2016年01月28日

刑事コロンボから学ぶもの


  「刑事コロンボ」は、ややお年を召した人なら知らない人はあるまい。
 コロンボ役を長年やったピーター・フォークは、あのよれよれの着古したレインコートを自ら発案して着用したそうだ。演技だけでなく、ドラマ全体を見てとる優れた俳優としての実力を思い知らされる。

 さっそうとしたイケメンの刑事ならいくらでもドラマや映画でいるが、ああいう見た目風采のあがらない刑事に仕立てたことも大ヒットの要因の一つだったのだろう。
 「刑事コロンボ」シリーズは面白かったが、いったん終わってまた始められた「新・刑事コロンボ」は質が悪くなった。

 さて。
 刑事コロンボはなぜあのよれよれのレインコートを着ているのだろうか、が今日のテーマである。そりゃあレインコートもクルマも新調できないほど貧乏だという設定だからだ、あるいは、着るものに無頓着なんだろう、とするのが常識的答えだが、それでは話題にならない。
 また、あの貧乏たらしい格好でのこのこ犯人の前に登場するから、犯人のほうが侮り、油断してしまうことも狙っているようだ。

 しかしながら。
 あのレインコートの意味とは、コロンボがいわば「初心を忘れないため」これであろうと私は想察している。
 コロンボの推理能力は卓越している。もちろんドラマの話だが、現実だと思っていただきたい。
 服装に頓着するいとまもなく、事件の推理に没頭するから、とも言えるだろう。

 殺人課の刑事はコロンボにとっては天職である。超一流の刑事として事件を解決するために、彼は己れをむなしゅうして、ただ刑事に憧れて、ささいな証拠や矛盾点を見逃すまいと没入する。
 その認識の技化が、一流の刑事として必須であることを彼は悟ったのだ。

 あのくたびれきった、これから捜査のなかでどう汚れても構わないレインコート。その服装に身を委ねて、他人がレインコートを新調しなさいよと勧めても意に介さない。刑事としての推理能力が技化するまで止めない。一流の刑事になってもなお止めない。そこに頑固一徹がある。

 たいていの人は、服装なんてどうでもいい。古くなったらみっともないし、給与もあがったら新調しようと思うだろう。しかしそれに甘えると、推理能力の技化、その量質転化が遅れる。
 服装くらいいいじゃないか、と凡人は考える。服を替えても推理力は維持できるという自信があるからだ。

 たしかにそういえる。私も個人的にはもうちょっとこざっぱりした服装で仕事すべきとは思うが、今はあのドラマから得る教訓のことを述べているのだ。

 服装は替えても捜査力は変わらないとの思いは、認識論的に説けば、自分の思いが強いのだ。だから服装を替えても大丈夫と思う。それでは量質転化に失敗する。
 役柄のコロンボは自信がなかった。アメリカ社会では差別されがちなイタリア系で、落ちこぼれが就職する警察に入り、人が嫌がる殺しの現場に行かされる。すべての関係者に対して強い疑いの目を向けるので嫌われる。しかも背は低い方で、イケメンじゃない。

 強い劣等感があったはずだ。その劣等感をバネに、コロンボは執念深く犯人を追い詰めて行く。彼は自信がない男なのだ。だから自分の思いを先行させずに、対象をくどいまでに調べ尽くそうとした。
 だが、長年捜査をやってくれば、おれはバカじゃない、推理力は一級だと自信が出て来るのは避けられまい。そうすると自信がないゆえにがんばって捜査しようとして初心を忘れてしまい、例えば鑑識に任せきりにしたり、後輩刑事に聞き込みを任せたりして、自分はアンカー的立場に君臨していく。

 そういう立場になっていけば、給与も地位もあがって、いい服装に身をつつむこともできるようになる。それをあえてコロンボはしないで、現場主義を貫き、服装に頓着しないキャラを維持するのだ。

 コロンボを演じたピーター・フォーク自身は、父親がロシア系ユダヤ人、母はポーランド・チェコ・ハンガリー系ユダヤ人である。マイノリティーである。右目は義眼を入れているのは良く知られている。そうしたハンディがあったから二枚目俳優ではなく、演技力で勝負する俳優になった。コロンボ役はそういう自己を投影しやすい役柄だったことも、大ヒットの要件になったのだろう。

 こう捉えるのは深読みし過ぎではあろう。「刑事コロンボ」は藝術作品ではなくテレビドラマであって、エンターテインメントである。面白ければいいとして、制作者たちはコロンボのキャラを作っているのだろう。
 しかし、私たちが対象を高みにおいて捉えるとは、こういうことを言うのだと思う。

 コロンボの仕事への打ち込み方、生きざまは、弁証法的に言うならば徹底した量質転化化を図るために、たとえよれよれ、くたくたになっても初心のときの服装を変えないということである。あのレインコートに穴があいてさすがに着られなくなったら、彼はきっとまた同じような安物のレインコートを着るに違いないのである。

 捜査能力、推理能力、犯人追及の執念といったものを量質転化させる、それを量質転化するまで止めない、量質転化してもなお止めない。己れをむなしゅうして続ける。その一つのアイテムがレインコートなのだ。だから、「また頑張ろう」となる。
 そして、劣等感の固まりだったコロンボは、見事量質転化して、劣等という“質”を、継続することの量の積み重ねによって、切れる推理力という“質”に変えることに成功した。

 だが、たいていは、係長になり課長になり部長になり…と評価されていき、地位もあがっていくと、そういう量質転化化への強い意志は薄れていく。

 よくスポーツ選手とか藝術家とかで、まだ売れないころ、無名だったころの気持ち(謙虚さや飢餓感や志)を忘れないために、そのころの何かアイテムを持ち続けるとか、部屋に飾っておくとか、そんなエピソードを聞くことがあるだろう。コロンボの服装はそれと同じだと私は捉えた。

 ところで。
「私淑」という熟語がある。尊敬する人に直接には教えが受けられないが、その人を模範として慕い、学ぶことという意味で、肝心なことは「良いと思い慕う」である。
 「良いと思い慕う」には、コロンボ刑事のようでなければダメだと思う。

 師たる人に直接教えを受けられなくても(私淑)、また幸運にも直接受けられても(師事)、学ぶとか、自己研鑽するという場合に、コロンボのようなありようは基本なのである。
 「師事」とは「師とする」と「事(つか)える」の意味であるにも関わらず、「仕える」がたいていは忘れられる。

 本稿は1月11日にアップした「人生での成功の秘訣」で説いたことにつながっている。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/432370694.html
 あるいは「鬼の指導を受けられる幸運」で紹介した、チェロの指導者ハーヴィー・シャピローの話につながる。

 何事でも成功するには、これと決めた師と出合うことであり、師を絶対視して、身を委ね、いかなる理不尽にも耐えて師を慕い続け、仕え続けなければならないのである。
 だが、たいていの人はそうはならないと説いた。

 コロンボのようにいつも同じレインコートを着続けるなんて「愚かな」ことはしない。
 つまり、あっちの先生の良いところ、こっちの言説の追いところを取り入れようとする。

 譬えていうなら、ランチは必ず決まったカレー屋に言って、必ず同じカツカレーを注文し、それ以外は絶対に食べないなんてことはしないで、たいていの人は今日はあっちのラーメン、明日はむこうのナポリタンと渡り歩くようなものである。
 しかし私淑するなら、または師事するなら、なにがあろうとランチはカツカレーと決めて浮気はしない、という覚悟が必須だと、私は言っているのだ。

 拙ブログにも、もっと人の意見を受け入れろとか、南郷学派以外の識見も勉強しろとか、ああせいこうせいと押し付けがましく言ってくる輩がいるが、本稿のコロンボ刑事の例で述べたように、私の生きざまとしては受け入れないのである。
 多くの人は、自分の思いを先行させてしまう。しかし私はそうはしたくない。師ならこの場合どうするかとか、師の言う通りにしよう、しかない。

 だが、たいていの人は、こういう生きざまは理解できまい。彼らはだから、なぜコロンボ刑事がくたびれたレインコートを着つづけるかも解けまい。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする