2015年08月10日

「人は思うことから行動する」とは


 人間はどうしても、自分の思うことを大事にし、そして思うことから行動する。人間とは何か、どういう存在かから捉え返して、どうあらねばならないか…からは行動しない。
 だから人間は頭デッカチであり、自分勝手にやって、落とし穴に落ちたり自滅したりする。

 その極端な例が、犯罪者であったり、苛めることに快感を味わう奴だったり、落ちこぼれたり、車椅子生活にしたり…と枚挙に暇がない。「性的少数者」なんかもそうだし、子供が生まれなくて人工授精にすがるケースもそうなのである。

 言ってみれば、こうすれば正常な生き方ができるとわかっていながら、それを無視、破り、高をくくって、自分の思うことから行動する。
 この世界は運動しているのだから、運動を運動として捉える弁証法抜きには、何も世界を解明できないのに、自分勝手に誰それの思想が好きだから、なんていう理由で猿真似に走るのである。

 分かりやすい例でいうなら、甲子園に出たいと思っている高校生球児が、野球の基本と言われる練習の、キャッチボールとか素振りとかは必ずやる。やらないことはありえない。
 これが「ねばらならない」から出発することである。自分の思うことを大事にして、バットよりテニスラケットを振りたいとか、キャッチボールよりボウリングの玉転がしをやるなんてことはない。

 東大を受験しようとしている高校生が、名も知れぬ末流大学用の勉強だけをすることはありえまい。これが対象を正しく捉えているのである。東大志望者が東大用の勉強をすれば間違いがない。
 自分勝手にやれるはずがない。
 本来は、対象が自分勝手な勉強、修得をさせてくれないものなのだ。

 ところが、それがわかっていながら、やっぱり人間は自分が思うことから行動する。
 個性が大事だ、自由だ、自分らしく、などと愚にもつかぬことを言って…。「戦争って嫌」と思うことだけが自分らしさなんだから、あまりに哀しい。

 今は学校時代から「そのままの自分でいいよ」「ありのままの自分でいいんだ」「等身大でいい」と教育されて育ってくる人間が多いそうだ。
 よって「アナと雪の女王」の歌(Let it Go)みたいに、「ありのままの姿見せるのよ ありのままの自分になるの〜 ♪」と陽気な歌が好まれる。(あの歌を聴いたときはゾッとした)

 会社に入れば、会社には会社の方針や目的があって、そのルールに従わなければならないのに、「ありのままの、自分らしくやっていきたい自分を認めてちょうだい」と主張する若者がいる。その私たちを理解しない管理職のほうが悪い、と言うとか。

 文科省の寺脇研という木っ端役人がやらかした「ゆとり教育」の成果がこれである。これが日本人自滅への道のトドメを刺されたのだった。
 だから、戦争とはどういうものかも、人類の歴史はなんだったか、これからどうすべきかを学問的に捉えたうえで判断することができない護憲派サヨクを生んだ。「わたしが戦争は嫌なんだもん」で、話が通ると思うのは、戦後の愚かな教育の成果である。

 先日のブログで、鶴見俊輔を取り上げたときに、科学とはの定義を紹介しておいた。
 「科学とは〈事実〉をありのままに見、かかる事実を構成する、かかる事実を貫く〈論理〉を導き出して来、それを本質に迄高める事によって体系化された認識である」

 これに対して、これまでの人類史の主役だった宗教は、事実から導き出した論理に依拠せずに、誰か教祖なんかの勝手な思いを盲信した連中がこれぞ真理だ、生きざまだとしてきたものであった。
 対象の構造を研究することなく、自分の勝手な考えを対象に押し付けてきたのが宗教である。これぞ観念論であった。

 人類が対象の構造を捉える実力がなかった長い長い時代にはやむを得なかったけれども、今や科学の時代であり、唯物論や科学によって対象の構造、そしてそれを捉える人間の認識の構造まで含めて解明すべき時代になったのである。

 冒頭に、「人間は自分の思うことを大事にし、その思うことから行動する。人間とは何か、どういう存在かから捉え返して、どうあらねばならないか…からは行動しない」としたためた言葉に戻るけれど、この「思うところから行動するありかた」のいわば頂点が宗教であったが、科学的に「人間とは何か」の構造論を究め、どうやって「ねばならないか」を知って、そこから行動するかを決定しなければならないのである。

 つまり、すべてのモノゴトに関して、対象の構造はこれが正解だ、こうすれば対象の構造に見合った行動ができる、という極意ともいうべきか…“規範”というか“法則”というかを、導き出そうと孤軍奮闘してきたのが、南郷学派だったと言えるのである。
 ほかに、どこの大学や研究機関や、個人がそんな偉業に手を染め、かつ完成に至ったというのか。

 譬えに挙げたように、甲子園に出たい高校球児にとって野球の基本を必ずやるとは、野球という対象の構造に適応した決断と実践が欠かせないように、すべてのモノゴトには、すべてのモノゴトに共通する法則性があるはずだとして、究明に挑み、成果を上げ得たのは、南郷学派だったのである。

 対象の構造に従った練習を真面目にやるなら、誰でも(才能とかは関係なく)空手なら黒帯にくらいにはなれる。大相撲で言うなら三役くらいには誰でもなれるのだ。天賦の才なんかじゃない。

 その究明のためには、過去のしがらみにがんじがらめになっている観念論は徹底して排除しなければならなかった。それを「唯物論魂の堅持」と称した。

 それでもなお、多くの盲いたる民は自分の思うところから、自分勝手にやること以外に考えられないので、自分勝手な思いだけで言動をする。
 わが国を取り巻く、邪悪なアメリカ、支那、ロシア、南北朝鮮などがどんな国なのか、どんな民度なのか、そうした対象の構造を究めることを怠けている。きっと自分たちと同じ考え方をすると思い込む。自分たちが平和を願えばそれが自然に叶うなどと馬鹿を抜かす。

 これはもう東大に入りたいとか甲子園に出たいとか願いさえすれば、湯島天神に絵馬を懸ければ、きっと神様がかなえてくれると思うような愚劣である。東大に行きたければ、甲子園に行きたければ、その対象の持つ構造に自らをあわせて努力するしかない。戦争を避けたければ、対象たる近隣諸国の邪悪さを研究しないわけにはいかないし、準備をおさおさ怠らぬことである。

 大江健三郎は、戦争の準備ではなく平和の準備をすればいいんだと、馬鹿を言った。9条を守れば平和の準備ができる、と。
 これが有名な作家なのだから、唖然呆然である。彼の小説は対象の構造を究めようとするのではなく、自分の思いばかりを書くテイタラクだから、こうやって自滅したのである。
 この件については明日、もう少し考えてみたい。

 ビルマの首相だったバーモウは、回想録で、ビルマが独立を勝ち得たのは日本のおかげだ、大東亜戦争は白人植民地政策に対する東洋人の反撃突破作戦だった、と述べた。連合軍が勝手に「民主主義対ファシズム」とする図式はまちがいだと断言している。適性支那や韓国以外の国ではこういう評価はかなり多い。

 ところがマスゴミはこうした見解が述べられていることを一切報じない。ひたすら日本が悪かった、戦争で庶民はひどい目にあった、しか言わない。白人迎合主義である。ユダ金の下僕だからだ。
 アジアの指導者の発言を伝達することすらしない。少なくとも、両方の意見を学校で教えたなら、子供は「うん? 何が正しいのだろう?」となって、ものを自分で考えてみようという能動的な姿勢が培われるのに、それは一切封じられる。

 これでは科学的に対象の構造に立ち入ってみようとする学の姿勢は育たない。
 私の子供の頃は、親は戦争に行っている世代だから、苦労した話はしたが一方で、東京裁判がいかに不条理で、にも関わらずインドのパール判事が公平なものの見方をしてくれたんだということを教えてくれていた。

 だから白人はいかに邪悪で、日本を敵視しているかを知ったうえで、何が正しいのか、対象を見て取ろうとする姿勢は教えられたのである。
 それすらアメリカや支那らは日本人から奪おうとしてきた。
 まんまと騙され、考える実力すら失ったのが護憲派だと、こうなる。


posted by 心に青雲 at 05:00| 東京 ☀| Comment(6) | エッセイ | 更新情報をチェックする