2015年12月29日

『ラウンダーズ』に学ぶ国際政治(1/2)


《1》
 『ラウンダーズ』1998年アメリカの映画。なかなか見応えがあった。ラウンダーズ(Rounders)とは勝負師たちの意味で、ポーカーの映画である。
 舞台はニューヨーク。主人公のマイク(マット・デイモン)は、学費をポーカーで稼ぐロースクールの学生。稼ぎがいいので、美人の同級生と豪華なマンションで暮らしている。

 マイクはプロだが、素人相手にレートの低い賭けをやって、大勝ちはないが確実に少しずつ捲き上げて地道に賭け事師として暮らしていた。ところがどうしても大勝負して一発ドカンと当てたい欲求があたまをもたげてくる。

 マイクは、全財産を賭けた勝負に負けてしまい、一度は足を洗う決心をするが、刑務所に入っていた親友でイカサマ賭博師のワーム(エドワード・ノートン)が出所してくると彼の誘いで、またもやポーカーの世界へひきずりこまれてしまう…。
 ポーカーから足を洗えば美しい恋人との暮らしや弁護士になれる…と将来を保障されたにもかかわらず、ポーカーの魔力から逃れられず、結局恋人に去られ、ワームが背負った借金の保証人になったことからロシアマフィアに借金の清算を迫られ命も危うくなる。

 この映画の教訓は、表向きはやはり賭け事はいっさい関わるなということであり、素人はしょせんプロとは勝負してはいけないことがよくわかる。プロはイカサマしなくても、相手の表情・しぐさなどから癖を見抜く。脅したり動揺させたり自惚れさせたりして、すべてお見通し。良いようにあしらわれる。

 映画の冒頭、「勝負をはじめて30分でカモをみつけられなければ、自分がカモにされる」とナレーションが入る。恐ろしい世界がこの映画で始まることを予感させる。

 ポーカーといえば、わが敬愛していた林秀彦氏が『日本を捨てて、日本を知った』(草思社)にこう書いてあった。

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 私は自慢ではなく、本当にポーカー賭博の天才である。
 シナリオ書きに絶望してオーストラリアに移住する前の数年間、収入はポーカーだけに頼っていたし、結構な実入りだった。その間、大勝負で負けたのはただの1回だけ、相手は鈴木輝彦というプロの将棋指し七段だけだった。

 彼は二晩の徹夜のあと、散々に私を打ちのめした挙句、「林さんに勝つなど、いとも簡単だ」とヌカした。
 なぜかと訊くと、もしもう二度と自分と勝負しないならば、その秘密を明かすと言った。その条件を承知した後に彼のしてくれた秘密の解説は、私の想像を絶するものだった。

 それによると、私がブラフ、つまりハッタリをするとき、あぐらをかいている右足の親指が硬直しているのに対し、本当に良い「手」を持っているときは、その親指が微妙に細かく動く、というのである。だから彼は四十八時間の勝負の間、ずっと私の右足の親指だけに観察を集中し、それが硬直しているとき、どんどん掛金を積み上げたというわけだ。

 げにプロの将棋指しとは恐ろしいもので、後に私は、彼の観察が正しいことを知った。確かに私の足の親指は動いていた。つまり私は、勝負の最中、ずっと自分の手のうちを彼にさらけだしていたのである。これでは勝てるはずがない。
 賭博とか勝負というものは、そういうものなのだ。

 そしてまた、政治とは為政者と国民の間で開帳する賭博であり、国家間の駆け引きもまた賭博である。特に国際政治の場は生き馬の目を抜くような巨大カジノ、一大賭博状なのである。
 この足指の動きのようなヘマは、開国して以来、日本が諸外国にとり続けた外交である。

 日米修好条約からはじまり、大東亜戦争の初めから終わりまで、スパイ活動の優劣や暗号解読、またその後の円相場やバブル経済にいたるまで、まったく同じ撤を踏み続けているのである。

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 林さんが言うとおり、このポーカー映画からは、賭け事一般に対する教訓だけではなく、「これが世界だ」としみじみ分からされる。
 これが政治だ!でもいいし、これが経済だ、商売、銀行、商社、官庁…などいろいろに当てはまる。
 例えば、日本の多くの企業が愚かにも支那に投資したり工場進出したりした。

 支那人一般は言ってみれば麻雀のプロであって、素人のまじめな客である日本人はいいカモでしかない。だから平気で支那事変では一度も勝てなくても、ブラフででっち上げた「南京大虐殺」で日本からODAやら工業技術やらをむしりとった。平気でイカサマ賭博をやる。
 日本の政治家、官僚、マスゴミ記者、有識者にハニートラップをかけ、カネで買収することなど当たり前だ。

 支那人ばかりではない、アメリカ人も、イギリス人も、韓国人も、みんな「バクチのプロ」と思わなければいけない。プロはお遊びや善意とは無縁だ。素人から捲き上げることで生活している。

 在日がやっているパチンコがいい例である。アホな素人の日本人から捲き上げている。

 林秀彦さんは、『ジャパン、ザ・ビューティフル』のなかでこう書いている。
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 例えばオーストラリアに将棋を普及させたくて、下手を承知で村人などに教えているが、彼らの負けっぷりの悪さには辟易する。負け惜しみというものの次元が、日本人のそれとまったく違っていることを実感する。とても初心者が「師匠」に示す態度ではない。日本人同士だったらぶん殴るところだが、少しでも日本文化を伝えるためと我慢する。そんなとき、彼らの嫉妬文明を肌で強く感じる。

 なんと6枚落ちで負けていながら、こっちの指し手に文句をつけ、自分の負けた理由をそこに転嫁するのである。「おれが負けたのはお前のせいだ」という嫉妬論法だ。負け方も文化なのである。

 あの昭和二十年八月十五日のわれわれは、負けっぷりがよすぎた。戦勝国に対して、もっとしつこく嫉妬すればよかったのだ。それをマッカーサーの「日本人は十二歳説」を唯々諾々と受け入れてヤニ下がっていた。

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 そのとおり、日本人とそれ以外では、人間の質がちがう。
 また、先のサヨクによる安保法制の騒動についてだが、そのノー天気ぶりにはあきれ果てたものだった。
 サヨク護憲派どもは、アメリカは信用できないが、ロシア、支那、韓国朝鮮は信用できると思っているようだ。
 あるいは憲法さえ掲げていたら、他国はそれを尊重してくれると思い込んでいる。

 パチンコ屋や競馬などは、ツキさえあれば勝てると思い込んでいるアホと同様である。
 もしくはポーカーでいえば、素人がプロを相手に、「いかさましないでね」「かもらないでね」と言っているようなものだ。あり得ない。

 私は終始、ロシア、支那、韓国朝鮮、それにアメリカも信用ならぬと言ってきたのだ。アメリカとの同盟はまったく信用できないが、やむを得ない措置であると説いてきた。信用ならないが、同じテーブルについてゲームをやらないわけにはいかない。だから勝つためには嫌いな奴とか、ゴロツキとか、貧民とかとも組んで、まことにしんどい駆け引きをやっていくしかない。

 アメリカは、ロシアや支那などと同じゴロツキであるが、ポーカーに譬えれば現在の“場”では、支那や韓国にかもられないために、注意しながら組むしかないのである。アメリカもとりあえずは日本と組んでいる方が有利だからそうしているだけで、いつだって日本をかもろうとしているに決まっている。

 決して友だちなんかじゃない。実際、3・11の後、アメリカは空母レーガンを東北に寄せてきて、米兵に救助をさせた。「ともだち作戦」と言って、良い顔を見せたが、あとになってその費用を日本に請求してきた。そういうずるい連中である。

 オバマや安倍はダメだけれど、プーチンや習近平なら大丈夫、なんてことはまったくないのに、ポーカーの素人並みに、あいつらを信用してしまう。軍隊を持たなければ侵略されないはずなどとボケたまま。
 ポーカーならば、嫌ならやらなければいいけれど、実際の国際政治の場では、参加せざるを得ないのである。
 だから端的にはわれわれも賢くなり、プロにならなければいけない。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする