2015年08月22日

人間は「良い顔」に創らねば(3/3)


《3》
 ところで。
 本稿は昨日までで終わりにするつもりだったが、天寿堂HPの「談論サロン」に新しい論文「学問でこの世界をどこまで解き明かせるのか?」がアップされたので、それに関して一言言っておきたい。本稿に関わることなので。
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=tenjumichi&mode=res&log=208
 
 稲村氏は盛んに「神戸だいすき」女史とその仲間たちのブログを取り上げて反論したり諭したりなさっている。
 私はブログ「神戸だいすき」は、もうとっくに読むのはやめているから女史とその仲間たちの文章などは読んでいないが、この稲村氏の論文で、どんなことを最近言っているかを知った。
 彼らは南郷学派を実に口汚く罵るのを常としている。

 私のブログにもこうした手合いがコメント(誹謗中傷)を入れたがるが、セキュリティ機能で排除するようにしてある。まれにくぐり抜けて投稿してくるものもいるが、読まないで棄てる。
 私のブログなのだから、私が方針を決める。

 稲村氏は彼らに律儀に反論しておられて、優しい人柄に感心するが、これは無駄である。
 いくら説いても、汚ないコメントを好む人たちはわかる気はない。「神戸だいすき」ブログにもそんな気はない。

 それは本稿で説いたように、自分で南郷学派の勉強もしないで勝手にただ気に食わないからと罵倒しても論理的には箸にも棒にもかかっていないことがわかっていないからだし、その批判的言辞に気品のかけらもないからである。
 本稿で書いたように、それでは論争のステージに上がる資格はないのだ。

 稲村氏は「南ク学派は、人類の英知の結晶である学問の歴史に必ず残る正真正銘の学問の本流を行く正統派です。」としたためておられるが、要するに1冊でも南ク継正先生の本を読めば、まともな人間として成長してきた人間ならば、稲村氏のような感想を、理解はたとえ未熟であっても抱くものなのである。

 卑近な例でいうなら、ミシュランガイド3つ星の京都の老舗割烹で、5000円も1万円もするランチを食べた人なら、百人のうち99人は「うまい。感動した」と言うのである。味がわかるならば、だ。でも一人くらいは「べつに、うまくはない、高過ぎる。うちの近所のラーメンのほうがうまい」と言い張る人間も出てくる。

 南ク継正先生の本を読んでも、すばらしいと思えなかった人は、哀れ、この味音痴と似たようなものなのである。味音痴は感覚器官が壊れているせいであるか、よほどひねくれているかだ。

 南ク先生の本は本物だ、自分が本当に探しもとめていたものはこれだったのだと、読めなかった人間は、その時点で落ちこぼれるべくして落ちこぼれたのだから、いくら説いても理解できるわけがないと私は悟ったのである。
 ずいぶん友人と語らったが、多くは聴こうともしなかった。

 昨日も書いたが、人間として本来あるべきは、論理と品格とが仲良く手をつないでいる。そういう顔つきや話し方や、文章や楽器の演奏や…になっていなければダメである。
 むずかしく言えば「対立物の統一」となっている、あるいは「非敵対的矛盾」の創出である。
 
 稲村さんは丁寧にも、
「神戸だいすきさんは、その中身を見ようとしないで断片的な話だけで自分の経験と結び付けて、つまり、相手のレベルを知ろうとしないで、自分の経験した婦人会の事実を短絡的に結び付けてカルトだと断定してしまうという間違いを犯してしまっています。それが集団はカルト化する、という決めつけです。

 これは特殊性の一般化という論理操作のよくある誤りですが、これを犯すということは、神戸だいすきさんの弁証法が自己流で、人類の英知の結晶の学問の歴史から弁証法の基本を学ぼうとしていないために、一般性・特殊性・個別性の論理の区別と連関という論理学の基本すらが分かってないための誤りと言えます。」


 と書かれている。私はとうの昔にこのことに気付いて、女史を説得するだけ時間のムダだと、これも悟ったのだ。
 稲村氏はかつてHPの論文で、神戸だいすき女史を「弁証法の達人」とほめそやしたことがあった。私はそれは間違いだと書いたことがあったが…、稲村氏もようやく、女史の弁証法は言葉だけだと気付いたようである。

 稲村さんはまた、神戸だいすき女史の空虚な罵倒言辞を紹介している。
 「私が玄和会を憎むのは『道義なき』ゆえだ。日本武道を標榜しながら『義なき』とは、何事ぞ! 詭弁を弄して戦争に導こうとする主体思想の本質を知れ!その名称から『日本』をとりはずされるのが、よかろう。日本の思想ではないのだから。」

「武道のくせに、人間性の陶冶をうたわず虚勢をはって、やたら難しい言葉をろうして威張るばかり。おっしゃるように、いっていることと、やっていることがくいちがいます、なぜくいちがうかというと、理論に無理があるからです。つまり、一見、立派そうな言葉を羅列しますが、理屈が通っていない。キラキラした言葉で目くらましているだけで、なんの意味もないからです。つまり、整合性がありません。」


 わが流派が戦争を導こうとしているとは驚きだ。会員の私も聴いたことがない。公式にそういう発言をした証拠でもあるのか? 誤解どころか、あまりにひどい妄想である。
 女史は安保法案も戦争法案だと妄想しているようだから、同じ思考回路らしい。

 断っておくと、わが流派が公式にも非公式にも、安倍首相の安保法案について言及したことはない。
 私や稲村氏の見解は、あくまで個人的なものである。

 これに対する稲村氏の的確な反論は、例えば「理論に無理があるというのであれば、具体的に理論のどこがどのように無理があるのか指摘しなければ、批判したことにはなりません。ところが、それは何もありません」とある。そのとおりで、神戸だいすき女史の決めつけは取り上げるにも値しない。

 あとは稲村氏の当該論文を読んでいただけば十分である。
 ただ、本稿の流れに沿って言うならば、として、私の見解を付け加えておく。

 それは再三言ってきたことだが、精神性の高みとか品格とかが身に付いている人間は、端的には育ちが違うのである。
 そもそもで言えば、赤ちゃんのときに粉ミルクで育ってしまえばそこで大きくつまずくのだ。人間の脳にならずに牛の脳になってしまう。これでは人間の人間たるゆえんの精神、あるいは品格は理解できなくなる。

 寝屋川市で殺害された中学生の少女は、親の管理もずさんだが、あれはきっと、親も子供も粉ミルクで育っているから、深夜に寝ることもなく繁華街を徘徊できる脳になっているのである。人間の母乳を飲んで育ち、人間としての躾を受けてきていれば、夜は素直に眠るようになっている。

 次には家庭の教育だ。親しだいであるが、親が無責任で子供をほったらかしにし、愛情をたっぷり注がないと、これも子供のココロは歪む。躾ができていなければ、社会的認識、公という認識がわからないのだから、精神性や品格は育ちにくい。
 平気で自分では論文をブログや書籍として出すわけでもない(できない)のに人様の文章に誹謗中傷することだけが喜びにできる脳に育ってしまう。

 さらには受験勉強だ。知識だけは記憶する秀才にはなるが、それによって失うのがみずみずしい感性である。受験勉強だけやれば、五感器官が磨かれないから、感情像もお粗末にならざるを得ない。
 精神性の高みや気品などは、感情像であって、いうなれば理屈とは違う。

 子供の時に、野外でのスポーツ、虫取り、魚釣り、草むしり、植物栽培、木登り、とっくみあいのケンカ、などのような五感器官を鍛える運動をしなかった人間は、認識(像)がうすっぺらになっているから、像の厚みそのものといえる人間の精神性の高みや品格などの像は形成できなくなるのである。

 昨今では、コンピュータゲームに熱中した幼少期を過ごしたケースでも、こうした像の厚み、みずみずしさは失われるのであり、やっかいなことに、自分ではそのうすっぺらな像しか脳に結ばなくなっていることに気付けずに、自分は正常だと思うのである。

 像がうすっぺらだからこそ、相手の気持ちがわからない。根拠もなく誹謗中傷された側が、どんな嫌な思いをするかの真摯な像が描けない。平気で罵倒したいから罵倒する。
 感受性が人間になっていないから、2チャンネル的な言辞を読めたり投稿できたりする。

 本稿冒頭に取り上げたのは、芥川賞作家・又吉直樹のことだったが、昔の漫才師とは違って、何の芸もないのにテレビで「出来レース」で大仰に手を叩いて笑ってもらえることができる彼の像の薄っぺらさ。

 それに彼自身が「あほが書いた小説です。あほなりに人間を見つめて書きました。生きているとしんどいこともあります。そんな時、散歩したり本を読んだりすると、少しだけ楽になることがあります。誰かにとって、そんな本になれば嬉しいです」と言っている。
 この彼の像のうすっぺらさ。それに神経の歪みは、彼もこうした人間の代表である。
 感覚器官もボロなら、創る像も薄っぺら。

 そういううすっぺらな像しか描けない人たちに、稲村氏は誠実に説こうとなさっているが、それは再度言うが無駄である。氏自身も書いておられるが、ご自分の論理能力が彼らのおかげでさらに1ランク上がった成果はあるだろうが。

 彼らうすっぺら人間が覚醒するには、小難しい本を読むことはいったん棚上げして、五感器官(とくに足裏)を鍛えて、像がみずみずしさや厚みを帯びることができるよう、出直すことなのだ。
 と言っても、てんから南郷学派を受け付けないのだから、やはり言うだけ虚しい。

 稲村氏は8月21日付のHP論考で「神戸だいすきさんのブログを取り上げるのは、時間の浪費どころか問題の本質を明らかにするもの」と反論されている。
 さらに、
 「神戸だいすきさんのブログはとても影響力が大きいので、神戸だいすきさんの南郷学派に対する誤解・偏見を取り除いておくことは、日本の未来は本物の学問のみが切り開いていけるのですから、とても重要なことなのです。実際コメント欄を見ると、南郷学派の本を読んでもいないで実態も知らないのに、神戸だいすきさんたちの悪口の影響で反感を持っている人が増えてしまっているのではないかと思うからです。これは、日本にとってとても不幸なことだと思います。」


 と優しく述べておられる。そのお気持ちは尊いし、立派なことだ。
 この問題が、論理の食い違いや誤解にあるのなら、無駄ではないだろう。
 しかし、再三本稿で言ってきたように、論理と気品は仲良く手をつないでいなければならず、そこがそもそも分かっていない人たち(神戸だいすきとその仲間たち)にいくら説いても理解できる基礎がないのである。

 昨日も書いたが、まったく手応えのない人たちに説くことは、稲村氏自身の論理能力はたしかに高めるが、相手には通じない。問題は、論理の実力は高まる一方で、相手とのやりとりによって品格が相互浸透しないように(落ちないように)重々気をつけねばならないことなのだ。

 最後に一言。ネットにはずいぶんと支那や韓国の介入が行なわれている。彼らは国民にカネをまわさなくとも外交や宣伝工作にいくらでも回せる。ネットの中には、カネに目がくらんでそういった工作によって宗旨替えしたブログやHPがある。

 あれ?以前と言っていることが違うな、と思ったら、疑ったほうがいい。安倍首相の悪口をしきりに言うようになったとか、護憲を言い募るなどは、怪しい。
 これに対して、いくら真摯に諭そうとしても徒労で、聴く耳は持っていない。









posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(10) | エッセイ | 更新情報をチェックする