2015年11月14日

スジを通した音楽批評とは(2/2)


《2》
 音楽ブログの筆者は(1)も(2)も、知識満載であることが見てとれるであろう。筆者はその知識を誇っているかのようだ。それはそれでいいとしても、知識でアタマを創ってしまうと、事実をつなげて論理が分かるようになれなくなる。

 音楽ブログ筆者からは、しばしば弁証法を馬鹿にするのを耳にするが、「構造の個別性」あるいは一般的な運動性(変化発展している)をわかるために弁証法の実力が必須なのだから、嘲笑しているかぎりはスジの通った論考は書けない。

 このブログの文章が、ただ「きれいだ」「美しい」「嫌いだ」といった主観と感覚的なことで終始しているなら、どうこう言うつもりはないが、論理的な体裁をとった文章だから、きちんと論理を通すべきだと言っている。

 論理的とはスジが通っていることで、対象の構造に分け入るだけでなく、体系性もなければならないがそれはともかく、筆者自身の認識にも分け入ることである。
 「様々な偶然が重なった結果、誕生した類まれな作品」これでは何を言っているのかわからない。こう書くと彼は、ブログの論考はまだ一面的なもので、シベリウスの情報が足りないからだと反論するだろう。

 だが、問題はそこにはない。シベリウスの情報が少なくたって、およをは見抜けるのが論理的アタマである。
 さらにわからないのは、「繊細なシベリウスにとって人生を生きること自体が大きなストレス」「生活はシベリウスを追い詰め」アルコール依存症になった…の文章である。

 筆者自身の認識に分け入るとは、なぜ自分は「類いまれな」と書いたか、どうしてシベリウスを「繊細な」と形容したかが、解けていることが大事であるからだ。
 ところが、音楽ブログ筆者は事実を出さずに書こうとしている。それでは読み手は納得できない。例えばシベリウスが繊細な神経を持っていたというなら、その生い立ちから交遊関係から生活のありようから…そうなった過程的構造を事実で明らかにしなければならない。
 「こう思った」を事実で書くことである。

 ブログ筆者は帰納法や演繹法が大事だと私に語っているが、あれはただのノウハウのレベルで、体系は欠落しているし、対象を問題にする己れの認識も問題にしていない。バラバラに集めた知識をどうやってまとめたらいいかに困って考え出されたものに過ぎまい。
 
 帰納法・演繹法は、いうなれば小学校の学級会をどうやるかのレベル。ノウハウといったところである。みんなの意見をまとめるのに、ああだこうだと意見をだしてもらって集約するのか、先生がビシッと命令してまとめるか、そんなレベル。
 だから彼はシベリウスの情報がたくさんないと帰納法とかが使えない、というのであろう。
 弁証法をそうしたノウハウのレベルと勘違いしては困る。

 シベリウスはざっと言って心を病んでいったらしいが、それはどうしてなのか、原因は何かといったことを解明しないとやはりスジが通らない。心がどう病んだから、どう作曲に影響したかのスジを通していない。かように、この文章はつながりが明示されていないから、読み進められない。像が描けない。

 作曲家、それも大交響曲を創るようなレベルの作曲家は、あれは脳が認識だけを使っている。本来は人間は、運動器官、消化器官、そして統括器官に大きくは分かれているが、元は(単細胞生物段階では)全部で一つである。それが地球環境の変化によって、機能を分化させたので実体も手足、内臓、脳というように分かれたのである。

 分かれたが元は一つだからつながっていなければならない。連動していなければならない。あくまで一つで全部の動きでなければいけないのに、人間はそういう動きがいわば自動的に行なわれる本能が喪失しているから、ある機能だけを強烈に働かせることになる。

 したがって、脳が運動器官や消化器官を働かせて連動しないで、認識だけを働かせると、運動機能や消化器官が狂ってくるのだ。内臓が歪み弱れば、それを統括している脳もおかしなことになる。

 だからベートーヴェンは内臓の病気になったのだ。食事も悪かっただろうが、脳を実体を使うのを忘れるほどに根を詰め、興奮させたから、内臓がおかしくなったのである。
 胃の病で苦しんだ夏目漱石もおそらくそうであったろう。

 ベートーヴェンは交響曲を創るかと思えば小品も創って、頭脳は八面六臂のフル回転をさせられた。作品を聴けばその認識の集中力の凄まじさには圧倒される。それで勝手に内臓が動かされる。例えば胃が自らを消化するようなことになる。
 …というように、シベリウスのことは知らないけれど、なにがしかこういう一般性(構造の個別性)で見れば、解けてくる謎があるのである。

 そこまでの論理構造を説くことは望蜀のことかもしれないが、根拠もいわずに「素晴らしい」とか「心が病んでいたから繊細だった」などと言われても困惑する。
 それで困惑していると、次はいきなり(2)に移って、音楽の構成の話に飛ぶのだ。つながっていない。別の話だということなのだろうか? 西洋音楽の構成や手法は、筆者の得意とする分野らしいが、これが「個別性の構造」の一端である。

 そういう話の前提として、筆者が音楽を愛しているという感情が感じられないのである。個別を論じるのは構わないのだが(それだけでは全貌は解けない)、論理とまでは言わないが、音楽全体を包みこんでいるような教養や感性が見えないのは、読んでいてつらい。
 それに引き換え、わたしたち共通の友人であるMICKYさんのブログ「VINYL JUKY」は、あふれるようなというか香しい音楽への愛情が感じられる。現在休止しているのは残念なことである。

 ブログ筆者は、「VINYL JUKY」をよく批判して、あそこが間違っている、こっちが知識不足だ、その解釈はダメだとばかり批判していた。それはその通りなのかもしれないが、多くの音楽ファンがどちらを好むかといえば、「VINYL JUKY」のほうであろう。瑕疵などどうでもいいのだ。しかしブログ筆者はそれでは許せないらしい。

 「VINYL JUKY」には筆者MICKYさんの「音楽大好き」という感情のスジが通っているのだ。しかしこのブログ筆者はスジ(論理)が通らないから、またぜひ読みたいとは思えなくなる。(ごめんなさい)

 加えて、「VINYL JUKY」には筆者MICKYさんの文章は、像で考えられてかかれているが、音楽ブログ筆者は像で考えるのではなく言葉で考えている。
 この件についてはなんども本ブログで書いておいた。2012年11月15日から5回にわたって書いたものを参照していただきたい。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/301880951.html
 
 「60年盤はオーマンディの持つモダンで意欲的な一面がよく出ている。深い譜読みによるスケールの大きな演奏で、名盤と呼ぶにふさわしい」と書いているが、これは知識である。「モダンで意欲的な一面」ってなんのこと? どうしてスケールが大きいと言えるのか? なぜ名盤と言えるのかを、彼なりにスジを通さないと、これでは誰かの受け売りか、と言われかねないのである。

 こういう文章は、新聞や雑誌の音楽批評でよく見かける。彼らは像ではなく言葉で考えている。再度いうけれど、音楽の感じを文章化するのはむずかしかろう。しかしそれでも、なぜ、どうして、の根拠を示さなければ言ったことにならないのである。

 うまい料理を食べたときに、テレビのグルメ番組ではやたらに「おいしい」「うまい」を連呼するか、もしくは「何とも言われぬ旨さ」などと表現しない例もあるが、それではレポーターとしては失格だ。
 その点で彦摩呂は、いかに見せるか、楽しませるか、食欲をかきたてるか、レポートするかについてはさすがプロである。「これはうまい」だけではなんの根拠も視聴者に伝わらないのだ。

 私は劣等生だから、順序立てて説いてくれなければわからない。ところが秀才は順序だてなくてもわかってしまう。これは皮肉でなくて、本当にブログ筆者は秀才だと思う。本ばかり読んでわかったつもりになっているのではないか。東大なんかの受験秀才はこれである。

 本を読めば読むほど、恐ろしいことにスジの通らないアタマになっていく。たいていは本を読むとアタマが良くなると思うだろうが、たいていの本は、知識でつづられていて、事実をつなげて論理を分からせてはくれない。
 だいいち、十人の本を読めば十人が違うことを言うではないか。
その十人十色が自分の脳の中にバラバラに収まる。そのモザイク的な何かどうしにつながりも、スジも通っていない。

 その読書の欠陥をどう克服するかである。読まなければ知識は増えない、考え方も教えてもらえない。でも読めば読むほどスジが通らないアタマになる…というジレンマである。どうすればいいかは、まあお預けだ。

 「名盤だ」「名曲だ」と言えば何か言ったことになるのだろうか。私は劣等生だから、なぜ名曲なのかを説いてくれなければわからない。何をもって名曲という概念を成立させるのだろうか。これはグルメレポートで、「うまい」「最高」と言っているのと変わらない。

 ブログ筆者は作曲もする。ライフワークだと言っている。だからあえて期待していうのだが、彼の音楽は聴いていて理屈が勝ち過ぎている感じがしてならない。音楽で楽しさとか(悲しさでもいいが)躍動感とかが沸き立ってこなければ、退屈なだけである。

 (2)の始めに、音楽の構成や手法が書かれているが、彼の音楽はそれが剥き出しになっている。いわば鉄骨の骨組みを見せられている気がする。
 音楽は決して、譬えればローマ字で書かれた文章ではない。ローマ字でも意味は通じようが、それが新聞社説のような文章とか大和言葉で書かれているとかで、私たちの感情に訴えるものは大きく違う。

 こういうことを書くのは不謹慎かもしれないが、彼に聞くと両親を憎悪しているそうだ。子供のころに相当馬鹿にされ疎まれたらしい。親がどうやら最悪だったようだ。
 よくあることだが、親に見捨てられた子は、寂しくて絵描きや音楽家、詩人などになりやすい。全部が、ではないけれど。そういう子は認識を外に出したがらない。閉じこもって自分の世界を絵にしたり、楽器を鳴らしたりしようとする。

 中島みゆきの詩などは、典型的な閉じこもりの作品で、あれは自分の世界を歌にしているのである。歌謡曲だからまあ良しとするとしても、中島みゆきの歌はスジが通らない不気味な歌だ。

 彼の作曲したものは閉じこもっている音楽である。また音楽エッセイも、人に楽しんでもらおうとか、学んでほしいとかではない。メモ書きのような印象である。
 先に例をだしたが、彦摩呂は商売とはいうものの、自分の認識を外化することが得意で、それで人を喜ばせることが好きな感じが良く表れている。私は彼がガサツだから好きではないが、そこから何事かを感じていただければ幸いである。

 こう書いても、おそらく見解の相違ということになるだろう。仕方がないことである。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(33) | エッセイ | 更新情報をチェックする