2015年11月30日

ウィッシュフルシンキングの罠(1/2)


《1》
 wishful thinkingとは希望的観測、とか甘い考えなどと訳される。
 これは以下の「チャンネル桜」の動画で、評論家の伊藤貫氏の「米中衝突は起こらない」の中で彼が説明していた言葉だ。
https://www.youtube.com/watch?v=Kla8vz0fx-U

 「こうあってほしい」が「こうにちがいない」に入れ替わるというか、現実を思い込みで間違えて認識してしまうことを指している。アメリカの政治家や知識人は軒並み(伝統的に)、支那に対してwishful thinkingになる傾向が強いと伊藤氏は言う。

 支那は今は共産党独裁国家で民度も低いが、いずれ国際社会と協調することで、民主主義に目覚め世界をリードする国家になるだろうというのだ。いくら嘘つきと言っても、ボクとの親愛関係なら本当のことを言うだろう、とか。約束したんだからきっと守ってくれるさ、とか。

 日本にも副島隆彦や経団連の財界人など、媚中派がゴロゴロいて、wishful thinkingをかましている。
 先の安保法案反対をわめいた護憲派サヨクも、見事にwishful thinkingに凝りかたまっている。日本が支那、韓国などを刺激したり逆らったりしさえしなければ、平和なんだという考えがまさにそれ。

 動画で伊藤貫氏の語る「米中衝突は起こらない アメリカが日本を守らない理由」は、とても勉強になった。
 伊藤氏は、肩書きは国際政治・米国金融アナリストとなっていて、ワシントンD.C.に在住しており、ときどき日本に来る。

 アメリカは、ほんの0.5%のトップの富裕層が、アメリカ上院・下院の議員たちへの巨額の政治資金を援助していて、政治は彼らの思うままに操られると説いている。伊藤氏は決して0.5%のトップの富裕層がユダヤ人であることを言わないが…。

 そのとおりで、戦争するかどうかの最終決定権は大統領にはない。その大統領を選ぶのも、民衆が決めるのではなく、0.5%のトップの富裕層が決めている。
 0.5%のトップの支配層が、大統領を始め政治家を支配するのはカネ儲けのためであって、平和とか人類の幸福とか貧困の追放とかでは決してない。彼らは支那で大儲けしたいだけのなのである。支那共産党支配層も志を同じくする。テメエたちさえ儲かればいい。

 だから支那は南沙諸島や尖閣諸島で侵略を仕掛けてきて、覇権を唱えてきているが、アメリカの支配層はこれからの支那の市場は有望で、しかもアメリカ国債を大量に保有してくれているから、口先だけ南支那海の支那の勝手放題を咎めはするが、断固阻止することはあり得ない。

 先日、アメリカは一隻だけイージス艦を南沙諸島へ派遣して、いわゆる支那が主張する領海近くを航行してみせたが、まったく事を構える気がない。あれは日本向けにサービスして見せたにすぎない。相変わらず支那は着々と人工島に軍事施設を建設しつづけている。
 これはオバマ大統領が優柔不断だからと言う向きもあるが、大統領の意志なんか関係なく、すべてはユダヤ国際金融資本の意向で決まっていくのである。

 米中自身は決して衝突しないが、両者が仕組んで日本を日支戦争に引き込むことはあり得る。
 そういうことを伊藤氏は(ユダヤを抜きに)語っている。

 それが世界の厳しい現実である。支那はアメリカはもちろん、東南アジア諸国の政府、日本や韓国の政府にカネを使ったり、ハニートラップを仕掛けたりして籠絡して、媚中人間を創り、意のままに動かす。

 カネと女で正義とか民衆の利益とかは容易く踏みにじられ、そうして世界を支那が創り出しているし、これからますますそうなる。
 だから決して米中の衝突なんか起きるわけがない。米中で日本を潰すか、利用しようとするだけである。

 媚中・副島隆彦は『中国 赤い資本主義は平和な帝国を目指す』(ビジネス社)を2008年に書いた。これのどこが平和な帝国なの? アホか。
 だが、いかに支那が悪辣をやらかしても、アメリカは必ず許し、アジア諸国は、その指導層が買収されているから、言いなりになる。
 その政治状況を指して「平和な帝国」というのなら、皮肉な話である。
 
 本ブログでも何度かとりあげたが、媚中副島は支那共産党トップを「善人」と「悪人」という風にふたつのカテゴリィに分類している。胡錦濤、温家宝、李克強らが改革派だから「善人」、江沢民、李鵬、羅干、曽慶紅、賈慶林、周永康らを「ワル」と断定している。なぜそういえるかの根拠は何も示さない。
 その後、副島が絶賛した「善人」がどれほどのワルだったか分かっても、副島は知らんぷりだ。

 宮崎正弘氏は、中国の指導者に「善人」と「悪人」は分類法として間違いであり、「悪い」か「もっと悪い」の二分類しかない、と言い切っている。その通りである。宮崎氏のほうが副島よりはるかに支那を知り尽くしているからである。

 この伊藤貫氏がしゃべる動画を見ると、彼がアメリカ人と相互浸透していると感じられる。日本のことは他人事のようにへらへら語っているのが、不快である。また、語り口が気障だ。アメリカ人ふうな喋り方がかっこいいと思っているからだろう。
 さらに「あのー、あのー」が耳障り。アメリカ人はしゃべるとき、やたらとこの手の「えーと」とか「あのー」とかを(むろん英語で)入れているが、それがうつっているのだろう。

 アメリカ人は、映画で見るとあれはセリフだからすらすらとよどみなく言葉をしゃべっているが、テレビ等でインタビューに答えるアメリカ人を見ると、実に聴き取りにくい「えー」や「あのー」が多くなっている。そういう人間がとても多いように感じる。英語そのものが曖昧なだけにしゃべりながら、適切と思われる言葉を探しながらになるので、「えー」などと言いながら考えてしまうのではないか。

 これは言語はしょせんというか認識を外化するものだから、どうしても若干のタイムラグが生じるのはやむを得ない。認識は刻一刻と変化しているし、像のなかから瞬時に言葉を選ばなければならないからだ。その場合に、言語自体の特性と、それを使う(語る)の回転の良し悪しの二重構造になるのだろう。

 そういう訓練をきちんとしないと、言葉をよどみなく語る実力はつかない。これも訓練次第なのである。アメリカは歴史が浅く、伝統文化がないから、しゃべり方も適当になる。子供のときから理屈をこねることは訓練されても、正確かつ美しくしゃべるかはダメなのだろう。

 文章を書く場合は、手で書いていく際にはある漢字なら漢字を書いて行く間(時間)にもろもろの思いや感情が駆け巡るというか、豊かに動くから、味わいのある文章にしあがっていくが、パソコンなどで指だけ動かして一瞬である漢字がパッと現れてくれると、ゆっくり自分の像を味わう間がなくなってしまう。

 しかも書く道具が、毛筆か万年筆か、ボールペンか鉛筆かによってもずいぶん像の豊かさは変わってくる。
 話を戻せば、どういうわけかアメリカ人は喋るのが下手なのだと思う。澱みがありすぎる。伊藤氏の喋り方もだから相互浸透した結果なのではないかと思われる。




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2015年11月26日

さりげない写真にも感動


 東北地方に住む若い母親からお子さんの写真がメールで送られてきた。
 1歳3カ月になる女の子で、今は親のしたことを真似したり、テレビを見てダンスをいっしょにやったりするようになっている、と添え書きがしてあった。

 1枚は、紅葉の野山を背景に女児が蝋石か何かで、道に絵になっていない絵を描いて、ニコッとしているもの。もう一枚は、公園で地面にアンパンマンのマットを敷いて座り、お母さんがつくった海苔のおむすびを食べているものである。

 たいていの人は、まあ、かわいいね、とか、大きくなったね、と言うであろう。それで別にどうということはない。
 私は女児が赤ちゃんのときから写真をときどき送ってもらっているから、その都度見せてもらって感謝してきたし、良い所を見ては褒めてきた。

 で、なぜその程度の私的写真を取り上げるかと言えば。私はその都度、感動すると言いたいのである。そういうと、感動? 何をおおげさな、テメエの子でも孫でもないのに…と言われるだろう。
 気の毒にその低度の感性では、「人生意気に感ず」もわかるまい。

 私は女児の髪の毛を結んでいるゴムの髪留めにも感動している。女児がかぶりついている海苔のおむすびにも感動しているし、アンパンマンの敷物にも感動している。
 女児の髪の毛が前にかかるのを防ぐために、お母さんが飾りゴムで止めてあげているのである。それに感動しないでいられようか?

 海苔のおむすびも、おかあさんがどんな思いで女児のためにおいしくて食べやすい握り方をしただろうと思うと、ジーンとなる。
 その子が特別かわいいとかいうわけではない。街で見知らぬ幼児を見ても、私は感動してしまうほどだ。

 世の中には弁証法について、「弁証法の根幹は二項対立にある」などと勝手に定義している方もいるやに聞くが、弁証法はいかにも論理ではあるが、同時に感動であることを忘れては、絶対に自家薬籠中のものにはならない、つまり駆使することはできない。
 と言っても、何?弁証法が感動だと? 笑わせるな、という反応が返ってきそうだ。

 しかし、考えてみられたい。男性が女性と結婚するのは単に子孫を残すためだけか? 同衾するためだけか? 戸籍に名前を書くためか? それなら獣と変わりはない。異性に感動するから(したから)結婚したいと願うのである。結婚する相手に、その美しさとか、教養とか、立ち居振る舞いとかに感動を覚えなければ、獣の交尾と変わりはない。

 感動がなくなれば、夫婦互いにどんなエロティックな仕草をしたところでセックスする気になるものではあるまい。

 弁証法の修得も、異性と結婚する例でわかってほしいが、豊かな感性がなければ、理解も駆使もできないのであって、結婚してもすぐ破滅するようなざまとなる。
 受験勉強で育ってきた者は、勉強が感動であるとは思ってもいまい。志望校に合格した時だけは感動かもしれないが…ではないのか。

 先日、NHKの女子アナ・寺門亜衣子を取り上げて褒めた。彼女はきっと始終感動しているだろうと思う。仕事上でやむを得ず笑ったり驚いたりもしているだろうが、あのくるくるとかわいらしく変わる表情は、感動しているからこそだと思う。

 私は別に無理して、他人様の幼児の写真に感動しているふりをしているのではない。見れば感動しているのである。
 これはわが流派で教わったことであって、感性豊かになるには、感動しまくらなければいけないと教わったからだ。
 感動すれば、顔の表情が動くはずである。目は輝き、ホウレイ線は消え、額に光が刺し込む…となる。

 だから、ささいなことにでも感動するようにしてきた。
 朝焼けを見て感動、空の雲を見て感動、風の冷たさに感動、パソコンが文字を打ってくれるのに感動するのだ。
 先日、ある方に南郷先生の著書の一節をメールしてみたが、無視だった。「は? それがどうした」という反応だった。

 南郷先生の文章を見ただけでジーンと来ないようなら、「ご愁傷様」とでも言うほかない。
 他事ながら、小学校から大学まで、教員は子供を感動させないから、落ちこぼれが出たり、受験で失敗したり、イジメが起きたりするのである。先生が語る一字一句に感動している子ならば、人生失敗するはずがなかろう。

 世間には、人のあら捜しをして喜んでいるアホがいる。自分のほうが上だ、頭はいい、なんでも知っている…と思いたいのであろう。
 人を誹って、よしんばそれがいかにもアラであったり、間違いであったとしても、そういう人のあら捜しを好む人は、感動するという大事な人間にとっての宝をドブに棄てていることに気付かない。

 卑近な例を挙げてみようか。もしここに力士になって将来は大相撲の横綱になりたいと夢を抱いている青年がいたとする。その彼は白鵬の大ファンだとしよう。白鵬が好きで尊敬し、相撲の技だけでなく、話し方から顔つき、食うものまで真似たいと思うであろう。
 国技館に出向いて白鵬を見るだけで感動し、テレビで見ても感動するだろう。

 白鵬の欠点や悪口はいっさい耳に入らない。白鵬が負けても負けっぷりがいいと感動し、「猫だまし」をやればやったで、「すごい余裕だ」と感動し…である。
 だが、むろんそんな人ばかりではない。冷静に白鵬を見て批判する人もいる。で、それが悪いとか良いとかではない。批判する人は正しかろうが、感動は棄てている。白鵬にのぼせ上がって、なににでも感動している青年が馬鹿に見えるだろう。

 でもその白鵬命の青年は、日々感動そのもので過ごし、相撲の稽古も自分は白鵬と同じ相撲ができていると感動しながらやるから、いささかも稽古が辛くない。人が1時間練習するところを2倍も3倍もやっても苦にならない。
 となれば、上達も早いし、顔つきももっと白鵬に認めてもらえるくらいになろうと必死に日々を過ごす。彼にとっては白鵬の欠点などどうでもよく、自分が白鵬化したいだけなのだ。

 白鵬を冷静に見て、あいつだって土俵を降りればただの人さ、と思っている人間は、正しさは手に入れるかもしれないが、感動を失うから、一度しかない貴重な人生で、ある成果を挙げるとか一芸に秀でるとかは、得られずに終わるのである。
 人の揚げ足とりだけはうまくなるが、人からは好かれない。

 ややもすれば、受験戦争で勝ち抜いた人間、勝てなかったがそれに没頭した人間は、感動の重要性がわからない。感動したいと思っていない。ものごとは正しいか正しくないかしか判断の基準を持てない。なにせ受験はそういう模範解答だけを信じるアタマになるし、なじんでしまうからだ。
 そんな受験秀才ばかりが、官僚になり大企業の会社員になって、日本はつまらなくなった。

 話はちょっと違うが、先日、毎日新聞の「余録」というコラムで、現在東京で開催されている「藤田嗣治展」を取り上げていた。藤田はパリで成功した画家だったのに、どういうわけか戦時中に日本に戻って来てたくさんの「戦争協力画」を描いた。なんでそんな(愚かな)ことをやったか、真意はなんだったのか…、と書いている。

 この「余録」コラムを執筆した論説委員は、これぞ受験勉強で創られたアタマの典型である。彼の言う「真意」なるもの、つまり正解があるはずだと思っている。1+1は2でなければいけない、それ以外は間違いだと信じ込んでいるようなものだ。藝術も1+1が2でなければいけないというのだ。アホか。

 1+1がゼロになったり、3になったり、やっぱり1だったりするのがこの世界であるのに。毎日新聞の論説委員は、戦争は悪だ、戦争に協力することは悪だ、としかアタマが働かない。

 感動は算数みたいなわけにはいかない。受験勉強とは規格外のことだ。受験勉強だけでアタマもココロも創った輩は、冒頭に書いたように、幼児の髪を止めているゴムに感動することがわからないのである。





 

posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2015年11月25日

白人崇拝で曇る目


 日本人の、とりわけマスゴミの記者どもの欧米崇拝にはうんざりすることが多い。
 以下は毎日新聞11月24日付の1面に仰々しく掲載されたコラムで、「英王立防衛安全保障研究所のトム・キーティング金融犯罪・安全研究センター長に、テロ資金を巡る現状や対策を聞いた」との内容である。
 日本のチンケな新聞が、白人を奉っている醜態をみてほしい。

     *    *    *

 ◇国境超えた情報共有を
 過激派組織「イスラム国」(IS)は住民への課税や石油密輸によって支配域内で資金を稼いでおり、資金源を断つのは容易ではない。空爆で石油関連施設や輸送車両を破壊し、収入の半分を占めるとみられる石油密輸を妨害するしかないだろう。
 (中略)

 ほとんどの国でテロ組織への資金提供が処罰対象になるなど法整備は進んだが、有効打になっていない。欧州連合(EU)での情報共有の仕組みは整備されつつあるが、中東など域外と情報交換するネットワークは不十分だ。国境を超えた情報共有の仕組みを構築しない限りテロ組織に後れを取る。組織ごとに資金源も異なり、対策を練る必要がある。

     *    *    *

 英王立防衛安全保障研究所所長という肩書きで恐れ入っているようだが、ほんと、間抜けな新聞だ。昔からイギリスは海洋国家であるし、海賊国家だったから、その伝統でこうした情報機関は充実している。イギリスの国益にかなうように、世界中から情報を集め、工作している。

 そういうスパイ組織のひとつが、各国に情報提供しろと言って、実現するとでも思っているのか、毎日新聞は?
 イスラム過激派のテロ対策だと、錦の御旗を掲げたら、そうだそうだと世界中の国が貴重な情報を提供しあうと信じるのは、おそらく日本だけ。

 「国境を超えた情報共有の仕組みを構築」することが大事だから、日本も進んでこれに協力して、テロを防がねばならない、と三流左翼新聞は、安倍政権にもの申しているわけだ。日本だけが貴重な情報をアメリカやEUに渡せと? こういうのは所詮建前だけだ。
 各国いろいろ事情もあり、思惑もあって、そういうことが出来ないのだから、反面で「自称イスラム国」が跋扈できるのである。

 あるいは「自称イスラム国」を跋扈させるために、国事に嘘の情報を流したり、ときに本当を知らせたりしている。
 例えば、トルコの力を弱めようとしてイスラエルがイスラム過激派の嘘情報をトルコに渡すとか、もしくは敵対しているイランに本当の情報を渡して、それが却ってトルコを弱体化させるためだったり、入り乱れている。

 またそれぞれの国は、仮に「自称イスラム国」がテロを起こして何百人が死のうと知ったことではなく、一応つきあいで哀悼の意を表明するだけだ。
 イスラム過激派を自分たちの都合で利用したり、敵対してみせたり、情報を売ったり、なんでもありをガンガンやっている。
 そういう現実を新聞記者は知りもしないで、馬鹿の一つ覚えで、「英専門家」のご見解を拝聴つかまつってくる。

 こんな程度の常識は、スパイ小説でも読めばわかるようになる。スパイ小説は、元スパイが退職後に本当にあった話を、脚色して小説に仕立てるケースがままあって、そのままの事実では明らかにはされないが、一般的な話として読めば、その恐ろしい世界がわかってくる。新聞記者はそういう勉強すらしていない。

 冷戦時代にソ連の原潜がアメリカに亡命した事件があったが、メディアには徹底して伏せられた。すべては闇から闇。公式記録にはいっさい残らない。のちに小説と映画になった。ショーン・コネリーが主演した「レッド・オクトーバーを追え!」はその実話が元になっているはずで、しかし完全なフィクション仕立てにしてある。

 それから過激派の資金元が、住民への課税や石油密輸、テロリストの個人的借金だと記事に書いてあるが、そういう例がないではないだろうが、奴らが本当のことがバレるようなへまはしない。
 どこかの国の諜報機関や、民間軍事会社、支那共産党などが、さまざまな思惑で自称にカネや武器を渡しているのであり、絶対に表沙汰にはなってこない。

 日本でいうなら、政治家や大企業が自分では手をくだせない闇の取引のために、暴力団にカネを渡して殺人やら恐喝やらをやらせている。それと同様のことが、アルカイダやISや北朝鮮工作員やらを使って世界規模で行なわれている。
 そんな資金は表には出てくるわけがない。

 児玉誉士夫の闇のすべてを、日本の司法は明らかにできなかったし、明らかにする気もなかったし、手を付けようとした者がいたら、殺されていたにちがいないのである。マスゴミだって追及できなかったではないか。

 テロリスト個人が街金からカネを借りて…小遣いで手榴弾を買った…という例は先にも言ったようにないではないだろうが、こんなことを真面目に信じている毎日新聞記者が嗤いものになるだけである。
 白人を正義の味方と思っているかぎり、毎日新聞記者のアホは直らない。





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2015年11月24日

靖国神社でテロ


 11月23日に、靖国神社の公衆トイレで爆発が起きた。
 ところが毎日新聞は、「爆発音」となっているので、驚かされた。

     *    *    *

爆発音:靖国神社で トイレにリード線など(毎日新聞 2015年11月24日)
 23日午前10時ごろ、靖国神社(東京都千代田区九段北)の職員から「爆発音があり、煙が出ている」と110番があった。警視庁麹町署員が駆けつけると、神社の南門付近にある男性用公衆トイレの個室内に何かが燃えたような痕跡があり、乾電池や金属パイプ、リード線などが見つかった。けが人はなかった。同庁公安部は時限式発火装置を使った可能性があるとみて捜査本部を設置した。【堀智行、山崎征克、太田誠一、深津誠】

     *    *    *

 「爆発音」とはいったいどういう神経しているのか、このサヨクどもは。朝日新聞も「爆発音」と表現している。
 実体がなく機能だけだった、みたいな摩訶不思議な文章である。そりゃあ、幽霊か、とチャチャを入れたくなる。
 毎日新聞としては「音がした」ということだけにしたいらしい。アホか。
 
 爆弾(あるいは発火装置)が仕掛けられて、爆発したから爆発音が聞こえた、のである。その前提を飛ばして「音だけ」とはいかなることか。記者どもは小学校の理科すら学習してこなかったようだ。
 しかも一面では扱わず、社会面で書かれていた。
 これがどこかほかのところ、東京駅とかスカイツリーとか、羽田空港で爆発があったら、きっと一面トップの記事にしていたろうに、靖国ならば、「いいきみだ」という意識が働いたに違いない。

 毎日新聞ではこの日は新嘗祭が行なわれていたとは一応書いてはいるが、新嘗祭とはどういう行事かは無視。そういう記事でいのか。
 新嘗祭は収穫した農作物を神に奉納し感謝する祭りである。現在は勤労感謝の日になっているが、元は日本古来の神事で、11月23日に、宮中にて天皇が五穀の新穀を神に捧げ、自ら食して、その年の収穫に感謝する。

 全国の神社でなんらかの形で行なわれているはずである。あえてそういう日を選んで爆発物を仕掛けて起爆させたのだから悪質である。
 まだ詳細は不明であるが、犯人の見当は、ザイニチの支那人、韓国人、北朝鮮人、共産党、革マルや中核派など反日勢力が考えられ、もしかすると皇太子妃が? とも思わざるをえない背景すらある。

 あるいは、イスラム過激派が、ついに日本でもテロか? とも考えられるし、逆にユダヤ勢力がイスラムの犯行に見せかけて日本に中東への派兵を誘導しようとしているのかもしれない、などなど、いくらでも想像は膨らませることができる。

 単なる愉快犯のいたずらかもしれないが…。
 さまざまに推察されるのだから、おざなりの悪意をもった報道はいけない。




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2015年11月23日

元禄、好色ばなし


 本稿は、旧心に青雲(2007年)の再録。

 たまには色香の話をしてみたい。
 諸外国の事情はともかく、わが国においては、女性は性的なことがらに関しては、慎み深いことをもって良しとされてきた。近年は欧米の影響や、マスコミの愚民雑誌やTV番組などのせいで、女性は“解放”されてきて、肌の露出も際立ってきている。

私は(古い人間なのでしょうか)シンクロ水泳、フィギュアスケート、女子レスリング、体操競技などで、若い女性が半裸で大股を広げる傾向を決して好ましいとは思っていないのだけれど、むしろ女性のほうが肌解放というか性解放に積極的で、驚かされる。

 女より男が好色だと言われてきたが、実際はウソで、むしろ女性のほうが一般的には色事は好きだと思われるが、これまでは規範に縛られ、自重してきただけであろうと思う。

 瀬戸内寂聴が、仏門に入ってその説法がえらく人気が出ているそうだが、彼女の担当をしていた編集者の言うところでは、若いころは性の欲求が強すぎて、それこそ煩悩に狂わんばかりになってしまうため、もうこれは自分を殺すために仏門に入って男断ちをするしかない、と思い詰めての行動だったはず、と聞いたことがある。

 昨今流行の「できちゃった結婚」も、要するに女性も前後の見境なく快楽を受け入れてしまうからだろう。本来女性は色事を避けるものではないのだから、タガが外れればこうなる。
 和服は、見たところ、胸の膨らみを隠すように、締め付けて着る。女性の性的魅力である胸の膨らみをキツく締め付けて隠すという服はやや異様である。イスラム女性も隠すには隠すが、ゆったりした衣服である。なぜ隠す?

 あれがファッションとなったのは、江戸時代も元禄、徳川綱吉の時代であった。綱吉の側用人(のち大老格)・柳沢吉保が武家の妻や娘に通達した結果である。柳沢吉保は五代将軍・徳川綱吉が館林藩主だった時代から小姓として仕え、将軍になったあとの一身に寵愛を受けた。綱吉と吉保は濃厚な男色で、それが二人だけの趣味趣向なら構わなかったが、のちの日本史を左右するほどに重大な影響を与えた。

 綱吉は自身の愛妾・染子を柳沢吉保にくれてやった。吉保は拝領された染子を側室としたが、その後も染子は綱吉の寝所に呼ばれたという。柳沢の長男・吉里は実は綱吉と染子の子とされる。柳沢吉保は綱吉から現在の六義園を拝領したが、この庭園に吉野から運ばせた桜を、側室の名前にちなんで「染井吉野」と名づけたという説もある。染井村の園芸屋が品種改良したなんてウソだろう。

 柳沢はこの染子が綱吉の寝所に呼ばれるのを利用して、染子に寝物語で甲府に百万石の領地を下賜してくれるよう願いでた。この件は綱吉が快諾したものの綱吉の死去により実現しなかった。この事態を重くみた幕閣は、以後、将軍が大奥で寝る際は、同衾する女とは別に2名の女に寝ずの番をさせ、すべてを事後報告させることになった。色仕掛けでとんでもないことが決められたら事だからで、これは徳川幕府終焉まで続けられた。二人の女に側で見つめられながらなさる将軍にはチト同情するが。
 
 柳沢吉保の長男ら5人の息子が、それぞれなんらかの形で藩主となり、多くは幕末まで存続した。柳沢は館林の一介の藩士の末子だったのだから、大変な栄達である。その秘密が綱吉とのホモ関係にあった。息子がみんな藩主になれたのも、将軍の後ろ盾があったればこそなのだが、柳沢自身が大変なゴマスリで、簡単に言えば、地位と領地が欲しがる野望家だった。

 そこで。
 大名は、世継ぎがいないと家督相続ができず、取り潰しになる。取り潰しになれば、その領地は幕府が取り上げ、天領にするか、別の人間を藩主に据える。だから、大名に世継ぎさえ生まれなければ、徳川家の天領が増えるし、自分にもその領地が下賜され、頂けるチャンスが来ると睨んだ。

 もともと柳沢はホモでもあったから、躊躇なく諸大名にできるだけ世継ぎを作らないよう働きかけた。その一つが儒学者・貝原益軒の『養生訓』の利用であった。

 貝原益軒は冴えない福岡藩士だったが、将軍綱吉がホモで、幕臣が寝所におなごを送りこんでも、ちょろっと女体に挨拶するだけで、とどめは側に尻を出させておいた童子のほうへする性癖があると聞き及んで、「女体は前戯だけがよろしい」などと、綱吉へのおべんちゃら本を書いた。それが何の科学的根拠もない『養生訓』であった。これを藩主・黒田綱政が綱吉に献上した。『養生訓』のなかで、長生きしたければ男子たるもの「接して漏らさず」がいいのだとあるのに感心した綱吉は、自分への御機嫌取りとも知らず、これを「将軍推薦本」にした。

 ちなみに八切止夫『大江戸意外史』にはこうある。
 「綱吉は“2万8千人”の千代田城大奥ハーレムの中の、唯一人の男性として『博愛を衆に及ばせねばならぬ。まあ出さずでよいのだから、口明けだけはしてやるが、仏教でいう衆生斉度であろう』と、烈しい時には、ずらり十余人も一列横隊に並べて寝かせておき(中略)一突きずつしたともいわれる。だから64歳まで千人斬りどころか万人突きをしてのけたが、肝心の生命の水は注入していなかったゆえ、世継ぎにさせる子には恵まれていない」

 そ、そんなことが可能なのか? しかし、その気にさせただけで、撤収されてしまう女のほうも、やりきれまいに…。
 さて、柳沢吉保も綱吉の意向に加担して、殿様の種まきを自重するよう、また、しきりに男色を奨励した。よって諸大名のほうも、長生きできるなら…と「女体は前戯用」にし、稚児趣味を貫く。

 実際、綱吉時代に、世継ぎ不在にためにお家断絶になった大名は多く、10以上になったという。大名の正室はというと、気の毒なことに夫である殿様とは同衾することはあっても、なかなか産ませてはもらえない。なぜかというと、例えば将軍家と縁のある娘だとか、由緒ある家柄の娘だと、これを妊娠させるような行為をし、いざ出産のときに産褥熱などで死なせてしまったら一大事なのである。だから万一正妻が妊娠したら、構わずせっせと中絶していた。だから心おきなくチャレンジするには(万一死んでもいい?)側室を使った。

 その側室にさえ、柳沢吉保は接しても漏らすなと言ったのである。さらに、『ねやにて慎みのこと』として、柳沢は「一ツ、よがり声をあげてはならぬ。二ツ、もう少しなどと延引は不可。三ツ、恥じらいを旨として受け身のこと。四ツ、感ずるのは、はしたなき業(さが)なり」と“通達”を出したと『大江戸意外史』にある。こんなことにまで介入するとは余計なお世話だと思うけれど、それは一つには彼がホモだからであり、もう一つは政略だったのだ。女性に、あのことは恥ずかしいことだという観念は、こうやって植え付けられた。

 この施政方針の一環として、冒頭に述べたように、乳房が盛り上がって見えることにないよう和服はきっちり胸をしめつけて、男の欲情を刺激しないようにせよ、となったのである。またこのころに、柳沢が貝原益軒のほかにも、荻生徂徠のような儒学者を使い、「女は三界に家なし」(三界とは、欲界、色界、無色界のこと)と言わせ、「女大学」というパンフレットで封建的な女子教育を徹底させた。

(「女大学」の全文が下記で読める。http://www.tanken.com/onnadaigaku.html
 現在も、女性の和服は柳沢の通達にしたがって、胸を小さく見せる仕様となっている。が、しかし、そのおかげで日本女性の色気が磨かれたのではないか。例えば和服の女の襟あし、裾、手首からチラッと見える白い肌や、ちょっとした仕草がかえって色気を醸しだすことになったのであって、西洋人やアジア人にはない独自の色香文化を育んだ。
 




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2015年11月21日

パリの空の下、無辜の血は流れる


 パリで同時多発テロが起き、多数の死者が出た。世界が震撼しているとマスゴミは報じる。
 亡くなられた方に哀悼の意を評するのは当然ではあるが、これはわが国にとっては僥倖ともいうべき事件であった。
 日本もテロの標的になる、なにせ米軍基地があって集団的自衛権を行使して居るんだから、恐ろしいことになるとサヨクは騒ぐ。

 日本もテロの標的になる可能性はないわけではないが、私にはむしろ日本に「神風」が吹いたと思える。

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谷垣・自民幹事長:「共謀罪検討を」 テロ対策の一環

 自民党の谷垣禎一幹事長は17日の記者会見で、国内テロ対策の一環として重大犯罪について謀議をした段階で罪に問える「共謀罪」創設などを早期に検討する必要があるとの認識を示した。パリの同時多発テロ事件を受けた発言。ただ、共謀罪は実行行為がなくても処罰対象になるため、野党や日本弁護士連合会の反発が強い。政府は、共謀罪を含む組織犯罪処罰法改正案の提出時期を慎重に検討する考えだ。

 谷垣氏は「来年5月に伊勢志摩サミット(主要国首脳会議)を開く。前から法改正は必要と思っている」と強調した。共謀罪を巡っては2000年11月の国連総会で「国際組織犯罪防止条約」が採択され、日本も同年12月に署名している。高村正彦副総裁は17日の党役員連絡会で「日本は国内法が整備されていないので批准できていない」と指摘した。【田中裕之】毎日新聞 2015年11月18日付

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 パリのテロ事件は、谷垣幹事長が発言したような共謀罪、外患誘致罪、スパイ防止法などの新設や改訂を促すことになると期待される。
 共謀罪とは重大犯罪の謀議に加わっただけで処罰対象となるのだ。
 これまで共謀罪新設のための組織犯罪処罰法改正案は3度提出されたが、いずれもサヨク野党の反対で廃案となっている。

 さっそく民主党の枝野幸男幹事長は、谷垣発言について「とんでもない、論外だ」と反発した。中共や南北朝鮮のポチだから、こういう反応しかできない。
 同様に日弁連は、すでに中共や南北朝鮮が入り込んでいるから、共謀罪新設には猛反対する。テメエたちが活動しにくくなるからだ。

 パリのテロ事件の場合、フランスであれば、テロ実行犯だけでなく、彼らに協力したり、謀議に参加しただけで逮捕されようが、日本では野放しである。法がなければテロは防げない。
 サヨク民主党や日弁連はそういう犯罪者が野放しになる社会でいいというのか?

 パリの事件で、さっそく谷垣幹事長が反応したのは、嬉しいニュースである。
 共謀罪でテロをふせぐのは欧米では常識なのだから、さっさと新設したらいいのだ。
テロを未然に防ぐためには、重要なのは敵の情報である。テロリストの動向を把握する上で外国情報機関との連携が不可欠であり、これを担う自前の対外情報機関の創設も喫緊の課題である。

 敵が「グローバル・ジハード」と称して、全面戦争を呼号して来ているのだし、世界規模で戦うしかない。
 各国との諜報を共有し提供しあうには、日本がザルでは各国とも協力してくれない。今のままでは日本が国際テロ防止の国際網の穴になってしまう。
 伊勢志摩サミットも控え、国際的に信用される刑法の整備が必要だ。

 そういう流れに、パリのテロは棹さしてくれたのだ。
 サヨク野党や日弁連が抵抗しても、パリの悲惨なありさまは、法整備に向けて強力な後押しをしてくれる。

 そればかりではなく、移民難民を積極的に受け入れろなどと抜かす「人権派サヨク」にも打撃だったろう。フランスでは移民難民を大量に受け入れるから、イスラムテロリストを招き入れることになった。
 今度のテロ現場の映像をテレビで見ると、フランスの警察や軍隊にはずいぶん黒人が混ざっている。これでは人種のごった煮社会だから、イスラムの人間も目立たなくなり、街中に潜入しやすい。

 日本では、朝鮮人や支那人は区別がつきにくいから別の意味でやっかいであるが、日本社会に紛れ込みやすい。だから特亜の連中には少なくとも「通名」は使わせてはならない。また日本人と同じ学校にも通わせるべきではない。

 パリの事件でも、あれはまたISの犯行ではなくて、フランスとかアメリカがイスラムの犯行に見せかけるためにやったのだとする意見が出る。その可能性はないではない。なにせ自国民を何百人も犠牲にすれば、誰もが「まさか政府が自国民を殺してまで、イスラムのせいにすることはあるまい」と思うからだ。

 私はそうであってもなくても、どっちでもいい。あれを利用して日本からザイニチを追放する流れになればいいからだ。そうでないと、日本が危ない。
 もともと私はIS(自称イスラム国)は、米英仏、それにイスラエルが支援し、武器を渡し、石油を買ってやっていると思って来た。民間軍事会社もISと行動を供にしているだろう。

 それが証拠に、IS(自称イスラム国)はイスラエルを攻撃しないし、悪口も言わない。イスラム原理主義なら、イスラエルは憎むべき対象のはずが、何もしない。だから要するにISは国際ユダヤ金融資本が背後で操っていると思われる。
 今度のパリのテロも米英仏、イスラエルの自作自演であって、第三次世界大戦への引き金としたいユダヤ金融勢力の陰謀ではないかとも思われる。




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2015年11月20日

寺門亜衣子のすばらしい笑顔


 たまに天気予報を見るためにテレビをつける。夕方、NHKのニュース番組「シブ5時」で寺門亜衣子がいつも笑顔を振りまいている。
 30歳だそうだが、大変かわいい顔をして、小柄なこともあって少女のようである。

 なぜ彼女を取り上げるかというと、その表情の豊かなことを褒めようと思うからだ。
 アナウンサーは、ニュースを読む時は感情を消して淡々とやらなければならないから、とかく無表情になりがちだが、「シブ5時」のようなバラエティー風な番組だと、そういう縛りがないし、むしろ明るく笑いが満ちた番組にしようと、思いのままに表情が創れるのだろう。

 寺門亜衣子は、それこそ刻一刻と表情が変わる。基本は笑顔でありつつ、わざとちょっと怒ったふうを見せたり、悲しそうな顔をしたり、困ったり…それが実に豊かである。
 認識に連動して、表情が変わる。それが激しい。顔の全筋肉をフルに使っているように見える。

 Wikipediaで見ると、小学校時代にアメリカにいたそうで、「ああ、だからか…」と半分は合点がいった。アメリカ人はそもそも英語がお粗末というか…、言葉そのものに感情の豊かさが反映しづらい。
 たとえば、「私は少年です」は、 I am a boy.としか表現できない。日本語の場合は「私」の相当する言葉が「おれ、ぼく、手前、それがし」などなど、無限にある。「です」という語尾だって、無限にある。だからそのときの感情を言葉だけで表現できる。

 英語はその点で不自由だから、彼らはジェスチャーが発達する。はげしく身振り手振りを行なう。と同時に、顔の表情も豊富になる。
 日本人は顔の表情があまり動かさなくても、言葉遣いで用は足りる。だから「能面のような」と評されることにもなる。

 寺門の場合は、多感な小学校高学年のころにアメリカで暮らして、あちらの表情豊かな会話に慣れしたしんだのではないか。それで日本に戻っても、日本人離れした表情の豊かさが出るのであろう。

 日本人は認識が刻一刻変化しても、それが顔にあまり顕われない。笑うべきときでも、多少ニヤッとする程度のことが多い。喜怒哀楽が表に出ない。逆に言うと、あまりに表情が固く固定していくと、認識自体の柔軟性がなくなっていくのではないかと思う。
 とくに老人になるほどに、無表情になる。
 精神病者も表情が失せる。

 寺門亜衣子は、なかばは意識的に営業笑いというか、番組の視聴者に受けるように、表情を豊かにしている面はあるだろうが、それ以上の自然な感じの素晴らしい豊かさである。あざとい感じはない。
 さぞやアタマがいいのだろうと思う。表情が刻々変わってそれがどれも魅力的なのは、それだけアタマの回転が早いからである。
 アタマの回転の速さに、表情がみごとに追いついてくる。

 もういちど逆にいえば、表情の変化が意識的に素早くすれば、アタマの回転も良くなる、という仕掛けであろう。
 皆さんも経験があるだろうが、アタマの悪い人ほど無表情である。私の住む近隣に偏差値の低い学生が集まる専門学校があるが、そこの若い連中を見ると、おしなべて表情がない。ひどいものは焦点がさだまっていない目をしている。
 目が死んでいる。

 ところが寺門は目が生き生きしている。精神的に安定し、充実しているからだろう。

 男は度胸、女は愛嬌というくらいで、女は愛くるしい表情が欠かせない。学業と連動しているだろうが、学業不振の女性であっても、表情を豊かになるよう努めれば、アタマもよくなるし、愛嬌も得られる。良縁にも恵まれるだろう。
 女性がもてたければ、寺門のように表情豊かな顔に創ることだ。

 人間はややもすると、脳を認識の働きだけで使ってしまいがちだ。例えば一日中パソコンをいじる仕事をしている人なんかは、ろくに運動しないで、認識だけ駆使しているから、それも病気を引き起こす原因の一端になると、先日も本ブログで説いたとおりだ。
 脳で認識を駆使しながらも、顔の表情を動かすのは、そうした弊害をかなり少なくするのではないだろうか。

 寺門亜衣子の表情を見ていると、彼女は自分が今どんな笑顔になっているか、どんなむずかしい顔をしているかを刻々と意識しているように見える。実際に鏡は見ていないが、いわばもう一人の自分が(観念的に二重化して)、現実の自分の表情を追っている。そして次にはどんな表情にすれば魅力的かを素早く判断して、表情を創るのだ。早業である。

 豊かな表情を創る努力は、アタマを良くする秘訣の一つである。





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2015年11月19日

清濁合わせ呑むべき社会


 11月4日付の本ブログで「野球選手の賭博への疑問」を書いたが、その後、巨人の3選手は事実上の永久追放処分で野球界を追われた。
 巨人の代表も引責辞任だとか。
 再度言うが、私は別にジャイアンツを贔屓しているわけではないが、この処分は厳し過ぎだ。

 八百長もなく、闇社会とは何の関係もなかったのだから、二度とやるなよと叱る程度でいい。人の人生を全部おしゃかにするほどの罰を与えるとは世知辛い世の中である。

 こういう建前でキレイ事を言うやつは嫌いである。
 プロ野球でも大相撲でも、こういう興業世界はヤクザ抜きに成り立たない。清廉潔白であるはずの(?)NHKが、そうした闇社会とつながっていることが明らかな相撲や野球の中継をやっている。
 歌舞伎や演芸、繁華街の水商売、大型商業施設、もっと言えば土木建築、運輸なども何らかの形で関わりはある。

 マンションの杭打ち不正が話題になっているけれど、(私も確たる証拠はないが)土木建築界からヤクザを追放していった結果ではないかという気がしている。餅屋は餅屋だったのに、大企業や木っ端役人だけで差配するようになって、旧来の秩序(表裏がある社会)が保たれていた土木建築界が“清浄化”されて、動きが悪くなってしまったのではないかと疑っている。

 戦後、なんでも平等が正しい、個人が大事でやってきた。土木建築にはつきものの談合すら禁止し、犯罪にしてしまったために、談合で淘汰されるべき業者が生き残り、アメリカはそれらを使って侵入してきている。市場開放と称して。それがあの杭打ち不正を生んだのではないか。

 ヤクザは元は任侠の世界である。アウトローとも言えようが戦前は俠客と言った。表社会からはみ出した者で裏社会に住んでいるけれど、裏社会で生きていくためには、表社会(カタギ社会)から仕事をもらわないと生存できないわけだから、持ちつ持たれつの関係なのである。
 表社会での人がやりたがらない仕事、汚れる仕事を引き受けてくれていたのが裏社会であり、任侠世界である。

 例えば、罪を犯して刑務所に入れられた人間は、出所してもめったに雇ってくれる人はいない。それは当然だろう。で、そういう社会のはみ出し者を引き取って、それなりに糊口をしのげるようにしてやっているのが、ヤクザの世界である。そういう裏のシステムがなかったら、再犯率はもっと高くなるはずである。

 土木現場は昔から「親方」が仕切っている。親方は、表の大企業担当者とも、ヤクザとも顔が利いて、旨い具合に調整してくれていた。そういう人間がいないと、大企業が巨大な施設を建設しようとしても、サラリーマン感覚では仕切れないのである。ゼネコンのサラリーマンが背広を着て、汚れ仕事をしないで済んでいるのは、汚れる仕事、きつい仕事を差配してくれる親方がいるおかげなのだ。

 大人気を博した渥美清の映画『男はつらいよ』シリーズ、主人公寅さんはヤクザである。今は彼らも「暴力団」の一味みたいに扱われているが、誰も寅さんを暴力団員とは言うまい。寅さんはカタギの世界では困った男ではあろうが、彼らがいなければお祭りは成り立たないではないか。それでは神社や寺は暴力団と付き合いがある、ということか?

 あの映画で見られるように、テキ屋(ヤクザ)は一面では損な役回りを引き受けてくれている。
 終戦直後、第三国人が傍若無人に暴れ回ったときに、警察はGHQの指令で身動きがとれないときに、ヤクザは体を張って朝鮮人暴徒と戦ってくれた。

 焼け跡闇市も、敗戦で物流が混乱しているなか、マーケットを開いてくれたのはヤクザだ。あれがなかったら飢え死にした人は多くなっただろう。闇市には悪質な第三国人の支配するところもあったが、適性価格で物資が販売がされ、女性でも安心して買い物ができる闇市だってあった。

 食品業界なんかでも「抗菌」がやかましく言われ、とにかく菌がいたら大変だとなって女どもが神経質になった。抗菌グッズが馬鹿売れした。トイレもウォシュレットで肛門を清潔にしすぎて、却って肛門に炎症が生じたり、痔が悪化したりする。人間は菌と共生しているのが正しいのに、菌を無くしたらそれこそバランスが崩れる。

 そんなこんなで、博打はやりたくない人はやらなければいいし、遊びでやりたい人は別に止めはしない。野球選手だって同じではないか。八百長に関わるのはいけないが、友人関係で遊ぶくらいは誰でもやっている。巨人の3選手を極悪人のように言うプロ野球機構やマスゴミの記者だって、賭け麻雀や、競馬、パチンコなどやっているくせに。

 島田紳介が芸能界を追われた。あの事件もおかしなものだった。誰が見たって島田紳介がカタギの人間じゃないことは承知していたが、芸が面白ければ許されていたのだ。紳介が別に悪いことをやったわけではなかった。
 右翼団体とトラブルを起こして、それで世話になった知人が山口組の若頭だったというだけの話。刑罰を受けたわけでもなかった。

 これは国会議員が、「日本は朝鮮でいいこともした」とか「核武装の議論を始めた方がいいかも」と発言しただけで、マスゴミ挙げて大騒ぎにしてクビを飛ばすことをやったが、あれと同じである。

 それがいけないというなら、阪神大震災のときに山口組は被災地で炊き出しをやったけれど、それでおにぎりや味噌汁をいただいた人間は、みんな島田紳介と同罪になるじゃないか。
 まっとうに生きたい人間は、ヤクザに入ったり交友関係を持ったりしなければいいだけのことである。

 マスゴミは高倉健や美空ひばりを褒めちぎる。しかし彼らもヤクザと付き合いはあった。美空ひばりは山口組田岡組長の愛人とも言われた。それが許されているのだから、巨人の3選手が裏社会とかかわりがあったわけでもないのに、なんで追放すべし、になる?

 そうやっていわば社会は棲み分けができている。それは難しい言い方をすれば、世界は弁証法性だからなのである。
 冒頭に、それではあんまり世知辛いじゃないか、と書いたが、世知辛いとはどういう意味かといえば、ネットにあった解説を引用してみる。

 「世知辛いの「世知」は、本来仏教用語で「世俗の知恵」を意味し、日本では「世渡りの才」も表すようになり、さらに「勘定高い」「せこい」といった意味でも用いられるようになった言葉である。
世知辛いの「辛い」は「世知」を強めたものであるが、「世渡りの才」に対して「辛い」で「世渡りがしにくい」という意味になったのではない。
 「勘定高い」という意味の「世知」を強めた「辛い」で、世知辛いの本来の意味は「勘定高くて抜け目がない」である。
「暮らしにくい」「世渡りがしにくい」という意味は、「世知辛い人(勘定高い人)が多い世の中は暮らしにくい」という意味から派生した用法である。」


 要するに無菌状態の社会が実現したら、世渡りがうまくいかなくなる、ギスギスした社会になる、ということである。そうならないための知恵が、例えば社会を表と裏にしているのだ。
 変な正義が横溢する社会になってきたのは、アメリカに翻弄されているからでもあるし、朝日新聞を筆頭に「悪」は徹底して排除すべきだとする意見がまかり通るように持っていかれたからだ。

 ついでながら、日本でキリスト教が人口の1%低度なのは、日本人が本来「清濁合わせ呑む」の常識をまだ把持できているからで、キリスト教が建前だけの偽善で正義だけを振りかざすことに拒絶するからだ。

 共産主義は、資本家は悪だ、搾取だと道徳論で言う。「空想から科学へ」などというが、あんなものは科学ではない。彼らは共産主義国家なら善だけの社会になると妄想したのだ。そのくせ、ソ連も中共も、社会平等、搾取廃絶と言いながら、権力者はやっぱりズルをやった。だから共産主義はキリスト教徒同じだと言われる。

 サヨク日教組もそうだったし、役人も建前ばかりで動くようになった。純潔がいい、無菌がいい、正義がいい、世の中はすべて「あれかこれか」だ、などと主張してきたのが朝日新聞であった。
 「戦争は悪だ、許さない」、が暴走して、おかしな憲法9条が正義にされた。現実は無視された。軍隊は悪だとされた。

 徴兵制も良い点は無視され、あれは人権無視の苦役だと政府までが言う。体罰も戦前は有効だったのに、暴力はすべてダメとなって、禁止された。だから子供のイジメや不良化の歯止めがかからなくなった。
 ちょっとした友だち同士での賭け事すら、巨大な悪にされてしまったことと共通している。

 現実は複雑である。あれかこれかで割り切れるものではない。行き過ぎはよくないが、それは日本では世間知がちゃんと歯止めになっている。
 ところが受験勉強は、模範解答は一つしかなく、それにだけなじんで点取り虫になった秀才だけが出世して世の中を牛耳るから、こんなおかしなことになる。現実は解答は一つじゃないのに、それが許されない社会になってきている。

 「清濁合わせ呑む」という言葉があるが、「清」だけで「悪」(賭け事とかヤクザとか)を断罪していたら社会は円滑に動かないし、かえって問題が生じることになる。





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2015年11月18日

ソーセージの発癌性はある


 先月のこと、世界保健機関(WHO)の専門組織が、ソーセージなどの加工肉に発がん性があるとの調査結果を発表したことが波紋を広げている。
 WHO専門組織、国際がん研究機関(IARC)は、加工肉の消費が大腸がんを引き起こす「十分な証拠がある」とし、IARCによる発がん性の評価5段階のうち、喫煙と同じ最も高いレベルに分類した。

 消費者はショックを受け、不安が拡大し、食品業界から反発の声も沸き起こった。慌てたWHOは、「一切食べないよう求めているわけではない」と弁明に追われた、とのことだ。

 これを受けて、日本の木っ端役人も対応に追われたらしく、国立がん研究センターに、「日本人の平均的な摂取の範囲であれば、加工肉が(大腸がん発生の)リスクに与える影響はないか、あっても小さい」との見解を発表させた。
 「あっても小さい」とは曖昧で実に無責任である。「小さい」とは具体的にいかなることを言うのかわからない。
 食肉加工業界も、日本ハムの社長が「基本的に日本人の摂取量では問題ない」との見方を示している。は?なにを根拠に?

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 毎日新聞2015年11月5日付の記事。
 『ソーセージ大国、怒り WHO機関「発がん性」 職人、科学者ら反論』
 
【ベルリン中西啓介】世界保健機関(WHO)の専門機関がソーセージなどの加工肉に発がん性があると発表したことに、ドイツで反発が広がっている。食肉業界だけでなく、ノーベル医学生理学賞受賞者も「ずさんだ」と批判するなど、国民食に注文を付けられたドイツ人の怒りは収まる気配がない。

 「詳細な研究内容を示すことなく発表したことに憤りを感じる」。独精肉職人協会副会長のクラウス・ゲルラッハさん(64)は語気を強める。

 2008年のノーベル医学生理学賞受賞者で元独がん研究センター所長のハラルド・ツア・ハウゼンさん(79)も「赤身肉や加工肉の発がん性は20年以上前から指摘されていた。必要なのは肉の何ががんを起こすのかという研究だ」と批判。さらに、大腸がんリスクについて「世界中の人が、加工肉に含まれる発がん性物質を摂取している。だが、それによってがんになっている人は、ほとんどいない。加工肉を毎日50グラム摂取することで発症率が18%上がるなどと言えるはずがない」と述べた。

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 この問題は、本ブログではすでに取り上げている。ソーセージ、ハム、ベーコン、魚肉ソーセージ、かまぼこ、ちくわ、はんぺん、バター、マーガリンなどはIARCに言われるまでもなく、発癌のリスクは高い。

 食肉業者が猛反発するのは死活問題だからわからないではないし、マスゴミは食肉業者が広告主だから擁護に回るのだ。マスゴミは本当のことは書かないし、むしろ積極的に無害を言い募ることになる。

 毎日新聞の記事にある、ハウゼンさんが「赤身肉や加工肉の発がん性は20年以上前から指摘されていた。必要なのは肉の何ががんを起こすのかという研究だ」と批判したとあるが、これは正しくない。所詮は素人だ。
 
 多くの研究者はこのハウゼンさんと同じ思考をして、どの物質が発癌性物質かを特定しようとする。わかったらその物質を取り除けば安心だ、というのだろう。
 新聞記者もそうだ。だが、それは徒労である。

 本ブログで何度も書いてきたが、加工した食品はなんであれ、発癌のリスクは高まるのである。
 また肉や魚の切り身であっても、肉は大量の薬品を食べさせられた家畜あるいは野原のなかでなく屋根のある小屋に押し込められていたものも危ないし、魚は養殖ものはリスクがある。

 豆腐でいえば、冷や奴や湯豆腐まではいいが、揚げたり煮込んだりすると発癌食品に変わっていくのだ。
 なぜかは生命体の“磁性体”が失われるからである。

 たまに牛肉を食べたければ、国産の牛舎で閉じ込められた霜降り肉は避けなければいけない。オーストラリアあたりで野っぱらに放牧された牛の肉の赤みを厚く切って、焼き加減はレアで、低温で焦げ目はつけずに焼き、すり卸したタマネギを添えて、添加物のない醤油を垂らして食うならば、まあなんとか…である。

 ミンチやすき焼や牛丼用の薄切りにした牛肉は、空気にたっぷり触れて酸化するので、これまた危なくなる。安いからと、ランチに牛丼ばかり食べている人は、せっせと発癌性たっぷりの食品を口に入れている。

 ソーセージやハムは、いくら業者がいきり立とうとも、かなりの加工食品だからいけない。そもそも豚の飼育が添加物まみれで運動不足、それをミンチにするからどっと肉が酸化する、それを腸詰めにして蒸したり焼いたり…。

 それに本ブログで紹介したが、哺乳類の肉は〈生命の歴史〉では人間に近いからリスクが高まる。人間から遠い種の鳥や魚のほうが安全である。
 だから肉の中のどんな物質に発がん性があるかどうかの問題ではない。

 で、ここまでは肉なり加工食品のリスクに関してであるけれど、じゃあ…と不思議に思わなければならないことがある。
 それは当然に、ソーセージが体に悪いというなら、どうして誰もが癌になるわけではないのだ?と。
 ハウゼンさんが言う「世界中の人が、加工肉に含まれる発がん性物質を摂取している。だが、それによってがんになっている人は、ほとんどいない」という反論がそれだ。

 新聞記者は、この反論を右から左へ伝えるだけでなく、きちんと解説しろよ。読者にはわからないままじゃないか。
 国立がん研究センターは「日本人の平均的な摂取の範囲であれば、加工肉が(大腸がん発生の)リスクに与える影響はないか、あっても小さい」との見解を発表したそうだが、これは間違いではないが、答えとしては落第だ。

 この理屈は放射能の値の問題とまったく同じである。放射能の多寡、発癌物質の多寡の問題としてしか語れていない。これを称して弁証法がない、と言うのである。
 対立物の統一で考えれば、発癌物質や放射能の量とともに、それを受けたり摂取したりする人間のほうの条件も考えなければならない、ということである。

 こういうことだ。いくらソーセージを毎日食らっても、自然に触れる、高層階に住まない、茶髪にしない、人工添加物を口にしない、体を冷やさない、水道水は自然に戻して飲用する、夜更かししない、化学繊維の下着は着ない、よく運動する、よい睡眠をとる、…といった健康を害しない生活を送っていれば、少々の毒であるソーセージはまあなんとか…になる。

 それに、食事は〈生命の歴史〉を辿るべく、単細胞、カイメン体、クラゲ体、魚類、両棲類などのように、すべての段階の生命体を摂取していれば、少々の毒は排除できるだろう。

 一日3食、全部にソーセージをたっぷり食べ、それを何十年続ければ、これは恐ろしい量質転化を起こしかねないが、おそらく月に1回くらいならさほど問題にはならない。
 ほどほどなら、肝臓がちゃんと働いてくれて、毒素を消してくれる。その肝臓が処理し切れないほどにソーセージであれなんであれ人工的な食品を摂取するのが危なくなる。

 現代社会は、それなりに人工的な物質にあふれていて、逃げも隠れもできない。日本人はそれなりに順応している。だからあまりに自然的な生活だけを追求するのは却って危険である。
 だからたまに、人工食品を「体慣らし」程度に摂取しておくのも悪くはない。

 人間はウイルスとも黴菌とも共存しているのであって、適当に人体にいなければならないものである。そのバランスを壊すような生活をするから、例えばインフルエンザに感染する。
 以前ブログに書いたが、手や顔をあまりゴシゴシ石鹸で洗うのはいかがなものかと。トイレでもウォシュレットで肛門をあまりにきれいにしすぎると、肛門から雑菌がいなくなって却って菌類のバランスを崩すのだ。

 さらに言えば、仕事がデスクワークが中心の人も危ない。同じ生活条件で、ソーセージを食べることにして、肉体労働者とデスクワークの人とを比べたら、デスクワークの人が発癌する危険性が高くなるだろう。これを説明するのは大変だから、また機会があれば…。





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2015年11月17日

ロッククライミング糞尿譚


 最近は、群馬県の谷川岳で遭難する人はほとんどいなくなった。しかし私の子供のころは、毎年厳冬期やあるいは5月ころによく遭難者が出たものだ。子供心に、なんて親不孝なことをするんだろうと思っていた。自分はいいだろうが、遭難すれば救助隊に迷惑がかかり莫大な費用がかかる。ヘリコプターを飛ばすにしても只ではない。家族も悲しむ。命は救ってやりたいが、なんで勝手な、無謀なことをしておいて、生きているものが苦労させられるのだろう。

 山の景色は美しかろうが…私の登山嫌いは子供の頃の印象で決まった。

 「アイガー北壁」は2008年公開の映画である。実話に基づいている。舞台はナチが台頭してきていたころのドイツで、アイガーはスイスの巨峰であるが、その北壁を史上初めて登攀しようとする2人組のドイツ人青年の話である。途中からオーストリアのペアが追いついてきて、4人で登る。

 アイガー北壁の初登頂を成功した場合は、翌年開催されるベルリンオリンピックで金メダルを授与することになっていた。
 現在とは装備のレベルも違うし、今や気象予報もかなり正確にわかるので、ロッククライミングの苦労も減り、事故も少なくなっているのであろうが、それでも大変な艱難辛苦を嬉々としてやる人たちだ。

 アイガー北壁は、ほとんど垂直に切り立った岸壁である。映画では2〜3日で頂上まで行けるはずが、天気が急変し、ケガもして、結局断念して下山することになる。あんな垂直の岩場で、いったいどうやって寝るのか、飯を食うのか、それになにより排泄はどうするのか知りたい。
 映画では1回だけ放尿するシーンがあるが、排便シーンはない。登山のドキュメントものを見ても、そういう場面は見せないから、当事者でしかわからないのだ。

 それであるとき、垂直の岩場を何日かかけて登った経験のある人に聞いたところ、「あれは糞尿の世界です」との答えだった。さもありなん。少なくとも3000メートル以上の山を登るから軽装ではすまない。厚着をする。それを切り立った絶壁にロープに摑まりながら、尻をまくって用をたす。糞はそのまま落下させる。そのあとから拭いた紙がひらひらと落ちて行く。

