2015年10月24日

文化遺産はぶつ切りで学ぶな(3/3)


《4》
 話を戻せば、子供のころから何事も部分を切り取って部分として覚える頭脳にすると、全体に興味・関心を持てない人間になってしまう。全体を見てそこから部分をさぐるような思考は、辛くてできなくなる。

 いわば全体を知る術である弁証法は、受け入れられない考え方にされる。そんなもん知るか! なくたってやっていけるぞ、と。
 それはそうだ、ほとんどの人が部分の集合が全体だと思い、部分を極めるとか、関心を持てばそれが個性で結構な話、となっているから、弁証法はどうでもいい風潮になる。

 卑近な例でいえば、女性はハイヒールを履き、先の尖った靴を好む。それだと足が長く細く見えてカッコいいと思うらしいが、これなどが典型的な部分重視思考なのである。よしんば足はカッコ良くなったとしても、人体の健康という全体から捉えれば、外反母趾になったり、捻挫をしやすくなったりとか、骨格が歪むとか、さまざまな障碍が、つまり全体を無視したツケとして払わされる。

 それがわかりたくないから、足の体形にあわせた靴は履きたくなくなる。いくらそれはダメだよと忠告しても、女性は絶対に聞き入れないでしょ。こういう頭脳になるのである。
 社会全体から、人類全体から、教育のありよう全体から考えることをしない子供に育ち、好き嫌いが激しくなり、個性があまりに早く創られてしまう。

 だから学校で気に食わない、嫌いな同級生を過剰にイジメるようになる。イジメずにはいられない頭脳に創られてしまったからだ。
 安保法案反対をわめいた連中は、安倍首相を苛める、罵倒することだけが快感になっていた。

 韓国の場合、反日教育のせいではあるが、かの国も受験競争が熾烈だと聞く。日本と同じ全体から切り離した知識ばかりを暗記させられ、世界全体を視野におさめる思考は無視され、反日という部分的思考が最良とされるなかで、いよいよ個性化し、好き嫌いが激しくなっていったからである。

 支那人も、よく言われるように徹底した個人主義で、社会のこと、国家のことを考えない人間に育っている。共産党幹部で腐敗していない輩は皆無とされる。みんな自分さえ出世できればいい、他人のことなんかどうでもいい、金持ちになれればいい、となっている。
 これも典型的な、全体を考えずに部分だけに関心を寄せる認識のありようである。

 日本のサヨク護憲派は、それだけに国会前の抗議集会でもザイニチ韓国人や支那人と相性が良かった。同類だから、朱に交われば…になる。
 彼らはそれに世界全体のありようや流れを考えたくなくて、ただアメリカに戦争に引き込まれるぞ、とか、ユダヤの陰謀が日本を破滅させるとか、自分が興味を持ったところだけで騒ぎ立てて、国家とは何か、安全保障とはどうあるべきかなどは考えもしなくなっていった。

 違憲かどうかだけに関心が向いたまんま。
 その根幹は、子供のころから創られてしまった頭脳の働き、病膏肓になった思考回路の成れの果ての迷走であった。

 これを天寿堂の稲村さんはHPで「迷走の原因は一般論の欠如」として「神戸だいすき」さんらをたしなめている。
 稲村さんは「一般論がないためにせっかくの弁証法的な思考も体系性を欠如して、迷走を助長するまでになってしまっているのです。では、その欠如している一般論とは何かといえば、人間とは何か、人間の社会とは何か、国家とは何か、そして人間にとって自由とは何か等々です」と説かれている。

 私が今回、全体が分かっていないとサヨク人権派を批判していることを稲村氏は「一般論の欠如」と言っている。それにおおむね同感ではあるが、彼が説いていないことが、そもそもサヨクのご仁らは子供のころから全体から切り取った部分に興味を抱くことしか学習してこなかったから、稲村さんが説くところの「一般論の欠如」が何を言っているかわからない頭脳になってしまった、その過程的構造なのである。

 彼らサヨク護憲派にいくら一般論が欠如してはダメだと説いても、わかる能力がない。いまさら手遅れである。
 だから彼らは全体から説いてくれる弁証法や認識論、それに南ク学派が大嫌いにならざるを得ないのだ。

 稲村さんは、他人のブログやHPに蠅のようにやってきて、誹謗中傷、揶揄嘲弄することを喜びにしている連中に、寛容に丁寧に答えているが(私は読まない)、その善意は結構だが、「神戸だいすき」さんらの頭脳形成の過程的構造を突かないから、そういう親切(甘やかし)ができるのである。

 賽の河原で石ころをいくら積んでも、鬼が来て崩していくようなものである。

 今しか見ていない。一般論さえ彼らサヨク護憲派がわかってくれれば…と思うのだろうが、それは無理だ。
 彼らは頭脳の働きが一般論や全体を見ることができないように量質転化させてしまっているからである。しかも蠅と化した知識秀才的連中が集って、互いに「そうだ、そうだ」と盛り上がっていれば、自分たちの欠点、宿痾を反省するチャンスは永遠にこない。

 それに加えて再三述べて来たが、サヨク護憲派は、あれは宗教である。「9条信仰」だ。戦争は嫌です、と憲法に書いておけば、どこの国も侵略してこない、とはまさに現実を見たくない宗教なのだ。こんな宗教が存在し得るのは、世界中で日本だけ。

 彼らは9条を盲信している。現実は全体があって、部分がある、部分として捉えられるものなのに、自分は自分が興味を抱いた部分だけがまともで、正しくて、そうなっているのが当たり前と思い込んでいる。だから9条にこだわると、そこから抜け出せない。広い視野が持てない。

 なぜそうなるかは、一つには彼らは自分のやっていることに自信をなくしているか、過去に大きく自信をなくしたことがあるか、今なくしかけているか、であろう。
 サヨク護憲派や、9条は断固死守とする宗教を持つ人たちは、本当はそういう自信をなくしているのではないかと私は疑っている。

 自分はこんなに秀才なのに、東大に行けなかった、とか、一流大学を出たのになんで異性に好かれないのかとか、結婚に失敗したとか、学校時代にはいつも褒められたのに会社に入ったら嫌われ、無能扱いされているとか、勉強ができるから教員になったのに、生徒や学生が信頼してくれないとか…。

 そういう人間がサヨクになっていく。「失われた時を求めて」…なんちゃって。
 失われた時、とは、すなわち子供のころに、全体から切り取った部分を個性に任せて学ぶありようを習得してきたその時間なのである。

 それに加えて、天寿堂稲村さんは自分で問題を立てて、自分で答えを出そうとしている。サヨクどもはそういう脳の働きが(全体から考えることを棄てたために)できなくなっているから、妬みがふつふつと湧いて来ざるを得ない。だから部分的知識的フィールドに相手を引きずり込みたいので、揚げ足取りに精を出し、イチャモンをふっかけている。

 彼らのお粗末な認識の「来し方」を説いたけれど、「行く末」もかなり深刻である。もう引き返せない。類は友を呼ぶ、でもって、相互浸透して行くからますますアタマがボロになってゆく。
 何を見ても聞いても、部分で理解するしかできないアタマになっていく。対象の構造を弁証法で統括することはいよいよ理解不能になっていく。

 全体的思考を蔑ろにしてきたご仁が老後を迎えると、「振り込め詐欺」に簡単に騙される。なにせ、自分の身の回りのこと、家族とかお金の管理とかが、ブツ切れでアタマに入っているから、詐欺に息子を名乗られ、どうしてもカネを振り込んでくれと言われると、その部分しかアタマが回らないために、信じてしまう。

 社会全体をわかっているなら、世の中には詐欺が横行していると考え、そうした社会全体の認識で判断を下すことができるのに、個性的に生きたがために、もうそんなアタマの働きができないほどに量質転化しきっているのだ。

 他人のブログを荒らして、揚げ足取りしたり、揶揄したりしていれば、その末路は、詐欺に騙されても気付かない哀れな頭脳となっていくのである。それがひとつの「行く末」であろう。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする