2015年10月21日

文化遺産はぶつ切りで学ぶな(1/3)


《1》
 媚中・副島隆彦が『政治映画評論』のなかで、「科学という言葉は嫌いだ、哲学という言葉も大嫌いだ」と書いていた。以前、図書館で借りたものだから正確に引用できないが、映画を評論するついでに漏らした言葉だった。
 いつものように、彼はそう言いっぱなしで、なぜそう言うのか根拠を示さない。

 単に感情的なものだと言われても仕方あるまい。
 これは雑言の類いである。哲学を巷間言われるごとくに思想とか考えとかと思っているのではないか。例えば、どこかの大企業の経営者を「誰それさんの経営哲学」とか、なんとか大臣の哲学とか、マスゴミはよく遣う。それはまったくの間違いである。

 哲学は学問上の概念であって、およそすべての個別科学を研鑽した人間でないと哲学はなし得ない、というほどで、登山に譬えればエベレスト全山の巨峰を登攀するレベルと言うべきであろう。タレント風情が個別科学の一つも学んでいないのに、ちょっと自分の信念低度を語っただけで「哲学」を持っているなどと言うものではない。

 また歴史的に「哲学者」とされる人物の考えを研究している低度の学究を「哲学者」に入れてはならぬのである。
 また媚中・副島隆彦も若い頃には三浦つとむ氏を勉強したようだから、三浦氏が哲学不要論を説いていたことに影響されているのかもしれない。

 以前ブログで書いたが、西田幾太郎、鶴見俊輔、久野収なんかを哲学者と呼ぶのはお笑いで、テレビの大喜利でいえば座布団全部剥奪である。
 
 ここに、世界というものを大きな円で黒板に描いたとしよう。球体でもいいが、今はポンチ絵での説明だから、まあ円としておく。その大きな円そのものを丸ごと捉えて、あらゆる事実から論理を導き出して、しかもそれは現在だけではなく、歴史的過程的にその円(世界)を捉え、体系化するのが哲学である。

 ところが個別科学は、大きな円という世界のほんの一部分に1本の矢を刺し込むようなものである。部分的な事実をもとにした論理構造を解くに過ぎない。
 本来の個別科学は、こうした世界全体(円)の一部の解明であることを踏まえれば、円全体、すなわち哲学がわかっていなければ、その刺し込んだ矢が全体のなかのどこに当たるか、どう作用するのかなどはわからないことになる。

 普通に個別科学とされる数学や物理、生物学などに留まらず、南ク継正先生は空手でも世界全体から解き、かつ世界全体すなわち哲学をも創出しきってしまった、という話になる。
 媚中副島隆彦は、科学が嫌い、哲学も嫌いとのたまったが、実に愚かなことである。彼は世界全体を現在だけでなく過程の複合体としても捉えるべき哲学を否定してしまった。さらには個別科学すら否定した。

 恐るべき暴挙というか、無知のなせる業である。
 まずたいていの大学に巣食う学究たちには、哲学とは学一般であることが皆目分かっていないのだから媚中副島隆彦だけの問題ではないが…。もう21世紀はそうした哲学とは何かの幕開けが起きていることを知らなければ恥である。

 媚中副島隆彦は、しばしば、俺は世界標準がわかっている日本で唯一の暴き屋だなどとカラ吼えするけれど、この世界標準とは何かを学問的にはいっさい解いていない。定義ができないくせに、日本は世界標準に従えとか、世界標準が「南京大虐殺があった」というなら、黙って従えというのだから、とうてい己らを「学問道場」などとうそぶいてはいけない。

 世界標準とは、いささかも学問的概念ではない。媚中副島隆彦のただの主観である。それもまさに媚中であり、媚欧米であるというだけの。だから平気で「科学は嫌い、哲学はもっと嫌い」などと放言できるのである。

 世界標準とは奇怪な言葉だが、本来的なあり方を言うなら、こうなる。
 「社会を説くに際しては、自然すなわち宇宙から説き起こして現在の社会に到るまでの流れを一貫したものとして説く、別言すれば、世界をまるごと対象として一貫した流れとして説ききる、ということ」(南ク継正著『武道と弁証法の理論』より)

 このようにして、ポンチ絵で言う円(世界)を一貫して捉え、まるごと対象としなければ学たり得ないのだから、そこで弁証法と認識論と、さらには南ク学派の措定した〈生命の歴史〉が自家薬籠中のもの、血肉化していなければならないのである。

 ざっくりと、こうした学問とはの基本が学べていもしない輩が、自ら哲学者でございの、俺の哲学はこうだとか、哲学は嫌いだなどと喚くものではない。


《2》
 繰り返すと、学一般が哲学である。個別の解明が物理とか政治とか空手とかになる。
 私たちは、何かに興味を持ったということは、世界のある部分に興味を持ったということだ。たとえば、どうして秋になると葉っぱが紅葉するのだろうとか。鳥はなぜ空が飛べるのか、とか。
 そうでしか持ちようがない。いきなり世界とはなにか、にはなるわけがない。目の前の五感器官で感覚したものから始まる。

 自分が世界のある部分に興味を持つと、興味を持った部分でその世界に進入していく。先のポンチ絵ふうにいえば、円のなかに自分の興味という矢を刺し込んで行く。
 物理であれば、世界という大きな円の、ほんの一部に物理論として突き込むことになる。

 実際、大学は各学部、各学科、各ディテール…のごときに分かれている。先にノーベル化学賞やノーベル医学・生理学賞をもらったお方に見るように、個別科学の、さらに個別の細かいことでのみ研究が評価されているだけである。

 だから素粒子の、そのまた細部の事実を解き明かしたところで、宇宙全体の誕生の謎が解けるわけがない。宇宙全体は宇宙の論理的解明そのものでしか解りようがない。

 しかし、学究たちは部分しかやらないから全体が解けない。
 下世話な譬えで恐縮だが、男が女を知りたいとして、じゃあ女の乳房だけ見ていたら、体全体とか認識とか、どんな育ちだったか等を蔑ろにして、生きている女が分かるわけがなかろうに。
 現代のほとんどの大学の学究は、おっぱいだけ研究して、女のすべてが分かるとでも思っているかのようだ。

 学究たちは全体なんか(円なんか)そもそも興味がない。興味はあっても、大学は徒弟制度でもあるから、指導教授がやめろと言えば根っきり葉っきりそれっきり。教授の研究の手伝いになるところ以外からはスタートできない。
 全体には手もつけられないまま一生終わる。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする