2015年10月17日

気象の像とはどういうものか

 
 最近は気象衛星の画像精度があがり、また高層の空気の運動状態も解明されてきて、気象予報がずいぶんと地球規模で解説されるようになった。ひまわり8号の画像で、台風の目がくっきり見えたのには感激した。
 またあの画像は、軍事目的が第一の用途に違いなく、わが国の専守防衛に大きく寄与してくれていると思うと、頼もしい。

 他事ながら、宇宙ステーションに人や物資を完璧に届けるのに、日本の技術なくしては継続できないほどになっている。どれほどすさまじい技術か、支那や韓国は宇宙戦争でも日本には勝てないと認識して青ざめているであろう。

 私の子供のころには人工衛星も飛んでいなくて、せいぜいラジオゾンデで大気の部分的観測をするか、あとは各地の観測所の気圧や風のようすで予報をしていた。予報図しなかった。隔世の感がある。

 ずいぶん以前に、私の空手道場生に気象予報を仕事にしている者がいた。
 あるとき、練習を野外で行ったとき、彼に尋ねてみた。
 今、ここに立って空を見上げるとほぼ快晴で、西の空には夕焼けが広がり、南西からの風が心地よく吹いている。こういう場合に、気象を専門とする人間はいったいどのような像をアタマに描いているのか、と。

 すると彼はとくに“像”らしい“像”は描いていないらしいことがわかった。
 「少し夕焼けがあるな、とか…」というのである。
 「では明日はどんな天気になるのかは考えないのか?」と重ねて聞くと、「予報に関しては気象庁がデータを集めて判断している」と答える。

 どうも私と話が噛み合ない。そこで私が気象の“像”とはどのようなものであるはずか…を少し説くことにした。
 この場にたって景色を眺めたとき、少なくとも現在の地球の巨大な、動いている像がアタマにできていなければなるまい。地球上の空気がどう動いているか、昨日から今日、そして明日にかけてどう変化してきているかを踏まえて、今この場における極小的な気象を見てとるのではないのか、と。

 むろん地球全体の像というからには、百万年前からの生命誕生から現在にいたる生物のありようも、気象の像に入っていなければなるまい。

 例えばテレビの天気予報を見ていると、台風からの風が吹き付けているから、だいたい南西からの風がそろそろ強くなってきていると説明している。風が吹き込んでいる、とは言うけれど、その風はどこへ行くの? 消えちゃうの? そんなことはないよね? 南西からきた風(空気)はどこに行くの? と聞くと、この風は低気圧の中心に吹いていって、そこで上昇気流になって、成層圏まで上昇したらまた上空で拡散していく…というように動いていくのです、と説明する。

 なんで天気予報ではそういうことを説明しないのかと聞くと、そんなことは予報には関係ないからだというのである。
 この説明は私にはいささか驚きであった。
 風がどこから生じてどこへ行くのかは、予報に関係ないから無視だというのだ。ある地点での風量と風向さえわかればいいというのだ。
 それでいいのか?
 
 たしかに予報さえしたらいいということでなら、風がどこへ行こうと知ったことではないかもしれないが、これでは全体の無視である。まさに弁証法のない、形而上学的捉え方であって、地球規模の空気の運動の、その一部を捉えて予報をするのではない! ということだ。

 「上空の寒気が張り出しています」とか「寒気が弱まって南からの高気圧が張り出しますから温かくなるでしょう」とか、明日どうなるか、1週間の予報はどうかならば、それでいいが、「張り出した寒気」という空気の運動は、どういう運動をして変化していくのかがないはずがない。

 寒気というものがあって、それが現れたり消えたり…なのか?そんなことはなかろう。寒気はなにかと相互浸透し、なにかの運動をして、また地球の自転公転によって今度は高気圧になったり、さらに寒気がどこかへ移動しながらもっと温度を低くしたり、の変化が、予報だけしていればいいという仕事のなかでは欠けている。

 へぼな医者や看護婦たちは、目の前の患者の症状しかみない。その患者の生活過程を見ることなどなく、この症状にはこのクスリ、効かなければまた別のクスリとやるだけ。天気予報もそういったレベルらしい。

 それじゃあ現今の医療と同じではないのか。対症療法みたいなもので、今の患者の「病名」さえ分かればよく、あとはクスリを投与するだけ…、明日の天気さえ予報できればよしとしているのか?

 彼はそのとおりだと答えた。学問的に対象を見ることはどうでもよく、明日の天気が予想できればよく、外れたら苦情がくるからそうならないように対象たる天気を見るのだそうだ。

 それではせっかく弁証法を勉強しようという意味がないではないか。地球規模の空気の運動(空気だけではないが)くらいは大づかみ捉え、そこから局所的な天気を見てとらねば、本当の運動形態はわかるまいに?
 むろんさらには地球誕生から生命体が地上を覆い、人類までの進化過程をも踏まえての「気象」を見てとるべきだが、最低でも人工衛星が撮影して地上に送ってくる地球全体の雲の動きくらいは把握していなければならないはずのことであろう。

 エルニーニョ現象とかラニーニャ現象とか、やや地球規模の捉え方がないではないが、それでもまだ局所的な見方である。
 しかし明日の局所的な天気の予報をするには、その予報に関係ないこと(地球全体など)は見ないで、役立ちそうな現象だけを見てすますのだ。
 患者に熱があれば、熱を下げるクスリを用いるだけ、みたいな話だ。熱冷ましに有効なクスリさえ見つかればいい。

 医者や看護婦が少なくとも患者という「人間」を見るべきなのに、部分的、専門的領域の症状だけ見ているのと変わらない。つまり医者に患者の全体像がないように、気象予報官には地球全体の像がないらしい。
 像で考えない、とはこのことではないか。

 地球全体の像がないとは、立体的な、かつ、運動している像がないのである。
 多少は立体的に天気図は解説されているが、まだ平面的である。
 台風の姿は50年前と同じ、真円で描かれている。そんなバカな! 気象衛星が、台風の雲の形は決して真円で動いているのではない。気象衛星で見る雲の形に、予報円が重ならないのだからおかしいと、気象庁は誰も思わないのか?

 しかも、台風場合、図に描かれた円よりはるか前方で実際は強風大雨になっているのに、円の中心(目)が陸地にかかったときをもって「上陸」と称しているのだから、奇怪である。「もうとっくに上陸は済んでいるだろうに」と。
 「台風13号は、これから四国南端に上陸する恐れが…」と天気予報で言うけれど、もう台風本体の猛威は2日も3日も前から荒れ狂っているというのに。

 国際的決まりだ、とでも言うのだろうが、いい加減にしろよ。気象衛星が主力になった時代に合わせて予報も変えなければおかしいだろ。

 これからは、テレビで気象予報をするときは、もっと工夫して立体的かつ運動的に説明してほしいものだ。
 例えば、常設の体育館のような建物を拵えて、中に50メートルほどのプール(海や湖に見立てる)の中に日本列島を実物そっくりに縮小したジオラマで作る。その上にどのくらいの高度に雲があって、どこで雨が降っていて、高気圧がどう動いているか、低気圧がどう発生したかなどを模型で動かしてみせたらいい。

 そのくらいの技術はもうあるだろう。






posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする