2015年10月08日

映画『白いリボン』とVWの不正(2/2)


《2》
 『白いリボン』のDVDのジャケットにはこうある。「暴力、偽善、欺瞞。人間の醜さを体現する大人たち。そして「純粋の印」として白いリボンをつけることを強要される子供たち」。
 奥深い映画である。

 こういう映画を観れば、いかに日本の映画界が低劣の極みかわかる。
 日本映画はどれもこれも、チャラチャラした恋愛ものとか、荒唐無稽な未来の映画とか、かつての黒澤明や小津安二郎といった監督の重厚な作品は消え去った。
 
 この映画は、先に挙げたように、白人にすべての正義がある、善悪は白人が決めるとする「国際標準」とはいかなるものかのひとつの解答でもある。問題をただ咎めるだけではなく、己の醜悪さにも立ち向かう、まさに主体的な、能動的な作品である。

 フォルクス・ワーゲンの犯罪は明らかであるが、彼らはいわゆる謝罪はしていない。あろうことか企業トップは知らなかった、一部の社員がやったことだとトボケている。

 まだ不明のことはあるが、マスゴミはVWから広告をもらう立場だから、あまり悪くは言いたくない。下っ端がやらかしたんであって、トップはしらなかったなんてバカなことがあるかとは、マスゴミは言わない。
 グルだからだ。

 これは映画で白いリボンをつけさせられて、傷害事件やリンチを起こしながら絶対に認めない、口をきかない子供たちや知っていながら黙っている大人たちと、まったく同じ病理そのものである。

 登場する大人たちは、表向きは厳格で道徳家で、子供たちに「純潔であること」を強要する裏では、弱者を差別し、虐げ、心も体も踏みにじることを平気でやってのける。
 これがヨーロッパ白人が世界中の民を植民地にし、殺戮のかぎりを尽くしてきながら、仲間内では敬虔なクリスチャンでございますと、図々しく気取っているザマである。
 
 また現在のドイツが、VWの不正を国家ぐるみでやりながら、弱者たる中東からの難民にいかにも良い人ぶっているのと風景は重なる。
 ただここではテーマが違うから深入りしないが、ヨーロッパが世界中の富を集めたために、資本主義が発展し、産業も学問も発展して、世界史レベルでは大きな前進を果たした意義はある。道徳論だけでは解けない。

 子供たちは残酷であるが、それは閉鎖的で、嘘で固めた、弱者をいたぶる社会へのルサンチマンによっているのだ。
 その彼らがやはり長じて同じ暴力や不正に充ちた社会を生み出してゆく。思えばこの第一次欧州大戦のときに子供だった連中が、やがてナチスを生み、ユダヤを迫害し、またユダヤ人も同胞を裏切る社会を出来させたのである。

 これほど残酷ではないにしても、日本の子供たちの状況は共通する。大人社会へのルサンチマンが、イジメ、非行、引きこもりを呼んでいる。

 しかしながら、この映画の凄いのは第一次世界大戦前夜のドイツの病理を抉り出しながらも、それを道徳論で終わらせていないところであろう。映画の宣伝文句に「暴力、偽善、欺瞞。人間の醜さを体現する大人たち」とあると紹介したが、これはおそらく日本側が付けた文章だろう。そこには道徳論が下地にある。

 確かに、この映画に描かれた社会は、善悪でいえば悪に満ち満ちた作品で胸くそが悪くなるけれど、勧善懲悪や道徳論でおしまいにしたのでは藝術作品には届かない。

 「暴力、偽善、欺瞞…」という見方は現象論である。額に手を当てたら熱かった、じゃあ病気か、というのが現象論である。しかし人間はさらに突き詰めて構造に分け入ろうとしてきた。構造は、対象が事実で、家の骨組みのように見えるものもあるが、論理構造は見て取れない。見えないものを見て取るには訓練が必須である。

 『白いリボン』は、映像作品でいわば学的世界で言うところの、論理構造に分け入ろうとしていると思える。むろん学的究明ではなく、映画だから解答はないし、鑑賞者が考えなければならない。
 だから当然難解である。大衆向けの映画ではない。
 
 今回のドイツVW社の不正は、ドイツの屋台骨を揺るがす事態に発展するだろうが、ただ「汚ないことをしやがる」では現象論、道徳論でしかない。

 なぜあれほどの世界的企業が、ドイツ人の魂ともいうべきVWが、不正をやったかの論理構造に迫らなければならない。
 日本人は論理構造に分け入ることが苦手のようだ。
 例えばサヨクは、日本が先の大戦で加害者だった、侵略者だったと道徳論的に判断している(道徳論で言うなら日本は被害者だ)。その延長で、先の安保法案が戦争に巻き込まれると勘違いを起こしていた。

 『白いリボン』でも、地主である男爵も、キリスト教で支配する牧師も、搾取階級=悪として見るのがサヨクであろう。それは一面的見方である。しかし映画をよく見れば、それなりに農民も教師も食っていける社会を構成している。だから誰も叛旗を翻さない。

 さはさりながら、このドイツ社会こそがナチスを生んだのだという根源的メッセージにもなっている。そしておそらく今度のVWの不正を生んだ社会なのである。
 
 こうして見てくると、『白いリボン』はドイツの小さな村の出来事を扱いながら、実は国家とは何かを問うているとも思える。権力、宗教、経済、教育などが凝縮されている。

 ここで少しばかり、現象論と構造論のおさらいをしておこう。
 本稿で私が、どうしてVWの不正事件と、映画『白いリボン』を合わせて取り上げたかというと、マスゴミではVWの不正を(及び腰的に)現象論で捉えているようだが、本当はそうした不正を横行させるドイツ、もしくはヨーロッパの精神構造にまで分けいって明らかにしなければ、問題の所在もわからなければ、解決の糸口にもならないからである。

 「国際情勢の分析と予測」氏の見解は、感情的レベル、あるいは現象的レベルで述べている。あれでは構造論に入ってはいけない。
 そうではなく、構造に分け入るべきだとする示唆にまで踏み込んでいるのが、たまたま『白いリボン』ではないかと思ったから、例として取り上げたのだ。

 むろん、構造論は事や物の解明の部分であって、本質論にまで昇華するには、人間とは何か、歴史とは何か、といった根源を究明しなければならないが、それは今回は置いておく。
 ドイツ人社会の構造、その認識、経済、政治形態、大衆、宗教などの、見えない部分を解明するのが構造論になる。だから本質論から見れば構造論は部分である。

 『白いリボン』の中で次々に起こる事件は陰惨であるが、これが現象である。警察はこの事件の犯人さえ捕まえたらよい。それを生み出した社会の歪みといった構造については関心の埒外である。それはそれで構わない。マスコミもたいていは、犯人が誰か、いつ捕まったか、動機は何かなどの現象を報じる。

 マスコミは本来的には社会の構造にまで踏み込んでいかなければなるまいが、そんな関心は希薄で、読者の関心もないから、どうでもよくなる。おざなりに「こんな社会の歪みが犯罪を生む」低度の解説をして終わり。

 『白いリボン』では、子供による犯罪が次々に起こることを示すことで、そこにおける“共通性”を把握するべきだと鑑賞者に告げている。
 共通性を捉えることでやっと構造論に近づけるからだと、この映画の制作者は分かっているようだ。つまり1つの事件ではわからないのである。いくつもの事件(事実)の共通性、あるいは区別を見つける。初めは区別しか注意が向かない。当然、ドクターがワイヤーに引っ掛けられて落馬する事件とか、小作人の女房が転落死するとかは、別々のものにしか見えない。

 しかし、村の大衆にはなんとなくの不安が生じるが、共通性に着目しはじめるのは牧師や教師など、インテリである。見た目の共通性を捉えて、犯人は子供たちだと分かっていく、それは現象論レベルと言えよう。
 見た目の(現象の)共通性を捉えただけだと、すべての事件が同じ犯人になってしまいかねないが、あの事件の真犯人は誰で、こちらの事件はただの事故かもしれない。それは現象論では解明できない。

 さらにむずかしくいえば、構造には二重構造になっていて、@現象している実体に入る構造 A過程的(過去)をたどる構造 がある。
 『白いリボン』は、いくらなんでも映画だから、過程的構造までは分け入っていけない。現象している実体(殺傷事件)を扱っているまでだ。
 
 牧師や教師が犯人が子供たちらしいと目星をつける実力があるのは、いちおうインテリだけに、一般論を把持しているからである。人間とは何か、子供はどういうものか、男爵家と農民の支配関係とは…、そういう一般論から対象を見ていくから、見事な推理になっていく。

 これはちょうど、インドでシング牧師が「狼に育てられた少女」のアマラとカマラを発見したときと似ている。原住民は「人間とは」の一般論がないので、アマラとカマラをバケモノと言っておそれたが、シング牧師は一般論から捉えて「見た目」だけでなく観察してあれは人間の少女だと見ぬいたのだった。

 こうした緻密な論理的映画を創るのは、さすがにドイツ・オーストリア人らしい。






posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする