2015年12月05日

同性愛はまごうことなく異常(2/2)


《2》
 同性愛を描いた映画は多々あるが、有名なところではルキノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』がある。
 ヴィスコンティの作品ということで注目され、あれやこれやと批評はされるが、要するに同性愛を扱っていて、気持ちが悪いったらない。

 ダーク・ボガードが主人公老作曲家アッシェンバッハを演じている。彼は静養のために赴いたベニスで、美少年タージオに出会う。金髪と澄んだ碧眼の瞳。まるでギリシャ彫刻のようなタージオにアッシェンバッハは次第に心を奪われてゆく。最後は題名のように死ぬ。ベニスの街にはひそかにコレラが蔓延している。主人公はベニスを脱出しようとするが、荷物の手配のミスで、ベニスにさらに滞在することになる。

 死の影が忍び寄るベニスから脱出するよりも、内心では美少年を遠くから眺めているだけで至福を感じる主人公だが、やっぱりコレラに感染して破滅するのである。

 原作はトーマス・マンの『ヴェニスに死す』と『ファウスト』からとられているそうだ。
 小説ファウスト博士の主人公は音楽家であり、藝術のために「悪魔との契約」を結ぶ。悪魔は、音楽家が娼婦からの梅毒の感染というかたちで契約を実現させる。結果として音楽家は12音音楽の創造にたどり着く。

 映画『ベニスに死す』でも主人公の音楽家が娼婦を買うシーンが描かれる。悪魔との契約ではないが、主人公が美少年と出会うことで幸福を得られる(美に陶酔する)代わりに、コレラにかかって死ぬのだ。

 アマゾンのDVD『ベニスに死す』の「カスタマーレビュー」に以下の感想が載っている。
 「彼はベニスで美少年タージオを発見し、彼に強く惹かれる。まるで、彼の中で抽象的に存在していた美の観念が、タージオという具体となって彼の前に現れたかのように。しかし、主人公はタージオと最後まで会話をしない。二人が口をきいていたら、主人公にとってタージオは「観念的な美」の高みから「ただの人」に堕ちてしまっていたかもしれない。

 タージオは所詮は生身の人間である。主人公が愛していたのは、現実のタージオ本人ではなかったと思う。主人公が愛したのは、彼の脳内で作り出された、架空のタージオではなかったか。道化のような化粧までして、自らが作り出した幻影を追う主人公は、滑稽であると同時に、果てしなく哀れだ。何よりも哀しいのは、主人公自身が、その滑稽さと哀れさをよく理解していることだ。理解していたからこそ、崩れ落ちながら狂ったように笑い出したのではないだろうか。」


 うまい批評だと思う。これは同性愛の本質を語っているようだ。
 つまり、同性愛とはその人の「脳内で作り出された、架空の性愛の対象ではなかったか。自らが作り出した幻影を追う」しかないのではないか。
 昨日書いたように、生物には本来同性愛は起こりえないのである。起こり得ないことが起きるのは、人間だけが認識を誕生させたからだ。脳(実体)の機能であるはずの認識が、逆に実体を狂わせるに至った。狂った実体だから幻影を見るようになる。

 同性愛では、子供を生む、育てるという確かな現実は手に入らない。生命体の論理構造に合致しない。疑似性愛で満足することになっている。
 トーマス・マンもヴィスコンティも、人間に生じる同性愛現象を唯物論的認識論から解くことができなかったので、悪魔との契約としたり、美というものがそもそも「ある」という観念論で創りあげたりするしかできなかったのだろう。

 同性愛の謎を解くのであれば、小説や映画で、主人公の生い立ちの謎に分け入る必要があるが、彼らは観念論者なので無理であった。同性愛は生まれつきだとするサヨク連中も、観念論者だから謎が解けない。

 先日、NHKの朝のニュース番組で、LGBTの若者を取材して、彼らが偏見や差別と戦いながら自分らしい生き方を求めているから、世間の理解が広がるといい、と言っていた。冗談じゃないよ、何が自分らしい生き方だ。
 社会の規範、生命体としての規範は考えもしないのか。

 例えば、自分は自分らしくやりたいのなら、信号は赤で車道を渡り、便所は台所のシンクにし、男でも女湯に潜りこみ、風呂は嫌いだからと一切入らずに街中を異臭を漂わせて歩き、誰にでも嘘をつき、約束は勝手に破る、そういう生き方が許されることになる。

 いかにも生物的性と自分の感じる性が違うなどとアホを言う者がいるだろうが、それを許容する社会になることで誰が得をするかを考えなければならない。日本社会を弱体化させたい邪悪な外国勢力が、NHKを始め日本のマスゴミを乗っ取って、同性愛は正しいことのように報道しているのである。

 だからLGBTの偏見と差別をなくそう、と馬鹿を言う連中は見事に反日サヨクである。人権を言い立てる日弁連などが煽っているのだ。
 冒頭に取り上げた鶴指眞澄議員を攻撃しているのも、衆を頼んで発言自体を封じるやり口、いつもの通りである。

 ところで他事ながら、映画『ベニスに死す』のタージオは、非の打ち所がない美少年である。ビョルン・アンドレセンと言って1955年生まれのスウェーデンの俳優。『ベニスに死す』撮影のころは15歳、現在は60歳になる。
 現実のアンドレセンはまあそう大崩れせずに年をとったようだが、もし映画の中の少年が成長したら、どうなっていただろうか。

 周囲にチヤホヤされて、自分の美を意識させられ、否が応でも増長するだろう。それこそ、女はイチコロ、男も迷わせて、生涯モテモテ、なんの努力も要らずに「幸福」が手に入る。そういう稀な美形の男がいるかと思えば、気の毒なほどのブスもいて、本人には何の責任もないのに、「幸福」が得られない。世は不条理である。

 しかし一方で美男美女は、本人の責任でもないのに、美しいというだけで嫌われ、疎まれ、苛められる運命にある。美形に生まれついただけでラッキーな人生かといえば、そうとは限らない。出る杭は打たれるのが世の習い。

 先般、亡くなった原節子は、42歳で映画女優を止めて隠遁したのは謎のままではあるが、彼女も美形故に苦しんだであろうことは想像に難くない。みんなは、まだまだ美しかったし人気もあったのだから、女優でやれたのに、と惜しむけれど、原節子にしてみれば美しさと人気ゆえの世間の風当たりの強さに悩まされたのではなかったか。

 ましてマッカーサーの愛人にさせられたとの噂は、きっと彼女の耳にも届いていたろうし、そうした風評(本当のことであったらなお一層)には耐え難いものがあったろう。

 何が言いたいかというと、ヴィスコンティ監督が一つのテーマで『ベニスに死す』を撮ったのは、それでわかるけれども、映画の中の美少年の行く末なるものにも想像を巡らせていたら、現実のドロドロした人間関係にいわば逆襲されたのではないかと思われる。






posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(7) | エッセイ | 更新情報をチェックする