2016年01月09日

北京からのPM2.5なんてへっちゃら(2/2)


《2》
 地球上に水が誕生したのは、南ク学派の本を読んでいる方なら常識だろうが、生命体の誕生と直接に誕生したのである。
 詳しくは『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社)を読んでいただきたい。

 生命体の本質は代謝である。これを『医学教育概論(6)』(瀬江千史、本田克也ほか著 現代社)から引用したい。

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 そもそもあらゆる生命体は、生命体特有の運動形態である代謝を行っています。代謝とは、外界から必要な物質を取り入れ、自己化する過程を通して自らの体を常につくり変え、自らの活動を行い、その結果不要になった物質を外界へ排泄するという過程であり、この過程を通して、その時々の地球との一体性を保ちつつ、地球から相対的に独立した生命体として行きていけるのであることを、まずはしっかりと理解してください。

 そして分かりやすくするために、単細胞生命体をイメージしてみてください。単細胞は細胞膜を通して外界から物質を取り入れますが、必要な物質を取り入れ、自己化したならば、その結果生じた老廃物が、生命体の中に生じます。その不要な物質が体内に貯留すれば有害となりますから、排出しなければなりません。

 このように、生きていくためには、その時々に必要なもの、必要でないものを選別し、保持し、捨て去ることが不可欠です。つまり選別は、生きていくことと切り離すことのできない働きなのです。

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 これは腎臓の機能を解いておられる箇所であるが、生命体が地球の物質を取り込み、自己化して、老廃物を排出する過程を見事に説いてある。排出したのがいわゆる生命活動によってできた“汚れ”であって、これをそのまま地球に吐き出していたら、地球自身が汚れ放題となり、生命体自身も汚れた地球上に生存できなくなってしまう。だから浄化(クリーンに)しなければならない。

 これは家を建てるときに、トイレのない家は作らないのと同様である。家を建てると直接に(切り離せずに)トイレは作られる。

 だから生命体の誕生は同時に水を生み、常に汚れの問題を解決してきたのである。水の機能はむろん希釈だけではなく、生命体の内部環境、保温、物質の均質化などいろいろあるが、今は汚れと希釈の問題だけに焦点を絞っている。
 地球上に生命体が誕生し、水のなかで生きると直接に汚れを洗ってくれる存在が水だった。

 地球自身が生命体というもう一つの実体と機能を持ってしまった。つまり地球は同時に2つの異なる機能をもつ〈矛盾〉した存在になったのである。
 なぜそんな〈矛盾〉ができたかというと、本来、太陽から飛び出した惑星は物質の一般性として冷えて固まるという、一つの機能で時が過ぎていくはずだった。実際、水星、金星などはいうなれば穏やかに矛盾をはらむことなく冷え固まったのだ。

 ところが地球は月という衛星が地球の4分の1の大きさで誕生したがために、ある温度に冷えてきたときに、満月と新月のくり返しによって、冷えるかと思えば温まる、温まったかと思えば冷える、どっちつかずの、他の水星や金星のように衛星のない惑星と異なって、本来は起こらないはずの変化が何千年だか何万年だか続いて、それが量質転化して機能となっていった。

 月の満ち欠けが人間の出産や死にも影響し、カニやウミガメが満月のときに産卵するのも、こういう地球と月の間柄があったからである。だから生命体は海で生まれたとか、隕石が運んで来たとか、雷のショックで生まれたなどという珍説が如何におかしいかだ。それでは生命体の誕生や死が月と明らかに関わる理由が説明できないではないか。

 その機能が不可逆的に、〈矛盾〉として定着し(量質転化を起こし)、消えなくなったのが、生命性の誕生だったのだ。
 この冷えるかと思えば温まる、温まったかと思うと冷えるのくり返しの性質(機能)が、生命体が(個としても種としても)死ぬかと思えば(子孫を残して)生き続ける、生きているかと思えば死ぬ、という、本質的ありようとして、論理としてつながっているのであろう。

 話を水に戻すと、生命体が活動すればするほど、また生命体が増えるほどに地球上の水も増えていった。決して、水の中で生命体が誕生したのではない。もともと水惑星なるものがあったのでもない。
 したがって、火星その他の惑星や彗星には生命体も水もないのである。わざわざロケットを飛ばして見に行くことはない。
 火星その他では、冷えるかと思えば温まる、温まるかと思えばまた冷える、の、くり返しが巨大な衛星がなかった以上は、機能として生じようがなかったからなのだ。

 はじめの単細胞生物は、増えた水のなかでは流されてしまうとか、陽光が届きにくくなるとかで多細胞生物(カイメン体)へと、あるいはクラゲ体へと、変わって行くのだが、そこは今回はテーマではないのでカット。先に言ったように『看護のための「いのちの歴史」の物語』を読んでください。

 二酸化炭素と酸素の問題もこれで解けるだろう。生命体が酸素を取り入れた自己化し、エネルギーとし、二酸化炭素に変える。その排出した二酸化炭素は空気中に拡散され、希釈され、よって他の物質に溶け込みやすくなって、例えば植物に吸われて光合成されて、きれいになる。
 
 もうおわかりだろうが、福島原発で生じた放射線物質もただちに希釈されたのである。かつてのチェルノブイリの事故でも、すぐに大気中で希釈された。
 かつてはアメリカ、ソ連、フランス、支那などが核実験をやらかし、その放射能を含んだ死の灰やら雨やらが日本に降り注いで、日本は潰滅すると言われたものだったが、今やなんでもないじゃないか。あの怯えた話はどこに行った?

 また6日に北朝鮮が水爆実験をやったそうだが、これも仮に放射能が生じても日本海を渡って来るうちに希釈されてどうってことはなくなる。

 昨日書き残したことがある。上昇気流のことだ。
 冬場は、北京のほうは地面がすさまじく冷える。都市特有の温かさはあるだろうが、かき消されるほど寒気はきびしい。となると地表付近の空気は温められず上昇気流になりにくい。同時に地表付近に真っ白になるほど溜まったPM2.5も上昇しにくい。

 しかし、いうなれば横風は吹くから、地表付近の空気は移動する。おそらく近隣周辺に拡散希釈されるのであろう。春になって地表が温まって上昇気流が発生すると黄砂が舞い上がることにもなる。
 だから冬場に北京の空気は真っ白になるが、上昇気流がすくないからPM2.5は上昇して偏西風に乗りにくい。よって日本にはやってこられない。

 支那からやってくる黄砂にもPM2.5は含まれている。すわ一大事と騒ぐけれど、黄砂よりPM2.5は微粒子であるから、それだけ希釈されやすいし、相互浸透しやすいのであり、偏西風に乗って遠くに行ってしまう。
 黄砂は悪いものとだけ言われるが、あれはただの砂という物質ではない、いろいろな物質(PM2.5も含めて)が物理的混ざっているか、もしくは相互浸透して化学変化を起こした物質なのである。

 黄砂がきてくれるおかげで日本の農地は栄養が豊かになって、作物が取れる面もある。
 それになにより、誰もが忘れているのは微量元素の効能である。微量元素は生命体にとっては、地球との相互浸透、地球の物質を取り込んで自己化するときの化学反応で、触媒的役割を果たすのである。

 例えば、お茶をいれるときに、鉄瓶で湯を沸かすとよいと言われるのは(味がよくなるというが)、鉄が微量に人体に取り入れられるために、人体内での化学反応が触媒として働いてくれるからである。
 あるいは温泉が効くのは、微量元素が皮膚から浸透するからである。
 それが神経やホルモンに作用して、元気に活発になるのである。

 だから皆さんマスゴミに騙されて、公害は悪だと思い込んでいるけれど、適度の公害、大気汚染は微量元素が取り込まれるから、健康長寿のもとでもあるのだ。むろん微量元素は、微量だから意味があり、効果があるのであって、身体に良いからと大量に摂取するのは害がある。
 北京の汚染はとてもじゃないが、「微量」どころじゃないから、害は深刻である。

 でも。
 もしかすると、北京郊外に田園があるのなら、そこらには程よい(希釈された)PM2.5を吸うことができて、かえって微量元素がとりこめて健康になる可能性もある。日本も、黄砂が支那から微量元素を運んでくれるおかげで良い作物が育つように、日本人が希釈されたPM2.5のおかげで健康になるかもしれない。
 黄砂は洗濯ものやクルマが汚れて嫌だが、栄養素、微量元素をただで支那から頂いて、ラッキー! というような面もある。

 日本人の平均寿命が延びたのは、適度の(?)大気汚染、水質汚染があって、微量元素が良い具合に作用したから、とも言えない事はない。もちろん雅子妃の祖父・江頭社長の日本チッソが水俣病を起こしたほどの大量の水銀を水俣湾に垂れ流せば、最悪の事態をまねくのは当たり前だ。

 むずかしいのは、微量元素は多過ぎても少な過ぎてもいけないことだ。昔はその民族は民族なりの伝統の食文化があって、健康を維持してきたのは、そうした三大栄養素だけでなく微量元素を露地野菜などから摂取できる食生活が確立されていたのだ。

 放射能にしても、汚染だ! 恐い! と叫ぶのではいけない。副島隆彦は、3・11の直後に原発前で測定したがたいした数値じゃなかった、危険なレベルじゃない、としか言わない。彼の言う事自体は間違いではないが一面的で、やはり弁証法のない悲しさである。
 希釈論も説けなければ、生命の歴史から解く事も出来ない。

 断っておかねばならないが、本稿でしたためた生命体誕生と水の話は、あくまで『看護のための「いのちの歴史」の物語』を読んでの私の解釈であって、一つの見解である。そのままこれが南郷学派の見解だと誤解しないでいただきたい。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする