2015年12月10日

お笑い人民解放軍(1/2)


《1》
 宮崎正弘・宮脇淳子共著『中国壊死 (百年変わらない腐敗の末路)』(ビジネス社)にあった話。
 戦後、台湾では古来の閩南語が廃止されて北京語を取り入れたせいで「台湾語」がうまくしゃべれなくなった、という話から始まる。

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宮脇 一二三四五六七八九十(支那でいうとイー、アル、サン、スー…)(巻き舌の)四と十は台湾人はぜんぜん区別がつかないんで、話しながら指で示す。だって数字間違えるとえらい大事になるから。
宮崎 それは北京以外の中国、全部そう。「四(スー)」か「十(シー)」かって言いながら指を四つたてたり、両手で「十」の字をつくる。それでわかるんですから。

宮脇 でも閩南語(台湾語)だと、一二三四五六七八九十(チツ、ジイ、サム…)だから四(シイ)と十(チャプ)はぜんぜん違う。中国でも南方では、いまでも日本のことをニッポン、ジッポンと言う人もいるわけですよ。昔の日本と同じような発音でね。北京語だと巻き舌の「リーベン」ですけど、地方によってぜんぜん違う。
 だから北京放送がわかるから一応普通語が全国に拡まったと言っているけど、地方の人たちがそのとおり話せるかというと、ものすごくなまっています。
 毛沢東だって蒋介石だって、あまりにもひどい発音なんで、演説の録音を残さなかった。

 宮崎 蒋介石の有名な話は、上海から南京に移動するまでに、常州、蘇州、鎮江、揚州、南京とみんな言葉が違うから、五人の通訳を従えて、「行くぞ!」と言ったら順番に部隊ごとに通訳して、初めて軍隊が動くというようなものなんですよね。毛沢東に至っては、湖南省のしかもいちばん山奥。ぜんぜんわからない。

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 本邦でもよく方言は大事だ、しっかり残すべきだと主張する向きがあるが、それは間違いである。
 日本でも明治以前は、各地で方言があって、それこそ津軽の殿様と薩摩の殿様はじかに話ができなかった。

 司馬遼太郎が書いていたが、幕末に薩長が同盟を結んだわけだが、旅館で話し合いがもたれる際には、互いに隣り部屋にいながら手紙でやりとりしなければならなかったという。筆談である。
 こんなことでいいのか?

 強引に、明治政府が東京弁をもとに標準語を創って強制したからこそ、軍隊は強くなり、情報も伝わり、学校教育もうまく行くようになった。それに預かって有効だったのが、新聞やNHKのラジオ放送であった。
 今やおかげで、日本中どこへ行っても話は通じる。新聞もテレビも、出版でも、共通の言葉で意思疎通ができる。

 方言放逐、共通語の強制ができなかったのが、支那やインドであった。朝鮮半島も日本が統治して、共通となる朝鮮語の標準を創ってやったから、今日では多少の地域差はあっても、南北朝鮮とも言語が全国で統一できている。

 方言のまま良しとしていたら、この蒋介石軍のように、軍命令一つが思うに任せなくなる。蒋介石軍が日本軍に対して連戦連敗だったのもこうした原因があったのだ。

 日本でも数字を「イチ、ニイ、サン、シイ…」と発音していると、「イチ」と「シチ」のように間違える可能性があるから、軍隊では「ヒト、フタ、サン、ヨン…」のように数えた。
 「1時を期して総攻撃せよ」という命令が「7時」と間違えて聞いては大変だからだ。
 しかし支那語ではそういう言い換えができないから、困ったのだろう。

 さらにもう少し。

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(1)
宮崎 中国の軍隊は主に国内を向いていますから。日本での議論は、中国の軍事力の脅威ばかりですが、確かに脅威なんだけど、あの235万人の軍隊の実態というのは、ほとんどが内向きなんだからね。まずチベットの反乱を押さえるために50万人、ウイグルの反乱を押さえるために、生産建設兵団を含めると120万人をウイグルに入れているでしょう。そして北朝鮮に備えて瀋陽軍区に40万人いる。残り何人いるんだと。

 日本を侵攻しようとした場合、いったい何人来れるか。尖閣上陸なんかやるときは少なくとも5万ぐらい、台湾上陸のときは20万人ぐらいいりますよ。そんな軍事力、とても割けない。だからそういうことがあるというよりも、中国軍の今の性格というのは拡げすぎた版図をいかに維持するかということだけで汲々としているのが実情です。

(2)
 (習近平は軍をまだ掌握していないが、軍トップは変えられないのでその下の部下を自分の息のかかったものに差し替えた、という話)
宮脇 しかし、「言うは易く行なうは難し」な道じゃないですか。ケ小平でさえそんなにうまく行きませんでしたから。中国のなかで、軍というのはやっぱりいちばんの実力者でしょう。

宮崎 ケ小平の場合は中越戦争をやって軍を動かしたから。政敵の部隊を戦場の最前線に送って葬ったというやり方も、毛沢東が朝鮮戦争で政敵の部隊を最前線に送ったノウハウに学んでいます。というより、これは古今東西同じで、戊辰戦争にしたって、官軍に寝返った諸藩を最先頭に立たせました。もう一つは、実際に軍を動かしたという能力です。

宮脇 でも軍の政治的影響力を抑えるため、中央軍事委員会を党から切り離し、国家の中央軍事委員会に変えようとしてケ小平は失敗しました。ちょうど教科書問題が起こり日本たたきが始まったときでしたけれども、じつは日中の教科書問題の背景には中国のそうした内政問題があったのです。

 つまり、ケ小平の後継者である胡燿邦には軍歴がないので、ケ小平亡きあと党軍事委員会の頭をおさえて人民解放軍を掌握していけそうもない。それでケ小平は、中央軍事委員会を国家に移管して国家中央軍事委員会に改編しようとしたのです。そうすれば、軍は国務院総理の命令をきくことになります。

 ところがもちろん軍は猛烈に抵抗し、高級軍人の権力をそごうとしたケ小平・胡燿邦・趙紫陽体制を窮地に追い込むために、人民解放軍の長老が「人民日報」などを陰から操り、日本の教科書が「侵略」を「進出」に書き替えたと外交問題となるように焚き付けたのです。

 それまで日本と良好な関係だったケ小平はどんどん追い詰められていき、結局軍の改革は断念せざるをえず、中央軍事委員会を党の最高機関として温存することを認めました。そのとたんに教科書問題は中国メディアから消え、ぱたっと終わったのです。

 ところが、共産党の権力闘争を知らないバカな日本人が、教科書問題だの、近隣諸国条項だの中国に配慮したため、中国は対日関係でも利益をえて、一石二鳥か三鳥になったというお粗末な話です。あれは「指桑罵槐(しそうばかい)」と言って目的の相手でないところを攻撃する典型で教科書問題が利用されたわけです。

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(註:指桑罵槐とは、中国の兵法書「三十六計」の計略の一つ。味方に対して行う計略だとされている。「桑を指して槐(エンジュ)を罵る」と読む。本当に注意(攻撃)したい相手を直接名指して注意(攻撃)するのではなく、別の相手を批判することで、間接的に人の心をコントロールしようという作戦)

 支那における軍とはどういうものかがよく分かる。
 人民解放軍235万人がいても、あれは国内向けであるから対外戦争には持ってこられない。そこで戦争をせずに奸計を巡らして覇権の拡大や領土拡張を図るのだと見てとらねばなるまい。






posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする