2015年11月10日

痴呆の治し方(5/5)


《5》 
 寝たきりの痴呆老人の足をさすった、と聞いて思い出すのは、『 なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義(2)』の、看護学生Dさんの「夢にうなされる事例」で、患者にゆっくり話を聞きながら足をさすった話である。
 『 “夢”講義(2)』を読んだ方は、強烈な印象を残していることだろう。
 あの事例の患者(老婆)にも、さすったことが一種の鍼灸効果を引き起こした、とあった。

 以下は『 “夢”講義(2)』からの引用。
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 そうやって、筋肉も神経もおだやかになりかかったところへ、Dさんの患者さんへのさすりの状態が加わったわけです。

 これは当然に、つまりDさんの患者さんへのさすりの行為はおだやかな心持ちになった患者さんの筋肉をより一層やわらかくほぐして、これがために神経そのものへのさすりとなり、神経への刺激が目的を持ったものとなり、神経を運動形態に置くことができる状態となっていった、ということなのです。こうして「合わせ技ながら一本」という、見事にハリ・灸レベルの技へと近づいていたわけです。

 結果、その神経がどうなっていったのでしょう。しだいしだいに、神経をほぐされていった患者さんは、その神経のホグレが、これまたしだいしだいに一つまた一つといったふうに脳に伝わり、結果として脳の神経としてのホグレが、脳が統括していた認識(心)の突発的なホグレとまでなっていったのでした。

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 痴呆の老婆に働きかけたことも、この『“夢”講義』の事例の夢でうなされる患者への働きかけと、論理的には同一のものがあったと思われる。 
 閉ざされ、薄暗い空気の淀んだ部屋が解放されて新鮮な空気や陽光がさしこみ、「 筋肉も神経もおだやかになりかかったところへ」、体の清拭と「患者さんへのさすりの状態が加わったわけ」である。

 だから老婆への「さすりの行為はおだやかな心持ちになった患者さん(老婆)の筋肉をより一層やわらかくほぐして、これがために神経そのものへのさすりとなり、神経への刺激が目的を持ったものとなり、神経を運動形態に置くことができる状態となっていった」と読むことができよう。

 私にメールで感想をくださった精神科医はどう答えているだろうか。

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 人間が『快』を求めるということから、『快』となる働きかけをしておられるところが見事だと思います。
 ぱっと光が入り、新鮮な冷たい空気が入り、ぼんやりした顔のおばあさんの青白い顔と筋肉の落ちた手足が浮かび上がり、城内さんは、よし、外界を反映させよう、と力が入ったことでしょう。それでも、変化がみられない位、脳細胞の働きは落ちたままだったのですね。

 それにしても、閉め切った部屋にこもった空気、カビ臭い布団、入浴もあまりしてもらえず、体を触ってもらうことも少なかったんでしょうね。こんな不快は外界は反映したくないですよね。だから、そのような状態になったのだなあ、と悲しくなりますね……。

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 なぜ清拭が「快」なのか、その中身もあわせて(夢講義のように)解くべきであろう。初日に「変化なし」だったのは、失敗したのではなく、この精神科医がおっしゃるように、すぐには「変化がみられないくらい、脳細胞の働きは落ち」ていたのであって、改善するにはくり返しの働きかけによる量質転化が必要だったのである。

 「快」は大事な概念であって、これが苦痛を伴ったリハビリでは神経を縮こませてしまう。清拭や皮膚のさすりは、老人にとって「快」であったから、『“夢”講義』の事例と同じく「ホグレ」になったし、その延長で外におんぶして連れ出したことが、これまた良かったと思う。
 老婆は外に出るのを嫌がった結果、家に閉じこもるようになったのであるから、外はいいよとばかりに強引に連れ出したのでは、老婆はかえって五感器官が働かさせるのを拒絶したかもしれない。

 ところが、信頼できる家族がおんぶして外に連れ出してくれ、行く先々で親戚から「まあ良かったわね」と声をかけられたおかげで、当の老婆は気持ちをほぐして外出を受け入れる気持ちになったことであろう。
 神経は緊張させると、運動形態をやめてしまうのだ。だから「快」とともに外界の反映をさせたことで、老婆の神経は運動形態に置かれることになった。

 われわれの空手でも、体がガチガチの人間はうまくならない。よくわが流派では「上達させるには、神経を喜びの状態に置け」と言われる。それまで運動したことのない人間に、いきなり空手をはじめさせても、緊張して縮こまってしまう。

 運動していない人間は、そも回復過程が技化していないのだと、われわれの空手では教えられる。
 その意味でも、Kさんが、老婆にした働きかけはまさに空手でいう初心者=白帯への指導と同じであったとも言えるであろう。

 これがKさんが、長年空手の指導者として、理論の実践をなさってきた成果であろう。わが流派の空手をやっていないと、こういう「応用」はできないだろう。
 このような見事な働きかけがなぜできるのだろう、と問うことが「知的好奇心」というのだ。

 次に、老婆をおんぶして親戚周りをしたとある。これは車椅子で移動したのとは大きく違う。おんぶは自力で歩いていない分、不足ではあるが、直立姿勢に近い形での移動になり、外界の反映が人間本来のものに近づくだけでなく、腹や胸が人間本来の昼間の姿勢、つまり直立姿勢が取れたことになる。しっかり昼間の生理学になっていけたと思う。

 しかもおんぶしている人が歩いて地面からの軽い衝撃が老婆に伝わる。ここが車椅子に乗った反映と異なるはずである。
 こうした運動は、なにせそれまでは寝たきりの老人だったのだから、相当の運動になったはずである。本当は歩かせればもっと良いが、まずはこれで良かったと思う。

 ここを精神科医は次のように取り上げている。ここは見事である。
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 私はここに感動しました!!
 車いすで連れ出したのではなく、おんぶ、というのが見事だと思うのです。
 海保静子先生の『育児の認識学』に、赤ちゃんが立ち上がった時に、赤ちゃんが反映した像が揺れる様がイラストであったと思うのですが、それを思い出しました。おんぶによる反映の力を考えました。

 病院に車いすで連れてこられるご老人をみかけますが、表情の動きには乏しく、床ばかりを見つめている気がします。人と目線が合わない低い位置は、緊張感が乏しく、刺激も少ない気がします。また、車いすの押され方によっては、モノのように扱われるような、悲壮な気持ちにならないでしょうか?

 おんぶは、目線が上がり、外界の反映が大きく揺れます。何より、おぶってくれている人の暖かみ、息づかいをまじかで感じるし、時折「よいしょ」とおんぶしなおすことなどが感じられるし、歩きながら、Kさんはあれこれと話しかけていたことでしょう。


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 さすがに精神科だけあって、人間の心に理解が深い。おんぶの効用をつかんでおられると思う。
 
 最後にもう一つだけ、精神科医の見事な捉えを紹介したい。

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 「これまで一言もしゃべることがなかった母親が、突然にKさんの名を呼んだ。
 感動的な場面です!
 不快ではない、驚きのこもった問いかけからは、これまでの城内さんの働きかけが、お母さんにとって非常に「快」であり、反映させたいものであったことがわかります。そして名前を呼んだのは、それまでの関係性の良さや親しみが感じられます。
 安心感、よろこび、といった問いかけ的反映ができるようになったのですね。おんぶしていて顔が見えないのにどうして?とちょっと思いましたが、それまでのKさんの顔や働きかけがちゃんと反映されていたんですよね!

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 いずれにせよ、本ブログで説いたように、南ク継正先生が措定された一般論を媒介にして、見事な看護の取り組みができたことを証明している。Kさん自身が「論理的な働きかけ」と誇らかに述べているとおり、これこそが論理能力なのだとわからねばならないし、これが空手の論理的な指導だと言えるのである。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする