2015年12月19日

人を虫けらのように扱う人間(2/2)


《2》
 11月19日に「清濁合わせ呑むべき社会」で書いたこととつながるのだが、官僚が創る社会、秀才が創る社会は一つの効率化社会を実現させる。正義はどこまでいっても正義であらねばならない、とする実に窮屈な見解がまかりとおる。罪を犯したものは裁判で刑を確定し、何年かムショにぶち込めばそれで終わり、処罰は終わる。
 出所したものへの手当てはほったらかし。

 それを裏社会が吸収してきたと書いておいたが、表社会を牛耳る官僚や超受験秀才は知らん顔だ。
 次の文章は評論家・西尾幹二氏が、平成5年に小和田雅子が天皇家に嫁いだときの感想である。

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 人と人の間にいろんな複合的な違いを際立たせる尺度があって、それが宿命として意識されているほうが個人は幸せだし、社会は安定する。能力主義の行き着く果ては不毛なんです。だけどつい能力主義は皇室にまで入ってしまったんですよ、こんど。これはまさに幸か不幸か、ひとつの大きな象徴的な出来事です。「効率と平等」の社会の最終帰結がついにきたんじゃないかと思うな。

 効率主義が皇室まで入ったという文明論的な意味づけというのを、われわれは今考える必要があると思いますね。皇室の幸せとは別個にして、そのことは国民的にはぼくはやっぱり不幸なことだと思いますよ。貴族階級がいない王制というのは世界史の過去に果たしてあったでしょうか。
 (『皇太子さまへの御忠言』WAC)


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 さらに西尾氏は、「一つの尺度で社会が画一化されるのは社会にとって不幸だというのが私の考えの基本にあった。一つの尺度が最も効率的に働くのが官僚社会である。雅子さんと父君が籍を置いてきた社会がそれで、皇室は成り立ちからいって水と油のようにまったくそれとは原理を異にしている」と述べていた。

 戦後、文部省(文科省)という官僚どもが教育をいじり、支配して来たから、テメエに都合のいい効率社会を作り、維持するために学校教育を行なってきた。それが受験勉強であり、その成功者がまた官僚に入って、いわば自分と同じロボットを創りつづける。

 落ちこぼれたやつはその効率主義的社会でトップを支えるなんらかの階層になるべく強いられる。こうされた恨みを現今の親たちは抱きながら、子供を学校に通わせるから学校の権威を子供に説くわけがない、となる。

 しかし戦前も、学歴社会があったにしても、またそれは必要ではあったが、例えば中学はエリートだけが進学し、それも5年制だから先輩が睨みをきかせていて思春期の子供が不良にならずに済み、最後の5年生のときだけ受験勉強をすれば良くて、それ以外はたっぷりと青春を謳歌して、さまざまな価値が世の中にはあることを学ぶことができた。

 話を大きく戻すと本稿のテーマは、人間のなかに、どうして人を人と思わぬような言動をするやつがいるのか、どうして人(後進の者)を虫ケラのように扱う人がいるのか、の疑問であった。
 それを生むのは現今の社会のありようにあるのではないかと、受験勉強とその成功者が君臨する現状を考えてみたのだ。

 一握りの受験社会の成功者は、官僚とか医者とか大学教授とかになって、ふんぞり返って自分より成績の悪かった者を見下す。だから横柄、傲慢、尊大、権柄ずく…となって人を虫ケラ扱いする。
 と同時に、その特権階級に一歩及ばなかっただけの連中は、劣等感、恨みを持つから常にイライラし、俺はこんなはずではないのだと鬱屈する。それが八つ当たりとなって、他人を虫ケラ扱いするのではないか。

 支那人は共産党幹部に昇りつめると、やはり人を人とも思わない人間になる。そしてやっぱりいつも不機嫌な顔をしている。笑っているようで目は決して笑わない。騙されまいと身構えているのだろうし、隙あらば相手を潰そうとしているからだろう。

 しかし支那は伝統的に科挙制度でやってきている。受験社会である。模範解答にあわせて自分のアタマを創っていく。そういうことに成功した者が社会を牛耳る。
 したがって、西尾氏が語るような多用な価値観を許し合う社会にはなっていなくて、常に人の優劣が受験的に創られた価値観で判断される社会である。

 だからある意味で、嘘をつこうが約束を踏みにじろうが、社会で決まっている価値観で優位に立てればすべて良しになるのだ。
 日本の受験生もそうだが、自分の人生を自分で決めて、社会の発展に寄与して、それが多様性を大事にする考えにつながるから、人を愛せるし友情の大切さもわかる人間になるべきが、他者のことなんかどうでもいい人間になるのである。

 アメリカ人も、厳しい受験社会だ、そのルートで落ちこぼれたら、食って行くのも大変で、軍に就職して危険な戦場に行って帰ってこなければ貧乏人は奨学金も手にできない。
 だからであろうが、常に他人を見下すし、黒人やヒスパニックや下層の人間を徹底してムシケラ扱いをやらかす。そうした価値にしがみついて、自分は人よりちょっとでも「上」に行きたいと思うのだ。

 またそうした価値観になじんだ若者が、あの感性の薄いアメリカに草木もなびくように移住していく。

 西尾幹二氏は日本は天皇がいるということは、西欧的あるいは支那的な社会に蔓延する効率や合理だけでは測れない価値があることを人間が承知している社会になっているからだと説いている。
 天皇になるのは男だけとか、彼らに人権はないことなどは不合理そのものではある。
 そうだろうと思う。だから日本社会は欧米や支那のようなギスギスした社会関係には(比較的)ならないで済んだのだろう。

 こうした日本の受験的価値が浸透した現状を変えなければ、日本はアメリカや支那が支配する世界で、常に後塵を拝しつつ、でも常にトップになれない悲哀を噛みしめ続けなければならなくなる。無理して彼らの土俵に上がって競争して、勝つやつもいるだろうが、それで日本人の幸福は踏みにじられていくのだ。ささいなことで他人を見下し、虫ケラのように扱う者ばかりになる。

 現在の皇太子とその女房が天皇皇后になったときが、日本の崩壊につながるだろう。






posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする