2015年10月28日

龍安寺石庭の謎を解く(3/5)


《3》
 私は高校時代の恩師に「五山文学」の講義を受けた時に、これは中世の華やぎなんだよと教えていただいたことがあった。
 五山文学は、鎌倉期から室町の時代にかけて、鎌倉五山、京都五山で修行していた禅僧らが書き残した漢詩である。通俗的には禅の思想を説いている詩だと解説されている。

 「五山文学」の名前だけは教科書で見たとしても、中身はどんなものかを知る人は少ないだろう。知りたくとも、なにせ漢詩だから読み解くのが面倒で、古典なのに不人気で気の毒である。
 頓智話で有名な一休も、五山の僧の1人で、やはり漢詩をものしている。

 時代的には、五山文学も龍安寺の石庭もおおむね同じ時代に創られた作品である。特芳禅傑もおそらくは漢詩をものしていたであろう。そこに共通して、私は「中世の華やぎ」があると思えた。龍安寺の石庭にも「中世の華やぎ」がある、と。
 恩師・坂部裕郎先生はこう語っていた。

 「後に世阿弥の『花伝書』に顕われる『秘すれば花』という、中世の華であろう。中世の華の本質は、無常観に支えられた華やぎ、あるいは華やぎの無常観である」と。
 ではもう少し、恩師・坂部裕郎先生の説くところをご覧にかけよう。

     *    *    *

 五山文学は煩悩から超越した清浄界の文学である。
 中世の禅僧たちは多く八宗兼学的に仏教各派の教義を研究し、また、大陸に留学しては当時の元・明の仏教だけでなく、儒学をも兼習していて、広く大陸の精神文化として吸収して来た。

 中世に於いては、寺院が学府を兼ねていた事は、同じく中世ヨーロッパの教会と類似している。
 五山文学とは、広義には、不立文字とされる禅機にふれた作品も、禅境を述べた詩も、人事、花鳥、天然を諷詠したものもある。後者ほど文學性は高いが、俗人の漢詩文に比較して精神の高度であるのは、中世宗教家の作品だからであろう。

 禅境を述べた作品には、当然、日常性を否定した言語表現が用いられた。
  (中略)

 義堂周信(1324〜88)の『空華集』中の作品を見てみよう。(漢詩は略し、読み方のみ掲載)

  竹雀 (竹の雀を)

   太倉(たいそう)の粟(あわ)を 啄(ついば)まず
   主人の屋を 穿(うが)たず
   山林にて 生涯を有(たも)ちつつ
   暮れには宿(しゅく)す 一枝の竹に

 これは竹薮に遊ぶ雀を見ての作品である。草庵を囲む竹林に、俗を離れた禅僧の修行の連続の間の一時である。戒めを破らず、心の自由自在をかいまみせる作品と思われる。
 修行僧として、儒学伝承者として、また修行の中に精神の自由を見せる作品を残したのが、五山を中心とした禅僧たちであった。

 現在の仏教僧の生活を類推してはならないのである。
 五山文學が隆盛するのに平行して、『玉葉和歌集』『風雅和歌集』が伏見院、花園院、光厳院、光明院の各天皇により編集されたことも記憶すべきである。

 日本の漢詩文の歴史は、古代の大陸文化の流入にさかのぼり、支配者たちの公文書をはじめ、私的なものまで漢字が用いられた、漢詩文が男の表藝の一つであったことは江戸末期まで続く。
   (『古典の心』より)

     *    *    *

 簡略にして要を得た五山文学の解説であろう。
 五山文学を読んでみると、禅僧たちが「個人」になっていることが見てとれる。それ以前の平安時代の宗教は鎮護国家としての宗教である。天台宗、真言宗などはその典型である。

 平安期の『源氏物語』は紫式部の個人的小説ではない。あくまで藤原氏の権力維持のため、国家管理のために、政敵を残酷に葬ってきたために、それが悪霊として祟ることのないように、絵空事のなかで栄達させて怨霊を気分良くさせるためのものである。そうでなければ当時、超貴重な和紙を女に与えて物語等書かせるわけがない。
 いわば国家行事としての『源氏物語』の成立なのだ。

 ところが、鎌倉時代になってくると、仏教も個人としての信仰とか生きざまとかがテーマになってくるのである。平安時代のいわば藤原氏の「一党独裁」の安定した戦乱のない時代から、源平の争い以降、応仁の乱などへと続く戦が常態の時代に入って行き、個人にとって明日の生き死にが重大な関心になってくるのである。

 だから武士を中心にして禅が流行する。死を恐れない自分、死を越えた自分が意識されるようになるからである。
 それゆえに、五山の禅僧らは自分の気持ち、感情、考えを述べる。そのいわば個人の解放に、「中世の華やぎ」があるのである。

 別言すれば本稿初回に述べたように、「華やぎ」とは思想性であり、誇りであるとも言えようか。
 五山文学には、書いたら褒めてもらいたいという野心や見栄はない。
 禅の思想と言えば、本来の釈迦の教えに回帰させようとの意図があった。菩薩だの観音だの、加持祈祷に縋るのではなく、釈迦は自分以外を頼るなと言っている。自ら努力するだけ。それが本来的には釈迦直伝の教えであった。

 恩師・坂部先生は「心の自由自在」と述べている。そのとおりに、平安時代にはそうした心の自由自在はほとんどなかった。仏教とて、平安時代は個人的修行に没入できる環境ではなかった。鎮護国家のための仏教だったからだ。

 後述するが、私は今回の京都旅行の最初に鞍馬寺に赴いたのだが、鞍馬寺は義経の幼少期に預けられた寺ではあるが、平安時代のことなのだからあれは本質は鎮護国家の寺なのである。京の西北の鬼門に対する備えとして開山されたのであった。個人の修行のため、安寧を得るためではない。

 再三言うように、平安時代以降は義経の登場以後、日本は戦乱に巻き込まれていった。一言で言えば、武士の、あるいは野盗の跋扈する社会。禅はそのシビアな、戦闘での死を想定しながら、如何に生きるか、如何に死ぬかを彼らは直視するために、頼りにされた。
 頼りにするとは変な言い方になるが、自分自身の戦闘力や集団の武力以外に頼れるものを求めるのが、自然であろう。

 当時の武士たちは、戦闘そのものや死を、ただの野垂れ死ににしたくなかったのだ。そこに武人の精神性の高みが生まれた。貴族は宇治平等院に見るように、死というものを空想(妄想)でしかない極楽浄土を望んで、菩薩だの観音だのに縋った。先の『源氏物語』もそんな人間ばかり登場する。

 今からいえば醜態である。今日でもひたすら鉦や太鼓を連打して仏にすがる宗派があるが、みっともないことである。
 だが武人たちはそうはいかない。自分が人を殺していくのだから、極楽には行けそうもない。

 どうしたら心の安寧が得られるかは真剣、切実な課題なのだ。自分の行為を精神性の高みに置こうと考えたのである。
 その武人たちのレベルこそが、禅を高みに引き上げ、五山文学や、「風雅和歌集」や、枯山水や、能を生み、天皇ですらが光厳院に見られるように「責任」を取るまでに高まった。

 光厳院が創建した常照皇寺の“正気(せいき)”は、こうした社会を反映しているから、今日も人を圧倒する。「中世の華やぎ」がある。
 五山文学の担い手は、日本の精神界の開拓者だった。龍安寺の石庭はどうしても、そうした視点で捉えなければ、ただの砂利の庭になってしまう。

 五山文学は日本人がこの時期に人間に目覚めたことを示しているのである。
 仏教は堕落し、死んだら神様・仏様が救ってくださると、平安時代まっさかりの平等院当時の思想そのまま受け継いでいる信徒たちが今も多い。

 その意味では自分以外頼るなとの思想性を把持する五山文学に共鳴する人間、あるいは龍安寺石庭を理解する人間は今もすくないことになる。




 

posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする