2015年11月07日

痴呆の治し方(3/5)


《3》
 痴呆の人へ論理的な働きかけをして快癒させた事例をめぐって、いろいろな方からコメントをいただいた。
 しかしなかなかあえて「論理的な働きかけ」と書いている理由にまで着目して感想なり質問なりをされてこられる方は少ない。

 「痴呆の治し方」として、より具体に入って解説を試みたが、一般論から対象の構造に分け入るという意味での「論理的な働きかけ」が何であったか、理解しにくいかと思うので、くどいと思われるかもしれないが、もう少し具体に踏み込んでみたい。

 ある精神科医師は、この痴呆のお婆さんの状態が「家族の顔もわからなくなり、食事をしたことすらわからないという状態」であるとの説明に対して、「ぼやけて、もやもやした像しか作れなくなってしまったのだなあ、と思います」と書いてこられた。
 その「ぼやけて、もやもやした像」とは何だろうか。本当に「ぼやけて、もやもやした像」なるものがあるのか。その「ぼやけた像」の過程的構造は説かれていない。

 精神科の医師はこう書いている。
 「痴呆になると、徘徊したり、ものとられ妄想、といって、家族に対して『自分のモノを盗んだ』等と被害的になる方もおられますが、そのような否定的な問いかけ像もなく、ただただ『わからない』状態になる、というのは、よくも悪くも、外界の反映ができにくい環境になってしまったのだなあ、と。

 ずっと閉め切った部屋で、食事も機械的に流動食かなんかを介助されながら食べさせられて、「おばあちゃん、おいしいねえ」といった声がけもなかったんでしょうか。

 環境ばかりではなく長男に外に出るな、といわれると、いやがりもせず、扱われるままになっていく、年老いてからの従順さや、足の具合が悪くなるような、もともとの運動の少なさもあったのかなあ、と想像しました。
 いずれにせよ、朝も夜も、人の顔も、食事をしたかどうかもあいまいでもやもやした認識しかもてない、脳細胞の状態になってしまったんだなあ、と痛々しく思いました。」

 とても医師としての人柄が忍ばれる判断であるけれど、それはそれとして、医師は対象の構造に踏み込んでいかねばならない。
 「よくも悪くも、外界の反映ができにくい環境になってしまったのだなあ」では済まされない。その環境とはいかなるものであったか、なぜそうなってしまったかについて、解いていかねばなるまい。
 逆に、どういう環境に変えたから「覚醒」したのかが、具体的に解かれなければならない。

 どうして「ぼやけて、もやもやした像」になってしまうのか。それはまず認識が認識自体をダメにした面がある。次は認識が生理構造をダメにした面がある。その結果、生理構造が神経をダメにし、かつ大本の脳をダメにし、まともな像を描くことができなくなった、という多重構造で「ぼやけて、もやもやした像」が形成されるに至るのである。
 
 そもそも、ボケは内臓の衰えから始まる。
 本稿に「痴呆は遺伝だ」とコメントしてきた人がいるが、痴呆は遺伝なんかじゃない。
 
 脳細胞の老化は35歳過ぎてから始まる。通常は脳細胞の実力が落ちることから始まるのだ。その脳細胞の実力は肝臓の実力で決まってくる。またその肝臓や心臓などの内臓は、手足を動かすことによって創られる。
 内臓は、食事、睡眠、そして運動(手足はどのように動かされているか)で実力が決まる。

 こういう大原則はまずは理解していないと、どうしても痴呆が遺伝じゃないかとか、なんたらの物質が不足してきたからじゃないかとか、見当違いの研究にのめり込んでしまう。この程度は、中学校の保健体育の教科書レベルの知識があれば十分であろう。

 35歳過ぎて、新しい反映はなくなってくる。仕事もまあまあ慣れてきて、家庭でも女房は新鮮さを失いはじめる。趣味にゴルフや園芸をやったとて、ことさらな激動レベルの反映などありはしない。
 いきおい、日常生活に日々流されて人は、考えたくないことは考えなくなり、また考えたいことばかり考えているようになる。
 だから認識がノンベンダラリとなって、ボケ始めるのである。

 お婆さんが寝たきりの痴呆になったのは、家族が「危ないから」といって家に閉じ込めたからである。一応の子育ても終わり、何もすることがなくなったために、新しい新鮮な反映がなくなって、少し痴呆が出始めたところで部屋に閉じこめられれば、いっそう反映が減って神経は活動しなくなる。
 家に閉じ込められれば、運動できなくなり手足はほとんど使われなくなる。だから内臓がどんどん衰えていく。肝臓の実力が落ち、その結果脳細胞の実力も落ちる。
 これが通常の老人性の痴呆への道である。

 精神科の医師は「痴呆になると」と書いている。痴呆になるから徘徊したり、妄想したりするというのは(とりあえず)間違いではないが、「なぜ痴呆になるのか」を解かねばならないのに、そこを出発点にしていないで、「なってから」を問題にしている。

 精神科医であれば、なぜ徘徊がおきるのか、『自分のモノを盗んだ』等と被害的になるのかを解かねばなるまい。
 例えば徘徊は、自分の若いころの反映は強烈で、記憶にも残っているので、老人はあの昔懐かしいアンミツ屋でクリームあんみつを食べたいと思って、探しに出る。ところがあんみつ屋へ行く目印にしていた角のガソリンスタンドはもう何十年も経っていて無くなっている。さあ大変、あのガソリンスタンドはどこだ? たしかこの当たりにあったはずなのに…と探しまわることになる。
 これが徘徊になる。

 『自分のモノを盗んだ』とか飯をまだくれないと被害的になるのは、 物欲とか食欲とか性欲といった人間にとって本能的なものは消えないからである。本能的でない家族の顔とか、算数の計算とか、土地の名前とかは、記憶が薄れてしまうのだ。
 だから飯は本能的な問題だからボケない。それで痴呆老人は飯に関しては、うるさく要求する。生まれたあとから身につけた文化的な認識は、消える。

 したがって「ぼやけて、もやもやした像」とは言うものの、本能的な像に関してはそうではなく、くっきり鮮明であろうと思われる。食欲をあからさまに他人に訴える(いぎたなさ)ことを抑制する教養が消えていくのだ。

 私の家の近くにも痴呆老人がいて、よく大声で家族を怒鳴っている。内容はわからないが、たぶん飯が遅いとか、自分がやりたいことをやってくれないというので、怒鳴るのであろう。行き遅れた娘がその父親の介護をさせられている。
 いい加減に死ねばいいのにと思うけれど…。

 よく介護施設から車が来て、その痴呆老人をどこかへ連れていっているようだ。リハビリに行くのか、単に風呂に入れてもらいに行くのか知らないけれど…。家族にしてみれば、何時間かの厄介払いで、ホッとしていることだろう。

 家族に当たりちらす我がままジジイのアタマの中の像も、「ぼやけて、もやもやした像」なのではない。いい気になって、わがままを言っても通ると認識しているのだと思う。行き遅れた娘への思い遣りという像よりも、年寄りのオレを大事にしろという像が優先的になっているのだろう。

 精神科医が言う「ただただ『わからない』状態」と言えるのかどうか。そういう解釈がボケ老人を甘やかすことになるのではなかろうか。
 「わからない状態」を演じているという場合が多いのではなかろうか。そう演じたほうが、なにしろ楽にさせてくれるからだ。
 その演じていると、本人が意図していなくても反映が鈍くなり、結果として感覚器官も鈍くなり、神経もバカになっていくのであるから。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする