2016年01月11日

人生での成功の秘訣


 人生で成功する秘訣といった本はたくさん出ていると思う。
 それぞれ実体験から導かれたコツなのだろう。 
 
 人生は誰にとっても辛苦の連続ではあろうが、死ぬときに「ああ、いい人生だった」と言って終われれば、まずは成功したと言ってよいのではなかろうか。
 そんなときに、よく言われるように、あの世にカネは持って行けない。せいぜい子孫に残す程度であるが、それで子孫が幸せになるとは限らない。

 一生が終わるときに、「ああ、たっぷり稼いだ、贅沢な暮らしができたから良かった」と言いつつ幕を閉じる人はそれでいいけれど、私は「歴史性ある生きざまができて良かった」と言いながら死にたい。それをもって成功した人生だったと思う。
 歴史性とは何かは、本ブログ内で検索していただければ、すでに何度か解説してある。

 私は成功の一番の秘訣はと問われるなら、それは良き師と出会う事だと申し上げる。以前、本ブログを見て、逢って話を聞いてほしいと言ってこられた女性がいた。人生に行き詰まっているとのことだった。その方に申しあげたのは、あなたには良い師がいませんね、それが今日の停滞なり人生への不満のもとになっているのではないか、と。

 私がそう語ると、そういう師と巡り会えなかったのだから、しょうがないでしょ、学校の先生も期待外れだったし…とぼやいていた人もいた。
 それは間違いである。周囲にいなければ、必死に求め、探して出合うよう努力すべきだったのだ。
 身近にそうした師がいなければ、歴史上の偉人でも良かったのだ。

 私の場合、金儲けではうまくいかなかったが、精神的恩師と言える方は二人いる。高校時代の担任と、もう一人はご存知、空手の師匠である。
 その共通性を考えてみると、端的には結果を出している人間に師事したこと、学んだことである。結果とは、いろいろあるだろう。財産でとか、地位でとか、ギャンブルでとか、女性関係でとか…、それは人それぞれで結構だ。

 私の場合は、歴史性や人間性であったと言っておこう。それが得られれば藤山一郎が歌った「男いのちの純情は……♪」という歌謡曲の歌詞にあるように、「カネもいらなきゃ名もいらぬ」で良いと思ってしまった。世間知らずだった。

 恩師お二人とも人生で見事に結果を出している方だった。それもナンバーワンの結果を出している方だった。世間的に有名かどうかなんて基準はクソクラエである。
 人間だから欠点もあるかもしれないが、そんなところを見るから、心の底から師事できずにたいていの人は終わる。

 南ク先生の悪口を言う人は、完全に自己満足で、自分のほうが偉いとか、南郷先生の欠点を摑んだと思っているようだが、それが大きな間違いである。良い師と出逢い、師事する、それもいわば盲目的に信頼する以外に、人生で成功することはないのに、テメエの感情が納得しないからというだけで反発したり冷笑したりしたら、根っきり葉っきりそれっきり…だということが分かっていない。

 だからそんな根本的に人生の生きざまを狂わせている輩とは、私は会話しない方針を貫いている。
 そういう輩は、人の揚げ足をとることだけが生き甲斐の哀れな動物にすぎない。よしんばいくらかいい事をその輩が言ったとしても、そんな余計な話は断固聞いてはならない。

 それは師たる方のすべてを、たとえミスがあっても信じるしか、人生で成功する道はないからである。
 だが、たいていの人はそうはならない。どんな立派な人だって間違いはある、だから「いいとこ取り」すればいい。それが一番効率的だし賢いやりかただと思ってしまう。

 そして多くの識者なんかの良いところをもらおうとする。「学際協力」なんて言うやり口がそうで、あっちの良いところ、こっちの良さそうな話を集めて、自分だけが得した気になって、前進しているつもりなのである。

 当然ながら、知識修得のためには汗牛充棟の本を読まねばならないけれど、自分のアタマを創るには、師と決めた方からすべてを受け入れるしか道はない。南ク先生の場合は、三浦つとむさんであったことは知られている。
 このことは私が僥倖を得て、『武道の理論』の南ク先生と、池袋のとある喫茶店でお話をうかがうことができたときに、直にうかがったことである。
 
 南ク先生はそれまでの私の人生で出逢った人間の誰よりも輝いておられた。世間でよくいうオーラが違ったのである。これは弟子入りするしかないと決断した。
 そのときに私は、それまでやっていたあれこれ本を買っていわば「人生、いかに生きるべきか」とか「どうしたら物知りになるか」のような希求は棄てた。

 友だちも家族も引き止めにかかった、その年で空手をやるなんてとか、どうせ三日坊主だろうとか、新興宗教じゃないのかとか。そうした妨害を振り払ったから、多くの友だちと縁が切れた。切れても構わなかった、人生で歴史性を得て成功したかったからだ。
 やめろと言っていた友人たちで成功した者はいない。

 どうせ身近かな友人知人のアホなアドバイスを聞いても無駄である。彼らは人はいいかもしれないが誰も成果をあげていない落ちこぼれだったから。身近な友人らは、成功へのノウハウも持っていなければ、私を立派にしてくれる指導力もないのである。

 私のブログや、天寿堂整復院の稲村さんのHPなどに、南郷学派の悪口や、自分のはかない意見をぶつけてくる輩がダメなのは、玄和会=南郷学派がわかるまでにアタマが量質転化していないから、拒絶反応してしまう。自分の努力で最高のものと出逢う「質」に変わっていないと、南郷先生という質の転化には付いて来られない。最高のものを受け入れるには、受け入れられるに足る実力を創っておかなければダメなのである。

 私は偶然に南郷先生と出会ったわけではない。そこに必然があった。世の中にはむろん偶然や幸運があるが、それとともに、良い量質転化を起こすには、起こせるだけの若さも含めた質がなければいけない。

 私の場合は、入った高校で偶然生涯の恩師と出あったが、その最高の方に出あって教え子になって薫陶をうけたからこそ、次の「最高のもの(南郷先生)」と出あった時に、最高のものを受け入れられる実力が整っていたのである。

 私は偶然に高校で生涯の師に出あって、若い柔軟なアタマのうちにその薫陶を素直に受けたおかげで、それなりの実力がついたという実感を持っていたから、のちに南ク先生の本と出あい、またご本人に会えたときに、素直に従うことが出来たのだと思う。

 そうした経験がない人は本当に気の毒だと思う。師たる人間を見つけ出す必要性もわからず、草の根をわけてもそれを探さなければならない意義も分からずに、人生さまようばかりである。

 先程来言うように、最高のものに出合えさえすれば、もう人生の成功は約束されたも同然かと言えば、全然違う。私の場合は空手をはじめてからが地獄だったことは、本ブログでもなんどかしたためた。たいていの人は、シゴキについていけずに落後する。
 その指導がどれほど過酷なシゴキであるかは、「学城」に修行論を書いておられる北条翔鷹氏の論文を読まれるといい。

 落後者たちは逃げたくせ、俺は悪くない、南郷先生のほうが悪いのだ、と恨む。ささいな欠点を見つけた気になって、俺のほうが見る所は見えているんだ、と自惚れ驕りたかぶる。で、ダメ人間に戻っていく。
 ひとえに、思春期青春期に受験勉強ばかりやって、大事な師との邂逅をないがしろにしたツケがこうして払わされる。

 おごれる人も久しからず
 唯春の夜の夢のごとし
 たけき者も遂にはほろびぬ
 偏に風の前の塵に同じ

 人生には、逃げ道はいくらでもある。逃げ道はすべて「言い訳」という敷石で敷き詰められている。それは決して成功への道ではない。たった一言でも「言い訳」したら、人生はおしまいだ。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする