2015年08月18日

人との会話が成り立つためには(1/2)


《1》
 宮崎正弘氏のメルマガ(8月11日付)に、裄V寿男著『バルカンから響け!歓喜の歌』(晋遊舎)の書評が載っている。そのなかで宮崎氏は「平和、平和という呆け念仏は日本でしか通じない」と書いている。この意味がサヨク護憲派にはとうてい理解の及ばぬところだろう。

 裄V寿男氏は、コソボ、マケドニア、セルビアなどで楽団を指揮した日本人である。テレビでも紹介されたこともあるからご存知の方も多かろう。私もこの本は読んだ。
 簡単にわかるにはこのNHKの番組
https://www.youtube.com/watch?v=-F2HetDAFoQ
 詳しくはこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=rKtGmrTKve4

 内戦、内乱、民族浄化、おぞましい民族、宗教入り乱れての戦争をくり返し、国土も民心も荒廃した旧ユーゴスラビアに、音楽こそが人々の心を繋ぐと信じて演奏活動を続けた方である。

 その道のりは簡単ではなかった。日本人とはまったく違うメンタリティに最初は打ちのめされる。そのバルカン・メンタリティとはモチベーションが低い、活気がない、時間を守らない、約束は無視、人の話を聞かない、向上心ゼロ、などだそうで、裄V氏はそれに苛立ちつづけ、周囲に受け入れられずマケドニアを後にすることになる。

 しかし裄V氏は挫けなかった。隣国のコソボというさらに厳しい環境に入って出直すのである。彼らのメンタリティに合致した指導法で、今度は周囲の信頼を勝ち得ていく。そして、ついには紛争で関係が断絶していたセルビア・アルバニア・マケドニアなどの対立する民族の団員を集めて「バルカン室内管弦楽団」を設立し、演奏会を実現するに至る。

 その裄V氏は、「世界平和コンサートへの道」というプロジェクトを推進しようとしたが、現地では「平和」という言葉がおいそれとはつかえない。現地の人は、「平和」というのは時期尚早だと言ったそうである。
 氏はやむなく『共栄』とか『交流』というタイトルをつけるしかないと考えていたそうだ。
 
 日本のサヨクなら、平和を実現するのだから、「平和」という概念でいいじゃないかと思うだろう。だがそれこそが、対象(バルカンの人々)のココロの構造に分け入っておらず、自分の日本人サヨクのメンタリティを相手に押し付けるだけなのだ。

 卑近な例でいえば、甲子園でゲームをしている高校球児に、野球といえども争いは良くない、仲良くやりなさい、と説教するようなものである。これを押し付けと言う。

 平和をもたらすはずの国連軍部隊が、実はろくでもない民間軍事会社だったりする。どこの民族も軍も、平和のためと称して殺戮し、家や町を奪う。
 こういう勉強をしないで、サヨク護憲派どもは、「戦争反対」「平和を願おう」「正義の戦争なんてない」などと馬鹿を言う。

 裄V氏がつまずいたのは、はじめは彼が日本人としての像しか持っていなかったせいである。バルカンにはバルカンの社会という現実=像があることを知らずに、言葉(文字)で考えて、ただ「仲良く」とか「平和」とか言えば通じると思い込んでいただろう。
 
 しかし裄V氏は、一度失敗したことを反省して、その土地・社会の実像を摑もうとしたのだ。現地に滞在して像で捉えることに成功した。
 これは裄V氏が指揮者であるから可能になったことであろうかと思う。その意味は、コンダクターは楽団員一人ひとりの認識や技量が摑めていなければ、名演奏などできるわけがないからである。
 指揮者がただ、「おれの解釈を忠実に演奏すればいいんだ」と、演奏者たちをただの“楽器”並みに考えていたのでは不可能である。
 
 指揮者であるからこそ、演奏者一人ひとりとの会話をくり返し、相手のココロと自分のココロの相互浸透ができる実力、観念的二重化ができる実力を把持していたから、その実力をもって民族の違い、宗教の違いを乗り越えて、楽団を結成させることに成功したのである。

 異民族どうしでなくとも、人との会話が成り立つためには、どれほどの実力が要求されるか。医師や看護婦、教師、藝術家などの必須の条件なのだが、たいていはわかっていない。
 ここでも対象の構造に分け入っていく実力がなければダメである。
 その構造をさらに言えば、会話の構造からさらに相手の認識の構造へと深めていかなければならない。

 分かりやすい例でいうなら、デートで食事をしているときに、彼女が「ちょっと失礼」と言って席を立ったとする。このときに男はどういう彼女の行動の像を描くか。トイレに行ったのか、化粧を直しにいったのか、少し時間を空けるからその間に男性らしく支払いを済ませてね、なのか、二次会の場所を考えておいてね、なのか、そういう認識を読み取らねばならない。

 こういう訓練をまったくしてこないで成人するのが、超受験秀才なのである。端的には恋人の気持ちが全く理解できないで、失恋をくりかえすか、結婚しても不幸になるケースが多い。

 二重化ができない、つまり対象たる女性の認識の構造を見てとれない男は振られるのである。
 そういう対象の構造がわかるためには、一般教養の実力が求められるだけでなく、認識論の実力が必要である。
 人の気持ちがわからない人は、映画やテレビドラマをよく観たほうがいい。人間の心の機微がわかるようになる。

 「学城」11号掲載の、橘美伽氏の論文『武道空手とは何か、その中で護身空手とはどのような位置づけであるべきか(五)』には「『会話』ができるためには一般教養レベルでの五感情像で考える実力が必要である、と説かれている。

 一般教養の実力を踏まえて認識論的実力がなければ、対象を考える場合に、“文字”としてしか考えられない、別言すれば、実際の具体の生き生きした“像”が浮かべられないことになる。
 柳澤氏の場合、最初の失敗は、対象を“文字”で捉えようとしたのだろうし、それを反省して“像”を創ることをやって成功したのである。

 民族が違っても、言えばわかるはずだとか、叱ってわからせようとする場合の、その「言う」は“文字”を言っているのである。

 この場合の「一般教養」とは、人間としての共通性はどこにあるか、またそれぞれの国の特殊性はなんなのかがわかる教養力である。
 副島隆彦のように、日本人、支那人、朝鮮人は同じアジア人どうしだと思い込むのは、まったく一般教養が欠落している、とこう言われるのだ。「アジア人」の像が出せるものなら出してみろ、「アジア人」の概念規定をやれるものならやってみろ。

 ここで観念的二重化を復習しておけば、これは自分の観念を二重化すること、つまり自分のアタマのなかでもう一人の自分を創り出すことである。
 自分が実際に見ている世界が、現実に目で見ている像とアタマの中の目で見ている像と、二重になることだ。
 これは人間なら誰でも行なっていることではあるが、それも創り創られてできてくるものだけに、実力は人さまざまになる。

 観念的二重化が完璧といえるほどになるには、現実にあることやあったことがアタマの中の像とズレず、歪まずに、二重になることである。事実と観念の一致をみることだ。

 「会話」ということで言うなら、他者の認識を自分の認識とあまりズレないレベルで二重化できなければ(像が描けなければ)、会話は成り立たない。
 会話している相手が想い描いている像(現実)を、自分が同じように想い描く(観念的二重化)ためには、そもそもその相手の人となり、人柄、教養、常識などを通して、さらにその場の空気のようなものや流れを踏まえなければならない。

 天然ボケはこういう二重化が下手な人間である。幼児期から、相手に二重化する勉強を怠ってきた報いである。
 支那人や朝鮮人は、そもそも二重化してわかろうという気のない人種である。彼らは相手にだけ二重化を要求する。
 つまり、こうした観念的二重化は、教育により、また訓練によりまともに育つものであるのだ。

 コンダクターの修行をきちんとされた裄V氏だからこそ、性別、年齢、国籍、宗教を超えて観念的二重化に成功したと言えよう。
 だからバルカンでは、日本のサヨクのように「平和」のお題目を唱えたり、憎しみを乗り越えようと、“文字”で押し付けようとしても失敗するのである。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 🌁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする