2016年01月30日

天皇はん、なんのためにフィリピンへ?

 
 私は日本人として、天皇は大事にしていいと思っている。詳しい事はまた別の機会に述べるとして…。
 しかし、幕末に孝明天皇が伊藤博文に暗殺され、幼かった本物の明治天皇も相次いで暗殺され、長州から氏素の怪しい大室寅之祐を連れてきて入れ替えたことを知るので、とうてい現今の皇室を敬う気持ちにはなれない。

 まして昭和天皇は、戦争責任から逃げ、東条英機ら陸軍幹部に責任をおっかぶせて、ずるを決め込んだ男なので、軽蔑している。
 現今の天皇皇后、皇太子と雅子には強い不信感がある。雅子の乱行を誰も止めない。みんなサヨク自虐史観に汚染されている。そんなこんなで、尊称「陛下」を付ける気にはなれない。

 天皇がフィリピンを訪問した。出発に当たっての「おことば」なるものが1月26日に報道された。
 そのキモとなる部分は、「フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています」であろう。

 微妙な言い方である。差し障りがないよう表現してはいるが、なぜわざわざ、マニラ市街戦のことを持ち出してきたのか。しかも、日本人戦没者の慰霊に行くのに、「フィリピン人、米国人、日本人の…」ときたもんだ。なんだこの順番は。同胞を最後にもってくる。これはへりくだりではなく、天皇にフィリピンで日本軍が悪い事をしたとの意識があるからだろう。

 マニラ市街戦で多くの死傷者が出たことは事実である。だがそれはアメリカ軍が悪い。非戦闘員が市内にいるのに、空爆を仕掛け総攻撃をかけたからだ。日本人、フィリピン人を人種差別したからだ。
 本来、戦争をするときは、大都市の場合は避けるか、攻撃側が事前通告して非戦闘員を避難させるよう勧告するものだ。

 南京戦では、日本軍が攻撃前に勧告したので、南京市民は非武装地帯に逃げ込んでいた。戦争は戦闘員だけで決着をつけるというルールがあった。なのに蒋介石軍は南京で指揮官が逃げ出し、統括ができなくなっていた。逃げる兵士を督戦隊が待ち構えていて殺したから、末端の兵は南京市民の中に逃げ込んだので、混乱を引き起こした。

 話を戻すと、マニラの「無辜のフィリピン市民」の死亡の9割は米軍の無差別爆撃によると言われる。
 なのに、戦後、アメリカは日本軍に責任を押し付けてきた。「マニラ大虐殺」なる大嘘をついて、空爆の責任を日本軍になすりつけた。

 日本軍は、陸軍は撤収してマニラを「無防備都市」宣言をする予定だったのに、海軍陸戦隊が逆らって陸軍の一部を引き込んでマニラを主戦場にした。だから責任は海軍にある。なのに、帝国海軍からは戦犯は出ていない。海軍が裏切って、戦後に日本に汚名を着せる策謀だったと見られる。

 戦後、米軍は普通の戦闘行動を行なっていた日本軍将兵を、報復のために戦犯にして処刑した。
 フィリピンといえば、私は渡邊はま子が歌った「ああモンテンルパの夜は更けて」を思い出す。ご存じない方はググってください。涙なしには聴けない歌だ。あの歌の重さに比べて、天皇の「おことば」の軽いことよ。3日ももたずに忘れられる。
 さすが天皇だ、歴史に残る名演説だと言わせるものを語ってみろ。

 大東亜戦争初期に日本軍に完敗した米軍が報復として、戦犯をでっち上げ、「バターン死の行進」をでっち上げ、マニラ市街戦をでっち上げた。それによって、米軍はフィリピンの再植民地化をやりやすくした。フィリピンは日本軍によっていったんは独立を果たしていたのに、それを踏みにじるために日本軍の「戦争犯罪」を大々的に宣伝した。

 本来なら、日本軍の将兵たちは「天皇のために死んだ」のであるから、今上天皇が慰霊にフィリピン訪問をすることは、52万弱といわれる英霊は喜んでいてもいいであろうが、いくら何でもマニラ市街戦の罪をなすり付けられてきた無念を、いくらかでも天皇が晴らしてくれるなら…であろうが、さて、どんな思いでいるのだろう。

 そもそも天皇と皇后は靖国神社の参拝をさぼり続けている。なのに、昨年はパラオに、今度はフィリピンに慰霊の旅に出るとは、なんたる英霊への侮辱だろう。
 靖国参拝は差し障りがあるが、南の島ならいいとはどういう理屈か。これは明白に政治介入である。
 54年ぶりに再訪できたとはしゃいでいるが、国民の税金をそんなことに使っていいのか。

 老骨にむち打って厳寒の東京から酷暑のフィリピンに行く事はなかろうに…。行けば天皇が「おことば」で言ったように、マニラ市街戦の米軍の嘘がまたクローズアップされ、事実と異なる「大虐殺」の汚名が蒸し返されてしまう。
 靖国には行かないが、アメリカの「ド嘘」を糊塗するためなら、喜んで出かけるとは。

 ブログ「BBの覚醒記録」に述べてあったが、皇后はなんでいつも天皇にべったりくっついて、肘を摑んでまるで互いによろけないよう支え合っているようだ。良い年こいて、みっともないからやめろよ婆さん。
 私の嫌いなヒロヒトでさえ、良子とそんなにイチャイチャしたところは見せなかった。

 「BB覚醒記録」氏が説くことはごもっともだ。パラオではわざわざ海上保安庁の巡視艇を現地に行かせ、船内を自分たちの都合で快適になるよう改修させたのは宜しくない。今度のマニラでも同じ「あきつしま」をマニラ湾に出張させている。
 美智子が妙な皿みたいな帽子を、ゴムひもで留めてかぶるのもおかしいし、十字架のアクセサリーをつけるのも非常識。皇后のくせに天皇と並んで立ち(半歩下がれ!)、手をふるときも天皇と同じ高さで振る(手の位置は控え目に!)、…この図々しさ。

 それに、フィリピンでの様子をじっと観察すると、天皇はかなり挙動不審である。失礼ながらボケが始まっている様子だ。それを美智子が必死に隠そうと気を配っているふうだ。
 あんな猫背になってよぼよぼの天皇を、世界の報道にさらしていいわけはあるまいに。一刻も早く秋篠宮殿下に禅譲すべきである。





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2016年01月29日

篠原勝之の小説『骨風』を酷評する


 どこだか忘れたがあるブログで、篠原勝之の小説『骨風』(文藝春秋社)を絶賛していたので、うっかり買って読んでしまった。古書だけど。
 篠原勝之と言われても誰かわからなかったが、しばらくして、自称「ゲージツカ」で、愛称「クマさん」として、よくテレビに出ていたのを思いだした。ハゲ頭で、だらしない格好をしていた。

 そうとわかっていたら買わなかったのに、しくじった。
 8編の短編集で、私小説であった。2作品だけさらっと読んで棄てた。「畢生の連作集」とはよくも言ったもんだ。

 子供の頃にずっと父親に殴られっぱなしで、恐怖にうち震えていたそうだ。母親も全然止めに入ってくれない。ついに17歳で北海道から家出して上京する。
 そしてお定まりの、挫折、家族解散、借金返済の自転車操業。老いてなお身勝手。自分の感情だけでつくる鉄屑を使った「彫刻」。

 アマゾンのブックレビューを覗くと、褒めちぎった言葉が羅列してある。
 「過剰な修飾を削ぎ落した言葉で淡々と刻まれていく。読み終えた時、言葉がずっしりと持ち重りする」
 「眼からそのままこぼれ出したような無垢な言葉は、勢いと、強さと、繊細さをにじませて着地する」
 「ヒトの痛み・哀しみ・無常を見つめる『オレ』の眼差しは、最後の一行まで揺るがない」

 「副題『死んだらみんなおんなじだもの』にあるように、強く家族、死、病、送った者たち、送られた者たちを意識した連作」
 「ストーリーテーラーとして一級であることは何度も書いたが、改めて人の心の機微に入る繊細な洞察には唸ってしまう」
 「作者のクマさんはきっと繊細で優しい方なんだろうと思いました。なかなか厳しい現実を乗り越えてこられた内容なのに押しつけがましくなく、逆に優しさやせつなさがじんわりしみてきました」

 …と、こうなのだ。先にこうした評を読んでおけば、買わずに済んだものをと後悔する。もしかしてこれらは、版元の編集者が読者のふりして書き込んだのか?
 本邦で出版社が公刊している私小説は、おしなべてこんなものである。くだらない生き方をしてきた人間が、手慣れた筆のさばきで、「優しさ」を基軸に、読者の共感を得るべくしたためたものである。

 「それがどうしたんだ?」とおもわず愚痴が出る。
 「死んだらみんなおんなじだもの」が副題だそうだが、その低度のことしか言っていない。なのに褒めちぎる人の気持ちがわからん。
 死んだらみんな同じではない。篠原よ、では尋ねるが、お前の両親と歴史に名を残した偉人と同じか? 同じと思っているから、おぬしも低レベルの人間で終わるのだ。

 篠原の小説は破滅型小説である。
 破滅型とは、伊藤整氏が『近代日本人の発想の諸形式』で分類してみせた作家の傾向の一つで、遅くとも中年までにくたばった自堕落な作家が「破滅型」、老年まで生きた常識的な作家が「調和型」と説いている。

 篠原勝之の場合は、定職にも付かず、結婚生活もデタラメ、自分が苦しんだ父親からの暴力なのに息子にも同じ暴力をふるってしまう、で、勝手にゲージツカと称して自堕落そのものだから破滅型の典型だ。ただ老人になるまで生きた。
 そして白痴テレビ番組には喜んで出た。

 今にいたるも出版界は、こんなどうでもいい破滅型の小説を称揚して本にするのか。進歩がないねえ。だから文学の世界が見捨てられるのに。
 ちなみに「ヒトの痛み・哀しみ・無常を見つめる『オレ』の眼差し」を褒めているご仁がいるけれど、そういう小説は飽きあきした。
 
 ヒトの痛み、哀しみ、無常を「見つめて」…だからなんなんだ?
 それに共感する軟弱な文学青年は多かろうが、これは言うなれば車椅子に乗る怠け者に同情するようなものである。
 事故で両脚を失った人ならともかく、車椅子に乗っているのはたいてい怠け者である。がんばって歩けよ。ヒトが同情するから車椅子から降りないんだろうが。

 ヒトの痛み、哀しみ、無常を「見つめ」るのではなしに、どう克服したか、努力したか、を書くのがまともな人間のありようである。
 例えば映画『奇跡の人』を観なさいよ。三重苦のヘレン・ケラーをサリバン先生がいかに立ち直らせたかが描かれている。壮絶な努力、対象への探求と働きかけ、燃え上がる情熱、鉄の志。みごとではないか。
 篠原の小説にあるような、苦しみに寄り添って「見つめる」なんてことはバカのやることだ。

 幼少期に父親の暴力で苦しみ、大人になってもそのトラウマを引きずるのに、同情して、寄り添って、何になるんだ?
 そんなことを小説に書いて、同情を呼ぶなんて、作者と読者の傷の舐め合いでしかない。
 繊細であるのも、優しいのも結構だが、それだけって何? そんなことを筆の冴えで読ませたって意味はない。

 YouTube動画で見たが、漫才師「米粒写経」の居島一平が、最近の小説はなんでもトラウマがどうしたというありきたりの設定で話をつくったものばかりだと嘆いていた。どうもそうらしい。日本では映画やドラマでは、子供の時のトラウマが原因で、鬱になったの、人を愛せないだの、殺しちゃっただのというストーリが多い気がする。

 実に安直な物語の設定である。篠原の『骨風』もその流れである。親に虐待されたせいで、それがトラウマになって人生がうまく行かない、けれどダメ自分や捨て猫などへの眼差しは優しい、っていうわけだ。
 
 問題や障害は克服するか解決する以外に道はないのに、ダメ自分を認めてくれとする道がわが国には藝術と認められるのは異常である。日本だけではなく世界中にそのみっともない性向がないではないが、それが宗教にすがるありようである。ダメ自分をそれでも誰かに認めてほしいだけ。問題を努力して解決するのではなく、問題から逃げることで解決を図ろうとするするやりかただ。

 日本では宗教ばかりでなく、小説やドラマなどで、ダメ人間礼賛が猖獗をきわめ続けるのは、やはりどこかおかしい。
 自分だけが傷ついているふうな小説やドラマ。テメエのダメ人間ぶりで他人こそが傷ついているなど思いもしない。
 まったくいじましいったらない。

 先日書いたが、事故や事件で非業の死を遂げた人に、ただ「悲しみを共有する」だけで、自分を良い子ぶっていて、原因や対策を科学的に追及することを怠けている輩と同じである。
 こんなどうでもいいトラウマに捕われている自分が哀れで、かわいいとしている人間が、憲法9条は守ろうと抜かす。戦争のトラウマ? 悲しみ? それで傷つきたくないって?

 幼少期のトラウマに苦しめられているのなら、他人に(自分自身にも)ただ寄り添って見つめてもらうのではいけない。トラウマとは何かを認識学に学んで正体をつかめばいい。認識学を学ぼうとしない怠け者のくせに、利いた風なことを言うんじゃない。

 篠原の場合は、幼少期の父親の理不尽な暴力と母親の無能は気の毒ではあったが、それによって、食事がまともにならず、社会的認識も育たず、人への怯えと恐怖ばかりが反映して量質転化し、思春期でいっそう歪み、志も持てぬままに親から逃げ出した。
 逃げたのは正解あったろうが、どうやって立ち直るかがなかった。
 師たる人間に師事することもなく、勝手に生き、レベルの低いダメ友だちとばかり交流した。だから17歳以降は自分の責任である。

 子供の時から大人になっても、ろくな食事をしていないようだ。それによって脳(実体)がいかほどか歪むか、まともな思考ができなくなるかを反省すればいいのに、みずからを「ゲージツカ」とわざわざ蔑称してみせてきた。そうなった経緯の論理的解明を放棄している。

 哀れだねえ。



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2016年01月28日

刑事コロンボから学ぶもの


  「刑事コロンボ」は、ややお年を召した人なら知らない人はあるまい。
 コロンボ役を長年やったピーター・フォークは、あのよれよれの着古したレインコートを自ら発案して着用したそうだ。演技だけでなく、ドラマ全体を見てとる優れた俳優としての実力を思い知らされる。

 さっそうとしたイケメンの刑事ならいくらでもドラマや映画でいるが、ああいう見た目風采のあがらない刑事に仕立てたことも大ヒットの要因の一つだったのだろう。
 「刑事コロンボ」シリーズは面白かったが、いったん終わってまた始められた「新・刑事コロンボ」は質が悪くなった。

 さて。
 刑事コロンボはなぜあのよれよれのレインコートを着ているのだろうか、が今日のテーマである。そりゃあレインコートもクルマも新調できないほど貧乏だという設定だからだ、あるいは、着るものに無頓着なんだろう、とするのが常識的答えだが、それでは話題にならない。
 また、あの貧乏たらしい格好でのこのこ犯人の前に登場するから、犯人のほうが侮り、油断してしまうことも狙っているようだ。

 しかしながら。
 あのレインコートの意味とは、コロンボがいわば「初心を忘れないため」これであろうと私は想察している。
 コロンボの推理能力は卓越している。もちろんドラマの話だが、現実だと思っていただきたい。
 服装に頓着するいとまもなく、事件の推理に没頭するから、とも言えるだろう。

 殺人課の刑事はコロンボにとっては天職である。超一流の刑事として事件を解決するために、彼は己れをむなしゅうして、ただ刑事に憧れて、ささいな証拠や矛盾点を見逃すまいと没入する。
 その認識の技化が、一流の刑事として必須であることを彼は悟ったのだ。

 あのくたびれきった、これから捜査のなかでどう汚れても構わないレインコート。その服装に身を委ねて、他人がレインコートを新調しなさいよと勧めても意に介さない。刑事としての推理能力が技化するまで止めない。一流の刑事になってもなお止めない。そこに頑固一徹がある。

 たいていの人は、服装なんてどうでもいい。古くなったらみっともないし、給与もあがったら新調しようと思うだろう。しかしそれに甘えると、推理能力の技化、その量質転化が遅れる。
 服装くらいいいじゃないか、と凡人は考える。服を替えても推理力は維持できるという自信があるからだ。

 たしかにそういえる。私も個人的にはもうちょっとこざっぱりした服装で仕事すべきとは思うが、今はあのドラマから得る教訓のことを述べているのだ。

 服装は替えても捜査力は変わらないとの思いは、認識論的に説けば、自分の思いが強いのだ。だから服装を替えても大丈夫と思う。それでは量質転化に失敗する。
 役柄のコロンボは自信がなかった。アメリカ社会では差別されがちなイタリア系で、落ちこぼれが就職する警察に入り、人が嫌がる殺しの現場に行かされる。すべての関係者に対して強い疑いの目を向けるので嫌われる。しかも背は低い方で、イケメンじゃない。

 強い劣等感があったはずだ。その劣等感をバネに、コロンボは執念深く犯人を追い詰めて行く。彼は自信がない男なのだ。だから自分の思いを先行させずに、対象をくどいまでに調べ尽くそうとした。
 だが、長年捜査をやってくれば、おれはバカじゃない、推理力は一級だと自信が出て来るのは避けられまい。そうすると自信がないゆえにがんばって捜査しようとして初心を忘れてしまい、例えば鑑識に任せきりにしたり、後輩刑事に聞き込みを任せたりして、自分はアンカー的立場に君臨していく。

 そういう立場になっていけば、給与も地位もあがって、いい服装に身をつつむこともできるようになる。それをあえてコロンボはしないで、現場主義を貫き、服装に頓着しないキャラを維持するのだ。

 コロンボを演じたピーター・フォーク自身は、父親がロシア系ユダヤ人、母はポーランド・チェコ・ハンガリー系ユダヤ人である。マイノリティーである。右目は義眼を入れているのは良く知られている。そうしたハンディがあったから二枚目俳優ではなく、演技力で勝負する俳優になった。コロンボ役はそういう自己を投影しやすい役柄だったことも、大ヒットの要件になったのだろう。

 こう捉えるのは深読みし過ぎではあろう。「刑事コロンボ」は藝術作品ではなくテレビドラマであって、エンターテインメントである。面白ければいいとして、制作者たちはコロンボのキャラを作っているのだろう。
 しかし、私たちが対象を高みにおいて捉えるとは、こういうことを言うのだと思う。

 コロンボの仕事への打ち込み方、生きざまは、弁証法的に言うならば徹底した量質転化化を図るために、たとえよれよれ、くたくたになっても初心のときの服装を変えないということである。あのレインコートに穴があいてさすがに着られなくなったら、彼はきっとまた同じような安物のレインコートを着るに違いないのである。

 捜査能力、推理能力、犯人追及の執念といったものを量質転化させる、それを量質転化するまで止めない、量質転化してもなお止めない。己れをむなしゅうして続ける。その一つのアイテムがレインコートなのだ。だから、「また頑張ろう」となる。
 そして、劣等感の固まりだったコロンボは、見事量質転化して、劣等という“質”を、継続することの量の積み重ねによって、切れる推理力という“質”に変えることに成功した。

 だが、たいていは、係長になり課長になり部長になり…と評価されていき、地位もあがっていくと、そういう量質転化化への強い意志は薄れていく。

 よくスポーツ選手とか藝術家とかで、まだ売れないころ、無名だったころの気持ち(謙虚さや飢餓感や志)を忘れないために、そのころの何かアイテムを持ち続けるとか、部屋に飾っておくとか、そんなエピソードを聞くことがあるだろう。コロンボの服装はそれと同じだと私は捉えた。

 ところで。
「私淑」という熟語がある。尊敬する人に直接には教えが受けられないが、その人を模範として慕い、学ぶことという意味で、肝心なことは「良いと思い慕う」である。
 「良いと思い慕う」には、コロンボ刑事のようでなければダメだと思う。

 師たる人に直接教えを受けられなくても(私淑)、また幸運にも直接受けられても(師事)、学ぶとか、自己研鑽するという場合に、コロンボのようなありようは基本なのである。
 「師事」とは「師とする」と「事(つか)える」の意味であるにも関わらず、「仕える」がたいていは忘れられる。

 本稿は1月11日にアップした「人生での成功の秘訣」で説いたことにつながっている。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/432370694.html
 あるいは「鬼の指導を受けられる幸運」で紹介した、チェロの指導者ハーヴィー・シャピローの話につながる。

 何事でも成功するには、これと決めた師と出合うことであり、師を絶対視して、身を委ね、いかなる理不尽にも耐えて師を慕い続け、仕え続けなければならないのである。
 だが、たいていの人はそうはならないと説いた。

 コロンボのようにいつも同じレインコートを着続けるなんて「愚かな」ことはしない。
 つまり、あっちの先生の良いところ、こっちの言説の追いところを取り入れようとする。

 譬えていうなら、ランチは必ず決まったカレー屋に言って、必ず同じカツカレーを注文し、それ以外は絶対に食べないなんてことはしないで、たいていの人は今日はあっちのラーメン、明日はむこうのナポリタンと渡り歩くようなものである。
 しかし私淑するなら、または師事するなら、なにがあろうとランチはカツカレーと決めて浮気はしない、という覚悟が必須だと、私は言っているのだ。

 拙ブログにも、もっと人の意見を受け入れろとか、南郷学派以外の識見も勉強しろとか、ああせいこうせいと押し付けがましく言ってくる輩がいるが、本稿のコロンボ刑事の例で述べたように、私の生きざまとしては受け入れないのである。
 多くの人は、自分の思いを先行させてしまう。しかし私はそうはしたくない。師ならこの場合どうするかとか、師の言う通りにしよう、しかない。

 だが、たいていの人は、こういう生きざまは理解できまい。彼らはだから、なぜコロンボ刑事がくたびれたレインコートを着つづけるかも解けまい。





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2016年01月27日

広瀬すずの“スタッフ蔑視”発言に思う


 タレントの広瀬すずが、テレビ「とんねるずのみなさんのおかげでした」のなかで、カメラマンや音声係を軽視する発言をしたとかでいっとき騒動になった。昨年6月ころの話であった。
 私は最近、YouTubeで武田邦彦氏の「広瀬すず擁護」の話を聞いて知った。

 広瀬すずは、
 「どうして生まれてから大人になったときに、照明さんになろうと思ったんだろう?」
 「なんで自分の人生を女優さんの声を録ることにかけているんだろうって考えちゃう。きっと大人になって年齢を重ねるとともに、本当にこう棒を…声を録るためだけでいいのって」
 と発言した。これに石橋貴明と木梨憲武が大ウケした。
https://www.youtube.com/watch?v=O7R5vU-yRIU

 さらに広瀬は、スケジュール担当やロケバス運転手についても、「どうして?」を連発。放送後、視聴者から「裏方を軽視している」と非難囂々の声があがり、ネット上でも大騒動になった。広瀬は自身のツイッターとブログで謝罪したそうだ。

 また、どうしてそんな汚れたナリをして、生涯の裏方の仕事をやっているのかとも発言したらしい。
 テレビのことなどどうでもいいし、そんな番組を見ている大衆はアホである。ましてわざわざバッシングするほどの話ではない。
 
 はじめにことわっておくと、広瀬すずはかわいい顔してチヤホヤされている。生まれつきかわいい顔だから、ほとんど努力して手に入れた能力で評価してもらっているのではない。まあそういう幸運な女性がいてもいいだろう。

 だからちょっと増長しているとは言えるだろうし、なにせまだ17歳だそうだから、世間を知らないのも無理はないかも。それにしても高校生なら、言っていいことと悪いことがあるってことくらいは承知していないと…という微妙な年頃だ。
 あるいは、広瀬はマネージャーに言われて、座を盛り上げるため指示通りに大胆に言った、または毒舌タレントとして、さらには天然ボケとして売る予定だったのかもしれない。

 まあ大甘に見て、年端もいかない少女だから許すレベルである。

 しかし、広瀬は世間がわざと触れない機微に、やや無造作に斬り込んだのである。でも広瀬の発言に、テレビの裏方がムカッとしたなら、それはかえってみじめであろう。
 世の中には表舞台に立てる奴と、それを支える裏方がいる。それが理不尽だと怒っても、未来永劫世の中変わりはしない。

 理不尽だと思うなら、自分が頑張って世にでるしかない。持ちつもたれつだ、職業に貴賤はない、などとは言うものの、それは嘘である。
 芥川龍之介やサマセット・モーム、山本夏彦あたりの随筆にそういう人間の嘘、ごまかしが皮肉ってあるのではないか。
 
 テレビ局のスタッフがどんなだらしない格好をしているか、私は直に見たことがない。学生のころアルバイトでテレビ局に行ったことはあるが、最近は知らない。だが、広瀬すずが目の前の裏方スタッフを見ながら、純真素直に感想を言ったのは、良い問題提起としてスタッフ等は受け取るべきである。

 日下公人氏の「日本出動」3回目(DHCシアター)をYouTubeでご覧いただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=ti5H47RuNyk
 ほんの1分、冒頭の2分38秒から3分35秒くらいでよいので、一瞥されると、日下氏にインタビューするスタッフの格好も話し方もひどくて、温厚な日下氏も不快そうにしているのが見て取れる。

 YouTubeにも「DHC THEATERにはよいスタッフがお集まりのようで結構なことです。」と皮肉たっぷりのコメントが載っている。

 年長で識者の日下氏に話を聞こうという態度ではない。インタビュー担当者は短パンにすね毛を剥き出し、あきれた無作法である。
 私が日下氏の立場だったら、即、席を立って帰ってしまう。そうしないとバカな担当者には気が付かない。
 ああ、これが広瀬すずからも顰蹙を買ったテレビの裏方をやっている者どもの認識かとわかる。

 冒頭に言ったように、武田邦彦氏は「音声ブログ」で、自分もよくテレビに出るから、スタッフの身なりが不快感を催させると言っている。奴らの格好は調和がとれていない。「ひどい部屋着」といった印象だ。
 社会人としてこざっぱりした清潔感ある格好で仕事をすべきである。私(武田)から見てもひどい格好だ。我慢の限界を超えている、と。

 氏も前回のブログでこれを取り上げたら、ドッと反論がきたそうだ。広瀬は番組スタッフを蔑視しているじゃないか。大人(スタッフ)をつかまえて、服装が汚ないというのは許せないとか、もともと裏方は3Kのきつい職場だから汚れたなりをしてもしょうがない、仕事をすればどんな格好をしてもいいじゃないか、とか。

 しかし、広瀬が提起した問題は、他人が自分をどう見るかである。広瀬すずは、裏方のみなさんは生活のための仕事としてやっているのか? その格好ではそうは見えませんよ、と発言したのだという。
 汚ない格好をしていれば、人が軽んじるのはしょうがないじゃないか、と武田氏は言う。それを広瀬は率直に述べたのだ、と。

 カメラマンや音声係、ロケバス運転手の服装のあり方には、職業に対するプライドを感じないと、思ったままに言ったのだ。決して侮辱ではない。素朴な疑問を呈しただけではないか。
 
 下積みの職業を侮蔑したのではなく、職業にふさわしい格好、社会人としてのマナー、それがなくてズンだれていて、いったい大人になったら立派な社会人になるぞとか、カメラマンや音声係をプライドを持ってやろうと志していたんですか? と問うたのだ。
 これは武田氏の言うとおりだと思う。
 心ある人間なら恥じ入るべきである。

 これは昨年本ブログの5月4日から3回に分けて「男は髪型なんか気にするな」として書いたことにつながる。
 あの場合は、クリニックの助手がツーブロックというおかしな髪型をしてきたことに苦言を呈した話であった。病院には病院の清潔感ある髪型や服装が欠かせないと述べたのだ。

 私はこう書いた。
 「問題は髪型にだけあるのではない、彼の認識である。
 規則がないからどんな髪型をしてもいい、患者が不快になったっていい、スタッフがものを言えなくて困ってもいい、俺はこの髪型にしたいんだ、言われた仕事はちゃんとやっている、と自分勝手な言い分を通す。
 これが一流の帝国ホテルやホテルオークラだったら、従業員にあんな客を不快にさせる髪型を許すはずがない。」

 テレビ局のスタッフのズンだれた格好がいけないのは、その認識のだらしなさにある。
 いかにテレビ局が堕落した悪の宮殿か、という話である。
 広瀬すずも、そういう堕落した世界に入れてもらったのだから、これからは我慢しなければなるまい。
 あんな発言をしたら、生意気な奴と言われて仕事が減るかもしれない。そういう陰険な世界である。

 テレビの世界が堕落しているから、みんなスタッフもそれに染まって、格好までだらしなくなるのだ。バカな大衆をゲラゲラ笑わせてやっていればいい、スポンサーのために視聴率のとれる番組に仕立ててやれば格好がどうのなんてどうでもいい、そういう世界だ。
 
 池田信夫氏は昔テレビ業界にいたそうだから、内情を知る身である。例のSMAP騒動について氏自身のブログで語っている。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51969122.html

 「これほど芸能事務所の力は強くなかった。この背景には、芸能界だけでなくメディア業界の劣化がある。
 民放の芸能番組を企画しているのは、今や局ではなく芸能事務所である。視聴率を決めるのは企画ではなく出演者なので、ごく少数の『数字の取れる』タレントに出演依頼が集中する。このため、事務所の思い通りの番組でないと出てくれないのだ。」

 芸能事務所はほとんどがザイニチで占められる。だからひどい劣化が進んだ。当然、番組スタッフも堕落し、局の人間もやる気をなくす。それが服装にも出る。

 だから言っているでしょ。昨夏の安保法案反対のキャンペーンをこぞって張ったテレビ局は、ニュース番組やワイドショーでもみんなザイニチ芸能事務所が差配を振るっている。放送作家もコメンテータもたいていは芸能事務所に雇われている。だから支那や韓国に都合の悪い安保法案は、なんとしてでも潰したかったのだ。そんな色のついたニュースを見て、反対運動が盛り上がっていると舞い上がった奴は間抜けだ。




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2016年01月26日

SMAPはなぜ存続させられたのか


 歌手グループSMAPの分裂騒動があって、1月18日に存続と謝罪の会見があったそうだ。
 こんなことにコメントするのはバカらしい。本稿を書くために会見を録画で見たが、非常に気分が悪くなった。

 芸能事務所、それも昔からよからぬ噂の絶えないジャニーズ事務所の騒動。所詮はザイニチたちの内輪揉めだ。彼ら5人がザイニチかどうかは知らないが、もろに韓国べったりの活動だから、そうだろう。
 いずれも世間的には「イケメン」なのかもしれないが、ひどい下品なご面相であって、正視に耐えない。

 5人が並んで立って謝罪会見を行なったが、木村だけ晴れやかで傲然としていて、あとの4人が不愉快そうで言わされているといった感じだった。
 とりわけ、香取と中居の不貞腐れた顔が目立った。

 週刊誌が一斉に書き立てているようだが、事情なんか聞きたくもない。分裂しようと独立しようと知ったことか。とどのつまりはカネを巡っての諍いなんだろう。
 それにあろうことか、国会で民主党の斎藤嘉隆が参院予算委員会で安倍総理に感想を尋ねる一幕があって、あきれかえった。税金を使っての大事な国会審議で、ど〜でもいいSMAPのネタなんかを持ち出す程度の低さに驚く。

 ただ、あの振る舞いは反吐が出るほどのものだった。
 立ち方がなんと肩幅。全員両手を生殖器のあたりに置いて、美智子皇后や雅子妃得意のポーズと同じだった。あれは「コンス」という朝鮮民族特有のお辞儀のしかただそうだ。謝罪するのに、足を揃えず大きく股を開いてお辞儀するなんぞは、わが国の習慣にない。

 つまり全員、謝る意志がないことの現れだった。たしかに別に社会に対して悪いことをしたわけではないのだから、謝罪自体が異様であった。
 しかもお辞儀するときの手の位置が各自バラバラ。両手は太ももの脇にピンと張って頭を下げなければならないのに。如何に彼らの教育が歪んでいたかを如実に示している。

 日本人なら、「凡根の身を恥じて…」という謙譲の気持ちを振る舞いに滲ませるものだが、奴らは、「要するに頭を下げりゃいいんだろ」という機械的な対応が感じられる。
 しょせんは広告業界、芸能業界のお人形なのだから、そこに「心」なんかが入り込む余地はない。

 嫌なら引退する手は残されていようが、その後の人生はみじめなものだ。名は知られ過ぎ、しかし子供のころから下手で潰しの利かない歌とダンスしか習っておらず、それしかできないのだから、社会常識のカケラもなく、一般企業では仕事がないだろう。

 会見で一番ひどいのは中居だった。お辞儀したくないが、しろと強制されているからクソ面白くないけどやってやった、という態度があからさまであった。
 SMAPという人気歌手だけに、青少年への悪影響が心配である。謝るのはああいうので良いのかと思ってもらっては困る。

 毎日新聞は、なんと1面に5人の並ぶ写真付きで大きく報じた。
 なぜマスゴミがそれほどまでして、ただの低能歌手グループの「存続宣言」を大きく報道しなければならないかを、考える若者はいないのだろうか?
 それだけ人気があって、世間の注目を集めているからだ、などという浅薄な判断ではお話にならない。

 これはテレビも新聞も週刊誌も、まずが全部、電通の牛耳る世界であることは押さえなければならない。新聞やテレビがSMAP騒動を大きく取り上げるのは、まずは自主規制的な判断ではあるが、根底には電通から指示されるからだ。 
 いわずと知れた、電通はザイニチの企業である。広告のドンである。

 もしもある気骨のある新聞社があって、SMAPなんかたいした事件ではない、まあベタ記事でいい、としたら、きっと電通から“指導”が入るにちがいないのである。もっと大きく扱え、特集を組め、と。
 当然に、テレビCMを打っている企業も、これからもSMAP を業界で売っていく、あるいは利用して行くために、良いイメージを大衆に持たせたいから、メディアに対して注文をつけるのだ。

 広告業界も、メディアも、SMAPの商品価値が落ちては困る。だから、分裂は許さない。SMAP個人の感情や思惑なんかが、思うままになるわけがない。SMAPだって、そういうメディアや広告業界の仕掛けに乗って有名になり稼いできたのだから、自由になるわけがない。

 ではなぜ電通や大企業がSMAPを存続させ、会見まで開かせて大衆の耳目を集めさせるか。そういうことにまで踏み込まなければ、世の中の真実も分からないし、自分も騙されたままで終わるのである。
 世界中どこでも、小社会の掟は、頭がいい奴がテメエたちに都合がいいような仕組みを創る。その際たる組織がユダヤ国際金融資本である。近代以降の戦争はすべて彼らが創り出してきた。

 そして彼ら頭がいい奴らの支配体制にとって都合が悪いことは、たくみに大衆(奴隷)には分からないよう、気付かれないよう、仕掛けが出来上がっている。端的には格差社会をつくって、頭がいい奴、カネ儲けのたくみな奴が、頭の悪い(悪くされた)大衆から富を収奪する。

 大衆は社会の裏側も、社会の仕組みも調べやしない。
 事件が起きても、事故が起きても、自然災害が起きても、原因を探ろうとしないし、対策もお上任せで、先日も書いたように「悲しみの共有を風化させない」というはかない感情だけに浸る。
 大衆は頭を使うことを面倒臭いと言って、頭のいい連中にお任せだ。
 だから頭のいいずる賢い奴は、悠々と支配を続ける。騙し、騙される関係が過去も今も未来も変わることがない。

 その理不尽な社会の仕掛けに気付いた人間で、賢い奴は自分もその頭のいい、ずるい集団に仲間入りしようと勉強して、東大やら早稲田やらの一流大学を目指す。むろん、訳もわからず親に言われて受験秀才になる奴もいる。

 そして。
 バカな大衆に与えられるのが、例えばSMAPやAKB48とかの歌手や、オカマのタレントとか…なのだ。バカな大衆に賢くなってもらっては困る支配層がいるからである。白痴のまま、何の歴史性発揮に寄与しないテレビの世界に浸らせて、ただ面白おかしく生きていればいいとするように洗脳する。

 SMAPのヒット曲に「夜空のむこうには 明日がもう待っている」という歌詞があるんだそうだが、ああいう流行歌手の歌というものは、「パローレ、パローレ、パローレ♪」というイタリアの歌と同じものだ。パローレとは「言葉」の意味だが、この歌では、愛の言葉は空しいとか口先だけだとかの気持ちを込めている。
 SMAPの歌なんか、口先だけなのに、大衆は熱狂する。

 バカな勉強のできない(しない)大衆に、社会の真実を教えないために娯楽を与え、支配者には頭で(受験でも)かなわないと思わせる。そしてそのバカな大衆から、給与で収奪するだけでなく娯楽からも収奪する仕掛けになっている。

 少し前に、ある不動産大手の広告に出たSMAPに、広告出演料として5億円払われたと聞いたことがある。本人たちにどれだけ分配されるか知らないが、ジャニーズ事務所にそれだけドンと入るのだ。
 だからそんな旨みのある商売に、ヤクザが入り込んでくるだろうし、商品たる5人を奪い合う事態が起きても不思議はない。

 だが、マスゴミ自体が大衆を盲目にしておくための装置なのだから、裏のドロドロした、いくらファンでも幻滅するような悪は表に出すことはない。SMAPのマネージャーだけをやり玉に挙げて、後は隠蔽する。
 ずる賢い奴に騙されたくなかったら、自分で社会を勉強するしかないが、それに目覚める大衆はほとんどいない。
 いわく「仕事で忙しい」、いわく「しょうがない」、いわく「北鮮に生まれるよりは幸せ」と。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(4) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年01月25日

アメリカ刑務所残酷物語


 網走刑務所の受刑者が「刑務作業」で飼育した「網走監獄和牛」の品質がいいとかで、評判だとか。私はそんな癌のもとになるような高級肉はただでもらっても絶対に食べない。
 受刑者が娑婆に出た時に手に職をつけておきたいとの意図で行なわれている。私たちにはまあ、納得できる話である。
 しかし、これが一大企業化されると、いささか趣が変わってくる。

 私もときどき利用する喫茶店にスターバックス・コーヒーがある。
 あのコーヒーなどのパッケージは、アメリカの刑務所で作られている。更正のため、出獄してからの手に職をつけるためならいいんじゃない? と思われるとしたら、それはアメリカの事情を知らなすぎる。

《アメリカの刑務所で作られる意外なアイテム13選》というサイトがある。多くの企業が人件費の安い刑務所に仕事を依頼している。
https://gakumado.mynavi.jp/gmd/articles/7890
 その例をいくつか引用しよう。
     *    *    *

「軍用防護用品」
 米国防省、刑務所製品の売り上げの実に6割を占めるお得意様なのだとか。防弾チョッキや軍服など様々な製品。
「警察用備品」
 警棒や銃器を下げるためのベルトや制服、そして手錠。
「マクドナルドの制服」
「家具」
 政府関連ビル・施設に収められる事務用イスや書棚、机など。
「マイクロソフトのソフトウェアのパッケージ」
 マイクロソフト社の下請け企業がやはり低コストのため受刑者にマウスやソフトウェアのパッケージを発注。

「ホンダの車パーツ」
「セクシーブランドの下着」
「義歯・入れ歯」
「ジーンズ」
「刑務所内備品」
 所内で使う制服やホウキ、マットレス、さらにはトイレなどまで自分たちで制作するのだとか。

「コールセンター」
 州政府の各種お役所などのほか、日立やマイクロソフトなどといった企業の利用も。
「加工肉」
 自分たちのために農・牧場を運営するだけでなく、一般市販用の加工肉も製造。

     *    *    *

 で、このサイトの紹介者は、「実に様々な製品の製造に従事する受刑者たち、出所する頃にはみなそれぞれのプロフェッショナルな技術を持ち合わせているようになるのでしょうか…?!」と書いているが、実はそうは問屋が卸さない。

 アメリカ人はなんといっても残酷な連中で、毎度言うけれど、インディアンの虐殺から始まって、黒人や支那人苦力をドレイにし、他国を侵略してきたというDNAがしみ込んでいる。
 日本の刑務作業の主旨とはひどく違うのである。要は安価な労働力として受刑者を利用している。

 以下はおおむね増田悦佐氏の新著『アメリカの巨大な病』から教えられたものだ。
 アメリカでは刑務所は民営化が進められている。刑務所が民営化されるとは、企業体として収益をあげなければならない。いつ犯罪が発生するか分からないのでは経営が不安定である。世の中が治安が良く平穏になって犯罪が減っては困る。
 そこで入居率がどんなに低くても90%入居している分の運営費を委託してくる行政が払うという契約を交わす。

 行政側は民営化した刑務所に常に90%入居している分の費用を支払わねばならないから、空き部屋にしておいたら損だとなって、入居者を増やす算段をする。
 その一つの施策が「三振法」のような法律だ。三振とは野球のスリーストライク・アウトのことだ。

 「死刑または1年以上の刑が科される重罪(州によって違う)の前科が二回以上ある者が、3回目の有罪判決を受けたら、3回目がどんなに微罪であっても終身刑を科されるというもの」である。
 ストライク3(三振)になったら、死ぬまで刑務所暮らし。
 こんな仕掛けは、教育程度が低く貧しい黒人やヒスパニックは知らされない。

 虐げられた貧しい人たちをそのままに押さえつけている仕掛けの一つがドラッグであり、ジャズである。ジャズも聴きようではあるが、私は聴く気になれない。

 アメリカのなかでの人種別の収監人口比率で黒人はダントツで、4.7%、ヒスパニックは1.8%、白人はわずか0.7%である。黒人は総人口の約三分の一にも関わらず、収監されている者は半数かそれ以上を占める。それほどに黒人は逮捕される率も、長期収監率も高い。
 形を変えた黒人差別、黒人奴隷の継続ではないのか。

 世界レベルでも監獄に収監される人口はアメリカが群を抜いて多い。不名誉にも世界一。2014年末統計で、222万8424人もいる。2位の支那は約170万人、3位ロシア約67万人、4位ブラジル約58万人、5位インド約41万人……と続く。いずれも治安の悪い国ばかり。
 ちなみに日本は2015年9月時点で5万9千人ほどである。

 とりわけ黒人は犯罪が3ストライクで、死ぬまで安い労働力としてこき使われることになる。アメリカでは、黒人を差別し貧しいまま、教育しないままにしておいて、犯罪を犯させては、収監して低賃金で労働させることによって、一流企業が入所者を労働力として活用している。

 先に挙げた企業が収監者を活用するのは、普通の人の半分か四分の一の低賃金で働かせることができるからである。
 実際、「受刑者に渡る日給はわずか93セントから4ドルにとどまると言われている」と増田悦佐氏は書いている。アメリカの法定最低賃金は7ドル25セントだから、いかに低いか唖然とする。

 支那も受刑囚が圧倒的に多いのは、彼らを低賃金で働かせているせいだろう。どこの国でも「格差」は商売のネタである。以下も増田悦佐氏の本から引用。

 「しかも、受刑者は支給されるまずい食事以外の『贅沢品』は全部、刑務所内のバカ高い値段をつけた売店で買わされている」。「つまり刑務所産業が企業から支払われる賃金からピンハネしているというわけだ。そのためにも長期滞在してくれる刑務所暮らしの人、すなわち労働力を増やす方向になる」。


 こういう仕掛けをつくったおかげでアメリカは経済的没落を一定程度防いでいる。
 「昨今のアメリカ製造業の復活は、受刑者たちが異常な低賃金で働かされているからこそ実現したのだ。アメリカの受刑囚を企業に貸し出すときの労賃は、中国、ラテンアメリカは言うに及ばず、アフリカ最貧国とも勝負できる水準だ。製造業復活は、刑務所運営の民営化という現代奴隷制が生んだあだ花に過ぎない」


 このように「極論する人」がいると増田氏は控え目に書いているが、別の場所では以下のように厳しく説いている。
 
     *    *    *

 例えばエネルギー産業は、大昔から利権を確保して、その利権を大事に守り育てているために、相変わらず高い利益率が保たれている。結果的に、国民は高いガソリンを使わされ続けていることになる。しかし、アメリカのエネルギー業界は、中国の資源浪費経済でもっていた面が強いので、中国の資源浪費バブル崩壊によってそろそろ危なくなっている。

 アメリカの製造業の中で生き延びていけるのは、テクノロジーで何らかの特定のニーズを掘り当てて、ニッチ(市場の隙間)を確立した会社だけだろう。例えば、厳密には、製造業と情報通信産業であるマイクロソフトやインテルなどだ。

 このような技術的なニッチを持っている会社でも、アメリカ国内で大々的に製造工程を持っているのは刑務所の収監者を使って割安な労賃で作っているところくらいで、ほとんどの企業の製造工場は人件費の安い海外で作っているというのが実情だ。

     *    *    *

 われわれは、こういう国家とTPPを結んで、金儲けで勝負しなければならない。なんとおぞましい世界なのだろうか。
 そのうえ、テレビに出て来る経済評論家どもは、アメリカを見倣えと言い、コストを下げねば競争に勝てないと言う。その行き着く先がこの刑務所産業の隆盛であることは、奴らは決して言わない。

 先日も毎日新聞に、伊藤忠商事の社長へのインタビューが載っていた。アメリカの景気は堅調で心配ない、と発言。アホやん♪
 アメリカの経済がなんとかもっているのは、こういう受刑者を奴隷として使っているからだ。知っていてこいつもトボケている。

 日本でもよく「死刑」は残酷だ、アメリカのように「終身刑」を創設してせめて生かして罪を償わせるべきだと言う輩がいる。しかし、こうして見て来ると、アメリカがなぜ「終身刑」制度を設けているかが見えてくるだろう。囚人を奴隷として使役するためなのだ。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(4) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年01月24日

コメントについて(続)


 前回22日に、本ブログへのコメントについて申し渡し的に採用するか返事をするか、削除するかを一般的に述べておいたところ、個別の人間に関しての中傷、私への人格批判がきた。
 22日の「コメントについて」をご覧いただくと、「歯」なる人物がくり返し投稿してきており、それに対して小生が倍以上もかけて丁寧に説明してあるものがお読みいただける。

 「コメントについて」を書いたのは、その前に「元演歌歌手」なる人物が誹謗中傷を仕掛けてきたからである。そのコメントもはねた。だからはねた理由を書いておいたのだ。

 「歯」氏も最後には、口汚く小生へ人格攻撃と取れるコメントを投稿してきたので、宣告どおり即削除し、以後の投稿を禁じる措置をとった。
 私の主宰するブログである以上は、私が勝手に方針を決定する。

 「歯」氏は、私とMICKEY氏、X氏とを反目させることが目的らしく誹謗中傷し、自らの感情を沸き立たせて「正しい」のは俺だとでも言いたげである。それは子供のやることだ。
 私は人に向かって「盗作」と、犯罪者扱いに等しい言葉を使用するからには、その根拠をまっとうに述べなければならないと指摘した。

 その例として、男が親しい女の肩にポンと手を置いて何かしゃべりかけるとしたら、それがただちに「痴漢」とされるのか、と問うた。痴漢は犯罪である。重い。しかし会社で、女性社員に上司が「これ頼むよ」と言いながら肩をたたくくらいのことは、よくあるだろう。それを全部セクハラとしていたら、社内がギスギスしてしまう。

 同様に、ブログの文章が、他人の文章の引き写しだとしても、「盗作」と言うのであれば、それによって利益を上げたとか、誹謗中傷の材料にして名誉毀損したとか、があるか。はじめの文章を書いた人間が著しく不利益を被ったとかの事実がなければなるまい、と言っているのである。
 
 それを丁寧に説明したつもりである。しかし「歯」氏は、それにはまったく触れずに、不公平だとか一方的にMICKEY氏を贔屓し、X氏を不当に扱っていると罵倒してきた。
 丁寧に説いている私に対してこれは名誉毀損である。
 何度も書いているが、礼儀をわきまえつつ、「論理」を通してのコメントなら受けつける。そうでないものはすぐに出入り禁止にする。

 こういうネット上で、相手が自分と意見が違うことだけで、誹謗中傷し、人格攻撃をやらかす必要はない。自分はこう思うが、あなたはどうかと聴くだけでいいではないか。
 なのに、反論されると人格批判に切り替えて罵倒してくる。

 匿名をいいことに、見ず知らずの相手に人格を否定するイチャモンをつけるとは、由々しき態度である。
 意見交換は結構である。そこには見ず知らずの方に申しわけないが…という謙虚さ、紳士的態度がなければなるまい。まさに見識が疑われる。

 ある通販会社でお客様係をやっている人間に話を聞いたことがある。電話で苦情を承る仕事だという。苦情が汚ないのは大阪あたりが突出して多いと言っていた。例えばささいな包装の傷を大問題にして、電話口で怒鳴る。いきなり居丈高に話しはじめる。交換しますと申し出ると、先に送った商品は返還せずに、二重取りしようとする。…とこうなのだ。

 大阪はねえ…と、誰もが顔をしかめる。言いたくはないがザイニチが多いことも原因なのだろう。

 武田邦彦氏が言っていたが、名古屋ではタクシーに乗ると、いきなりメーターを倒すのではなく、1ブロックほど走りだした頃合いで運転手がメーターを入れる習慣らしい。
 ところがそのサービスでやっていることにすら、メータを倒すのが早過ぎると運転手を罵倒する客がいるそうだ。
 タクシーの人に言わせると、口汚く罵るのは女が多い、と語っていたとのことだ。(ただで乗せろというのか?)

 私はブログのコメントで、誹謗中傷してくるご仁を見ると、これらのエピソードをつい思い出してしまう。
 人のブログに対して自分の感情が納得できないからといって、人格批判をしてくるのは、まさにこうした稚戯に等しい振る舞いなのだ。



posted by 心に青雲 at 16:46| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年01月23日

支那経済は減速ではなく失速


 新聞を読んでいると、経済記事のなかに「支那の景気は減速している」とする表現がやたらに多い。
 は? なんで減速なの? アホ言うたらあかんで〜。
 せめて「失速」にしなさいよ。本当はバブル「崩壊」というべきだ。昔流行した言葉だが、ダッチロールになってきたではないか。
 
 支那は設備投資でバブル崩壊、不動産でも崩壊、株式でも崩壊、資源でも崩壊。人民元も暴落(しかかっているのを共産党が必死に抑えている)。
 上海株式市場では、今年からサーキットブレーカーを導入して、投資家が売るのを阻止している。サーキットブレーカーがあるから株が下落するんだとイチャモンが付けられて、中共は渋々サーキットブレーカーを中止したら、やっぱり株の下落が凄まじいので、もう一度サーキットブレーカーを発動するとか、とおろおろしている。

 株だの金融だのがマスゴミで取り上げられるが、それらを支える実体経済の悪化と企業の収益性低下が巨大に存在していて、これに対する解決法が支那にはない。
 支那の右往左往や強引な対応に、世界の市場から反発が起きている。この流れはどうにもならない。

 中共では昨年のGDP成長率が6.9%といけずうずうしく発表して、日本マスゴミが鵜呑みして報道していたが、世界中の誰も信じていない。それなのに、日本の新聞はなお支那に遠慮して「減速」と甘く表現している。「失速」や「崩壊」と書くと支那様そして日本の害務省様に叱られるからだ。
 
 それに財界やら商社やらも「失速と書くのはやめてくれ」という。本当のことが日本人にバレたら誰も支那に投資しないし、工場移転なんかしなくなってしまうからだ。しかしもうそんな姑息なことをしたって、日本から支那への投資はなくなる。
 欲の皮のつっぱった支那人一般投資家だけが、はかない期待をかけて「核取引カジノ」に集まる。日本人はみんなドン引きだ。

 あれだけ世界中から石油など資源を爆買してムダ遣いしてきた連中が失速・潰滅した以上は、すべての資源国は石油価格の暴落ともあいまって、売れなくなり、支那と共倒れするしかない。

 これからはBRICsの時代だと、媚中・副島は怒鳴ったが、BRICsもはかない夢だった。それどころか資源国は経済不振に襲われて、政情も不安定化し、今年は政変やクーデターがあちこちで起きるのではないか。その混乱の引き金になったのは、支那のせいだ。

 支那が野放図な経済運営をやらかし、嘘をこき、約束を破り、私利私欲に走り、それが分かっていながら世界中が支那のデタラメに便乗して儲けようとしたからである。
 これからは支那が覇権国となるとロックフェラーが決めたんだとデタラメを本に書いて儲けた媚中副島隆彦も、ついに運の尽きだ。

 経済評論家・渡邊哲也氏は自身のブログで、
 「中国の不安定な対応は中国の金融当局の人材不足が主要因であり、共産党独裁体制での人材の流出がその原因の一つとされています。 恐怖政治は優秀な人材の枯渇を招き、官僚型社会は人材を殺します。自由化を進めた中国とその半面で既得権益を守る共産党という構図が今の中国の不安定化の最大要因でありますが、これを否定する事は中国そのものの否定となり、国家の存続を危うくすることを意味します。」

 と、的確に解説している。副島だけが、この「人材」のなさ、民度の最悪さ、基礎的文化のなさを知らずに、21世紀は支那の時代だ、日本なんか相手にされてない、とほざいたのだ。
 結局、投資家の行き場がなくなって日本円が買われることになるから、円高が進む。

 安倍首相は円安にすれば、外国にものが売れると思い込んでいたのに、世界中で消費が冷え込んでいて貿易で思ったほど稼げなくなった。ものは売れない、しかも原発稼働中止にしたから原油をバカ高い値段で買ってこなければならなくなって、ずっと貿易は赤字に転落してきた。
 円安のメリットはなかった。せいぜい、パナソニックやソニーが韓国サムスンに勝って持ち直したことで喜んだ程度だ。

 世界を見渡しても経済成長が見込めるところはない。日本だけが健全である。円高は避けられない。インフレにもならない。デフレに戻る。
 世界にものが売れないのだから、貿易依存で食っていくのではなく、内需拡大にもっと舵を切ることになるだろう。
 円高に振れたうえに、資源国は買い手を求めて価格を下げるだろうから、輸入は有利になる。

 今年の日本経済は明るい。
 副島隆彦は、ずっと支那はアメリカに代わって覇権国になる、人民元を買え、必ず儲かるとわめいてきた。この事態になって黙るしかあるまい。いい気味だ。自説が崩壊したことをごまかすために、アメリカと日本の株が下がっていることしか言わない(支那のせいなのに)。

 また、「GPIF(年金運用資金)を株に突っ込んで、国民の年金に手を掛けて博奕で擂ってしまって、損失の残高が、30兆円とかが出ている、と。それで安倍政権が平穏では済まない。」とわめいて、関心を支那の崩壊から背けさせるほうへ持っていこうと懸命だ。

 ちょうど去年の今頃、円高待望論を書いた。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/412584186.html
 その折に武田邦彦氏と日下公人氏の対談『つくられた「環境問題」』(WAC刊)のなかにあった、日下氏の発言を紹介したことがあった。もう一度引用する。

     *    *    *

日下: …そのとき日本はどうなるか。猛烈な円高だから、輸出はもうあまり出ない。その代わり円高で馬鹿安に輸入ができる。安く輸入できるのだから、世界中からよいものがどんどん取り寄せてきて、それを混ぜ合わせて、文化の花を咲かせる。日本人にはそれだけの感性や品性の豊かさは、もう昔から世界最高にある。その上に技術もある。

 だから日本は最高級品の生産国になる。しかし輸出はあまり出ないのだから,当面は日本人しか買わないような超高級高価品。それを国内市場で売ると売れるのは海外投資からの利息や配当がたくさん入るからだ。少しずつ経済的によくなる国があったら、それが東京へ買いに来る。日本はそういう輸出国になる。

     *    *    *

 つまり円安誘導して輸出企業を儲けさせ、貿易黒字で国家財政を富ませるとしたアベノミクスは失敗だった。いろいろラッキーも重なって、その失敗が帳消しになり、これからは貿易に依存しない内需立国でたっていけば良いことになったのだ。

 日本は貿易立国だと私たちは学校教育で刷り込まれているが、実際の貿易依存度は11.4%(GDP比)しかない。G20諸国のなかでは18番目。
 輸出依存度では 韓国がトップで43.4% 。ドイツが33.6% 、支那24.5% 、ロシア24.4% と高い。
 輸入依存度でも韓国は38.8% とトップである。

 だから一部の輸出に頼っている企業だけが円高で困るだけで、国家としては円高になるほうが、日下氏が説くように、良い品が外国から買えて、高品質のものが内需で回ってくれる。

 日下公人氏と高山正之氏の『世界は邪悪に満ちている だが、日本は…』(WAC刊)でこう会話されているのを引用する。

     *    *    *

日下 前から指摘してきたことですが、中国には、きれいな水や空気がない。もう現実に、「吸う空気もない、飲む水もない」という状態に近くなっている。だけど彼らは平気だ。日本人だったら、とても生きていられない環境の中で住んでいる。
 衛生観念もまるでない。ばい菌だらけ、害虫だらけで、ウイルスが飛び交っている。おそらくすでに大きな健康被害が出ていると思うけれど、それは隠している。いずれ隠しきれなくなって出てくると思いますよ。

 宮崎正弘さんみたいに、歩き回っている人じゃないと書けない。若手では福島香織さんもいるね。女性だったり、会社に所属していない人だったり、そういう人がいいものを書いている。
 大新聞の特派員は金ばかり使って何も書かないでしょう(笑)。よそから記事を買えばいいと思っている。記事を買っていると、やがて自分が書けなくなる。記事を審査する力もなくなる。

 新聞社以外の人のきちんとしたルポルタージュを読んでいると、日本人はもう中国からすっかり離れていることがわかる。投資金額とか貿易金額の統計に出ているものとはまったく違って、完全に中国から離れている。これから十年くらいは日本人は中国に戻ってこないから、中国はもう終わりですよ。中国人は自分たちで第二幕、第三幕をつくれるんですかね。

高山 無理でしょうね。
日下 私が中国を歩き回って感じたことだけど、彼らはみんな献上品をつくっている。権力者に献上するものだけは一所懸命につくる。権力者のために書く文章も一所懸命に書く。それしかなくてね。
高山 昔からそれ以外にないですね。
日下 昔からないから、これからもないでしょうね。

     *    *    *

 これが支那に関する健全で正確な認識である。今も支那礼賛をやめない媚中・副島隆彦には、こういう観点がない。
 媚中・副島隆彦は、おそらくアメリカのシンクタンクあたりから裏情報をもらい、数値データだけ見て、国際情勢を判断しているのだろう。支那の人間とはいかなるものかを見据える実力も見識もなかった。

 支那がヤバくなったら、うろたえて、「チンコロ右翼」「安倍たちはアタマがおかしくなった」と罵声を挙げている。みっともない。まずテメエの対支那認識のオンボロさを詫びてからものを言え。
 誰が読んでも、宮崎正弘氏の支那ウオッチの確実さと、媚中・副島隆彦の下品な支那評論では、勝負は決している。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年01月22日

コメントについて


 本ブログは、読みたい方にだけ読んでいただこうとの主旨で発信しており、読みたくない人は遠慮してもらう。頭のレベルが低い人、イチャモンを付けるのを喜びにしている人、嫌がらせが好きな人のコメントは読まず即ハネている。HNを替えても機械的にはねる仕掛けだから無駄。

 まじめな質問や


反論は受けますが、知能が一定レベルに達してない方、南郷学派の書物を読みもしないで文句をつける人にも、コメント返しは不毛なので受けつけない。
 
 また、ハンドルネームがおちゃらけているとか、下品なものも読まずに削除する。
 これが私の方針なので、ああせいこうせいと指示してきても逆効果だから念のため。

posted by 心に青雲 at 12:51| 東京 ☀| Comment(5) | エッセイ | 更新情報をチェックする

鬼の指導を受けられる幸運(2/2)


《2》
 シャピローに弟子入りした渡部氏ら弟子のチェリストたちは、鬼のしごきにあって、おそらくはその人自身の甘さと怠け心を木っ端みじんにされる。鬼であり、理不尽なしごきであっても、それが自分自身の成長に必須と思えばこそ、またそれに耐えさえすれば名演奏の技が自分のものになるという未来が見えているから、それに耐えられる。

 ところが、南ク継正先生は(私がいうまでもなく)そういう師をまったく持たずに、まさに前人未到の、未来がまったく見えない、誰もやったことがない弁証法の創出を、対象を究明するなかで反映してそれを弁証法としたのであった。つまり、ご自身のなかで、シャピローとその弟子の役割を一人二役されたのである。こんなことは常人のなせるものではない。

 理不尽なまでのしごきにあうと、たいていの人は自分かわいさのあまり、師から遠のいていく。
 誰もがたいていは、「練習すればうまくなる」と勘違いしているからだ。練習すればうまくなる、とは、半面の真理でしかない。

 これは一歩一歩歩んで行けば、エベレストの頂上に立てる、というような勘違いと同じだ。例えば、富士山に登るレベルなら、多少登山の練習をすればまず一歩一歩で頂上には立てるだろう。
 だがエベレストとなれば次元が違うのである。身体の能力を完璧に作り替えなければ無理である。

 真性の藝術の高み、学的弁証法の高み、武道の高みは、言ってみればエベレスト登攀の困難さ、厳しさに似ている。

 指導に理不尽と思うことには素人レベルではまあ根拠もあり、その弟子のほうがそのレベルではたぶん正しいのである。だが、そんな正しさなんかクソくらえ、なのだ。問題は自分が一流になるかどうかなのだから、いっときの自分の正しさなんか何の役にもたちはしない。

 それがシャピローのような指導者には経験的ながらも、わかっていたのであろう。その指導のありようを論理化することは望蜀であったが、世界に冠たる一流チェリストを輩出したのが、彼の指導が正しかったなによりの証左であった。

 だから、こういう鬼の指導に出会わない人は逆に不幸だと私は思う。それはせっかくの自分の人生を「積算」するチャンスを逃すからである。学問や修行を、「自由闊達」レベルで十分と捉えている人には、絶対に、何事かを成し遂げることはできまい。

 かかる論理からすれば、教育とは(あるいは指導とは)強制であることは明らかである。
 仲良しクラブで、お互い褒め合ってぬくぬくしたい人たちなら、どうぞ楽しくやってくれ。そういうブログも世間ではいくらでもある。

 話はやや脱線するけれど。
 戦前の日本軍が強かったのは、江戸時代からの武士の強靭な精神の伝統が培われていたことと、明治になって陸軍が範としたのがドイツ陸軍であり、海軍は英国艦隊であったからだろう。
 当時、陸軍ではドイツが、海軍ではイギリスが世界最高だった。その訓練の厳しさを日本に学び入れたことが成功だった。

 戦後に創られた戦争映画なんかでは、ハリウッドは当然としてドイツ軍が悪役にされ、ドイツ映画でも悪役ではないにせよ悲劇の軍隊みたいな描かれ方しかなされないのは残念である。
 ドイツ軍の軍人の訓練の様子を描いてくれる映画があると良いのにと思う。

 ただドイツ軍の行進や、整列の仕方、敬礼のありようなどから、それがいかに厳しい訓練があってのことかが想像できる。だから強かったのだ。武器弾薬され十分なら、ヨーロッパ戦線では無敵であったろう。

 なんどか本ブログで紹介したが、映画「海軍兵学校物語 ああ江田島」(1959年大映)の冒頭部分は、先輩が新入生を「挨拶の仕方」の指導でしごく場面で、あれは名場面である。
 冒頭の一部がYouTubeにある。
 http://www.youtube.com/watch?v=gcu4ZP5qTKQ
 
 上級生(1号・2号生徒)が下級生(3号生徒)を、声が小さいとか、はっきり発音しろとか、怒鳴りまくる。戦後生まれの軟弱な環境で育った人は、たまげるであろうし、なんて野蛮なんだと眉をひそめるかもしれない。上級生徒が理不尽にがなり立てまくっているようにしか思えないのではないか。
 もっと穏やかに説明したっていいじゃないか、あれじゃあ「無理偏にゲンコツ」だ、と。だから軍隊なんてろくなところじゃない、と。

 私のブログ記事「スジを通した音楽批評とは」に文句をつけてきた「元演歌歌手」氏は、あのシゴキが理解できまい。「なにをムキになっているんだ?」とキョトンとするだろう。
 あの訓練で、みんな実体も認識も図太くなったのである。だが、あのシゴキがなくなったから、日本はダメになったのだ。

 ぜひとも徴兵制を復活させないと…。
 
 ハーヴィー・シャピローもこの映画「ああ江田島」のシーンのようなシゴキを音楽生徒にやっただけのことだ。
 ついでながら、天寿堂の稲村氏も私も、わが空手流派でそうしたシゴキに耐えた経験を持っている。そういうことも分からずに、揚げ足をとったり、イチャモンを付けたりする幼児性の発揮には呆れるばかりだ。

 そういうシゴキを受けず、理解せず、新興宗教に逃げて「やさしく癒してくれ」と、みっともない主体性放棄をしておきながら、シゴキによって魂レベルのスピリットを獲得した人間に、「あんたは間違っている」とはよくも言えたものだ。






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2016年01月21日

鬼の指導を受けられる幸運(1/2)


《1》
 昨年11月13・14日に「スジを通した音楽批評とは」をアップした。どういうわけか今頃になって、それに文句をつけてきたご仁がいる。「元演歌歌手」というハンドルネームで。
 ケンカ腰は良くないとか、何をそんなにムキになって批判しているんだとか、単に当事者が誰かで態度を変えている、とか。

 私は唖然とした。僭越ではあるが、「スジを通した音楽批評とは」で、友人を指導したのである。彼は指導されたくなんかないと思うだろうし、せいぜい友人からのアドバイスと思ったのだろう。
 しかし、期待すればこそ厳しく指導しなければならないレベルに彼はいたからだ。
 少し前にブログに書いたが、人生で成功するには優れた師と出合わなければならないのである。彼にはそれがない、と思われた。

 それに、私は何も彼だけに向かって言ったのではない。そもそも文章を書くときには根拠を示さずに決めつけてはいけないと述べたかったのである。そうした一般性があると思っらからブログに発表した。

 あまつさえ、本当は彼が師とあおぐべき、ブログ「VINYL JUNKY」主宰者のMICKEY氏を友人扱いしていた。友人扱いとはMICKEY氏のそのブログの文章に盗作があるじゃないかと文句をつけたことにも現れていた。
 それに関しても「元演歌歌手」というご仁は同調して「盗作だと言われているじゃないか」と文句をつけてきた。
 
 それがどんなに愚かなことかを、どうせ分かるまいが、もう少し説明しておこうと、本稿を書くことにした。

 以下は、2006年9月にブログに書いた修行論である。多少訂正してあるが、まずはご覧いただこう。

   ■     ■

  チェロ奏者・渡部玄一氏は、上智大名誉教授の渡部昇一氏のご子息であるが、父君との共著『音楽のある知的生活』(PHPエル選書)で、鬼のごとき指導者の話を書いておられる。

 渡部玄一氏が米国留学中に、ハーヴィー・シャピローに出会って師事した。ハーヴィー・シャピローは、著名なチェリストで、ユダヤ人である。当時80歳を過ぎていた。彼は20世紀前半に名演奏家として名を馳せたラフマニノフ、ホロビッツ、ルービンシュタイン、ハイフェッツらと親交のあった演奏家の最後の生き残りであった。
 ハーヴィー・シャピローは、電気スタンド一つしかついていないうす暗い部屋で、多くの生徒たちに囲まれて座り、レッスン中しじゅう生徒を怒鳴っていた。

 「『おれは信じられない! くそったれ! お前は不感症で、お前の音は意味がないんだ。何回言ったらその糞みたいな弾き方をやめるんだ! すぐこの部屋から叩きだしてやる!』
 生徒が『すみません』と謝ると、
『謝るんじゃねえ! いいから、こういうふうに弾いてみろ!』
 と言って、リウマチで異様な形になった指で楽器を弾きだすと、優雅で確かな音楽が部屋中に溢れる。」


 …と、渡部玄一氏は紹介する。「ぼくは不覚にも涙をこぼしそうになった。いったいなんなんだ、この人は。痺れるような感動と、畏怖を伴った衝撃で、ただ呆然と立ちつくしていた。」とある。
 結果、渡部氏は留学中の予定を変えて、ハーヴィー・シャピローに弟子入りする。それが有名なニューヨークのジュリアード音楽院である。そこで氏は4年半、耐える…いや修行する。

 「このものすごく繊細で怒りっぽい先生のレッスンは激しかった。時には理不尽でさえあった。彼に長年つくことになる生徒には、誰にもしごきの期間というものがあるのだが、ぼくに対するそれの最も激しい時期には、このくそじじい殺してオレも死のう、という気分に襲われたほどである。 ぼくの尊敬する日本人の兄弟子の一人は、毎レッスンの前にストレスの余り吐いていたという噂もあった。」

 ハーヴィー・シャピローのレッスンにあわずに辞めていく人もいる。

 私も空手に入門してこれに近いご指導を受けた。わが師はシャピローのような下品な言い回しではないが、その厳しさは同等かそれ以上であった。怒鳴られてドン底に落とされるが、シャピローが生徒をそのチェロの音色でもって脱落を思い留まらせたごとく、わが師の場合は、その人間の魅力と、論理快刀乱麻を断つのすごさにあった。だから、私は玄和会を辞めることがついになかった。

 叱責されているときは、もう逃げ出したいの一心になるほどだが、しばらく怒られないとかえって不安になるほどだった。渡部氏もそうではなかったか。

 「彼がレッスンで最も大切にしたのは、まず音そのものであった。いかにトーン(色彩)のある音を出すかに全身全霊を傾けさせた。そのことは一貫してゆるがなかった。意味のない、美しさを伴わない音を一音でも出すと怒声が飛んだ。人によっては楽譜の最初の2段を進むのに半年かかったし、ぼくなども一回のレッスンで二小節しかできないこともざらであった。」

「あるアメリカ人学生のレッスンを見学していたときの事件だ。シャピローはその学生に、あるフレーズをトーンのある音で弾かせようと躍起になっていた。もちろん学生もそれに応えようとして必死だったが、何度もやり直しさせられているうちに、弾いている音自体が大きくなっていった。するとその学生は、『でも先生、ここはピアノ(弱音で)と楽譜に書いてあります』と言ってしまった。(中略)

 予想通り、直後にスタジオ内に雷鳴がとどろいた。『いいか! おまえの音は糞なんだ。糞! 糞にフォルテもピアノもあるか! そこにピアノと書いてあるだと? そんなことはおれは百年も前から知っている! おれはラフマニノフもシュトラウスも直接知っているんだ。小僧! お前、おれに物を教えるつもりか! たった今、この部屋を出ていけ!』」


 と、こういうありさまである。先にも言ったが、むろんこんな下品ではないが、わが師の指導もざっとこんなものだ。震え上がる。
 こういうご指導があったればこそ、世界に冠たる空手の創出があり、また学問誌「学城」の高みがある。
 
 ここで思いだしていただきたいのは、南ク継正著『武道講義1巻 武道と認識の理論1』にあった、A・デュマ作『モンテ・クリスト伯』を引用されての、自らの孤独な修行過程の構造を解かれた一節である。

 「さて、ここまで説いてきますと、あらかたの読者から次のごとくの大きな疑問が呈されるであろうというものです。
 どうしてそんな惨めなまでに辛い話ばかりを説くのだ。なぜに自由闊達な学的研鑽ではないのか。どうしてそのような自由が出てこないのだ。まるでそれが邪魔だ、とでもいいたいようだな。本当にそうなのか。

 はっきりいいまして、答は現象的には然りであり、構造的には否であります。しかし今回はここに立ち入る暇(いとま)がありません。そこで私が倣った文豪の一節で代えたいと思います。」


 と言って、『モンテ・クリスト伯』を引用される。
 主人公ダンテスが、獄中で邂逅する聡明な老司祭と、以下のような会話を交す。ダンテスは無学な男で、獄中で同じ罪人となっている学識豊富な老司祭からさまざまなことを教わるのだ。

 「ダンテスは考えていた。…それはこれほど聡明な、これほど利発な、これほど考えの深い老人だったら、自分にもわからずにいるわが身の不幸が、きっと見通されるにちがいないということだった。
 (何を考えている? と問われて)
 『それは、こうした目的をお達しになるまで、あなたがどれほど頭をおしぼりになっただろうということでした。もし自由の身でおいでだったら、どんなことをおやりになれたでしょう?』

 『何もできなかったことだろうよ。このはち切れそうな頭にしても、おそらくくだらないことのために発散してしまったことだろう。人智のなかにかくれているふしぎな鉱脈を掘るためには、不幸というものが必要なのだ。火薬を爆発させるには圧力がいる。監獄生活というやつは、ほうぼうに散らしていたわしの才能を一つの点に集めてくれた。』…」 

 「人智のなかにかくれているふしぎな鉱脈を掘るためには、不幸というものが必要なのだ」という、このフレーズこそが肝心なのである。弁証法でいえば、非敵対的矛盾の創出、それも「生成発展」のレベルでなく「生々発展」レベルの激烈な矛盾の創出である。

 言ってみれば、渡部玄一氏がハーヴィー・シャピローに弟子入りして、理不尽なまでのしごきのレッスンにあう。それが「不幸というものが必要なのだ」の言葉に相当するものなのだ。これが、たしかに老司祭と渡部玄一氏の状態とは現象は異なるが、構造は同じくするのである。





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2016年01月20日

「悲しみよいつまでも」か?


 本日は、クマさん、八っあんの掛け合いで。
  ■
 
クマ: 1月17日は阪神大震災から21年で、例によって鎮魂だの慰霊だのといった行事が行われたね。
 日本人に非業の死を遂げた人への追悼、慰霊の習慣があることは承知しているけれど、行政が音頭を取り、マスゴミが大々的に取り上げるさまには嫌なものを感じるなあ。

ハチ: いつのころやったか、災害があった当日(命日)に、ぎょうさんロウソクを灯して祈りを捧げるといったセレモニーが根づいてきよった。たぶん欧米の習慣と、日本古来の灯籠流しなんかが合わさって、われもわれもと真似するようになったんとちゃうやろか。

クマ: 毎年の恒例行事と化しているって、どうよ?
ハチ: ハロウィンや、バレンタインデーなんかとそっくりやな。
クマ: 行政はそういうセレモニーを仕切って税金を浪費する。ルーチンにしている。慰霊祭のセッティングを請け負う業者が儲ける。蝋燭屋がウハウハ。

ハチ: そやねえ、マスゴミもこぞってその「ろうそく灯火」で描いた文字なんかを映し出して、「どや、きれいやろ?」とやってまんなあ。もしかして新聞社やテレビ局が、慰霊をする団体に要求してやらせているんやないの? 「絵になるから」とか言うて。

クマ: そういうことを想察するに難くないね。
ハチ: マスゴミにしてみれば、遺族がただ集まって手を合わせているだけでは絵にならへんし。行政が利権にできず、業者も潤わないやろ。

クマ: 広島長崎の原爆、東京大空襲、JAL123便御巣鷹山事件、阪神大震災、3/11東北大震災、などなど、挙げていけばきりがないほど、みんな一夜拝火教徒みたいになって、蝋燭の灯を見るのが大好きになる。あれはほとんど「祭り」ではないか。

ハチ: そういうこと言うたら反発されるデ。ホンマ。
クマ: 不慮の死を悲しみ、哀悼の誠を捧げ、霊魂に安らかなれと祈り、二度と悲惨な事故が起きないように誓い、事故の犠牲者を風化させない決意、そういった大変意味のある行ないなんだと。だからみんなと心を一つにすること、御霊とも魂のふれあいをするために、蝋燭を灯し、灯籠を川に流す、てな。

ハチ: ごもっともな言い分でんねんけど、日本人の欠点は非業の死に対して情緒で終わりにしてしまうことがあるねんな。
 ずばり「悲しみを共有する」これだけ。感情だけ大事。あとは何も出来へん。何もせえへん。悲しんで終わりや。「風化させない」と誓って終わり。「語り部」になる、と言って終わりやねん。

クマ: 大東亜戦争にしても、ほとんどの人は悲しみの共有で満足している。二度と戦争が起きませんように、と祈ればいいと。だから未だに憲法9条がのさばる。具体的な反省はしないんだ。
 北鮮による拉致も、韓国による李ラインでの拿捕も、米軍により非戦闘員殺戮も、強姦も、みんな「悲しみ」になる。風水害と同じように「あきらめ」ていく。

ハチ: なにこれ?やなあ。ワイも子供のころから慰霊祭いうのんが不思議でならなかったワ。何が原因でこうなったか、だからこういう対策を立てよう、再発を防止するにはどうしたらいいかと考える、議論する、責任者を徹底して追及する、そうはならないからや。

クマ: 責任者がいても、公務員だと実名が付され、適当に逃げおおせていく。

ハチ: ほんまの話、テストで赤点を取ったら、「悲しい」で済ませるんか?
 中学のとき、教師がこう言っていたワ。「君たちはテストの答案が返されて来ると、ショック! とか言うてけつかるけど、すぐ次の休み時間には校庭に飛び出して遊びよる」と。
 テストの点数が悪くても、すぐにケロッとしよる。

クマ: 親族の死などにいつまでも悲しみを引きずっている人が、妙に褒められ、「優しい人」と評価される傾向があるよね。人間だから悲しいのは当然で、悲しくないのは異常ではあるが、悲しむことをまるで喜びにし、生き甲斐にしているのはねえ…。
ハチ: 「アホちゃうか〜」やな。

クマ: お前はドライすぎる、と言われるかもしれないが、毎度毎度、テレビや新聞で、なんとかの慰霊祭、追悼式典で蝋燭を灯している連中を見ると、そんなノー天気で大丈夫か?と思わざるを得ない。
ハチ: いやクマさん。慰霊祭を恒例行事にして満足して、原因追及も対策も立てようとしないほうがよほどドライやデ。

クマ: 子、孫、曾孫…未来の子供たちが悲しい目にあわないように原因や責任を追及し、しっかり対策をたてることを放棄して、悲しみよいつまでもと「ろうそくショー」を毎年続けていている。50年後100年後のわれわれの子孫たちが、なんで先祖の連中は、事故や災害を防ぐ手だても真剣にとらずにいたんだと、呆れ返るに違いない。
ハチ: クマさん「ろうそくショー」て、なんや淫糜やな。
クマ: そっちのほうの話じゃないってば。

クマ: アメリカも、支那も、韓国も、北鮮もロシアも、みんな腹黒く、隙あらば、いや隙がなくても日本を潰してやろう、殺してやろう、奪ってやろうと狙っている。
ハチ: そうだすな。日本人が「悲しみ」に浸って慰めあっている場合か? 

クマ: そういった反日国、反日勢力にとってみれば、日本人が静かにおごそかに慰霊祭をやって、ろうそくショーに興じている姿ほど好ましいことはあるまい。ザイニチが不当に年金や生活保護をもらっていても、まったく気にしない日本人認識のありようは、全国で好んで行なわれている「ろうそくショー」によって培われているのだ。
 「悲しみ」とだけ相互浸透するだけで何もできない認識。端的にはそれによって、精神の牙が抜かれてしまう。

ハチ: そういえば、誰もが不思議に思いながら放置されているのが、あの広島の原爆平和記念公園の碑文でんなあ。
「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」
 あれこそ、「悲しみ」とだけ相互浸透している典型的なザマちゅうこっちゃな。
 あんなものはさっさと撤去したらええのに、誰も手をつけよらん。

クマ: だから戦勝国アメリカも支那も内心大喜びだろう。
 大東亜戦争で、日本軍がどれほどアジア各地で感謝されているか、尊敬されているか、それに対して欧米人や白人にシッポ振った支那人(華僑)がどれほど嫌われているかの現実がなくなってしまう。
ハチ:うん、そういうことや。




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2016年01月19日

労組の汚れた仕組み


 まだ昭和だったころ、公務員が労組を作ること、また政治的活動をすることは法律で禁じられていたのに、平然と破られ、安保闘争や沖縄米軍基地反対などでのデモ参加が行なわれていた。
 連合赤軍事件やテルアビブ空港乱射事件などが起き、また国鉄の労組のあまりのストライキ騒ぎで民心がすっかり冷えていった。また国鉄や郵政が民営化されて巨大組織が激減した。

 日本もある程度豊かになってきて、激しい労働運動がなくてもまあ賃金やボーナスが増えて、左翼は暴力的闘争に訴えても大衆はついていかなくなった。
 かといって、公務員が不法に組合活動行なっていることは続いていて、昨年夏の国会前不法集会の様子を見ると、やっぱり公務員の組合・官公労(日本官公庁労働組合)連中が幟り旗を掲げて集まっていることが明らかになった。
 まだやっているんだ、と呆れてみていた次第である。

 産経新聞iRONNAのサイトに、前衆議院議員(日本のこころを大切にする党)杉田水脈氏が「共産党を支える公務員労働組合の『正体』」を掲載していた。
 概略を引用したい。

     *    *    *

 沖縄を訪ね、辺野古基地移設反対派の前でカウンター街頭演説を行いました。その様子をブログやフェイスブックなどで紹介したところ、
「なぜ、彼らは日がな一日、歌って踊って弁当を食べて暮らしていけるのか?」
「資金はどこから出ているのか?」
 と、いう声が相次ぎました。私は講演会等でこの疑問に対し、次のように説明しています。

 私が18年間務めた市役所の労働組合は、自治労連の傘下にありました。地方公務員の労働組合には民主党(以前は社会党)系の「自治労」と共産党系の「自治労連」があります。元々は一つの団体だったのが血で血を洗う闘争の果てに二つに分離しました。『平和を愛する左翼』は、実は暴力的でとても怖いのです。

 大阪市や京都市のように一つの自治体の中に「自治労」と「自治労連」が共存しているところもあります。  
 私が勤めていた市役所では、新人研修が20日くらいあり、その中に「労働組合の時間」というのがありました。専従の職員が来て、「労働組合は、皆さんの賃金を上げるために闘争をしている。我々が闘うからみんなの賃金が上がる。組合に加入してない人の賃金も上がる。組合に加入しないのは無責任な人間である」といった説明が行われ、新入職員はその場で加入申込書を書かされます。

 私が入所した当時の組合加入率は97%。ほとんどの職員は文句を言うことなく、給料から自動的に組合にお金を払い続けているわけです。資金はこうして調達されます。
 次に組織です。各課に一人、組合の「職場委員」が存在します。主に若手がやらされます。職場集会の周知、お弁当の数の取りまとめ等のほか、「動員」も担当します。

 メーデーの集会や平和行進等のイベント(当然、共産党系のイベントです。)の参加は、組合から動員がかかります。「1割動員」=10人の職場の場合、1人がそのイベントに参加しなければいけません。「2割」だと2人です。組合のイベントに参加するときは「離席承認扱い」となります。上司が離席を承認しているという意味で、欠勤にもならず、有給休暇も減りません。

 誰が参加するかを調整(たいていの職場では、一人に負担がかからないように順番を決め、みんな公平に参加させていました)し、「今回は、○○課からは誰それが参加します」という報告を組合に行うのも職場委員の仕事です。

 近場で行われるイベントはこうして駆り出された一般の職員が参加しますが、遠方のイベントには組合の幹部や専従の職員が参加します。交通費等の諸費用は組合費から出ます。
 みなさん、ここまでで資金の出どころと動員の仕組みが大体お分かりいただけたと思います。

 そもそも、解雇のない公務員になぜ労働組合があるのか? 所謂公務員の労働組合は、労働基準法や労働組合法に規定されている労働組合ではありません。公務員には労働三権が認められていませんが、「公務員も労働者である」という考えた方のもと、「職員団体」を持つことは許されています。これを各自治体が勝手に「○○市職員労働組合」と名付けているだけで、本当は労働組合ではなく、「職員団体」なのです。

 職員団体は、そこに働く自治体職員の福利厚生や労働環境を議論するために存在しているわけです。でも、実際は、自治労連の場合は日本共産党というように特定の政党と深いかかわりを持ち、国会周辺のデモや沖縄の基地反対運動に参加するなど、政治的な活動を行っています。

 公務員の政治活動は禁止されているのに、なぜ、職員団体である「自治労連」や「自治労」は政治活動をしているのか?という質問に対し、「公務員の職員団体には職員以外の者も加入している。そしてその人たちが活動している。」という苦しい答弁が返ってきました。それもおかしな話です。

 ここのところをきちんと調べて、公の場で追及すること。
 これによりある程度、日本共産党をはじめとする左翼政党への資金や人員の流れを断つことができると私は考えています。

     *    *    *

 こういう話は昔から言われてきた。国鉄が分割民営化された理由の第一は、はっきりいえば組合潰しであった。大変良かった。おかげでJRの利用が快適になった。公務員全体で組合組織化は禁じられているのだから、容認されてはならない。
 しかし、マスゴミは一部を除けばこういう不法な組合活動を決して糾弾しない。だから国民は知らされない。いかにマスゴミが左翼に占領されているか。朝日新聞、毎日新聞、共同通信、NHKなどは反日のサヨクの利益になるよう記事を操作する。民主党や共産党とグルである。

 決して杉田水脈氏などにインタビューすることはない。彼らは“報道しない自由”を駆使している。そこまでサヨクは汚ない。腐っている。
 そういうゲス連中が先の安保法制のときに、「戦争法案」だの「徴兵制」だのとデタラメをわめき、公務員の労組も動員して水増ししていた。

 安保法制に反対の意見があってもいいが、反対運動をやらかしたサヨクの正体を思えば、とても人間としてスクラムを組むことなどできようはずがない。
 これは結婚詐欺が運営している結婚相談所に、申し込みに行くようなものである。強姦魔のデートの誘いに嬉々として乗るようなものだ。闇金融に就職して弱いものイジメをする人間と同じだ。という譬えで十分である。

 公務員労組は法を犯している輩である。それを政治家やマスゴミを使って隠蔽している輩である。その犯罪連中が安保法制反対と言う資格が、そもそもあるだろうか。あるいは沖縄の辺野古基地移転に反対する資格があるか。
 そういう人間として恥ずべきことをやっている輩に同調して、国会前の抗議集会をやんやと褒めそやした奴はバカである。

 実に副島隆彦は、そういう卑劣漢どもを称讃した。
 大江健三郎も、憲法研究者どもも、石田純一などタレントどもも、同じ輩だ。「自分は安保に反対だが、あのサヨクとは一緒に行動しない、サヨクのやり口はいけない」と批判するなら、私も納得するが、よくも味噌も糞も一緒にできるものだ。

 水田氏が書いているように、公務員になるとあってはならない組合に自動的に加入させられ、給与から組合費が天引きされ、休日にはどこかのデモや集会に割当で参加させられる。騙されているのだ。
 組合専従は仕事もしないでカネだけもらい、デモなんかのときだけ偉そうに何かをやっているふり。

 周知のように、そうした巨大化した労組の幹部ともなれば豪邸に住み、高級車で送迎され、愛人を囲う仕儀となる。
 現在の「連合」は800万人の組合員がいて、その組合費が知らぬ間に100円増やされていても、末端の活動に関心のない組合員は気がつかない。だが、ただそれだけで8億円が集金できてしまう。

 共産党も民主党も、そういう組合費をかすめとって、活動し、選挙に出る。共産党が選挙のたびに、当選しないとわかっているのに必ず候補者を立てるのはなぜか。また立てることができるのは何故か。革命のためでもないし、国家のためでもない。
 選挙活動を続けないと、組合の意義がなくなり、組合費が集められなくなるからだ。

 最近、共産党が野党に呼びかけて、「安保法案破棄のための野党連合」をつくろうとするのは、本音はそんなところにはない。全国の組合員に組合の意義を認めさせておくためである。だから、支那や朝鮮が侵略して来たとしても知ったことではない。政治も労使紛争もテメエたちの商売の道具でしかない。国会審議ははじめから論争したり、分かり合おうとしたりするのではない。組合が活動しているから、そのために組合費が徴収できるようにしておくためでしかない。

 ただの組合員は、組合費を出しても何の足しにもならない、しかも官公労など不法な組織に給与をふんだくられても、「しかたがない」で済ませている。
 ずる賢い奴は、アタマを使ってそうした収奪を仕組むのである。

 サヨクは資本家が労働者を搾取する、その利益を護っているのが自民党とだと言う。そのとおりだ。だが、サヨク自身も労働者を搾取しているではないか。だから役人も一生騙され続ける。 
 社会はずる賢い奴がテメエに都合のいいようにルールを創る。都合が悪いところはうまくごまかし、隠蔽する。

 ずる賢い奴は、社会のルールをうまくつくり、利用する。組合費だけではない、年金も税金も保険も、みんなアタマが良くてずるい連中が、バカな大衆から搾取できるような仕組みを作っている。

 公務員になぜ禁じられている組合があり、それを政治家も司法も見て見ぬふりをしているか。そこが社会の仕組み、つまり賢い奴が都合よくルールをつくってバカからカネを捲き上げ、大衆を無知のままにしておくためなのである。

 サヨクがわめく「憲法9条を守れ」とのスローガンは、バカな大衆を欺くためのものと化している。バカな大衆は自分で社会の仕組みを考えない、それで平和が守れると信じ込む。だからサヨクが組合を手放すことがない。憲法を守るために組合が必要です、「あべ政治をゆるさない」これです、ということで、莫大な組合費がやすやすと集められ、専従は職が確保でき、幹部は豪邸に住み愛人を何人も囲っていられる。




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2016年01月18日

みのりフーズやイーエスピー社事件の裏


 カレーチェーン「CoCo壱番屋」を展開する壱番屋(愛知県一宮市)が廃棄を委託した店舗用の冷凍カツが不正に横流しされた問題が起こった。横流し先の業者は岐阜県羽島市の「みのりフーズ」。みのりフーズは購入の証拠書類を残さず、壱番屋と書かれた段ボールから詰め替えて転売。冷凍室に食材が散乱するなど、ずさんな実態が明らかになってきた。

 また。
 長野県軽井沢町で14人が死亡したバス転落事故が発生。スキーバスを運行したイーエスピーだけでなく、企画した旅行会社「キースツアー」とそれに同乗した「トップトラベルサービス」と「フジメイトトラベル」にも、捜査の手が入った。

 どちらの事件もマスゴミが大々的に取り上げている。
 マスゴミは、いずれも業者のずさんな管理や意図的な不正をやり玉に挙げている。またしてもテメエは正義の報道機関のツラをして見せる。

 しかし、これは直接の責任は当該業者だが、マスゴミが遠因を作っているのである。
 冷凍牛肉横流しの「みのりフーズ」にせよ、バス運行会社や旅行代理店にせよ、それがザイニチ企業かどうかは不明であるが、十分怪しいと思うのが世間知である。

 もう一度断っておくが、こうした今糾弾されている業者がザイニチだと言っているのではない。日本人企業かもしれない。
 しかし、問題はザイニチが通名で、日本人に成り済ましていることを、マスゴミが黙認し、政治家も役人もスルーしているから、恐いのである。

 もしも、こうした不正を行っている業者が、ザイニチであることがあらかじめ分かっているのなら、監督官庁も厳しい目で見るだろうし、客も敬して遠ざけることが多かろう。しかし通名でやっているからわからない。

 そもそも格安なんとか…というのは、安いには安いだけの理由があるのに、「安ければ得した気分になれる」ために人は好んで選択する。今度のスキーツアーの場合も、大学生たちだったから気持ちはわかる。しかし、そこに落とし穴があることを大人は教えなければなるまい。マスゴミも、危ない業者と安全安心な優良業者がわかるように報道すべきである。

 日本人同胞どうしなら、そんなに不正はないだろうと信じて、バスに乗ったり、食べたりする。その油断をついてザイニチは通名をつかって、善良な日本人を騙すのである。ザイニチは、自分さえ儲かればいい、人が死のうと病気になろうと知ったことじゃない、という民族性である。商売に関する意識が日本とは違う。

 だから業者がザイニチだと分かれば、日本人は警戒して、いくら安くても止めておこうとなるだろうに、わからない仕掛けになっている。こういう危険な実態に絶対にメスを入れないのが、マスゴミの悪業なのである。通名で報道している。

 マスゴミは会社にザイニチを潜り込ませて、こうして事件事故の報道でザイニチがバレないように工夫している。
 テメエたちの卑劣陰険なやり口を隠すために、大衆に気付かれないように被害者が可哀想だったの大合唱をする。あるいは食肉業者の管理がずさんだったとだけ騒ぐ。

 食品、とりわけ肉を扱う業者、タクシーやバスなどの運送業には、極めてザイニチが多いのは世間知として常識となっていなければならない。
 いくらかなりとも歴史、伝統を知っていれば、気をつけるものである。

 私は学校で友だちと遊ぶなかで、そうした社会の裏情報を知ったものだったし、親も注意するように子供に教えたものだった。しかし受験だけがすべてとなると、世間知を得る機会が少なくなる。学校もマスゴミも、差別はいけない、ヘイトは罪だ、隣人とは仲良くなどとキレイ事ばっかり言っている。
 だから危機管理が疎かになる。

 その挙句に、価格の安いことへの警戒感が無くされる。だから危ない格安バスツアーに乗ってしまう。安い食品を買ってしまう。
 「スヒョン文書」くらいは読んでおくべきである。知らない方はググってください。ザイニチは必死に「スヒョン文書」は偽書だと言っているが、あれはユダヤの「シオン長老の議定書」や支那共産党の『日本解放第二期工作要領』と同じく本物である。

 あれは偽書だと冷笑する向きはあるが、それはユダヤ人、支那人、朝鮮人の陰謀を「まさか」と無視する結果になる。世界はみんな腹黒い、とか、ポーカーと同じで陰険な勝負をしているんだという認識がなければ、いいように騙され、いのちを失うことにもつながる。

 敵は必ず、日本人に対して、安全保障や危機管理の意識はいらない、そんなに他人を疑うのは、かえって友情を損ない、信頼を遠のかせ、平和を毀損することになると、言って来る。骨抜きにするためである。
 うまい話には裏があるという教訓が、今度のバス事故や食品偽装の事件の教訓でなければなるまい。




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2016年01月16日

文体の格調


 1月12日付の本ブログ「独立不覊の意味」のなかで、天寿堂整復院の稲村氏が論文を書き下ろしておられることを書いた。編集経験のある私に感想をと言ってこられたので僭越ながら、変換ミスなどを校正してお戻しした。
 そのなかで些細なことなのだが、稲村氏がうっかり書いた箇所について、「相棒」の杉下右京のせりふじゃないが「細かいことが気になる、ぼくの悪い癖」が出て、次の指摘をした。

 それは、論文自体は本になるほどの大部なので、レジュメ、すなわち「概説」を付けてはいかがかと提案申しあげたことである。
 稲村氏からいただいたそのレジュメには「概略」となっていたので、それより「概説」でしょうと返信した。

 概略と概説は全然違う。概略というと、なんだ略しているのか、となる。概説ならば略しているのではなく、要点を端的にまとまたもの、という意味である。英語で言うと、コンサイスではなくサマリーと言うべきか。
 これは志の違いである。

 会社での書類なら「概略」で構うまいが、学術論文は格調高くを目指さなければならない。
 たとえ略であったとしても、格好よい言葉を選ばないと。
 実際、南郷学派の学究の方々が著した最新の本では『医学教育概論』となっているくらいだ。概説より学問的レベルで言えば、概論になるのだ。

 またこういう指摘もした。
 論文のなかである地名が書いてあった。
 たとえば、「鯖江で〜した」という文章であれば、ここは「福井県鯖江市で〜した」と書かなければいけない。
 県名と「市」を入れると、格調が出て来る。福井県のだぞ、しかも市のだぞ、といった志を示すほうがいいと。「鯖江」でわかるじゃないか、どうってことないと思う人が多かろうが、「福井県」と入れれば、その土地の歴史、文化を含んだ言葉となるからだ。
 日常会話でなら、鯖江で十分通じても、論文となればきちんとフルネームで言うべきだ。

 言葉がいわば普段着ではなく、スーツを着せた感じになるのだ。
 高級レストランでは客にもだらけた服装は許さないではないか。それがルールである。自分の文章は、そういういわば高級レストラン以上の中身と品格があると自負するなら、だらけた文章にはしていられない。

 また、稲村氏が、ご自身の健康腺療法の後継者を育成すべくゼミと講座をなさっているのだが、そこを「主催している」と書いておられたので、ここは「主宰」でしょう? と申しあげた。
 主催ではただの催しである。主宰は辞書的には「一つの目的を持って行動する組織を纏める人物」となっているが、心意気の違いがある。

 まだある。
 「日本弁証法論理学研究会の『生命史観』」…と書かれていたのを、私は「の」でつなげてはまずいのではないかと問うた。間違いではないけれど。
 「生命史観」はいわば略であって、正しくは「生命の歴史」と言うべきである。だから…。
 「日本弁証法論理学研究会が学的措定した『生命の歴史』」…と書くべきである。

 格調が違ってくるでしょう。
 ただ、これは論文であればこそであって、通俗的エッセイとか新聞記事程度の文章ならば、「学的措定」などというむずかしい言葉は遣わないほうがいい。漢字ばかりで読みにくいと苦情を受けかねない。

 私信を取り上げて申し訳ないが、文体の大事さを本ブログでも書いておきたいと思ったのだ。
 こういうことは、われわれの文化にとって大事なことなのに、学校では教えられない。教師が受験にしか目を向けていないからだ。

 もしかして皆さんのなかには、そんな重箱の隅をつつくようなことはどうでもいいじゃないかと思う人がいるかもしれない。文章を書くのはその人らしく、個性を生かして書けばいいじゃないかと反発する…。
 しかしながら、これは出版界では常識、あるいはルールなのである。個人で勝手なブログやツイッターを書くのなら、どうでもよくても、苟も(いやしくも)論文のレベルを目指すとか、文学レベルを志すのなら、斯界の、業界の、ルールは守らなければならない。

 その一端が今回紹介した事項である。
 世の中はルールを守る人間ほど独創的で個性的な人間たりうるのである。
 はじめから個性が大事と言っている人間は、論文も文学作品も世間では相手にされない。独創も発揮できずに終わる。例外はない。

 科学の世界でも、藝術でも、当てずっぽうや思いつきだけでの大発見もできないし、歴史に残る文化遺産になることはなされない。 
 ルール遵守の精神なしには、学問上の発見も藝術上の至高の作品もあり得ない。
 
 美術で言うなら、(すべてを知っているわけではないが)、基本が出来ていて、ルールに従って技を磨いたのは、藤田嗣治ただ一人であった。あとはデッサンすら覚束ない画家ばかりで、妙な個性さえ発揮すれば世の中では売れるかもしれないが、千年の重みに耐えるものにはなり得ない。

 こういうことを学校教育で教えないで、点数さえ取れれば良しとし、後は個性的でいいのよ〜♪と聞かされて育てば、バカになるだけである。
 人生で成功するには、良き師と出逢い、全身全霊で師を信じ切ることだと、したためたが、まさに良き師はそういう意味でルールそのものでもある。ルールの基本の上にだけ成功があるからだ。

 当然に、他人を批判する場合も、罵倒や嫌味、揚げ足取り、イチャモンなどをやるのはルール違反である。嘘をつくのもいけない。
 世の中で成功への道の足を引っ張るのは、その人間の感情である。
 稲村氏は南郷学派で学問の基本を学んでいる。だから軸がぶれない。論述もルールどおりだ。

 しかし、南郷学派の学問を受け入れない人間は、つまらない妬み、ひがみ、意地、思い込みという感情が強烈である。自分が信じてきた学校教育の知識を否定されるのがたまらなく嫌だというだけで、そういう感情に自分を浸してしまう。

 妬み、ひがみ、あるいはそれまでの個性的感情を飲み込んで、あるいは棄てて、目の前に広がる成功をとれるかどうかが勝負の分かれ目である。
 一緒になって、妬みやひがみをぼかしてくれて、南郷学派は間違いさ、と言ってくれる仲間がいると安心してしまう。「とかくメダカは群れたがる」と言うし、「水は低きに流れる」とも言うのである。





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2016年01月15日

北朝鮮核実験の真の狙い


 北鮮が新年早々に核実験を行なった。初の水爆実験成功だと、奴らはほざいたが、真っ赤な嘘と判明している。
 早速に、毎日新聞も取り上げ、得意の市民の声を集めて掲載していた。バカなことをやるものだ。

     *    *    *

水爆実験 「核の誇示、おろか」 広島・長崎怒りの声 拉致被害家族「北朝鮮に不信」(毎日新聞2016年1月6日夕刊)

 「なぜ、いまこの時期なのか」「世界を脅かし、何を得ようとしているのか」−−。北朝鮮が6日、水爆実験を行ったと発表した。国際社会の懸念を無視して繰り返される核実験に、広島、長崎の被爆者や拉致被害者の家族から怒りの声が上がった。

 広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協、坪井直理事長)の箕牧智之副理事長(73)は「日本にも近いだけに大変なことだ。核廃絶を訴える被爆者の立場からも絶対許せない」と話した。
  (中略)
 市民団体「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」の森滝春子共同代表は「核兵器を力として誇示することはあまりにおろかで危険だ」と強く批判し、さらに「日本や韓国、米国など周辺地域の外交政策に北朝鮮が緊張感を持っている証しだろう。我々もあまり刺激しないようにしないといけない」と話した。
 長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会議長の川野浩一さん(75)は「なぜ、今の時期にやるのかが分からない。『我々が核を持っていることを忘れるな』と意思表示したいのか。いかなる国の核兵器も許さない私たちの願いとは逆行している」と憤った。
  (以下略)

     *    *    *

 毎日新聞だから、登場する市民とやらはみんなサヨクである。「なゼ、今なのか」という、お決まりのフレーズ。安倍内閣が安保法案を提出したときも、「なぜ今?」とわめいていた。これは北鮮に問うているのではなく、ただの「嘆き」「苛立ち」であるが、よほどボキャブラリーが貧しいのと、世界情勢を知らなさ過ぎる。

 「なぜ今なのか」とは、愚問の極地である。あちらは今やる必要があったからに決まっているじゃないか。
 北鮮はイランとの共同核開発に取り組んでいるので、中東情勢の緊迫度が今年はいっそう高まることを踏まえれば、まさに彼らにとっての核ビジネスは「今」やりたいのだ。

 それに今さら「不信」はないだろうに。朝鮮や支那にもともと「信」があるわけがないのに。
 また、「日米韓が北鮮を刺激しないほうがいい」とは、売れない俳優山本太郎の決めぜりふで、サヨクべったりのアホの言う事である。刺激しなかったら、北鮮が核実験をやらないのか? よくもこういう恥ずかしい発言を記者も新聞に載せるものだ。反吐が出る。

 ならずもの北鮮の核を阻止するためには、本当はわれわれも核武装するしかない。
 わが国に核武装がないから、拉致被害者も帰ってこない。
 「刺激するな」が正しいなら、警察もなくすべきだし、会社はガードマンを雇ってはいけない。家の戸締まりはやってはならない。犯罪者を刺激することになるじゃないか。

 北鮮が核実験をやらかすのは、一つには支那、韓国、日本を脅すためであるが、重要なのは中東などの核を持っていない国に兵器として売るためである。
 そして、次に大事な目的は、おそらく金一族がうまく亡命するためであろう。これは青山繁晴氏が「虎ノ門ニュース8時入り」で昨年暴露していた。

 すでにフランスには、金一族が亡命したのち優雅に暮らせる大豪邸が用意されている。一族はざっと40人くらいだそうだ。
 もうテメエたちが北鮮を運営していけないことは分かっている。政権維持能力もない、国民を飢えさせるだけ。クーデターがいつ起こってもおかしくない。だから将来に渡って生き延びていけるように、フランスに亡命先をすでに決めている。あとはフランス政府が、どれだけのカネを金一族が持って来るかしだいで、OKを出すかどうかにかかっている。

 地獄の沙汰もカネしだい。フランスもワルよのう…。
 金一族としては、フランス政府に巨額の持参金を差し出さなければいけないから、今はせっせと蓄財に励んでいる。しかし貿易で儲けられる産業はなんにもないから、覚醒剤で日本や韓国の青年をシャブ漬けにして稼ぐか、中東に核兵器を売って儲けなければならない。

 たぶん、アメリカも支那も、そんなことは百も承知二百も合点で、金一族が溜めたカネを吐き出すときのオコボレをかっさらおうと狙っているはずだ。
 1月10日にはアメリカ軍はグアムから一機だけB52爆撃機を飛来させて、南北国境付近で飛ばしたけれど、ただのポーズである。

 やれば簡単にできるのだから、アメリカは北鮮の軍事施設や金一族の居住地をミサイルで攻撃すればカタはつくのに、そうはしてこなかった。北の脅威がなくなったら、米軍が日本や韓国に駐留する意味が減ってしまう。カネがもらえない。だから北鮮を生かしてきったのである。

 それは世界の常識であるが、日本も含めて大衆には真実を教えないから、わざとトンチンカンなサヨク市民の声をマスゴミで流させるのだ。「核の誇示愚か」とか「なぜ今なのか」とか「北鮮を刺激してはいけない」とか。すべては隠蔽のためである。

 アメリカはオバマになってから「世界の警察官はやめる」と言い出しているが、裏では民間軍事会社を使ってやっぱり戦争で儲けている。世界はなかなか戦争は起きにくい。世界情勢から言っても、また企業は多国籍化し、金融ではまとまっているし、戦争で市民社会やインフラが壊れたら困るからだ。

 なのにアメリカが膨大な軍需産業を肥大化させ、中東諸国も軍事費を膨れあがらせるのは、軍需産業の利権、それにくっつく政治家や役人の体制が確立されているからである。アメリカでは軍事関連のロビイストが跋扈して議員に働きかけ、ロビイストを雇っている軍事会社に巨大な利益があがる仕組みになっている。

 だから軍事会社もロビイストも、中東でも北鮮でも揉めてくれなければ困る。
 アメリカはやれ民主主義だの核不拡散だのと言いながら、それを口実にテメエたちの国や軍事産業各社が大儲けするために、世界中で戦争を仕掛けているのだ。いつだってそうやってカネを儲けてきたのはユダヤ金融資本が中心だったのだ。

 UN(連合諸国)の安保理で制裁決議をするなんてことは八百長である。ただ、ユダヤ勢力の跋扈を面白くないと思っている勢力もいることはいるのだろう。
 UNの安保理がなぜあるかと言えば、ユダヤ金融資本やアメリカなどがカネ儲けのために戦争を仕組んでいることがバレないようにある。

 世界中の国民が、俺たちの暮らしが貧しいのに、なんでこんな莫大なカネを使って軍備を持たなければいけないのか、という疑問を抱くようになっては、支配者たちが困るからだ。
 だからニューヨークのUN本部は、ロックフェラーが寄付したのだ。
 日本でも、それをごまかすために「国連」という誤訳をわざと害務省に作らせて、バレないようにしている。

 巨大化したアメリカの軍需産業や民間軍事会社は、だいたい3年に一度は戦争を起こしていないと産業も軍人の給与も維持できないとされる。だからアメリカは「テロとの戦い」と称して、あちこちで戦争を仕組むのである。9・11も、そのための自作自演だった。

 自称イスラム国だけでなく、あちこちで過激派とかテロ組織とかが騒動を起こしているのは、アメリカがイスラム各国で過激派を育て、紛争を仕掛けているからであり、もし自然発生的なら大歓迎なのである。

 こんな世界情勢の裏側など、目が覚めてみれば簡単にわかることである。「なぜ今核実験なのか?」などといきり立っているバカは、まったく情けない無知である。





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2016年01月14日

アメリカ銃社会の絶望(2/2)


《2》
 ところで。
 疎外とは、マルクス主義では資本家が労働者を「疎外する」というように悪い意味で流布させてしまったが、本来はそうであってはならないということを、南ク継正先生が説いておられる。
 これは一度本ブログで紹介したことがある。

 『南ク継正 武道哲学 著作・講義全集』第8巻(現代社)から引用させていただきたい。

     *    *    *
 (引用開始)
 ヘーゲルはこの疎外という言葉を良い意味(表の意味)で捉えているのに対し、マルクス・エンゲルスは悪い意味(裏の意味)で捉えてしまうのである。
 簡単に説くならば、疎外とは、人間が労働を対象化したものが人間を規定する(規定してくる)という事である。少し説くならば、諸君が何か労働をした、何か対象に働きかけたとすれば、その働きかけた相手(対象物)が働きかける自分をもそれなりに規定してくる(規定されてしまう)という事である。

 もっと具体的に説くとしよう。諸君が原っぱに行ってそこを耕したとする。そうすれば、その原っぱは当然のことながら、諸君が働きかけた労働のレベルに応じて耕されていく。これを労働の対象化というのである。実はこれはこれだけでは終わらないのである。

 諸君が原っぱに何かの耕しを働きかければ、当然に諸君の体力と知力がその原っぱの何らかの耕しに応じて用いられるわけであるから、そうなると体力と知力は原っぱに必要とされた割合に応じて、すなわちそのレベルで諸君の体と知識は変化させられていくという事になるのである。

 すなわち、原っぱの耕しが困難ならば、その困難に応じた体力と知力が使用される事になる。となれば、体力と知力は諸君が原っぱを耕している過程で、少しずつまた少しずつと原っぱの耕しに応じた変化を受け取る事になり、受け取れる変化に応じた形で諸君の体力と知力が創り変えられていく事になるという事である。

 端的には、原っぱの変化が諸君の体と知識への変化へと化していく事になるのである。これを単純にいえば、これを疎外と称するのである。

 (引用終わり)
     *    *    *

 南ク先生が説く、
「諸君が何か労働をした、何か対象に働きかけたとすれば、その働きかけた相手(対象物)が働きかける自分をもそれなりに規定してくる(規定されてしまう)という事である」
 の箇所は、「疎外」の理解の上で、すこぶる重要な文言である。

 私は例えばアメリカの銃社会は、この「疎外」の論理でも解けると考えている。
 言うまでもないが、アメリカのWASPなどの白人は、そもそもインディアンを虐殺して土地と富を奪ったところから始まり、黒人、支那人、ヒスパニックを国内で銃を振りかざして支配してきたし、ハワイ、フィリピン、日本、朝鮮などを次々に銃で殺し、脅して支配を続けてきたのだ。

 原爆・水爆もその流れである。
 それで彼らは勝ってきた。勝ったが故に富は収奪できたけれども、それに疎外されないわけにいかない。銃が手放せなくなっているのである。
 アメリカ人がインディアンから、黒人から、日本人に至るまで、対象に銃で働きかけた結果、「その働きかけた相手(虐げられた黒人など)が働きかけた自分(WASP)もそれなりに規定されてしまった」ということである。

 ケンカに銃を使って勝った、暴力で勝った、それがために却ってその手法にアメリカは規定されて身動きが取れないことになったのである。だから、国内で銃の乱射事件が頻発するに至っている、と言えないだろうか。
 たかが銃を所持しているだけだ、念のための自衛だ、あるいは趣味なんだからいいじゃないか、の気楽さだと思いたいだろうが、「疎外」という弁証法の概念は、例外を許さない。

 同じように、支那人も南北朝鮮人も、人を騙して、約束は必ず破って、盗んで、自分だけが得しようとする性癖が牢固として出来あがってい、そのやり口の何千年の量質転化で、もはや抜き差しならなくなり、目一杯「疎外」の悲哀を味わうに至っている。

 奴らは何千年と続けてきた汚ない手口で、「成功」してしまったがために、それに縛られて抜けられなくなり、別の、人に尊敬されるやり方で仕事をする、外交する、そういうことが出来ないように量質転化を果たしてしまったのだ。

 無理を承知で言うならば、現下、支那は経済の大崩壊が始まり、韓国は「従軍慰安婦問題」で日本への屈服が始まり、ともにその崩壊を良い機会として反省すれば、「疎外」から解放される道筋が整うのだろう。むろん未来永劫そんな「疎外」から自らを解放できるはずがない。

 どうぞ自滅してね。ただし日本を巻き込まないでね、と。

 アメリカに話を戻せば、彼らは成功した人間がその報酬の全部を持って行くのが常識である。「勝者総取り」が当たり前の社会。かつての日本のような経営者も労働者もみんなで少しずつ分け合おうという発想がない。また日本では昔は大きな企業と下請け中小企業は、お互い持ちつ持たれつで、利益を分け合おうという気持ちがあったが、そういう発想は最近はアメリカナイズされてか、なくなってきた。

 先に紹介した増田悦佐氏の『アメリカの巨大な病』では、ニ度の世界大戦が独占企業を許すようになったと説いている。
 アメリカは自由、平等、機会均等の社会ではなく、すさまじい利権が幅をきかせる国となっている。
 それは大戦で、勝利の目的のために国民が持っている資源を総動員するという計画経済化が推進された。そのために単一企業で世の中のありとあらゆることを運営する方向になる。

 そうした経緯があって、アメリカでは世界大戦後に「国民一般の巨大独占資本に対する反感が劇的に低下した」「戦争に勝利したという成功体験が、アメリカ国民に『大企業の寡占化、独占化はいいことだ』という非常に間違った教訓を与えてしまった」と、増田氏は分析する。

 これぞまさに、アメリカが戦争で取ったやり口とその成功(勝利)が「疎外」となって、逆にアメリカ人を拘束してしまったのである。
 これは言い換えれば、ユダヤ金融資本が、いかに戦争を仕組む事で、何を得たかという回答の一つなのである。
 巨大な格差社会をつくり、ユダヤ人が一極で「総取り」する構図を作るために、戦争を仕組んだのである。

 今週ブログで取り上げているが、人様に「ああせい、こうせい」と指図せずにはいられない愚か者たちにも、当てはまることである。自分がなにほどの成果もあげていないテイタラクなのに、人様には口はばったくもアドバイスしてくる図々しさ満載の人間は、そうすることで「疎外」され、ろくなことにならないと知るべきなのである。

 これもアメリカ人の銃所持の屁理屈と同様、たかが知り合いへの助言じゃないか、親切心で言っているんで指図じゃないと言いたい向きはあろうが、無駄な抵抗である。「疎外」には例外は許されない。




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2016年01月13日

アメリカ銃社会の絶望(1/2)


《1》
 新年早々、オバマ大統領が、「銃規制の強化」を求めて、ホワイトハウスで演説した。銃の乱射事件などが頻発する銃社会アメリカの現状(惨状)を変えようと、オバマは「もっと厳しい銃規制を達成するために米議会は法律を通すべきだ」と述べた。そのときオバマは演説の途中で急に泣き出したので、その場面がニュースで取り上げられた。

 それに関連してさっそく池田信夫ブログで「オバマの銃規制は失敗する」(1月6日付)として以下のような主張をしている。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51968122.html

     *    *    *

 オバマ大統領が銃規制を発表した。これはマイケル・ムーアの映画にもなったおなじみの問題で、ゲーム理論でいう囚人のジレンマだが、実はジレンマではない。相手が銃を持っているリスクの高い社会では、互いに銃を持つことが唯一の合理的な戦略(支配戦略)なのだ。

 相手が武装してもしなくても、自分が武装することが有利になる。この種の実証研究をまとめた本"More Guns, Less Crime"も、中途半端な銃規制は自衛手段を奪うので、かえって犯罪が増える場合が多いと結論している。

 日本はこのジレンマを回避し、国内軍縮に成功した。中世末期までは百姓も武装していたが、豊臣秀吉が武器を没収し、徳川幕府が鉄砲の製造を禁止した。これは図2のようなチキンゲームになり、ナッシュ均衡は二つあるが、政府が武装する場合は国民は武装しないことが合理的だ。
(中略)

 だからアメリカ政府が本気で銃をなくすつもりなら、銃の所持を無期懲役とし、政府以外の銃の製造を禁止するなど、徹底的な「刀狩り」で銃所持のコストを限りなく大きくするしかない。残念ながら今回のように大統領令で既存の法規制を強化する程度では、ほとんど効果がない。

     *    *    *

 池田氏は、“ゲームの理論”なるものを持ち出して、銃には銃で対抗するしかないと説いて、まるでアメリカの共和党の言い分を代弁しているかのようである。むろん、結論は銃を撤廃すべきを前提としての論調だが、数値をあげつらうだけでは説得力がない。

 アメリカ人が銃をもつのを好むのは、開拓時代からの習慣だからだとか、あくまで自衛のためだとか言うけれど、それは浅い分析であろう。
 映画『天国の門』はインディアンを大方虐殺し尽くしたあとの開拓史時代のアメリカを舞台にしている。先に大陸に渡って来て占拠したワスプ連中に対して、後発で移民して来た東欧などからの移民とのせめぎ合いを描いているが、彼らが銃を手放さない理由がよくわかる。

 アメリカは全員が移民、難民の成れの果てで、現在でも、そういった民族同士のいがみ合い、差別は強く残っている。
 白人、有色人種の差別があり、白人のなかでもトップがWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)で、次にドイツ系、オランダ系、フランス系、さらにカソリック系のアイルランド系、ユダヤ系、東欧系などに細分化されて序列がある。

 有色人種のなかは序列は知らないが、日本系、支那系韓国系、黒人系、ヒスパニック系などに分かれる。アメリカの映画を観ると、その民族同士が日常のなかでも嫌いあい、バカにしあう様子がよく描かれているから、これは常識である。

 それらがアメリカ史では血で血を洗う抗争を続け、差別しあってきたので、銃を持たなければやってられない。銃で支配を確立してきたゴロツキどもだから、銃を失う事は即、身が危うくなる。日本でいえば暴力団と同じ心理であろうか。

 経済アナリスト増田悦佐氏は『いま、日本が直視すべきアメリカの巨大な病』(WAC刊)では、アメリカの銃の問題をこう説いている。

     *    *    *

 金持ちは健康的なものを食べることができるし、適度な運動をする時間的余裕もある。定期的な健康チェックなどもできるが、そういう予防医療はアメリカではとても金がかかるし、任意加入の健康保険でもできないことが多い。
 その意味で、アメリカでは健康も金次第であり、見た目も上流階級はスマートな体型を維持しているが、貧乏人は病的な肥満体型の人が多いのである。

 医療の問題は、白人の銃による自殺が激増していることにも反映していると考えられる。
 銃による殺人被害は若い黒人が異常に高いことが知られている。ところが、高齢者の銃による自殺は白人が激増していて、黒人は横ばいなのである。

 この事実が意味するのは、基本的に自殺とは贅沢な抗議の手段であって、本当に貧しい人は、めったに自殺しないのではないかと考えられる。それが一つだ。

 もう一つは、銃をなぜ持つのかという問題がある、プアホワイトの場合、人に使われている身分で、自分が自分のやりたいようにできる道具としては、クルマと銃くらいしか持っていないようだ。そういう意味で、白人の場合には、自由のよりどころとして銃を持つ人たちが多い。
 それに対して、黒人が銃を持つのは切実な理由であって、危ない仕事をするときの自衛の手段として持つ。自由の表現としてのプアホワイトの持つ銃と必要に迫られて黒人が自衛するために持つ銃では意味が違っている。

 黒人は、だんだん年を取って仕事も不安的になり、この先、生きていくための生活費がないからといって、わざわざ銃を使って自殺をしないのではないか。若い頃から貧乏暮らしをしてきたし、危ない仕事もしてきたという人が、突然、銃を持ち出して自殺のためには使わないだろう。

 それに比べて、白人の銃による自殺が増える理由は、アメリカでは医療費が六十代から激増する。そこで医療費が払えないときに死んでしまう。特にプアホワイトである。その自殺の手段が銃ということになるのだろう。黒人は、昔から貧乏暮らしをしているので、医療費が払えないという程度では、自殺に走らないだろう。

     *    *    *

 さすがにアメリカ社会に詳しい増田悦佐氏の分析である。池田氏のような“ゲームの理論”なんかの分析では真実に迫れない。池田氏だけでなく、日本のマスゴミも、こういう分析ができないで上っ面をなでるだけ。現地にごまんと特派員、駐在員を派遣していながら、無能をさらけ出している。




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2016年01月12日

独立不覊の意味


 私ごときが人生論などとはおこがましいが、昨日に引き続いて思うところを記してみたい。

 たまたまYouTube動画で青山繁晴氏(独立総合研究所社長)の「答えて、答えて、答える!」
https://www.youtube.com/watch?v=K3QYlDebNVM
を見ていたら、氏にメールが毎日山のように来るらしいが、そのなかで青山氏に「ああせい、こうせい」と指示してくるメールが「多過ぎる」ほどに寄せられるそうだ。

 青山繁晴氏が、安倍総理や首相官邸に個人的に電話できる立場におられるから、ぜひ首相にこれを伝えてくれという話を持って行くのだろう。
 それに対して、青山氏はどうするかというと、「ボクに指示したら逆効果です。絶対に受け入れません。だから独立総合研究所なんです」と。
 短い説明だったが、そのとおり!と膝を叩いた。

 今は迷惑メールはシャッタウトすることにしているが、以前はよくイチャモンが寄せられたし、友人が親切に「ブログでそんなことはやめなよ」と言ってくることがあった。
 「空手をやるって? バカな。三島由紀夫みたいな肉体至上主義になっちゃうぞ」とか。

 私にそういう指図めいたことを言ってくれば逆効果である。
 ひところ、これも親切で、なのは承知しているが、天寿堂の稲村さんも「お前の間違いを正してやる。こう考えるのが正しい」と、教えを垂れるというか、上から目線で「ああせい、こうせい」と指示してくるコメントがあって、失礼かとは思ったが、きつくお断りを入れた。

 昨日のブログで書いたように、私はこれ!と決めた師しか仰がない。頑固一徹だ。いくら身近でも結果を出してもいない人間の助言なんか受け入れていいことは何もない。譬え間違いがあろうとも、師と決めた人のことを信じ切って、身を委ねるのが私の信念である。宗教みたいだと揶揄する人は多かったが、絶対に揺るがなかった。

 年末から正月にかけて、その天寿堂の稲村さんが一冊の本になるほどの論文を書いたので、出版界の事情に通じているあなたの意見を聞かせてくれと言われた。光栄なので受けることにした。その論文を書くように奨めたのは私だったから責任もあった。

 だが、ささやかな感想や明らかな誤字、説明不足と思われることを指摘するのにも、大変気を遣った。私からの「指示」にならぬように、上から目線にならぬように、常にお伺いを立てるというか、配慮に配慮を重ねて返信した。

 「僭越ながら…」とか「無視していただいて結構ですが…」とか「一つの案でしかありませんが…」とか「素人の意見ですみませんが」とか、くどいほどに断って意見を述べた。
 やりすぎると、嫌味になりかねないから、これも気を遣う。

 しかし日本語には、「老婆心ながら」「口はばったい言い方ですが」「僭越ですが」「お節介なのは承知してますが」「一応念のために」「恐縮です」「手前味噌で…」などの謙譲語が多い。これは日本人の特長かと思う。きっと支那語や韓国語にはないのでは?
 これは、以前にも拙ブログで説いたが、むずかしく言うなら対象の構造に分け入るに際しては、反対側の自己の認識の構造への分け入るとの統一でなければならないという弁証法的捉え方があるからだろう。

 自分がされて嫌なことを人様に強いてはいけない。それでもなお、受け取った稲村氏は不快になられたやに想像するが、器の大きな方で、嫌な顔をせずに受け止めてくださったことに感謝している。
 私のほうも、人に意見をいうときにどれほど観念的に二重化してものを言わねばならないかの勉強になったし、何と言っても稲村氏の“世紀の発見”を世に広めたいとの思いが強かった。

 ところが。
 稲村さんに対しても、「ああせい、こうせい」としゃしゃり出てくる無礼者がいるようだ。半端な東洋医学の知識を持つばかりに、俺が正しい、お前はまちがっていると、頼みもしないのに言い募る。指図する。人様のHPのやり取りであるし、読むと気分が悪くなるから読まないが、一行だけのチラ見で十分その浅さがわかってしまう。

 しかし、いけないのは稲村さんがそれに真面目に対応していることである。器が大きいことはいいことだが、それが災いしている。
 私に言わせていただければ、青山繁晴氏の言うような「独立不覊」の意味が十分わかっておられないのかとも思う。

 南ク継正先生が、「月刊空手道」誌に『武道講義』を連載され、終わってすぐに、どこかの大学教授だったかが同じ「月刊空手道」誌に、イチャモンを載せたことがあった。
 幼稚園児が大人に「ダメだよ、それは」と言っているようなものだった。掲載した月刊空手道の編集者がアホすぎた。

 そんな低レベルの反論にもなっていない「ご意見」は南ク継正先生は相手にされなかった、という事実を稲村氏も知っているだろうに…。低レベルの人間を相手にすれば、世間からも、斯界の中でもバカにされるのだとわかっていなければいけない。

 まじめな質問なら、ある程度、(私もそうだけれど)答えてよいが、南ク先生の著書さえまじめに読まないくせに、勝手な推測でイチャモンをつけてきたりするのはあまりに愚かすぎて、低過ぎて、呆れてものも言えない。
 よしんば、なかには謹聴に値する意見も含まれていたとしても、相手にすると相互浸透するのが、弁証法の「法則」なのである。

 人様の意見で勉強になることはある、参考にすればいい、他人の見解を知れば天狗にならずにすむ、自分さえしっかりしていれば悪しき相互浸透は起きないなどの言い分はあるだろう。だからそれが落とし穴なのである。どう落とし穴なのかは、昨日からのブログでわかっていただけるだろう。
 得るものと引き換えに失うものがあるのだ。

 私に対しても、「あなたが陥っている南ク学派の呪縛を解いてあげたい」などと、余計なお世話を言ってくる人までいた。謙譲のココロもない。ご当人はゲスな新興宗教に入れ揚げているくせに、何が呪縛だ? 「あなたが南ク学派の呪縛から解き放たれるよう、神様にお願いしてます」とまで言われて、私が爆笑した事は言うまでもない。

 私も青山氏と同じく、「ボクに指示したら逆効果です。絶対に受け入れません」と言うしかない。私にとって青山氏などは師と仰ぐ対象ではないが、その心意気や良し、ではないか。だから彼は首相サイドからも信頼されている。右顧左眄、あっちにもいい顔、こっちにもいい顔、たくみな世渡り…そんな人間が「信頼」の2文字を得ることなどあり得ようか?

 不覊独立たる人間は、孤立は怖れまい。人からの評価で一喜一憂しない。しかしきちんと自分の主体性は確立され、意見は持っている。だからこそ人様の見解はそれなりに批判はしても尊重し、上から目線で「ああせい、こうせい」と指図したりしないのである。
 人にああせい、こうせいと指示して喜んでいる人間は、独立不覊の何たるかを知らないのだ。

 「不覊」の羈(き)は、馬のたづなのことで、それが「不(ない)」とは、束縛から自由だとか、才知が人並みはずれているという意味になる。
 自分が自由で不覊であることは、他人に押し付けがましく指図したり、したり顔で見下したりもしない人間でいることである。

 さて、話は違うが…。
 今回の北鮮のいかさま核実験で、日本でも国会で非難決議をしたそうだが、みっともない話である。国会で決議して何か効果がちょっとでもあるの? 対抗して「核を開発するぞ」とか「在日朝鮮人を全員強制送還するぞ」と決議するなら意味はあるが、蛙のつらに小便ほどの利き目も北鮮にはない。
 
 そんななか、あの無礼極み、売れない俳優の山本太郎参院議員が、なんと決議の採決に棄権して、ブログでこう言い放ったそうだ。
 「決議文は、わが国独自の制裁を強める姿勢が読み取れる」としたうえで、「わが国独自の『追加的制裁』は危険だ」「相手側の挑発に対して、より独自の強硬姿勢を示す事は、挑発に乗った形になる。わが国との緊張状態は、より強まる。それは、相手側の思惑にハマった事に等しい」などと持論を展開した。

 わけのわからない「持論」であるが、要するに、相手を刺激しさえしなければ、平和なんだと、昔から共産国の手先だった社会党や共産党と変わらぬ主張。北鮮が何をやっても文句は言うな、だけ。
 じゃあ、太郎よ、どうやって理不尽にも拉致された日本人同胞を取り返すか、いい案を出してみろ。

 あるいは「非難決議」やるなら「パチンコ全面禁止にするぞ」という内容がなければ意味がないじゃないかと提案するなら良かったが。

 これがまさに「独立不覊」とは何かを知らない馬鹿者の言である。
 独立不覊は、ある意味恐い、勇気がいる、誰かからぶちのめされる恐れだってある。主体性をなくして、誰かに助言してもらっていれば楽なのかもしれない。
 しかし、そんな生きざまは、奴隷の屈従でしかない。





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2016年01月11日

人生での成功の秘訣


 人生で成功する秘訣といった本はたくさん出ていると思う。
 それぞれ実体験から導かれたコツなのだろう。 
 
 人生は誰にとっても辛苦の連続ではあろうが、死ぬときに「ああ、いい人生だった」と言って終われれば、まずは成功したと言ってよいのではなかろうか。
 そんなときに、よく言われるように、あの世にカネは持って行けない。せいぜい子孫に残す程度であるが、それで子孫が幸せになるとは限らない。

 一生が終わるときに、「ああ、たっぷり稼いだ、贅沢な暮らしができたから良かった」と言いつつ幕を閉じる人はそれでいいけれど、私は「歴史性ある生きざまができて良かった」と言いながら死にたい。それをもって成功した人生だったと思う。
 歴史性とは何かは、本ブログ内で検索していただければ、すでに何度か解説してある。

 私は成功の一番の秘訣はと問われるなら、それは良き師と出会う事だと申し上げる。以前、本ブログを見て、逢って話を聞いてほしいと言ってこられた女性がいた。人生に行き詰まっているとのことだった。その方に申しあげたのは、あなたには良い師がいませんね、それが今日の停滞なり人生への不満のもとになっているのではないか、と。

 私がそう語ると、そういう師と巡り会えなかったのだから、しょうがないでしょ、学校の先生も期待外れだったし…とぼやいていた人もいた。
 それは間違いである。周囲にいなければ、必死に求め、探して出合うよう努力すべきだったのだ。
 身近にそうした師がいなければ、歴史上の偉人でも良かったのだ。

 私の場合、金儲けではうまくいかなかったが、精神的恩師と言える方は二人いる。高校時代の担任と、もう一人はご存知、空手の師匠である。
 その共通性を考えてみると、端的には結果を出している人間に師事したこと、学んだことである。結果とは、いろいろあるだろう。財産でとか、地位でとか、ギャンブルでとか、女性関係でとか…、それは人それぞれで結構だ。

 私の場合は、歴史性や人間性であったと言っておこう。それが得られれば藤山一郎が歌った「男いのちの純情は……♪」という歌謡曲の歌詞にあるように、「カネもいらなきゃ名もいらぬ」で良いと思ってしまった。世間知らずだった。

 恩師お二人とも人生で見事に結果を出している方だった。それもナンバーワンの結果を出している方だった。世間的に有名かどうかなんて基準はクソクラエである。
 人間だから欠点もあるかもしれないが、そんなところを見るから、心の底から師事できずにたいていの人は終わる。

 南ク先生の悪口を言う人は、完全に自己満足で、自分のほうが偉いとか、南郷先生の欠点を摑んだと思っているようだが、それが大きな間違いである。良い師と出逢い、師事する、それもいわば盲目的に信頼する以外に、人生で成功することはないのに、テメエの感情が納得しないからというだけで反発したり冷笑したりしたら、根っきり葉っきりそれっきり…だということが分かっていない。

 だからそんな根本的に人生の生きざまを狂わせている輩とは、私は会話しない方針を貫いている。
 そういう輩は、人の揚げ足をとることだけが生き甲斐の哀れな動物にすぎない。よしんばいくらかいい事をその輩が言ったとしても、そんな余計な話は断固聞いてはならない。

 それは師たる方のすべてを、たとえミスがあっても信じるしか、人生で成功する道はないからである。
 だが、たいていの人はそうはならない。どんな立派な人だって間違いはある、だから「いいとこ取り」すればいい。それが一番効率的だし賢いやりかただと思ってしまう。

 そして多くの識者なんかの良いところをもらおうとする。「学際協力」なんて言うやり口がそうで、あっちの良いところ、こっちの良さそうな話を集めて、自分だけが得した気になって、前進しているつもりなのである。

 当然ながら、知識修得のためには汗牛充棟の本を読まねばならないけれど、自分のアタマを創るには、師と決めた方からすべてを受け入れるしか道はない。南ク先生の場合は、三浦つとむさんであったことは知られている。
 このことは私が僥倖を得て、『武道の理論』の南ク先生と、池袋のとある喫茶店でお話をうかがうことができたときに、直にうかがったことである。
 
 南ク先生はそれまでの私の人生で出逢った人間の誰よりも輝いておられた。世間でよくいうオーラが違ったのである。これは弟子入りするしかないと決断した。
 そのときに私は、それまでやっていたあれこれ本を買っていわば「人生、いかに生きるべきか」とか「どうしたら物知りになるか」のような希求は棄てた。

 友だちも家族も引き止めにかかった、その年で空手をやるなんてとか、どうせ三日坊主だろうとか、新興宗教じゃないのかとか。そうした妨害を振り払ったから、多くの友だちと縁が切れた。切れても構わなかった、人生で歴史性を得て成功したかったからだ。
 やめろと言っていた友人たちで成功した者はいない。

 どうせ身近かな友人知人のアホなアドバイスを聞いても無駄である。彼らは人はいいかもしれないが誰も成果をあげていない落ちこぼれだったから。身近な友人らは、成功へのノウハウも持っていなければ、私を立派にしてくれる指導力もないのである。

 私のブログや、天寿堂整復院の稲村さんのHPなどに、南郷学派の悪口や、自分のはかない意見をぶつけてくる輩がダメなのは、玄和会=南郷学派がわかるまでにアタマが量質転化していないから、拒絶反応してしまう。自分の努力で最高のものと出逢う「質」に変わっていないと、南郷先生という質の転化には付いて来られない。最高のものを受け入れるには、受け入れられるに足る実力を創っておかなければダメなのである。

 私は偶然に南郷先生と出会ったわけではない。そこに必然があった。世の中にはむろん偶然や幸運があるが、それとともに、良い量質転化を起こすには、起こせるだけの若さも含めた質がなければいけない。

 私の場合は、入った高校で偶然生涯の恩師と出あったが、その最高の方に出あって教え子になって薫陶をうけたからこそ、次の「最高のもの(南郷先生)」と出あった時に、最高のものを受け入れられる実力が整っていたのである。

 私は偶然に高校で生涯の師に出あって、若い柔軟なアタマのうちにその薫陶を素直に受けたおかげで、それなりの実力がついたという実感を持っていたから、のちに南ク先生の本と出あい、またご本人に会えたときに、素直に従うことが出来たのだと思う。

 そうした経験がない人は本当に気の毒だと思う。師たる人間を見つけ出す必要性もわからず、草の根をわけてもそれを探さなければならない意義も分からずに、人生さまようばかりである。

 先程来言うように、最高のものに出合えさえすれば、もう人生の成功は約束されたも同然かと言えば、全然違う。私の場合は空手をはじめてからが地獄だったことは、本ブログでもなんどかしたためた。たいていの人は、シゴキについていけずに落後する。
 その指導がどれほど過酷なシゴキであるかは、「学城」に修行論を書いておられる北条翔鷹氏の論文を読まれるといい。

 落後者たちは逃げたくせ、俺は悪くない、南郷先生のほうが悪いのだ、と恨む。ささいな欠点を見つけた気になって、俺のほうが見る所は見えているんだ、と自惚れ驕りたかぶる。で、ダメ人間に戻っていく。
 ひとえに、思春期青春期に受験勉強ばかりやって、大事な師との邂逅をないがしろにしたツケがこうして払わされる。

 おごれる人も久しからず
 唯春の夜の夢のごとし
 たけき者も遂にはほろびぬ
 偏に風の前の塵に同じ

 人生には、逃げ道はいくらでもある。逃げ道はすべて「言い訳」という敷石で敷き詰められている。それは決して成功への道ではない。たった一言でも「言い訳」したら、人生はおしまいだ。





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2016年01月09日

北京からのPM2.5なんてへっちゃら(2/2)


《2》
 地球上に水が誕生したのは、南ク学派の本を読んでいる方なら常識だろうが、生命体の誕生と直接に誕生したのである。
 詳しくは『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社)を読んでいただきたい。

 生命体の本質は代謝である。これを『医学教育概論(6)』(瀬江千史、本田克也ほか著 現代社)から引用したい。

     *    *    *

 そもそもあらゆる生命体は、生命体特有の運動形態である代謝を行っています。代謝とは、外界から必要な物質を取り入れ、自己化する過程を通して自らの体を常につくり変え、自らの活動を行い、その結果不要になった物質を外界へ排泄するという過程であり、この過程を通して、その時々の地球との一体性を保ちつつ、地球から相対的に独立した生命体として行きていけるのであることを、まずはしっかりと理解してください。

 そして分かりやすくするために、単細胞生命体をイメージしてみてください。単細胞は細胞膜を通して外界から物質を取り入れますが、必要な物質を取り入れ、自己化したならば、その結果生じた老廃物が、生命体の中に生じます。その不要な物質が体内に貯留すれば有害となりますから、排出しなければなりません。

 このように、生きていくためには、その時々に必要なもの、必要でないものを選別し、保持し、捨て去ることが不可欠です。つまり選別は、生きていくことと切り離すことのできない働きなのです。

     *    *    *

 これは腎臓の機能を解いておられる箇所であるが、生命体が地球の物質を取り込み、自己化して、老廃物を排出する過程を見事に説いてある。排出したのがいわゆる生命活動によってできた“汚れ”であって、これをそのまま地球に吐き出していたら、地球自身が汚れ放題となり、生命体自身も汚れた地球上に生存できなくなってしまう。だから浄化(クリーンに)しなければならない。

 これは家を建てるときに、トイレのない家は作らないのと同様である。家を建てると直接に(切り離せずに)トイレは作られる。

 だから生命体の誕生は同時に水を生み、常に汚れの問題を解決してきたのである。水の機能はむろん希釈だけではなく、生命体の内部環境、保温、物質の均質化などいろいろあるが、今は汚れと希釈の問題だけに焦点を絞っている。
 地球上に生命体が誕生し、水のなかで生きると直接に汚れを洗ってくれる存在が水だった。

 地球自身が生命体というもう一つの実体と機能を持ってしまった。つまり地球は同時に2つの異なる機能をもつ〈矛盾〉した存在になったのである。
 なぜそんな〈矛盾〉ができたかというと、本来、太陽から飛び出した惑星は物質の一般性として冷えて固まるという、一つの機能で時が過ぎていくはずだった。実際、水星、金星などはいうなれば穏やかに矛盾をはらむことなく冷え固まったのだ。

 ところが地球は月という衛星が地球の4分の1の大きさで誕生したがために、ある温度に冷えてきたときに、満月と新月のくり返しによって、冷えるかと思えば温まる、温まったかと思えば冷える、どっちつかずの、他の水星や金星のように衛星のない惑星と異なって、本来は起こらないはずの変化が何千年だか何万年だか続いて、それが量質転化して機能となっていった。

 月の満ち欠けが人間の出産や死にも影響し、カニやウミガメが満月のときに産卵するのも、こういう地球と月の間柄があったからである。だから生命体は海で生まれたとか、隕石が運んで来たとか、雷のショックで生まれたなどという珍説が如何におかしいかだ。それでは生命体の誕生や死が月と明らかに関わる理由が説明できないではないか。

 その機能が不可逆的に、〈矛盾〉として定着し(量質転化を起こし)、消えなくなったのが、生命性の誕生だったのだ。
 この冷えるかと思えば温まる、温まったかと思うと冷えるのくり返しの性質(機能)が、生命体が(個としても種としても)死ぬかと思えば(子孫を残して)生き続ける、生きているかと思えば死ぬ、という、本質的ありようとして、論理としてつながっているのであろう。

 話を水に戻すと、生命体が活動すればするほど、また生命体が増えるほどに地球上の水も増えていった。決して、水の中で生命体が誕生したのではない。もともと水惑星なるものがあったのでもない。
 したがって、火星その他の惑星や彗星には生命体も水もないのである。わざわざロケットを飛ばして見に行くことはない。
 火星その他では、冷えるかと思えば温まる、温まるかと思えばまた冷える、の、くり返しが巨大な衛星がなかった以上は、機能として生じようがなかったからなのだ。

 はじめの単細胞生物は、増えた水のなかでは流されてしまうとか、陽光が届きにくくなるとかで多細胞生物(カイメン体)へと、あるいはクラゲ体へと、変わって行くのだが、そこは今回はテーマではないのでカット。先に言ったように『看護のための「いのちの歴史」の物語』を読んでください。

 二酸化炭素と酸素の問題もこれで解けるだろう。生命体が酸素を取り入れた自己化し、エネルギーとし、二酸化炭素に変える。その排出した二酸化炭素は空気中に拡散され、希釈され、よって他の物質に溶け込みやすくなって、例えば植物に吸われて光合成されて、きれいになる。
 
 もうおわかりだろうが、福島原発で生じた放射線物質もただちに希釈されたのである。かつてのチェルノブイリの事故でも、すぐに大気中で希釈された。
 かつてはアメリカ、ソ連、フランス、支那などが核実験をやらかし、その放射能を含んだ死の灰やら雨やらが日本に降り注いで、日本は潰滅すると言われたものだったが、今やなんでもないじゃないか。あの怯えた話はどこに行った?

 また6日に北朝鮮が水爆実験をやったそうだが、これも仮に放射能が生じても日本海を渡って来るうちに希釈されてどうってことはなくなる。

 昨日書き残したことがある。上昇気流のことだ。
 冬場は、北京のほうは地面がすさまじく冷える。都市特有の温かさはあるだろうが、かき消されるほど寒気はきびしい。となると地表付近の空気は温められず上昇気流になりにくい。同時に地表付近に真っ白になるほど溜まったPM2.5も上昇しにくい。

 しかし、いうなれば横風は吹くから、地表付近の空気は移動する。おそらく近隣周辺に拡散希釈されるのであろう。春になって地表が温まって上昇気流が発生すると黄砂が舞い上がることにもなる。
 だから冬場に北京の空気は真っ白になるが、上昇気流がすくないからPM2.5は上昇して偏西風に乗りにくい。よって日本にはやってこられない。

 支那からやってくる黄砂にもPM2.5は含まれている。すわ一大事と騒ぐけれど、黄砂よりPM2.5は微粒子であるから、それだけ希釈されやすいし、相互浸透しやすいのであり、偏西風に乗って遠くに行ってしまう。
 黄砂は悪いものとだけ言われるが、あれはただの砂という物質ではない、いろいろな物質(PM2.5も含めて)が物理的混ざっているか、もしくは相互浸透して化学変化を起こした物質なのである。

 黄砂がきてくれるおかげで日本の農地は栄養が豊かになって、作物が取れる面もある。
 それになにより、誰もが忘れているのは微量元素の効能である。微量元素は生命体にとっては、地球との相互浸透、地球の物質を取り込んで自己化するときの化学反応で、触媒的役割を果たすのである。

 例えば、お茶をいれるときに、鉄瓶で湯を沸かすとよいと言われるのは(味がよくなるというが)、鉄が微量に人体に取り入れられるために、人体内での化学反応が触媒として働いてくれるからである。
 あるいは温泉が効くのは、微量元素が皮膚から浸透するからである。
 それが神経やホルモンに作用して、元気に活発になるのである。

 だから皆さんマスゴミに騙されて、公害は悪だと思い込んでいるけれど、適度の公害、大気汚染は微量元素が取り込まれるから、健康長寿のもとでもあるのだ。むろん微量元素は、微量だから意味があり、効果があるのであって、身体に良いからと大量に摂取するのは害がある。
 北京の汚染はとてもじゃないが、「微量」どころじゃないから、害は深刻である。

 でも。
 もしかすると、北京郊外に田園があるのなら、そこらには程よい(希釈された)PM2.5を吸うことができて、かえって微量元素がとりこめて健康になる可能性もある。日本も、黄砂が支那から微量元素を運んでくれるおかげで良い作物が育つように、日本人が希釈されたPM2.5のおかげで健康になるかもしれない。
 黄砂は洗濯ものやクルマが汚れて嫌だが、栄養素、微量元素をただで支那から頂いて、ラッキー! というような面もある。

 日本人の平均寿命が延びたのは、適度の(?)大気汚染、水質汚染があって、微量元素が良い具合に作用したから、とも言えない事はない。もちろん雅子妃の祖父・江頭社長の日本チッソが水俣病を起こしたほどの大量の水銀を水俣湾に垂れ流せば、最悪の事態をまねくのは当たり前だ。

 むずかしいのは、微量元素は多過ぎても少な過ぎてもいけないことだ。昔はその民族は民族なりの伝統の食文化があって、健康を維持してきたのは、そうした三大栄養素だけでなく微量元素を露地野菜などから摂取できる食生活が確立されていたのだ。

 放射能にしても、汚染だ! 恐い! と叫ぶのではいけない。副島隆彦は、3・11の直後に原発前で測定したがたいした数値じゃなかった、危険なレベルじゃない、としか言わない。彼の言う事自体は間違いではないが一面的で、やはり弁証法のない悲しさである。
 希釈論も説けなければ、生命の歴史から解く事も出来ない。

 断っておかねばならないが、本稿でしたためた生命体誕生と水の話は、あくまで『看護のための「いのちの歴史」の物語』を読んでの私の解釈であって、一つの見解である。そのままこれが南郷学派の見解だと誤解しないでいただきたい。





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2016年01月08日

北京からのPM2.5なんてへっちゃら(1/2)


《1》
 北京や天津の大気汚染が深刻だと報道される。PM2.5と言われる。
 いかにも、北京や天津の空気を吸ったら濃度がきつくて病気になるだろうし、死人も出るだろう。あきれ果てた連中だ。
 石炭を焚くことをやめればいいじゃないかと思うが、石炭利権でうまい汁を吸っている共産党貴族がいるから、規制できないらしい。

 さて、その支那の汚染物質が偏西風に乗って日本にやってくると騒ぐ向きがある。
 かつては核実験の「死の灰」が日本にも降り注ぐと怖れられたこともあるが、今度は支那のPM2.5がやってくると、気象庁の役人やらマスゴミやらがしきりに言う。

 マスゴミでしきりに言われはするが、もっぱら支那の「濃霧」が報道されるのであって、あちらに慮って日本への影響は控え目に言う。支那様を悪く言うと、報復を受けるからであるし、ハニートラップやら毒まんじゅうを喰らっているから言いなりである。

 それはそれとして。
 私はPM2.5は日本にはほとんど悪影響はあるまいと見ている。
 偏西風に乗ってPM2.5が大量に日本に降り注ぐとは、なんという非科学的な見方だろう。
 日本でもPM2.5は発生しているし、韓国からも来ていないわけではあるまいから、国内で計測してもそれが支那から吹かれてやってきたものかどうかは、顔つきを見れば支那人かわかる、という具合にはいかない。

 偏西風は北半球では北緯30度から60度付近の高度上空の風である。コリオリの力で発生している。天気を西から変える力を起こしている。みなさんも学校で習っただろう。
 高さはざっと5000メートルから1万メートル。
 風速は5000メートル付近で冬場は時速50メートル程度、夏場は弱まって時速25メートルくらいになる。対流圏界面付近1万メートルの高さでは最強風域となり、ジェット気流とよばれ、時速300キロ以上の風速になる。


 そのジェット気流が北京や天津市の地上付近を流れているわけではない。舞い上がるといってもわずかで、ジェット気流まで達するとなるとさらにわずかだ。
 多くは北京市内に澱みつつ、周囲に拡散していき薄まる。
 だから偏西風で北京のPM2.5が丸ごと運ばれるはずがない。また偏西風は日本に向かって吹いて来て、上空のゴミなり黄砂なりを日本の陸地に向かって吹き付ける、またはパラシュートのようにわざと降らせるのではない。

 北京の汚れた空気は拡散してしまうのだが、よしんば偏西風に乗ったとて、どこか太平洋のかなたへ飛んで行く。その間に濃度は希釈されてしまう。それだけのことである。

 希釈は液体よりも気体のほうが早くかつ広くなされる。海の汚染より空気中の汚染のほうがすぐ希釈される。タンカーから流れ出した重油はなかなか消えないが、例えばおならなんかはほんの一息くらいが臭いのであって、すぐ臭わなくなる。希釈が強烈なのである。

 PM2.5も気体化しているようなものだから、すぐ希釈されるのである。希釈されても薄まっても、やっぱり日本にも来るのではないかと怯える向きもあろうが、心配はない。
 タバコの煙だって、室内を閉め切れば害はあろうが、野外で吸えばあっという間に希釈される。

 これはあなたが味噌汁を作ったことがあるなら、簡単にわかるだろう。野菜やワカメ、豆腐なんかをダシで煮て、そこへ最後に味噌を溶き入れる。このとき味噌の固まりをドボンと放り込んだきりにするバカはいない。必ず味噌をほぐしながら、溶きこみながら湯(だし)で希釈する。
 味噌をほぐし、静かにかき混ぜ、味噌を希釈・拡散させるからすぐにダシに味噌が溶け込み、いわば味噌でもない、ダシ汁でもない、野菜の煮物でもいない、〈味噌汁〉という質に転化する。

 味噌汁というものは、湯とダシと味噌と具がそれぞれに混在しているのではない。渾然一体、相互浸透して、味噌汁という質の食品に質が変わったのである。かき混ぜて希釈させるから、相互浸透をしやすくなる。
 カレーをつくるときも、スープをつくるときも、どれだけかき混ぜるかで味の深まりが違う。

 気象も同じである。PM2.5が大気中にいかに濃く存在していても、希釈されるから、元のPM2.5は他の物質と相互浸透しやすくなって、あっという間に別の物質に(いわば無害な物質)に質的転化をする。

 汚れた手を洗うときには、大量の流れる水道水で希釈させながら汚れを落とす。水道水だけだと物理的浄化だが、石鹸をつかえば化学的浄化作用で、よりきれいになる。
 手の汚れを含んで下水となった水は川に流れて、流れながら希釈される。桃太郎の話じゃないが、おばあさんが川で選択しても、汚れは流れるうちに希釈され微細な粒子となって他の物質と相互浸透して、汚れではなくなる。

 さらに海に溶け込む。水中というのは水と空気が混ざっているので、そこでさらに希釈されて、他の物質と相互浸透しやすくなり、物理的に希釈されるだけではなくて、いわば化学的にも質が変えられるから、あなたの手の汚れがいつまでも地球上に残ることにはならないのである。

 昔は東京から出る糞尿は、船(おわい船)で運んで海に棄てていた。水洗トイレではなく汲取式だった。また公害を問題にした新聞社自身がインクなどの廃液をドバッと海に棄てていたので、大問題になった。海を汚染させると市民団体などが騒いだ。
 たしかに糞尿を船で運ぶ人たちは気の毒だったし、途中が臭くなる。けれど本当は海に棄てて海の希釈力を信じるべきであった。

 人間の糞尿を魚が食べ、その魚を人間が食べると想像するから、嫌だ!となるが、バカなことを考えたものだ。人間が糞尿を棄てなくても、海にいる生き物が人間より多く糞を出しているんだってば。
 なのに韓国産の海苔がウンチまみれだと発覚したのは、よほど管理がずさんで、海の機能である希釈を阻害しているのだろう。

 生命体が生きることで出る汚れは、ざっと言って、水とともに流れて海に注ぐ。陸上では雨や川で流される。海で希釈され、さらには蒸発して水蒸気となり、もっと気体化されて希釈され、他の物質と混ざりあわさり、相互浸透が壮大なレベルで行われ、きれいな水、きれいな空気に量質転化され、クリーンな水すなわち雨となって再び生命体を潤し、生かすために地上に降りて来る。

 台風は、夏の時期、繁殖などでとりわけ生命活動が盛んになり、汚れも多くなるから、それをクリーンにするために、海の大掃除にやってくるのである。
 海は海で海洋生物で汚れ、また陸上生物の汚れは雨で流されたり川で流されたりして海に注ぐから、海は大変汚れるのだ。

 台風の役割は、大きな勢いの強烈な風雨によって、主に海を撹拌し、簡単には深海の水と浅い海の水を入れ替えるのである。
 入れ替えた汚れた水が深海に溜まるのでは、と思われるかもしれないが、ここでも希釈なのだ。

 汚れた水は深海にもっていって希釈し、薄めて相互浸透させやすくして、化学変化を起こしてクリーンにするのである。
 だから、台風はいうなれば生命現象とも言える。気象研究者のほとんどは、生命体を除いて現象を捉えるが、それでは間違いである。
 
 もう一つ、季節柄ということで言えば、インフルエンザなどのウイルスは、主に空気中に存在するもののようだが(水中にも存在するのでは?)、あれもあっという間に希釈されるのである。だから、ウイルスが空気を媒介して人体に入ると(伝染すると)インフルエンザになるということは、かなり嘘に近い。

 よしんばインフルエンザウイルスが体内に入っても、身体が健康体ならへっちゃらである。PM2.5もそれと同じで、人間が健康なら少量ではどうってことはない。体調が弱っていて、生活が乱れていればインフルエンザウイルスに暴れられるし、PM2.5も悪影響が出かねないのだ。



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2016年01月07日

朝鮮人の脳障害について


 余命三年時事日記(1月3日付)「障害年金の不正受給について」にこんな記事があった。精神科医をしている方の投稿である。
 研修医時代から「異常だ」と感じている事があると書き出している。精神障害者に支給される「障害年金」は、症例によって受給額は異なるが、2級で10万円/月、3級で数万円/月程度だそうだ。

 この精神科医は「精神障害とは脳神経系を中心とする部位に発生した障害により、通常の脳神経機能を果たせなくなった状態を指す」と説くが、これが正しいとは限らない。現今の精神科医はみなそういうだろうが、たいていは自分からなるのが精神病である。認識の歪みから生じる。とはいいながら、実体としての脳が障害を受けている場合もある。

 統合失調症、躁鬱病、鬱病、癲癇、神経症などになって、自立生活が困難となっている場合に障害年金が支給される。
 ところが、現状の精神科臨床現場では、「精神障害者として障害年金を受給しながら、毎日タバコ、酒を楽しみ、エアコンを入れた部屋でのんびりスマホを弄って2ちゃんねるやツイッター、フェイスブック三昧をし、年に一度は必ず新幹線に乗ってディズニーランドやUSJに行き、更に年末には海外旅行に行く「障害者」が多数おります。
 女はcoachやヴィトンのバッグは当然の持ち物で、最新型スマホも珍しくありません。」

 こんな状態だという。「本当に病気なのか?」と疑いたくなるケースが多いと彼は言う。
 「鬱病100万人時代」は嘘だと精神科医たちは疑っている。
 このあたりまでは、およそ知れた実態だろうが、私が驚いたのは以下の事実である。

     *    *    *

 朝鮮人全員は遺伝子に凄まじい異常を持っています。臨床現場では、特に臨床検査部門にて、「染色体の形がバラバラ」「染色体の形が異常」などで発見されます。放射線科では「内臓の形が異常(奇形)」「脳溝(脳のシワ)の異常」などで分かります。我々医学者は、日本の医学部を卒業する限り、日本人の検査結果を見慣れているので、妙な結果を目にすると「ん?」と本能的に気付くものだと思います。

 しかし、日本の精神科は、香山リカに代表されるように、在日朝鮮人が大手メディアに繰り返し取り上げられ、「病気の人は無条件で可哀想」「病人は被害者だ」「病人が犯罪を犯しても、病気で可哀想なんだから大衆が病気を理解すべき」と言う空気が年々強くなっています。

 私の知るところでは、そこに創価学会が入り込んで、「病気だから働けない、だから障害年金と生活保護を受給しよう!」と言う流れになりやすいようです。
 しかし、我々医学者の業務は、診断する際にまず鑑別をするこのから始まる筈です。

 その際に、「遺伝子検査」「染色体検査」を導入しなければ、遺伝子異常からなる重篤な疾患を見過ごす事になります。例えば、重篤な遺伝子異常をもつ患者に、単に抗うつ薬を投与しても、通常の治癒過程にはなかなか至りません。遺伝子異常は先天性ですから、そもそも鬱病では無い、つまり誤診だと言うことになります。

 現時点では、精神科臨床現場に於いて、遺伝子検査をしないで障害年金申請用の診断書を精神科医が書くことは、毎日普通に行われています。そもそも、診断書には「遺伝子異常の有無」を確認する記載欄さえありません。
 そして、詳細の数字は不明ですが、かなりの受給者が、毎日楽しく遊んで暮らしています。患者本人が重度の統合失調症で、金銭管理も出来ない、と言う理由で、患者の家族が、患者の為の障害年金を、自宅の改修工事費用に当てたケースもあります。

 (中略)
 遺伝子異常からなる在日朝鮮人の患者も、この「自称精神障害者」に多数入っています。
 身バレを防ぎたい在日朝鮮人は、同じく在日朝鮮人の医師を受診するそうです。在日朝鮮人の医師から一度でも年金申請用の診断書が書かれ、それにより受給が開始されると、他の医師により二枚目以降の診断書が作成されれば、自動的に障害年金は継続して何年でも受給出来ます。

 通名が実質的に廃止されても、通名在日医師によって作成された診断書は、各役所でこれからも有効のままだと思います。

 これは、在日朝鮮人医師特に精神科医が、自分たちが先天的にもつ、そして現代医学ではどうあっても治せない「繰り返された近親相姦による遺伝子異常からなる脳の先天性異常」を誤魔化す手段として「日本の精神医学を乗っ取り、貶め、本来、純粋な人間科学であるはずの医学を、可哀想〜被害者なんだから〜理論によるエセ心理学に変異させ」たことに今もなお具体的に科学的に対抗をしようとしない、日本人精神科医のだらしなさと、在日朝鮮人精神科医の犯してきたエセ医学の恥ずかしさとが、情け無いことに融合してしまった結果だと思うのです。

     *    *    *

 朝鮮人が昔からの近親相姦によって、遺伝子に異常をきたしているとは、戦慄を覚えないわけにいかない。
 朝鮮人は世界でも類を見ないDNAの塩基配列が均一な民族なのである。これは過去に、近親相姦を重ねてきたことを示している。これはアメリカの学者が調べ上げたものだそうだ。

 朝鮮は昔から支那の属国であったから、若くて綺麗な娘たちは宗主国に献上されていた(毎年3000人も!)。産業もない、資源もないのだから若い女を奴隷として輸出する以外にない。そのため朝鮮国内では女性が足りなくなって男は家族姉妹にまで手を出す近親相姦が繰り返されてきた。
 遺伝子レベルで見ても「父と娘」「母と息子」が結ばれないと出来ない遺伝子が大多数見つかっている。

 朝鮮では、日韓併合までは「試し腹」が行われていた。父親や兄、叔父などが結婚前の自分の娘(妹)に対し、妊娠の可・否を調べる為に性行為をする風習である。娘を犯させ、妊娠した状態で輿入れさせる。
 こんなおぞましいことが良くできたものだ。
 反日在日どもが以前はあったWikipedia の「試し腹」の項目を削除したらしいが、そんな姑息な手をつかってもすでに拡散してしまって、多くの日本人の知るところとなった。

 だから現在においてもなお、日本人の2倍以上の奇形児が生まれるそうだ。
 朝鮮の男どもは大量の若い女を宗主国にとられ、残りの醜い女、奇形、白痴までも構わず強姦し妊娠させてしまう。現在においても、韓国における強姦の発生率は世界で突出して高い。日本女性は韓国へ旅行に行くのは大変危険である。

 ソウルでなにげなく入った喫茶店で、ドアを閉められ強姦されて、警察に訴えたら「日本人ではしょうがない」と相手にされなかったという事件もあったそうだ。

 ただ、学会では表だって言うことはタブーになっている。それをいいことに、在日の精神科医が悪さをやっている、というのが先の精神科医の告発なのである。
 朝鮮人特有の火病は、カッと怒ったら抑制が利かない。冷静さや理性が吹っ飛ぶ。これは、近親相姦のくり返しによって、遺伝子に異常が生じているからだとも言われる。

 病気だったらなおのこと可哀想じゃないかとサヨクどもは言うだろうが、これは朝鮮人自身で解決すべき問題だ。民族差別につながることだから、慎重に考えねばならないけれど、日本人は韓国人と結婚するなら、それは構わないが子供はつくるべきではあるまい。
 これはあきらかに彼らのいう「日帝36年の植民地支配」のせいではない。
 むろん朝鮮人全員が、とは言っていない。幸いに健康なDNAを引き継いで、まっとうな国家にしたいという朝鮮人もいるだろう。そういう人が、自力で同胞を立ち直らせるしかないのだ。





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2016年01月06日

プロ野球の新監督を評す


 YouTubeで見つけた野村克也氏へのインタビューを見た。「ザ・インタビュー野村克也編」。
 https://www.youtube.com/watch?v=xpQVYnocCPY

 野村氏は高卒で南海にテスト生で入団して、苦労してブルペンキャッチャーから1軍のレギュラーを勝ち取り、やがて三冠王になって超一流選手の仲間入りをし、現役引退後は4球団の監督をやってこれも最下位のチームをみんな引き上げ、名監督の名をほしいままにした。
 そういう輝かしい人生の裏で、努力の人として歩んで来たのは誰しも知るところであろう。

 私は彼の生きざまを見事と評価するが、顔つきがよろしくない。なんだかタマネギの芯を噛んだような、不機嫌で、仏頂面をしているのが、将たるにはふさわしくない。彼の代名詞みたいな「ぼやき」も、自分から品格を落としている。

 彼は母親の手で極貧のなか育ててもらい、なんとか親に楽をさせたいと思って、大金が稼げるプロ野球に入ろうとした。
 ところが採用された南海ホークスでは、ただ投手の球を受けるだけで、指導もしてもらえず、練習もさせてもらえない。あげくに1年でクビだと言われた。そこから彼はねばって、努力して這い上がり、野球選手として成功して行く。

 どん底から這い上がる、苦労をする、勉強する、それを当たり前のようにやり続けたからこそ、彼は生き抜いた。初めからスター扱いされた選手とは全然違うのだ。

 今年、秋にはプロ野球でも何球団かが監督交代があった。人気球団の巨人も原辰徳が退いて、スター選手だった高橋由伸が来季から監督を務めることになった。阪神は金本知憲が新監督だという。

 野村がインタビューのなかで原監督を評していた言葉が面白かった。
 原は巨人の監督だから、いつもマスゴミにインタビューを受けていたけれど、それを聴いていて、「さすがだな、とか、良いこと言うなという談話が出て来ない」と指摘していた。

 「若いうちの苦労は買ってでもしろと言うが、原には苦労がなかったから野球に味がない。今の巨人は天才野球で、野球をただ打って走って投げるだけ。来た球を打つだけ。何も考えてない。苦しんでいるなということが伝わってこない。巨人だけでなく今のプロ野球全体に言えることだ」
 と語っていた。

 さすが味のある言葉を語る。こういうことが確かに原監督にはまったくなかった。巨人がジリ貧になるわけだ。
 原はたしか退任会見で「チームとは個人でなく巨人だ」みたいなダジャレを言っているのを読んで、アホかと思った。暴力団に不倫を脅されて1億円も払ったアホだけのことはある。何も考えてない。

 だから巨人は戦力が整ったときは優勝できても、選手の力が落ちて来ると勝てなくなったのだ。数年前は絶頂期だったが、それが今年も続くだろう、いや今年はちょっと落ちても来年は大丈夫だろうと安心してしまう。胡座をかく。そうやって組織がダメになるのだなと、教訓になった。日産やソニー、東芝が落ち目になったのはそれであろう。 

 巨人の高橋由伸もずっとスター街道を歩いてきたから、今のところは監督の資質としては疑問符が付く。球団としては華のある監督にしたいのだろうが、それでは勝てないからやっぱり外から外人だのFAだので出来上がった選手をカネでかき集める愚策に走るのだろうか。4〜5年、監督として失敗するのを長い眼で見てやれれば成功するかもしれないが、野村のような名監督にはなるのはむずかしかろう。

 今年のヤクルト・スワローズが優勝したのは、前任の小川、今年の真中と続いた監督が、野村の教え子だったからだろう。数年かけてじっくり選手を育てたからだ。
 阪神はどうだろう。金本は在日だし、選手時代にわがままをやった人間だから、現役選手が言うことを聞くのだろうか。金本も最初は失敗するだろうが、それを関西のファンは待ってやれないで、罵倒するから、結局ダメだろう。

 野村氏が言っていた。外野手だった人で名監督になったケースはない、と。外野手は打撃ばかり期待されるし、守備は大雑把で良い、あまり野球でどうしたらいいかを考えない。だから監督にはむいてないのだ、と。高橋も金本も、DeNAのラミレスも、新監督はみんな外野手出身だから、そこそこにしかなれまい。

 今年も秋に、プロ野球のドラフト会議があって、夢のプロ野球に入って一流選手になろうとする若者が大勢厳しい世界に入って来る。
 テレビに映ったり新聞に出たり、うまくすれば億のカネがもらえ、美人妻と結婚でき、地元ではチヤホヤされる。
 だけど、本当にいいのか?

 これは野球選手だけに限らない。ごく普通のサラリーマンやOLでも同じことで、昨今では誰もが大学に行く。落ちこぼれたものが劣等感を抱きながら専門学校に行く。いうなれば狭き門のプロ野球を目指すのとあまり変わらない。

 高校の先生や親から言われるがままに大学に行き、首尾よく一流の大企業に勤めていても定年までの生活は保障されない。それが明らかになった好例が今年の悲惨な東芝の崩壊であった。
 一流大学なら大丈夫、大企業なら大丈夫、ステイタスもあり、カネももらえ、良い条件で結婚もできる、と考えても悪くはないけれど、それに安住していると、人生どこで破綻するかわかったものではない。

 自分だけは挫折しないとか、自分が行く業界だけは安泰だとか、自分の恋愛はきっと幸せな生活が待っているとか、会社はきっと自分を出世させてくれて定年まで面倒を見てくれるとか、そういう期待だけ、夢だけで自分の進路をなんとなく定めてしまう。
 そんな甘い考えで大学に行っても時間と学費の無駄になる。

 親や学校の教師は、まあたいていは子供に親切にしてくれ、思ってもくれ、イジメからも守ってくれるだろうが、社会に出たらそうはいかない。会社に入っても上司や同僚に恵まれなかったら、悲惨な人生になる。そうなるほうが普通だと覚悟しておいたほうがいい。
 それが普通だから、ある意味、転職雑誌や転職サイトが大繁盛なのだ。あるいは鬱病が蔓延するのだ。

 クルマの運転でも、住宅街を幹線道路なみに60キロでフッ飛ばしていくクルマがあるけれど、住宅街では子供や自転車が角から飛び出して来るもの、と思って運転しなければならない。俺の運転ならそんなことは起きないとか、飛び出すほうが轢かれて当然、という思いで運転するバカがいる。
 こういう運転がやれてしまう人間は、人生にも舐めてかかっているのだ。

 友人の子供が大学受験に失敗して、家に引きこもり、プータローをやっていると嘆いていた。これも自分の人生を甘く考えていたからである。何も大学に行かなくたって、これからの時代に合う職業を選べばいいのではないかと言ってみたが、親は聞く耳を持っていなかった。なんとか大学に行ってほしい、せめて専門学校に…としか考えない。

 野村克也のように、しょっぱなに挫折したからこそ努力の人になれたのだから、大学受験に失敗したことは寧ろチャンスだと考えればいい。
 巨人でいえば、長嶋茂雄や原辰徳はスターを約束された人だったから、それなりの苦労はしただろうけれど、「努力の人」にはなり損なったのだ。







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2016年01月05日

居島一平の優れた歴史観


 居島一平(おりしまいっぺい)の名は、「虎ノ門ニュース8時入り」をYouTubeの動画で見て知った。
 「虎8」はご存知の方も多かろうが、青山繁晴、武田邦彦、有本香などのコメンテーターを曜日ごとに呼んで、ニュースを解説する番組で、司会を居島一平がやっている。

 居島一平のことは知らなかったが、どうも司会業にしては垢抜けないが、彼のプロフィールが出ると「米粒写経」所属となっている。なんだこれは? と調べたら、漫才コンビだという。もう一人「サンキュータツオ」と組んでいるが、居島単独では「大本営八俵」を名乗って浴衣姿に陸軍軍帽を被って漫談をやっている。

 それでYouTubeで彼のライブなどを正月に見るうちに、ファンになった。インテリ漫才とか称して、ただのアホとはかなり違う趣で、半端ではない歴史や映画などの蘊蓄を駆使してしゃべりまくる。教養のレベルが高くないとついていけない漫才だから、これは地上波テレビのようにB層しか相手にしていない白痴バラエティでは受けまい。
 
 実力から言って、とうに大ブレイクしていいはずが、まだ知る人ぞ知るに留まっているのは、日本人の娯楽レベルが落ちたからである。白痴テレビでは彼の漫才はむずかしすぎるのが不幸である。

 それに居島一平は「右」投げ、左「撃ち」と自称して、漫才の中身が過激にサヨクを相当おちょくるものなので、サヨクメディアには無視されるのである。「虎8」は、はじめは香山リカのようなサヨクおばかさんを起用していたが、今や左撃ちのコメンテーターばかりになり、だから居島一平が合うとして起用されたのであろう。

 しかし、「虎8」では、居島一平の面白さが生かされていない。クソ真面目で、当たり障りのない反応しかできていない。ディレクターが悪いのだろう。彼の芸と過激かつ無尽の教養を生かしてやれば良いのにと思う。昨今の芸人ではめずらしく、「芸」がある。漫才で言うと、「中川家」の弟・礼二とか「タカ&トシ」のタカにも芸がある。こういう芸人は飽きられない。

 米粒写経のライブで「陰謀で読み解く八甲田山」は秀逸だった。
https://www.youtube.com/watch?v=nv9G-kCSRcU
 映画評論家の春日太一が登場して、米粒写経と掛け合いしながら、八甲田山雪中行軍遭難事件は、決して事故ではなく意図的にしかけられた殺戮であったとする見解を述べて行く。
 
 映画「八甲田山」(高倉健、北小路欣也ら)の原作となった新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』では、新田が登山好きで気象研究者であることもあって、気象の解説や組織論をテーマにしていたけれど、新田は遭難ではなく陰謀の臭いがする事実はみんな隠してしまったというのである。

 八甲田の事件は日露戦争の2年前である。酷寒のシベリアでの軍の装備の確認や、ロシア海軍が津軽海峡から艦砲射撃してきて青森市内が破壊されたら、太平洋側と日本海側が分断される。そのときの連絡として冬のルートを切り開いておくためにといって、青森と弘前の連隊に八甲田山塊の雪中行軍を命じられるのだが、考えてみれば変な話なのである。やらなくてもいい演習だった。

 春日太一によれば、日露戦争直前の陸軍のトップは長州閥の山縣有朋だったが、これを失脚させるために薩摩が諮ってこの八甲田山事件を起こした。山縣は明治天皇にも叱責され、面目を失って退任に追い込まれる。そして実際に日露戦争を指揮するのは薩摩の大山巌になった。

 八甲田山で亡くなった将兵は薩長の覇権争いの犠牲者だった。当時、東北の人間は薩長にとっては戊辰戦争で「朝敵」で、新政府に刃向かったのだから、虫けらのごとくに扱い、殺しても構わないのだった。
 やはり明治維新は、薩長のテロリストが実行したクーデターだったことが、こうした事実にも露呈する。

 雪中行軍に生き残った弘前連隊の将兵も、日露戦争で奉天会戦で激戦地に放り込まれて全員が、(おそらく口封じのために)戦死している。
 非常に面白い展開なので、興味ある方はお勧めだ。

 居島一平がフリーアナウンサー高島淳とかけあう「今夜も築地テラスで」(2013年1月22日)も面白かった。
https://www.youtube.com/watch?v=paQoYUfOZi8
 ラップで徳川家の15代将軍を並べる芸も面白い。歴史オタクの面目躍如である。

 この対談のなかで、居島は高島に「司馬遼太郎は好きですか?」と聞かれて言下に「嫌です!」と答える場面がある。
 その答えがすばらしい。とてもお笑い芸人とは思えない。
 ざっと以下にまとめてみた。

     *    *    *

 昔は夢中になって読んだのですが、途中からあの評論家口調というか…、司馬史観は歴史を俯瞰で上から見ると言われるが、上から見るのが今はやりの言葉で言うと、「上から目線」になっちゃってはお仕舞いだと思う。全体を見ていたはずがどうも自分の位置が上がってしまっていると感じる。僕はやっぱり歴史上の人物には寄り添うべきだと思う。例えば明智光秀が本能寺へ行くと決断するまで、辛かっただろうね、「時は今 天がしたたる五月かな」と詠むまでにずいぶん身を揉んだろうねえ、(明智に)「ちょっと一杯いこうか?」と言いたくなるような寄り添い方。

 司馬さんで典型的なのが、西郷隆盛の生涯を小説にした『翔ぶが如く』なんかも、司馬さんの悪い癖が出ている。語尾に「〜と言っていい」がすごく出てくる。「このときの西郷は〜だったと言っていい」というのがね。何それ。気持ち悪い。なんでもっと寄り添わないの? 寄り添おうよ。

 大東亜戦争についても、司馬さんはあんな無謀な戦争とか、バカな戦争をやってとか言う。全部あとから…。我々は今の段階ではいくらでも(批判を)言えますよ。でも、そのとき、その場、その環境にいたとき、これだけの選択肢しかなくて決断した。じゃああなたならもっと最適な選択ができたのですか? 私はあの当時生きていた人を全部弁護しようというのではなくて、どうしようもない人もいたでしょうし、やむを得ない場合もあったでしょうけれど、教科書で知った程度のことを上から神の目線で裁断なんかできていいんですか。

 山本周五郎や海音寺潮五郎はそういう目線では見ませんよ。結果論で書いちゃいけない。

 (中略)
 靖国神社についても、首相は参拝すべきだと思うけれど、あれは明治維新のときの戊辰戦争における官軍側の戦死者を祀った招魂社が始まりだった。朝廷側しか祀っていない。じゃあ旧幕府側や、新撰組や彰義隊の魂はどうなるの。そこがひっかかる。そこを国家としても、完全に死者の名誉を回復がされるような、同胞同士、刃を交わす事態になったけれども、今百年の時を閲してみたら、みんな国のために誠の心で向かい合ったのでしょう。行き違いはあったけれど、根は一緒だよね、という名誉回復がされているならいいがそうはなっていない。

 国連(UN)は結局、常任安全保障理事会は戦勝国じゃないですか。日本とドイツが旧敵国条項でいまだに差別されている。それと同じことを日本国内でやっている。靖国神社の中で。
 幕末の京都でも、志士にしても新撰組にしても、ただのテロリストのわけがないですよ。なかには赤き誠の心で戦っていた人間だっていっぱいいたわけじゃないですか。

 時流のなかで仕方なく敵味方に分かれて戦うしかなかっただけではないのか。
 靖国神社も勝った方だけ祀るのではおかしいし、また靖国というと大東亜戦争のことばっかり言われるのもどうかと。
 もっと根本に遡って考えたら、広い話をしたら、右とか左とかつまらない弁別を超えたところで、新たな地平が開けるはずだと思う。前に進む話はそういうことでしか開いてこないと思う。

     *    *    *

 すばらしい切り口である。司馬遼太郎への批判もその通りだ。私もずいぶん読んだけれど、サヨクだからということもあるし、説教臭さや、上から目線が嫌になって、本は全部棄てた。
 居島一平が言うように、歴史を後世の者が裁断するのは傲慢である。

 日本が本当は、靖国についても戊辰戦争に遡って、会津藩や西郷隆盛などの戦死者を、広い心で和解し、主張を超えてその誠の心を大事にする事をやれば、特亜どもの妨害を根本から排除することにもつながるだろうに。

 年末に日韓で「慰安婦問題」で合意に達したようだが、日本はたしかに政治的には成功したかもしれないが、安倍総理はまだ言葉が足りない。世界中が納得する、感動する言葉を本当は日本が発してくれるのを待っているのに、彼は揚げ足をとられるのを怖れて何も言わないのはいけない。

 居島一平が説くのは理想でしかないというかもしれないが、世界中のいがみ合いを解消するための道は、日本しかつけられないはずである。
 慰安婦問題で言うなら、日本だけに謝罪しろというのではなく、韓国軍がヴェトナム女性を強姦して生んだ「ライダイハン」にしても、米軍の慰安婦にしても、同じように苦しんだ人に謝罪するのでなくては、「あらたな地平」が開けるわけはない。
 
 それに、「今夜も築地テラスで」のなかで、居島一平がなんと森銑三氏の『西鶴一家言』を絶賛していたのにも驚いた。すばらしい眼力と言うべきである。
 私も一度ブログで詳しく取り上げようと思いつつ、先延ばしにしているが、森銑三は、井原西鶴の浮き世草紙本は、「一代男」のみであって、他の西鶴作品は全部偽作だと解いている。

 日本の国文学界は、徒弟制度のせいもあり、商売上の利権もあって、森氏を村八分にし、めったやたらに西鶴の作品にしてしまっているが、恥ずべきことなのである。「一代男」以外を西鶴の作品とする研究者は信用しないほうがいい。ドナルド・キーンもアホである。文学がわかっていないのだ。
 居島は、森銑三を異様なまでの分析力と説得力、と述べているけれど、本物を見抜く力を持った人間だと思う。




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2016年01月04日

ベルリン陥落の悲劇から何を学ぶか


 映画『ベルリン陥落1945』(2008年 ドイツ映画)は、第二次世界大戦末期、ソ連軍によるベルリン陥落の前後、数日間のべルリン市民の過酷な生活を描いている。

 原作は『ベルリン終戦日記 ある女性の記録』で、白水社から翻訳本が出ている。原題はEine Frau in Berlin 直訳すれば「あるベルリンの女」だろうか。
 これはベルリン陥落前後、ドイツが戦争に負け、国家の庇護をなくした市民の惨状を赤裸々につづった記録。爆撃、市街戦、窮乏、略奪、陵辱が映画では「記録」の事実に基づいて描かれているそうだ。
 初めはアメリカで出版されたが、ドイツで激しい非難がおこり、匿名にして再出版されたという曰く付き。

 占領されたベルリンの女性たちがどのように生き延びていったかの真実。実際には幼女から老婆まで、ほぼ全女性が強姦されており、5000人以上が自殺したとも言われる。
 主人公の女はソ連兵の果てしない蛮行から身を護るため赤軍少佐の「愛人」となって、生き伸びる決心をする。

 ドイツでも、赤軍による性暴力は戦後長らくタブー視されていたそうだ。この匿名の日記刊行は陥落の実態を記録した一級資料として、専門家から認められ、遅まきながら映画にもされた。
 勝ち奢った赤軍兵士が無抵抗の市民や女性に対して陵辱を繰り返す残虐さには目を蔽わせるものがある。

 どうしたって、日本の敗戦とも重ねて見てしまう。日本人女性も樺太・沖縄・満州そして本土…いたるところでソ連兵、朝鮮人、そしてアメリカ兵から暴行・虐殺の被害にあった。
 ただ、赤軍兵士による残酷な陵辱は、ナチドイツがソ連に侵攻したときにひどいことをした報復の意味もあった。
 そこをきちんと映画では見据えているのは立派である。

 しかし、日本軍は戦地でそんな暴行・虐殺はしなかったから、報いを受けるいわれはない。アメリカなどの連合国に加えて支那人朝鮮人らは、野蛮な戦犯容疑をでっち上げたのであり、日本女性を陵辱したことを隠した。

 しかし、戦後70年経ってもドイツがあの戦争の意味を問おうとする姿勢がありながら、日本ではかいもくないのが情けない。
 例えば戦後、米兵が進駐して来て多くの日本女性が強姦された。赤軍がドイツでやったのと同じである。米兵もドイツで赤軍と同じく暴行を働いたからソ連兵だけが悪いのではない。

 そういう事実を真正面から向き合い、また自分たちもソ連の人を陵辱した反省をしている。
 そういう映画が日本では作られない。
 高倉健主演で『三代目襲名』(1974年)が作られ、終戦後の在日朝鮮人の蛮行狼藉を描いたものはあったが、“ヤクザ映画”とくくられて真面目には扱われなかったようだ。今はそんな映画は作られない。
 例えば通州事件を描いた映画などは誰も作らないし、仮に作っても見ないだろう。

 どこか日本はキレイ事にしてしまう。とことん人間性に醜い現実を暴くことができない。
 だから、憲法9条さえあればひどいことにはならないなどと思いこむ。支那軍が来たら、さっさと白旗を掲げて降参し、支配下に入ってうまい支那料理を食ったほうがいいと、漫画家やくみつるが言ったそうだが、とんでもない無知である。

 この映画の赤軍と同じ暴力が支配する状態になるのが、安保法制に反対した連中にはわかっていない。サヨクの人ほどこういう映画(『ベルリン陥落1945』や『三代目襲名』)を見て、戦争の恐ろしさに身震いしてほしいものだ。こうならないために、国軍の武力充実は必須なのである。
  
 映画のなかでソ連軍の少佐が、ヒロインに赤軍兵士の暴虐を示して「彼らはクズだ」と語るシーンがある。赤軍でも佐官クラスは教養、知性があるのだろう。
 映画ではソ連兵のどれほどクズかの実態を、俳優たちが見事に描いていると思えた。下品、無教養、民度の極端な低さが顔つきや振る舞いでしっかりと演じられている。

 ざっといえば、当時ドイツ人は平均すればその学歴教養は中学生くらいだろうが、ソ連人は小学生のそれも5段階評価で「1」ばかりの子供が兵士になっている、といった感じである。

 ソ連がドイツに勝てたのは、ひとえに第二次世界大戦を企画したユダヤ勢力のシナリオだったからである。ユダヤは工業力のあるアメリカを使って、はじめはナチの国力と武力を伸長させたが、途中から援助を打ち切って、ソ連に勝たせるべく莫大な軍事援助を行ったからだ。

 別にナチがいいというのではないが、文化文明レベルでいうなら、中学生を小学校の劣等生が殺しきったのが、ヨーロッパ戦線である。ベルリンの女性がソ連兵に陵辱されたのはその現象面でしかない。
 わが日本も同様である。当時でも先のたとえで言うなら、日本は中学生、アメリカはソ連よりいくらかましでも、小学生の成績「2」くらいの民度のゴロツキGIが武力で圧倒した戦争であった。

 ユダヤ勢力は、一つの学校に譬えれば優等生だったドイツと日本を、どうしようもなく頭が悪くて下品な劣等生のソ連やアメリカに勝たせて、優等生をダメにしたのだ。ケダモノの劣等生ばかりにすればユダヤの好き勝手がしやすくなる、と。
 
 劣等生を好き放題にさせれば、優等生に劣等感を抱いているから強烈に優等生に襲いかかる。世界を支配したいユダヤにとっては、優等生だけが邪魔なのである。自分たちに対抗しようとするのは優等生だからだ。劣等生はそんなことは考えないし、ユダヤに刃向かってこない。セックス、酒、バクチ、麻薬、オートバイ、そんなものでもあてがってやれば喜んでいる。

 現在もユダヤ人の一派、イスラエルは、中東のイスラムを常に戦乱に叩きこんでいる。アラブ人たちは勉強して優等生になることができない。劣等生、ゴロツキのままなのだ。今年、ヨーロッパに偽装難民で移動したイスラムの人たちを見ればわかるだろう。ユダヤ勢力は彼ら劣等生をドイツに入れることで、優等生ドイツの力を殺ごうとしている。

 また、わが国では支那人、韓国朝鮮人を使って、日本を優等生にさせない策謀が次々に行われている。夫婦別姓とか同性愛を認知するとか、在日に地方参政権を与えようとかも、そういった流れである。

 この映画を評価はしたが、一方で人間の無惨さ、残酷さ、汚さは歴史に積み重なっていくばかりであることも確かで、反省しているようで、いささかも…ではなかろうか。歴史は繰り返すと言われるけれど、今も例えば中東で戦乱が絶えないし、支那のチベットやウイグルでの蛮行もとめどない。

 われわれはどこでこの連鎖を断ち切れるのだろうか。その考察もそれこそ浜の真砂が尽きるとも…で膨大な量になっているにも関わらず、戦乱も陵辱も止むことがない。

 貧困、無教養、戦乱は、常に意図的に起こされている。全部が全部ユダヤ勢力のせいではないだろうけれど、貧困、無教養、戦乱が誰かによって作りだされると知ることが人類の覚醒の第一歩でしかないだろう。




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2016年01月02日

自主防衛重武装中立の妄想からの覚醒(2/2)

《2》
 サヨク人権派は、ちいさな安保騒動でもそうだと思うが、日本は超軽武装でよく、しかも対米従属はやめろ、そうすれば戦争にはならない、だって支那や韓国はいい人たちだから、と言い募った。
 これは妄想である。一方の保守のなかには自主防衛、重武装中立がいいと主張する向きもあったが、両極端は一致すると言うように、どっちの意見も間違いだ。

 心情的にアメリカと組みたくないのは分からないではないが、現在はアメリカとうまくやっていくしか道はない。日本は戦争に負けたのだ。自主防衛、重武装中立を実現するには先程から説くように、もう一度大東亜戦争をやって、アメリカ、ロシア、支那、韓国朝鮮と全面戦争して、勝つしか道はない。

 それをやろうとすれば、戦争になる前に経済制裁を受けて締め上げられる。大東亜戦争のときも経済制裁を受けて日本は窮鼠猫を噛む状態にさせられたではないか。また同じ失敗をやらかすのか?
 日本は当分アメリカの属国でしかない。一気にその関係を破棄して、自主独立にしてすっきりさせたいだろうが、残念ながら不可能である。

 不可能なのは、アメリカの力が強大で、向こうの方が「ポーカーの達人」だからであるのと、日本人自身が萎縮しているからだ。戦争に負けただけで、自虐史観になり、非武装にすがり、欧米は常に先進で日本は遅れていると思い込んでいるのだから、自主独立でやっていけるアタマになっていない。

 サヨクの連中のように、憲法を護れなどと言っている人間が多いのだから、話にならない。その憲法はアメリカが創った押し付け占領施策であったのに、いまだに金科玉条、これさえあれば日本は平和だと信じ込んでいる。これは実際は憲法より上にアメリカがあることを護憲派は認めていることになっている。武装解除されて良かった、漠然と戦前は間違っていたと思い込んでいる。

 しかも、護憲派がもっと愚かなのは国連信仰を日本人が抱いていることだ。あれは戦勝国がその世界秩序を維持するための仕掛けであって、「国連」と訳しているのはいかさまで、「連合諸国」なのである。これもまた漠然と、国連は正しいと思い込んでいる。

 こうした「漠然と思っている」レベルでこれからもなんとかなると思っているレベルでは、どうしようもない。
 日本がアメリカと同盟を組むとか、「連合諸国」なりシステムに従うとかは、面白くないし、屈辱ではあるけれど、そういうやり方しか今は不可能である。

 その組む相手は邪悪だし、日本をムシリ取ろうと狙っているのはわかっていても、大局的に見てそれしか道はない。同盟を組む相手が日本にとって完璧で親切で互恵関係が保てて…なんてことはあり得ない。

 かつての日英同盟は良かった、日露戦争で助けてくれたとの思い出があるかもしれないが、あれもイギリスがロシアを叩くため、長期的戦略で日本を利用しようとしたのであって、親切でしてくれたのではない。
 むずかしい関係のなかで、如何に少しでも対等な関係にジリジリと押して行くか…が現実の世界である。

 いざとなったら(例えば支那や北朝鮮が核で脅して来たら)、アメリカは日米同盟を勝手に破棄して撤退するだろう。それを見越して日本は核武装しなければならないし、自主防衛しつつ、どう立ち回るかに長けていくしかない。

 ポーカーの例で述べたように、日本人はどうしても丁半バクチ的な思考になる。スッキリさせたい。一か八かで勝負に討って出る。
 支那事変が泥沼化した…という言い方が多い。いい加減にスキッとさせたくて丁半バクチに討ってでて、アメリカと開戦しちゃった。
 もっと粘り腰を発揮しておればと思わぬでもないが、あれは八百長だったから避けられなかった…。

 アメリカ人がポーカーを得意とするように、支那人が麻雀を得意とするように、途中でなんぼ負けても嘲笑されても、彼らは最後の最後に勝つことにだけ集中するようなタイプであるが、日本人はそれができない。

 ドイツや日本のように、武力、武術に得意な国民性で、決着は力で勝負してやるという自信がある国は、交渉がうまくならない。戦争の下手なユダヤ人、支那人、朝鮮人、フランス人などは交渉事や陰謀が得意である。絶対に負けを認めない。白を黒と言いくるめてでも勝とうとする。

 日本は韓国からデタラメな「従軍慰安婦」で攻めたてられ、いい加減にうんざりして、「もうスパッと決着させたい」と思ってしまう。最後はカネで決着しましょうか、などと言い出す。これでは奴らの思う壷だ。奴らは嘘を平気でくり返し、何十年でも何百年でも粘る。
 こちらもいつまでも決着がつかなくても、例えばポーカーや麻雀で、「構わないぜ、徹夜でやったろか」の気構えをとるのみだ。

 しかし。
 外交は神経がすり減る世界である。しんどいのが当たり前。どろどろの世界、それが現実である。
 知識秀才はそれが向いていない。すぐ正解を求めてしまう。諦めが早い。だから東大出の秀才官僚では、世界で闘えない。
 正しい国連に従いましょうとか、西洋が進んでいるからそれに倣いましょう、になっていく。

 国民の性格を、見直さないかぎり、世界と伍してやっていくことはできないだろう。
 安保法制で反対運動をやらかしていたサヨクどもは、自分の意見だけを採用するのが民主主義だ、立憲主義だと、ガキみたいなことを言っているようでは、先は暗い。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年01月01日

自主防衛重武装中立の妄想からの覚醒(1/2)


 明けましておめでとうございます。
 本年もどうぞ拙ブログ、よろしくお願いいたします。
 2006年から始めたブログは、今年6月でちょうど節目の十年になろうとしています。皆様の激励あったればこその感に浸ります。

   ■    ■
《1》
 高校生のころ、米軍基地に入ったことがある。わが高校のラグビー部が米軍キャンプ座間のアメリカンスクールから招待を受け、親善試合をやろうということになった。私はラグビー部ではなかったが、見学・応援に行けると聞いて、米軍キャンプ内が見られる絶好のチャンスと思って、土曜の放課後に出かけていった。最寄り駅まで電車で行って、そこからアメリカ側のスクールバスが迎えに来て、一同で出向いた。

 そのキャンプ内にあるラグビー場で試合は行われ、わが校は惨敗した。負けることは試合前からわかった。アメリカの高校生の体格の良さと動きの良さから、わかったのだ。私は敷地内がいくらかでも見られればよかった。
 いやもうその広大なこと。大仰にいえば地平線まで青々とした芝生が広がっていて、とても日本国内とは思えなかった。しかもそれは米軍キャンプ地のごく一部の、学校敷地なのであった。

 高校生ながら「これが戦争に負けるということか…」という感じにさせられた。屈辱感も覚えるし、その豊かさにうらやましくもなった。アメリカンスクールの高校生たちは、選手は上等の洒落たグランドコートを羽織り、応援の女子高生達も背が高くいい服を着ていた。

 試合で勝てないばかりか、生活レベルすべてで負けている印象が残った。1965年ごろだったから、まだ相当日本は劣っていたのだと思う。
 アメリカに劣っていると感じた体験を、戦後の日本人は味わっただろうが、そこで「うらやましい。アメリカはいいなあ」と思うか「クソ、日本をこんなに占領しやがって」と思うかで、われわれの人生の質が大きく決まったように思う。

 私の高校の同級生はほとんどが「アメリカはいいな」の感想を持ち、日米安保がどうなのかなんて政治意識はない連中ばかりだった。
 「お花畑」状態というか、奴隷の平和に安住しているというか…そんな級友と話が合わなくなって高校では困った。

 キャンプ座間の学校施設は、誰もがうらやむ広大な敷地に、立派な校舎や食堂があって、「いいなあ」というものではあったろうが、その栄華とは、大東亜戦争で多くの日本人の血であがなわれたものであり、その昔はインディアンを虐殺して土地を奪い、黒人や苦力を牛馬のごとくに使役して築いてきたヤンキーの文化文明であることを、その美しい緑の芝生の裏側を透かしてみる友だちはいなかった。

 沖縄でもそうだけれど、米軍基地はクソ面白くない。首都圏にもいくらでも基地はある。では取り戻すことができるのかというと、99%不可能である。不可能の構造は、一に支那が日本を狙っているから、日米で防衛しなければならないからだ。支那だけでなく、ロシアや南北朝鮮も狙っている。
 また一に、米軍が戦勝国の旨い汁を吸いつづけるために出ていかないからだし、一に日本国民が劣等感そのまま70年経っても「認識が敗戦国のまま」「主体性を取り戻したくないから」なのである。

 米軍キャンプ地をすべて引き払わせ、日本人の土地に取り戻すには、わかりきった話だが、もう一度大東亜戦争をやって勝つしかない。別の手として、今後はヘタレの、約束は必ず破る支那と組んで極東から米軍を追い出すのか。もっと言えば、アメリカが極東から撤退したら、支那か韓国に降伏して属国になり、どんな目にあっても黙って耐えるか、である。

 わが国が自主防衛・重武装中立を目指すのは、理想だろうが、現実にそんなことは不可能である。現実は嫌な言葉ではあるが、軽武装対米従属を掲げて、そのうえでなんとか1ミリずつでもアメリカに譲歩させて、少しでもわが国の主体性を確保していく以外に道はない。

 先日から述べてきたが、国際世界はポーカーの場である。ゲームから降りて鎖国することはできない。鎖国は理屈ではできるだろうが、日本が貿易もしないとなれば、エネルギーも食糧も外国から買えない、日本の製品も売れなくなる。

 そうなれば、日本の国土面積では極端にいえば江戸時代レベルの人口しか食わせていけなくなる。江戸時代では諸説あるが約3200万人の人口だったようだから、現在の1億2730万人をどうするのかの問題に直面する。余った人間は殺すか、餓死させるか、満州か南米に棄民するか、である。
 とうてい鎖国なんかできるわけがない。

 かといって、第二次世界大戦みたいな国家総力戦に討って出ることはもうできない。小競り合いならあり得ても、やるとなれば勝つためにはなんでもありとなって、核兵器、生物兵器、毒ガス、空爆、とてつもない大量の死がどちらの国にも生じる。

 それに、第二次世界大戦のころより企業活動や、金融活動がグローバル化し、世界経済と深くリンクし、多国籍企業も多くなり、戦争した場合の被害が自国内で留まらなくなっている。もし日米戦えば、日本企業がアメリカで現地生産していることも、アメリカにある資産も、投資もみんなパアになる。アチラ側も事情は同じだ。
 戦争したら、市民社会がこれも破壊される。だからやれない。

 譬え戦争に勝っても、被害が大き過ぎる。
 実際、イラクやシリアはムチャクチャにされて、社会が復旧できなくなっている。
 だから、支那も韓国も、北朝鮮も、戦争しないで勝つ方法を必死に考えて攻めてくる。

 戦争をやらかしたら、どこでも大量の難民が発生して、先進国になだれ込む。それも一大災難だと、2015年は世界各国が身にしみて知った年だった。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(6) | エッセイ | 更新情報をチェックする