 複数の人間と登っているときは、メンバーに断ってトイレにするから、止まってもらわねばならない。脱糞する人が上にいると悲惨だ。下痢していたら風にも煽られて飛散し、下にいる人間に降り掛かる。岩場に張り付いてやり過ごすというのだが…。

 同行者に女性がいると「見ないでね」と言ってから、尻をまくるそうだが、そんなところは見たくもない。男女混合でロッククライミングをすれば、当然異性に脱糞のさまを見せることにもなるのに、それを覚悟で行くとは、信じられない神経である。

 岸壁で脱糞しなくていいように、なるべく食べないようにするそうだが、食べなければエネルギーが出ない。
 厚着している服を脱いでといっても、なにせ垂直の岩場だからそう体は自由にならない。ハーネス(安全ベルト)は外せない。
 失敗して手や服に糞がついてしまう。で、それを洗えるかといえば、水は貴重だし、どうにもならない。臭いをともないながら登ることになる。

 最近では簡易トイレのようなものを持って行って、その中に用をたして持ち帰るとか、紙オムツに用を足す場合もないではないようだが。
 登山中なら、昔は尻をまくって、足を突っ張って岩壁からできるだけ離れてそのまま出すか、紙袋にして袋を放り投げたりしたが、岩場が汚れてあとから来る登山者の迷惑になるので、廃れているらしい。
 ヒマラヤあたりでは昔ながらのやり方が許されているそうだ。

 ヒマラヤの話が出たついでに言うと、あそこでは低酸素と低気圧に慣れるために(体を作りかえるために)、長期にキャンプをしなければならない。多少登ってはその日のうちにキャンプに降りてくるをくり返す。
 だが、キャンプは建物があるわけではないので、トイレが問題になる。

 それぞれのグループごとに、穴を掘り、見えないように簡易テントを張る。何日も経つと便が積もってうずたかくなってくる。それが尻にくっつかないように、腰を浮かせたりして…。
 しかし岩場なので、しゃがんだときに石ころがぐらつくと、あわれ、糞ツボに足が踏み込んでしまうことになる。
 ここでも水で洗うわけにはいかない。それを草で拭ったって取り切れないから、臭いをさせたまま寝起きするテントに戻ってくる。

 便所のなかで寝起きする感じになるだろう。恐ろしいことだが、山男たちは平気らしい。
 ついでながら、第二次世界大戦のころの戦闘機乗りは、例えばラバウルからガダルカナルまで飛んで帰ってくると、中にはトイレがないのだから、尿はサイダー瓶にいれていたようだが、糞は垂れ流しであった。映画を作ってもそういうところは描写しないから、真実は知られない。

 戦場でもトイレは苦労する。ヴェトナム戦争の映画を見ていたら、米軍は野営地に木造の簡易トイレは作ってあり、たまった糞尿は野外に引き出して、ガソリンをかけて燃やしていた。米軍は金持ちだからそういうまあ衛生的なことができたわけだ。同じヴェトナム戦争で、北ヴェトナム軍は例の地下トンネルを掘って移動しているわけだから、さて、トイレはどうしたのだろう。

 旧日本軍は、支那戦線では行軍中、小休止か大休止のときに一斉に兵隊が排便するから、部隊が去ったあとの道ばたや草むらはウンコだらけになった。
 南方の島嶼で戦ったときは洞窟に入って抵抗していたから、ここでも糞尿の処理は大問題であった。たしか映画『硫黄島からの手紙』のなかで、糞尿の入った桶を洞窟の外に棄てにいくシーンが描かれていたと思う。

 洞窟の中は、何日も風呂にも入らず悪臭を放つ者どうし、また負傷していれば血の臭いがし、おまけに糞尿の臭いに満ちていて、目も口も開けてられない状態であったろう。

 ロッククライミングでは岩場にハーケンを打ち込んで、体や荷物が落下しないようにするのだが、私はやったことがないからわからないが、ハーケンが抜けてしまうことはないのか? すべての岩がちゃんとハーケンを食い込んでくれるのだろうか?
 
 次は寝るときである。映画「アイガー北壁」では、絶壁のいくらかへこんだ岩陰に座ってまどろむ程度のようだったが、あれでは疲労は回復しないだろうに。
 ハーケンで2か所を止めて、ハンモックを吊るして寝る方法がある。ハンモックだと体は腹に向けて「くの字」になり、寝返りも打てずに眠る。しかも野宿であって、高所で強風が吹き荒び、吹雪になることもある中で堂々と寝るのだから、肝は座っている。

 そういうハンモックに吊るされながら、排便するのも度胸がいる話である。尿は携帯した瓶にいれ、それは温かいから抱いて寝るそうだ。
 最近は、以下の写真で見ると、ベッドを吊ったり、テント(ポーターレッジ)を吊ったりして、いくらかは水平に体を横たえることができるようだが、落ちたらどうする(どうするって、死ぬだけだが)とは思わないのだろうか。
http://karapaia.livedoor.biz/archives/51962904.html

 映画「アイガー北壁」は、私が山が好きな人間ではないから、「なんでこんな苦労をするんだ?」という思いでしか見ていられない。
 山登りが好きな人に「なぜ?」と聞くと、「そこにいかなければ見られない景色があるからですよ」との答えであった。たしかにそうだろうけれど、命と引き換えになる危険を冒してでも? あるいは、文化的な人間を投げ捨ててまで? である。

 糞尿まみれになってまで? それで文化人と言えるのか? 
 映画ではきれいごとだが、実際は彼らは糞尿にまみれ、氷点下の吹雪のなかで排泄するのも命懸けなのに、そういうシーンは出てこない。
 人類はそうした汚れたものを排除して、清潔を実現していったから、伝染病も退治できたのだ。「自然に親しみましょう」は、きれいごとであって、自然のままでは不潔になるから人類は努力してきたのだ。

 映画では、彼らが途中から下山する様子を延々と見せられるが、もういい加減結果を見せてくれよ、最後はどうなるんだ、と言いたくなった。サスペンスが堪能できる、と言えばそうかもしれないが、同じようなシーンばかりで、嫌になる。

 映画では、名誉欲にかられた連中が怪我したり体調が悪くなったりしているのに、無理して頂上に登ろうとしたがために、結局判断を間違えて大失敗するという教訓だけが残る。
 彼らがアイゼン(シュタイクアイゼン、靴に装着する滑り止め)をなくした装備で登るのを強行するのは、一番乗りをしたがためであった。本来ならそこで出直すべきを、「えい、やったれ!」とタカを括って登攀に賭けてしまうのは、登山に限らず共通した人間の愚かさである。

 ナチが国威発揚のためにアイガー北壁登頂を煽って、若者に無理をさせ、死に至らしめたのだとする批判が込められているのだが、それでもやはり登ったのは当人たちの責任である。




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2015年11月16日

サヨク専従の低レベル


 産経新聞WEB版に「iRONNA」(いろんな、と読むそうだ)というコーナーがあるらしく、そこに『サヨクは働いていないのか、デモや集会を「職業」とする人々』と題するコラムがあった。
 ちょっと長いが、多少端折って紹介する。

     *    *    *

 安全保障法案の時、一部ニュース番組は、こぞって国会前の若者や主婦などを取り上げ、「普通の人たちが声を上げ始めた」とうれしそうに報じました。テレビ局は、この人たちをカメラから外してしまえば、その絵づらは、とてもゴールデンタイムのお茶の間に耐えられるものではなかったのですから。(iRONNA)

  ○○労組、○○教組、○○連などの幟りや旗を見れば、これらがフツーの人だとはだれも思わないはずです。結局いつもの沖縄基地問題、反原発などのデモと変わらず、彼らの動員がうまくいっただけというのが真相のようです。

 左翼団体の動員力、組織力がある理由は、「専従者」の数だといいます。専従者は「専従労働組合員」だけではありません。「党職員」とか、「市民団体役員」などよくわからない肩書きの人たちが報酬をもらった上で「職業活動家」として組織の中枢に専従しているのです。

 何しろデモや集会を「職業」とする人たちですから、普通の会社員が同業他社と売り上げを競争するのと同じように、ライバル組合や団体と動員力で 競って組織の力を誇示しなくてはなりません。そのための活動として、末端の組織員までオルグする必要がありますし、ノルマを設けて人を集めなければならないのです。今回のデモのようなハレの大舞台になればなるほど「主催者発表」が膨れ上がるのも当然というわけです。

 左翼の場合、公務員系の過激な組合も多いですから、その規模は全国津々浦々までカバーしていると言えるでしょう。朝日新聞は、例の問題でだいぶ部数を減らしたと言われていますが、大打撃まで受けていないのは、このような読者たちに支えられているからかもしれません。

 とはいえ、先の保守系の方も本当に動員で人を集めたいと思っているわけではありません。普通に働き、普通に家族との時間を大切にしている多くの日本人は、そのような政治的イベントに参加する時間などないことを知っているからです。そして、そういう 日本人の考え方こそがサイレントマジョリティーであることをよくわかっているからこそ、「保守」なのです。

 左翼はよく、市民の権利だとか自由だとか「個」を大切にするようなことを言いますが、彼ら(専従)ほど組織の構成員を自分たちの手足だと思っている連中はいないのです。
  もちろん、自らの思想信条に従い、手弁当で左翼活動をしている人も多いと思います。

 ただ、そういう方々の多くは、失礼ながらあまり余裕のある暮らしをしているようにはみえません。そろそろ気付いてほしいのですが、あなた方に動員をかけている団体の上層部の方やテレビで立派なスーツを着て弱者の味方を装っているコメンテーターの方々は、きっと驚くような裕福な暮らしをしていると思いますよ。その頂点に君臨しているのが朝日新聞のような気がします。(皆川豪志)

     *    *    *

 ずばりそのとおりなのである。こんなことは昔からわかっている人にはわかっていたことだ。私も1970年ごろの全共闘運動を多少知っているから、裏側がわかる。
 自分はサヨク過激派バリバリだけれど、内ゲバが恐いのと、官憲の追及を逃れるために、軽蔑している社会党の党員になっている人もいた。

 そんなずるい(?)人間も、社民党や共産党には紛れ込む。
 『サヨクは働いていないのか、デモや集会を「職業」とする人々』にあるとおり、安保法制反対をわめいた主力は、決してフツーの人でもなかった。学生どもも民青の別働隊であることは、一瞬で見てとれる。それを見て取れない副島隆彦ってアホじゃないの?

 デッチアゲの「戦争反対!」や「徴兵制へ持っていかれる」「安倍はファシスト」などが、あまりにレベルが低過ぎた。
 朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、イラク戦争で、アメリカ軍は日本から出撃していった。軍事機材も兵員も日本が拠点だった。戦ってきた兵隊が休養をとるのも日本が提供してきた。

 日本はそうした戦争に、間接的に参加し、米軍のために働いた。だからすでに「集団的自衛権」は発動されていたのである。一方で個別的自衛権は、ほとんど発動しなかった。できなかった。だからやすやすと竹島が奪われ、李ラインを勝手に引かれて日本漁船が拿捕され、尖閣諸島に支那の船が侵入しても抵抗できなかった。唯一、北朝鮮の麻薬運搬船を海保が撃沈したときだけ。

 学生時代に多少政治活動をした者は、就職口が閉ざされる。で、いろいろ逃げ場はあるが、その一つが、労組の専従に“雇用”されることである。会社に雇われるのではなく、労組が組合委員から集めた組合費で事務職を雇うのである。したがって、大企業に就職するためにサヨクを「転向」しなくていい。

 相変わらずマルクス・レーニン主義を言い、日本帝国主義を打倒してくれる中共や北朝鮮が味方だと思い込む。日本政府のやることはすべて反対、アメリカのやることはなんでも悪、と単純極まる思考で終始し、定年まで勤めていられる。まずクビになることがないから気楽である。何かあったら、仲間の日弁連が駆けつけて弁護してくれる手はず。

 彼ら専従は、春闘では活躍するだろうが、普段は暇を持て余す。だからデモなんかがあると嬉々として「仕事」に没頭する。原発反対とか、「琉球を独立させろ」「辺野古移設反対」をルーティ−ンにしている。それで、ありがたいことに、安倍内閣が安保法制の整備をすると言ったので、それ仕事ができたとばかりに、国会前で抗議集会をやることに熱中しただけのこと。

 反対の理屈なんかどうでも良かった。
 自民党のやることだから悪いに決まっている。いつものようにアメリカの策謀だ。それに憲法9条を守れとさえ言えば、労組はカネを出してくれる。
 安倍首相のやることは違憲と思うだけで、法案の中身は議論するには及ばない。
 
 これがこの夏の騒動の中身であった。バカ丸出し。
 役人はあまり思想信条が問われないから、サヨクが役所に逃げ込む。今は民営になったが、昔は国鉄や郵便は役人だったから、サヨクはそこに逃げ込み、定着して気楽に給与をもらいながら、「革命運動」のお遊びをやっていた。民のために働く、奉仕する意識がないから、国鉄や郵便のサービスの悪さ、態度の横柄さに国民はうんざりしていた。

 役人でも、文科省は官僚のなかでは劣等生で省庁としては三流である。出世ラインから外れた者は、地方の駅弁大学に出向になる。テイのいい厄介払いだ。大学側も文科省からカネを恵んでもらいたいから、こういう押し掛け木っ端役人を追い返したりできない。

 しょうがないから事務局長なんかの椅子を与える。
 …とか言っても、役人には何もやることがないからサヨク運動に参加したり、暇だから他人のブログやHPにアクセスしては誹謗中傷、揶揄嘲弄を繰り返したりしている輩がいくらもいる。

 サヨクにはそういう実態や過去があるから庶民には信用されない。その流れを汲み、労組の指示しか得られない共産党、社民党、民主党は軽蔑される。




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2015年11月14日

スジを通した音楽批評とは(2/2)


《2》
 音楽ブログの筆者は(1)も(2)も、知識満載であることが見てとれるであろう。筆者はその知識を誇っているかのようだ。それはそれでいいとしても、知識でアタマを創ってしまうと、事実をつなげて論理が分かるようになれなくなる。

 音楽ブログ筆者からは、しばしば弁証法を馬鹿にするのを耳にするが、「構造の個別性」あるいは一般的な運動性(変化発展している)をわかるために弁証法の実力が必須なのだから、嘲笑しているかぎりはスジの通った論考は書けない。

 このブログの文章が、ただ「きれいだ」「美しい」「嫌いだ」といった主観と感覚的なことで終始しているなら、どうこう言うつもりはないが、論理的な体裁をとった文章だから、きちんと論理を通すべきだと言っている。

 論理的とはスジが通っていることで、対象の構造に分け入るだけでなく、体系性もなければならないがそれはともかく、筆者自身の認識にも分け入ることである。
 「様々な偶然が重なった結果、誕生した類まれな作品」これでは何を言っているのかわからない。こう書くと彼は、ブログの論考はまだ一面的なもので、シベリウスの情報が足りないからだと反論するだろう。

 だが、問題はそこにはない。シベリウスの情報が少なくたって、およをは見抜けるのが論理的アタマである。
 さらにわからないのは、「繊細なシベリウスにとって人生を生きること自体が大きなストレス」「生活はシベリウスを追い詰め」アルコール依存症になった…の文章である。

 筆者自身の認識に分け入るとは、なぜ自分は「類いまれな」と書いたか、どうしてシベリウスを「繊細な」と形容したかが、解けていることが大事であるからだ。
 ところが、音楽ブログ筆者は事実を出さずに書こうとしている。それでは読み手は納得できない。例えばシベリウスが繊細な神経を持っていたというなら、その生い立ちから交遊関係から生活のありようから…そうなった過程的構造を事実で明らかにしなければならない。
 「こう思った」を事実で書くことである。

 ブログ筆者は帰納法や演繹法が大事だと私に語っているが、あれはただのノウハウのレベルで、体系は欠落しているし、対象を問題にする己れの認識も問題にしていない。バラバラに集めた知識をどうやってまとめたらいいかに困って考え出されたものに過ぎまい。
 
 帰納法・演繹法は、いうなれば小学校の学級会をどうやるかのレベル。ノウハウといったところである。みんなの意見をまとめるのに、ああだこうだと意見をだしてもらって集約するのか、先生がビシッと命令してまとめるか、そんなレベル。
 だから彼はシベリウスの情報がたくさんないと帰納法とかが使えない、というのであろう。
 弁証法をそうしたノウハウのレベルと勘違いしては困る。

 シベリウスはざっと言って心を病んでいったらしいが、それはどうしてなのか、原因は何かといったことを解明しないとやはりスジが通らない。心がどう病んだから、どう作曲に影響したかのスジを通していない。かように、この文章はつながりが明示されていないから、読み進められない。像が描けない。

 作曲家、それも大交響曲を創るようなレベルの作曲家は、あれは脳が認識だけを使っている。本来は人間は、運動器官、消化器官、そして統括器官に大きくは分かれているが、元は(単細胞生物段階では)全部で一つである。それが地球環境の変化によって、機能を分化させたので実体も手足、内臓、脳というように分かれたのである。

 分かれたが元は一つだからつながっていなければならない。連動していなければならない。あくまで一つで全部の動きでなければいけないのに、人間はそういう動きがいわば自動的に行なわれる本能が喪失しているから、ある機能だけを強烈に働かせることになる。

 したがって、脳が運動器官や消化器官を働かせて連動しないで、認識だけを働かせると、運動機能や消化器官が狂ってくるのだ。内臓が歪み弱れば、それを統括している脳もおかしなことになる。

 だからベートーヴェンは内臓の病気になったのだ。食事も悪かっただろうが、脳を実体を使うのを忘れるほどに根を詰め、興奮させたから、内臓がおかしくなったのである。
 胃の病で苦しんだ夏目漱石もおそらくそうであったろう。

 ベートーヴェンは交響曲を創るかと思えば小品も創って、頭脳は八面六臂のフル回転をさせられた。作品を聴けばその認識の集中力の凄まじさには圧倒される。それで勝手に内臓が動かされる。例えば胃が自らを消化するようなことになる。
 …というように、シベリウスのことは知らないけれど、なにがしかこういう一般性(構造の個別性)で見れば、解けてくる謎があるのである。

 そこまでの論理構造を説くことは望蜀のことかもしれないが、根拠もいわずに「素晴らしい」とか「心が病んでいたから繊細だった」などと言われても困惑する。
 それで困惑していると、次はいきなり(2)に移って、音楽の構成の話に飛ぶのだ。つながっていない。別の話だということなのだろうか? 西洋音楽の構成や手法は、筆者の得意とする分野らしいが、これが「個別性の構造」の一端である。

 そういう話の前提として、筆者が音楽を愛しているという感情が感じられないのである。個別を論じるのは構わないのだが(それだけでは全貌は解けない)、論理とまでは言わないが、音楽全体を包みこんでいるような教養や感性が見えないのは、読んでいてつらい。
 それに引き換え、わたしたち共通の友人であるMICKYさんのブログ「VINYL JUKY」は、あふれるようなというか香しい音楽への愛情が感じられる。現在休止しているのは残念なことである。

 ブログ筆者は、「VINYL JUKY」をよく批判して、あそこが間違っている、こっちが知識不足だ、その解釈はダメだとばかり批判していた。それはその通りなのかもしれないが、多くの音楽ファンがどちらを好むかといえば、「VINYL JUKY」のほうであろう。瑕疵などどうでもいいのだ。しかしブログ筆者はそれでは許せないらしい。

 「VINYL JUKY」には筆者MICKYさんの「音楽大好き」という感情のスジが通っているのだ。しかしこのブログ筆者はスジ(論理)が通らないから、またぜひ読みたいとは思えなくなる。(ごめんなさい)

 加えて、「VINYL JUKY」には筆者MICKYさんの文章は、像で考えられてかかれているが、音楽ブログ筆者は像で考えるのではなく言葉で考えている。
 この件についてはなんども本ブログで書いておいた。2012年11月15日から5回にわたって書いたものを参照していただきたい。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/301880951.html
 
 「60年盤はオーマンディの持つモダンで意欲的な一面がよく出ている。深い譜読みによるスケールの大きな演奏で、名盤と呼ぶにふさわしい」と書いているが、これは知識である。「モダンで意欲的な一面」ってなんのこと? どうしてスケールが大きいと言えるのか? なぜ名盤と言えるのかを、彼なりにスジを通さないと、これでは誰かの受け売りか、と言われかねないのである。

 こういう文章は、新聞や雑誌の音楽批評でよく見かける。彼らは像ではなく言葉で考えている。再度いうけれど、音楽の感じを文章化するのはむずかしかろう。しかしそれでも、なぜ、どうして、の根拠を示さなければ言ったことにならないのである。

 うまい料理を食べたときに、テレビのグルメ番組ではやたらに「おいしい」「うまい」を連呼するか、もしくは「何とも言われぬ旨さ」などと表現しない例もあるが、それではレポーターとしては失格だ。
 その点で彦摩呂は、いかに見せるか、楽しませるか、食欲をかきたてるか、レポートするかについてはさすがプロである。「これはうまい」だけではなんの根拠も視聴者に伝わらないのだ。

 私は劣等生だから、順序立てて説いてくれなければわからない。ところが秀才は順序だてなくてもわかってしまう。これは皮肉でなくて、本当にブログ筆者は秀才だと思う。本ばかり読んでわかったつもりになっているのではないか。東大なんかの受験秀才はこれである。

 本を読めば読むほど、恐ろしいことにスジの通らないアタマになっていく。たいていは本を読むとアタマが良くなると思うだろうが、たいていの本は、知識でつづられていて、事実をつなげて論理を分からせてはくれない。
 だいいち、十人の本を読めば十人が違うことを言うではないか。
その十人十色が自分の脳の中にバラバラに収まる。そのモザイク的な何かどうしにつながりも、スジも通っていない。

 その読書の欠陥をどう克服するかである。読まなければ知識は増えない、考え方も教えてもらえない。でも読めば読むほどスジが通らないアタマになる…というジレンマである。どうすればいいかは、まあお預けだ。

 「名盤だ」「名曲だ」と言えば何か言ったことになるのだろうか。私は劣等生だから、なぜ名曲なのかを説いてくれなければわからない。何をもって名曲という概念を成立させるのだろうか。これはグルメレポートで、「うまい」「最高」と言っているのと変わらない。

 ブログ筆者は作曲もする。ライフワークだと言っている。だからあえて期待していうのだが、彼の音楽は聴いていて理屈が勝ち過ぎている感じがしてならない。音楽で楽しさとか(悲しさでもいいが)躍動感とかが沸き立ってこなければ、退屈なだけである。

 (2)の始めに、音楽の構成や手法が書かれているが、彼の音楽はそれが剥き出しになっている。いわば鉄骨の骨組みを見せられている気がする。
 音楽は決して、譬えればローマ字で書かれた文章ではない。ローマ字でも意味は通じようが、それが新聞社説のような文章とか大和言葉で書かれているとかで、私たちの感情に訴えるものは大きく違う。

 こういうことを書くのは不謹慎かもしれないが、彼に聞くと両親を憎悪しているそうだ。子供のころに相当馬鹿にされ疎まれたらしい。親がどうやら最悪だったようだ。
 よくあることだが、親に見捨てられた子は、寂しくて絵描きや音楽家、詩人などになりやすい。全部が、ではないけれど。そういう子は認識を外に出したがらない。閉じこもって自分の世界を絵にしたり、楽器を鳴らしたりしようとする。

 中島みゆきの詩などは、典型的な閉じこもりの作品で、あれは自分の世界を歌にしているのである。歌謡曲だからまあ良しとするとしても、中島みゆきの歌はスジが通らない不気味な歌だ。

 彼の作曲したものは閉じこもっている音楽である。また音楽エッセイも、人に楽しんでもらおうとか、学んでほしいとかではない。メモ書きのような印象である。
 先に例をだしたが、彦摩呂は商売とはいうものの、自分の認識を外化することが得意で、それで人を喜ばせることが好きな感じが良く表れている。私は彼がガサツだから好きではないが、そこから何事かを感じていただければ幸いである。

 こう書いても、おそらく見解の相違ということになるだろう。仕方がないことである。





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2015年11月13日

スジを通した音楽批評とは(1/2)


《1》
 私の知り合い男性が、音楽ブログを書いている。
 そのブログをたまたま見たら、シベリウスの交響曲第7番を聴いた論評が掲載してあった。

 このブログはたまに覗くのだが、たいていはむずかしい表題の本が羅列してあるだけのときが多いが、稀に論評が書かれる。文章はとても固い感じで興味がないと読みにくいが、紹介してみる。

     *    *    *

(1)
 5番、6番、7番は1914年頃から平行するように着想を得ていた。7番のアイデア自体は早くにあったようだが、本格的に取り掛かるまでには10年近くの時間が必要だった。7番に関する文献には、この作品の創作が困難な道のりだったことが記されており、作品は様々な曲折を経て、最終的には単一楽章の形に収まったとされている。

 松原千振の「ジャン・シベリウス 交響曲でたどる生涯」等、シベリウスに関する書物にはこの作品の名称がなかなか定まらなかったことが書かれている。7番の創作過程、更には名称の決定の際の迷いなどは後の8番の運命を示唆するものがある。

 繊細なシベリウスにとって人生を生きること自体が大きなストレスだった。日々の生活はシベリウスを追い詰め、この頃には心身にダメージがあった。シベリウスはアルコールに依存するという悪循環に陥り、以後の創作活動に支障を来たした。

(2)
 西洋音楽はメロディーによって構成されているものと、主題と変奏によって構成されているものに分けることができる。メロディーで構成されるものの代表が組曲などであり、変奏によって構成されるものの代表がソナタや交響曲である。シベリウスは3番までは伝統的な様式に則り創作していたが、5番以降、抽象的かつ断片的なモチーフを和声的に精緻につなげ、主題の展開を制限した手法を深化させた。
 (中略)
 この作品は茫漠としたフォルムに伝統的な交響曲の様式が溶け込んでいるところに魅力がある。こういう作品は書こうとして書けるものではなく、様々な偶然が重なった結果、誕生した類まれな作品と言える。7番という密度の高い作品の存在が、この後シベリウスの創作にとって呪縛となったという面もあるのではないか。

 オーマンディは7番を60年と75年の2回残している。60年盤はオーマンディの持つモダンで意欲的な一面がよく出ている。深い譜読みによるスケールの大きな演奏で、名盤と呼ぶにふさわしい。

     *    *    *

 本文では分けられていないが、私が前半と後半で(1)(2)に分けた。以下、大変厳しい批評になるがご容赦を願いたい。
 この(1)と(2)はスジがつながらない。つながっているのは、シベリウスのことを書いているんだな、というだけだ。

 このブログ筆者は、実に音楽についての知識が豊富である。冒頭に述べたが、音楽に関するもの、文化人類学的なものなどの読書量はたいしたものである。
 しかし、知識が多い人にありがちなのは、勝手に事実をつなげてわかったつもりになることである。
 このブログはその典型だと思った。

 たまには中学生にわかる文章、音楽に興味がない女性なんかにわかる文章で書くのも良いはずだ。中学生やそういう女性はスジが通らないとわかってくれないからだ。

 まず(1)の部分であるが、「この作品は茫漠としたフォルムに伝統的な交響曲の様式が溶け込んでいるところに魅力がある」と述べているが、なぜ筆者が魅力と言えるのか、どういう魅力があるのかは何も語られていない。
 いつも言うが、これは媚中・副島隆彦式で「そう言える根拠」を何も示さないで決めつけるスタイルである。副島は例えば「温家宝首相は善人だ、立派な人だ」と褒めちぎっていたが、なぜそう言えるかを書かない。だからスジが通らない。

 さすが媚中副島だけあって、本家の中共が、南沙諸島領有の根拠を示せと国際社会に言われても、「何抜かす、俺たちが支那の島だと言えばそれで領土になる」とほざくのと一緒。同類である。

 媚中・副島がこういうテイタラクになるのは、弁証法がないこともさることながら、認識論が創れなかったことによる。
 認識は頭脳における像であるが、そこにも二重構造があって、ひとつは「反映した像」であり、もう一つは「反映した像を個人が熟成した像」である。

 反映とは、この二重構造で脳細胞に誕生する。
 副島はその仕掛けがわかっていないから、「自分の反映した像を熟成した像」を検証することなく、例えば温家宝は立派な人だと言える。
 ブログ筆者は、シベリウスの音楽に魅力を感じたとするなら、その「魅力」を二重構造で説かねばならないのである。

 「茫漠としたフォルムに伝統的な交響曲の様式」と言われてわかる人はほとんどいない。音楽を文章で解説する困難さはあるが、これはそのシベリウスの交響曲第7番の一つの要素でしかない。
 こういう評し方は、「個別性の構造」で解こうとしていて、逆の「構造の個別性」は考えられていない。

 これは大変むずかしい概念だ。
 一般論の中に「@個別性の構造」と「A構造の個別性」がある。これで対象に分け入っていくのだが、個別性の構造の場合は具体的には現象あるいは事実の収集(牧野植物図鑑のような例)になる。牧野の植物収集が典型であるが、あれは学問とはほど遠いのだからは上(一般論)へ登れない。植物であれば、地球になぜ生命体が誕生したか、なぜ維持されて着ているか〈生命の歴史〉から説くことが「構造の個別性」と解くことだ。

 @は例えば金魚の体の構造を解くことで、ヒレの構造に入っていくありかただ。Aは生命体にとって骨とは何かを知るために金魚に分け入っていく。「構造の個別性」がむずかしく、たいていの人は思ってもみない。構造がわからなければ個別性はわからないのに、別言すれば全体がわからなければ部分もわからないけれど、たいていの(なんであれ)研究者は、部分からしか対象に分け入らない。

 ざっと言って、たいていのむずかしい書籍は知識ばかりで、せいぜい「個別性の構造」を説こうとする程度である。学校教育でも「個別性の構造」だけが勉強、ないし学問だと教わる。だから「構造の個別性」から対象に分け入ることは想定外になっている。




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2015年11月12日

日の丸の旗は庶民の旗


 本稿は、2007年4月にアップしたものの再録である。
    ■   ■

 近所の小学校でも先日入学式が行われたようで、校門に日の丸が飾られていた。そこではサヨク教師の妨害はないようだったが。
 サヨクは日の丸を蛇蝎のごとく嫌うが、諸外国の国旗に関してはそれがどんなに血に塗られていようとも構わないようで、ただひたすら日本の国旗だけはダメだ、嫌だの大合唱。どこの国だって、侵略の経験はあるし、なんだかんだと戦争はやってきたのだ。それをあたかも坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのように、国旗のせいにしているのは日本サヨクだけではないか。

 運動会では、紅白の玉入れや、紅白の大玉ころがしも、日の丸を連想させるからダメだと、アホ教師どもは言う。

 紅白歌合戦もそうだし、紅白のまん幕も、紅白まんじゅうも、紅白玉入れもそうだが、なぜ紅白かといえば、源氏、平家から受け継いでいる。源氏が白の旗、平氏が赤の旗を掲げて戦った。日の丸というのは、この源平の旗を統合したところに由来がある。だからサヨク教師が紅白玉入れは日の丸を連想させるとぼやくのは、ゆえなきことではない。

 江戸中期の文化文政のころ、幕府はロシアの脅威に対して北方の防衛策のため言うなれば“海軍”を編成した。この船団を「赤船」と呼んだ。この“海軍”の中心となったのが、源氏と平氏の末裔である。海に強いのは平家で、彼らはもともと古代ではマレー半島あたりから海人族として日本に渡来した勢力であった。

 だから船を操る技術を持っている。ところが、武闘派では源氏がかつては平家を破っているし、強かろうというので、この“海軍”には両派を同乗させることにしたのだ。とはいえ、両派が船中で対立しては困るので、赤旗の平氏と白旗の源氏の折衷案として白と赤を入れた旗をこしらえた。源氏の白の地に真ん中に平氏の赤を丸でいれて、日の丸ができた。

 北海道で活躍した高田屋嘉兵衛らはこの日の丸を船に掲げて、千島あたりまで進出した。しかし難破する船が多く、すぐに廃止されてしまった。その後、しばらく途絶えたが、ペリー来航によって日本がこじあけられ、日本の船を外国船と区別をしなければならなくなって、再び日の丸が復活し、これを掲げて咸臨丸は渡米した。

 外国船との区別をつけるためには日本船章を日の丸に、と幕府に献策したのは、薩摩藩主で西郷隆盛を抜擢した名君といわれる島津成彬である。島津斉彬は、公武合体を主張して、日本がユダヤ金権勢力による支配にならぬよう手をつくそうとした人物であり、ゆえに、おそらくユダヤの手の者によって毒殺されたのだ。

 冒頭のサヨクの話に戻せば、日の丸の由来は源平だったのだから、彼らこそ支那進駐軍であった藤原一族を打倒し、まがりなりにも在来日本人の権利、自由を奪回してくれた勢力であった。日本原住民の7〜8割はだいたいこの源平いずれかに属したのであったから、サヨクの人たちも含めて、われわれ庶民の先祖は、源氏か平家なのだ。

 信長や家康も平や源を名乗ったけれど、それは彼らが庶民の出だという意味であった。むろんすべてがきれい事でないのは世の常ではあるが、源平こそわれら庶民の味方、代表だったのであり、そこに由来する日の丸は、したがって庶民の旗なのである。決して天皇家や公家の由来の国旗ではなかった。
 その歴史性をふまえれば、サヨクの人たちこそ、日の丸を大事にしていいのである。




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2015年11月11日

『昆虫記』で好きな“黒ばい”の話


 本稿は、2007年3月にブログにアップしたものの再録である。
  ■   ■

 ファーブル『昆虫記』のなかでは、“黒ばい”の話が好きである。黒ばいとは黒蝿のことで、最近は見かけなくなったが、汚いといって人間に嫌われるうるさい虫である。 
 『昆虫記』は、高校・大学時代に岩波文庫の山田吉彦(きだみのる)・林達彦訳で読んだ。なかで一番印象に残っているのが黒ばいの話であった。黒ばいの話は、岩波文庫では最終巻(20分冊)に収録されていて、ファーブル最晩年の作品にあたる。

 汚いハエの話が好きだなんて、お前はアホかと言われそうだが、なぜこの話が気に入ったかといえば、汚いと嫌われもののハエにすらファーブルが温かい眼差しをそそいでいるからで、それもハエの親がどんなに子どもの蛆(ウジ)に愛情をかけて産卵するかを記述していることにあった。子どものころからハエは汚いもの、迷惑なものとしか思っていなかった私の認識を変えさせられた。

 それだけではない。ハエがどれほど人間にとっても大切な虫かを、ファーブルは説いている。それを教えられたことで、この“黒ばい”の話が気に印象に残ったのだ。

 ファーブル昆虫記といえば、誰でもフンコロガシの話は知っているだろう。道や野原にころがっているウシやウマの糞をじょうずに丸めて産卵する虫のことで、『昆虫記』のなかでは最も有名な話かと思う。“黒ばい”もまあフンコロガシと同じような話ではあるが、私にとっては見たことのない虫なので、現実感がなかったし、幼児のころに聞いた話だからその意義がわからなかった。

 ハエとなると、昔は冬場以外は年中、どこにでもいて食物はもちろん、いたるところに張り付いているか飛びまわっていた、身近な存在なのである。害虫の代表だった。だから、その天敵ハエの生活がファーブルによって、愛情(?)をこめて描写されていたことに驚いたものであった。

 ハエの成虫のメスは、産卵する際に、いかに子どものウジがちゃんと自力で食べていけるかを見極めるのである。例えば鳥の死骸に卵を産みつける際には、目のまわりとか、傷口とか、口の周囲などに産卵する。どこでもいいというわけにはいかないことを、ファーブルはさまざまに実験して確かめていくのであるが、その過程も面白くワクワクさせられた。むろんハエが汚い虫であることは承知しているが、なにか愛らしい虫のように見えてくるからファーブルはたいした人だった。

 「母虫の先見の明ということにかけては、くろばいは選ばれた場所、赤ん坊の吐き出す反応剤に侵食されて柔らかくなり、溶ける場所を不思議なほどよく知っている。子虫の化学は自分の食事の時にはもう使われていないけれども、彼女にはわかっているのだ。本能の高い啓示者である母性愛がそれを教えているのだ。」


 ウジは、食物である動物の肉を噛み切って食べるのではない。溶かして食べるのである。彼らウジは、口からペプシンを分泌し、それで死肉のタンパク質を溶かし、スープ状にしてからいわば飲むのである。これをファーブルは「赤ん坊の吐き出す反応剤に侵食されて柔らかくなる」と書いているのだ。だからハエの母親は、死骸といえども、皮膚表面には産卵しない。動物の皮膚はそれなりに固く、ウジの口では噛みついて中の肉に到達できない。

 死体や腐ったものにたかるハエでさえ、母親はこんなに細やかな子どもへの配慮を示すという、なかなか感動的な話である。
 さらに言うと、ファーブルは“黒ばい”の話の冒頭にこう説く。
 「大地のけがれから祓い浄め、死んだ動物の残骸を生の宝庫に還元するためには、無数の残飯屋がいるものだ。我々の地方のくろばいとにくばいもその仲間だ。」

 大地にころがった死骸を、掃除してくれる昆虫の一つがハエだと言っている。
 われわれはとかく頭が形而上学的になっていて、ハエは汚いもの、ばい菌をうつすものと決めこんでいる。だからそれこそ蛇蝎のごとく嫌われ、とことん排除されてきて、都会では本当に見かけなくなった。だが、実は役にたつ部分もあるのであって、その人間にとって嫌な部分とありがたい部分の両方を、対立物の統一として捉えることが弁証法的な捉え方になる。ハエにもプラス面とマイナス面がある。

 ハエがいなければ、大地の死骸や汚物は掃除されない。実際には他の昆虫や微生物などによって分解されるであろうから、ハエがいなくても人間にとっては困ることは少ないかもしれないが、これは生態系という論理の話である。ハエは生態系にとって、重要な昆虫である。
 たいていの人は、この話は感情的にはハエは嫌いでも、理解はしてくれると思う。たかがハエだからであろうか…。

 ところがお産の話になると、この弁証法的な捉え方にいっせいに非難が集まる。医者を自称する人たちの、その形而上学的頭脳(考え方)にはほとほと呆れた。帝王切開や陣痛促進剤の使用を批判したら、いまだに攻撃してくる。何度も言ったから詳しくは書かないが、私はものごとにはプラスとマイナスの面があるんだと言っているのであって、当然、自宅出産だってマイナスはある。自宅出産は全然問題がなくて、病院出産はいっさい止めろなどと言っているのではないのだ。

 自宅出産にも条件はある、帝王切開にも条件はある。条件次第である。ただ私は、病院側がそうした条件を無視するかのように、カネ儲け主義でなんでもすぐ陣痛促進剤を使用したり、帝王切開をしたりしている傾向を批判した。

 ところが、本ブログにコメントして罵倒してくる人たちは、出産はこんなに危険であるとか、ほらこんなに出産で死ぬ妊婦や子どもが減ったという事実を持ち出してくる。これは要するに、ハエは汚いんだとだけ言いはっているのと同じ論理である。私は、ハエは汚いし、昔は赤痢などの病原菌を運んだだろうけれど、良い面もある、人間にとっても有用な面もあるんですよ、と言っているのだ。

 しかし、そういっても、ファーブルの時代はハエの駆除が徹底しておらず、だから感染症が蔓延したではないか、ハエを徹底的に退治したおかげで、ほらこんなに感染症が減ったんだ、お前はハエがうようよいる方が良いと言うのか! と文句が来そうだ。

 くどく言うけれど、これは論理の話なのである。事実でいえば、ハエが不潔であることは明らかである。駆除も必要である。…が、いくら言っても、頭が形而上学的になっている受験秀才だった人には理解できないのだろう。
 
 それからコメントをいただいたなかに、「弁証法がなんだか知らないが…と言ってきた人」の反論があった。この方は弁証法は科学ではないとお思いのようである。三浦つとむさんに『弁証法はどういう科学か』という弁証法の教科書としては優れた著作があって、いまだに(昭和30年に初版が発行されてから)ずっと超ロングセラーを誇っていることも知らないようだ。弁証法は科学なんですよ。

 だから「科学を理解しあえる人と(だけ)話をしよう」と、おっしゃるけれど、この方は科学は何かデータをとることだと勘違いしているのではないか?  空手家にもいたようだが、突きをスピードは時速何キロかなんてことを測って、科学だと思う人がいた。科学とは、対象とする事物事象を構成する、あるいは貫く論理を導きだして本質にまで高めることによって体系化された認識である。ということはすでに何年も前に措定されている。




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2015年11月10日

痴呆の治し方(5/5)


《5》 
 寝たきりの痴呆老人の足をさすった、と聞いて思い出すのは、『 なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義(2)』の、看護学生Dさんの「夢にうなされる事例」で、患者にゆっくり話を聞きながら足をさすった話である。
 『 “夢”講義(2)』を読んだ方は、強烈な印象を残していることだろう。
 あの事例の患者(老婆)にも、さすったことが一種の鍼灸効果を引き起こした、とあった。

 以下は『 “夢”講義(2)』からの引用。
       *      *      * 

 そうやって、筋肉も神経もおだやかになりかかったところへ、Dさんの患者さんへのさすりの状態が加わったわけです。

 これは当然に、つまりDさんの患者さんへのさすりの行為はおだやかな心持ちになった患者さんの筋肉をより一層やわらかくほぐして、これがために神経そのものへのさすりとなり、神経への刺激が目的を持ったものとなり、神経を運動形態に置くことができる状態となっていった、ということなのです。こうして「合わせ技ながら一本」という、見事にハリ・灸レベルの技へと近づいていたわけです。

 結果、その神経がどうなっていったのでしょう。しだいしだいに、神経をほぐされていった患者さんは、その神経のホグレが、これまたしだいしだいに一つまた一つといったふうに脳に伝わり、結果として脳の神経としてのホグレが、脳が統括していた認識(心)の突発的なホグレとまでなっていったのでした。

       *      *      * 

 痴呆の老婆に働きかけたことも、この『“夢”講義』の事例の夢でうなされる患者への働きかけと、論理的には同一のものがあったと思われる。 
 閉ざされ、薄暗い空気の淀んだ部屋が解放されて新鮮な空気や陽光がさしこみ、「 筋肉も神経もおだやかになりかかったところへ」、体の清拭と「患者さんへのさすりの状態が加わったわけ」である。

 だから老婆への「さすりの行為はおだやかな心持ちになった患者さん(老婆)の筋肉をより一層やわらかくほぐして、これがために神経そのものへのさすりとなり、神経への刺激が目的を持ったものとなり、神経を運動形態に置くことができる状態となっていった」と読むことができよう。

 私にメールで感想をくださった精神科医はどう答えているだろうか。

       *      *      * 

 人間が『快』を求めるということから、『快』となる働きかけをしておられるところが見事だと思います。
 ぱっと光が入り、新鮮な冷たい空気が入り、ぼんやりした顔のおばあさんの青白い顔と筋肉の落ちた手足が浮かび上がり、城内さんは、よし、外界を反映させよう、と力が入ったことでしょう。それでも、変化がみられない位、脳細胞の働きは落ちたままだったのですね。

 それにしても、閉め切った部屋にこもった空気、カビ臭い布団、入浴もあまりしてもらえず、体を触ってもらうことも少なかったんでしょうね。こんな不快は外界は反映したくないですよね。だから、そのような状態になったのだなあ、と悲しくなりますね……。

       *      *      * 

 なぜ清拭が「快」なのか、その中身もあわせて(夢講義のように)解くべきであろう。初日に「変化なし」だったのは、失敗したのではなく、この精神科医がおっしゃるように、すぐには「変化がみられないくらい、脳細胞の働きは落ち」ていたのであって、改善するにはくり返しの働きかけによる量質転化が必要だったのである。

 「快」は大事な概念であって、これが苦痛を伴ったリハビリでは神経を縮こませてしまう。清拭や皮膚のさすりは、老人にとって「快」であったから、『“夢”講義』の事例と同じく「ホグレ」になったし、その延長で外におんぶして連れ出したことが、これまた良かったと思う。
 老婆は外に出るのを嫌がった結果、家に閉じこもるようになったのであるから、外はいいよとばかりに強引に連れ出したのでは、老婆はかえって五感器官が働かさせるのを拒絶したかもしれない。

 ところが、信頼できる家族がおんぶして外に連れ出してくれ、行く先々で親戚から「まあ良かったわね」と声をかけられたおかげで、当の老婆は気持ちをほぐして外出を受け入れる気持ちになったことであろう。
 神経は緊張させると、運動形態をやめてしまうのだ。だから「快」とともに外界の反映をさせたことで、老婆の神経は運動形態に置かれることになった。

 われわれの空手でも、体がガチガチの人間はうまくならない。よくわが流派では「上達させるには、神経を喜びの状態に置け」と言われる。それまで運動したことのない人間に、いきなり空手をはじめさせても、緊張して縮こまってしまう。

 運動していない人間は、そも回復過程が技化していないのだと、われわれの空手では教えられる。
 その意味でも、Kさんが、老婆にした働きかけはまさに空手でいう初心者=白帯への指導と同じであったとも言えるであろう。

 これがKさんが、長年空手の指導者として、理論の実践をなさってきた成果であろう。わが流派の空手をやっていないと、こういう「応用」はできないだろう。
 このような見事な働きかけがなぜできるのだろう、と問うことが「知的好奇心」というのだ。

 次に、老婆をおんぶして親戚周りをしたとある。これは車椅子で移動したのとは大きく違う。おんぶは自力で歩いていない分、不足ではあるが、直立姿勢に近い形での移動になり、外界の反映が人間本来のものに近づくだけでなく、腹や胸が人間本来の昼間の姿勢、つまり直立姿勢が取れたことになる。しっかり昼間の生理学になっていけたと思う。

 しかもおんぶしている人が歩いて地面からの軽い衝撃が老婆に伝わる。ここが車椅子に乗った反映と異なるはずである。
 こうした運動は、なにせそれまでは寝たきりの老人だったのだから、相当の運動になったはずである。本当は歩かせればもっと良いが、まずはこれで良かったと思う。

 ここを精神科医は次のように取り上げている。ここは見事である。
      *      *       *

 私はここに感動しました!!
 車いすで連れ出したのではなく、おんぶ、というのが見事だと思うのです。
 海保静子先生の『育児の認識学』に、赤ちゃんが立ち上がった時に、赤ちゃんが反映した像が揺れる様がイラストであったと思うのですが、それを思い出しました。おんぶによる反映の力を考えました。

 病院に車いすで連れてこられるご老人をみかけますが、表情の動きには乏しく、床ばかりを見つめている気がします。人と目線が合わない低い位置は、緊張感が乏しく、刺激も少ない気がします。また、車いすの押され方によっては、モノのように扱われるような、悲壮な気持ちにならないでしょうか?

 おんぶは、目線が上がり、外界の反映が大きく揺れます。何より、おぶってくれている人の暖かみ、息づかいをまじかで感じるし、時折「よいしょ」とおんぶしなおすことなどが感じられるし、歩きながら、Kさんはあれこれと話しかけていたことでしょう。


       *       *       *

 さすがに精神科だけあって、人間の心に理解が深い。おんぶの効用をつかんでおられると思う。
 
 最後にもう一つだけ、精神科医の見事な捉えを紹介したい。

      *      *       *

 「これまで一言もしゃべることがなかった母親が、突然にKさんの名を呼んだ。
 感動的な場面です!
 不快ではない、驚きのこもった問いかけからは、これまでの城内さんの働きかけが、お母さんにとって非常に「快」であり、反映させたいものであったことがわかります。そして名前を呼んだのは、それまでの関係性の良さや親しみが感じられます。
 安心感、よろこび、といった問いかけ的反映ができるようになったのですね。おんぶしていて顔が見えないのにどうして?とちょっと思いましたが、それまでのKさんの顔や働きかけがちゃんと反映されていたんですよね!

       *       *       *

 いずれにせよ、本ブログで説いたように、南ク継正先生が措定された一般論を媒介にして、見事な看護の取り組みができたことを証明している。Kさん自身が「論理的な働きかけ」と誇らかに述べているとおり、これこそが論理能力なのだとわからねばならないし、これが空手の論理的な指導だと言えるのである。





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2015年11月09日

痴呆の治し方(4/5)


《4》
 痴呆の老婆を覚醒させた働きかけをもう一度追ってみよう。
 まず部屋の窓を開け放って、外気を室内に入れたとある。陽光も差し込んだことだろう。外からは鳥の鳴き声や、盛夏ならセミの声も入ってきたに違いない。草花の匂いなんかも鼻腔を刺激しただろう。

 淀んで腐った空気も一掃される。生命体には新鮮な空気が必要である。
 これはどういうことかと言えば、老婆の感覚器官を蘇らせる働きがあったと思われる。
 閉じ込められた薄暗い部屋では、外界の反映などないに等しかった。つまりは五感器官はほとんど働いていない。それをKさんは外界の反映を五感器官きちんとできるようにしたのである。

 これらはナイチンゲールが『看護覚え書』のなかで、看護者が気づいて行なわなければいけないとして説いている中身そのものである。端的にいえば、Kさんはずばり、「生命力の消耗を最小にするよう生活過程をととのえた」のである。

 このお婆さんの家族は看護とは何かを知らないからやむを得ないとしても、寝たきり老人には医師と看護婦が診察に訪れていたであろうに、何の看護もしなかったとは呆れるばかりである。

 そして同時に、人間が本来日常のサイクルとして行なっている、昼間の生理学へと転換させたのである。「昼間の生理学」と、「夜間の生理学」の違いについては、南ク継正先生が『看護学科・心理学科学生への“夢”講義(2)』(現代社)で説いておられる(睡眠時無呼吸症候群の謎を解いたところ)。
 昼間の生理学とは、端的には人間は動物(サルなど)と違って、労働をする体(生理)になっており、夜の睡眠はその労働で歪まされた体(生理)を修復する「夜間の生理学」になるのである。サルの場合は、睡眠は睡眠でしかない。

 詳しくは南ク継正著『心理学科・看護学科学生への“夢”講義』をお読みいただきたい。

 痴呆老人を部屋に閉じこめて、外気にも当てなければ(反映させなければ)昼と夜の境目が判然としなくなり、まして寝たきりで労働しないのだから、地球上は昼間なのに昼間の生理学になれない状態にならされるのだ。これで脳や神経にまともに働けと言っても無理な相談であろう。
 だから老婆をしてとりあえずは寝たままとはいえ、当たり前の昼間の生理学に転換させたことにもなっている。

 これが「人間の認識は五感器官をとおして(神経を働かして)外界の反映である」という一般論をもとに、具体的には、いかに神経に働きかけるか」を実践された中身である。

 さらに「体を拭いて、それから又話しかけながら足をさする」。
 そして次の日も「起きると同時に窓を開け、体を拭いて、それから又話しかけながら足をさする」とあった。これも神経に働きかけているのだ。
 体への清拭は、皮膚の汚れを取り除くことで、皮膚感覚をより鋭敏にするし、認識への働きかけにもなっている。気持ちが良いなあと思い、ありがたいなあと思えば、それで認識は癒された状態になるであろう。
 
 それに、清拭は体の皮膚を摩擦するので、これは乾布摩擦と同じ医療的効果が望める。天寿堂稲村さんが以下のように教えてくださった。

      *       *       * 

 私は毎日乾布摩擦をしているのでこの猛暑がいつもより涼しいのではと思うほど気になりません。乾布摩擦は交感神経を鍛えるので気候の変化に強くなります。室内で熱中症に罹って死ぬ人が増えているとか、これは交感神経が退化しているためなのに全くそういうことは言われません。

 目の下に臥蚕(ガサン)というぶよぶよの水ぶくれが出来、おでことのど元にも皺がくっきりとできていて「老人顔」になっていた人が、乾布摩擦をすれば治るかも知れないと顔面とりわけ眼の乾布摩擦をはじめたのですが、一向に成果が現れずにいました。私が安藤昌益の「目は耳輪である」という言葉をヒントに耳をこすってみるよう奨めたところ、これが非常に気持ちよくそれから臥蚕も皺もすぐに取れていきました。
 全身の乾布摩擦をやると、お腹の贅肉もなくなりました。

 高血圧で悩んでいる人にも勧めたところ、顔の皺も取れ締まってきて嬉しいという言葉とともに、以前は椅子から足を下に置くとだるいのですぐに足を上に上げていたのに、乾布摩擦をするようになって足を下に置いたまま食事をするようになったという効果を聞かされました。

 手足の血管は交感神経が支配しているので、その働きが悪いために心臓が血圧を上げなければならなくなるために高血圧になっている場合には、乾布摩擦で交感神経の働きを良くして手足の血管の働きが良くしてやればよいことをこの事実は示していると思います。

      *       *       * 

 こういうことだ。だから、Kさんが老婆の体を拭き、足をさすったのは、交感神経を活発化する状態にしたことでもある。こういうことまで医師は気づいてほしいと思う。



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2015年11月07日

痴呆の治し方(3/5)


《3》
 痴呆の人へ論理的な働きかけをして快癒させた事例をめぐって、いろいろな方からコメントをいただいた。
 しかしなかなかあえて「論理的な働きかけ」と書いている理由にまで着目して感想なり質問なりをされてこられる方は少ない。

 「痴呆の治し方」として、より具体に入って解説を試みたが、一般論から対象の構造に分け入るという意味での「論理的な働きかけ」が何であったか、理解しにくいかと思うので、くどいと思われるかもしれないが、もう少し具体に踏み込んでみたい。

 ある精神科医師は、この痴呆のお婆さんの状態が「家族の顔もわからなくなり、食事をしたことすらわからないという状態」であるとの説明に対して、「ぼやけて、もやもやした像しか作れなくなってしまったのだなあ、と思います」と書いてこられた。
 その「ぼやけて、もやもやした像」とは何だろうか。本当に「ぼやけて、もやもやした像」なるものがあるのか。その「ぼやけた像」の過程的構造は説かれていない。

 精神科の医師はこう書いている。
 「痴呆になると、徘徊したり、ものとられ妄想、といって、家族に対して『自分のモノを盗んだ』等と被害的になる方もおられますが、そのような否定的な問いかけ像もなく、ただただ『わからない』状態になる、というのは、よくも悪くも、外界の反映ができにくい環境になってしまったのだなあ、と。

 ずっと閉め切った部屋で、食事も機械的に流動食かなんかを介助されながら食べさせられて、「おばあちゃん、おいしいねえ」といった声がけもなかったんでしょうか。

 環境ばかりではなく長男に外に出るな、といわれると、いやがりもせず、扱われるままになっていく、年老いてからの従順さや、足の具合が悪くなるような、もともとの運動の少なさもあったのかなあ、と想像しました。
 いずれにせよ、朝も夜も、人の顔も、食事をしたかどうかもあいまいでもやもやした認識しかもてない、脳細胞の状態になってしまったんだなあ、と痛々しく思いました。」

 とても医師としての人柄が忍ばれる判断であるけれど、それはそれとして、医師は対象の構造に踏み込んでいかねばならない。
 「よくも悪くも、外界の反映ができにくい環境になってしまったのだなあ」では済まされない。その環境とはいかなるものであったか、なぜそうなってしまったかについて、解いていかねばなるまい。
 逆に、どういう環境に変えたから「覚醒」したのかが、具体的に解かれなければならない。

 どうして「ぼやけて、もやもやした像」になってしまうのか。それはまず認識が認識自体をダメにした面がある。次は認識が生理構造をダメにした面がある。その結果、生理構造が神経をダメにし、かつ大本の脳をダメにし、まともな像を描くことができなくなった、という多重構造で「ぼやけて、もやもやした像」が形成されるに至るのである。
 
 そもそも、ボケは内臓の衰えから始まる。
 本稿に「痴呆は遺伝だ」とコメントしてきた人がいるが、痴呆は遺伝なんかじゃない。
 
 脳細胞の老化は35歳過ぎてから始まる。通常は脳細胞の実力が落ちることから始まるのだ。その脳細胞の実力は肝臓の実力で決まってくる。またその肝臓や心臓などの内臓は、手足を動かすことによって創られる。
 内臓は、食事、睡眠、そして運動(手足はどのように動かされているか)で実力が決まる。

 こういう大原則はまずは理解していないと、どうしても痴呆が遺伝じゃないかとか、なんたらの物質が不足してきたからじゃないかとか、見当違いの研究にのめり込んでしまう。この程度は、中学校の保健体育の教科書レベルの知識があれば十分であろう。

 35歳過ぎて、新しい反映はなくなってくる。仕事もまあまあ慣れてきて、家庭でも女房は新鮮さを失いはじめる。趣味にゴルフや園芸をやったとて、ことさらな激動レベルの反映などありはしない。
 いきおい、日常生活に日々流されて人は、考えたくないことは考えなくなり、また考えたいことばかり考えているようになる。
 だから認識がノンベンダラリとなって、ボケ始めるのである。

 お婆さんが寝たきりの痴呆になったのは、家族が「危ないから」といって家に閉じ込めたからである。一応の子育ても終わり、何もすることがなくなったために、新しい新鮮な反映がなくなって、少し痴呆が出始めたところで部屋に閉じこめられれば、いっそう反映が減って神経は活動しなくなる。
 家に閉じ込められれば、運動できなくなり手足はほとんど使われなくなる。だから内臓がどんどん衰えていく。肝臓の実力が落ち、その結果脳細胞の実力も落ちる。
 これが通常の老人性の痴呆への道である。

 精神科の医師は「痴呆になると」と書いている。痴呆になるから徘徊したり、妄想したりするというのは(とりあえず)間違いではないが、「なぜ痴呆になるのか」を解かねばならないのに、そこを出発点にしていないで、「なってから」を問題にしている。

 精神科医であれば、なぜ徘徊がおきるのか、『自分のモノを盗んだ』等と被害的になるのかを解かねばなるまい。
 例えば徘徊は、自分の若いころの反映は強烈で、記憶にも残っているので、老人はあの昔懐かしいアンミツ屋でクリームあんみつを食べたいと思って、探しに出る。ところがあんみつ屋へ行く目印にしていた角のガソリンスタンドはもう何十年も経っていて無くなっている。さあ大変、あのガソリンスタンドはどこだ? たしかこの当たりにあったはずなのに…と探しまわることになる。
 これが徘徊になる。

 『自分のモノを盗んだ』とか飯をまだくれないと被害的になるのは、 物欲とか食欲とか性欲といった人間にとって本能的なものは消えないからである。本能的でない家族の顔とか、算数の計算とか、土地の名前とかは、記憶が薄れてしまうのだ。
 だから飯は本能的な問題だからボケない。それで痴呆老人は飯に関しては、うるさく要求する。生まれたあとから身につけた文化的な認識は、消える。

 したがって「ぼやけて、もやもやした像」とは言うものの、本能的な像に関してはそうではなく、くっきり鮮明であろうと思われる。食欲をあからさまに他人に訴える(いぎたなさ)ことを抑制する教養が消えていくのだ。

 私の家の近くにも痴呆老人がいて、よく大声で家族を怒鳴っている。内容はわからないが、たぶん飯が遅いとか、自分がやりたいことをやってくれないというので、怒鳴るのであろう。行き遅れた娘がその父親の介護をさせられている。
 いい加減に死ねばいいのにと思うけれど…。

 よく介護施設から車が来て、その痴呆老人をどこかへ連れていっているようだ。リハビリに行くのか、単に風呂に入れてもらいに行くのか知らないけれど…。家族にしてみれば、何時間かの厄介払いで、ホッとしていることだろう。

 家族に当たりちらす我がままジジイのアタマの中の像も、「ぼやけて、もやもやした像」なのではない。いい気になって、わがままを言っても通ると認識しているのだと思う。行き遅れた娘への思い遣りという像よりも、年寄りのオレを大事にしろという像が優先的になっているのだろう。

 精神科医が言う「ただただ『わからない』状態」と言えるのかどうか。そういう解釈がボケ老人を甘やかすことになるのではなかろうか。
 「わからない状態」を演じているという場合が多いのではなかろうか。そう演じたほうが、なにしろ楽にさせてくれるからだ。
 その演じていると、本人が意図していなくても反映が鈍くなり、結果として感覚器官も鈍くなり、神経もバカになっていくのであるから。




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2015年11月06日

痴呆の治し方(2/5)


《2》
 私のブログを読んだ人からメールが来て、自分の祖母も痴呆が進んだが、それでも働きかけをすれば治るでしょうか、と問うてきた。祖母は施設に入れてからいっそう衰えてしまった。
 自分で立ち上がれない、声が小さくなった、ご飯をたくさん食べられなくなった、トイレで用がたせなくなった、弱々しくなってしまった、と。
 もし、自分の祖母もKさんのように働きかければ、良くなるでしょうか。足をさする・連れ出す、以外になにか私でもできることはあるでしょうか? と聞いてきた。

 せっかくなので、Kさんがなさった指導以外にいくつかアイデアをお伝えしたけれど、なぜ彼に医者にもできなかった芸当が可能だったかを考えてほしい。
 ただ「すごい、すごい」と感嘆し、自分の身内も治したいと思うのは人情だから、それはそれで結構であるが、なぜKさんにそれが成功したか、考えついたかを知っていただきたいと思って、この続編を書いている。

 寝たきりになっている痴呆の人を覚醒させるには、「人間の認識は五感器官をとおして(神経を働かして)外界の反映である」という一般論をもとに働きかけた、とある。これである。
 くり返し書くが、「一般論」を導きの糸にしたのだ。

 別言すれば、これが看護である。看護を学問として措定された薄井坦子先生は、その本質を定義して「看護とは、生命力の消耗を最小にするように生活過程をととのえる」とされている。この一般論が、現実の個々の看護場面でどうすることが看護になるかが、導きの糸となるのだ。

 これを別角度から、空手で説いてみよう。
 
 空手を教える場合、白帯の突きがおかしいと思った指導者は、パッと見たままにその突きの形を注意してしまう。まずいところを直して何が悪いという声がありそうだが、それは弁証法的な指導とは言えない。
 パッと見て、突きの手首が例えば右に曲がっているとすれば、その曲がりを指摘して正常のまっすぐに直したくなるものである。それが正しい形だからだ。

 ところがその曲がった突きを直したと思ったら、今度は先ほどまでの突きの形を直す前は正常だった足の形が崩れるという不思議が起きる。これを称して「モグラ叩き」という。
 例えば四方突蹴りをやっているときに、突きの形を直そうとすると、突きや蹴りは空手全体のなかでの突きなり蹴りであるから、四方突蹴り全体の中の部分であるものを直そうとすることになる。

 だから、そのおかしな部分を直したとしても、ほかの立ち方とか引き手とかが歪むのだ。
 全体の歪みが、ある部分(例えば突きの形)へと量質転化して現象していることが見てとれていない。

 だから空手の技を指導する場合に、空手とは何かの一般論から教えなければならない。うっかりすると、空手を見ずに技だけを見てしまう間違いをおかす。ダメな指導者ほど全体を見ずに、部分の技を見てしまう。
 カウンセラーなどはこの手ではないか。であるから、まじめにカウンセラーの勉強をした人ほど、全体を見ずに部分を見てしまう「力」がついてしまうのだ。

 さて、ひるがえって、痴呆の直し方に話を戻すと、多くの医療機関とか老人ホームとかでは、空手の指導でいえば「空手を見ずに技だけを見てしまう間違い」を冒しているのである。だから治らない。音楽にあわせてタンバリンを叩かせてみて、わずかに笑ったから、効果があるんじゃなかろうか、などと言うのみ。これはモグラ叩きにしかならない。
 何と言っても、痴呆を治そうという医療者に、人間とは何かと一般論(看護とは何かに匹敵する一般論)が欠如しているからである。

 ところがKさんは、空手指導歴ン十年の大ベテランであり、また南ク学派のゼミで弁証法や学問を長年学んできている人だけあって、すべて一般論を媒介に対象に働きかける事ができているのである。
 それにご自身も、一般論を信じて実践して医者も匙を投げる病気を治してみせたから、一般論の大事性をよく知悉しておられるのだ。
 その一般論を把持してのアイデアだから、痴呆の人を目覚めさせる鮮やかな手腕を見せるのである。

 だから部屋のベッドに寝たきりのお婆さんに、まず部屋の窓を開け放って新鮮な陽光やそよ風を入れ、お婆さんに反映させることをしたのである。人間の脳細胞と神経が正常に運動できる条件を創った手際は見事であった。
 もし、痴呆のお婆さんに口がきけたら、窓をあけて新鮮な空気を吸いたい、明るいお日様の光を浴びたい、誰か外へ散歩に連れていって、と言ったであろう。それが人間とは何かを知ればこそ、もの言えぬ老婆のココロを読み取ることができたのであった。

 ところが一般の庶民は、人間とはがまるでわかっていないから、徘徊する老人は家に閉じこめておくにしくはない、としてしまう。老人ホームでも同様である。できるだけ動かさないように、転倒なんかしないように車椅子に乗せ、箸よりスプーンで飯を食わせ、介護者の手がかからないように、としかしないのだ。

 ここで言う「人間とは何か」を、痴呆を治す実践にあてはめて言うならば、人間は生命体であるから太陽の光が必要であり、自然の清浄な空気も必要なのであり、また人間は社会的実在であるから、部屋に閉じこもってじっとしているのは不自然で、人と触れ合い、会話をするものなのだ。
 だからお婆さんが親戚の人たちにたくさん「話しかけられた」のが正解であった。

 けれど、大事なことを念をおしておきたいが、一般論を導きの糸として成功したからとて、受験秀才がやるように一般論を知識として覚えたのでは、対象の構造を把握したり、現実に「論理的な働きかけ」をしたりすることはできはしない。
 Kさんがご自身の病を治癒させる過程で実体で味わわれたように、一般論の再措定がなされ、一般論が知識レベルではなく、いわば血肉化していなければ、一般論を役立てることはできないのである。

 身近な例でいえば、この人間とはいかなる存在なのかの学問成果を踏まえて痴呆の人を覚醒させたように、ヘーゲルが構築したドイツ観念論哲学を導きの糸としたからこそ、さまざまな個別科学を開花させたのだと理解していただけたらと思う。

 現在の世界では、周知のように学問は衰退している。部分のまた部分の研究でしかない小惑星探査機を飛ばして喝采を浴びるなんぞが、まさに学問の衰退を象徴している。
 衰退したのは、米英を根拠地としているユダヤ勢力が世界を支配しているからである。世界中が金儲けに役立つ技術開発につながる「研究」ばかりさせられている。ユダヤ=米英の支配下で科学研究がなされ、教育もさせられているからだ。

 さっそく「はやぶさ」のエンジンがアメリカと共同で実用化がさらに進められ、売っていこうと企図されているではないか。
 だから学問がわからなくなった。

 それゆえ痴呆症についても、学問から解く科学者も医療者もいない。全体から切り離した部分にばかり着目して、研究一途である。
 痴呆を治す(?)薬の開発ばかりが医者の仕事になっている。それで痴呆が治せないどころか、人間の尊厳を踏みにじり、かえって薬の副作用で苦しみ、死期を早める人が続出している。
 そんなことではない、病室の窓を開け放って、新鮮な空気と陽光を患者に反映させれば良いのだ。

 しかし、そんなことを痴呆治療の原則にしてしまうと、病院も老人施設も儲からず、木っ端役人が権益を握って楽をすることができなくなる。



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2015年11月05日

痴呆の治し方(1/5)


《1》
 知り合いの人から、「認知行動セミナー」に行って、医師の話と臨床心理士の話をありがたく聴いた、とのメールが来た。
 そんなものに時間をつぶして聴きにいくくらいなら、私のブログを読めば良いのに、と答えておいた。
 そこで、これは2010年8月に旧「心に青雲」で紹介した痴呆の治し方について、埋もれさせておくのは惜しいので、再録する。

     ◆      ◆

 天寿堂稲村さんの実践・実体験である。
 稲村さんは地域の公共施設で「武道に学ぶ健康と護身」講座を開催し、その一般参加者の一人が痴呆症状があるというので、一緒に体を動かし、帰り際に、足先、指先の簡単な練習を教えて、これを家で毎日5分ほど続けるとよいと教えた、とあった。

 さらに、同じように痴呆症に関して、永く寝たきりで、息子も娘の顔も分からなくなった身内の人を相手に、論理的な働きかけをしたところ、突然覚醒してその後は前のように普通の会話ができるようになり、身近で介護していた人は劇的な出来事に驚いていた、とも記されていた。

 この件に関して、さらに詳しく知りたいと思い、メールで質問したのである。
 空手をやっている者であれば、ボケ予防法は理解でき、自分で実践できて当たり前だが、ボケた人にどう分からせるか、それを教えていただきたかった。
 以下に概略を紹介したい。

 まず、「武道に学ぶ健康と護身」講座で、空手をやっていない一般の参加者のなかに軽い痴呆の人がいて、その方にどう働きかけたかである。

 年齢は80歳の女性。3歳下の妹さんがいてこの妹さんが今回の講座に参加し、2回目にお姉さんを連れてきた。軽い痴呆の気があり、時々ふらっと出かけてしまいどこにいるかわからなくなるということであった。
 「見たところ80歳にしては姿勢もよく言葉つかいもしっかりしているので、痴呆症とはいえ、まだ完全にボケてしまっているのではないとわかります。またこうして外に出歩いてくるだけの前向きな認識を持っているということがよくわかりました」という。

 どういう運動をしたかというと、これは跳びながらやるのだが、まず左足をだし、跳んで両足を開いて着地し、次に右足で跳んでまた両足で着地、ということをくり返すのである。子どもの遊びにある「けんけん、パ」に似ている。
 この運動が痴呆の人にはまったくできなかった。

 そこで「イチで左足をだして、ニで両足を開いて、サンでに右足を出して、ヨンでまた両足を開いてというように、それこそ手取り足取りで足を動かすようにする。できないながらも何とか足を動かそうとすること(この過程が大事)を5分ほどつづけました。だめだ、できないというのを、大丈夫! ほらできたでしょ! と声をかけながら」一緒になって指導したという。

 足を使ってタオルをひき寄せる運動では、当該女性は足先に力が入らない(神経の働きが弱い)ためにタオルは足元に集まらない。足先をみるといかにも神経が集まっていない力のない足先をしていたそうだ。

 普通ならここで処置なしとなるのだろうが、ここでどうすべきかを考え、南ク学派の措定した〈生命の歴史〉に尋ねるなら、脳細胞は手足を使うためにできたという一般論から答えを導きだす。
 そして脳細胞は脳細胞として単独で鍛えることはできないのであり、脳細胞を鍛えるには、手足使わせることだとして実践する。

     *    *    *

 「痴呆は神経の親玉である脳細胞が正常に機能しない状態であるから、要は正常に機能するように働きかけなければなりません。脳細動は脳細胞としては鍛えることはできないのであり、これは手足を脳細胞が鍛えられるように使うしかありません。

ということで、まずは神経が通わなかった足の指を動かすこと、指を上下に動かすことをぜひ続けるように話したのでした。手も護身のときに教えた相手につかまれた手を逆に取るという護身の手の使い方をやるとよいと話しました。

 本当は裸足でのアスファルト歩きがよいのですが、ただ裸足で歩けばよいといったところで1回はやるでしょうが、まずは続かないと思うのでやめておきました。」


     *    *    *

 これが第一の、軽い痴呆の人へのアドバイスである。

 次の事例はもっと重態の、永く寝たきりで、息子も娘の顔も分からなくなったお婆さんを相手に働きかけたありかたはについてである。

 「70に近くなってから、足の具合が悪くなるに従って出歩くことが少なくなり、そのうちたまに出かけると帰りがわからなくという状態になり、家族が、危ないからということで、お婆さんが外に出ることを嫌がるようになり、外に出さなくしてしまいました。ここから一気にボケが進行して行きました。」

 
 これは K支部長が教えてくださった事例で、彼が対面してみると、その状態は予想どおりますます悪く、家族の顔もわからなくなり、食事をしたことすらわからず、ものも言えない、ただ寝たきりの状態だったという。 
 そのとき彼は「人間の認識は五感器官をとおして(神経を働かして)外界の反映である」という原則(一般論)をもとに働きかけようとする。
 具体的には、いかに神経に働きかけるかである。

     *    *    *

 「まずは、締め切った部屋の窓を開けて新鮮な外気を取り入れ、布団を敷き替え、体を洗ってやりました。次は家族に話しかけるようにさせ、私は萎えた両足を丁寧にさすり(血行を良くすると共に神経が通うようにと)これはその日2時間以上おこないました。この日は変化なし。

 次の日起きると同時に窓を開け、体を拭いて、それから又話しかけながら足をさする。
 午前中、田舎の親戚回りをするというので、お婆さんを背負って一緒に外に連れだすことにしました。何軒かの親戚を回ったときには、物言わぬお婆さんに親戚の人たちが「連れてきてもらってよかったね」とか「まー、おぶってもらって」とかいろいろと話しかけてくれたのです。

 突然の変化が起きたのはこの後でした。
 いったん家に帰って昼食をとり、一休みしたあと、お祭りでやる歌舞伎を見に村の神社に行こうということになりました。
実家から神社までは30分くらいかかるので、周りの人はお婆さんは置いていくように言ったのですが、とにかく反映をさせることが必要と考え、お婆さんをおんぶして出かけたのです。

 賑やかな人通り、祭りの囃子、木々を渡る風の中、もう少しで歌舞伎の会場に着こうかとする坂道を上っていた時、これまで一言もしゃべることがなかったお婆さんが、突然に彼の名前を呼びかけてきたのでした。
 一緒に歩いた家族がおどろき声をかけると、お婆さんは家族の名前を言い返し、これから向かう先に神社があるのかもはっきり覚えていました。

 そのあとは、特に親しい親戚の所を回ってきました。みな一様に意識が戻ったことに驚いていました。
 そのあとはというと元の生活に戻されてしまい、1年半後の2月に亡くなりました。」


     *    *    *

 という次第である。
 このK支部長の一般論を踏まえた創意工夫による働きかけは、見事の一言である。
 これこそが一般論を導きの糸とした具体への取り組みである、とみなさんにぜひ分かっていただきたい。
 私はとりわけ、病人の寝たきりになっている部屋の窓を開け放った、という最初の行動に感動している。

 むろん、最初の講習会での軽い痴呆の人への働きかけも、脳とは何か、神経とは何かの一般論を媒介にしての働きかけで、K支部長の言う事がまだわかる軽症のお婆さんへのすばらしい適応であった。
 
 看護婦ならこれをやって当たり前ではあるが、ナイチンゲールと薄井担子先生の理論を学んでいない二流の看護婦には、できない芸当であろう。

 K支部長が説いている最も大事なところは、「痴呆は神経の親玉である脳細胞が正常に機能しない状態であるから、要は正常に機能するように働きかけなければなりません。脳細動は脳細胞としては鍛えることはできないのであり、これは手足を脳細胞が鍛えられるように使うしかありません」ということである。
 また手指足指を意図的に動かせない重態の痴呆の人には、脳細胞の本来的機能である反映を蘇らせることで、脳を「正常に機能するように働きかけた」ということなのである。

 これは痴呆になっている人への働きかけであるが、同じことは知識秀才に育ってしまった「若ボケ」の人間にも当てはまることなのである。また、この神経の使い方が空手の達人への道でもあると思う。




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2015年11月04日

野球選手の賭博への疑問


 野球賭博が話題になっている。
 巨人の3選手が処分をくらっている。
 私はギャンブルがいいとも思わないし、巨人の選手を贔屓にするわけではないけれど、マスゴミが大騒ぎをするほどのことか? という印象である。

 聖書に「罪なき者まづ石を擲(う)て」の有名な言葉がある。
 「ヨハネによる福音書」の中の逸話である。
 パリサイ人が、姦淫の場で捕えられた女を連れて来て、イエスに問うた。「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。あなたは何と言われますか」 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。イエスはこう言った。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」

 これである。
 プロ野球の選手が、八百長をやって暴力団に稼がせたという疑惑なら、かつての「黒い霧事件」のごとくに厳罰もやむを得まいが、巨人3選手の場合は、自分がプロ野球や高校野球の試合に賭けた、だけではないか(今のところ)。

 じゃあそれを最大の罪のように、一面トップで報じた新聞記者どもは、パチンコも競馬も、ゴルフや麻雀などで賭けはやらないというのか? こっそりやっているだろうに。
 自分は良くて、巨人の選手はダメというのはスジの通る話か? 
 そもそも政府や自治体が、宝くじや、競馬競輪をやり、文科省はなんとスポーツ振興とかの名目でサッカークジまでやっている。

 パチンコや競馬などにも、暴力団の影はあるし、取り締まるべき警察官すら定年後の再就職先になっている実態があるではないか。
 なんでこっちは良くて、個人的賭博はダメなのか? 私はむろん全部悪いという立場だ。博打賭博は心を病ませるからだ。また暴力団その他の反日勢力の資金源にもなるゆえにである。
 政府や自治体が大規模なカジノをつくって雇用を増やそうとするのは絶対反対である。

 そういう趣旨からは、むろん巨人の選手を嗜めるべきであると思うし、暴力団の関与があれば資格剥奪で良いとは思うが、陰でこそこそ政府や自治体、あるいは内輪での賭けは構わないんだとするのには反対である。

 野球選手が賭博をやるのは、子供の夢を壊すなどという向きがあるが、子供はそれで幻滅を感じるのではなくて、大人が二枚舌で、陰でこそこそ賭け麻雀や賭けゴルフ、競馬なんかをやっていながら、それはお咎めなしで、野球選手だけいじめるその裏表のある態度である。

 しばらく前には、大相撲の賭博容疑で何人もの力士が追放された。
 大相撲は、そもそもガチンコ勝負ばかりではない。手抜きやわざと負ける取り組みは跡を絶たない。証拠はつかみにくいが、誰でも八百長があることは知っている。それを良いとは言わないが、あの事件で名を挙げられた力士だけが追放されたのは不公平感が残った。

 くわえてプロレスともなれば、真剣勝負なんかじゃないことは前提で、単なる格闘技ショーである。
 あんなものの「味方です」と言った作家・村松友視を心底軽蔑したものだった。
 プロレスは構わなくて、プロ野球選手や力士が、個人的に博打に手をだしたことは糧道を断たれるほどの悪なのだろうか。

 私は巨人の選手には、謹慎1カ月くらいの処分で良かろうと思う。あれをダメだと言ったら、新聞記者どもの大半はみんななんらかの賭博行為をやったからやっているはずで、みんなクビにしなければなるまい。

 それに、朝日新聞や毎日新聞が大騒ぎする背景は、あれが同業のライバル読売新聞の不祥事だからである。ここを先途と悪口を書き、叩いて読売の発行部数を少しでも減らしてやりたい底意が見える。
 プロ野球で、しかも巨人のことなら社会的影響は大きいと言えないことはなかろうが、せいぜいその業界内のことでしかない。

 




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2015年11月03日

支那“爆買い”ツアーは蝗害である


 先週、京都へ旅行した話をしたが、宇治平等院に行った際に、ひどいものを見せられた。
 平等院鳳凰堂が正面に見える池の端で、支那人観光客が数人たむろしていた。まんなかに小さな1〜2歳の子供がいる。大人たちはみんな笑っていた。

 はじめは支那人とも日本人ともわからなかったが、チラッと見ると子供の服はお尻が大きく開いている。ズボンをはいたまま、排便ができるように、服自体に穴をあけてあるのだ。あちらでは一般的である。子供は外で遊んでいて、催したらズボンを脱がずに、親もかけつける必要がないから排便ができる。「すぐれもの」と奴らは思っているようだ。

 それを見た瞬間に「あ、支那人だ」と気付いた。
 子供の尻に、母親らしき女が紙を持って糞を受け取ろうしている。支那人たちは周囲から見えないように取り囲んでいるのだった。

 幕を張っているわけではないから、人の隙間からその様子が丸見え。おそらく子供が突然「うんち」と言ったのだろう。まともな親なら大急ぎでトイレに連れていくのに、奴らはどこでも排便できるように、服の尻部分を開けてあるから、その場で脱糞させたのだ。

 さらに、京都の四条大橋のそばでは、歩道の信号を渡っていた支那人の観光客どもが、赤に変わっているのに、悠々と横断歩道を渡っていて、クルマに激しく「どけ!」とクラクションを鳴らされていた。傍若無人の振る舞い。

 媚中副島隆彦は10月8日付のHPの記事で、
 「今の日本人のほとんどは、脳(頭)をアメリカと、日本の右翼国家機関にヤラれている(侵されている)から、正常な判断力を持っていない。 中国と北朝鮮を、コワイ、コワイ、気持ちの悪い国だ、と厭(いや)がり恐怖することを中心に、洗脳されている。 だから高い知性と教養のある人間が、ドンドン減っている。」

 と、かように傲慢な口ぶりであるが、こうした実際の支那人の狼藉ぶりにはひと言も言わないでいる。
 ついでに言うと、媚中副島は「頭を侵されている」と表記しているが。これは「冒される」という漢字を用いなければならない。「侵す」と「犯す」と「冒す」の区別がついていない。

 媚中副島は、支那人を軽蔑するな、気持ち悪いとか汚ないとか言うのもダメと傲岸不遜に言うけれど、私たちの大切な文化遺産の一つである神社仏閣のなかで、ガキに排便させることを、まともな人間なら怒って当たり前である。そういう事実については副島はだんまりだ。「高い知性と教養のある人間」は、日本の文化遺産で脱糞されても、「まあいいじゃないか」と言うらしい。

 支那人はあまりに民度が低く身勝手なために、世界中で嫌われているのだ。身から出た錆、自業自得、天に唾する、平家を滅ぼすは平家、悪因悪果、悪事身に返る、因果応報…とこうなる。
 世界中で彼らの行動は「蝗害(こうがい)」(大量のイナゴが襲いかかる)と言われるのだ。

 テレビで支那人ツアー客にインタビューなどしているが、たいていはそれでもまともなほうの顔の支那人を選んでみせていると思われる。だが現実に、大量の支那人観光客を見ていると、ゾッと寒気がするほどの、この世のモノとは思えない顔つきの支那人がいる。

 日本人にはない顔だから、なんと形容していいかわからない。きっと、大人になっても足し算も知らない、文盲、ジコチュウ、欲得だけ、平気で人殺しができるヘビのような目、とでも言えば近い表現になるだろうか。「阿Q」とはかくのごときを言ったものかと、怖気を振るいたくなる。

 これを差別というなかれ。むしろ私は彼らのためを思えばこそ言っている。アフリカやアマゾンの奥地などの原住民に、言っては悪いがサル並みの顔をした者がいるにはいるが、支那人のそうしたゾッとするような顔は見たことがない。質がまったく違う。

 日本のマスゴミはわざとそういう、恐ろしい下品の極みというべき顔の支那人は登場させないのであろう。いや、下品ならまだましで、むしろ人間らしい表情を全部削ぎ取った、というべきだろう。
 支那の最下層の、想像を絶した凄まじさを、観光客の中に垣間見ることがある。

 さて。話は変わるが、支那ウオッチャーの評論家・河添恵子氏が、「月刊河添恵子」というYouTubeの動画(倉山満との対談)で支那人の“爆買”の裏事情、特異性を解説していた。
 これを紹介していきたいと思う。

 支那人は投機はしても投資はしない人種である。日本に“爆買”にやってくる者は、マスゴミが言うような「富裕層」ではなくて、投機でうまくいった「にわか成り金」ばかりなのだと河添氏は説いていく。つまり、株なんかで一時的に儲けた輩であって、富裕層と言うのは正確な表現ではない、と知るべきである。

 そう言われてみれば、支那人の観光客の中にまったくの無教養でゾッとする下品な顔立ちの者が多いのがわかるのである。富裕層なら、ある程度は教育とか教養とかに時間とカネをかけるが、そんな気配は皆無だからである。

 日本のマスゴミでは“爆買”を良いことのように報道する。買ってくれるならウエルカムだと。しかしそれは真実の上澄みだけを取り上げているに過ぎず、かえって日本人の支那に対する正しい判断を誤らせると河添氏は言う。

 現実には、“爆買い”に来るツアー客には、日本側は薄利多売を強いられているだけでなく、ものは壊され、汚され、損をさせられる事例が多い。例えばホテルでは値切られた上に、カーテンやシーツで汚れた手を拭いて、二度と使えなくさせられるとかである。

 飛行機では、上海便、北京便は支那人がドッと乗り込むから、普通のそれ以外の航路と比べて何倍ものゴミが出る。備品は全部持ち去る。シートは食い物のカスで汚れ放題。支那人を嫌がって日本人やまともな外国人が乗らなくなる。
 だから決して航空会社は儲からない。

 日本の商店では、支那人がマナーもなく商品を触りまくり、指紋でベタベタにされて、売り物にならなくなる。目先の利益を見込んで、支那人ツアー客を呼び入れると大変なことになっている。

 支那人は“爆買い”していくと、本国に戻ってそれらはすべて転売されるか賄賂に流されて行く。習近平の政策で、「反腐敗キャンペーン」が謳われるようになって、支那人どうしの賄賂のやりとりをもし国内品で買うとバレてしまう。だから足のつかない日本で買うのだ。
 それに支那人には、メイドイン・フランス、メイドイン・イタリア、メイドイン・ジャパンは人気なのである。
 支那国産品では賄賂の価値は低い。

 現在は支那人の“爆買い”で潤っている観光地やホテル、商店などであっても、支那のツアーは自由に来ているように見えながら、実際は中共政府のさじ加減一つであって、突然「禁止」措置がとられる可能性は高い。
 “爆買い”を当て込んで、施設を拡充し従業員を増やし、商品を仕入れていると、突然梯子を外されて狂騒がパタッとなくなる。

 支那ツアー団体の場合、支払いは3〜4カ月後の手形である。
 だから今来ている客に、ホテルやレストランが出す料理は持ちだしで対応している。
 ホテル側が大規模に客を収容できるだろうと、もっと増築して、従業員を雇用し、大量のツアー客を見込む対応をすると、支那はパタッとそのホテルに客を送り込むのを止める。

 キャンセルも言わずに来なくなる。問い合わせても、もう支那の代理店は解散して誰もいない。
 借金までして施設を拡大したホテルは一瞬で倒産させられる。そこでやおら支那人企業家が買収に乗り出すのである。こういうふうに支那人は計画的に日本企業を追い込む。大きなところほど、あるいは街中の立地条件の良いホテルなどが狙われる。

 支那を当て込んだビジネスモデルはきっと破綻する。
 媚中副島は、「アジア人同士、戦わず」と言うなら、まずは支那人に日本を侵食するなと説得してこい。
 日本人はややもすると売上を重視するが、大事なのは利益である。支那ビジネスで売上げは“爆買い”によって大きくとも、まったく儲からないと知るべきである。

 そもそも支那からのツアーは日本人を儲けさせまいとしている。大型ツアーは支那の航空会社や船会社しか使わない。日本の大手旅行代理店、近畿ツーリストやJTBなどは関わらない。日本でも支那の代理店だけが関わる。
 ホテルも支那の資本が入っているところが選ばれる。そしてツアー客は、そのホテルで朝昼晩と支那料理を食べる。

 日本の街で外食することがあっても、吉野家の牛丼みたいな処に言って、できるだけカネを落とさないようにする。
 電化製品は、LAOXで買う。LAOXは2009年に支那の大手家電量販店チェーン蘇寧電器に買収され、従業員も支那人になっている。LAOXは地方空港に良く出店している。日本企業がチャンスを奪われている。

ラオックスは元はごく普通の家電量販店だったが主力だったが、チャイナ資本になってから、化粧品、紙おむつ、ホビー関係、民芸品、ブランド品、服飾など、取扱商品は多岐にわたるようになった。
 もはや家電量販店ではなく、総合免税店と言われる。
だからツアー客どもは一斉に支那資本のラオックスであらゆるもの買いまくる。

 蘇寧電器とはアフターサービスで提携しており、支那人どもは日本のラオックスで買ったものを中国全土にある蘇寧電器に持っていけば、交換修理の受付ができるわけだ。
 銀座に大型バスを乗り付けて駐車し、交通で大迷惑を引き起こしているのは、LAOX銀座店に支那人ツアーが押し寄せるからだ。

 免税店の仕掛けについても河添氏は警鐘を鳴らしている。
 免税システムとは、多くの国ではtax refund と言って還元方式が主流である。これは外人観光客がその国で買い物をした場合は、出国前に空港で清算する仕組みで、係官に商品とレシートを見せ、一覧表を作成して提出するなど面倒な手続きが必要である。認められれば、その場で免税分が支払われる。

 あるいは客が本国に戻ってから申請すると、買った客の銀行口座に免税分のカネが払い込まれる。面倒だからと申請せず、税を払った状態で帰国して行く観光客もいるから、その国にとってはシメシメと嬉しい話だ。
 わざと空港で行列をさせ、手続きを煩雑にし、できるだけ税を払わせる(置いていかせる)魂胆である。

 ところが日本では様子がちがって、外国人は免税店で買えば、その場で消費税分8%は引いて買い物ができる。むろんタバコや酒もドンと免税になるからこんなおいしい話はない。

 日本人は外人観光客ばかり妙に優遇され、損をさせられている。
 「おもてなし」とか抜かして、支那人の悪辣な“爆買い”を応援している。免税で“爆買い”されたモノは転売されたり賄賂に使われたりするのだ。
 支那は日本を特定して荒らし回っている。そういう相手だと、日本政府も害務省は認識しないで、優遇ばかりしている。

 こうした現実を、副島隆彦は無視して、しらばっくれて、支那人を気持ち悪いと差別するなと言うから、私は「媚中」という“尊称”奉るのである。




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2015年11月02日

追いつめられるザイニチ


 ブログの「余命3年時事日記」10月28日付けの記事に、首肯して膝を叩いたので、一部を引用しておく。

     *    *    *

 秋の臨時国会を召集せず、時間稼ぎという件だが、すべてはマイナンバーにあると言っていいだろう。通知書送付に11月いっぱいはかかると思われるからだ。これは企業や団体組織、在日にも付与されるため、確認作業を含めると12月に食い込む可能性まである。一応、それを確認することができれば、来年の通常国会の前倒し招集まで考えられる。

 従前、過去ログで記述しているが、安倍戦略は中韓放置、あしらっておけば自滅するとみている。もちろん南シナ海や尖閣は横目で見ている。衝突は大きな声では言えないが大歓迎である。国内の在日、反日勢力の大掃除ができるからだ。少なくとも11月いっぱいは紆余曲折はあるだろうがこのままだろう。

 さて、このマイナンバーだが安倍総理がそこまでこだわり、逆に受け取りを拒否とかその他いろいろな抵抗をする人たちがいるが、それはなぜだろう?それは以下に集約される。
 個人、企業、団体、在日外国人その他に付与されるナンバーにより、情報をすべて一元管理することが可能となる。つまりお金の流れが追えるからつながりが明らかになる。

     *    *    *

 「余命3年時事日記」は、しきりに安倍首相がザイニチの国籍や資産をあぶり出し、最終的には本国へ帰らせる施策として手を打ちつつあるとし、マイナンバー制度もその一環であると述べている。
 マイナンバー制度は昔から自民党が提案しては、野党やマスゴミの圧力で廃案になってきた。一番最初は、「国民総背番号制」などと言っていたかと覚えている。サヨクはこれはプライバシーの侵害だと抗議してきた。それに負けて何十年も陽の目を見ない制度だったが、ついに安倍首相が押し切った。

 だからサヨクは、血相変えて先の安保法案で猛反対をやり、戦争になるぞとデマまで飛ばして、必死に安倍首相を退陣させ、このマイナンバー制度を葬ろうとしていた。
 その意図は簡単で、「余命3年時事日記」氏によれば、ザイニチの隠し財産、闇の資金洗浄、多数の銀行口座、通名での不正などがバレてしまうので、ザイニチ=反日勢力は慌てふためいたのである。

 マイナンバー制度では、今のところ何がプライバシーかと言っても、別に脱税とか二重国籍とか、法に触れることでもしないかぎり、すでに行政が知っている「氏名、年齢、住所」程度の情報であって、それが各省庁や地方自治体で共通に管理できて便利になるなら、別に構わないじゃないかというシロモノである。

 各自の預貯金なんかも、今さら隠しようもない。とうにお上に把握されている。
 大仰にプライバシーが侵害される懸念がある、などとサヨクマスゴミが主張するほどのものではない。
 管理が杜撰になって、木っ端役人が情報を外部に流すリスクはあるが、この程度ならどんな家にもダイレクトメールが届くようなぐあいで、とっくに名前と住所は洩れている。マイナンバーだけにリスクがあるのではない。

 マイナンバーにサヨク=反日勢力が反対するのは、結局ザイニチが特権を利用して不正をしてきたことがトドメを刺される「懸念」があるからである。
 ザイニチを一掃し、日本人が日本に住む快適さを回復できるなら、最低限の個人情報(と言えない程度の)を行政が管理したって、構わない。

 さて、その制度が順調に軌道に乗って、すべての住民にマイナンバーが行き渡るのを待っているので、臨時国会は開かない、とは、面白い情報で、だからマスゴミはこの本当の理由をあきらかにせず、野党が言うような、やれ臨時国会を開くのは慣習じゃないかとか、国会で審議すべき課題が山積しているとかくだらないことを言って、臨時国会を開かせようとしている。

政府の方は、あからさまに意図は言えないから、とぼけていると見られる。正直にザイニチ潰しだといえば、マスゴミもサヨク運動家も大騒ぎするから、黙っている。

 ただ、いつもこの「余命3年時事日記」の文章はわかりにくく、不親切で、なぜ政府がマイナンバーが行き渡るまで、臨時国会を開かないのか、開けないのか、よくわからない。ただ、サヨクの反対で混乱を来さないように、ということなのか? しかわからない。

 日本のアングラマネー(地下経済。政府が実態を把握できていないカネの流れ)は、約21兆9千億円とも言われる。暴力団やザイニチの資金源がほとんどだ。
 日本の一般会計の予算は約80兆円だから、アングラマネーの規模は相当大きい。

 アングラマネーの内訳は、脱税と暴力団の非合法ビジネスである。覚醒剤取引、非合法賭博、売春などがある。
 ほかにも、病院で医師へ謝礼金を持って行くなんてのもある。医師への謝礼は約2700億円にもなるそうだ。

 脱税は7.4兆円から14.2兆円と言われる。これが世界でもトップクラスの不名誉な数字である。
 これがわかっていながら、政治家も一枚噛んでいるからか、是正の動きがなかった。しかしやっと安倍政権が一部に手をつけることに成功した。

 アングラマネーはどこの国でもあるだろうが、わが国の場合はザイニチがその旨い汁を吸っている点に特徴がある。彼らはさまざまな手をつかって、法の抜け道をくぐり抜ける。通名もその一つだ。
 マイナンバー制度で、相当改善されることが期待できる。

 ところで、私が一番同感だったのは、「もちろん南シナ海や尖閣は横目で見ている。衝突は大きな声では言えないが大歓迎である。国内の在日、反日勢力の大掃除ができるからだ」との文言である。
 サヨク護憲派は、日本の自衛隊がアメリカに仕掛けられて尖閣諸島や南支那海で戦争に巻き込まれると憂慮しているようだが、私はそうした衝突が起きることを(ひそかに)願っている。

 第一に、昭和20年夏以来、日本は実戦を経験していない。陰で朝鮮戦争に参加したとか、ホルムズ海峡で機雷除去や、外国軍艦に給油したとか、イラクのサマーワでゲリラの砲撃を受けたとかはあっても、まともに戦闘はやっていない。
 だから支那と戦争になるなら、いい実戦経験になるからだ。

 それに、先きごろのアメリカ海軍のイージス艦ラッセンが、南沙諸島で支那が勝手に暗礁を埋め立てて領有を主張している海域に進入した件でわかるとおり、へたれ支那軍には反撃する力がない。
 へたに米軍や自衛隊に戦闘行為をふっかけて本格的戦闘になったら、支那の海軍、空軍はほぼ一瞬で潰滅する。

 戦闘機は離陸すらできず、艦船は港から出ることもできないで殲滅される。兵頭二十八氏が書いているとおり、日本は近海一帯に機雷を敷設済みで、しかもその機雷は、敵艦船を探知したら遠くにあっても魚雷型機雷なので、海中から正確に飛びかかることができる。日本の潜水艦は無音で海中に隠れていられるが、支那の潜水艦は騒音がひどく、すぐに探知されてしまう
 まさに専守防衛の極み。だから支那海軍は港から出撃できない。

 飛行機にいたっては、支那の戦闘機は飛ぶたびにボロボロ壊れていくシロモノで、先日も支那は日本空軍機がスクランブルをかけないでくれと泣きついてきた。

 最近、マンガでかわぐちかいじ氏が『空母いぶき』を描きはじめている(ビッグコミック連載)。『沈黙の艦隊』や『ジパング』で好評価を得た漫画家だ。新作は、尖閣諸島に支那軍が侵攻し、宣戦布告なき戦争が始まるという話である。マンガでは支那の潜水艦や戦闘機・殲が登場して自衛隊と相見えるが、これは支那軍もある程度軍事力があることにしないとマンガ作品にならないからで、現実には、支那が尖閣諸島や先島諸島を占領する実力すらない。

 ただ、支那は核兵器を持ち、わがほうは持っていないところが心配なだけ。当然、日本も核武装すべきである。支那軍が暴れてくれれば、アメリカも風潮が変わり、日本に核をもたせても良いと思うようになるかもしれない。
 
 それで「余命3年時事日記」氏は、「国内の在日、反日勢力の大掃除ができるからだ」と書いているとおり、戦闘が起きれば堂々と、日本は外患罪を支那人や同調するとみられる韓国人に適用してしょっぴくか、本国へ送還できる。外患誘致罪には死刑しかない。

 したがって、日本人でも安保法案に反対して、国家の安全保障政策を妨害して、支那や南北朝鮮を利すれば、外患罪の適用となる。共産党の別働隊としてこの夏有名になった学生グループなどは、当然その捜査対象になる。
 仮に、日本とアメリカが支那軍と戦闘状態になれば、まっさきに安保法案に反対した連中は(あれは利敵行為だから)官憲に逮捕されるのだから、クビを洗っておいたほうがいい。

 言論の自由よりも、国家国民の安全のほうが優先される。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする