である。
 新聞記者は、社会の木鐸などと気取るけれど、その実、販売店を「押し紙」制度でイジメぬいている。人の弱みに付け込んだ卑劣を片方でやらかしておいて、邪推だけはイッチョマエか。
 謙虚さが微塵もない。

 読者は、購読料を払ってただの嫌がらせでしかない記事を読まされるのか。
 護憲派やサヨク新聞のファンは喜ぶだろうが、私はそんな連中と席を同じくするのはごめんだ。

 マスメディアは、最低賃金が上がったという事実と、それが実施されると経済はどうなるか、中小企業はどういうことになるかを書くだけで良い。安倍首相への悪口を読みたいのではない。
 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で、こんなヨタ記事を書いていいのか。

 そのデンで言うと、藝術家はみんな自己顕示欲だけ、スポーツ選手はみんなテレビに映りたいだけ、研究者も研究支援金ほしさ、医者は患者を治してあげたいのではなく患者を薬付けにして儲けるため、などとこういう邪推を新聞記事の基本にすべきだとなるではないか。
 いじましく裏読みすれば、こういう話がすべて成り立ってしまう。

 首相は公人だからイジメても構わないのか? 自民党も民主党も裏では汚いことやっているんだから、何を言っても構わないのか?
 そう邪推で人を嘲ることは子供が見ているんだとは思わないのか?

 安保法制反対派、護憲派の者どもは、反安倍を明らかにしている毎日や朝日が大好きだろうけれど、そのご贔屓の新聞は、こういうブザマ、卑劣をやらかしているのだ。護憲派の者どもは、そういう新聞とお仲間、と見られるのだが、平気なのかね。





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2015年08月01日

支那人「爆買いツアー」の終わり(2/2)


《2》
 爆買い支那人観光客を見るたびに、私はどうしても武田節の一節を思い出さざるをえない。
 「祖霊まします この山河 敵にふませてなるものか」
 私たちの日本、それは神社仏閣でもそうだし、富士山などの自然でもそうだし、新幹線やホテルでもそうだ。

 この愛してやまない日本、先祖が努力して創り維持してくれた美しい日本を、心ない連中が土足で踏みにじることには耐えがたい。その国の文化を尊重するのなら、外国人観光客に来ていただくのは結構であるが、支那どもはそのレベルに達していない。ただ身勝手なだけ。

 支那人が観光に来てくれれば、相互理解が進むからいいじゃないか、と喜ぶ奴は鳩山や菅なみの間抜けである。人を見てものを言えよ。未来永劫、支那に暮らす支那人がマナーが良くなって、人の気持ちがわかる人間になるなんてことはありえない。

 副島隆彦は自分のHPの「今日のぼやき」でこんなことを言っている。

 「中国の巨大な成長を、日本人は今も正面からきちんと見詰められないし、ヨーロッパ、アメリカの白人たちも理解できないそうです。何でいつの間に、こんな巨大な成長を、たった30年で中国が遂げたか、がわからない。分からなくて、貶(けな)しているだけだ。

 この中国の巨大成長への驚きこそは中国分析の非常に大事なところです。だから、中国のことを悪口ばかり言って、けなして見下して、気持ち悪いとか、穢(きたな)いと書き続ける人たちの気持ちが、私はわかるけれども、やはり中国という国が超大国にはい上がっていくプロセスとして見なきゃいけない。」


 「支那人の悪口ばかり言って、けなして見下すな」、と副島は言うが、それはオヌシが媚中派だからであって、現実の支那人と街で遭遇してみろ、彼らが嫌われるには嫌われるだけの言動をしていることを、誰でも見てとるのである。それも日本だけではない、世界中で嫌われている。支那人は見下されたくないなら、自分たちの「民度」を上げればいい。

 支那の経済規模はいかにも成長しただろうが、そんなことで副島が言うような一等国にはなれはしない。顔つきを見れば、多言は要しない。「気持ちが悪い、穢い」などと言う軽いレベルではない。
 「超大国」の振舞いが奴らにはできない。ただの成金。

 急成長を遂げた理由なんか誰でも見抜いている。彼らがどんな汚ない手を使い、ユダ菌の方針にしたがってカネを儲けたかだけの話だから、人間としての土台がなってなく、まさにあっという間に終焉がやってきたのだ。

 副島は「なぜ30年で中国が巨大な成長を遂げたか、分からなくて、貶しているだけ」と決めつけるが、一般大衆やマスゴミの記者じゃない者はちゃんと「分かって」、そのうえで冷静に貶している。ユダヤの陰謀で投資を支那に集中させただけ、技術を日本から盗んだだけ。

 それに欧米や日本が、共産党独裁の中共によるへんちくりんな資本主義ふうの経済を大目に見た、つまりデタラメに目をつぶって、バブル崩壊まではせかせかと儲けてしまえという態度だったからである。
 簡単なことで、副島隆彦は昔から庶民でも知っている諺、「悪銭身につかず」すら知らないのだ。

 背景にはアメリカが、ハードウェア製造で地道に稼ぐよりも、ソフトウェア(金融やIT)で稼ごうと国家ぐるみで舵を切ったからだ。
 本来あるべき企業の目的は、優れた商品をつくり、優れたサービスを提供し、もって社会に貢献することである。
 ところがアメリカはコーポレートガバナンス(企業統治)を「企業は株主のもの」とする考え方をとるようになって、短期的に儲けて株主に利益を還元するばかりに走った。

 だからアメリカの経済界は、ハードウェアを外国(日本、韓国、支那)に下請けにさせることで、額に汗して働くことを嫌がるようになった。
 そのおかげで、労賃の低い、というより奴隷労働をまださせることが可能だった遅れた支那にハードウェアを作らせることにした。

 だから支那の経済は大きく伸びたのである。何も副島が偉そうにいうほど難しい話ではない。
 そうした煽りで、支那人どもが爆買いに押しよせることとなったのだ。

 アメリカ人は昔から支那に対する幻想は昔からある。やつらから見ると、独自の文化があると勘違いしているらしい。アメリカ映画で、支那の街や米国内の支那街なんかを描いているものを見ると、日本の街や文化を描くときのような偏見が少ないように感じる。
 アメリカを牛耳るユダヤ勢力にしてみれば、支那の広大な土地と人口は、新たな儲け口に思えるのだろう。

 アメリカは戦後、日本が軍国主義を棄てて民主国家になり、驚くほどの経済成長したのは、オレッチの指導が良かったからだ、指導が成功したからだと自惚れた。
 それなら支那も同じようにカネと技術を日本から注ぎ込ませれば経済成長して、民主国家にもなれるとユダヤ勢力は見込んだ。そして番頭のキッシンジャーをはじめとして多くのアメリカ人(ユダヤ人)はせっせと支那に肩入れしていった。

 それだけのことで、何も副島がもったいぶって言うほどのことはない。実に底の浅い仕掛けだったから、たちまち化けの皮が剥がれ、株の大暴落が始まったのである。

 支那の経済成長は外国からの資本投資と技術によるものである。カネ儲けのためなら日本などの外国をたらしこんで始めは近代化を行うように見せかけたけれど、習近平の時代になって中華思想的な排外主義が出てきて、外国企業を締め出すようになってきた。
 約束は破る、ウソはつく、労働者は賃金を上げろとストを起こすわ、材料や工具を盗むわ、さんざんなトラブルが起きて外国資本は引き上げを始めた。

 支那人には自律的な経済成長や科学技術の発展は難しい。支那人は商売上手だとしても、世界の国々から信頼される近代国家になるには民度の向上が欠かせないのにそれは絶望だった。
 法律や約束やモラルを守る精神が育たなかったから近代国家は成立しない。

 彼らの多くは、真面目にこつこつ働いて生活するよりも、株式投資で一獲千金の夢に掛けるのはギャンブルにはまる。もともと支那人は、ギャンブルが好きだ。これは不治の病気である。だからまともな努力で産業力を育ててきた日本人が、支那人を見下すのは当たり前である。

 明治以来、人のよい(間抜けな)日本人が、さんざん支那を助けてあげようと支援をしてきた。孫文やらなんやら…。だが、魯迅を除けばすべて失敗した。支那は今度こそまともになるはずだと、言う日本人がいるが、本当に愚かである。

 そもそも、アメリカに文化がないように、支那にも文化がないのである。形ばかりは…であって、わが国に比べたらあんなものは文化とは言うまい。
 アメリカ人がそもそも人種のごった煮、寄せ集めの人工国家であるように、支那にも漢民族なんてものはいない。北方のモンゴルあたりから流れてきた遊牧民の成れの果てである。

 大昔の、例えば三国志だとか、李白、陶淵明といったあたりの文学が花開いた時代の支那とは、民族としての血のつながりがない。
 極端な例でいえば、日本人が絶滅させられ朝鮮人が支配するようになったときに、京都や奈良の文化やなにかを、朝鮮人があれは俺らの伝統文化だというようなものである。今の支那人はそういう「民族」である。

 アメリカと支那はだから似たもの同士だ。







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