2015年12月31日

日韓合意を評す


 本稿は、余命三年時事日記の「399 2015年12月28日時事」に投稿したコメントに加筆したものである。


 年末28日の日韓合意の件。なんであの嘘つきどもに「おわびするのか」「カネを出すのか」と感情的には不愉快であるが、「実」を取る意味ではしかたがあるまい。
 この合意で決着するわけがない。
 韓国人がホコを納めるなんて未来永劫あり得ない。次の大統領になったらまた蒸し返すに決まっている。

 アメリカから圧力があって、「早くまとめろ」と脅された背景はあるだろう。一方で、韓国経済がジリ貧で、このまま日本に対して突っ張っていると、本当にヤバいと尻に火がついていたから、慰安婦問題で合意したかった。
 パククネは日本に対して、「うちらもTPPに参加させてよ、アメリカによしなにいってくんない?」とさぐりを入れてきていた。

 それを日本側が織り込み済みでやっているなら良しとするしかない。どうせ韓国は蒸し返す。くり返しゴテる。しかし、「2015年末に最終合意したでしょ」というカードを日本側が持てたことは一歩前進であろう。

 外交では決して焦って早く決着をつけたい、すっきりさせたいと思ってはならない。国際政治の場はポーカーと同じだ。どうせまだ100年も200年も揉めつづける。イスラエルとパレスチナのように、紀元前から続いているところもあるくらい。
 それでうんざりせずに、粘り強く戦うしかない。
 これで、また新たなポーカーが始まるのだと考えないと。

 つまり。ポーカーの相手に、例えばわざとスペードの1を配ってやって、最高の札が来たと相手に思わせておいて、実はその最高の札を手にしたがために、相手はそれでポーカーの“役”をつくるしかなくなる。こちらはニヤッと笑ってそれをもとに作戦を考えればいい。
 安倍首相がそういう手練手管ができるかどうかだ。

 チャンネル桜の水島聡が、さっそくいきり立って首相官邸に向けて抗議行動をしようと呼びかけていた。韓国に屈するのは、英霊への侮辱であると叫んでいた。その感情はわからぬではないが、それでは安保法制反対で国会前に違法に集まって騒いだサヨクと変わらない。
 支那事変を、これで停戦したら英霊に申し訳が立たぬと言って続行したあのときの政府と軍部がやった同じ過ちを繰り返しかねない。

 青山繁晴氏が、「虎ノ門ニュース」(12月24日)のなかで、官邸に韓国のエージェント(裏切り者)がいる、と怒っていたが、いったいそいつは誰なんだとネットで騒ぎが起こったようだが、気にする事はない。
 映画『ラウンダーズ』のことでしたためたように、どうしても日本人はポーカーが得意ではなく、丁半バクチ的対応をしたがる。すぐに結果をほしがる。白黒はっきりさせたがる。憲法9条さえあれば戦争にはならないなどと考えるのは、まさに「正解でスッキリさせたい」という病である。

 韓国に謝る必要はない、というのは正論だが、それに拘泥しているとポーカーのプロたちにかもられるだけになる。清濁合わせ呑むでいくべきなのだ。
 わざわざ安倍首相がそういう獅子身中の虫を内閣府に置いている(追放しようとすればできるのに)ということは、韓国の侵入を許している間抜けな政権だとも言えるかもしれないが、そうとも限らない。
 韓国としてはその男(日本人)を利用したいのだが、逆にその男の技量、能力に拘束され、その範囲でしか動けなくなるということである。

 敵にスパイを放つのは有効ではあるが、そのスパイが裏切るかもしれず、ガセネタをわざと摑まされることもある。優秀なスパイは必ず二重スパイになると言われるくらいで、信用したらとんでもない判断ミスをしかねないことも確かなのである。

 自国のスパイとして放ったつもりが、敵の二重スパイだったとなった場合、それを裏切り者として処刑する手はあるだろうが、それをやっていたらスパイのなり手がいなくなる。 
 だから二重スパイをやっていると承知で利用するしかない。どこの国でもやっていることだ。そんな汚ないことをと、感情的に反発しているようでは、国際社会で生き抜いていけない。

 前回はポーカーの映画で、『ラウンダーズ』を取り上げたけれど、もう一つポーカーの映画に『マーヴェリック』がある。西部開拓時代という設定で、メル・ギブソンやジョディ・フォスターが主演している。これはポーカー自体の話というより、登場する人物は全員、大金をせしめるために誰かと手を組むかと思うと平然と裏切り、そうかと思ったらそれも騙しだったとか、その騙しも実ははじめから見破られていたとか、コメディで見せてはいるが、なるほどこれが国際社会だな、外交だなと勉強になった。

 私は、安倍晋三は第一次政権で失敗して、深く学び直してしたたかな政治家として戻って来たと思う。いうなればポーカーをしっかり勉強したのだろうと思う。すべてがうまく行っているわけではないとしても、ずいぶん策士になった。
 鳩山由紀夫みたいな「私は善意です、友愛を信じます」の首相がどれほど有害無実だったか、われわれは犠牲を払って学んだじゃないか。
 第一次政権では、自分と同じ意見、志を持つ人間を周囲に集めて、正攻法で改憲まで持って行こうとして、自民党内から足を引っ張られて降板になった。

 今度は、お友達ばかりを集めることをしなかった。政敵の石破、谷垣、岸田、二階などをうまく取り込んでいる。
 安倍が東大出じゃない、お坊ちゃんだと揶揄する向きはあるが、なまじ秀才でないだけに、以前の安倍晋三を棄てて、新制安倍晋三になったと思う。

 東大出は超秀才だけに、その自負が邪魔して自己変革ができない。韓国がゆすりタカリしかできない人間である事を自己変革できないように、である。安倍晋三は三流大学出だからそんな自負、学歴自慢に拘泥しない。それを強みにすればいい。

 よしんば内閣府の重要ポストに韓国のエージェントがいるとしても、しょせんは、そういう裏切り者は韓国から餌を与えられたり、女を抱かせてもらったりして、転ぶ低度の人間だ。いかにもそんなクズが日本の政治家や官僚らに多いのは困るが、逆に利用するくらいの度胸としたたかさが必要である。

 韓国人や支那人は、そういう裏工作、策謀で事を諮るのが得意だが、それでうまくいくこともあるが、逆にそれに自らの行動が縛りを受け、絡めとられ、今や世界中から冷笑され、信用されなくなりつつある。日本人のように、地道に正直に人間関係を築くことが出来ない民族になり果てている。
 まさにその性格が量質転化して、「不可逆的」になっている。

 今回の日韓合意で、あちらに「やったやった!」と喜ばせれば喜ばせるほど、彼らは自分たちのやり口に自信をもって、また繰り返そうとするだろう。韓国の挺対協どもはいっそう執拗に火病をたぎらせて日本を非難してくるだろうが、そうなればなるほど、彼らは現実的対応が取れなくなる。

 それは感情的には私たちには不愉快だが、彼らこそがドツボにはまっていくことになる。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2015年12月30日

『藝術論集』ご希望の方へ


 中原様、中尾様
 拙著をご希望と承りました。
 自家版を無料でお送りしますが、そちらのご住所を明かしたくないということであれば、「郵便局留」で発送します。郵送料もコチラ持ち。
 局留めのやり方は、ネットでご確認下さい。指定の郵便局に送ります。電話番号も記入しないと受けつけてもらえませんが、適当な番号を書いてください。
 当方も、名前は書きますが住所は適当に書きます。
 この件については、コメントでご連絡をして頂きますが、公開はしません。「非公開」と記入してください。
 拙著は、旧心に青雲のころから、藝術について論じたものをまとめたものです。
 残部わずかです。

posted by 心に青雲 at 13:37| 東京 ☁| Comment(10) | エッセイ | 更新情報をチェックする

『ラウンダーズ』に学ぶ国際政治(2/2)


《2》
 ポーカー映画は、アメリカではずいぶんと作られてきた。
 取り上げている『ラウンダーズ』以外にも、『シンシナティ・キッド』『007カジノ・ロワイヤル』『マーヴェリック』『ラッキー・ユー』など。林秀彦さんは、「その国民性を知るには、その国でもっともポピュラーな賭博の種類を知ればよい」と語っていた。支那人なら麻雀、イギリス人ならブリッジ、そしてアメリカ人はなんといってもポーカーである。

 そして「いま世界はアメリカ人のポーカー精神によって制覇されている。政治もビジネスもポーカー感覚なくしては太刀打ちできず、また、アメリカ人ほどのポーカー名人になることは、世界のどの国民にも不可能なのである」と、『日本を捨てて、日本を知った』のなかで説いている。

 「ポーカーには麻雀のような天の配剤はまったく関与されない。あくまで個人の合理に徹した才能にかかわる。セコさの極限が要求される。悪知恵の限りを尽くさねば勝てない。二重人格、時には三重四重の人格が要求される。勝負する相手の性癖から、日常生活の傾向や好みにまで精通し、初対面でもたちどころにそれを見抜けるだけの人間性への洞察力が不可欠だ。」


 これこのとおり、これがアメリカ人なのだ。
 「ポーカーほど長期の戦略(ストラテジー)が不可欠な賭博もない。一回一回の勝ち負けなど、まったく関係ない。だから逆に言えば、時間を制限したポーカーはポーカーにならず、相手が一文なしになる最後の最後までムシリトルことがゲーム全体を支える必須条件となる。」


 日本はペリー来航以来、アメリカ人の得意とするポーカーの場に素人として上げられ、勝負させられてきた。将棋か囲碁しかできない国民なのに、全部いいようにやられっぱなしだ。
 例えば、アメリカは日露戦争で日本に勝たせ、満州を譲り、朝鮮まで与えた。まさに「一回一回の勝負など、まったく関係ない」のとおり、アメリカは最後に戦争を仕掛けて、日本からムシリ取ったのだ。

 半ば冗談で言えば、アメリカを少しでも知るには、東大出の害務省秀才なんかに任せてはダメに決まっている。日本人のポーカー名人に内閣参与にでもなってもらえば、いくらかは被害が減るかもしれない。
 とても太刀打ちできないと悟るためにも、先のポーカー映画くらいは見ておくといい。

 『ラウンダーズ』には、主人公がロースクール(法科大学)の学生という設定で、これが実にうまいのだが、そうしたロースクールには判事、検事、教授達がこっそり集まって賭けポーカーをやっている場面が出て来る。法廷の場はまさに彼らに取っては戦いであって、ポーカーと同じである。アメリカが弁護士だらけになるわけだ。

 昨日の話のつづきだが、日本の国家安全保障について、私たち日本は明治維新以後、むりやり列強ひしめくポーカーの場に引きずりこまれ、1945年には全部スって身ぐるみ剥がされたのだ。とても自力では国際政治の場ではやっていけない。いつまで経ってもポーカーで勝負できない国民性である。つまり素人なのだ。

 日本ではせいぜい「丁半賭博」で、あれはイカサマをやる以外は運は天まかせだ。ポーカーのよう奥行きはない。
 帝国海軍の山本五十六は大変バクチ好きだったと言われるが、まさに奴らのやったのは「丁半バクチ」だった。どうしてもっと開戦に至らぬように、アメリカ、ソ連、支那などと「ポーカー」や「麻雀」ができなかったかと思うではないか。

 日本が主体的に、自力で国家の安全保障を維持しなければいけないのは承知しているが、なんとか身ぐるみ剥がされないためには、ある程度犠牲(例えば米国債、思いやり予算、年次改革要望書など)を払ってでもポーカー名人のアメリカさんにくっついてゲームをするしかないのである。それが日米同盟だ。
 こんな不愉快な、情けないことはない。しかし、じゃあ日本が単独でポーカー勝負に挑んで勝てるのか? ダメだったことは大東亜戦争で証明済みではないか。

 お前は日米同盟に賛成なのかと問われるなら、賛成とも言えず、反対とも言えない。そんなスッキリできるような国際社会なんかないからだ。これは二択で答えられる問題ではない。
 サヨクのように、反対だと言えればどんなに楽か、すっきりするか。アメリカと集団的自衛権を結べば、南沙諸島の有事、中東の有事に駆り出され、自衛隊が殺し殺されるようになるとのサヨクの主張は、当分は絶対にあり得ないが、将来に渡ってあり得ないかと言われれば、そんな先のことはわからないが強いていうならあり得るだろう。

 アメリカは邪悪なのだ。というより、どこもかしこも、そういうものだ。それが人類の歴史であった。

 じゃあ、と言って、「うちらには憲法9条があるもん、戦争には行かないんだよ〜♪」と言うのは、まるで、女性がネグリジェ姿で、むくつけき男どもがたむろする非合法カジノに入って行くようなものである。しかもルールすら知らずにポーカーに手を出す…。
 陵辱されるに決まっているだろうに。

 日本人がいつまでもそんなノー天気ではいけない。世界はポーカー名人が支配する賭場なのだと理解することが不可欠だ。そのうえで少しでもずる賢さや、長期戦略の立て方とか、相手を性善説に頼らずに知り尽くすとか、多少はかもられても身ぐるみは剥がされないような心構えを持たなければならないのだ。

 一例を挙げれば、ついこの間、韓国で産經新聞のソウル支局長への言い掛かりで無罪判決が出たことなどは、ポーカーとして捉える必要がある。あれを単に、韓国が司法が独立していない後進国だとか、表現の自由が韓国でも認められた、あるいはこれで日韓関係も悪化に歯止めがかかった、などとマスゴミの記者どもは浮かれて論評しているのは、まったく上っ面のことである。

 はじめからか、途中からかは定かではないが、韓国はあの産経の記事と支局長告訴の件を、外交カードにしてきたのだ。
 アメリカからパククネが叱られたということもあろうし、韓国経済界が日本と切れたら困りますと悲鳴をあげたこともあろうが、最終的には韓国は告訴したこと自体では失敗した(負けた)けれど、そんなことはどうでもいいのだ。

 要するに、ポーカーと同じで、ゲームの途中でいくら相手に勝たせてもいい。最後に巨額の成果を得ればいいからだ。
 韓国は産経の件で、日韓関係を悪化させないために外交的配慮をした、と、さかんに言っている。つまり、勝ちを譲ってやったんだから、次は日本が譲歩する番ですよと言って来るに違いない。

 産経の件では譲歩したんだから、「従軍慰安婦」で譲歩しろと言ってきているにちがいない。これで譲歩すれば、韓国はそれをまたカードにして日本を強請って来る。

 韓国は、産経の支局長を有罪にして、韓国国民に溜飲を下げさせるか、それとも韓国もやっぱり話のわかる国だ、日本の立場もわかってくれるというメッセージを日本のとくにサヨク親韓派に納得してもらうかの二択ではなかったか。
 韓国として最終的狙いは、日韓基本条約で決まっているあらゆる問題の最終決着を覆して、慰安婦やら戦時徴用の支払いなどでカネを毟り取りたいのである。

 そのために彼らは産経の記事にいいがかりをつけ、外交問題にし、勝てなくてもいいから、日本政府と国民を揺さぶろうとした。
 それに対して、日本側は産経の元支局長を官邸に呼んで、安倍首相自ら面会して慰労した。これは異例のことだが、韓国へのメッセージが込められている。

 韓国からは、「たった3億円で慰安婦問題を全面解決にできるんです」と言ってきていた。それを安倍首相はきっぱり撥ね付けるとともに、まあ産経の事件では控訴取り下げてくれて感謝しているよ、とニコッとしてみせたのであろう。これが大人の振る舞いだ。

 ポーカーをやっていると捉えれば、実にわかりやすい。

 もう一例でいうと、財務省が消費税を上げようと画策しているのも、ポーカーと見ればわかりやすい。
 国は借金まみれだとか、国民が子孫に巨額のツケを回すとか、財政規律再建が最優先、赤字の健全化は国際公約、「財源はどうする」などのブラフをかまして、マスゴミや御用経済研究者を使って国民に間違った知識を与え、しかも消費増税に慎重な国会議員に国税庁の査察を差し向けて屈服させる。

 これはみんな財務省官僚の陰謀で、テメエたちの利権を握り続けるため、それにテメエたちの失政をごまかすための作戦である。






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2015年12月29日

『ラウンダーズ』に学ぶ国際政治(1/2)


《1》
 『ラウンダーズ』1998年アメリカの映画。なかなか見応えがあった。ラウンダーズ(Rounders)とは勝負師たちの意味で、ポーカーの映画である。
 舞台はニューヨーク。主人公のマイク(マット・デイモン)は、学費をポーカーで稼ぐロースクールの学生。稼ぎがいいので、美人の同級生と豪華なマンションで暮らしている。

 マイクはプロだが、素人相手にレートの低い賭けをやって、大勝ちはないが確実に少しずつ捲き上げて地道に賭け事師として暮らしていた。ところがどうしても大勝負して一発ドカンと当てたい欲求があたまをもたげてくる。

 マイクは、全財産を賭けた勝負に負けてしまい、一度は足を洗う決心をするが、刑務所に入っていた親友でイカサマ賭博師のワーム(エドワード・ノートン)が出所してくると彼の誘いで、またもやポーカーの世界へひきずりこまれてしまう…。
 ポーカーから足を洗えば美しい恋人との暮らしや弁護士になれる…と将来を保障されたにもかかわらず、ポーカーの魔力から逃れられず、結局恋人に去られ、ワームが背負った借金の保証人になったことからロシアマフィアに借金の清算を迫られ命も危うくなる。

 この映画の教訓は、表向きはやはり賭け事はいっさい関わるなということであり、素人はしょせんプロとは勝負してはいけないことがよくわかる。プロはイカサマしなくても、相手の表情・しぐさなどから癖を見抜く。脅したり動揺させたり自惚れさせたりして、すべてお見通し。良いようにあしらわれる。

 映画の冒頭、「勝負をはじめて30分でカモをみつけられなければ、自分がカモにされる」とナレーションが入る。恐ろしい世界がこの映画で始まることを予感させる。

 ポーカーといえば、わが敬愛していた林秀彦氏が『日本を捨てて、日本を知った』(草思社)にこう書いてあった。

     *    *    *

 私は自慢ではなく、本当にポーカー賭博の天才である。
 シナリオ書きに絶望してオーストラリアに移住する前の数年間、収入はポーカーだけに頼っていたし、結構な実入りだった。その間、大勝負で負けたのはただの1回だけ、相手は鈴木輝彦というプロの将棋指し七段だけだった。

 彼は二晩の徹夜のあと、散々に私を打ちのめした挙句、「林さんに勝つなど、いとも簡単だ」とヌカした。
 なぜかと訊くと、もしもう二度と自分と勝負しないならば、その秘密を明かすと言った。その条件を承知した後に彼のしてくれた秘密の解説は、私の想像を絶するものだった。

 それによると、私がブラフ、つまりハッタリをするとき、あぐらをかいている右足の親指が硬直しているのに対し、本当に良い「手」を持っているときは、その親指が微妙に細かく動く、というのである。だから彼は四十八時間の勝負の間、ずっと私の右足の親指だけに観察を集中し、それが硬直しているとき、どんどん掛金を積み上げたというわけだ。

 げにプロの将棋指しとは恐ろしいもので、後に私は、彼の観察が正しいことを知った。確かに私の足の親指は動いていた。つまり私は、勝負の最中、ずっと自分の手のうちを彼にさらけだしていたのである。これでは勝てるはずがない。
 賭博とか勝負というものは、そういうものなのだ。

 そしてまた、政治とは為政者と国民の間で開帳する賭博であり、国家間の駆け引きもまた賭博である。特に国際政治の場は生き馬の目を抜くような巨大カジノ、一大賭博状なのである。
 この足指の動きのようなヘマは、開国して以来、日本が諸外国にとり続けた外交である。

 日米修好条約からはじまり、大東亜戦争の初めから終わりまで、スパイ活動の優劣や暗号解読、またその後の円相場やバブル経済にいたるまで、まったく同じ撤を踏み続けているのである。

     *    *    *

 林さんが言うとおり、このポーカー映画からは、賭け事一般に対する教訓だけではなく、「これが世界だ」としみじみ分からされる。
 これが政治だ!でもいいし、これが経済だ、商売、銀行、商社、官庁…などいろいろに当てはまる。
 例えば、日本の多くの企業が愚かにも支那に投資したり工場進出したりした。

 支那人一般は言ってみれば麻雀のプロであって、素人のまじめな客である日本人はいいカモでしかない。だから平気で支那事変では一度も勝てなくても、ブラフででっち上げた「南京大虐殺」で日本からODAやら工業技術やらをむしりとった。平気でイカサマ賭博をやる。
 日本の政治家、官僚、マスゴミ記者、有識者にハニートラップをかけ、カネで買収することなど当たり前だ。

 支那人ばかりではない、アメリカ人も、イギリス人も、韓国人も、みんな「バクチのプロ」と思わなければいけない。プロはお遊びや善意とは無縁だ。素人から捲き上げることで生活している。

 在日がやっているパチンコがいい例である。アホな素人の日本人から捲き上げている。

 林秀彦さんは、『ジャパン、ザ・ビューティフル』のなかでこう書いている。
     *    *    *

 例えばオーストラリアに将棋を普及させたくて、下手を承知で村人などに教えているが、彼らの負けっぷりの悪さには辟易する。負け惜しみというものの次元が、日本人のそれとまったく違っていることを実感する。とても初心者が「師匠」に示す態度ではない。日本人同士だったらぶん殴るところだが、少しでも日本文化を伝えるためと我慢する。そんなとき、彼らの嫉妬文明を肌で強く感じる。

 なんと6枚落ちで負けていながら、こっちの指し手に文句をつけ、自分の負けた理由をそこに転嫁するのである。「おれが負けたのはお前のせいだ」という嫉妬論法だ。負け方も文化なのである。

 あの昭和二十年八月十五日のわれわれは、負けっぷりがよすぎた。戦勝国に対して、もっとしつこく嫉妬すればよかったのだ。それをマッカーサーの「日本人は十二歳説」を唯々諾々と受け入れてヤニ下がっていた。

     *    *    *

 そのとおり、日本人とそれ以外では、人間の質がちがう。
 また、先のサヨクによる安保法制の騒動についてだが、そのノー天気ぶりにはあきれ果てたものだった。
 サヨク護憲派どもは、アメリカは信用できないが、ロシア、支那、韓国朝鮮は信用できると思っているようだ。
 あるいは憲法さえ掲げていたら、他国はそれを尊重してくれると思い込んでいる。

 パチンコ屋や競馬などは、ツキさえあれば勝てると思い込んでいるアホと同様である。
 もしくはポーカーでいえば、素人がプロを相手に、「いかさましないでね」「かもらないでね」と言っているようなものだ。あり得ない。

 私は終始、ロシア、支那、韓国朝鮮、それにアメリカも信用ならぬと言ってきたのだ。アメリカとの同盟はまったく信用できないが、やむを得ない措置であると説いてきた。信用ならないが、同じテーブルについてゲームをやらないわけにはいかない。だから勝つためには嫌いな奴とか、ゴロツキとか、貧民とかとも組んで、まことにしんどい駆け引きをやっていくしかない。

 アメリカは、ロシアや支那などと同じゴロツキであるが、ポーカーに譬えれば現在の“場”では、支那や韓国にかもられないために、注意しながら組むしかないのである。アメリカもとりあえずは日本と組んでいる方が有利だからそうしているだけで、いつだって日本をかもろうとしているに決まっている。

 決して友だちなんかじゃない。実際、3・11の後、アメリカは空母レーガンを東北に寄せてきて、米兵に救助をさせた。「ともだち作戦」と言って、良い顔を見せたが、あとになってその費用を日本に請求してきた。そういうずるい連中である。

 オバマや安倍はダメだけれど、プーチンや習近平なら大丈夫、なんてことはまったくないのに、ポーカーの素人並みに、あいつらを信用してしまう。軍隊を持たなければ侵略されないはずなどとボケたまま。
 ポーカーならば、嫌ならやらなければいいけれど、実際の国際政治の場では、参加せざるを得ないのである。
 だから端的にはわれわれも賢くなり、プロにならなければいけない。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2015年12月28日

夫婦同姓は民族の知恵


 世間で言う良い学校、一流の学校(中学、高校、大学)に入った人、あるいはそこで成績優秀だった人、そして一流企業に入社したり医師や弁護士になったりした人は、自他ともにアタマが良いということになっている。
 ものを覚えたり、ある程度考えたりできる能力がアタマの良さの指標の一つとされること自体は、そう間違いではなかろう。

 しかし、何度も本ブログで説いてきたように、学業成績の良し悪しは、すでに出されている答えを模範解答そのままに覚えて、答えられる程度の話であって、刻々と運動し、変わっている自然や社会、それを対象とするにあたって、自力で考えて答えを見出そうとする頭脳活動とは関連がない。
 関連がないどころか、運動変化する対象をそれとして捉えることができる頭脳の質が身に付かなくなる。

 地球温暖化と言われると、手も無く信じこまされるのがこうした学業第一で育った人間だ。

 12月13日付毎日新聞に、夫婦別姓(別氏というべきだが)にするのが世界の流れであって、夫婦を同一姓にしているのは日本だけ、と日本文化を遅れているものとし、“因習”を嘲る記事が載った。
 新聞社に入る人間は、学業面では優秀と見なされて合格して記者になっているわけだが、これはサヨクのいわゆる「人権」とか「西洋社会が進んでいる」とか「民主主義」とか「男女平等」とかの模範解答に沿ってしか答えが出せないアタマになり切っていることの顕われである。

 「人権」や「男女平等」のようなサヨク好みの概念を絶対視してしまうようになる。人権にもいろいろあるよとか、男女平等ではまずいこともあるでしょう、なんてことが絶対に認められないガチガチのアタマになっていくのが受験秀才の末路である。
 夫婦同姓は、長い年月で醸成されてきた民族の叡智である。蓮っ葉な女がテメエの都合で夫婦別姓にしろというのは、傲慢で身勝手すぎる。他人を巻き込むな。

 夫婦同姓こそが世界レベルでは日本が最先端の優れた婚姻制度だとは、まったく考えもしないガチガチの四角いアタマなのである。むしろ日本の制度のほうが、人間は幸せかもしれない、これからは世界が日本を見倣うと考える実力が、学業優秀者にはない。

 こんなことを40歳すぎた人間にいくら説いても無駄である。
 なぜかならば、40歳過ぎたら論理的なアタマになるべきが、学業優秀者はそれが転換できないと言われるからだ。秀才ほどそれで成功してきたから、変えられない。
 よく学業優秀だった人から私のブログは非難される。世間の常識と違うことを言う、といって。お前は世間の物笑いになっているとか「とんでも説」を書いていますねと揶揄する、あるいは心配してくださる方がいる。

 落語の「一つ目の国(一眼国)」みたいな案配である。
 ガリレオの故事があるでしょう、世間がみんな天動説のなか、一人地動説を唱えれば排斥されるものだ。私は気にしない。

 若いうちは論理性は身に付かない。それだけに、認識は柔軟でいかようにも変わり得る。40歳くらいから変われなくなる。頑固になる。つまり大抵は、学業で創ったアタマでのみ考えることだけが正しいと頑に思い込み、で、終生変わらない。

 私事をいえば、幸運なことに、40代前に空手に入門し、初段の身を顧みずに本部に入れていただいて、厳しいしごきでアタマを変えていただくことができた。年齢的に最後のチャンスだった。
 むろん私ごときはたいしたことはないのだが、それでも若いころの私自身と比べれば、40歳で論理的なアタマになる切り替えに成功することができたのである。

 だが、人間の一般性でいうならば、中学・高校で論理性を叩きこむ必要がある。なのに、現今の学校制度では、受験勉強ばかりである。論理性を学ばない。

 本ブログで何度も引用した南ク継正先生の教育に関する「小論」である。

     *       *       *

 「現今の若人、とくに高校生に欠けているものが二つある。一つは〈大いなる志〉であり、一つは〈論理能力〉である。いうまでもなく、前者は自己の人生の大いさのかなめとなるものであり、後者は己が対象とする事物のもつ構造=性質を、いかばかりにか論理的に究明して一般化しうるかの能力である。この二つをもちうるべく努めることが、若人にとって歴史性をもって人生に挑める大前提である。

 そもそも高校時代は人生の過程中、本来もっとも多感な時期である。それだけに各人が自由に己が未来を描き、あたかも己れが世界を創造しうるかのごとき意気軒昂さがあってよい。だが大ていはそうはならない。いったいなぜか。端的には教育の場に欠けるからである。

 本質的にいって人間はすべてにわたって教育されてはじめて〈人間〉となりうるのであり、ここに動物との類的区別が存在する。志も論理も直観にまかせてはまともに育つわけはなく、落ち行く先は小人的君子である。

 それゆえ論理能力は無理としても、せめて大志をまともに育む基盤くらいはほしい。それに役立つのが、「個としての大いなる生きざまを描いた文学」であり。こまかい事象に囚われない「壮大な人類の流れを説いた歴史」である。しかしながらこれすら見事に与えうる教師を必要としよう。
 昔日の我々と同様に、今も見事な〈その人〉が存在するはずだと思うのは、これは〈見果てぬ夢〉なのであろうか。

     *      *      *

 ここに高らかに述べられているごとく、「若人にとって歴史性をもって人生に挑める」ためにこそ、勉強はしなければならないのである。受験で成功するためだけではないぞ、と。

 この小論を『武道への道』で読んだときは、感動でうち震えたものだった。若い時に出あって良かった。40過ぎたら、もう感動はできまい。ただ、「そういう意見があるの、そう…立派ね」と感慨をもらすのみになる。

 話をもう一歩進める。
 受験勉強は「変化」を扱わない。例えばCOP21で話し合われパリ協定として結ばれたものでは、温室ガスを抑えて地球温暖化は2度以内に収めるそうだが、こんな馬鹿げた形而上学的思考はない。
 しかし、受験ではこのことだけを覚える。試験で、COP21で決められたことは何かと問われて、答えるだけの能力が試されるだけだ。

 地球の温暖化とはどこの場所のことかとか、地球の平均気温なんてどうやって測るんだとかの疑問を持てば、対象の変化に着目することになり、弁証法的アタマになりうるが、それでは受験では失敗する。

 同様に、そうした受験の成功者が、自然科学や社会科学の専門分野の研究者に進む、もしくはそういう教養を維持する人間になっていく。
 既存の自然科学や社会科学は、知識となっている。ほとんど固定化している。運動しているとか変化発展しているとかでは捉えられない。捉えようと言うアタマにならない。
 秀才が集う新聞もテレビも官僚もみんなアタマが固くなるが、それで良いと思い込む。

 しかし、仮に子育てに関わるとすると、赤ん坊とは日々成長して行く存在である。運動が強烈にある。弁証法性が強烈にあるということだ。
 変わって変わって変わり抜く、が、赤ん坊だ。既存の自然科学や社会科学の知識はそんなことはない。せいぜい成るがままになる、でしかない。

 だから主としてお母さんが赤ん坊に関わる、世話をすることは、反映が強烈になる。すさまじい運動の最中、素晴らしい発展自体を実感して(反映して)自分のアタマの活動も生き生きとするようになる。
 空手の指導も、同様に弟子が刻々と変化発展するのを実感することになり、自分の脳細胞の柔軟性が得られる。

 赤ん坊とか、空手の弟子の指導とか、問いかければ変わってくれる対象が持てると、弁証法の修得に有効であり、自分のアタマが弁証法性を帯びる。
 そこを心して、気持ちを込めて、対象に働きかけ続けることが、本当のアタマが良くなっていく道である。

 それを「若人」のうちに修得すべく努めなさいというのが、先の南ク継正先生の小論の趣旨のひとつなのだ。
 
 以前、本ブログでNHKのアニメ『精霊の守り人』(上橋菜穂子原作)の中の、短槍の使い方が見事で参考になるという話を書いたら、ある文科省の暇人がイチャモンをつけてきて、短槍はあのアニメのようには扱えない構造になっている、お前はバカかと言ってきた。

 「どのように参考になったか」とも書いていないのに、勝手に騒いできた。
 参考になることはいろいろあるが、一つにはアニメ『精霊の守り人』を子供の心で、ワクワクしながら見ることである。それが出来れば、物語なんだから多少の誇張や嘘があったって構わないのだ。
 自分の今の年齢で『精霊の守り人』を見れば、しょせんアニメなんだし、間違いだらけになるだろう。しかし小学生になってみて『精霊の守り人』にワクワクすることが大事だとは、受験秀才にはとうてい解り得ない。

 11月26日付けの本ブログ「さりげない写真にも感動」で書いたように、幼児のどうってことない写真にも、感動できるココロをたいていの40過ぎの人は持てなくなっている。
 それでは弁証法は分かるようにならないし、論理が分かるアタマにもなりようがない。つまりアタマが悪くなったのである。




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2015年12月26日

沖縄の破廉恥度


 また、沖縄の話になる。
 沖縄がまだ日本に返還される前、1961年から約3年半、高等弁務官だったのがポール・キャラウェイ(陸軍中将)だった。
 彼は有名な「沖縄の自治は神話にすぎない」と公言したことで名を残した。

 辺野古移設問題で、今年4月、翁長知事と政府の菅官房長官が会談した際、翁長は「菅氏とキャラウェイ氏が重なる」と発言し、やや物議をかもした。
 以下がそのときの朝日新聞記事(2015年4月6日付)である。
     *    *    *

翁長氏「菅氏とキャラウェイ氏が重なる」 沖縄で共感

 「キャラウェイ高等弁務官が重なる」。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題をめぐる菅義偉官房長官(66)との5日の会談で翁長雄志知事(64)が発した一言が、沖縄の人々の共感を誘っている。キャラウェイ氏は米国支配下の沖縄で強権的な政策を進めた人物。発言が支持される背景には、批判を国に受け止めてほしいという沖縄の願いがありそうだ。

菅長官「『粛々と』使いません」 上から目線と言われ
 翁長氏は会談で、名護市辺野古での移設作業を「粛々と進める」とする菅氏について「問答無用という姿勢が感じられて、キャラウェイ高等弁務官の姿が重なるような感じがする」と述べた。高等弁務官は復帰前の沖縄の最高責任者で、3代目のポール・キャラウェイ氏は1961〜64年に在任した。沖縄の自治権を「神話だ」と評した発言が残り、今も沖縄では批判的なトーンで語られる。

     *    *    *

 さすが朝日新聞だけあって、真っ赤かの記事。官房長官に無礼な発言をした翁長知事を咎める気配すらないうえ、「沖縄県民が共感した」とまで嘘を書く。
 キャラウェイは沖縄左翼の間では嫌われ者であった。当時、「キャラウェイ旋風」と言われたことを思い出す。

 「旋風」が最も吹き荒れたのは金融業界であった、とwikipediaは書く。
 「キャラウェイは金融業界の刷新を図るために強権を発動した。
まず普通銀行や相互銀行の検査を行い不正を摘発し、各銀行首脳を退陣に追い込んだ。続いて琉球銀行の株主総会に、キャラウェイ本人が筆頭株主(米国民政府が51%の株を所有)として出席し、その席上で経営陣の責任を追及し、経営陣の総辞職を行わせた。
 また、農林漁業中央金庫や琉球農業協同組合連合会などの協同組織金融機関や保険会社にも検査が行われ、容赦ない摘発が行われた」

 wikipediaもサヨク色が濃厚で、はなからキャラウェイを悪者にしたてている。キャラウェイがいたころは、左翼が元気なころであったし、沖縄を占領し続けるアメリカに対し日本に返せと誰もが言っていたので、キャラウェイは「強権的だ」と罵られる素地はあった。

 さて、ところが日下公人と高山正之の対談『世界は邪悪に満ちている。だが、日本は…。』(WAC刊)のなかで高山正之氏が意外なことを語っている。

     *    *    *

高山 沖縄が復帰する前の1960年代に、ポール・キャワウェイという高等弁務官が沖縄にいた。彼が日本を去る前に「沖縄の自治なんて神話だ」と言い残して帰っていった。実際には短い文ではなくて、長いスピーチの全文があるんですけど、そこには沖縄人がいかにダメかということが、書き連ねてある。

 彼は、グアムやハワイなど米軍基地の中で、沖縄を一番豊かでいいところにしようと思った。それで医療から金融まで援助した。
 たとえば、沖縄の銀行に資金を流入すると、銀行の理事たちは自分の身内にだけ無担保融資をしてしまう。要するに資金の横流しをして、島民の福利厚生なんかまったく考えなかった。こんな人たちではどうしようもない。沖縄人には政治能力がないと書き残しています。

 組合問題しかり、役所の問題しかり、すべての分野において沖縄人っていうのはまったく当事者能力がないと言っている。「当事者能力がない人間が、何で自治権が欲しいんだ」と言う。

 普天間基地問題で2015年4月に、翁長雄志知事が菅義偉官房長官と面談しましたよね。そのとき、翁長知事は「粛々」という言葉を何度も使う菅長官が「キャラウェイと重なる」って言ったんです。
 沖縄が自分たちの当事者能力を少し反省したのかと思ったのですが、全然違った(笑)

 キャラウェイが沖縄に対して言った言葉は、アメリカが朝鮮に対して言った言葉と同じです。
 先ほども言いましたけど、1905年に日露戦争が終わった後、ルーズベルトは朝鮮にある公館を全部引き払った。その言い分が「あなたたちには、国としての能力はまったくないんだ」ということだった。それで日本に「朝鮮を引き受けろ」と言ったわけです。

 (中略)
 ルーズベルトが言ったこととまったく同じことを、キャラウェイは沖縄に対して言った。
 米国がサジを投げた沖縄のために日本政府はサトウキビを作らせた。沖縄振興のためです。アジアから買えばもっと安く買えるのに、補助金まで付けてやった。それでも収穫が上がらない。

日下 いや、彼らはもらった補助金で韓国人を雇ったんですよ。自分たちは遊んでいた(笑)。
高山 その通りです。フィリピン人や韓国人を入れて働かせて、沖縄の人たちは働かないわけです。
 だから、朝鮮と沖縄も相似形と言ってもいいんです。朝鮮と中国も相似形。

日下 アメリカと中国も相似形ですよ。アメリカと中国は、中世がなくて古代からいきなり現代になったことも同じだから。
高山 アメリカも似ているんですよね。
日下 そう。だから、日本はヨーロッパのほうが近いのですよ。

     *    *    *

 沖縄県のあきれた実態が見えて来る。翁長の発言はひどい。正しいのはキャラウェイのほうだった。サヨク朝日新聞もアホだ。

 沖縄の県民性を都道府県別のランキングにしたものがある。
 沖縄が1位のものを列挙してみると。
 ゲームセンター店舗数  年間完全失業率  学校給食費滞納率  軽自動車保有台数  非正規雇用率  飲み屋店舗数  男性肥満率  デキ婚率  50代男性未婚率  離婚件数  父子・母子家庭数  センター試験浪人率(男女とも)  貧困率  教会数

 まだまだあるが、ざっとこんなところ。学力テストで最も低かったのも沖縄県である。
 こうして並べると悪意か、と言われかねないが、ある種の傾向は見えて来るだろう。ちゃんと働いているのか? 家庭の教育はどうなっているんだ? と言ったところだろう。

 ここからも、キャラウェイがぼやいたように、自治能力が怪しいと言わざるをえなくなっている。沖縄のサヨクは、米軍基地があるから沖縄が発展しないとわめくが、実態はこうしたランキングからも伺えるように、自治能力の乏しいさまが見える。
 毎年、基地負担を慮って政府が、湯水のように振興費を注ぎ込んでも、いっかな独自の産業が育たない。

 すべて基地のせいにして、怠けている様子が先の全国ランキング1位の項目からも見て取れる。
 ポール・キャラウェイがよしんば嫌な奴だったとしても、それは愛情ゆえの忠告と聞いて、沖縄県人は真摯に反省すればいいのに。





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2015年12月25日

宗教偏見ではない親の結婚反対


 たまたまYouTubeで、青山繁晴氏の「答えて、答えて、答える!」(12月17日号)を見た。視聴者の質問に答えるというチャンネル桜の番組である。
 概略、以下の相談ごとがあった。

 S学会3世の24歳、会社員。両親が熱心な会員で、子供たちが苦しいとき、仏壇に向かって真剣なお勤めをして祈ってくれた。それが子供ながらにありがたかった。自分は学会員だが信仰心もなく、活動もしていないが、両親への思いから脱会はできない。それは親が最も悲しむことだからだ。

 世間では学会に対する不信感があり、結婚などでは明らかに障害となります。今、私は6年間付き合った女性と結婚の話がでているが、相手方のお父さんから猛反発を受けました。
 私の人間性に問題があれば仕方がないが、実家がS学会であることで好きな人と結婚できないとなれば、この先、私はどうやって生きていけばよいのでしょうか。
 また相手方のお父さんに両親を全否定されてとっても悲しいです、と。

 ・・・・・これに対して青山繁晴氏の回答は、結婚は両性の合意のみで出来るのだから、親の承諾は関係なく、あなた自身がどうするかだと答えていた。宗教一般で言うなら、信仰は自由であるから、己の信じるところに従えば良く、宗教差別はよろしくないとなるだろう。

 しかし、この問答はおかしい。S学会は宗教一般で捉える問題ではないからである。
 この24歳男性の質問者もずるいし、青山氏もずるい。
 「相手方のお父さん」が猛反発しているのは、これだけでは何ともわからないながらも、S学会への偏見や宗教一般への偏見でもないはずである。

 みずから「三世」と名乗るのは、在日であることも示している。ただの信者なら3世とは言わない。「三代つづいて信者の家で…」という表現をするだろう。
 「障害になる」とは、実にS学会らしい被害者意識である。

 コーメー党は、現に今、軽減税率の与党内の折衝でも見られるとおり、支持母体がS学会の構成員、信者が低所得者層だから、少しでも税の負担を減らすことで政治的成果をあげ、信者の意向を叶える方策を取っている。
 つまり、昔からのS学会を知っている日本人は、彼らの階層がわかるのであり、また多くの信者が在日であることも承知している。

 近所にS学会の会員がいれば、近所迷惑もかまわず大声で読経をし、最近は減ったようだが折伏に押し掛け、選挙になればコーメー党に入れろと強要して来るなど、実態をいやというほど分からされる。ただの宗教信者ではない。

 『余命三年時事日記』の書籍が発売されて、大手取次やオンライン書店などで、大々的に妨害工作が行われたようだが、これに関わったのがどこかは、誰でもわかっている。
 実際にブログ「余命三年時事日記」のコメントでこんな投稿があった。
 「大阪には友人知人が多いのですが、友人に紀伊国屋梅田店の元店員がいます。話を聞いたところ、紀伊国屋梅田店はS学会とのつながりが強いそうです。務めていた当時の店長やその上司がSだったそうです。」

 こういう事態なのである。
 だから、S学会信者との結婚に反対する「お父さん」は、特殊な宗教だからとか、S学会への偏見とかで反対するのではない。子供の幸を祈って両親が読経するのは勝手だけれど、そんなことで「全否定」しているのではないことは、当の三世男性も承知しているはずで、宗教的偏見に話をすり替えるのはずるいのである。

 S学会が反社会的勢力だと、信者たち以外の日本人は知っている。だから我が子が在日の、しかも反日の組織の会員と結婚するのを阻止しようとするのである。
 在日がどれほど日本人に害をなしたか、特権を貪ってきたか、通名でごまかしてきたかは、日本人はわかっている。人がいいから、ことを荒げないだけなのだ。

 それをいいことに、S学会は政治(国政、地方)に進出して反対する声を封じ、都合がいいように行政を動かしてきた。

 世知に長けた青山氏がそれを知らないはずがない。青山氏がコーメー党はS学会を批判的に言わないのは、自分が永田町や霞ヶ関なんかで取材がしにくくなるのを防ぐためだと思う。彼はコーメー党とは距離を置いているようだが、根源的に批判してしまうと、さまざまに妨害を受けるであろうから、宗教問題にして逃げたのだろう。

 終戦直後、在日朝鮮人は「朝鮮進駐軍」を自称して、敗戦で打ちひしがれる日本人に数々の暴行、略奪、殺人など蛮行をやって暴れた。GHQの後押しもあって駅前の一等地を強奪し、パチンコ屋や飲食店を拡げ財を為した者もいた。
 
 はすみとしこ氏のイラスト漫画『そうだ難民しよう!』にはこんな「イラスト+文」があった。
 「昨日までは日本人 日本が負けたら戦勝国人 強姦・殺人やりたい放題 駅前違法に占拠して ヤミ金・パチンコ荒稼ぎ その金使って政界進出 日本乗っ取り計画 着々進行中 そうさオレたち 朝鮮進駐軍!」
 と。

 現在、彼らにお世話にならないと国会議員になれない民主党など、サヨクはこれを隠蔽しようとするが、日本国民は忘れていない。
 今のS学会がそうした朝鮮進駐軍からの流れであることを知っている。そういう過去は彼らも消せない。
 だから、日本人の親が、我が子と在日の結婚に反対するのは間違っていない。




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2015年12月24日

『そうだ難民しよう!』を読もう


 10月9日付本ブログで「蓮見都志子の難民批判イラストを褒める」として、サヨクからネット上や毎日新聞で攻撃された彼女を擁護した。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/427460188.html

 このたび青林堂から、はすみとしこ著『そうだ 難民しよう!』が発刊された。『余命三年時事日記』書籍版の二日遅れでの発売で、アマゾンでは同書と1位2位どうし。大変注目されている。

 宮崎正弘氏もメルマガの書評で取り上げ、「このイラスト漫画による短文を集めた書籍が、じつは日本の在日、難民、シーシェバードの問題を本質をずばりと抉り出している」と褒めている。

 「『そうだ在日しよう』という項目では「特別永住資格」「被害者利権」「簡単に生活保護」「逮捕されても通名報道」「犯罪しても強制送還なし」「何か困れば通名換えて人生リセット」「こんな特権手放す馬鹿がいるものか」。だから結論「そうだ、在日しよう!」ってことになる。」
 と、紹介している。

 難民でいえば、「私は難民様」という漫画も良かった。シリア難民がスウェーデンに移住することになった事件があったそうだ。都市ではなく田舎の村に連れていかれると判明したとたんに、「寒い」「医者がいない」「ドイツか大都市に連れて行け」と言い出して、バスから降りることを拒否した難民がいた。

 自分たちは犠牲者なんだから、弱者なんだからと言いたい放題。少なくとも善意で受け入れてくれようとしたスウェーデン人に対して失礼である。「こんな待遇なら祖国へ帰る」と言い出した者もいたとか。日本におしかけた在日とそっくりだが、勝手に密航してきて、強制連行されというんだから、もっと悪質。

 まっとうな日本人の声は、サヨクメディアでは消されてしまうが、みんながサヨクの偽善、欺瞞にはうんざりしているのである。例えば公共施設や駅等における支那語、ハングル表記は、サヨクや在日が推進したり、鉄道会社を脅したりして実現させたのだろう。だが、そんなことをして「良いことだ」と思う日本人はいない。ハングル文字や支那の簡体字は、日本の風景にそぐわないことは一目瞭然である。不愉快で目障りなのだ。

 北朝鮮による拉致が明らかにされる前は、報道では「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国」と言わされてきた。そんな呼称を強いてくる団体は在日しかなかった。日本人は実に不愉快な思いに耐えていた。

 サヨクは、こうして弱者をいたわるとか、お隣どうし仲良くとか、偏見をなくそうとか言って、彼ら在日の侵食を許し後押ししてきたが、それゆえに、まっとうな日本人はますますサヨクを嫌い、韓国や支那の人間を憎悪するように、実は仕向けてしまったのだ。

 こういうことをゴリ押ししてくるサヨクが、先の安保法制に反対して「戦争法案だ」とイチャモンをつけ、違法集会をやらかしていることぐらい、みんな分かっている。
 自民党や安倍首相を手放しで支持しているのではない。ただサヨクのイカサマ、インチキ、偽善に拒否反応があるから、『余命三年時事日記』や、はすみとしこ氏の漫画に溜飲を下げているのである。

 ブログ「余命三年時事日記」は、1日あたり閲覧回数4万強、月にすると約120万回、1日あたりpv10万強、月にすると約300万pvだそうで、書籍が発売されたからもっとこれからは増えるだろう。

 はすみとしこ著『そうだ 難民しよう!』の爆発的売れ行きも、アホなサヨクが薮を突いてヘビを出したような案配である。
 サヨクらは、出版自体を許さないとする攻撃を行っている。表現の自由よりも、ありもしない差別だの偏見だのを押し立てて、皮肉やパロディすら許さない。そのくせ、子供がデモをやるのは認めろと言い、民主主義が一番大事だと抜かす。

 本のなかに「ピーターパン症候群」と題するイラストがあった。
 ピーターパン症候群とは、大人の年齢に達しているのに、中身や言動が子供のままの人のことを指す。今夏、国会前で「あべ政治をゆるさない」とか「バカかお前は」とか喚いていた若者のことだ。

 中身が民青(共産党)なのに、しらばっくれて選挙カーや拡声器を借りたり(本当は借りたのではなく、共産党から指示された)、集会にサヨク議員が来てアジっていたり。おかしいと思わないのか? 共産党は民主主義政党じゃないんだよ。本質は支那や北朝鮮と同じく一党独裁志向で、強権体質なのだから、民主主義とは相容れない。

 共産党が護憲を唱えるのも嘘である。
 なのに、国会前の坊やたちは「民主主義が安倍によって殺される」なんてことを言う。
 共産党は、在日とズブズブである。戦後、共産党は在日のカネで再建されたのだ。そういう勉強をしてから、国会前にやっておいで。

 話は違うが、その若者、とりわけ高校生の政治活動については「懸念」が言われるようになっている。高校生がデモに参加する際は、学校長へ届けさせる自治体もあるとか。それをサヨク新聞は大仰に「高校生を監視するのか!」と憤ってみせる。
 バカ言ってんじゃないよ〜♪

 高校生の年齢で選挙権が付与されたからといって、政治的な判断能力はまだ未熟である。意識が高くて安倍政権を批判する向きもいるだろうし、それをダメとは言えないけれども、本当は高校生や大学生では、国家とは何か、政治とは何か、選挙権をどう生かすか、情報はどうやって入手するか、といった基礎的な知識と判断力を培う時期である。

 選挙権を得たことをいいチャンスとして、健全な政治への関心を抱けるように認識を整えることが大事であって、毎日新聞ごときが言うように「もっと安倍政治を批判させろ」ではいけない。

 幅広く人の意見に耳を傾けるとか、弱者だけを大事にするのではなく、強者=権力が何故必要なのかも、イデオロギーに染まらずに理解できるように勉強するべき時期なのだ。それを政党やサヨクメディアが利用しようとして、高校生だって発言しようなどと煽ってはいけない。

 高校生はまだ一人前ではない。だからデモに行くなら校長の許可があっていい。学校が特定のイデオロギーに染まらぬよう、将来正しい判断ができるように指導しなければならないのであう。
 それをやらないで野ばなしにするから、ピーターパン症候群の大人が湧いてでる。

 正直いえば、はすみ氏のイラストは目が覚めるほどのインパクトはなかった。もう分かり切っていることだからだ。これではすぐに読者に飽きられるだろう。
 だが、サヨクの日ごろの欺瞞をあぶりだした事は称讃に値する。




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2015年12月23日

『余命三年時事日記』発刊を祝う(2/2)


《2》
 『余命三年時事日記』にあった話を取り上げよう。かなり衝撃的である。

     *    *    *

 自衛隊のOB組織、民兵のような組織で詳細は分からないが、武装は自衛隊と同様、紛争発生時に招集され、公権の処理できない処理を迅速に行うという。平時には存在しない。オフレコ情報を集めるとこれがすごい。「日韓戦争状態になったとき、在日特に暴力団は処理に困ります。数万人の暴力団ヤクザ在日朝鮮人を逮捕、拘束、収容など不可能です。これをきれいに迅速に片付ける部隊です」さらっと書いたけどこの片付け何か恐ろしそう。

 (中略)
 交戦状態になったとき、在韓日本人、一般在日韓国人は双方帰国、あるいは送還の作業が行われるが、それができない反日武装組織はどうにもならない。警察も、公安もスパイだらけだから結局コソボのような処理にならざるを得ないということか。

 (中略)
 歴史も現実は力関係で決まる。当時(20年ほど前)、学生に中には、中朝の戦後の蛮行に対し武力対応を考えるものが結構な数存在していた。文系、理系の壁をのりこえて爆弾作りや時限装置の研究、火炎瓶の研究などをおおっぴらにわいわいがやがや明るくやっている学生たちが相当数いたのである。実際とんでもない危険なことをしていたわけだが、当時は各大学それぞれが流行のようになっていて、日本に害をなす輩は駆逐すべしというような大義であったから、暗さがなく隠す必要もなかったのだろう。

 それから約20年、小生もいろいろ忙しく、完全に縁が切れていたのだが、2009年になって突然の連絡を受けた。折しも公安ファイル流出の時期で、「目標が見えました。日本に仇をなす者は許しません」とまあ元気だった。小生、存じ得ないがその他にもあちこちに強烈な右翼がいるようで、日本の将来はそう悲観しなくてもよさそうだ。

     *    *    *

 すごい話だと思いませんか?
 「公安ファイルの流出」とは、民主党政権時代にサヨク議員が支那や韓国朝鮮に、公安が握っている彼らの情報のファイルを漏らした事件のことである。民主党は売国奴である。
 わが国も、彼らにやられっぱなしではないのだ。大変頼もしい。

 こういう話は決してマスゴミには登場しない。まして国会で議論されることなどあり得ない。だから「ない」と思ってはいけない。
 ただ…。
 「数万人の暴力団ヤクザ在日朝鮮人」を自衛隊OBらが駆逐してくれたとしても、在日の多くは「通名」で過ごし、日本人に成り済ましている。中には戸籍を乗っ取っている奴もいる。
 区別がつかない。

 日韓開戦となったら、数十万人もいる在日をあぶり出して拘束し、本国へ強制送還するのは困難である。彼らは緑色の韓国パスポートを所持した「旅行者」なのだが、パスポートの提示を求めたって、「日本人だから持っていない」と言われれば、わかりようがない。
 だからこそ、通名は許してはいけない。
 帰化しても、日本名は名乗らせてはいけないのだ。

 彼らの本国は、在日棄民政策をとっている。本来なら犯罪者は韓国へ強制送還されなければいけないのに、特例で野放しにされる。在日は本国へ戻っても、食って行くのは大変だろうし、差別もされる。そんなことはわれわれの知ったことではないが、本国が送還者を受け入れるつもりがないのが困ったことなのだ。

『余命三年時事日記』にはこんな恐ろしいことも書かれている。

     *    *    *

 自衛隊が一番危惧している問題がある。いわゆる銃器問題である。アメリカ同時多発テロ以降、日本でも各担当省庁で対策がとられてきたが、米軍基地から横流し、流失する武器の量は、一時は激減したものの、リーマンショック以降は元の木阿弥だそうだ。そしてその種類も、ピストル、小銃、自動小銃、手榴弾、バズーカ、なんでもありだという。関係者は、全国規模、またその予測される武器の種類、量から見て、まず疑いなく在日がらみであろうという。

 自衛隊の場合、戦争あるいは紛争時の相手は敵正規軍である。国内紛争や治安対策の場合は基本的に警察や機動隊が対応する。日韓戦争勃発時、敵国民、在日を拘束し強制送還を担うのは警察と機動隊である。警察も機動隊も一般的には、取り締まり、拘束、逮捕、まれに治安、鎮圧が仕事であって、銃器を伴う戦闘を想定した組織にはなっていない。

 軍隊同様の装備をして待ち構えている相手に警棒やピストルで向かっていけば、すさまじい犠牲が出るのではないか。自衛隊はこれを危惧しているという。とりあえずこちらも重装備するしかありませんな。

     *    *    *

 警察や機動隊に重装備させ戦闘訓練をすれば、左巻き連中が大騒ぎになる。まして自衛隊が治安出動すれば、これも民主主義の否定だ、軍の支配だと騒がれる。マスゴミも、大学教授どもも、司法も、いずれも赤く染められていて、戦争になったとしても、在日の人権がどうの、差別と偏見がどうのと妨害されるに決まっている。
 それでもし、『余命三年時事日記』の危惧するように、警察隊が武装した在日集団に虐殺されても、サヨクはそれみたことか、韓国に敵視政策をとった政権が悪いのだというだろう。
 
 かくて終戦直後に「朝鮮進駐軍」を自称した在日が、略奪、暴行、殺戮のかぎりの蛮行を大手を振ってやらかす社会へ後戻りするのだ。そうなっても、サヨクどもは「右翼が在日を追い詰めたからいけない。ヘイトスピーチを禁止しなかったからだ。じっとおとなしくしているほかない」と言うようになるのだろう。

 戦争だけは嫌だ、戦争は絶対にやっちゃいけない、平和を祈りましょう、と言っていると、こうなるのだ。
 銃器問題といえば、米軍から横流しになるとはショックだが、さほどびっくりする話でもない。
 イスラム過激派の武器は、米軍やイスラエルが渡したものだろう。

 ナイジェリアも、イラクも、アフガニスタンも、現地の軍隊は弱くて、反政府軍と戦闘になると、米軍供与の武器や戦車までも置いて逃げてしまうそうだから、事実上の横流し、流失である。
 
 沖縄には、きっと支那や韓国からも武器弾薬が非合法に持ち込まれていると考えなければなるまい。現在、辺野古移設を巡って政府と県知事が対立して訴訟になっているが、あれで政府の全面勝訴となる(はず)はいいが、そのときにサヨク反対派が武装蜂起する可能性は考えておかなければなるまい。ただちに支那軍や韓国軍が「救援」と称して上陸してくることもあり得る。

 それを防ぐには、日本は核武装しなければならない。
 『余命三年時事日記』には極秘事項として、アメリカ側が日本に核兵器を売ってもいいという打診が来ているとか。にわかには信じがたいが、本当ならぜひに買うべきだ。アメリカ国債と帳消しにしてもいいくらいだ。
 そうすれば北朝鮮に拉致された同胞も帰ってくるだろうし、韓国からは竹島が、そして「従軍慰安婦」の像も撤去されるだろう。






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2015年12月22日

『余命三年時事日記』発刊を祝う(1/2)


《1》
 アマゾンに注文してあった書籍『余命三年時事日記』(青林堂)が12月17日に届き、すぐに読んだ。
 しかし、何らかの圧力がかかって書籍『余命三年時事日記』を堂々と販売できないという環境がただちに出来した模様である。なにせ極めつけの“嫌韓本”だから。

 Amazon以外の大手書籍通販サイトでは『余命三年時事日記』の購入予約ができなかった。発売日にはなんと総合ランク1位になったのに。
 おそらく発売時点では、全国レベルでも販売ランキング上位に行っただろうに、どこでも無視するだろう。NHKでも「今週のベストセラー」などとやっているが、きっとこれは削除するだろう。

○Amazon 「12/17発売予定 予約受付中」
× 紀伊国屋ウェブ 「ただいまウェブストアではご注文を受け付けておりません」
× 丸善とジュンク堂ネットストア 「現在ご注文いただけません」
× hontoネットストア 「現在お取り扱いできません」
× 楽天ブックス 「ご指定の検索条件に該当する商品はありませんでした」
× セブンネットショッピング 「絶版重版未定」www
× ホンヤクラブ(取次の日本出版販売株式会社のサイト)「予約受付を終了」


 …と、オンライン書店はこういう状態。大手書店のデータベースには登録だけはされたそうだが、確信的不売行為がまかり通っている。
 一般書店でも店員や上層部などが、販売を妨害している様子である。言論の自由が抑圧されている。これがサヨクの本性だ。
 とはいえ、多くの客が書店を訪れて問い合わせるものだから、徐々に扱わざるを得なくなっているようだ。

 ブログ「余命3年時事日記」に寄せられているコメント欄を見ると、書店に買いに行くと、入荷していないとにべもない店が多く、あるはずだとねばると渋々裏から「1冊ありました」などと出して来るケースがあるようだ。

 「JR神戸駅の福家書店。左派の政治本コーナーが設けられている。「余命三年」を問合せると店員の方3名の空気が変わりました(^^)入荷予定はないとのこと。」

 「神戸三宮ジュンク堂で今日一冊購入しました。実に不思議な体験でした。店内を見回しても見つからないのでキャッシャー付近に居た店員さんに聞きましたら長いこと電話を掛けて係りの人に聞いていたようでした。そうして5分ほどして5階の会計のそばの籠の中にあると言うので行ってみるとその籠の中に一冊だけありました。籠の中に一杯在ったのに一冊だけ残っていたのではなくて普通の人に余命三年時事日記の存在そのものを知らし目ないために客が探していたらその一冊だけを籠に入れて待っていると言う販売方法だと思いました。その準備のために5分ほどかかっていたのではないかと疑っています。」


 神戸はザイニチが多いから、さもありなん、である。だが、全国でこうした状況になっているらしい。
 要するに書店すらが反日サヨクやザイニチに占領されている実態がはからずも露呈した。

 こんなコメントもある。
 「入荷していない書店に取り寄せを行う場合ですが、みなさま本名を名乗らずに済む場合は、なるべく偽名を使われることをおすすめいたします。ぱよちん事件や生協脅迫文書事件のようなものが明るみに出てきた今、相手にこちらの個人情報を与えるのは危険かと思われます。」

 事態はここまで来ている。書店も信用できない社会にされている。

 ブログ「余命3年時事日記」にはこうあった。
 「書籍化によって、巷間の書店に余命3年時事日記がならぶことにより戦線がネットから大きく拡大する。17日出版以降は日本人対在日、反日勢力という図式になる。余命だけではなく、安倍総理にも国税、警察、その他各省庁に狙われている在日や反日勢力の諸君は気が休まることはなさそうだ。南無....。」

 ネット社会によって、反日ザイニチは思わぬ苦戦を強いられるようになった。

 日本から韓国へのODAリストをご覧になったことがあるだろうか。
 私は書籍『余命三年時事日記』で知って、まさに怒りで震えた。ネットでは下記で見られる。
http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/35533542.html
 韓国が自力で近代化を成し遂げたなんて大嘘である。全部日本が国民の税金をふんだくって、韓国に貢いだのだ。私たちが働いて納めたカネが、反日国家に大判振る舞いされてきた。

 なんのためだろうか? いろいろあるだろうが、一つ考えられることは、ユダヤ金融資本の陰謀である。韓国を「近代化」することで、投資をしやすくする。要するに豚を太らせてから料理するようなものだ。インフラも日本に整備させ、技術も移入させ、工業国に仕立てて儲けをあげさせてきた。韓国が戦前のような農業しかない国なら、投資して見返りを得ることは出来ないが、「近代化」させたから、投資家どもはがっぽり稼げるようになった。

 以下のサイトでは、終戦直後の朝鮮人による暴行事件が見られる。
http://matome.naver.jp/odai/2136210909063688601
 これに関して『余命三年時事日記』はこう述べる。
     *    *    *
 
 一般的に帰化外国人は少なくとも三世、四世ともなれば在住国に同化するものだ。日系アメリカ人等は二世であってもヨーロッパ戦線で米軍兵士として勇敢に戦った。ところが在日韓国人に限っていえば、彼らには日本に同化しようという意志も行動もまったくみられない。あるのは反日感情である。

 最初に結論を言えば、韓国人の日本人に対する恐怖心がそのすべてである。特に一世、二世にそれが強い。それもそのはず、彼らは戦後蛮行の当事者であって、戦後隠蔽してきた数々の蛮行がすべて日本人に知れれば当然のこととしてすさまじいリベンジが来ることがわかっているからだ。

 ところが三世ともなると潜在意識が根本的に変わってくる。三世以降、つまり、息子や娘、孫等には、自分の蛮行を伝えていない。自分たちを正当化するために、事実、歴史をねじ曲げて、日本人を悪者にして対処しようとしているのだ。真実が知られては困る。よって韓国、国家を挙げて歴史を捏造し、反日教育をしているというわけだ。

 これ在日韓国人もまったく同様である。
 朴槿恵がオバマに日本を仮想敵国に指定するよう要求なんて記事は、ただあきれるばかり。オバマは苦笑していたそうだ。

     *    *    *

 これは実に的確に韓国人の心理を分析していると思う。終戦後の在日朝鮮人らの数々の蛮行がもう一度若い日本人に知れれば、全日本人が大きな復讐心を持つようになることを、彼らは怖れている。だから必死に、書籍『余命三年時事日記』の販売を阻止しようと血眼になっている。

 駅前の一等地にあるパチンコ屋、朝鮮焼き肉屋、ヤミ金らが、GHQの裏工作で在日朝鮮人に渡されていたことは、しっかり日本人は知るべきである。
 なのに、副島隆彦はHPで「日本の安倍首相は、国際政治の場では誰からも相手にされない。世界の首脳たちを会議場の通路で何とか捕まえて立ち話をしようとしても振り切られて相手にされない。
『日本の首相は変なやつ(すなわちアホ)らしい。アハハ』と世界中でバカ扱いされている。韓国の朴槿恵大統領からさえ相手にされないで振り切られた」などとボケたことを言っている。

 副島はドイツのメルケルがシリア難民を大量に受け入れたことを褒めちぎる。やがて戦乱が落ち着けば彼らはシリアに帰っていくことをメルケルは知っているから、先がちゃんと見えている、と。
 メルケルは人に温かい心を持っているが、安倍とその支持者は意地汚い排外主義だと罵る。

 「日本の安倍晋三を支える、チンコロ右翼の排外主義者たちの、唯一の取り柄は、だから、彼らの本心である、『中国大陸や朝鮮半島で動乱が起きたら、日本の中国人、朝鮮人が、難民となって大量に流れこんでくる。それを受け入れることはできない。日本には、彼らを受け入れるお金も場所もない』というものだ。だからアジア人たちは、この日本のチンコロ右翼たちの本心を、よく知っているから、日本に難民申請しようと思う人々は少ない。 
 なぜなら、日本に行ってもいじめられて、嫌われて、差別されるだけだから。」

 ほう、さすがの媚中副島も、支那や韓国が崩壊して難民が発生するかもと予想しているのか。副島は、終戦後「不逞鮮人」や「第三国人」という言葉ができ、メディアも堂々つかっていた事実を知らないらしい。在日はほとんどが難民、あるいは密入国者である。駅前にパチンコ屋や焼き肉屋がなぜ多いのかも知らないと見える。

 莫大な韓国、北朝鮮への支援、パチンコによる日本社会の荒廃、覚醒剤の密輸、暴力団、みんな「温かい日本人」が招いたものだ。
 寄生虫の輩への公的負担(年金や生活保護)だけで年間数兆円も奪われている。私たちの血税がゆえなく奪われている現状を、副島はいささかも見ないバカである。





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2015年12月21日

COP21の表と裏


 地球温暖化防止を目指し、世界196カ国・地域が集まって二酸化炭素(CO2)をはじめとする温室効果ガスの排出を減らしていくための目標や道筋などを取りまとめた「パリ協定」が採択された、とマスゴミが浮かれている。
 なかには「歴史的合意への到達だ」と持ち上げているおバカもいる。
 
 マスゴミが双手を挙げて良かった良かったと言うときは、国民にそう思わせるように仕掛けがあるのである。すなわち地球温暖化がどうのを関心を引き付けておいて、裏では何かが画策されていると見るべきだ。

 パリでの国際枠組みの誕生は、先進国と途上国の立場の差を乗り越え、すべての国が温室効果ガスの削減に取り組む体制を築いたことが大きな前進だと、もう手放しの喜びよう。
 パリ協定が、京都議定書に代わって世界のCO2削減に生かされる…って、そんなわけがあるか。

 そもそも「地球温暖化」はいかさまである。寒冷化しているとの説もあるくらいだ。
 地球上の気温って、どうやって測るの? 適当な場所をいくつか決めて、去年より今年のほうが平均気温が高くなっているとかって?
 そんなバカな。

 全地球だよ。分かりやすく言うなら、去年より今年、パリが気温が低くなったとしても、パキスタンでは高くなっていることがあり得る。だが、パリは先進国だから…といったって、あんなチャランポランで身勝手な国民が正確に気温が測れるのか? またパキスタンは紛争地帯であって気温を測っている場合ではない。
 シリアやイラクならば気温を測るのだって命懸けの所もある。
 正確無比に気温を測ろうとする真面目な民族は日本人くらいなものだろうに。

 アメリカは、京都議定書にも参加しなかったくらいだから、テメエたちが損をするとなれば、いかようにも数値はごまかすだろう。なにせ月面着陸をでっち上げた連中なのだ。国際条約に違反して、日本の非戦闘員を原爆で殺戮した連中なのだ。
 今度こそまじめにやるだろうとは言えない。

 まして支那は、まともに統計も取れないし、すべてが嘘で固めた国なんだから、奴らが出してくる気温の数値は、まったく信用できない。支那にはそもそも統計の方法がない。
 ただ支那は喫緊の課題として、大気汚染の深刻さが際立つ。だから奴らにとってはCOP21は渡りに船で、先進国、とりわけ日本からの公害防止の技術を盗んでただで環境を良くしよう、あるいはまた支援金をふんだくろうと狙ったのである。

 地球全体で2度低くなるようにしましょう、なんて達成できるわけがない。
 途上国の主張は、要するに温暖化対策が目的ではなく、先進国からカネをむしり取るだけが目当てである。もっとカネをよこせと言い張るために、パリに集まったのだ。

 気温だけとっても、それは弁証法性なのだから、例えば日本は年々1度ずつ上昇している、なんてことが言えるわけがない。年単位で測れるとしても、毎年変わる。暑くなったり寒くなったり…。
 しかも世界中で気温をまじめに測定しはじめたと言っても、かなり正確になったのは、せいぜいここ10年とか20年とかである。

 50年前は、温度計の目視で決めていた。いい加減というと言い過ぎかもしれないが、アナログで測っていたものである。今はデジタル化して、より正確に測れるようになったとしても、産業革命時代の気温と比べましょうと言ったって、その昔の基準となるべき温度が信用できないのだから、何を馬鹿げた話をしているのだろう。

 ではデジタルの気温測定がまごうかたなき正確な数値化といえば、それは嘘である。例えば、20.4℃は20℃にするし、20.5℃は21℃にするのがデジタルである。どんなに小数点以下を細かくしたって、どこかで四捨五入とか端数切り捨て、切り上げをしないわけにはいかない。それも気温は刻々と変化している。ある時刻で決断しているだけである。
 
 今測った気温は1秒後にはもう微妙に違う。
 こんなレベルのいわば大雑把な数値を基準に、やれ産業革命以降の気温上昇を2℃未満にとか、途上国は1.5℃以下でいいよとか、科学者だか官僚だかが膝詰め談判をしているなんて「何これ珍百景」である。
 しかも取り決めた合意に強制力も罰則もないとは。

 太平洋の島嶼国が、温暖化のせいで島が海没すると叫んでいたが、ツバルやトンガの場合は地盤沈下である。地盤沈下では先進国からカネはもらえないから、温暖化で海面が上昇したと嘘をつく。
 気の毒とは思うが、国ごと移住先を見つけるか、支那が南沙諸島でやらかしているように人工島にしてかさ上げするしかあるまい。

 そもそも、地球が温暖化して結構じゃないか。生命体は温度が高い環境が良いのである。もしも温暖化のせいで北の寒い環境で生育している動物が絶滅したとしても、何が悪いの? 地球上で、地殻変動のために絶滅した生物はいくらでもいる。恐竜もそうだったではないか。
 支那の大気汚染のようなひどいことは止めるべきだが、気温の上昇はむしろありがたい事態である。

 温室ガスは国際詐欺である。人間の活動と地球の活動は関係がない。人類が存在しない時代にも、地球は寒暖を繰り返していたのだ。
 トンガの狙いからも分かるように、これは温暖化を防止しようではない。先進国が途上国に“支援”をしろと強請られたのであり、先進国のほうも、国民の税金を捲き上げて大銀行が仲介してカネを途上国に貸し借りすることで巨利を得る仕掛けを合法的に作ったのだ。

 それに今回のCOP21ではあまり語られなかったようだが、排出権ビジネスを金融界が手広くやりたいからこそ、協定を何が何でも決めたかったのである。
 日本も、排出ガス規制の技術力では先端を行っているので、大きなビジネスチャンスがある。それで金融界や工業界、商社などはマスゴミを使って「すばらしい取り組みなんだ」と国民に思わせるように仕掛けたのである。
 なのに、日本のおバカなマスゴミは温暖化の話として前進したなどと嘘をつく。

 評論家・池田信夫氏はブログ「アゴラ」12月15日付でこう書いている。
     *    *    *

 国連でもWTOでも、参加国が増えれば増えるほど意思決定ができなくなる。すべての国に対して命令できる「超主権国家」ができない限り、多国間交渉は無意味なのだ。TPPがまとまったのも、実質的に日米の2国間交渉だったからで、3ヶ国以上になると、組み合わせの爆発が起こってしまう。

 交渉がまとまるためには、カール・シュミットのいうように参加国が一つの圏(ラウム)として共通の利益や理念をもっていなければならない。国際法が機能するのはキリスト教という理念を共有するヨーロッパ公法としてだけで、国連のような異質な国を含んだ国際機関は失敗する。

 (中略)
 これは国際的な意思決定が「日本化」したともいえよう。建て前上は平等な人々が集まって全員一致でものを決める方式は、和辻哲郎の意味での均質な<人間>が存在するときは機能するが、利害対立が顕在化すると、すべてを先送りする結果になる。

 ブロック経済より多国間協定が望ましいというのが経済学の理想主義だが、多国間では何も決まらないというのが実務的なリアリズムだ。コストばかりかかって空虚なCOPは、今回を最後にしてはどうだろうか。

     *    *    *

 ざっと言えば、そのとおりだが、これは「表の世界」を捉えている。そうでありながらも、実は世界は(というより実質はユダヤ国際金融資本勢力は)、わざと交渉がまとまらないように多国間の協定を目指していると考えられないだろうか。これが「裏」の世界である。
 池田氏は「空虚な祭典」とブログにタイトルをつけているが、空虚ではないのだ。

 ある意味ではまとまらないことが狙いである。
 本ブログで「ザ・インターナショナルとは何か」( 2015年2月23日付)で、映画『ザ・バンク 堕ちた巨像』 を取り上げた。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/414493868.html

 主人公サリンジャー捜査官が巨大銀行IBBCの闇を暴いていく映画なのだが、銀行の闇取引の幹部となっている老人のウェクスラー大佐に向かって、君は東ドイツで共産主義の理想のために邪悪な資本主義と戦ってきたのではないか、なぜよりによってその悪の象徴のようなIBBC銀行のために晩年を無駄にするんだ? と尋ねる。
 2人の会話のシーンをもう一度書いておく。

     *    *    *

大佐:正義の裁き? そんなことは不可能だ。なぜなら、君の言う正義は幻想にすぎないからだ。君が関与している組織(インターポールや警察など)は武器商社スカルセンや銀行を告発などしない。それどころかIBBCの安全を保証している。みんなグルだからだ。
サリンジャー:みんなとは?

大佐:(肩をすくめてから)…ヒズボラ、CIA、コロンビア麻薬カルテル、ロシア組織犯罪集団、イラン、ドイツ、支那、英国政府、あらゆる多国籍企業、…全てだ。彼らにはIBBCのような銀行が必要だ。表に出ない取引を密かに行なうために。
 だから君の捜査も無視されるか妨害を受けるのだ。君も私も静かに消される。銀行へのいかなる訴訟も法廷に上がらぬように…。

     *    *    *

 このウェクスラー大佐のような現実社会の説明は、マスゴミでは決して語られない真相であろう。なぜならばと言うまでもなく、報道各社は世界中でユダヤの手のうちにあって、真相を隠蔽するために活動しているからだ。司法だとてグルなのだ。

 地球温暖化という“正義”をネタに、国際金融資本はすべてを取り仕切っている。南太平洋の島嶼国も、環境団体も、支那も、麻薬組織も、先進国も、みんなグルであって、あたかも地球のためになると思わせて、無知な人々から税金をふんだくるのである。







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2015年12月19日

人を虫けらのように扱う人間(2/2)


《2》
 11月19日に「清濁合わせ呑むべき社会」で書いたこととつながるのだが、官僚が創る社会、秀才が創る社会は一つの効率化社会を実現させる。正義はどこまでいっても正義であらねばならない、とする実に窮屈な見解がまかりとおる。罪を犯したものは裁判で刑を確定し、何年かムショにぶち込めばそれで終わり、処罰は終わる。
 出所したものへの手当てはほったらかし。

 それを裏社会が吸収してきたと書いておいたが、表社会を牛耳る官僚や超受験秀才は知らん顔だ。
 次の文章は評論家・西尾幹二氏が、平成5年に小和田雅子が天皇家に嫁いだときの感想である。

     *    *    *

 人と人の間にいろんな複合的な違いを際立たせる尺度があって、それが宿命として意識されているほうが個人は幸せだし、社会は安定する。能力主義の行き着く果ては不毛なんです。だけどつい能力主義は皇室にまで入ってしまったんですよ、こんど。これはまさに幸か不幸か、ひとつの大きな象徴的な出来事です。「効率と平等」の社会の最終帰結がついにきたんじゃないかと思うな。

 効率主義が皇室まで入ったという文明論的な意味づけというのを、われわれは今考える必要があると思いますね。皇室の幸せとは別個にして、そのことは国民的にはぼくはやっぱり不幸なことだと思いますよ。貴族階級がいない王制というのは世界史の過去に果たしてあったでしょうか。
 (『皇太子さまへの御忠言』WAC)


     *    *    *

 さらに西尾氏は、「一つの尺度で社会が画一化されるのは社会にとって不幸だというのが私の考えの基本にあった。一つの尺度が最も効率的に働くのが官僚社会である。雅子さんと父君が籍を置いてきた社会がそれで、皇室は成り立ちからいって水と油のようにまったくそれとは原理を異にしている」と述べていた。

 戦後、文部省(文科省)という官僚どもが教育をいじり、支配して来たから、テメエに都合のいい効率社会を作り、維持するために学校教育を行なってきた。それが受験勉強であり、その成功者がまた官僚に入って、いわば自分と同じロボットを創りつづける。

 落ちこぼれたやつはその効率主義的社会でトップを支えるなんらかの階層になるべく強いられる。こうされた恨みを現今の親たちは抱きながら、子供を学校に通わせるから学校の権威を子供に説くわけがない、となる。

 しかし戦前も、学歴社会があったにしても、またそれは必要ではあったが、例えば中学はエリートだけが進学し、それも5年制だから先輩が睨みをきかせていて思春期の子供が不良にならずに済み、最後の5年生のときだけ受験勉強をすれば良くて、それ以外はたっぷりと青春を謳歌して、さまざまな価値が世の中にはあることを学ぶことができた。

 話を大きく戻すと本稿のテーマは、人間のなかに、どうして人を人と思わぬような言動をするやつがいるのか、どうして人(後進の者)を虫ケラのように扱う人がいるのか、の疑問であった。
 それを生むのは現今の社会のありようにあるのではないかと、受験勉強とその成功者が君臨する現状を考えてみたのだ。

 一握りの受験社会の成功者は、官僚とか医者とか大学教授とかになって、ふんぞり返って自分より成績の悪かった者を見下す。だから横柄、傲慢、尊大、権柄ずく…となって人を虫ケラ扱いする。
 と同時に、その特権階級に一歩及ばなかっただけの連中は、劣等感、恨みを持つから常にイライラし、俺はこんなはずではないのだと鬱屈する。それが八つ当たりとなって、他人を虫ケラ扱いするのではないか。

 支那人は共産党幹部に昇りつめると、やはり人を人とも思わない人間になる。そしてやっぱりいつも不機嫌な顔をしている。笑っているようで目は決して笑わない。騙されまいと身構えているのだろうし、隙あらば相手を潰そうとしているからだろう。

 しかし支那は伝統的に科挙制度でやってきている。受験社会である。模範解答にあわせて自分のアタマを創っていく。そういうことに成功した者が社会を牛耳る。
 したがって、西尾氏が語るような多用な価値観を許し合う社会にはなっていなくて、常に人の優劣が受験的に創られた価値観で判断される社会である。

 だからある意味で、嘘をつこうが約束を踏みにじろうが、社会で決まっている価値観で優位に立てればすべて良しになるのだ。
 日本の受験生もそうだが、自分の人生を自分で決めて、社会の発展に寄与して、それが多様性を大事にする考えにつながるから、人を愛せるし友情の大切さもわかる人間になるべきが、他者のことなんかどうでもいい人間になるのである。

 アメリカ人も、厳しい受験社会だ、そのルートで落ちこぼれたら、食って行くのも大変で、軍に就職して危険な戦場に行って帰ってこなければ貧乏人は奨学金も手にできない。
 だからであろうが、常に他人を見下すし、黒人やヒスパニックや下層の人間を徹底してムシケラ扱いをやらかす。そうした価値にしがみついて、自分は人よりちょっとでも「上」に行きたいと思うのだ。

 またそうした価値観になじんだ若者が、あの感性の薄いアメリカに草木もなびくように移住していく。

 西尾幹二氏は日本は天皇がいるということは、西欧的あるいは支那的な社会に蔓延する効率や合理だけでは測れない価値があることを人間が承知している社会になっているからだと説いている。
 天皇になるのは男だけとか、彼らに人権はないことなどは不合理そのものではある。
 そうだろうと思う。だから日本社会は欧米や支那のようなギスギスした社会関係には(比較的)ならないで済んだのだろう。

 こうした日本の受験的価値が浸透した現状を変えなければ、日本はアメリカや支那が支配する世界で、常に後塵を拝しつつ、でも常にトップになれない悲哀を噛みしめ続けなければならなくなる。無理して彼らの土俵に上がって競争して、勝つやつもいるだろうが、それで日本人の幸福は踏みにじられていくのだ。ささいなことで他人を見下し、虫ケラのように扱う者ばかりになる。

 現在の皇太子とその女房が天皇皇后になったときが、日本の崩壊につながるだろう。






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2015年12月18日

人を虫けらのように扱う人間(1/2)


《1》
 かねて人間のなかに、どうして人を人と思わぬような言動をするのか、どうして人(後進の者)を虫ケラのように扱うのかと不審であった。
 そういう人は、いつもなんだか不機嫌なのである。ささいなことで後輩や部下を怒鳴ることも多い。どうみてもイジメでしかないのだ。側にいると、片時も心休まるときがない。

 人に冷たいというのか、厳しすぎるというのか…の態度をとる人はどうも頭は良くて、そこそこ一流の大学を出ているが、かといって東大法学部や医学部のような「超」がつくほどの出身ではないのではないか、そこに何か共通項があるのではないかとおぼろげに思いつつ、何人もの人たちを見てきた。

 例えば昔あった国立大学二期校の出身の人とか、東大を受験したけれど残念ながら早稲田大学の政経学部に入らざるを得なかった人とか、東大には入ったが法学部・医学部には行けずに文2か文3になっちゃった人とか。
 世間的には一流大学じゃないですかと人から羨まれる学歴なのに、本人は屈折した思いを抱えている。

 こういう人は偏差値ではほとんど変わらないのに、頂点の東大文1や理3にわずかな差や入試問題の不運なんかで入れなかったために、心底コンプレックスを抱くか、こんなはずではなかったとの思いを抱き続けているのではないだろうか。学歴は終生消せないから、いつまでも不機嫌を引きずるのだと思う。

 大学としては一流の中には入れてもらえないところを出た人のほうが、むしろあきらめがついているのか、もともとのんびり屋で競争に強くなかったせいか、対人関係でギスギスした感じにはならなかった。
 なにも学校の成績だけが人生じゃないと悟っているせいか、それとも学歴を価値基準にしたら単にやりきれないのか…、人を虫ケラのように怒鳴りまくることはない。

 これに関しては明日のブログで掘り下げてみたいが…。
 さて、そんななか、河本敏浩著『誰がバカをつくるのか? 〜学力低下の真相を探る』(ブックマン社)を読んで、そうした長年の疑問、不審が解けたような気がした。

 本書は、60年代末の学園紛争あたりから始まって、その後の子どもたちの荒廃(教育現場の荒廃)、すなわち暴走族も、校内暴力も、学級崩壊も、援助交際も、モンスター・ペアレントの登場も、すべては大学入試制度が悪い、大学教官がバカだからだと論証したものである。
 こうした深刻な教育の問題がなぜ登場したかを一つの線でつなぎ、関連づけ、“追いつめられた子供”の心理に迫る教育書になっている。

     *    *    *

 ものの考えのまっとうさを試す問題は皆無に近く、重箱の隅をつつくようなヒネた問題ばかり。 東大の国語、英語の問題…
 こういう問題しか考えつかない大学のエリート教員のいかに頭が悪いかなのだ。彼らは大学入試の問題をつくるにあたって、予備校のプロでさえ正解が出せない超ひねくれた問題を作る能力だけがある。

 1964年の東大入試問題はこんなに簡単だった!’51年、’64年、’68年、’70年、’77年、’90年、’01年の東京大学入試問題を解くことで、戦後における学力低下の原因が見えてきた!  という面白い発想で書かれた、ユニークな本。
 本書では、試験を検定型にして、小学校から大学までをひとつにつないでしまえ!という解決法が提示。

     *    *    *

 『誰がバカをつくるのか?』は、日本の最高学府のあり方が日本の教育ならびに国民の学力を規定するという仮説である。
 これは仮説といっても自明の理ともいえるものだろう。
 戦後ずっと、教育改革はこの最高学府の入試制度を触らずに、小中学校の教育課程を変更することで学力向上を図ろうとしたがこれでは目的を達成できるはずがないというのが著者の主張である。

 高校の世界史履修漏れや分数が出来ない大学生を批判するのなら
大学入試に世界史や分数を導入すればいとも簡単にこの問題は解決する。
 戦後教育のもろもろの問題状況に対する処方箋が著者のから提供される。

 現在の荒れた教育現場については、現在の荒れている子どもの親世代がかつて学校から排除された世代であり、親に「学校は大切なところ」「先生の言うことをききなさい」という感覚が形成されていないという現実を指摘していると、著者は指摘する。

 その通りだろう。ほんの一握りの受験成功者以外は、99%が落ちこぼれである。
 つまりは、人生で必要なのは自分で考えることができ、豊かな感情があり、そして個人が自立してなおかつ社会的認識が見事に備わっていくよう、教育することなのに、現今教育制度はまったくそうなっていなくて、テストで模範解答を選ばせる教育になっている。そこで模範解答にあわせて自分を決めていく受験勉強に、ほんの一部だけが成功して、あとは落ちこぼれた2流以下にされる。

 恨みはみんな抱いて卒業する。そして我が子の番になって今度こそ1%の成功者に入れてやりたいとリベンジを狙う親もいる一方で、不信感を抱きつづける親もいるのだ。

 そんな親が子どもに対し家庭で学校の権威を説くはずもなく、いくら学校現場で教師が奮闘したところで学校の権威の回復は望むべくもないと著者は説く。

 日本の支配層は、一部のエリートと大量の善良なるバカを養成しようと企んでいる。何度か書いたが、霞ヶ関官僚は、テメエの子供に官僚を世襲させるために、裏で東大試験問題や国家公務員試験の出題と答えを教えていると評論家・広瀬隆氏が述べていた。国家公務員に世襲が多い現状からすれば、あり得る話だ。

 しかし現実は、一部超秀才を創ったつもりでもバカだけを量産している。落ちこぼれはいわずもがな。
 本当に子どもたちの学力を向上させようとするならば大学改革に着手しなければならない。
 70年前後の全共闘運動は、そうした目覚めへの提言を含んではいたが、左翼セクトに政治運動に持って行かれ、また学生ら自身に実力がないためにポシャってしまった。




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2015年12月17日

浩宮・雅子を廃太子・廃妃に(2/2)


《2》
 西尾幹二氏は『皇太子さまへの御忠言』のなかで産経の古森善久氏の『国連幻想』を紹介している。以下が古森氏の論述を「かいつまんで要約したもの」だという。

     *    *    *

 国連大学は学生も教授もキャンパスもないので普通の意味での大学ではありません。国連がいっさいお金を出さず、財政の基盤は“国連病”に浮かれてきた日本が独自に負担している奇妙な組織です。平和とか環境とか開発とかをめぐる委託研究や研修会を催してきましたが、やっていることにさして意義がなく、「国連合同監察団」が調査に入って、ここで行われている研究は国連にとって、ひいては国際社会にとってはたして「適切か」という疑問を突きつけて帰ったこともあります。

 国連大学は1969年に当時のウ・タント事務総長の構想として提案されましたが、日本以外の他の国はまったく冷淡でした。理由は、国連は各国の政治の協議の場であって、高等教育機関を開くことには適さない、という良識が働いたからですが、ただ日本だけは熱狂的な対応をみせ、佐藤栄作首相を先頭に、「国連中心外交」のシンボルとしてこれに飛びつき、熱心に招致を求めました。

 1973年に日本が国連本会議に提案し、他の国々は自分たちが資金を出さないでよいなら勝手に、という態度で可決しましたが、米欧諸国もソ連や東側諸国もこぞって表決に際して棄権しています。主要国はどこも賛成しなかったのです。
 日本政府は都心の青山に時価20億ドル以上の一等地を用地として無償提供し、75年にオープンしました。

 元チリ大使、色魔力夫氏は曰く、「『国連大学』とは名のみであり、事実上、日本が国連の名を借りてつくった訳のわからぬ学術機関となった。日本の横車に国際社会が根負けして設置を認めることになったのだ。無用の長物として国際社会の軽侮の的となる筋の悪い発想を崇高な文化事業であるかのように錯覚したといえる。」

 国連大学では各種の集会が開かれますが、そこから長年、日本政府に対する攻撃の矢が頻繁に放たれてきました。例えばNGOの一つである某集団が50人ほどの集会を開いて、「日本国内の移住労働者や野宿者のコミュニケーションの権利」などを論じたそうですが、そこで全会一致で日本政府への謝罪要求が決議されたそうです。

 それは2003年1月に東京で開かれた「世界社会情報サミット」東京会合に日本政府が北朝鮮代表を招かなかったことは不当だから謝れ、という高圧的な内容でした。

 国連に直接、間接のかかわりのある団体が国連大学で集会を開き、日本政府の政策を真正面から糾弾する。しかも特定の政治傾向に基づく非難がほとんどとなる。国連大学を熱心に招き、運営の経費を毎年負担する日本政府にとっては自分の足を自分の銃で撃つような悲喜劇である。

     *    *    *

 国連大学ではあの「慰安婦問題追及のセミナー」も開かれ、性奴隷だったと叫んだものだった。国連人権委員会は北朝鮮や支那の人権抑圧や、ヴェトナム戦争での韓国軍兵士によるヴェトナム女性の強姦などには追及せず、ありもしなかった「従軍慰安婦」だけを熱心に非難する。

 こんな伏魔殿に雅子妃が夢中になって通い詰めることは、極めて危険なことなのである。雅子に進講するのはほとんどが害務省の職員だそうで、そういう事実からも、雅子が日本の元首であるべき天皇の妃になることほど不穏当なことはない。

 西尾幹二氏はこう述べる。
 「日本国内の調和、つつましさ、優しさ、乱れをきらう洗練された美意識、汚れのない清浄感、自我を抑えて天地自然の前に跪く敬虔さ、こうした特質を代表しているのが皇室である。そしてこれはすでに見てきた通り、ある意味では『日本人的なもの』の特性でもある。身の周りに穢れのない秩序を保つという美意識は、日本人のいわば道徳である」と。

 この見解には私も反対しない。それが理想だ。
 何度も書いてきたが、南北朝時代に生きた北朝の光厳院こそ、それを体現された天皇であったと思う。一方で後醍醐院は私利私欲のために国を混乱に陥れた悪人だったのに、今日では天皇崇拝者が無条件に、天皇親政を回帰させようとしたというだけで後醍醐院を持ち上げるのを不快な思いで見ている。

 京都の御所はいわゆる城郭ではない。壁も乗り越えようと思えば容易いだろう。戦乱に巻き込まれればひとたまりもない。先日、韓国人によって靖国に爆発物が仕掛けられた事件があったが、御所もそういう危険はある。まったく無防備である。
 天皇が西尾氏が説くように、日本人の「信仰」や「道徳」や「美意識」の宝石のようであるからこそ、ゲバルト的には防御する術がない。

 「しかしこの道徳は自ら守るために戦う方法を知らない。それは皇室に自己防衛の手段がなく、それ自体は玻璃のように脆く、壊れやすく、国民に守られて初めて安泰であるのといわばパラレルである」と美しい言葉で説かれている。
 だから雅子のような破壊分子に侵入されるとひとたまりもない。

 さて。
 皇室批判をすると、どうしても反発がくる。
 まずは畏れ多いのだから言挙げはならぬと、はじめから天皇を絶対聖域にして譲らない向きが強固にある。
 雅子についても病人をいじめるな、それでなくても感じやすい方なのだからそっとしておくのが一番良いとするもの。

 よしんば天皇や皇室に瑕疵があったとしても、それをあげつらうことは反日左翼を利するだけだ、日本の国体をあえて傷つける言動はやめろ、とか。
 つまりは問題があろうとも「見ざる、聴かざる、言わざる」でいいじゃないかと言うものだろうか。

 私は必ずしも天皇制度の否定論者ではない。なにがなんでも、無理してでも維持するべきとも思わないが、わが国にとっては次善の策かと思っている。だから西尾氏の擁護論はわかるし、大事にする気持ちもわかるつもりだ。
 だが、だからといって、ヒロヒトのように戦争をアメリカと組んで八百長をやらかしておきながら、無責任なありように憤っている。

 また、天皇や皇室を利用して権勢を得るフィクサーの存在とか、逆に政治に介入してくる天皇と皇室を好ましいものとは思わないだけのことなのだ。
それよりなにより、「崇高」という概念で維持されてきたはずの天皇を、長州のテロリストが私利私欲で弄んで、大室寅之祐にすり替えてしまったことを問題にしている。

 批判すべきは批判する自由は保障されなければならない。戦前のように、いっさいを禁じて逆らう者を獄に投ずることは悪政だと思う。






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2015年12月16日

浩宮・雅子を廃太子・廃妃に(1/2)


《1》
 昨日の雅子批判の続きを述べる。
 何度か本ブログで紹介したことがある「BBの覚醒記録」に、雅子妃の写真が並べられている。「後ろ姿ににじむお育ち」とある。
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/0fc1110db99a84c59922686d9bff9f75
 雅子妃と紀子妃の立ち居振る舞いが比べられていて、愕然とさせられる。これはみっともない惨状である。彼女の認識には皇太子妃としての自覚がまったくない。

 われわれの空手流派でも、その人の人間性は後ろ姿に顕われるのだから、後ろ姿がズンだれないよう終始気を張っていろと指導されるのだが…。雅子の後ろ姿は見るも無惨である。紀子妃は見事に品格がある。紀子妃にこそ皇后になってもらいたい。
 後ろ姿だけでも、国民は雅子にレッドカードを出さなければならない。

 浩宮と雅子の結婚が遅れたのは、雅子の母方の祖父が日本窒素株式会社会長だったからで、水俣病訴訟で一定の決着がつくまで世間の指弾を慮って先延ばしにされたのである。水俣病発生時には社長ではなく、銀行から被害者対応を依頼されて乗り込んだ男だった。宮内庁は江頭の責任を巡って慎重を期したが、まあ責任はなかろうと勝手に判断して、孫の雅子の皇室入りを認めた。

 そのチッソの江頭豊が死んだとき(2006年9月 98歳)に、あろうことか、皇太子と雅子が弔問に赴き、また告別式にも参列したのだった。
 江頭豊は、チッソの社長時代に水俣病の責任を認めないどころか、被害者に暴言を吐くなど悪辣で鳴らした男だった。雅子は身内だったから、まあ弔問に行きたい気持ちはわからないではないが、本来は遠慮すべきである。皇太子までが揃って江頭家を弔問するなどは、水俣の被害者および国民への愚弄、侮辱であった。
 水俣の被害者の神経を逆撫でして平然としていたのが浩宮と雅子。

 自分たちはやんごとなき人種だから下々のことなんか知ったことか、の態度である。
 今上天皇・皇后は被災地に行かれて激励して回ることが多いから、もう少し人の気持ちがわかる人間なのだろう。ならば息子夫婦の無神経を咎めてみろ。

 江頭豊は経営権を握った後も、チッソは自らの工場排水が水俣病の原因であることを一切認めようとはしなかった。患者といっさい交渉をもとうとしなかったうえに、そのまま66年 まで水俣湾に水銀をたれ流し続けた。
 殺人行為に加担していたのだ。株主総会に水俣病被害者が行って、「責任を…」と発言しただけで屈強なガードマンが取り囲み、殴る蹴るの暴行を働いた。自らの責任を認めたのは、水俣病発生が発覚してから10年以上も経過した1968年のことだった。
 
 これとて江頭自身の自発的な判断ではない。政府がついに水俣病の原因をチッソ廃液とする正式見解を発表したため、チッソとしても対応せざるをえなくなっただけのことである。
 こういう鬼畜の孫が皇太子妃になるとは、重大問題だった。

 雅子妃は、水俣病をまき散らした祖父の葬儀に出ながら、なんと香淳皇后の葬儀(歛葬の儀)は、夏バテだからと欠席している。
 雅子には創価学会員との噂が根強くある。彼女の父親小和田恒はもともと外務省の「大鳳会」のメンバーで、「大鳳会」とは創価学会のメンバーのことである。
 雅子の妹の礼子は池田祐久という創価学会員と結婚しているので、小和田家が創価学会と深い関わりがあることは明白であろう。

 これが公式に宮内庁から否定された形跡はあるまい。しらばっくれているのだ。
 心配事はほかにもある。
 雅子が国連大学がことのほかお気に入りで、頻繁に出かけることだ。西尾幹二氏の『皇太子さまへの御忠言』(WAC刊)から引用する。

     *    *    *

 ご病気はまだお治りではないのかどうかはともかく、他になにか関心をもって活動されているご様子だが、問題はその中味である。雅子妃は国連大学に足繁く出向いているらしい。国連大学というと何か立派な場所のように思えるかもしれないが、反日左翼イデオローグの集会の場と聞いている。

 もちろんそれだけでなく、環境問題とか途上国問題とかさまざまな文明のテーマに取り組んでいる所のようだが、学生のいない国連機関研究所がイデオロギーの場になり易いのは自然の理である。北朝鮮の金日成のチュチェ思想研究所の理事であった武者小路公秀氏が永らくここで副学長をして、影響をなお残している大学でもある。妃殿下が熱をあげる対象としてふさわしいかどうかは、宮内庁や警察庁がしっかり調査し、監視してもらいたい。

 私が一番恐れているのは、皇室の内部に異種の思想が根づき、増殖し、外から取り除くことができなくなる事である、妃殿下はご病気がすでに治っていて、宮中祭祀のようなご公務を拒否されるのは、すでに何らかのイデオロギーによるのではないかという疑いすら囁かれている。

 ちょうど日教組の教師が卒業式で君が代を歌うことを拒否するように、高度に宗教的で古色豊かな宮中の密儀秘祭に反発し、受けつけないのではないかという疑念である。さもなければ平成15年からいっさいの祭場に立ち入らない義務の不履行は、あまりにも目立ちすぎ、なぜそこまで拒むのか簡単に説明できない。

 この点については、私は国民に対する責任ある回答を、ほかでもない、皇太子殿下にまず求める。日本人の信仰の中心であるご皇室に反日左翼の徒ががっしりと居座るというようなことがあったら、目も当てられない。この国とこの国の文化は中核から自壊する。

     *    *    *

 西尾氏の危惧するとおりだ。雅子の国連大学訪問は実に平成18年から20年までに30回もあった。講演やシンポジウムを聴きにいくとか。
 国連大学の建物内には雅子のための「個室のようなもの」が用意されている、と西尾氏は書いている。この個室を宮内庁東宮職は知らなかったし、確かめてもいなかったそうだ。
 ひねくれた見方かもしれないが、そこが逢い引きの場ともなり得る。秘密にされているとはそう疑われても仕方あるまい。





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2015年12月15日

老人の嘘つき


 車椅子に乗っているジジ・ババの多くは、人が同情するから降りようとしないのだ。一時的に重態で歩行できないとか、足が不自由で歩こうにも歩けないケースもあるが、それを咎めるバカはいない。
 なんでもかんでも車椅子に乗って、人様に押してもらうことが当然と振る舞っている人を指して言っている。

 実際に病院なんかで見ていると、車椅子のバアさんなんかに、看護婦や看護助手らが寄り添い、優しい言葉をかけ、かゆいところに手が届かんばかりに世話をしている場面に出くわすことがある。その行為は反面で、ますます患者を増長させ、車椅子から降りる努力を放棄させているのである。主観的には優しさと善意のつもりが、客観的には残酷な仕打ちになっている。
 
 なまじ善意だから始末が悪い。困っている人を助けるのが人間として当然じゃないか、と怒鳴り返されそうだ。しかしながら、地獄への道は善意の石で敷き詰められているとの諺があると、少しでも思い返してほしいものだ。

 以前、丸山健二氏の自伝的エッセイ『生者へ』(新潮社 2000年刊)から、氏の父君の臨終場面を紹介したことがあった。
 いったんは医師から危篤を宣告された父君だったが、持ち直したそうだ。
 レントゲンの写真で見ると、丸山氏の父の脳は脳軟化症でボロボロになっているのが、素人目にもはっきりわかったそうだ。だからたとえ命をつなぎ止めたとしても、廃人同様の状態になり、植物人間のようになって意思の疎通はあり得ないと医者も断言した。

 「ところが、日が経つうちに付き添う身内の者の呼びかけに反応するようになった。とんちんかんな返事の場合もあったが、まともな受け答えとしか思えない場合もあった。そして、筋肉に衰えが感じられなかった。流動食とはいえ、食べることもできるようになった。」

 身内の人たちも、危篤から脱したとはいえ、病人がいったい本当に呼びかけを理解して返答しているのかどうかわからなかった。そこで丸山氏は自分が付き添ったときに確かめようとした。
 「父は相変わらず無表情を保っており、かたわらに誰がいるのかまったく知らないかのような様子だった。ときおり脈絡のない短い言葉をうわ言のように発したりしていた」
 という状態の父上に、確かめたいこととは、それでもまだ生きていたいのかどうか、であった。

 丸山氏は「露骨な言い方で、死にたいのか生きたいのかという二者択一を迫る質問を浴びせた」ところ「思考力が残っているとはとうてい思えない顔」の父君から言葉が発せられた。
 「死にたくない」と、はっきりわかる言葉でそう言ったというのである。

 丸山氏の父君は、女学校の国語の教師で、絵に描いたような軟弱きわまる文学青年だったそうである。しかも優柔不断のマザコン。およそ精神の膂力を把持している作家・丸山健二氏とは性格が似ていない。
 「『死にたくない』と、父はそう言った。厳しい問いかけに対してはいつもあやふやな表現しかしない男にしては実に明快な答え方であった。答えてくれたことで何もかもわかった。父はとぼけていたのだ。意識が朦朧としている振りをしていたのだ。付き添いの相手によって演技していたのだ。」

 なぜ「演技」するのかわからないと丸山氏はあきれているが、私はそれが人間だと思える。
 要するに「社会全体で甘やかしてくれるから、ますますボケ老人は増える」のであり、老人が病院にしけこめば、看護婦から家族から皆して甘やかしてくれるのだから、当人はわがまま放題を決め込み、ボケたふりをするのである。
 丸山氏の父君の場合もそうであったのだと思われる。
 人間は死の際までいっても甘やかしてほしいから演技をするものだとは、ちょっと愕然とするが。

 車椅子に乗る老人の多くがこれであろう。

 ところで、話の主題は雅子皇太子妃である。
 病名ははっきりしないらしいが、ほぼ「適応障害」と診断されている。適応障害とは、そっけなく言えば「わがまま病」である。医者も本音ではそう確信しているが、それでは儲からないから、病名を付け、薬を処方する。

 適応障害は、本人は周囲に苦しいと訴えるだろうが、そのくせ自分の権利だけは事細かに主張するのが“病気”の特徴だそうだ。その一方で、権利にともなう義務だとか、周囲の迷惑はお構いなし。病気だから、と言って勝手放題をやらかす。

 雅子の場合は、よほどの天皇教信者でなければ、みんな仮病を疑っている。「公務」は欠席するくせに、好きな買い物やスキーや海外旅行はせっせとお出ましになる。ドタキャン、ドタ外出、遅刻、早退出、が大得意。

 平成19年4月から20年の3月までの1年間、公務日数は天皇が251日、皇后が188日、皇太子が148日、雅子妃殿下が18日、秋篠宮が218、紀子妃殿下が176日だそうだ。
 くわえて雅子の私的外出が103日で他の方々より群を抜いて多い。
 今もそう変わるまい。まさにわがまま病の発揮である。

 天皇崇拝者たちが、皇室を疑うのは畏れ多いことだとか、まさか妃殿下におかれては…などとはっきり批判せず、結果として甘やかし、ごまかすから、調子に乗って勝手をやっているようだ。つまり車椅子から降りないジジ・ババと同じであろう。同情することがかえって雅子のわがままを助長し、取り返しがつかなくなる。

 天皇崇拝者は、病気なんか放っておけばそのうち治るとか、皇后になればいきなり回復するんじゃないかとか、根拠なく無責任に現実から目をそむける発言が行なわれている。臭いものには蓋とか、皇室問題には仰ぎ見て深入りしない…そんな姿勢が正しいのか?
 今のわがまま病のまま皇太子夫妻が、天皇皇后になったら、国家と国民が被る混乱、みっともなさ、への危惧がまったくないとはいかなる脳をしているのだろうか。

 さっさと浩宮と雅子を廃太子・廃妃にして、秋篠宮を皇太子にし、今上天皇は引退してもらって、近々に天皇にすべきである。それがまともな危機管理を踏まえた考え方である。
 明仁と美智子が抵抗しているのだろうか?
 車椅子の話から始めたが、大きく皇室批判になってきてしまった。
 





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2015年12月14日

野坂昭如の死、お粗末な生


 作家・野坂昭如が亡くなった。85歳だったそうだから、大酒飲みの無茶な生活ぶりからしたら、結構長生きした。とはいえ、2003年に脳梗塞になって12年間、やっぱり不摂生は祟るものだ。
 亡くなったあと、マスゴミでは野坂の「ヨイショ記事」が溢れ返っている。有名人が死んだというだけのことなのに、ほかに報道すべきことがあるだろうに、馬鹿げたことだ。

 野坂がデビューした作品『エロ事師たち』が三島由紀夫や吉行淳之介らに激賞されて、一躍持てはやされるようになった。私が大学生のころで、先輩から「読め、読め」と勧められたというよりは強要された感じで、読みはしたが、まったく面白くなかった。
 人間のある面を語っているのはわかるし、文学青年ふうの軟弱な教養主義へのアンチであったことは分からないではないが、それでどうした? というものだった。

 野坂は「焼け跡闇市派」と自称したようだが、とりたてて闇市を自慢してどうだというのか。野坂昭如は知らない人でも、アニメ『蛍の墓』はテレビで毎度8月頃に放映されてきたから、知られているだろうが、「戦争は嫌だ」の底の浅い認識でしか捉えていない作品だと思う。
 中学生の少年が幼い妹と、野原で自活するなんてことは現実には不可能である。

 ああいう救いのない小説を書くのは、要するに彼がサヨクだからである。戦前の日本がすべて悪かった、軍人がいけなかった、軍国主義に染まった庶民が悪かった、そういう結論だけが透けて見えた。
 だから毎年、テレビでくり返し放映されてきたのだ。GHQ史観そのものだから。

 野坂は晩年、毎日新聞に口述筆記で「七転び八起き」というエッセイを、たしか月1回程度連載していたが、あきれるほどの「平和主義」的言辞を書き連ねてやまなかった。9条擁護派なのである。
 野坂は田中角栄(郷里が同じ新潟県なので)に反発して、角栄を落選させるためとして同じ選挙区で選挙に出たりしたが、余計なことだった。ただの話題づくり。
 はじめから『エロ事師たち』の路線で作家をやっていればそれなりに面白かっただろうに、半端に政治に口を挟んでその浅さが馬脚を現した。

 要するに、野坂はそのときどきの「流行・売れ筋・世間の流れ」に匠みに合わせて生きた売文家でしかない。
 野坂を底の浅いサヨクと批判したが、ではもっとまともな作家をということで、井沢元彦氏を取り上げたい。

 以下は、産経新聞web版9月8日付に掲載された井沢元彦の『左翼にとって「神風」は平和憲法である』の講演の紹介である。概略を紹介する。

     *    *    *

 作家、井沢元彦氏によれば、人の死を忌み嫌う日本人の「ケガレ忌避」は、戦前も戦後もまるで変わっていないという。日本が主権国家として軍事力を保持することに反対する「平和ボケ」の根底にも、どうやらこのケガレの思想があるらしい。

 日本には神道に基づく「ケガレ忌避」、つまり、あらゆる不幸の根源であるケガレを徹底的に避けようという「宗教」がある。これは『古事記』に明白に語られていることだ。ケガレはさまざまな理由で発生するが、最も大きな発生源は「人間の死」である。つまり、ケガレを避けるためにはケガレに触れる職業を忌避しなければいけない。それは軍人であり、警察官だ。だから、朝廷は軍事部門と警察部門をほぼ開店休業状態にしてしまった。

 それで日本は平和になったか? とんでもない、治安は乱れ、全国は騒乱状態になった。そんな中、自分の身は自分で守るという武器を持った自営農民たちが階級として発達し、ついには独自の政権を作り、朝廷を圧倒した。これが幕府である。

 そのときから800年近く経過した現代でも、「ケガレ忌避」という先祖の宗教はわれわれ現代人にも刷り込まれている。こういう人たちは、例えば「抑止力は戦争を防止する」などという考え方を絶対に認めない。なぜなら、抑止力といえば軍事力であり、それは「悪」そのものであるからだ。

 確かに戦後70年、日本を侵略してくる外国はなかった。それはいったいなぜか。侵略を排除できたのは日米安保条約という「外部のガードマン契約」と自衛隊という「自社の防衛システム」があったからだろう。

 現実的に見れば、これが最大の要因であることは誰の目にも明らかだ。ところが、日本人だけは「軍事力=悪」と考えているから、戦後70年の平和が軍事力によって守られたとは認めたくない。そういう現実をどうしても認めたくないなら、どうすればいいか?

 お分かりだろう、平安貴族と同じことをすればいいのである。彼らは現実には鎌倉武士の軍事力で勝ったにもかかわらず、「神風のおかげだ」と言って自らをごまかし、他もごまかそうとした。同じことだ。戦後70年の平和は軍事力で守られたのではない、「平和憲法」によって守られたのだと。だから、彼らにとって平和憲法というのは神風と同じく信仰の対象なのである。

 日本国憲法は日本人に対する強制力はあるが、外国人には何の効力もない。日本を侵略しようとしている国にとって、それが歯止めになることなどあり得ない。にもかかわらず、護憲派はそのように主張する。それは合理的な主張ではなく、信仰だからだ。だからこそ、彼らはかつて、「平和憲法を維持したまま(自衛隊を解体し)安保条約も廃棄せよ」などというむちゃくちゃな主張を続けた。
 つまり、「右翼にとっての神風と左翼にとっての平和憲法」はまるで同じものなのであり、現在の日本人が最もなすべきことは、こういう歴史に早く気がつくことである。

     *    *    *

 野坂昭如も、この「神風信仰」の持ち主、大江健三郎もそう。
 日本は戦争しません、いかなる武力も放棄しますというのは、井沢氏が言うとおり日本人を縛りはするが、支那人や南北朝鮮人、ロシアなどは日本を侵攻する「歯止め」になるわけがない。
 まったくこれほどの不合理な主張はあり得ないほどのものだが、まさに信仰レベルだから、サヨクの人は聞き入れない。

 要するに、大学時代私の先輩が野坂昭如は本物だと騒いだが、所詮はサブカルチャーで活躍するしか能がなかった男である。井沢元彦氏のようなそれなりに歴史を勉強して、言霊信仰や怨霊信仰を踏まえた学問的な作品をものするレベルではなかった。

 井沢氏は社会の論理構造に分け入ろうとしている作家であるが、野坂はそうではなかった。
 やっぱりエロ事師の世界から一歩も出ずに、戦争は嫌いだで済ませていた怠け者であり、そうしたサヨク風潮におべんちゃらを言っていた男であった。

 平安貴族が死を扱うことを穢れとし、人を殺し合う軍人を穢れとして忌避して、軍隊を無くしたために「刀伊の入寇」では慌てふためいたのである。1019年に満州あたりの女真族の海賊が対馬や筑前に侵攻してきた事件である。
 さしたる被害が出ず、すぐに撤収していったので、ことなきを得たが、日本は防衛する術がなかったのだ。

 戦前、軍部は日本は一度も他民族(他国)に攻め込まれたことのない国だと自慢していたこともあって、刀伊の入寇はあまり語られなかった。元寇でさえ神風が吹いて侵入させなかったと誇りたいからだった。
 また、井沢氏が説くように、戦後は戦後で軍隊をなくせば大変なことが起きるという事例として俎上にあげられると具合が悪いのであたかも「なかった」ことにされている。

 今夏の安保法制審議で、サヨクが大騒ぎしてみせたが、奴らはまさに「信仰」をあげつらうだけなので、議論にならないのである。現実を見る気がないのだから、精神病の類いであった。





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2015年12月12日

児童相談所をつぶせ


 久しぶりに児童相談所の悪業について書こう。
 児童相談所による児童「保護」相談案件の年間4万件のうち、実際に保護が必要なケースはわずか1%と言われている。残りの99%は、児童相談所の強権により子供を拉致されたものである。躾・体罰、更に過失・事故による怪我でも虐待認定をやってのけ、虐待でも何でもないのに、児童相談所による「拉致・誘拐」というべき実態が続いている。

 小学校教員や病院の小児科医師や看護婦、あるいは民生委員らが勝手に児相に通報したら、即、拉致られる。
 児相、家裁が結託しているから、一度虐待認定されると、保護された子供がどんなに望んでも家庭に戻ることは難しく、最悪18歳まで施設に入れられたままにされる。
 親子が引き離され、苦しんでいる家族が沢山いる。

 例えば、スーパーあたりで買い物中の親子がいて、子供がちょっと悪さをした時、親が子供を叱りつけて叩いたり、強引に引っ張ったりすると、これは虐待と見なされる。もし店員や他の客から警察や児相に通報されると、あっという間に親子引き離されて苦界に叩きこまれる。

 お母さんが新生児定期検診に赤ちゃんを病院へ連れて行くと、医師や看護婦が待ち構えていて、この赤ちゃんは平均より低体重だから、虐待されているのかもと疑われただけで、あるいは気に入らない母親への意趣返しとして虐待をデッチあげて、親から赤ん坊を引き離してしまうケースもあるそうだ。
 病院へ赤ん坊を連れて行くこと自体が危険な状況となっているといえる。

 すべて児童相談所の所長と職員の一存で決まってしまう。調査などは一切しない。家裁に送られても、家裁は公務員の身内である児相の言い分だけ聞いて、親の声はまったく聞かない。それが実態である。
 家裁の判事らは、面倒なことはしたくなく、サヨクも多いしで、体罰は暴力と思い込んでいるから、じゃんじゃん子供を親から完全隔離してしまう。
 
 2011年にテレビドラマ「ドン★キホーテ」(松田翔太、高橋克実ら)が、児童相談所は正義の味方とする偏った内容で放映した、噴飯ものであった。嘘ばっかり。
 本当に虐待を受けている児童は保護されるべきだが、支那や韓国じゃあるまいし、日本では子供は大事にされるのだからめったにあることではない。

 社会的に落ちこぼれた人間、たとえば暴力団員などが子供を虐待する例はあるが、児童相談所は恐がって近づかない。ささいな体罰なんかにイチャモンをつけて子供をかっさらうほうを選ぶ。
 保護名目の連れ去りは「DV防止法」に基づく。それは名目であって、実態は親子の離間、家庭の破壊を目論んだ悪法である。
 児相は、暴走して親権の剥奪さえ実行している。法律では親権の一時停止だが、児相はそれを逸脱している。

 児童相談所は子供をたくさん保護するほど実績が上がり、収容した施設は大きな収益を確保することが出来る。
 保護児童一人につき1カ月あたり約35万円の報奨金与えられる。むろん税金から支出される。
 多額の予算も児童相談所に配られる。予算を消化するため、また来年度以降も予算をつけてもらうために、児童相談所は子供を拉致監禁しているのだ。

 こうした実績や収益目当てで保護するのは本末転倒も甚だしく、児童保護の名目での利権構造ができている。

 本当の児童虐待は1%と書いたが、こういう極端な事案がマスゴミを使って宣伝され、世間に体罰はならぬという風潮を定着させる。それによって指導相談所は権益をどんどん拡大させていっている。
 この1%とは、警察が虐待かな…と認めるレベルを指す。

 民主党政権以来、地方自治体では公務員の資格でも国籍条項を外そうとしている。さらに児童相談所職員の採用資格として国籍が、大阪市と福井市では既に外されている。最近では明石市でも、外国人でもOKになった。これから、どんどんと外されていきそうだ。

 日本人の子供を拉致するのが、ザイニチになる可能性が高い。自治体がわざわざ、国籍を外すということは、外国人に日本人の子供を狩らせようという意図があるのだ。
 そして、彼らへの報酬は日本人の血税で払われる。

 ザイニチは、かつては日本が朝鮮半島を植民地化して、朝鮮人を虐待したと思い込んでいるから、日本人の子供を拉致監禁して家庭を崩壊させることを嬉々としてやるのだろう。報復として行なわれる可能性が高いと思われる。
 
 かように、サヨクどもは結託して児童相談所の措置を名目に、反日活動を行っている。そういう連中が今夏は、安保法案反対を叫んで、マスゴミと結託して反日活動を行ったのである。みなつながっている。サヨクの人にこうした児童相談所の非行を指摘すると、おしなべてしらばっくれる。ないことにする。

 私たちの行政への監視が強められなければいけない。
 不必要な拉致が認められた児童相談所は、拉致監禁誘拐罪で逮捕し、法の裁きを受けさせるべきである。

 精神科医の内海聡氏や、弁護士・南出喜久治氏が声をあげて、児童相談所の悪を告発するようになった。ぜひご覧を。

内海聡の発言
https://www.youtube.com/watch?v=xHBpaKj7smc
南出喜久治の発言
https://www.youtube.com/watch?v=bsVc_DCAxOw




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2015年12月11日

お笑い人民解放軍(2/2)


《2》
 チャンネル桜の座談会(YouTube)の座談会で、元海将補の川村純彦氏が支那のやりくちを解説している。
 「1986年に中共は積極近海防衛という指針を打ち出した。それは、第一列島線と第二列島線を敷いて、アメリカの海軍力を領域内から駆逐するものであった。

 第一列島線とは、日本本土、沖縄南西諸島、台湾、フィリピン、ヴェトナムのライン。このラインより内側の支那の海ではアメリカ軍艦に自由に航行させないとして、2010年までにほぼ実現させた。
 第二列島線は、2020年までに実現させるとしており、小笠原諸島、サイパン、グアム、ニューギニアのライン、支那から1500キロから2000キロで、このなかに空母を入れさせない。接近を阻止する。

 これを実現させるためには、支那軍も外へ出なければならない。それで海域をだんだんに拡げるのだ。それを実際に東支那海や南支那海で実践している。はじめから海軍を立ててくるのではない。
 5段階で攻めてくる。
 まず国内法で(勝手に)領有を宣言する。そんなことは国際法では認められないが、国内での宣言だから国際社会も厳しくは言えない。

 2番目に漁船群を出す。漁船だが、屈強の海上民兵、軍人が乗っている。実際に今年、大船団が小笠原海域にサンゴを漁りに来た。南支那海にも同様にやっている。こうして既成事実を作る。例えば避難施設を造る。

 3番目に、そうなると相手国からもクレームが出るようになり小規模の衝突が起きる。そこで漁民を守るためにと称して海警(巡視船)が出てくる。武器は使わずに体当たりや放水で対抗する。
 4番目に事態がエスカレートしてくると、海軍が出てきて脅しをかける。
 5番目に、相手に対して「平和的に解決しようじゃないか」と領土交渉の対象にしてしまう。

 こうやって、もともとは支那の領土でも領海でもなかったところを徐々に紛争に持っていって、「領土問題」の存在を認めさせるのだ。相手国としては、はじめは民間船だから対応に苦慮する。領海侵犯といって撃沈できない。

 これが支那の策略である。つまり軍隊が侵攻しなくても、領域を拡大できる手を使ってくる。こういう連中をすばらしいと褒め称えるのが副島隆彦である。
 先の安保法案の審議でもめた際、共産党などのサヨクは「見てみろ、差し迫った支那の脅威や戦争の兆しなんかないじゃないか」と政府を嘲ったが、それは間違いであることが分かるだろう。

 なにせ憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」となっていて、そこでパタッと思考停止になっているおバカさんがたくさんいる。
 もうちょっと敵を、いやお友達でもいいから、理解に努めてほしいものだ。

 それで支那の戦略として、川村氏は海に出ようとしているのだと説くわけだが、日下公人氏は面白いことを言っている(高山正之氏との対談本『世界は邪悪に満ちている。だが日本は…。』)
 支那人が海に出ていったときは、国が滅びると。今は支那は海に出ようとして海軍の軍拡に励んでいるから、もうすぐ滅びるだろう。これは世界中の国がそうで、陸軍と海軍の両方を持とうとしたときに滅びる。ロシアもそうだったし、日本もそうだった。

 さらに日下氏は、支那では海軍内で閥ができ分裂している。一応まとめたものの、各閥がそれぞれ勝手なことをやる。
 「予算をとるために代わる代わる尖閣諸島へ出ていく。艦隊がいくつもあって、代わる代わる我も我もと尖閣諸島に押し寄せて来る。でも、尖閣を取りに来ているのではない。予算を分捕りに来ている。私はそう見ている。だから、滅びるのは近いぞって(笑)」

 なるほどこういう見方もあるのかと感心した。
 でも、私は川村氏と日下氏の両方が正しいように思う。どちらか、ではなかろう。支那が尖閣諸島や沖縄を奪いに来ていることも、やつらの国家戦略でありつつ、現場ではそんな遠大な計画なんかどうでも良くて、尖閣の海域に出て行けば、予算やら手当やらがもらえるから押し寄せるのではないか。

 ロシアのセコハン空母を騙して手に入れて「遼寧」に仕立て直したが、ボロ過ぎて飛行機を飛ばせられない。日下氏はその例を挙げてから「何をやっても見かけだおれの国だから、海に出たら滅びていくんですよ」と述べる。
 痛快!

 支那の軍は言葉も通じないから、弱い軍隊だと、昨日述べておいたが、同じ『世界は邪悪に満ちている。だが日本は…。』の中で高山正之氏がこれも面白い逸話を語っている。
 高山氏は支那に行くたびにガイドに聞くのだそうだ。どうして支那には抗日記念館しかないのか?と。

 戦争をやったのだから、どこかに戦勝記念館があるはずだが?
 つまり支那は最後まで負けていたから戦勝記念館が作れない。今年、習近平が抗日戦争勝利70周年のパレードとかをやらかしたが、実際は共産軍は戦っていないくせにと、多くの国のトップがボイコットしたが、哀れ、そういうイカサマのパレードしかやれない。

 唯一、アメリカ軍が国際法違反の飛行部隊を戦争前に展開していた「フライング・タイガー」の基地では、日本軍が攻めあぐねて撤退したことがあって、そこにだけ戦勝記念館があるのだとか。
 しかし、そこ以外は満州の果てまで全部抗日記念館だけだそうだ。

 お笑いである。





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2015年12月10日

お笑い人民解放軍(1/2)


《1》
 宮崎正弘・宮脇淳子共著『中国壊死 (百年変わらない腐敗の末路)』(ビジネス社)にあった話。
 戦後、台湾では古来の閩南語が廃止されて北京語を取り入れたせいで「台湾語」がうまくしゃべれなくなった、という話から始まる。

     *    *    *

宮脇 一二三四五六七八九十(支那でいうとイー、アル、サン、スー…)(巻き舌の)四と十は台湾人はぜんぜん区別がつかないんで、話しながら指で示す。だって数字間違えるとえらい大事になるから。
宮崎 それは北京以外の中国、全部そう。「四(スー)」か「十(シー)」かって言いながら指を四つたてたり、両手で「十」の字をつくる。それでわかるんですから。

宮脇 でも閩南語(台湾語)だと、一二三四五六七八九十(チツ、ジイ、サム…)だから四(シイ)と十(チャプ)はぜんぜん違う。中国でも南方では、いまでも日本のことをニッポン、ジッポンと言う人もいるわけですよ。昔の日本と同じような発音でね。北京語だと巻き舌の「リーベン」ですけど、地方によってぜんぜん違う。
 だから北京放送がわかるから一応普通語が全国に拡まったと言っているけど、地方の人たちがそのとおり話せるかというと、ものすごくなまっています。
 毛沢東だって蒋介石だって、あまりにもひどい発音なんで、演説の録音を残さなかった。

 宮崎 蒋介石の有名な話は、上海から南京に移動するまでに、常州、蘇州、鎮江、揚州、南京とみんな言葉が違うから、五人の通訳を従えて、「行くぞ!」と言ったら順番に部隊ごとに通訳して、初めて軍隊が動くというようなものなんですよね。毛沢東に至っては、湖南省のしかもいちばん山奥。ぜんぜんわからない。

     *    *    *

 本邦でもよく方言は大事だ、しっかり残すべきだと主張する向きがあるが、それは間違いである。
 日本でも明治以前は、各地で方言があって、それこそ津軽の殿様と薩摩の殿様はじかに話ができなかった。

 司馬遼太郎が書いていたが、幕末に薩長が同盟を結んだわけだが、旅館で話し合いがもたれる際には、互いに隣り部屋にいながら手紙でやりとりしなければならなかったという。筆談である。
 こんなことでいいのか?

 強引に、明治政府が東京弁をもとに標準語を創って強制したからこそ、軍隊は強くなり、情報も伝わり、学校教育もうまく行くようになった。それに預かって有効だったのが、新聞やNHKのラジオ放送であった。
 今やおかげで、日本中どこへ行っても話は通じる。新聞もテレビも、出版でも、共通の言葉で意思疎通ができる。

 方言放逐、共通語の強制ができなかったのが、支那やインドであった。朝鮮半島も日本が統治して、共通となる朝鮮語の標準を創ってやったから、今日では多少の地域差はあっても、南北朝鮮とも言語が全国で統一できている。

 方言のまま良しとしていたら、この蒋介石軍のように、軍命令一つが思うに任せなくなる。蒋介石軍が日本軍に対して連戦連敗だったのもこうした原因があったのだ。

 日本でも数字を「イチ、ニイ、サン、シイ…」と発音していると、「イチ」と「シチ」のように間違える可能性があるから、軍隊では「ヒト、フタ、サン、ヨン…」のように数えた。
 「1時を期して総攻撃せよ」という命令が「7時」と間違えて聞いては大変だからだ。
 しかし支那語ではそういう言い換えができないから、困ったのだろう。

 さらにもう少し。

     *    *    *
(1)
宮崎 中国の軍隊は主に国内を向いていますから。日本での議論は、中国の軍事力の脅威ばかりですが、確かに脅威なんだけど、あの235万人の軍隊の実態というのは、ほとんどが内向きなんだからね。まずチベットの反乱を押さえるために50万人、ウイグルの反乱を押さえるために、生産建設兵団を含めると120万人をウイグルに入れているでしょう。そして北朝鮮に備えて瀋陽軍区に40万人いる。残り何人いるんだと。

 日本を侵攻しようとした場合、いったい何人来れるか。尖閣上陸なんかやるときは少なくとも5万ぐらい、台湾上陸のときは20万人ぐらいいりますよ。そんな軍事力、とても割けない。だからそういうことがあるというよりも、中国軍の今の性格というのは拡げすぎた版図をいかに維持するかということだけで汲々としているのが実情です。

(2)
 (習近平は軍をまだ掌握していないが、軍トップは変えられないのでその下の部下を自分の息のかかったものに差し替えた、という話)
宮脇 しかし、「言うは易く行なうは難し」な道じゃないですか。ケ小平でさえそんなにうまく行きませんでしたから。中国のなかで、軍というのはやっぱりいちばんの実力者でしょう。

宮崎 ケ小平の場合は中越戦争をやって軍を動かしたから。政敵の部隊を戦場の最前線に送って葬ったというやり方も、毛沢東が朝鮮戦争で政敵の部隊を最前線に送ったノウハウに学んでいます。というより、これは古今東西同じで、戊辰戦争にしたって、官軍に寝返った諸藩を最先頭に立たせました。もう一つは、実際に軍を動かしたという能力です。

宮脇 でも軍の政治的影響力を抑えるため、中央軍事委員会を党から切り離し、国家の中央軍事委員会に変えようとしてケ小平は失敗しました。ちょうど教科書問題が起こり日本たたきが始まったときでしたけれども、じつは日中の教科書問題の背景には中国のそうした内政問題があったのです。

 つまり、ケ小平の後継者である胡燿邦には軍歴がないので、ケ小平亡きあと党軍事委員会の頭をおさえて人民解放軍を掌握していけそうもない。それでケ小平は、中央軍事委員会を国家に移管して国家中央軍事委員会に改編しようとしたのです。そうすれば、軍は国務院総理の命令をきくことになります。

 ところがもちろん軍は猛烈に抵抗し、高級軍人の権力をそごうとしたケ小平・胡燿邦・趙紫陽体制を窮地に追い込むために、人民解放軍の長老が「人民日報」などを陰から操り、日本の教科書が「侵略」を「進出」に書き替えたと外交問題となるように焚き付けたのです。

 それまで日本と良好な関係だったケ小平はどんどん追い詰められていき、結局軍の改革は断念せざるをえず、中央軍事委員会を党の最高機関として温存することを認めました。そのとたんに教科書問題は中国メディアから消え、ぱたっと終わったのです。

 ところが、共産党の権力闘争を知らないバカな日本人が、教科書問題だの、近隣諸国条項だの中国に配慮したため、中国は対日関係でも利益をえて、一石二鳥か三鳥になったというお粗末な話です。あれは「指桑罵槐(しそうばかい)」と言って目的の相手でないところを攻撃する典型で教科書問題が利用されたわけです。

     *    *    *
(註:指桑罵槐とは、中国の兵法書「三十六計」の計略の一つ。味方に対して行う計略だとされている。「桑を指して槐(エンジュ)を罵る」と読む。本当に注意(攻撃)したい相手を直接名指して注意(攻撃)するのではなく、別の相手を批判することで、間接的に人の心をコントロールしようという作戦)

 支那における軍とはどういうものかがよく分かる。
 人民解放軍235万人がいても、あれは国内向けであるから対外戦争には持ってこられない。そこで戦争をせずに奸計を巡らして覇権の拡大や領土拡張を図るのだと見てとらねばなるまい。






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2015年12月09日

三権分立の幻想と陰謀


 米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設をめぐり、政府と沖縄県知事が対立し、代執行訴訟に至っていることは周知のとおり。第一回弁論のときには、サヨクの朝日や毎日新聞がここぞと政府を非難し、翁長知事の方を持った。

     *    *    *

 「県民は人権、自己決定権をないがしろにされてきた」
 翁長氏は冒頭の意見陳述を求められると、顔を紅潮させながら、用意した文書を読み上げた。訴訟の本旨である自身の埋め立て承認取り消しの正当性を訴える言葉は一つもなく、陳述を終えると2時間近くひとごとのようにやり取りを聞いていた。

 この間、法廷闘争を丸投げされた県弁護団は、裁判長との会話がほとんどかみ合わないまま。裁判長の許可もなく政府側への質問を続け、裁判長から「発言をやめてください」と一喝される場面もあった。(産経新聞WEB版12月2日付)

     *    *    *

 様相はサヨクメディアが言うのとはやはりかなり違う。
 そもそも沖縄県が、普天間基地の移設を頑強に阻止する正当性はない。
 これは学校教育で、国というものは三権分立で成り立っていて、それぞれが監視しあっていると教えられているから、抵抗があるだろうが、国家の本質から考えれば、三権分立は嘘である。

 三権分立が正統だとしておくと、サヨクが活動しやすいからだ。なにかというとサヨクは、東大その他の法学部教授どものかなりが左翼かぶれで、判事もその教え子が収まり、さらに日弁連を握っているものだから法廷闘争を仕掛ける。司法が立法を攻撃できると考えているからだ。その便利ツールとして「三権分立」が手放せない。あわれなサヨク。

 何度も本ブログで説いてきたことだが、国家は他共同体と対峙できること(戦えること)と、社会が統括できることが、その本質である。
 サルの集団(家族集団)が地上に降りて、原始共同体(まだ家族集団)ができたときに、生き残るためには中枢器官による統括が必要であった。それがすなわち国家である。

 共同体は命令一下でなければ(統括されていなければ)敵に征服されてしまう。国家という形態をとらなければ実存できない。だから難民の例を見ればわかるように、彼らは国家を失っているから保護されない。彼ら自身が統括ができておらず、きわめて危うい存在にならざるを得ない。

 歴史上、国家として量質転化できなかったものは終わるしかない。
 大昔の日本列島には、多くの家族集団・部族集団 があっただろうが、そのなかで大和朝廷だけが首尾よく量質転化に成功したから生き残り、他は飲み込まれたのである。

 こうした学問的定義なり考察なりを基準にすれば、三権分立などという近代国家で採用されてきた「仕組み」は、いささかも国家の本質ではないことが了解されよう。もし三権がそれぞれ勝手に自己主張ができるとしたなら、国家は統括ができなくなり、一旦緩急あるときに命令一下で行動する(戦う)ことができない。

 それを踏まえれば、現下の沖縄県の辺野古移設を巡ってのサヨクのいじましい抵抗などは笑止というべきタワゴトでしかない。
 我が国は、アメリカと同盟を結んで仮想敵国である支那、ロシア、北朝鮮と対峙している。それがいいかどうかは争点にはなりうる。
 永世中立国でいくべきだとか、支那と組んだ方がいいとか、ロシアこそ未来の宝だとか、言うのは「成り立つ」議論なのであるが、翁長知事らサヨクが言う、県民の自治や自由が国家より優先されるとの主張は、まったく「成り立たない」議論なのである。
 国家の否定だからだ。国家を否定したら、じゃあみんなして難民になるのか、になってしまう。

 司法が独立しているのなら、非常時には機能してくれるのか? 責任が取れるのか。軍を指揮して侵略軍を排除できるのか?
 こういう正しいものの見方を学校教育が教えないから馬鹿げたことになる。

 YouTubeで「虎ノ門ニュース8時入り」の青山繁晴氏の12月3日の放送を見た。
 青山繁晴氏によると、翁長を背後であやつっているのは中国の福岡総領事館の公使らしい。(カネを渡されたかハニートラップにかけられたか…)
 翁長に与えられた任務は2つあるという。
(1)沖縄駐留の米軍を追い出すこと
(2)琉球を独立させること。
 この2つだ。実現すれば、翁長が琉球王国初代国王になれるんだとか。

 すでに日本の諜報機関はこの情報を把握している。だが、日本にはスパイ防止法がないので翁長を逮捕することができない。(しかし外患誘致罪で極刑にすべきだ)
 支那から、もしくは華僑から翁長知事に資金が流れているであろう。逮捕しないのは中国を刺激したくないと頑に言い張る外務省や媚中派政治家が抵抗するからだ。

 青山繁晴氏によると、中国は米国大統領を中国系にすることを狙っていて、すでにサンフランシスコの市長は中国系であり、その隣のオークランドも中国女性が市長をやっている。同じ深謀遠慮を沖縄にも仕掛けている。

 番組の中で青山氏は、翁長知事が辺野古移設を強行する政府のやりかたは、自治体に自治がなく民主主義もないとか、沖縄は琉球であって日本から切り離すべきだと主張したことに対して、これは日本の歴史への侮辱だと憤っていた。

 古来、仁徳天皇の「民のカマドは賑わいにけり」の逸話が残るように、天皇が税金を抑えて民を救った。これはわが国にはわが国の民主主義、民が主人であるという理念があったということだ。米国流の民主主義だけが民主主義ではない、と言っている。
 しかも自分は民主的選挙で知事に選ばれておきながら、日本には民主主義がないなどというのは、あきらかに支那と手を組んで沖縄を日本から切り離す策謀だ、ひど過ぎるとも。

 青山氏に言い分は感情的には同感だが、やはり彼が学者でないからこれを国家の原理原則からは説けていないきらいはある。

 一方で朝日新聞のごとくに、政府は沖縄を植民地扱いしているなどと抜かす馬鹿の意見を正論であるかのように取り上げては、醜態を晒している。
 政府側は政府側で、「国防に関わる基地の設置場所について知事に審査権限は与えられていない」とか「(埋め立てを)取り消す不利益と維持する不利益を比較し、維持することが著しく不当な場合ではない」とか「(取り消すと)普天間飛行場の危険性が除去できす、日米の信頼関係に亀裂が入る」としている。

 国側の主張は間違ってはいないが、さきほどから私が述べているような根源的な国家とは何かが踏まえられていないから、サヨクの主張と一騎打ち的になってしまう。
 一応、国防に関しては県知事には権限がない、が正解に近い。
 つまり、国防に関しては政府の専権事項以外ではない。裁判するにも及ばない問題である。

 と、裁判所が判断すればいいが、偉そうに三権分立だからと「俺が判断してやる」という姿勢だから、審理を受理したのだろう。馬鹿な話だ。
 憲法を改訂して、国軍を持ち、核武装し、徴兵制を敷いて国民に国防意識および国家とは何かを教育すれば、こんな売国奴の知事は出て来ないし、支那や韓国が勝手に工作することは出来なくなる。






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2015年12月08日

ヤクザ・在日・共産党


 ブログ「余命3年時事日記」は、よく読みにいく。相当数の読者を持っておられるようだ。
 この12月17日に、書籍化されて発売になるとか。さっそく私も注文した。なんと現在、アマゾンの売れ筋ランキング(社会・政治分野)ではまだ予約販売の段階で堂々1位になっている。

 さらに驚いたことには、本ブログで褒めた蓮見都志子(はすみとしこ)氏のイラスト本『そうだ!難民しよう』も同じ17日発売で、アマゾン(社会・政治分野)では2位につけている。こちらはネットではサヨクから「レイシスト」とかボロクソに攻撃されているけれど、本当は彼女の姿勢を支持している人がかなりいることを示している。

 この現象は画期的である。どちらもマスゴミは無視するだろうが、サヨクへの嫌悪感がそうとう根深くかつ広がっている様子が伺える。
 「余命3年時事日記」は周知のように、真っ向からザイニチ撲滅を旗印にしていて、彼らを支援するサヨクを敵としている。
 はすみとしこ氏のイラストも、サヨク運動の偽善を批判している。

 ざっと言って、これは10年ほど前、ネットもさして普及していない時代なら、この二つの本が発売前からベストセラー入りすることなどあり得なかっただろう。真実はネットで広がり、日本人が目覚めてきた。サヨクどもはいかに抵抗しようと、追いつめられているのである。

 さて。最近読んだ本で、『ヤクザと妓生が作った大韓民国』(菅沼充弘・但馬オサム著 ビジネス社)が面白かった。アマゾンの内容紹介にはこう書かれている。
 「日韓基本条約締結50周年。基本条約締結の交渉の韓国側の窓口になったのが、町井久之ら在日ヤクザの大物たちや妓生(キーセン)だった。
 そして、その裏外交を動かしていたのが、朴槿恵の父・朴正煕だったのだ。
 韓国文化史の裏に必ずちらつくヤクザと妓生の存在。その存在は歴史上どのように語られたのか。また、どのような人物たちだったのか。語られてこなかった日韓関係の暗闘の戦後史を政治家、ヤクザ、右翼、軍や情報機関など関係者の証言をもとにインテリジェンスの第一人者が詳説!」


 巷間いわれるとおり、アメリカは日本と韓国をいわば分割統治した。李承晩に「李ライン」を敷かせて、日本人漁船を拿捕させ、その解放をカードにされて日本は韓国有利な日韓基本条約締結をさせられた。こういう陰謀はアメリカの強い指示があったのだ。

 本来、南朝鮮は農業主体で工業など何もなかった。そこへ日本は韓国に金も技術も提供させられた。製鉄、家電、自動車、造船、情報等みな日本のコピーである。日本を弱体化させるためのアメリカの深謀遠慮だ。
 その日韓の橋渡しをやったのが、菅沼氏がいうように、在日のヤクザであり、日本の政治家を籠絡させた妓生たちだったのである。

 その結果が、今日の韓国による反日であり、在日特権の数々である。
 先に取り上げたパチンコ業界もその一つである。戦後のドサクサのなか、GHQは駅前一等地を勝手にザイニチに分け与え、パチンコ屋を開業させたのだ。
 北朝鮮をソ連や中共の属国にしたのも、背後にはアメリカがいた。

 そして北朝鮮がまともな国家など運営できないことを熟知していた彼らは、日本からカネが還流していく方策を練ったのだ。その一つがパチンコ産業であった。巨大産業に仕立て、上がりを北朝鮮に送金させることで支え、そのおかげで北朝鮮は「脅威」となってくれたので、アメリカは日本にたんまり兵器、軍需物資を買わせることが継続して可能になった。

 『ヤクザと妓生が作った大韓民国』のなかで但馬オサム氏が解説していることを一部、紹介させていただく。
 戦後すぐ、朝鮮人らは日本共産党と組んで「非人道的で破廉恥な行為」を傍若無人に行なった。警察も無力で無政府状態に近い。
 それらの元締めになっていったのがヤクザである。

 GHQは朝鮮人(自称戦勝国民)をPX(進駐軍用売店)に自由に出入りさせ、ここれ手にいれがウイスキーや洋モクなどを法外な値段で闇市でさばかせ、莫大な利益をあげさせた。
 こういう朝鮮人の狼藉が日本人の胸に憎悪感を植え付けた。それもまたアメリカの狙いどおりであったろう。

 「解放」された日本共産党と、イデオロギー的に手を組んだのが朝連(後の朝鮮総連)系のサヨク(ヤクザ)であったがその活動資金はどこから来たか。もとは戦前の親日的朝鮮人の団体(一心会)が戦争協力の一環として、在日同胞が集めた募金を横取りしたのだという。
 そのカネは大卒初任給が三千円の時代に、百五十万円もあった。

     *    *    *

 さらに、朝連結成時、資産のある会員には親日派、対日協力者のレッテルを貼り、粛清をちらつかせて恫喝まがいに募った多額の寄付金が、昭和二十年から二十一年の間に二千五百万円に及んだという。戦後間もない時期の在日朝鮮人といえば、貧しい集落に身を寄せ、鉄くず拾いと廃品回収、あるいは炭坑労働でその日の糧を得て板、というイメージがあるが、実をいえば、闇市成金も含め、彼らの中にも富める者もたくさんいたのである。もっと言えば、在日朝鮮人も勝ち組と負け組に分かれていたのだ。

 朝連の資金源はそれだけではなかった。
 《最大の財源になったのは帰還していく強制労働者の不払い賃金等であった。1946年末までに朝連中央労働部長名で強制連行者を雇用していた日本の各企業に未払い賃金の請求が出された。その請求額が四三六六万円に達し、朝連はかなりの金額を企業から徴収し、それらのほとんどは強制連行者の手には渡らず、朝連の活動資金に廻された。》(『朝鮮総連』)

 現在でも韓国側はことあるごとに、当時日本人であった韓国人の戦時徴用者の未払い賃金を問題視し、日本政府や企業に支払いを求めてくるが、これに対し日本側は日韓基本条約ですべて解決済みであるという態度を崩していない。

 これはこれで正しいのであるが、金氏の記述を信じるのなら、1965年(昭和40年)の日韓基本条約を待つまでもなく、在日本朝鮮人連盟がそのほとんどを回収し(ここでも企業に対し恫喝敵な請求があったものと推測される)自分たちの金庫に納めていたことになる。

 そして、それら朝連の潤沢な活動資金の恩恵を受けていたのが日本共産党なのだ。当然ながら、韓国側が徴用者の未払い賃金を問題にするならば、請求先は日本政府や企業ではなく、朝連の後継団体である朝鮮総連及び日本共産党にしてもらいたいものである。

     *    *    *

 いかがです?衝撃の真実が暴露されているでしょう?
 但馬氏は「強制連行された朝鮮人」と書いているが、それは間違いである。強制連行の事実はないからだ。いたのは「徴用工」であるか、密航者であった。

 『ヤクザと妓生が作った大韓民国』のなかで、そもそも朝連は共産主義ではなく、有象無象の集まりで互助会だったものを在日の日本共産党中央委員だった・金天海(キム・チョンへ)が朝連の最高顧問に就いて実験を握ると、民族派や親日派を粛清して、実質上、朝連は日共の別働隊となる。「戦後、合法政党として再スタートした日本共産党は、『合法』ゆえに表立ってできなかった騒乱や火炎瓶テロを彼ら朝連のメンバーに下請けさせることになります」と説かれている。





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2015年12月07日

パチンコ業界の締め上げを加速させるべし


 以下、YouTubeにある渡邊哲也氏の解説が面白かった。
パチンコ業界大ピンチの情報である。
https://www.youtube.com/watch?v=KPchiqpjNSg

 ざっとまとめて見た。

     *    *    *

 2015年4月、警視庁は都内のパチンコ店でクギ曲げが常習化していることを問題にして、遊技産業健全化推進機構(警察の天下り団体)に調査を命じた。その結果、パチンコ台をチェックする検定機と実際に店に置いてあるパチンコ台が機能的にまったく違い、同じもの(検定に合格したもの)が1台もないことを発表した。この違法パチンコ台を改修するよう命じた。
 
 遊戯産業推進機構によると、12月1日以降、それが店に置いてあった場合は行政通報して営業停止などの措置がとられることになった。パチンコ店(ホール)はほとんどの台を新しいものに切り替えざるを得ない状況担った。メーカー側も新しい基準を満たす機械がまだない状態だから、どうするかで大騒ぎになっている。

 新しい台に換えるにも、取り替え費用をメーカーが負担するか、店が負担するかで大もめになっている。
 メーカー側ににも問題があって、検定不合格だとなると検定禁止となって、新しい機械を5年間検定に持ち込めない罰則があり、それが実施されるとメーカーも潰れる可能性が大きくなる。

 これまでのパチンコ業界は、検定するときは基準に合っていても、実際に店に並ぶ機械は玉が出にくくなっている(クギを勝手にいじる)。それでパチンコ屋はぼろ儲けをする。それが激し過ぎるので、警視庁が乗り出さざるをえなかったようだ。
 昔はパチンコ店は毎日クギをクギ師がいじって調節し、それを読んで出る玉の台を見つけるのがパチプロだと言われていたが、現在はクギを触ってはいけなくなっている。
 
 パチンコ台にはいろいろ玉が入っていく口があるが、例えば一般入賞口には1分間に3発以上入らないのは違法機械になるなど細かいルールが決まっている。それが現行ではすべての台が違法だったのである。

 今後はさらに業界の倒産が増えるだろう。銀行はパチンコ業界に融資をしなくなった。そのためメーカーがパチンコ店に(リースの形で)カネを貸していたが、今度の措置でメーカーも店も両方がダメになる可能性が出てきた。
 日本からパチンコ屋がなくなることはないだろうが、ずいぶんと淘汰されるだろう。

 さらに都内には等価交換(景品交換)にも規制が入っていくので、パチンコ産業にはダメージが積み上がって行く。
 パチンコ業界は約70%が北朝鮮系なので、事実上の対北経済制裁になる。資金源としてはかなり追い込まれるだろう。

     *    *    *

 これが本当に実施されるなら大歓迎で、いよいよ在日も追いつめられると思うが、さてどうだろう。
 風営法が強化され、パチンコも低迷期だそうだが、やつらも生き残りに必死だ。
 これはまだ警視庁の取り組みでしかない。全国規模ではない。
 それに、これまでは警察は退職後の天下り先としてパチンコ業界を大事にしてきた。持ちつ持たれつである。

 だから不正が行われていることを知りながら、目をつぶってきた。
 というより、厳しい検定をやったら業界が潰れるぞというカードを警察が握って、パチンコ業界が警察官の天下りを受け入れないわけにいかない仕組みを作ってあったのだ。
 景品買いなんて完全な違法なのに、警察は見て見ぬふりをしていた。

 パチンコの景品が、タバコや菓子だけでは客は入らない。客が直にカネを賭けられるからこそ大繁盛なのだ。パチンコ屋が儲かるようにしておかないと、警察も天下り先を失うし、日本の政治家も北朝鮮・総連からの政治献金が入らなくなって困るから、業界そのものを支えてきた。パチンコを禁止しろという良識派の声はいつだって封じられた。

 マスゴミも決してパチンコ業界の裏側は記事にしなかった。広告をもらう立場であり、政治家やら警察関係やらから記事ネタをもらわなければ困るからだ。
 こんな犯罪が大手を振っているのに、この間の巨人の選手が野球賭博をやったということで、極悪人のように報道してみせるのは、いかさまだ。
 野球賭博が悪いのなら、パチンコはもっと悪いに決まっているじゃないか。

 したがって今回も、業界への一種の脅しでしかなく、新たになんらかの見返りを業界から警察に要求するために、業界を震撼させるような騒ぎを起こしたに過ぎないのかもしれないのである。

 なにせこれまでがそういう警察も業界もグルになってきたのだから、にわかには信用がならない。
 渡邊氏が言うように、博打の世界や在日の世界の“浄化”が進めばいいのだが、裏では政治家やヤクザや工作員などが蠢き、うやむやに手打ちを図るであろうことは想像に難くない。

 ところで、パチンコ店側のブログを見つけた。そこに今般の警察の規制強化をどう思っているかが綴られている。

     *    *    *

 釘調整の取り締まり強化というと、具体的には、特別入賞口(フロック)への入賞やスタートの大げさな回しすぎや締めすぎ。アタッカーやスルーの大げさな調整がその調査対象となります。
 6月より取締りが始まり、実際に都内のホール数店舗で調査が実施されたとの報告を受けています。実際に取締りが始まっており、圧度もかなり本格的なものと考えられます。

 12月までは検査に引っかかっても指示処分のみということではありますが、12月以降は本当に行政処分となるだけに、パチンコホール側としても完全に無視できない状況になってきました。
 また、調査は都内から優先して行われている模様ですので、関東圏内の大型ホールや地域で有名なホールは特に釘調整は本来のゲージに戻していると考えられます。

 もちろん、釘調整に関して、全台を一気に調整はできませんので、実際には1週間くらいかけて徐々に戻しているのではないでしょうか。
 本来のゲージより、見た目で明らかに曲がっているような釘は元に戻さなければなりません。

 逆に、地方のホールはどうなのかというと、まだ未対策のホールも多く存在するのではないでしょうか。
 実際に基ゲージに戻すとなると、パチンコ店にとっては利益を圧迫してしまうケースもあります。例えば、大当たりの出玉を削っているホールは多くありますが、それを基に戻すと、1日の粗利が100万円とか変わってしまうホールもあると考えられます。
 死活問題ですね( ゚Д゚)

     *    *    *

 これを読むと、まだずいぶんとのんびりした感覚である。「死活問題ですね」にも、まだ余裕が伺える。
 既存のパチンコ台を手間は多少かかるが、クギを正規の状態に戻せば済む問題と考えているかのようだ。

 既存の台はすべて使えなくなると渡邊氏は言うが、このパチンコ店側の認識は微調整で済むと捉えているが、にも関わらずそれをやられると、不正で得ていた儲けが激減してしまうから「死活問題」だと言っているのだ。

 詳しいことはわからないのだけれど、この余裕はどこから来るのかといえば、まだ業界の内情として、官との癒着は揺るぎないと確信しているからではないのだろうか。
 これからも馬鹿なパチンコ好き(キチガイ)を食い物にしていけるさと高をくくっているらしい。

 父親がパチンコ狂いのおかげで、妻や子供が苦しんでいるとかのようなことは知ったことじゃないと、ザイニチたちは考えてきているのだ。
 また、パチンコに甘い対応をしてきたから北朝鮮による拉致や、韓国の竹島占拠などを呼び込んできた。

 拉致被害家族や「救う会」も、こうして具体的に北の資金ルートであるパチンコを攻撃してこなかった。彼らは一般的に「政府や外務省に期待する」だけである。いったい何に遠慮しているのか。政府の拉致担当大臣は、要するに家族担当であって、お慰めするしかやってこなかった。

 そんなことより、拉致問題を解決するには日本の核武装が必要であることや、朝鮮総連を「破壊活動防止法」で締め上げるとかを具体的にやらないから、何も進展しない。
 何度か書いたが、家族会も救う会も日本が朝鮮を植民地支配したから、拉致されても文句を言うなというサヨクの言い分には、だんまりを決め込んできた。

 近代日本で、いかに朝鮮人が悪業をしてきたかを国民にしっかり
知らしめることや、それからの被害を具体的に食い止める戦いをしないで、「風化させたくない」と言っていてもしょうがないのだ。






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2015年12月05日

同性愛はまごうことなく異常(2/2)


《2》
 同性愛を描いた映画は多々あるが、有名なところではルキノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』がある。
 ヴィスコンティの作品ということで注目され、あれやこれやと批評はされるが、要するに同性愛を扱っていて、気持ちが悪いったらない。

 ダーク・ボガードが主人公老作曲家アッシェンバッハを演じている。彼は静養のために赴いたベニスで、美少年タージオに出会う。金髪と澄んだ碧眼の瞳。まるでギリシャ彫刻のようなタージオにアッシェンバッハは次第に心を奪われてゆく。最後は題名のように死ぬ。ベニスの街にはひそかにコレラが蔓延している。主人公はベニスを脱出しようとするが、荷物の手配のミスで、ベニスにさらに滞在することになる。

 死の影が忍び寄るベニスから脱出するよりも、内心では美少年を遠くから眺めているだけで至福を感じる主人公だが、やっぱりコレラに感染して破滅するのである。

 原作はトーマス・マンの『ヴェニスに死す』と『ファウスト』からとられているそうだ。
 小説ファウスト博士の主人公は音楽家であり、藝術のために「悪魔との契約」を結ぶ。悪魔は、音楽家が娼婦からの梅毒の感染というかたちで契約を実現させる。結果として音楽家は12音音楽の創造にたどり着く。

 映画『ベニスに死す』でも主人公の音楽家が娼婦を買うシーンが描かれる。悪魔との契約ではないが、主人公が美少年と出会うことで幸福を得られる(美に陶酔する)代わりに、コレラにかかって死ぬのだ。

 アマゾンのDVD『ベニスに死す』の「カスタマーレビュー」に以下の感想が載っている。
 「彼はベニスで美少年タージオを発見し、彼に強く惹かれる。まるで、彼の中で抽象的に存在していた美の観念が、タージオという具体となって彼の前に現れたかのように。しかし、主人公はタージオと最後まで会話をしない。二人が口をきいていたら、主人公にとってタージオは「観念的な美」の高みから「ただの人」に堕ちてしまっていたかもしれない。

 タージオは所詮は生身の人間である。主人公が愛していたのは、現実のタージオ本人ではなかったと思う。主人公が愛したのは、彼の脳内で作り出された、架空のタージオではなかったか。道化のような化粧までして、自らが作り出した幻影を追う主人公は、滑稽であると同時に、果てしなく哀れだ。何よりも哀しいのは、主人公自身が、その滑稽さと哀れさをよく理解していることだ。理解していたからこそ、崩れ落ちながら狂ったように笑い出したのではないだろうか。」


 うまい批評だと思う。これは同性愛の本質を語っているようだ。
 つまり、同性愛とはその人の「脳内で作り出された、架空の性愛の対象ではなかったか。自らが作り出した幻影を追う」しかないのではないか。
 昨日書いたように、生物には本来同性愛は起こりえないのである。起こり得ないことが起きるのは、人間だけが認識を誕生させたからだ。脳(実体)の機能であるはずの認識が、逆に実体を狂わせるに至った。狂った実体だから幻影を見るようになる。

 同性愛では、子供を生む、育てるという確かな現実は手に入らない。生命体の論理構造に合致しない。疑似性愛で満足することになっている。
 トーマス・マンもヴィスコンティも、人間に生じる同性愛現象を唯物論的認識論から解くことができなかったので、悪魔との契約としたり、美というものがそもそも「ある」という観念論で創りあげたりするしかできなかったのだろう。

 同性愛の謎を解くのであれば、小説や映画で、主人公の生い立ちの謎に分け入る必要があるが、彼らは観念論者なので無理であった。同性愛は生まれつきだとするサヨク連中も、観念論者だから謎が解けない。

 先日、NHKの朝のニュース番組で、LGBTの若者を取材して、彼らが偏見や差別と戦いながら自分らしい生き方を求めているから、世間の理解が広がるといい、と言っていた。冗談じゃないよ、何が自分らしい生き方だ。
 社会の規範、生命体としての規範は考えもしないのか。

 例えば、自分は自分らしくやりたいのなら、信号は赤で車道を渡り、便所は台所のシンクにし、男でも女湯に潜りこみ、風呂は嫌いだからと一切入らずに街中を異臭を漂わせて歩き、誰にでも嘘をつき、約束は勝手に破る、そういう生き方が許されることになる。

 いかにも生物的性と自分の感じる性が違うなどとアホを言う者がいるだろうが、それを許容する社会になることで誰が得をするかを考えなければならない。日本社会を弱体化させたい邪悪な外国勢力が、NHKを始め日本のマスゴミを乗っ取って、同性愛は正しいことのように報道しているのである。

 だからLGBTの偏見と差別をなくそう、と馬鹿を言う連中は見事に反日サヨクである。人権を言い立てる日弁連などが煽っているのだ。
 冒頭に取り上げた鶴指眞澄議員を攻撃しているのも、衆を頼んで発言自体を封じるやり口、いつもの通りである。

 ところで他事ながら、映画『ベニスに死す』のタージオは、非の打ち所がない美少年である。ビョルン・アンドレセンと言って1955年生まれのスウェーデンの俳優。『ベニスに死す』撮影のころは15歳、現在は60歳になる。
 現実のアンドレセンはまあそう大崩れせずに年をとったようだが、もし映画の中の少年が成長したら、どうなっていただろうか。

 周囲にチヤホヤされて、自分の美を意識させられ、否が応でも増長するだろう。それこそ、女はイチコロ、男も迷わせて、生涯モテモテ、なんの努力も要らずに「幸福」が手に入る。そういう稀な美形の男がいるかと思えば、気の毒なほどのブスもいて、本人には何の責任もないのに、「幸福」が得られない。世は不条理である。

 しかし一方で美男美女は、本人の責任でもないのに、美しいというだけで嫌われ、疎まれ、苛められる運命にある。美形に生まれついただけでラッキーな人生かといえば、そうとは限らない。出る杭は打たれるのが世の習い。

 先般、亡くなった原節子は、42歳で映画女優を止めて隠遁したのは謎のままではあるが、彼女も美形故に苦しんだであろうことは想像に難くない。みんなは、まだまだ美しかったし人気もあったのだから、女優でやれたのに、と惜しむけれど、原節子にしてみれば美しさと人気ゆえの世間の風当たりの強さに悩まされたのではなかったか。

 ましてマッカーサーの愛人にさせられたとの噂は、きっと彼女の耳にも届いていたろうし、そうした風評(本当のことであったらなお一層)には耐え難いものがあったろう。

 何が言いたいかというと、ヴィスコンティ監督が一つのテーマで『ベニスに死す』を撮ったのは、それでわかるけれども、映画の中の美少年の行く末なるものにも想像を巡らせていたら、現実のドロドロした人間関係にいわば逆襲されたのではないかと思われる。






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2015年12月04日

同性愛はまごうことなく異常(1/2)


《1》
 神奈川県海老名市の市議会の鶴指眞澄議員がみずからのツイッターに「同性愛は異常なのだ。異常人間の行動を正当化した報道はするな」などと書き込んだとかで、これをマスゴミは差別発言だと決めつけていた。ツイッター上でも、「差別であり、人権侵害だ」などと批判の書き込みが相次いだという。

 インターネットのNHKニュースでは「鶴指議員はNHKの取材に対し、『同性愛の人たちを取り上げるマスコミの報道を批判したのだが、表現に行きすぎた点はあったと思う。同性愛は個人の自由だと思うが、私としては受け入れられるものではなく、書き込みの撤回はしない』と話しています。
 同性愛や性同一性障害など、LGBTと呼ばれる、性的マイノリティーの人たちを巡っては、東京・渋谷区が同性のカップルを「結婚に相当する関係」と認める証明書を発行するなど、差別をなくそうという取り組みが進められています。」
と報じている。

 私は鶴指議員の主張を全面的に正しいと思う。差別でもなければ人権侵害でもない。同性愛は異常である。だからといって、仕事に就かせないとか、レストランに入れないとか、社会の除け者にするなら、それは差別であろう。行政が同性婚婚姻届を受理しないのは差別ではない。それが「生命体の論理」に根ざすからだ。

 端的にいえば、ココロの病なのだから病院の精神科で治療しなさいと言えば済む話を、馬鹿な医者どもが同性愛の謎が解けないばかりに、生まれつきそういう人がいると間違えた理屈を唱えたから、ムチャクチャになった。
 鶴指議員は、マスゴミが同性愛者、「性同一性障害」を助長するような、正当化する報道をすることを批判している。その通りではないか。

 性を選択する自由だの権利だの…、そんなものがあるか。ジェンダーフリーとか、男女参画社会とか、同性愛結婚を認めろというのはサヨク人権派である。みな反日と日本文化の破壊でつながっている。

 生命体とは、ひらたくいえば「死ぬ…かと思えば生き続ける。生きている…かと思えば死ぬ」、そのくり返しの存在である。どんな種も、どんな個体も、今生存しているということは、先祖代々が生きて、そして死んでくれたおかげであり、また今を生きている個体も生殖して子孫を残して死ぬ、その連鎖で成り立っている。

 「死ぬ…かと思えば生き続ける。生きている…かと思えば死ぬ」存在であることから、われわれ生命体は逃れることはできない。なぜかというなら、そういう機能が地球上にあるときに出現したからだ。ほかの惑星にはその機能は出現しなかった。地球には近くに地球の4分の1ほどもある大きな衛星、月があったからである。

 その機能が生じたために、地球上にだけ実体性が出来てやがて固まり、実体へと量質転化していって生命体が誕生するに至る。
 機能が実体を創った。その論理が理解できないと生命の誕生の謎が解けず、またなぜ生命体が生と死をくり返すなかで生殖が行なわれ続けるかも解けはしない。

 別の言い方をすれば、個体はいずれ死ぬのだ。死ぬ前に子孫を残さなければならない。この論理の貫徹が生命活動である。そのために性(オス、メス)があり、生殖がある。
 ところが、人間だけは本能を大きく喪失し、認識がそれにとって代わるようになったから、勝手にオスがオスを愛してしまうことが起きるのである。

 同性愛になるのは、生まれつきではなく「育ち」にあるのだ。育ちの異常があったから、同性を好きになるような認識が生まれるだけのことだ。だから人間以外の生命体には同性愛はない。人間に飼育された動物には起きるかもしれないが、それは人間が狂わせたのだ。
 これは学問的なレベルの話である。それをサヨクどもは差別だ、人権侵害だとわめく。話のすり替えもいいところだ。

 韓国のある女流作家が、例の「従軍慰安婦」で、強制連行された性奴隷ではなかったと発表したら、韓国では司法までが乗り出して、「元慰安婦」を侮辱したと騒いで、その女流作家を告発したそうだ。
 この韓国の狂った振る舞いと、同性愛を異常ということは許さないという主張は、まったく同根である。

 「衆を頼んで自分と考えの違う人間を許さない」とは、民度が低過ぎる。「差別」や「人権」を度外れに解釈して、学問的探求を妨害するとはなんたる所業か。マスゴミの記者は死ね!

 「渋谷区が同性のカップルを『結婚に相当する関係』と認める証明書を発行するなど、差別をなくそうという取り組みが進められている」という記事についていえば、これも呆れた話である。レズビアンになりたければご勝手にではあるが、性の異常が大手を振って練り歩くとは。
 行政は正常な男女のカップルだけを夫婦関係と認めなければならない。それが生命体の常道というか鉄則だからだ。

 同性婚を行政が、もしくは社会が、認めたら、子孫は出来ない。それでいいのか? パンダやトキが絶滅すると困ると騒いでいる片方で、人間が絶滅につながる振る舞いは許しちゃうのはキチガイ沙汰だ。
 よしんば十人や百人の同性婚が出現しようとも、それがただちに人類滅亡に至るものではないにしろ、それを認めるのは生命体の生存の論理をブチ壊す行為なのだ。

 古代ローマ帝国が滅んだ原因の一つは、同性愛が蔓延して、国家が弱体化したからである。「それでもいいじゃないか」の考えが、社会を結局は潰した。
 アメリカも、同性愛がお盛んである。歴史と文化がない国家で、しかも他人(インディアン)の土地を奪って、殺戮し尽くし、黒人やらなんやら人種差別を平気でやらかして来た連中だから、人間としての正常なあり方を壊すことが平気なのである。



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2015年12月03日

水木しげるよさらば


 東海子さんのブログ「頑張れ産經新聞」(12月1日付)に「漫画家水木しげるの死去」という記事があった。
 水木しげるの人生訓7カ条を政治学者・岩田温氏がFBに書いているとして、引用している。

**********************
第1条:「成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはならない」
第2条:「しないでいられないことをし続けなさい」
第3条:「他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし」
第4条:「好きの力を信じる」
第5条:「才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ」
第6条:「怠け者になりなさい」
第7条:「目に見えない世界を信じる」
**********************

 東海子さんは、水木しげるが「裕福に育ち、戦争で片腕を亡くし、戦後貧困に苦しみ、そして運良く成功した苦労人の言葉だから、説得力がある。水木氏は『ナンバーワンではなく、オンリーワンをめざせ』、といっているようだ。ただしそれは成功のためではない。成功はあくまでも結果である」と述べている。」

 褒め過ぎだ。
 私はこんな人生訓などクソ喰らえと思う。「目に見えない世界」なんて信じるなよ。
 そもそも私は水木しげるのマンガが嫌いだった。どういうわけか彼が世間の人気が出たが、画風が卑しかった。
 戦後のマンガ界は、手塚治虫氏や「サザエさん」の長谷川町子氏が牽引した。戦前は田河水泡の「のらくろ」が有名である。
 いずれのマンガも、きれいである。子供の教育上好ましいと言ったら良いのか…。

 そういう日本人の穏やかさや美意識にかなったマンガは、新聞や雑誌に掲載されていた。ところが、水木しげるはその世界では落ちこぼれ、紙芝居か貸本屋に並ぶ二流のマンガでスタートしている。
 手塚治虫や長谷川町子らは上流階級にふさわしく、水木しげるや白土三平などは庶民が好むマンガ、と色分けされていた。前者は日向のマンガ、貸本屋は日陰のマンガだった。

 ついでながら、「さざえさん」は当時はまだ一流紙とされていた朝日新聞で連載していた。
 テレビのアニメ「さざえさん」には出て来ないだろうが、主人公のサザエは女学校を出ているという設定だった。毎回のマンガでいちいち出てこないけれど、そういう教養ある女性がおかしなことをやってくれて笑わせてくれた、そういう上品なマンガである。
 だから天下の朝日新聞が堂々掲載したのである。

 昔のマンガは人が殺される場面は描かない。チャンバラも正義が勝つのだが、悪漢を峰打ちにしたものである。「赤胴鈴之助」なんかは「真空切り」で人気だったが、敵がそれで殺されるという技ではなかった。しかし貸本屋のマンガはそんなことはお構いなし。

 マンガの世界では、良貨は悪貨に駆逐されていった。いつの間にか、二流であった水木しげるや白土三平らがマンガの世界では主役になっていった。出版界もマンガの週刊誌化の流れでどんどん描ける漫画家を登用していき、貸本屋マンガに陽が当たるようになっていったのだ。

 戦後教育の質の悪さが次第に露呈してきた結果であろう。今は日向のマンガも日陰のマンガもごちゃまぜ。

 水木しげるの場合は絵がきれいでなく、不気味でもなんでも良いからと貸本レベルでは受けたのが、彼の出自であった。始めは「墓場の鬼太郎」であったし、鬼太郎は人間の味方ではなかった。
 出てくるバケモノの絵も下手だし、なんといっても鬼太郎のオヤジが、死んだのに目玉だけ生き残って手足がはえ、鬼太郎と一緒に行動するなんて発想自体が、正常な認識の所産ではあり得ない。

 そんな気持ちの悪いマンガは、親が子供に見せたがらなかった。上流を自負する家庭では、であるが…。まともな親なら、水木マンガに出てくる「ねずみ男」なんかを子供に読ませたくないものである。
 それでも子供の世界では隠れて読んでしまうものだったけれど。

 東海子さんは「水木しげる氏は漫画では面白い新境地を開いた人」と褒めはしているが、一方で「二ユーギニアの戦争体験では見張りを怠り部隊が全滅したと書いている。彼のミスで死亡した戦友達はどうなるのか。申し訳なかったという気持ちが欲しかった。彼が生き残ったのは戦友が身代わりに犠牲になったからだ。自分さえ良ければ良いという考えは彼も同意しないであろう」と書いている。

 水木しげるの顔つきの暗さは、この戦場での経験がもたらしたものだと思われる。
 彼の生涯をざっと眺めてみると、子供のころから小学校時代、大阪でのサラリーマン生活、さらに軍隊と、いずれも良く言えばマイペース。自分勝手で協調性がない。ついに社会的認識がまともに育たなかった。

 たとえば、小学校入学は親が彼の愚鈍を心配して1年遅れにしたという。しかも朝は起きられず、ゆっくり朝飯を食って2時限目から登校したそうだから、それを許した親も教師も悪い。

 社会的認識が育たないままに軍隊に入れば、大失敗をやらかすに決まっている。
 12月1日付の産經新聞「産経抄」には「最前線で見張りをしていた水木さんは、望遠鏡であちこちをのぞいているうちに、きれいな色のオウムを見つける。つい見とれてしまっている間に、隊は敵の襲撃を受けて全滅していた。爆撃にあって左腕を失っても、奇跡的に生き延びた。」と書かれている。

 こういう経験を文章にしたためたのは、ほかでもなく水木自身なのだから、本当はもっと人には言えない馬鹿をやって戦友を殺してしまったのではないか。オウムに見とれて…ではキレイ事すぎる。
 真相はついにわからないが…。

 見張りについていながら、敵の機銃掃射を浴びることになったのは、彼がまったく軍隊では役立たずの劣等兵だったからだ。社会的認識が欠如している。
 「ゲゲゲの鬼太郎」で先に紹介したように、死んだはずのオヤジが目玉だけ生き返る話は、まさに彼の戦場での経験そのもの。死んだはずの自分が生き残ったありようをカリカチュアしている。

 ねずみ男のキャラは、鬼太郎を親友だと言いつつ、自分の命や金儲けのこととなると平気で裏切る。自身の目的のためならば時には鬼太郎を殺すために手を尽くし、「ウソをついて敵の元へ誘き出す」「奈落の底に突き落とす」など、まるで支那人がモデルのようだが、実は、戦友を死に至らしめた自分の後ろめたさがあのキャラになっているのだろう。
 
 妖怪の世界だということにして、水木しげるは戦場で自分がやったことをネタにしつつ、ごまかした。彼の生涯は子供ときからダメ人間そのものであり、それをいささかも深刻に考えなかったから、軍隊に入って死ななくていい戦友を殺してしまったのだ。

 戦争で生き延びて復員してから、彼はそうした自分の身勝手なマイペースの生き方を変えることはなく、開き直ってマンガを描いた。
 それゆえに、あの奇妙な妄想世界の妖怪が活躍するマンガが描け、人気が出たために食っていけたのだ。

 そういう社会的落ちこぼれとも言うべき水木しげるが、何を偉そうに人生訓を垂れるのか。この人生訓をざっと見ると、やはり戦場での後ろめたい思いから逃避しようとし、それを正当化しようとしているように思える。



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2015年12月02日

「お国のために」とは


 先の大戦で、多くの将兵は天皇のために、お国のためにと言って戦って死んでいった。その思いをヒロヒトはいささかも受けとめず、責任を陸軍首脳に転嫁して生き恥をさらした。なんだかんだと屁理屈つけて天皇の椅子にしがみついた。
 これは嘘偽りのない客観的事実である。天皇教信者は否定するだろうが…。

 しかし一転して、靖国に眠る英霊の主観はどうかと考えてみるに、それで天皇や国を恨んでいるだろうか。
 現在の左翼護憲派にはわからないだろうが、もし霊なるものに聴けたら、彼ら英霊は国のために戦って本望だったと答えるに違いない。現代の諸君の感覚で自分たちの行動を見るな、と言うだろう。
 ヒロヒトの裏切りさえ、英霊は許しているだろうし、恨んでなどいないだろう。

 「きけわだつみの声」に収録されている戦没学生の手記を見ると、彼らはそうとう個人主義で、戦争に対して冷めた見方をしていて、もしかしたら天皇や国を恨んで死んでいったかと思われる。あの本はサヨクが創ったからだ。それはあるだろうが、ここでは違う角度からあえて問うてみたい。
 戦後は「きけわだつみの声」にあるような、戦争に行きたくなかった、犠牲になった、軍部が悪い、国が悪いとするサヨクの思想だけが正しいとされてきた。

 また一方で、とりわけ特攻で散った人たちを「犬死に」と誹る向きがある。兵隊に取られた人は騙されただけ、ひどい目にあわされただけとする意見があるのは私も承知しているが、それはあまりに疑似客観主義と言うべきではあるまいか。

 ヒロヒトは戦争責任から逃げまくった。俺は軍部に騙されたのだとか、どうしようもなかったのだと言いつづけた。周辺もそれに同調して、天皇を擁護した。事実を隠蔽した。
 あまつさえ、1975年10月31日、昭和天皇は日米記者クラブで、初の公式記者会見をし、記者が「戦争責任についてどのようにお考えですか」という質問に対し、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」
 と答えている。

 これは事実としては、戦争中に天皇が中心となって大本営を指揮し、戦争を遂行していたことを、戦後なかったことにして、それが成功したからこそ、このヒロヒトの答えがみんな承服してしまった背景となっているのだ。

 ただ戦争責任とは何かという根源的な問いはある。日本がナチスのようにスターリンのように、そしてルーズベルトやチャーチルのように、戦争を引き起こした張本人かと言えば、かなり違うし、戦勝連合国が言うような「戦犯」とも言えない。
 いかに巻き込まれた戦争であったにしても、宣戦布告して戦争に突入したのだし、ほとんど負けると決まっていたような戦争をやった、多くの犠牲を出したのだから、責任なしとはとうてい言えまい。

 しかし、ヒロヒトは連合軍とりわけマッカーサーの都合で、退位もせずに生きながらえた。戦争を始める前からある程度、戦後の処遇は決まっていたのだろう。
 一例を挙げれば、戦争中、日本軍が占領した地域から、ヤクザを使って金銀財宝を略奪したと、高橋五郎氏や鬼塚英昭氏は証言する。

 その金などを、戦後、天皇とGHQとで山分けしたのだ。そういうことやらかすために、アメリカは戦争を仕掛け、日本は戦争に引きずり込まれた。だから巷間言われるような意味で私は天皇に責任があるのないのと言っているのではない。

 さて、私が今回またしても天皇の問題を出しているのはややテーマが違う。
 冒頭に申したように、英霊は天皇のため、国を護るためと言って、戦争で亡くなっていった。その思いにヒロヒトはいささかも応えなかったというのは客観的には事実だと言っている。むろんヒロヒトは毎年8月15日の戦没者慰霊式典には参列して、上辺はコウベを垂れてはいた。その一方で、連合諸国とどういう約束を交わしたのか、靖国には参拝しなくなった。

 だが、ここで英霊の主観はいかにと問うならば、天皇や国家が一個人(英霊)の心に応えるほうがいいかもしれないけれど、それがなくても、戦った人たちは何も見返りがないとて、不満は言うまい。
それが戦前というものだったと思う。

 だから靖国神社がある。全国に護国神社もある。せめてあれで英霊の心に応えようとしている。後世のわれわれが、英霊に感謝の気持ちを持ち、国のために命まで捧げてくださったことに深甚な意味を見出すことこそ、かれら英霊の心に応えることではないのか。

 私のわが空手組織への思いとはそれに似ている。一部の人から、空手組織があなたの熱い思いに応えてくれたのか、と質問されたことがある。
 しかし組織が私という個人を大切にしてくれるかどうかなんて、考慮の外である。組織に対して己れの足らざるを恥じるのみである。英霊もきっと己れが足らざるをもって戦に負けたことを恥じておられることと思う。しかしむろん戦争は勝つか負けるかだ、誰も英霊を責めることなどできない。

 私に、実情を知りもしないで、組織はあなたが尽くしたことに見返りがあったのかと問うこと自体がおかしいが、そういう問いかけをする人は、組織とか恩師とかに、「教えてほしい」ではなく、「自分の感情を納得させてくれ」なっているからである。

 私が空手組織で尽くしたことなど、ほとんど価値はないが、よしんばいくらかあったとしても、それで給与をもらったわけでもないし、何をするにも持ち出しだった。それで何の不満もあるわけがあい。
 強いて言うなら、南ク継正先生がご著書を出されるとか、論文を発表されるとかが、私にとっては見返りというか、「応え」であったし、これからもそうであろう。
 
 むろん南ク継正先生が私のために著作を書いておられるなどと自惚れているのではない。南ク先生は社会に問うためとか組織のために書かれているのであるのは当たり前だ。
 「私たち」のためにご講義をして下さり、本を著してくださる。これ以上の「応え」がなお必要か?

 そうした師事の仕方をやったことがない人には、何を言っても理解は無理である。

 現代の人の多くは、先の戦争でも兵隊に行ったひとに国家や天皇が何か見返りを与えるとか、国への熱い思いに応えるとかするに違いないとしか考えないのではなかろうか。
 サラリーマンやOLが今期がんばったからボーナスをもらうかのような感覚で、個人と国家を考えているようである。

 これは本ブログで言ってきたように、受験勉強で創られた思考回路になっているせいではないか。受験は一つの決まった模範解答だけを選ばせるシステムで、それを暗記し、適応する脳の働きにしたやつだけが「成功者」になる。
 先に西尾幹二氏が「人と人の間にいろんな複合的な違いを際立たせる尺度があって、それが宿命として意識されているほうが個人は幸せだし、社会は安定する」と説いていることを紹介したが、こういう考え自体をもう理解できないアタマに、秀才ほど毒される。

 わが国は戦争に負け、底の底から立ち直ってきた。人心はともかく、日本の工業力やサービス産業などでは世界に先駆けるレベルになった。それを支えてきたのは、ザッと言って企業戦士と言われた者であったとしよう。
 では彼らは会社や国家から何か見返りはもらったのか?

 むろん給与、ボーナス、役職などで見返りはあったろうが、それ以外は何もない。人並みの待遇であっただけだ。アメリカの超富豪、たとえばビル・ゲイツみたいな、社会からの応えは預からなかった。勲章をもらったわけでもなかろう。
 それを不満に思う人は極めて少なく、言葉にも出さないが、みんな日本の復興になんらかの形で寄与できたことの幸せを噛みしめるのみであった。

 だから青色ダイオードを発明したから、その手柄はオレ1人にあるとわめいた中村修二を、日本人は変な思いで見たのである。中村修二は日本人のマインドではなかった。

 本来ならヒロヒトは逃げずに、命を捧げて国に尽くした人たちが無言でなんの見返りを求めないこと、そのものに応えるべきであったのだ。靖国神社はそういう己れを声高に言い募ることのない、日本人らしい英霊との交流が静かに行なわれる場なのではないか。
 なのにヒロヒトも、今上天皇も参拝しない。

 今上天皇と皇后は、長男夫婦のわがままな振る舞いを咎めることもしないテイタラクだ。国民がみんな眉をひそめているというのに、とぼけ続けていいわけがなかろう。

 本来的には、英霊は「天皇が居てくださるだけで良い」としながら言うなれば天にましますのだ。その魂の有りようが日本ではないか。それは主観でしかないと、サヨクどもは言うであろう。個人の人権や自由という価値が踏みにじられたじゃないかと。だが、そうした主張や断罪の根拠自体が、純粋な客観であるとは限らないのである。





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2015年12月01日

ウィッシュフルシンキングの罠(2/2)


《2》
 話が大きく脱線したが、伊藤氏は支那はこれからも年に5%くらいの経済成長率は維持するだろうと語っている。その点では、日本の保守的論客の予測する「すでにマイナス成長になっている」との主張と真っ向対立する。

 伊藤氏は、アメリカが支那との貿易がないとやっていけない状態で、その問題を抱えているからユダヤ支配層が、支那と衝突することを避けていると語っているけれど、一方で、アメリカが実際に対支那への輸出依存度は年々低下して、今や7%台である。アメリカにとっては支那はさほど重要視する必要がない。

 対支那輸出の国別ランキングで見ると、モンゴル、北朝鮮、コンゴなどの資源を支那に売っている国がベスト10にあり、日本はずっと低くて21位、18%ほどでしかない。
 つまり、アメリカも日本も支那を必要としなくなっている。なのに日本のマスゴミは支那との関係を維持発展させないと困るのだ、なんて嘘をたきつける。

 上海の株暴落で連鎖してアメリカのウオール街も株暴落が起き、アメリカでは年金が大打撃を喰らった。さしもの支那好きのアメリカ人も、支那のやり口に憤慨するようになってきている情勢もあるのではないか。

 年何パーセントの成長かはわからないが、とにもかくにも、アメリカは支那の経済を支えるはずだと伊藤氏は述べる。日本にもそれを命じている。投資は減ることはあっても断絶することはなかろう。
 なにせ、支那は他国を騙すこと、技術を盗むこと、国民を弾圧して黙らせることに関してだけは努力を傾けるからだ。

 私には正しい支那の経済はわからないが、支那はそもそもGDPの統計なんかどうでもいいのではないか。すべては嘘、それが前提であり、人間はそれで動くことを奴らは知っている。異を唱える者は無視するか弾圧してくる。

 中共指導者がGDPは5%成長だといえば、そうなるという話である。正確な統計なんかが通用する世界ではない。欧米も日本も、支那のムチャクチャを嫌いつつも、止められない。
 本当のことを言うべきだとする経済学者や官僚がいれば、糧道が断たれ、殺されもする。嘘の数値を認める人間だけが優遇され、出世する。

 実体のしわ寄せは大衆にかかってくるが、支配層にとってはどうでもいい。
 何千万人餓死しようが平気、核戦争が起きて主要都市が潰滅し、人民が大量に死んでもおかまいなし、自分たちさえ生きて、金儲けできればいい。
 

 しかし伊藤氏も語っているが、アメリカや日本はそうではない。核兵器に怯えてしまう。一発でも落とされたら戦略にただちに影響する。簡単に支那に譲歩するだろう。中共指導者にとっては、大衆は虫けらだから、核兵器で殺戮されても痛くも痒くもない。核は日本やアメリカを脅す強力な材料にはなるが、自分たちへの脅しにはアメリカは使えないのである。
 
 ということは真実であるが、伊藤氏はそれをせせら笑うかのように語る。日本の同胞への愛情があまり感じられない。憂国の情なしに、淡々と世界情勢を分析してみせる。その不快感がどうしても残る。彼は日本のためを思って分析してみせるのかもしれないが、自分は在米で、半ばアメリカ人になっているから、日本のことを思うと滾り落ちる涙が…とはならないのだろう。

 彼は「ボクは支那を尊敬している」と笑いながら語れる人である。「尊敬」という言葉を感情抜きでしゃべれる神経とはなんだろうか。
 「敵ながらようやる」程度で語るべきである。彼は専門の国際政治でしか対象を見られないからで、現実にわが国がどれほどひどい目にあっているか、は、感情として知らない。

 その意味では伊藤氏はウィッシュフルシンキングから脱却して、現実を見事に捉える能力が身に付いている。だからその分析には学ぶことが多い。
 しかしwishful thinkingがゼロということは、理屈ではないところの日本への愛着や大切な文化への感動などは、不合理として棄てることができるのではないか。

 それゆえ、平気でアメリカに在住できる。
 アメリカが好きな人は、感情が薄いからできるのだ。
 ウィッシュフルシンキングはいかにも現実を見る目を曇らせる。アメリカの指導層が支那に対してウィッシュフルシンキングで見てしまう傾向は困ったものではあるけれど、それは別言すれば人間の認識にとって必然の「問いかけ的認識」だからである。

 人間の認識(像を創ること)に、「問いかけ的」なありようは必然である。それもまた二重構造であるから、別の面でいえば、恋愛もそうだし、藝術を創ることも鑑賞することも、宗教をつくってしまうことも、ウィッシュフルシンキングがあればこそ、である。
 主観は決して棄てられない。

 この矛盾を克服する術を人類はまだ確保していないのだと思う。
 それを克服する道として、私は「スジを通した音楽批評とは(2/2)」で、問題提起しておいた。
 それは、「論理的とはスジが通っているとは、対象の構造に分け入るだけでなく、体系性もなければならず、筆者自身の認識にも分け入ることである」と。

 これをアメリカ人が支那を見る時のウィッシュフルシンキングの問題に則していうなら、アメリカ人は支那という対象の構造を見る場合に、人類史とか人間のまっとうな生きざまといういわば体系を踏まえることと、対象を見る自分がウィッシュフルシンキングになっているか否か、自分の認識にも分け入る必要がある、ということだ。

 さらに、そもそもを言えば、「認識学」を構築し、学ぶことでしか、対象の構造と自分の認識のありようをより正確に捉えることはできないのだ。
 だが、認識自体を学問的に問うとか、より人間として立派になるために活用するとかを目指す人間はごく少ない。まして支那人やアメリカ人は皆無といってよいほど、そんなことはどうでもいいになっている。

 しかし、アメリカ人はキリスト教を信仰しているから、キリスト教の体系からしか見ないし、自分勝手に善意の塊だと自負してしまう。しかも過去にインディアンやら黒人やらを虐殺しまくった先祖がいるのだから、そういう現実を見たくないのである。だからどうしてもウィッシュフルシンキングに浸りたい。
 それがまた支那人のつけ込む隙になっている。

 日本人も支那やアメリカから、大東亜戦争で非道なことをした、侵略した虐殺したと思い込まされることで、それが嘘なのに現実だったと思わされて、贖罪意識や自虐意識を持たされることで、現実をしっかり見る術を身につけるより、ウィッシュフルシンキングに浸されるようにさせられている。憲法9条さえあれば戦争はしなくて済むなどと狂った考えに取り憑かれる。
 そこが支那やアメリカの思う壷となっている。

 wishful thinkingの矛盾、それで苦しむ民衆のことなど、カネで解決するか、殺してしまえばいいとする力の支配が世界を席巻している。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(4) | エッセイ | 更新情報をチェックする