2015年08月26日

寝屋川の少年少女殺害事件の闇(3/3)


《3》
 この事件の教訓はまだまだある。
 世の中において「力」をなめてはいけないということだ。
 この事件の犯人は、少年たちより自分の暴力のほうが確実に上回っていると確信したから犯行に及んだ。子供たちは当然のことながら力に負けたのである。

 サヨク護憲派らは、自分が力を持たなければ平和がやってくる、暴漢も見逃してくれると信じ切っているが、それがいかに妄想でしかないかは、こうした事件を見ても明らかなのに。

 もしもあの少年少女が護身術を学んでいたなら、そもそも用心深くなり、深夜に危険な所をうろつくなどしなくなるし、万一襲われたとしても、武技を使って相手を怯ませることは中学生でも可能であった。
 マスゴミは同級生らが通夜で「ひどい、犯人を許せない」と泣きじゃくる様子を記事にしているが、「許せない」のだったら、どうやって報復するとでもいうのか。そんなことを呟いても意味はない。

 これを教訓にして武術を習おうとか、学校の正課に空手を認めてもらおうとか、やはり力には力の保持が抑止力になるのだと言うようになるべきが、「許せない」と言うだけ。
 マスゴミも決してそういうまともな対応方法を記事にしない。甘やかすのみ。どこからも護身術を習わせようという声は聞かれない。

 だから自衛隊は違憲だ、他国の侵略をうたがってはいけない、暴力に対応するには話し合いで、平和主義で、という論調に誘導する。
 そうやってサヨクマスゴミが醸成してきた戦後このかたの緩んだ“空気”こそが、今度の寝屋川の凄惨な事件を招来したのに。

 今回の場合、どうやって連れさられたかの詳細はわからないけれど、仮に犯人に手を持たれてクルマに連れ込まれそうになったら、大声で助けを求めながら、すばやくしゃがみこむと良い。重心が下がって、大人と中学生の少女の体力差があっても、犯行者は容易には少女を引きずっていけなくなる。

 もう少し勇気があるなら、犯人の足の甲を踏むと良い。犯人は手をつかって子供を連れ去ろうとしているのだから、いわば足はお留守になっている。子供のほうは手が使えなくされていても足は使える。
 だから足で相手の足の甲を思いっきり踏むのだ。足の甲は急所だから、中学1年の少女でも十分効く。

 犯人は足が狙われていると感じたら、必ず怯む。あるいは実際に踏まれれば痛くて、手を放す。そこで逃げればいい。
 これなどは簡単な防御技ではあるが、とりたてて習熟に期間を要するまでもない。万一のために少し練習しておくだけで十分使える。

 大声をあげられ、しかも拉致に手こずれば、犯人は焦って逃げた可能性が高い。単独犯なら十分対応はできたはずだ。
 こういう程度の護身くらいは、親や学校が教えておくべきではないのか。それすらも、サヨク教師は暴力はいけない、話し合いで解決しなさいと言うのだ。

 抵抗すればリスクは高まる、と。国家も同じで、9条をないがしろにすれば戦争のリスクが高まるからいけない、というのと同じ。
 少年少女は抵抗しなかったから殺されたのに、きっと少しでも抵抗したから殺されたんだ、対抗しなければ犯人も殺そうとはしなかったはずだ、とでも言うのだろうね、サヨクは。

 中学生や高校生が、戦前のように学校で武道が正課になっていて、誰もが剣道や柔道の有段者だとなっていたら、ああいう朝鮮人変質者であっても手出しはしにくくなる。それが抑止力である。

 この簡単な論理を、サヨクマスゴミや教師どもは絶対に言いたくない。言えば、9条は害になる、人間性に悖ると宗旨替えしなければならなくなるからだ。

 それから少女たちは殴られた痕があったそうだが、一発で倒されたのならそれまでではあるが…、まだ意識があったなら頑張れたかもしれない。
 というのは、おそらくあの子たちは親からも教師からもぶたれた経験がなかったと思われるからだ。

 殴られた経験がないと、初めて殴られた衝撃は大きい。殴られた経験をしていれば、こんなものかと思えるのに、大パニックになってしまいかねない。
 ボクシングを見ればわかるように、彼ら選手は殴られても殴られてもファイトに向かう。

 ボクシングの場合はグローブで衝撃を和らげているせいでもあるが、選手はいつも殴られなれているから、「こんなもの」という認識ができあがっている。
 しかし生まれて初めて他人、しかも敵意をもった暴漢に殴られるとは想定外で、激しい恐怖、しかも痛みに我をわすれてしまう。

 戦意喪失、抵抗する気力を失う。おそらくであるが、それはあの2人の子供にも起きたであろう。
 日ごろから教師や親が体罰をしていれば、殴られたりぶたれたりしても慣れが生まれ、抵抗できるようになる。

 吉幾三が昔歌ってヒットした「おら東京さ行くだ」にある、信号ねえ、新聞ねえ、電気もねえ、「おらこんな村いやだ〜」から大都会に出てきたら、幹線道路の前に出ただけで恐怖でたちすくむだろう。
 しかし都会で暮らしているなら、危ないと承知しているが恐くはない。同様に恐さはどのようなものかを知ることは大事なのである。

 国家レベルでも同じことで、いつも戦争の緊張感があって、軍備もちゃんと整っていて、たまに戦死者が出る、そんな状態なら、ゆえなき恐さは減る。
 それを絶対に争いからは逃げろとだけ言っていると、尖閣諸島で支那漁船が体当たりしてきただけで、パニクってうろたえ、どうしていいか分からなくなる民主党政府みたいになるのだ。

 警察も消防でも、その訓練のなかにはある程度の危険を冒しながらやっているはずである。それで恐怖に慣れておかねば、犯人を逮捕したり、炎の中に飛び込んだりはできない。
 訓練中に殉職するケースは必ずある。個人的には気の毒だが、社会の安全のためには払わねばならないリスク、犠牲である。

 そうしたリスクがあるからと言って、訓練を机上だけにしたり、そもそも警察や消防をなくすべきだと言ったりする者がいるわけない、と思いたいが、実はいるのだ。それがサヨク護憲派である。

 一つ付け足すと、今度の事件は警察のやらせではないかとおっしゃってこられた方がいるが、その可能性はあるけれど、私はその説はとらない。
 むしろ、ザイニチの犯人は人身売買でカネを稼ごうとしたが、二人に抵抗されたために殺してしまったかもしれないと思う。ヒューマン・トラフィッキングだとすると、その実態が公開されると、世間もショックが大きいし、犯罪組織などにとっては都合が悪いので、警察と組んで隠蔽し、ただの猟奇殺人に仕立てるのかもしれない。

 
 





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする