2015年11月26日

さりげない写真にも感動


 東北地方に住む若い母親からお子さんの写真がメールで送られてきた。
 1歳3カ月になる女の子で、今は親のしたことを真似したり、テレビを見てダンスをいっしょにやったりするようになっている、と添え書きがしてあった。

 1枚は、紅葉の野山を背景に女児が蝋石か何かで、道に絵になっていない絵を描いて、ニコッとしているもの。もう一枚は、公園で地面にアンパンマンのマットを敷いて座り、お母さんがつくった海苔のおむすびを食べているものである。

 たいていの人は、まあ、かわいいね、とか、大きくなったね、と言うであろう。それで別にどうということはない。
 私は女児が赤ちゃんのときから写真をときどき送ってもらっているから、その都度見せてもらって感謝してきたし、良い所を見ては褒めてきた。

 で、なぜその程度の私的写真を取り上げるかと言えば。私はその都度、感動すると言いたいのである。そういうと、感動? 何をおおげさな、テメエの子でも孫でもないのに…と言われるだろう。
 気の毒にその低度の感性では、「人生意気に感ず」もわかるまい。

 私は女児の髪の毛を結んでいるゴムの髪留めにも感動している。女児がかぶりついている海苔のおむすびにも感動しているし、アンパンマンの敷物にも感動している。
 女児の髪の毛が前にかかるのを防ぐために、お母さんが飾りゴムで止めてあげているのである。それに感動しないでいられようか?

 海苔のおむすびも、おかあさんがどんな思いで女児のためにおいしくて食べやすい握り方をしただろうと思うと、ジーンとなる。
 その子が特別かわいいとかいうわけではない。街で見知らぬ幼児を見ても、私は感動してしまうほどだ。

 世の中には弁証法について、「弁証法の根幹は二項対立にある」などと勝手に定義している方もいるやに聞くが、弁証法はいかにも論理ではあるが、同時に感動であることを忘れては、絶対に自家薬籠中のものにはならない、つまり駆使することはできない。
 と言っても、何?弁証法が感動だと? 笑わせるな、という反応が返ってきそうだ。

 しかし、考えてみられたい。男性が女性と結婚するのは単に子孫を残すためだけか? 同衾するためだけか? 戸籍に名前を書くためか? それなら獣と変わりはない。異性に感動するから(したから)結婚したいと願うのである。結婚する相手に、その美しさとか、教養とか、立ち居振る舞いとかに感動を覚えなければ、獣の交尾と変わりはない。

 感動がなくなれば、夫婦互いにどんなエロティックな仕草をしたところでセックスする気になるものではあるまい。

 弁証法の修得も、異性と結婚する例でわかってほしいが、豊かな感性がなければ、理解も駆使もできないのであって、結婚してもすぐ破滅するようなざまとなる。
 受験勉強で育ってきた者は、勉強が感動であるとは思ってもいまい。志望校に合格した時だけは感動かもしれないが…ではないのか。

 先日、NHKの女子アナ・寺門亜衣子を取り上げて褒めた。彼女はきっと始終感動しているだろうと思う。仕事上でやむを得ず笑ったり驚いたりもしているだろうが、あのくるくるとかわいらしく変わる表情は、感動しているからこそだと思う。

 私は別に無理して、他人様の幼児の写真に感動しているふりをしているのではない。見れば感動しているのである。
 これはわが流派で教わったことであって、感性豊かになるには、感動しまくらなければいけないと教わったからだ。
 感動すれば、顔の表情が動くはずである。目は輝き、ホウレイ線は消え、額に光が刺し込む…となる。

 だから、ささいなことにでも感動するようにしてきた。
 朝焼けを見て感動、空の雲を見て感動、風の冷たさに感動、パソコンが文字を打ってくれるのに感動するのだ。
 先日、ある方に南郷先生の著書の一節をメールしてみたが、無視だった。「は? それがどうした」という反応だった。

 南郷先生の文章を見ただけでジーンと来ないようなら、「ご愁傷様」とでも言うほかない。
 他事ながら、小学校から大学まで、教員は子供を感動させないから、落ちこぼれが出たり、受験で失敗したり、イジメが起きたりするのである。先生が語る一字一句に感動している子ならば、人生失敗するはずがなかろう。

 世間には、人のあら捜しをして喜んでいるアホがいる。自分のほうが上だ、頭はいい、なんでも知っている…と思いたいのであろう。
 人を誹って、よしんばそれがいかにもアラであったり、間違いであったとしても、そういう人のあら捜しを好む人は、感動するという大事な人間にとっての宝をドブに棄てていることに気付かない。

 卑近な例を挙げてみようか。もしここに力士になって将来は大相撲の横綱になりたいと夢を抱いている青年がいたとする。その彼は白鵬の大ファンだとしよう。白鵬が好きで尊敬し、相撲の技だけでなく、話し方から顔つき、食うものまで真似たいと思うであろう。
 国技館に出向いて白鵬を見るだけで感動し、テレビで見ても感動するだろう。

 白鵬の欠点や悪口はいっさい耳に入らない。白鵬が負けても負けっぷりがいいと感動し、「猫だまし」をやればやったで、「すごい余裕だ」と感動し…である。
 だが、むろんそんな人ばかりではない。冷静に白鵬を見て批判する人もいる。で、それが悪いとか良いとかではない。批判する人は正しかろうが、感動は棄てている。白鵬にのぼせ上がって、なににでも感動している青年が馬鹿に見えるだろう。

 でもその白鵬命の青年は、日々感動そのもので過ごし、相撲の稽古も自分は白鵬と同じ相撲ができていると感動しながらやるから、いささかも稽古が辛くない。人が1時間練習するところを2倍も3倍もやっても苦にならない。
 となれば、上達も早いし、顔つきももっと白鵬に認めてもらえるくらいになろうと必死に日々を過ごす。彼にとっては白鵬の欠点などどうでもよく、自分が白鵬化したいだけなのだ。

 白鵬を冷静に見て、あいつだって土俵を降りればただの人さ、と思っている人間は、正しさは手に入れるかもしれないが、感動を失うから、一度しかない貴重な人生で、ある成果を挙げるとか一芸に秀でるとかは、得られずに終わるのである。
 人の揚げ足とりだけはうまくなるが、人からは好かれない。

 ややもすれば、受験戦争で勝ち抜いた人間、勝てなかったがそれに没頭した人間は、感動の重要性がわからない。感動したいと思っていない。ものごとは正しいか正しくないかしか判断の基準を持てない。なにせ受験はそういう模範解答だけを信じるアタマになるし、なじんでしまうからだ。
 そんな受験秀才ばかりが、官僚になり大企業の会社員になって、日本はつまらなくなった。

 話はちょっと違うが、先日、毎日新聞の「余録」というコラムで、現在東京で開催されている「藤田嗣治展」を取り上げていた。藤田はパリで成功した画家だったのに、どういうわけか戦時中に日本に戻って来てたくさんの「戦争協力画」を描いた。なんでそんな(愚かな)ことをやったか、真意はなんだったのか…、と書いている。

 この「余録」コラムを執筆した論説委員は、これぞ受験勉強で創られたアタマの典型である。彼の言う「真意」なるもの、つまり正解があるはずだと思っている。1+1は2でなければいけない、それ以外は間違いだと信じ込んでいるようなものだ。藝術も1+1が2でなければいけないというのだ。アホか。

 1+1がゼロになったり、3になったり、やっぱり1だったりするのがこの世界であるのに。毎日新聞の論説委員は、戦争は悪だ、戦争に協力することは悪だ、としかアタマが働かない。

 感動は算数みたいなわけにはいかない。受験勉強とは規格外のことだ。受験勉強だけでアタマもココロも創った輩は、冒頭に書いたように、幼児の髪を止めているゴムに感動することがわからないのである。





 

posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする