2015年12月28日

夫婦同姓は民族の知恵


 世間で言う良い学校、一流の学校(中学、高校、大学)に入った人、あるいはそこで成績優秀だった人、そして一流企業に入社したり医師や弁護士になったりした人は、自他ともにアタマが良いということになっている。
 ものを覚えたり、ある程度考えたりできる能力がアタマの良さの指標の一つとされること自体は、そう間違いではなかろう。

 しかし、何度も本ブログで説いてきたように、学業成績の良し悪しは、すでに出されている答えを模範解答そのままに覚えて、答えられる程度の話であって、刻々と運動し、変わっている自然や社会、それを対象とするにあたって、自力で考えて答えを見出そうとする頭脳活動とは関連がない。
 関連がないどころか、運動変化する対象をそれとして捉えることができる頭脳の質が身に付かなくなる。

 地球温暖化と言われると、手も無く信じこまされるのがこうした学業第一で育った人間だ。

 12月13日付毎日新聞に、夫婦別姓(別氏というべきだが)にするのが世界の流れであって、夫婦を同一姓にしているのは日本だけ、と日本文化を遅れているものとし、“因習”を嘲る記事が載った。
 新聞社に入る人間は、学業面では優秀と見なされて合格して記者になっているわけだが、これはサヨクのいわゆる「人権」とか「西洋社会が進んでいる」とか「民主主義」とか「男女平等」とかの模範解答に沿ってしか答えが出せないアタマになり切っていることの顕われである。

 「人権」や「男女平等」のようなサヨク好みの概念を絶対視してしまうようになる。人権にもいろいろあるよとか、男女平等ではまずいこともあるでしょう、なんてことが絶対に認められないガチガチのアタマになっていくのが受験秀才の末路である。
 夫婦同姓は、長い年月で醸成されてきた民族の叡智である。蓮っ葉な女がテメエの都合で夫婦別姓にしろというのは、傲慢で身勝手すぎる。他人を巻き込むな。

 夫婦同姓こそが世界レベルでは日本が最先端の優れた婚姻制度だとは、まったく考えもしないガチガチの四角いアタマなのである。むしろ日本の制度のほうが、人間は幸せかもしれない、これからは世界が日本を見倣うと考える実力が、学業優秀者にはない。

 こんなことを40歳すぎた人間にいくら説いても無駄である。
 なぜかならば、40歳過ぎたら論理的なアタマになるべきが、学業優秀者はそれが転換できないと言われるからだ。秀才ほどそれで成功してきたから、変えられない。
 よく学業優秀だった人から私のブログは非難される。世間の常識と違うことを言う、といって。お前は世間の物笑いになっているとか「とんでも説」を書いていますねと揶揄する、あるいは心配してくださる方がいる。

 落語の「一つ目の国(一眼国)」みたいな案配である。
 ガリレオの故事があるでしょう、世間がみんな天動説のなか、一人地動説を唱えれば排斥されるものだ。私は気にしない。

 若いうちは論理性は身に付かない。それだけに、認識は柔軟でいかようにも変わり得る。40歳くらいから変われなくなる。頑固になる。つまり大抵は、学業で創ったアタマでのみ考えることだけが正しいと頑に思い込み、で、終生変わらない。

 私事をいえば、幸運なことに、40代前に空手に入門し、初段の身を顧みずに本部に入れていただいて、厳しいしごきでアタマを変えていただくことができた。年齢的に最後のチャンスだった。
 むろん私ごときはたいしたことはないのだが、それでも若いころの私自身と比べれば、40歳で論理的なアタマになる切り替えに成功することができたのである。

 だが、人間の一般性でいうならば、中学・高校で論理性を叩きこむ必要がある。なのに、現今の学校制度では、受験勉強ばかりである。論理性を学ばない。

 本ブログで何度も引用した南ク継正先生の教育に関する「小論」である。

     *       *       *

 「現今の若人、とくに高校生に欠けているものが二つある。一つは〈大いなる志〉であり、一つは〈論理能力〉である。いうまでもなく、前者は自己の人生の大いさのかなめとなるものであり、後者は己が対象とする事物のもつ構造=性質を、いかばかりにか論理的に究明して一般化しうるかの能力である。この二つをもちうるべく努めることが、若人にとって歴史性をもって人生に挑める大前提である。

 そもそも高校時代は人生の過程中、本来もっとも多感な時期である。それだけに各人が自由に己が未来を描き、あたかも己れが世界を創造しうるかのごとき意気軒昂さがあってよい。だが大ていはそうはならない。いったいなぜか。端的には教育の場に欠けるからである。

 本質的にいって人間はすべてにわたって教育されてはじめて〈人間〉となりうるのであり、ここに動物との類的区別が存在する。志も論理も直観にまかせてはまともに育つわけはなく、落ち行く先は小人的君子である。

 それゆえ論理能力は無理としても、せめて大志をまともに育む基盤くらいはほしい。それに役立つのが、「個としての大いなる生きざまを描いた文学」であり。こまかい事象に囚われない「壮大な人類の流れを説いた歴史」である。しかしながらこれすら見事に与えうる教師を必要としよう。
 昔日の我々と同様に、今も見事な〈その人〉が存在するはずだと思うのは、これは〈見果てぬ夢〉なのであろうか。

     *      *      *

 ここに高らかに述べられているごとく、「若人にとって歴史性をもって人生に挑める」ためにこそ、勉強はしなければならないのである。受験で成功するためだけではないぞ、と。

 この小論を『武道への道』で読んだときは、感動でうち震えたものだった。若い時に出あって良かった。40過ぎたら、もう感動はできまい。ただ、「そういう意見があるの、そう…立派ね」と感慨をもらすのみになる。

 話をもう一歩進める。
 受験勉強は「変化」を扱わない。例えばCOP21で話し合われパリ協定として結ばれたものでは、温室ガスを抑えて地球温暖化は2度以内に収めるそうだが、こんな馬鹿げた形而上学的思考はない。
 しかし、受験ではこのことだけを覚える。試験で、COP21で決められたことは何かと問われて、答えるだけの能力が試されるだけだ。

 地球の温暖化とはどこの場所のことかとか、地球の平均気温なんてどうやって測るんだとかの疑問を持てば、対象の変化に着目することになり、弁証法的アタマになりうるが、それでは受験では失敗する。

 同様に、そうした受験の成功者が、自然科学や社会科学の専門分野の研究者に進む、もしくはそういう教養を維持する人間になっていく。
 既存の自然科学や社会科学は、知識となっている。ほとんど固定化している。運動しているとか変化発展しているとかでは捉えられない。捉えようと言うアタマにならない。
 秀才が集う新聞もテレビも官僚もみんなアタマが固くなるが、それで良いと思い込む。

 しかし、仮に子育てに関わるとすると、赤ん坊とは日々成長して行く存在である。運動が強烈にある。弁証法性が強烈にあるということだ。
 変わって変わって変わり抜く、が、赤ん坊だ。既存の自然科学や社会科学の知識はそんなことはない。せいぜい成るがままになる、でしかない。

 だから主としてお母さんが赤ん坊に関わる、世話をすることは、反映が強烈になる。すさまじい運動の最中、素晴らしい発展自体を実感して(反映して)自分のアタマの活動も生き生きとするようになる。
 空手の指導も、同様に弟子が刻々と変化発展するのを実感することになり、自分の脳細胞の柔軟性が得られる。

 赤ん坊とか、空手の弟子の指導とか、問いかければ変わってくれる対象が持てると、弁証法の修得に有効であり、自分のアタマが弁証法性を帯びる。
 そこを心して、気持ちを込めて、対象に働きかけ続けることが、本当のアタマが良くなっていく道である。

 それを「若人」のうちに修得すべく努めなさいというのが、先の南ク継正先生の小論の趣旨のひとつなのだ。
 
 以前、本ブログでNHKのアニメ『精霊の守り人』(上橋菜穂子原作)の中の、短槍の使い方が見事で参考になるという話を書いたら、ある文科省の暇人がイチャモンをつけてきて、短槍はあのアニメのようには扱えない構造になっている、お前はバカかと言ってきた。

 「どのように参考になったか」とも書いていないのに、勝手に騒いできた。
 参考になることはいろいろあるが、一つにはアニメ『精霊の守り人』を子供の心で、ワクワクしながら見ることである。それが出来れば、物語なんだから多少の誇張や嘘があったって構わないのだ。
 自分の今の年齢で『精霊の守り人』を見れば、しょせんアニメなんだし、間違いだらけになるだろう。しかし小学生になってみて『精霊の守り人』にワクワクすることが大事だとは、受験秀才にはとうてい解り得ない。

 11月26日付けの本ブログ「さりげない写真にも感動」で書いたように、幼児のどうってことない写真にも、感動できるココロをたいていの40過ぎの人は持てなくなっている。
 それでは弁証法は分かるようにならないし、論理が分かるアタマにもなりようがない。つまりアタマが悪くなったのである。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(4) | エッセイ | 更新情報をチェックする