2016年02月29日

月なき み空にきらめく光


 このところ、重力波や引力のことで、あれこれと述べてきた。Yuuri様と若干の論争もできて楽しかった。
 もうこの話は打ち切ると言いながら、また、というのも気が引けるが、本稿は旧ブログの再録であるからご容赦を。
 2006年6月にブログを始めた直後に書いたものである。
 これも引力の問題を扱っているから、ご参考までに。かなり加筆してある。
 また、これを理解していただければ、重力波がないことも分かっていただけようか。

   ■    ■

  月なきみ空に きらめく光
  ああ その星影 希望のすがた
  人智は果てなし無窮の遠(おち)に
  いざその星影 きわめもいかん
          (唱歌「星の界(よ)」)
https://www.youtube.com/watch?v=sQqmZvD3RUQ

 という、優美な唱歌がある。賛美歌の曲に填詩したのだろう。
 それは話のまくらで、なんで星(恒星)は光っているのかという話をしたい。また、この歌のように星空を眺めて無窮の遠(おち)に思いを馳せて、引力というものの謎を巨大なスケールで考えてほしいのである。

 東京では夜空に星はほとんど見えず、「津軽海峡冬景色」じゃないけれど「はるかにかすみ見えるだけ」である。空気の澄んだ田舎で見る満天の星には感動する。あの夜空こそ、引力とは何かを語っているではないか。

 さて。
 恒星は太陽と同じものである。太陽が地球や土星を引き連れて運動しているように、他のすべての恒星も惑星を伴っている。
 恒星は必ず惑星を引き連れている。だからこそ恒星が燃え(光り)つづけるのである。そんなことは天文学者の誰も言ってないぞ、と気色ばむ向きもあろうが、まあ、聴いてください。

 太陽(恒星)は、惑星を引きつつ、惑星群に引っ張られて移動している。決して、太陽は一点にドンと居座っていて、その周りを惑星が楕円運動をしているのではない。太陽系自体が、他の太陽系(恒星系)と引きつ引かれつしながら、移動している。太陽系自体が、あっちに引かれこっちに引かれしているのである。

 たとえば、惑星がバラバラにある状態のときと、ほぼ一直線上に並んだ状態のときでは、引力の強さが異なる。わかりやすく、太陽と惑星の配置を横から見た図に描けば、ほぼ一直線上に惑星が並べんで右なら右に偏れば、太陽は惑星群のほうに(右に)引かれるのである。

 ちょっと話がずれるが、惑星がバラバラに、とはおかしな表現になってしまうが、その意味は、太陽から見て、惑星が上のほうや下のほう、斜めの方にあるのではなくて、ほぼいわば太陽の赤道にあたるところの延長上に並んでいる。

 つまり太陽が回転する時の遠心力で水星から火星までの惑星が飛ばされたからこうなっている。では、なぜそれら惑星は飛ばされたときに宇宙のかなたまで飛んでいかなかったのか。そして今はずっと太陽からの距離を一定に保って公転しているのか、いられるのか。

 話を戻せば、太陽は移動するがゆえに宇宙空間の物質を取り込むことができる、というのだ。つまり、稲を刈るコンバインのように、移動していくから、稲(宇宙空間の物質)を取り込むことができるのであって、コンバインがじっとその場にいたら、稲を取り込めないのと同じ理屈か…。

 恒星が宇宙の一点に存在するだけなら、やがて水素からヘリウムへの転換、核融合、はいわば燃え尽きてしまうはずが、そうはならない。
 太陽は移動しているから、宇宙空間物質を取り込んで、水素からヘリウムに転換する過程で燃焼することができる。このあたりは申し訳ないが半可通で、これ以上は説明できない。
 太陽(恒星)はそれゆえ、永遠に燃えつづける。

 この太陽(恒星)のありよう、存在性とでもいうか…、宇宙空間の物質を取り入れては自己化し(水素をヘリウムに転換し)ちがう物質を(おそらく)外に出している、そしてエネルギーを使い、放出しているありよう、これは実は生物のありようとそっくりだと気づきませんか?

 太陽の存在する論理が、地球上に誕生した生命体の生存する論理に、引き継がれている、とみることもできよう。
 太陽がそうした運動が可能なのは、宇宙全体の恒星どうしの引き合いもあり、また引き連れている惑星と引き合ってつながりあってこそ成り立っている。

 太陽が個として成り立たぬように、生命体もその個の生物だけでは成り立たない、自然環境との共存というよりも、地球上の自然環境すべてで生命体であるということである。
 その生命体の誕生から人間までの歴史を、人類史上初めて解いたのが『看護のための「いのちの歴史」の物語』(本田克也ほか著・現代社)なのである。

 惑星は、太陽から飛び出した。太陽に近いところから水星、金星、地球、火星…と並ぶ。これらは太陽から飛びだしたものだが、それ以降の木星、土星などは太陽から飛び出した天体ではなく、他から太陽系に引きずり込まれて、太陽になりそこなった惑星であろう。

 水星から火星までの惑星は飛び出したときは燃えていたはずだが、公転自転のスピードが早すぎるために、燃える環境を維持できなかった。そのため冷えていった。そして唯一地球だけが冷える過程の化学反応で生命体が誕生した。
 これが恒星が必ず惑星を引きつれているわけだ。

 これに軌道が違う彗星の問題があるが、これはご勘弁を。いずれ解けるのだろうが。
 ここまで説いてきながら、私はまだではなぜ引力が生じるかは言っていない。実は言うつもりもないが、この恒星どうしの引力、恒星と惑星の引力を像として描いていただければ、大きなヒントになるはずである。いずれの天体も、自転している、これである。

 自転は、天体という実体の機能なのである。なぜそんな機能が必要なのか、あるいは誕生したのか、それが引力とはなにかの答えだろう。

 自転していなければ、公転もできないし、恒星と惑星の距離も保てないのである。
 皆さんに想像していただきたいのだ。引力とか重力とか填は、かかる無窮の宇宙の、実体と機能を指して言うのであって、ニュートンが見た「リンゴが地面に落ちる」の現象は、そのごくごく小さな現象だということだ。

 地球の中心では引力はゼロになるとか? 冗談で言ったが、天体を分解したら中から引力の元が発見できるのかとか? それは誤りである。
 無窮の宇宙の実体と機能にひきかえ、重力波の説明は、池に石が落ちて波紋がひろがるように…と、チマチマした説明である。

 余談ながら、この論理を踏まえれば、宇宙に果てはあるのかとの疑問にはすでに答えがでていることがわかるだろう。宇宙に果てがあるとすれば、そこがいわば壁になり、宇宙全体の引力のバランスがそこで狂うではないか。宇宙に果てがない、無窮だからこそ、この巨大な引力の引き合いのバランスがとれている。
 そして当然にブラックホールもないし、宇宙の膨張もないのである。

 これらの言説は受け売りを、私の解釈を加えてしたためている。私ごときの発見ではない。しかし中学生程度の知識で十分これは解けるのだ。
 どうして見て来たわけでもないのに、わかるのかといえば、それが弁証法の実力。弁証法が技化していないと、恒星の謎は解けなかったのである。

 恒星は自転しているが、惑星はその恒星とは逆方向の自転をしている。恒星が安定的に自転ができるのは、惑星が存在して、かつ惑星が恒星とは逆の回転をしているからである。自動車のタイヤとそれを止めるネジの例でわかってほしい。タイヤの回転と同方向にネジ(ボルト)が締めていれば、タイヤは飛んでいってしまう。

 『弁証法はどういう科学か』にあったように、これは「対立物の統一」だからなのである。あるいはゼノンが言ったように、「飛んでいる矢は止まっている」が理解できないと、解けない謎なのだ。
「あるものがあるものである、とともに、あるものでない」それが運動である。太陽も、太陽であるとともに太陽でないから、運動している。

 つまり、恒星がじっとしているように見え、月なきみ空にきらめいて見えるのは、運動しているからである。恒星は決して、いわば床の間の置物みたいにじっとしているのではない。運動しているからこそ、燃え(光り)かつじっとしているように見える。

 竹馬に乗って、じっと立つことは難しいが、歩いていると安定する。
 「弥次郎兵衛」というおもちゃがあるが、あの真ん中の人形が恒星で、左右の重りが惑星である。惑星とバランスがとれているから、中央の人形(恒星)はじっとしていられる、という例が適当かどうかわからないが。
 「弥次郎兵衛」は棒(針金)で重りとつながっているけれど、静止しているからそれでなんとかバランスは取れている。恒星と惑星の間に棒はない。ではなんでつながっているのか、である。

 恒星(人形)は、惑星(重り)を伴わなければ、存在できない。だから恒星は必ず惑星を引き連れているのだろう。

 ところで、宇宙空間の話に関して、本ブログ「宇宙空間に水分子はない・再説(3/4)2014年12月3日付で論じてある。よろしかったらご覧ください。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/409988036.html




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年02月27日

世界経済は崩壊しても日本は安泰


 支那経済が崩壊し、アメリカもガタガタ、EUは難民・移民に加えてあちこちデフォルト寸前、ドイツもフォルクスワーゲンが萎凋したうえにドイツ銀行も大打撃。あおりをくらって日本でも株価が乱高下している。世界経済が大揺れとなっている、とみな心配顔だ。

 アメリカのFRBが利上げするのしないのと、うろたえている。支那のAIIBも発足はしたが実稼働できそうもない。原油価格の暴落で、サウジアラビアもロシアも青息吐息。
 で、通貨の基調としてはやっぱり円が信用されて買われ、円高になる。

 ざっとこういう状況で、新聞や経済評論家などはこれは大変だ、日本発の世界恐慌も現実味を帯びてきた、などと言っている。
 細かいところを見れば、あちこちでむずかしい事態に至っているのはわかるが、大きく、長期スパンで見れば、われわれはいささかも動じるには及ばない。

 本ブログを揶揄する向きには、このブログは経済に弱いとか知識がないと言ってくるが、別に気にしていない。
 私はずいぶん以前から、日下公人氏の世界はどうなるかとか、経済見通しを学んできて信用しているから、経済の動向で右往左往したり、生半可な知識で語ったりする必要がないと安心しているのだ。
 いわば楽観論に浸っているから、マスゴミの超悲観的論調には動じなくて済んでいる。

 その日下公人氏が昨年暮れに、DHCシアターの「日本出動」という番組(月1回)で語っていたことを紹介したい。発言の概略を書き起こしたものである。

     *    *    *

 (FRBが利上げを行なったが…という質問に対して)
 FRBと日本銀行は新聞では同じ政府の中央銀行だと言っているけれど、違う。どこがどう違うかを言うとややこしいから、同じものとして、学者も評論家も記者も議論している。大雑把な議論ならそれでもいいが、精密な議論ならFRBとはなんだというところから言わないとわからない。FRBは陰謀の巣窟とも言える。では陰謀とは何か。彼らが得になるように“無理”をすることだ。

 しかし今までの日本人は、心をあわせ、しっかり働いて、FRBになにをされてもそれにフィットし、マッチして、その陰謀を乗り越えてきた。日本を嵌めてやろう、日本から儲けてやろうとして彼らがやったことは向こうが損をしている。そういう底力がある国は、FRBが利上げや利下げをしようともまったく気にならない。

 「どうぞご勝手に」、そういう考えをする人が日本人にはたくさんいた。そう考えられないのは、ただの経済学者、ただの新聞記者、ただの経済評論家だった。FRBが利上げをしたら、それはポンドや元などのいろいろ波及していく。それを全部彼らは言わなければいけないの?(笑)
 どちらにしても、日本人のように、まじめに働いて、助け合って、賢くて、長い目で信用を大切にしている、こういう国に失敗はない。他の国が失敗する。

 日本は必ず勝つ。その成果が現れてきて、世界が日本の真似をし始める。だから「日本出動」になる。いわば「柔よく剛を制す」だ。
日本出動といってもわざわざ出ていくのではない。世界中みんながついてくる。これが私の話の根幹である。

 日本はインチキしない国だ、だから円を買おうとなる。それで円高になる。やがて誰もドルを持たなくなる。自然にそうなる。経済学者や評論家がなに言っても関係ない。日本人は国債や銀行に預けて利息がつかなくても、円を持っているではないか。利息がつくほど危ないんだから。それを日本人は知っている。アメリカは仕掛けが多い国だなあと気づいている。

 高い利息を求めて右往左往する人もいるが、しない人もいる。将来は円なのだ。その通貨をアメリカ人たちはなんとか騙しとろうといろいろなことをするのは、日本人から見ると陰謀だと見えるけれど、向こうからすれば当たり前なのである。日本人は人を騙したり陰謀を謀ったりする必要がない。黙っていても円の価値が上がっていくのだから。

 日本人はしっかり働いている。これから日本人はますます働いて、そしてますます幸せになっていくだろう。働くといっても、汗水流さなくても、日本人の感性、日本人の叡智、互いに足をひっぱらない、助け合う、教えあう、盗まれても苦情を言わない、そういう働き方がすごいのだ。

 日本の学者、経済評論家、新聞記者はそういうことが見えない。彼らはみんな個人主義。個人で考えていて、互いに助け合うということがわからない。彼らは仕事上でも助けあわない。そういう連中が言うことは、日本人には当たらないのである。

     *    *    *

 さすが日下公人氏である。悠揚として迫らざるの姿勢、見事である。
 年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)による株式直接投資の失敗で、年金資金が80兆円だかふっとんでしまったことで、媚中・副島は、「それみたことか、安倍首相が悪い、自民党が悪い」とわめき散らしている。たしかに巨額の損失ではあるが、日本人はたいして動揺していないではないか。

 細かいことをいえば、というかこれはユダ金による陰謀だとか、日本はやっぱりアメリカの属国だからかと嘆く向きがあろうけれど、また事実そうであろうけれど、一方で国民はいささかも動じていない。
 安倍首相に騙されているんだ、マスゴミがグルで隠蔽しているんだと言えるかもしれないが、それでもなお日本人はうろたえることがないのはどうしてだろう、とは媚中・副島は語れない。
 日本人は言霊信仰があって、「起きる得ることは想定したくない」性向がある。だから大切な年金がパアになるなんてことは、考えないのである、とも言えよう。

 しかしながら、日下公人の言うのもまた真実ではなかろうか。日本はいくつか失敗もし、大けがを負ったこともあったが、いつだって立ち直り、いつの間にかトップに立ち、信用を回復して揺るぎないのである。大東亜戦争で負けたはずの日本が、いまや経済分野では世界一安心な、信用できる通貨・円を把持している。

 日下氏はこうも言っていた。日本経済はGDPが上がらず、横ばいだと心配する人がいるけれど、例えばサラリーマンの休みは増えているではないか。経済数値が横ばいなら、休みが増えた分、成長しているのである、と。
 また「住み心地」なんかは経済的数字には現れない。夜間に女性でも外出できる、安心して眠れる、水道から水が飲める、こういう「住み心地」は世界中で日本だけだ。

 支那はGDPが世界2位に躍進した(大ウソ!)というものの、人民はカネを握って海外逃亡、どこの都市も田舎も公害で息もできない。住み心地は世界最低ではないか。

 余談ながら、中共は南沙諸島、西沙諸島を埋めたてて軍事基地をこしらえて領土を増やしたつもりでいるが、あんな大海の孤島に人は住めるものではない。やがて居られなくなってまた絶海の孤島に戻るのだ。

 日本には“経済学”学者(本当は研究者)はいても経済学者はいないと日下氏はいう。そのとおりで、他人の学問の本を読んでいるだけで、本物の現実の経済を見ようとしない。物理学分野でも同じことで、“物理学”学者はいても物理学者はいないから、アインシュタインンのいかさまが見やぶれない。

 学者も評論家も新聞記者も、大学ではアングロサクソンの学問や思想になんとか純粋を求めてすがりつく。アングロサクソンのアタマになりたいと、彼らは一体となっている。
 その連中が、経済はどうなるとか、安倍の施策、日銀の方針は間違いだと騒ぐのだ。

 「日本出動」の番組で、インタビュアに「これからの世界はどうなりますか?」と問われて、日下氏はこう答えている。
 「かんたんだよ、世界は安倍さんのように変わるのさ。安倍さんは就任以来、50カ国も訪問してきた。どこも大歓迎している。安倍さんはその国の大統領や首相と会談した話は新聞記事になるが、そのあとで安倍さんがなにをしているか記事にしない。それが必ずその国に尽くした人や日本と深く関係があった人の墓を参拝している。

 それが痛く現地の人のココロを動かしている。ほかの外国の元首が来てもそういうことはない。
 みんな日本に憧れ、日本に助けてもらいたいのだ。成功している、安心な日本の安倍さんに気に入られようと変わるしかない。日本が素晴らしい国に見えている。みんな日本全体が好きなんだと、大づかみに摑めば間違えない」

 


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2016年02月26日

TPPを日本飛躍の好機に


 マスゴミはTPP交渉が妥結したと言っては、ソラ大変だ、日本の農業は潰されるとか、医療も崩壊するのではないかとか、騒いでいる。TPPはどうも中身がはっきりしないから、論じようもなかったというところだが…。

 そもそもTPPの原型は日本が提唱してきたことである。アメリカのごり押しで進められてきたわけではない。1978年にときの大平正芳首相が「環太平洋連帯構造」を表明したところから始まっている。
 その後、日豪協定や、87年設立のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)などに発展して、今日のTPPに至っている。

 大平氏の提唱より遡れば、戦時中の「大東亜共栄圏」である。東条英機首相が主宰した大東亜会議が、それまでの欧米支配に呻吟してきたアジアを植民地から解放して、自立しかつ協力しあう体制を作ろうとした、歴史的、画期的取り組みだった。

 それをアメリカや支那がアイデアを奪ったようなものだ。日本が腰を据えてやろうとしなかったからで、原因は日本の農水省など官庁が既得権益を失いたくなかったからにほかならない。諸悪の根源は木っ端役人だ。

 TPPに限らず経済協定というものは日本が不利益になることもあろうし、利益を得ることもある。
 日本はアメリカの属国であるし、国民はそれを不満ながらも良しとしてきた以上、アメリカ主導の流れは避けようがなかった。日本は参加しませんとは言えない。そのなかで損をしないように交渉するほかなかった。

 そこにむろん、ユダヤの策謀だとか、アメリカの民主党・共和党の思惑だとか、日本の官庁の利権だとかが複雑に絡んでいるのは言うまでもなく、一般国民にはやり始めてやっとことの真相の一部がわかってくる、そういうものだろうか。

 ところで最近、『GDP4%の日本農業は自動車産業を超える』(窪田新之助著 講談社α新書)を読んでいて、刮目すべき言葉に出合った。
 「おわりに これから一層面白くなる日本農業」から紹介したい。

     *    *    *

 本書を脱稿する直前にTPP交渉がようやく妥結した。一部マスコミは、いまだに、日本がTPPに参加すると国内の農業が潰滅するかのような書き方をしている。私はそうした見方には与しないが、ここではその是非は問わない。

 肝心なのは、農業経営者たちは冷静にTPPの交渉の行方を見てきたということだ。そして彼らは、TPP議論を巡って騒ぐよりも、他にやるべきことがあるのを熟知している。農業界のリーダーである農業生産法人「サラダボウル」の田中進代表に日本のTPP参加についてインタビューした際、次のように言っていたのが印象的だった。

 「この質問には、あえて『一切興味がない』と答えるようにしています。理由はふたつ。ひとつは、20年も前からこの流れが分かっているなかで、いまさら大げさに騒ぎたくないということ。個人的には、経営者なら既に対策を講じておき、準備を進めておくべきだと考えています。
 
 ふたつ目は、TPPのような小さな問題に関わっている時間などない、とあえていいたい。マクロの大きな流れは変えられない。社会の仕組みの変化や社会的要請に従って役割の変化が促されていく。農業経営でいえば、マクロ要因を分析しながらミクロ要因にも取り組んでいきたいと考えています。目の前に山積している大きな課題である人材育成や生産工程管理、農業にICTをどう導入するのかなど、緊急度も重要度も高く、現状の農業経営をもっともっと改善できる、やるべきことがたくさんあると思っています。」

 あらゆる経営者に問われているのは、外部環境と内部環境を分析し、それにどう対応するかである。そしてそうした資質を持った田中さんのような農業経営者が増えていることだ。
 しかも、これから始まる大量離農や減反廃止などによって、彼らが仕事をしやすい外部環境はますます整っていくだろう。日本農業はこれから一層面白くなると感じている。

     *    *    *

 この田中進氏の「TPPなどに興味はない」、との言葉には目からウロコ、であった。たしかに…、20年前から農業の流れ、世界経済の流れは分かっていなければならず、今さら「さあ大変だ」と騒ぐのは愚の骨頂で、不勉強なマスゴミ記者ばかりである。
 TPPで右往左往するのは、もともとたいしてやる気のない零細農家、兼業農家なのだ。JAに頼っていさえすればいい、自民党のセンセイに任せておけば補助金が出ると、のうのうとしてきた人たちは、憲法9条さえあれば平和だ、と信じるおバカとそっくりだ。

 巨大な歴史の流れに押しつぶされていくのは、押しつぶされるほうが悪いのだ。
 日本の農家は高齢化し、一般的に70歳を超えるとリタイアしていく。2017年くらいから一斉に大量の離農が発生するそうだ。だから大変だ、危機だと、マスゴミは騒ぎ、役人も深刻そうにするが、それは結構なことだと、『GDP4%の日本農業は自動車産業を超える』の著者・窪田新之助氏は言う。

 危機どころが「戦後最大と言って良いほどの好機だ」と氏は述べる。旧態依然の非効率で収益のあがらない農業がついに終わりを告げ、新時代がやってくる、と。危機だというのは、農水省がそう喧伝するからだ。零細兼業農家がリタイアしていけば、大規模農業が進展して行く。

 われわれは情報源をマスゴミにだけ限定していると、ついやつらの口車に乗せられて、日本の農業に限らず、すべての社会問題が政治家が無能だからとか、役人が怠けているからとか、国民の理解が不足しているからだと、マイナス面だけがアタマに入る。
 他人のせいにして、お上のせいにして、自分は批評ばかりしている。何も行動しない、総床屋政談化である。

 田中進氏が言うとおり「個人的には、経営者なら既に対策を講じておき、準備を進めておくべきだ」は、金言と言うべきだ。風邪をひくくらいはまあ誰でもあるけれど、これは日ごろの不摂生であり、健康の準備を怠ったからなのである。ゴロツキ北朝鮮に国民を拉致されたのは、国家が対策を講じておかなかったからだ。津波に浚われたのは、準備がなっていなかったからだ。

 というように、何にでも当てはまる。
 なのにマスゴミは、災害があり、事故があると、「悲しみを風化させない」と言って、ロウソクの灯の写真を掲載して、はい終わり。
 田中氏の「TPPなんて興味ない」、の言葉に、どれほどの自信が満ちているか。

 私たちも、安倍総理からこういう田中氏が語った目の覚めるような言葉を聞きたいものだ。この発言を本で紹介してくれた窪田氏に感謝したい。この見解に反対の人もいるだろうし、TPP断固反対の意見があってもいい。相手にレッテルを貼って議論を封じるやりかたこそ悲しむべき風潮であり、日本の損失だ。

 もし安倍首相が、TPPのアイデアは東条英機首相の提唱した大東亜会議だったとか、TPPが発効されてもわれわれは努力次第で危機をチャンスに変えられるのだと言ったとしたら、野党からもマスゴミからも袋だたきになるのは目に見えている。軍国主義だの、責任放棄だの、弱者に寄り添ってないだのと。
 だから政治家も本音は言えない。当たり障りのない、揚げ足をとられまいとするやりとりばっかり。
 なんとくだらない国になっているのだろう。

 この政治の風土が、「イクメン不倫議員」や「歯舞が読めない大臣」もいいとは言わないが、マスゴミは政治や経済を論じ合わずに、失言やら冗談やらまで、記事にしたてて政治家を叩きまくる。
 日本にまともな軍隊がないし、9条なんか抱え込んでいるからダメ国家なのだ。





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2016年02月25日

沖縄米軍基地に配備の核兵器の写真ってなに


 毎日新聞2月20日付に「1962年・沖縄『核兵器庫』の嘉手納」という記事と写真が載っている。
 沖縄嘉手納米軍基地に配備されていた核兵器の写真と関連資料を米国立公文書館から共同通信が入手、配信した。
 1962年、沖縄本土復帰前の、キューバ危機の真最中に撮られたものだそうだ。

 しかし、こんなニュースは「なんちゃってニュース」である。 
 サヨク共同通信としては、反核運動に棹さしたいのと、安保法案を廃案にしたいサヨクに「塩を送る」という意図であろう。

     *    *    *

 複数の日本人専門家は、1972年までの米占領期間中に沖縄に配備されていた核兵器の写真は極めて珍しいと指摘している。米軍技師らが核弾頭を慎重に取り扱う様子が写っており、アジア最大の「核兵器庫」だった沖縄における核実戦配備の実態を生々しく伝えている。

 写真は3枚で、核兵器は日本に投下された原爆の数十倍の破壊力を持つ水爆「マーク28」、複数のミサイルに搭載可能な核弾頭「マーク7」、極東ソ連と中国を射程に収めた核巡航ミサイル「メースB」の3種。

 写真のキャプションによると、撮影者は米空軍当局者。マーク28とマーク7は、米ソが核戦争の手前まで行った62年10月のキューバ危機のまっただ中に、米空軍嘉手納基地で撮影された。62年4月に撮られたメースBについては「沖縄」とだけ記されており、撮影地の詳細は不明。

 メースBは60年代初頭に沖縄に導入され、読谷村や恩納村など計四つの発射基地に配備された。メースBをめぐっては、嘉手納基地に駐留した当時の米軍ミサイル技師が、キューバ危機の最終局面で「間違って発射命令が出されたが、寸前で回避された」とも証言している。

     *    *    *

 これが毎日新聞の記事だ。
 沖縄に核兵器が配備されていたのは、誰でも知っていた。自民党政府は否定していたけれど、ないわけがないと子供でも承知できることだった。核兵器は、隠しておくというより、あることを敵側に知らせておくものである。どこにあるかの具体的場所は隠すだろうが、敵性ソ連も支那も、沖縄にあることは承知の上に決まっている。

 おそらく、沖縄だけではなく、三沢、横須賀、横田などの基地にも置いてあっただろう。

 共同通信が配信した写真を見ると、いかにもヤラセであることが見てとれる。「技師らが核弾頭を慎重に取り扱う様子が写っており」と書いているけれど、そんな雰囲気はまったくない。だいいち核なのか通常弾頭なのか写真では判別できない。

 キューバ危機はあったから、核兵器の準備はしていたかもしれないが、核兵器の実弾を戦闘機に乗せていつでも発進できる態勢なんかとっているわけがない。かりに危機が本物だったとしても、どう転ぶかわからないうちに、核兵器を戦闘機に乗せるか?

 写真はおそらく弾頭のダミーで装着の練習をしているところだろう。兵士らの動きに緊張感が微塵もないことが見てとれる。
 それにこれは撮影するためのヤラセだ。見事にわざとらしい配置に人が立っていて、担当者がミサイル(たぶん空洞)に触っている。
 将校らしい人物が立っている位置も、兵器を取り囲んでいる兵士も計算されているのがわかる。

 それが見てとれないって、共同通信はアホや〜。

 「当時の米軍ミサイル技師が、キューバ危機の最終局面で『間違って発射命令が出されたが、寸前で回避された』とも証言している」
 これも、アホらしい話だ。「従軍慰安婦」を捏造した吉田清治みたいなアホが、アメリカ人にもいるのだ。こういうウソを言って、マスゴミの取材を受けたいのだろう。

 核兵器の発射には何重ものチェック体制が厳重にあって、ミサイル技師がその仕組みを知りうる立場にもないし、「間違って命令が出される」はずもない。映画「博士の異常な愛情」じゃないんだから…。

 発射命令は絶対に出されることはなかった。キューバ危機はヤラセであったからだ。末端の米軍将兵は知らないに決まっているが、アメリカとソ連の上層部は芝居を打っていたのだ。ユダ金が仕組んだ「冷戦」を盛り上げるためのヤラセ。
 何度も本ブログで言っているように、この世界は二重構造で、ユダヤの陰謀とともに、表の世界ではむろん米ソ対立もあったろうし、反ユダヤの動きもあったはずである。

 今になって冷静に考えれば、ソ連がたかがキューバにミサイルを配備するために、全面核戦争も辞さず、なんてやるわけないではないか。ソ連は支配する共産圏諸国を、西側と戦う態勢を維持し強化するために、言う通りにしろよ、と引き締めて経済や政治で優位に立つ目的でやったことだ。

 だから、ジャガイモが食えなくても、電気が来なくても、西側との戦争に勝つためには我慢しろ、とソ連は言っていたのだ。ほら、このとおりキューバで核戦争の危機があるじゃないか、と。

 東西冷戦の芝居をやったおかげで、儲けたところはいくらでもある。
 世界中の新聞社やテレビ局は「熱い報道」ができた。大衆の関心をうまく集めたから、それを乗ろうとスポンサーがついた。
 米軍もソ連軍も、軍事緊張のせいでリストラにあうこともなく、属国や同盟国に出向いて食わせてもらえた。
 政治家もそんな危機に対応できるのは私だと言って、当選できた。

 キューバ危機みたいなことはそうしょっちゅうはできないだろうが、あれでしこたま儲けた連中はいるのである。

 共同通信が発掘してきたこの3枚の写真は、むしろキューバ危機がヤラセだったと、しみじみ回想できるシロモノなのである。
 受験秀才が集う共同通信や大手新聞社は、こういうウソが見抜けない。受験秀才は、大学のサヨク教授(アタマの古い)が「冷戦がありまして…」と講義で言われれば、鵜呑みにしてきた連中である。

 むしろ、こんなことは世間知に長けた爺さん婆さんなんかのほうが、真実を見抜くものだ。ユダ金の陰謀は知らなくても、「こんな写真はおかしい」と思うのが世間知である。




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2016年02月24日

重力波についての素朴な疑問


 本稿は、Yuuriさんへのお答えだが、これまでの重力波に関する論考の流れがあるので、「です、ます」調で書かないことにしている。高慢な印象になるかと思うが、ご容赦願いたい。
 2月20日付の記事「相対性理論は妄想」に、Yuuri様がコメントをくださったので、それにお答えする。

 2月22日の「虎ノ門ニュース8時入り」で科学者・武田邦彦氏が、重力波についてしゃべっていた。彼は重力波の理解に専門知識はいらない、と断言している。誰でもわかるのだから、と。
 池に石を投げ入れれば、波が起きるでしょう、重力波もそれと同じです、と言い切った。彼も重力波を信じている模様だ。

 新聞も同じような解説をしていた。(つまり、日常感覚の程度でわかるんですよと、言っているではないか)
 この説明では、重力波の像ではなくて、池にポチャンと石を投げ込んで波紋ができる、という像を聞く側は描いて(描けるので)わかったつもりになっているだけだろう。

 Yuuri様は、私の所論は高校程度の物理の知識を元にしていると述べたら、激怒されたようである。別にバカにしたわけではないが…。
 「ローレンツ変換やシュレディンガー方程式すら知らない、との認識でよろしいでしょうか」とか「量子力学や相対性理論は日常の感覚を適用することはできません。 ですが、『日常感覚から離れている』から『間違っている』とは言い切れません」
 と、お怒りのご様子で、私の方が「残念」というしかない。

 「ローレンツ変換やシュレディンガー方程式すら知らない」のか…と、「すら」はずいぶん乱暴な言い方でどうかと思うが、いかにも私はそれらを知らない。しかし現に武田邦彦氏も言っているではないか、重力波がわかるのに専門知識はいらない、と(笑)。だから反駁するにも専門知識はいらないのである。日常感覚ではないからと言って認めないのではない。

 「ローレンツ変換やシュレディンガー方程式」は知らなくても、それより上位の(?)弁証法あるいは唯物論の立場から、合っているかどうか(矛盾がないかどうか)で判断できると私は書いてきている。

 別に武田氏が言ったかどうかは問題ではない。私の素朴な疑問に、答えていただけていないではないか、というまでのことである。
 例えば、引力を機能と実体の関係で解いてほしいと申し上げたまでである。実体と機能の説明に、そのローレンツ変換やシュレディンガー方程式を持ち出さなくても語れるはずではないか。

 これも素朴な疑問で申し訳ないが、例えば雨は空の雲から地表に落ちて来るわけだが、これを説明するのに、むずかしい計算式を持ちださなくてもわかるでしょう、と言っている。気圧の違い、風向風力の違い、雨粒の大きさなど条件がさまざまななか、雨の降下速度を得るのはむずかしい計算式でなければ出せないだろうが、雨が地表から空にあがっていくことはないと説明するのに、これは小学生でも言えることである。

 何度も言うが、高校のやさしい物理程度の知識に弁証法の実力があれば、重力波のインチキは見てとれる、と申し上げている。弁証法の実力ということを抜きに、高度な物理学の法則“すら”知らないのか、と言われても困る。もう一度いうが、日常の感覚で、と言っているのではない。
 私はちゃんと、弁証法で言えば「1」はない,「点」も「直線」もないのだと説いている。だから光が直線運動だとはウソだと言うしかない。

 ここが論理の肝心要なのに、無視されて激怒はない話だろうに。

 なぜ地球の真ん中では引力はどうなっているのか、と問うたかと言えば、それは弁証法がわかっているなら意味のない問いだからである。
 Yuuri様は、「地球の中心では引力はゼロになります。ただし、圧力でつぶれてしまいますが」とお書きになっているが、ゼロになるとは空想である。

 「Yahoo知恵袋」に、「地球の中心では重力は0ですか?仮に地球の中心を通過する穴があったとして片方の穴から石を落とすとどこまで落ちていきますか?石は何処でとまるのでしょうか?」という質問があり、答えは。

 「地球の中心では地球の重力は0になります。また、地球が一様な密度であるならば、重力は中心からの距離に比例します。仮に北極から南極まで地球を突き抜ける穴があり、空気抵抗などを受けないのであれば、片方から落とした石は、地球の中心部分に近づくほど早くなり、遠ざかるほどゆっくりになり、反対側の地表でいったん停止して、往復運動をします。
 空気抵抗などの抵抗があると、何回か往復して最後は地球の中心で浮かんで止まります。」

 こういうものがあった。これはもっともらしい答えだが、ウソである。北極から南極を通す穴は開けられないからだ。あり得ないことで、空想上の計算をしている。要するに、穴があけられたら、とか、一様の密度ならとか、中心に行けたら、空気の抵抗がないとしたら…と仮定の話ばかり。

 そんなことは出来ませんよ、と言うのに、むずかしい法則なんかいらない。数学は得てしてこうなる。これで像を描けと言われても、不可能である。像が描けてしまうのが秀才、と、こうなる。アインシュタインは秀才だから、現実にはない像というより言葉で書いてしまったのだ。

 Yuuri様も失礼ながら引力は「ある」と思っておられるのではないか。その意味は実体がないのに機能の引力だけが「ある」と思っている人がいつではないかということだ。これは観念論である。
 実体がないのに機能はあると言っているようなもので、人間という実体がないのに、認識という機能が独立的に存在して霊魂になるのだと言っているのと同じである。

 実体と機能の論理を説明するなら、たとえば手は実体であって、手がつまむ、にぎる、叩くなどの働きがあって、それを機能というのだ。実体がないのに、機能があると言うなら、それは手がなくてもつまんだり、握ったりする働きが存在する、と言っていることになる。死んでも霊魂があるとは、脳はなくても認識があると決めつけているのであって、こういう妄想である。

 宇宙のかなたで、なんだか知らない物体がいきなり動いたら波ができるとは、まさに実体もないのに機能だけが生じた、と言ってるようなものだ。こんなことはだから、中学生でも理解できる話ではないか。
 なにがしかの波なりエネルギーなりが発生して、はるか地球まで到達するとしても、その間の空間を通る間に相互浸透して、いわば「宇宙空間化」したエネルギーになるに決まっているのに、多くの科学者は相互浸透しないと思っている。

 そう言われると困る(?)らしく、いや宇宙空間は真空だとか、物質の密度が薄いからとかバカげたことを言い出す。

 似た事例でいえば、人間は鉄分を必要としているが、無機物としての鉄と、人間が生命体から(食べて)摂取した鉄分は肝臓で「人間化」された鉄とは違うものだ。それを医師は同一と勘違いする。たぶん、成分として測れば同じFeなんだろうが…。
 これを光に当てはめれば、遠くの星から出た光は、宇宙空間の物質と相互浸透して「宇宙空間化した光」となって、我々地球上で観測されることとなる。

 さて。Yuuri様は計算ができるから引力はあるのだ、とおっしゃっているように聞こえるが…。
 弁証法の本質は運動なのである。三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』を読んだだけでは、これはなかなか理解できないだろう。それは三浦さんの書き方が良くないからだ。

 引力とは、物質の運動によって起こされる機能なのである。エネルギーだと言い替えることもできよう。より具体的に説くことはできるが…、これはYuuri様に答えていただけたらと思ってお尋ねしたのだ。
 余談ながら、私の子供のころは、引力とは2つの物体が互いに引き合う力と教えられた。人と人の間にも引力は発生するが、それより地球の引く力の方が大きいので、私たち人間どうしがぶつかることなく動けるんだ、というようなことだった。

 今ではどんな説明なのかわからないが、これはウソであろう。こんなことがまことしやかに語られていたのは、やはり引力の正体が解けていなかったのだと思う。
 ネットのなかには「引力は空間のねじれだ」と答えているアンサーがあったが、観念論以外のなにものでもない。観念論については三浦さんが『弁証法はどういう科学か』のなかで説いている。あれだけでは理解はむずかしいと思うが…。

 つまり引力の原理はまちがっていても、「計算」はできるし、それで人工衛星は飛ばせるのだ。電磁波の理論はウソばかりだが、それでもラジオ、テレビ、ケイタイ電話は実用化できている。実用化できているからと言って、理屈が正しいとは言えない、そういう例は学問の世界にはいくらでもあるだろう。

 重力波に関してはこの辺で議論は終わりにしたい。まだ反論があれば受けてもいいが、弁証法が欠けている学説(?)をいくら取り上げても噛み合ないのだ。また唯物論と観念論の基礎的理解がないと、これまた議論は噛み合ない。

 議論は打ち止めといえば、逃げるのかと罵ってくるご仁がいるだろうが、私からすれば議論の俎上にあがってこないものばかりだ。
 それにYuuri様は礼儀正しい方だから尊重するが、なかには知識だけ振りかざして仕舞いには悪意で罵ってくる向きもあって、やりきれなくなる。

 これから議論を続けても、反駁される方は、だって観測できたんだから重力波はあるんだという論法か、なんとかの法則で立証されているとか、実用化されている技術があるからその元になっている「理論」は正しい、とか言ってこられる。そのパターンに集中する。
 物理の素人は黙っていろと言わんばかりだ。

 それに対してすでに私は十分説いているし解いている。繰り返してもしょうがない。それを理解しようとしないで、悪意剥き出しで罵倒して来る向きにはいくら付き合っても無駄である。弁証法や唯物論を理解しようとするより、「俺の感情を納得させろ」では意味はない。




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2016年02月23日

アメリカ人の性犯罪DNA


 第二次世界大戦中のノルマンディ上陸作戦は、数々の映画にもされて有名である。『史上最大の作戦』『プライベートライアン』『ロンメル』など…。
 上陸作戦に参加した米軍兵士たちは、フランスをナチスから解放した勇敢な英雄として描かれてきた。

 しかし、実態はそんな勇敢で優しいGIたち、ではなかった。その話をする前に、そもそも連合軍のノルマンディ作戦は八百長だと言っておかねばならない。
 第二次世界大戦が始まってドイツ軍が破竹の進撃をしていたが、それが東部戦線(対ソ連)で止まりはじめ、アメリカの参戦があった。その時点で、本来ドイツの敗北は決定したのだ。

 連合軍はすぐにもフランスへ反攻するべきだったのを、アフリカの砂漠で時間を稼いだ。兵士と武器弾薬を大量消費させるためである。
 アフリカなんかで時間をとっていないで、フランスに攻め込んでいれば、戦争はもっと早く終わった。
 対日戦争も同じく、米軍は太平洋の島嶼を「カエル飛び作戦」なんて言っていないで、いきなり日本本土を攻めていれば日本はもっと早くに降伏追い込まれていた。
 
 みんなユダ金が仕組んだ八百長だったからだ。

 さて、話を本日のテーマに戻す。
 米兵たちは、ノルマンディの人々からセックスに飢えた荒くれ者と見られていた。「性のアバンチュール」を求めてやってきたのだと。

 米ウィスコンシン大学のメアリー・ルイーズ・ロバーツという女性研究者が、第二次大戦中の膨大な量の資料を研究してまとめた著作で述べているそうだ。「What Soldiers Do: Sex and the American GI in World War II France(兵士らは何をしたのか:第2次世界大戦中のフランスにおける性と米兵)というタイトル。

 ロバーツ氏によると、米軍では買春、レイプは「フランス人に対して優位に立つ」手段として認識されていたのだという。
 有名なインチキ写真を撮ったロバート・キャパが、米兵と若いフランス女性が路上でキスする写真を発表している。いかにも悪からの解放者とそれを歓迎するパリジャンに見えた。

 だが、キャパはなんといってもあのスペイン内乱で、兵士が撃たれて倒れる瞬間を撮影したものは、今ではやらせだったことが判明している。だからパリ解放で米兵とフランス女がキスする写真だってやらせだった可能性は出て来る。
 米兵を英雄に仕立てるために、フランス女とキスする写真をキャパは新聞社などに売り込んだと見るべきではなかろうか。

 連合国側がそんな美談の視点で解放者として描いていた一方で、地元フランスの人々は街中いたるところで米兵の野蛮な行為があふれる問題に直面させられていた。地元では「ドイツ軍を見て隠れるのは男たちだった。アメリカ軍が来て今度は女たちを隠さねばならなかった」という話が伝わっているという。

 池袋東口にある某百貨店では、かつて社長が店内の視察に来る時は、美人の店員は裏に隠したのだ。文化人の仮面をかぶりながら、このざまであったのだが、それを思い出した。

 ロバーツ氏の話は以下のAFPのニュースサイトで詳しく見られる。
http://www.afpbb.com/articles/-/2946474?pid=10810152

 ロバーツ氏は、米兵の放蕩、不法行為、組織的な人種差別などを暴露している。
 「GIはどこでも所かまわずセックスしていた」
 「米兵たちは、女性を見れば既婚女性でさえ公然とセックスに誘い、公園、爆撃を受けて廃墟と化した建物、墓地、線路の上など、街中いたるところが性行為の場となった。」
 「セックスをしている男女を見かけずに街を歩くことは不可能」
 「米兵の性欲は、いったん火が付くと手が付けられなかった」

 当時のルアーブル市長が米駐留部隊の司令官に改善を求めたと記されていた。米軍の上官らは兵士たちの行為について公式な非難声明は出したが、改善の努力はしなかったという。
 さすが、インディアンをレイプし虐殺したDNAは健在だ。

 それどころか、アメリカの著名な雑誌「ライフ(Life)」は、フランスは「快楽主義者4000万人が住む巨大な売春宿」とした。
 米軍機関紙「星条旗新聞(Stars and Stripes)」は、「きみ、とても可愛いね」「たばこをあげようか」などのフランス女性を口説くためのフランス語フレーズを連載した。

 人種差別でいえば、当時レイプ事件で訴えられた米兵は、黒人兵士が圧倒的に多かった。1944年10月の資料によれば、米兵が絡んだ強姦事件152件のうち130件で黒人兵が訴えられている。米軍内に根深い差別がったから、白人によるレイプは表沙汰にされないのだ。フランス人も、すぐに黒人米兵を指さして非難するようになったという。

 人種差別で思い出すのは、米軍は対日戦争でも露骨にそれをやった。
 サイパン島上陸作戦では、先頭に立たせたのは黒人部隊であった。上陸から約2週間たって、ほぼ日本軍の組織的反抗がなくなってから、白人どもは上陸してきている。
 おそらくどこの戦場でもこうだったのだろう。

 イギリス軍にしても、日本軍がマレーシア北部に上陸してシンガポール攻略を目指して南下していったとき、あっという間に敗退したのだが、最前線に配置したのはインド兵だった。日本軍はインド兵を撃ち破りつつ、F機関(藤原機関)の工作で彼らを捕虜にはしないで、インド独立のための国民軍に仕立てて行った。だから英軍によって虫けらのように扱われていたインド兵は続々と日本軍に投降した。

 このF機関の措置が、やがてインド独立の達成につながるのである。

 ちなみに、英国人(白人)しか乗れない軍艦だったプリンスオブウェールズやレパルスは、日本海軍機の攻撃であっけなく撃沈された。またシンガポールの英軍も武器弾薬は日本軍を上回りながらも、簡単に降伏してしまった。

 話を戻すと、GIどもが野獣の振る舞いをフランスでやり、また占領して行ったドイツでもやらかしたことは、日本でもあった。
 これも本ブログで何度か取り上げたが、進駐してきたアメリカ兵は日本の婦女子を強姦しまくった。たまりかねて日本側が、慰安婦を用意したのであった。

 菊池章子が歌った「星の流れに」は、われら民族のアメリカ兵への恨みがこもっている。

 こうした米兵の狼藉は、過去の話ではない。
 現在も、日本では米兵による性暴力事件が頻発している。沖縄ばかりではない、三沢でも横須賀でも佐世保でも、基地の外で一般女性が襲われる事件が起きている。

 米軍当局はいつも「綱紀粛正」・「再発防止」と繰り返す一方で、このザマが続く。米兵が日本で女性に暴行しても日本の警察に逮捕もされず日本の裁判にもかけられない。米軍の軍法会議では米本国の普通の裁判で死刑や無期になるような重罪さえ微罪扱いになる。集団レイプの主犯さえ一年ほどで釈放。ノルマンディ以来の傲慢な態度を変えていない。

 憲法9条を守れ!の連中は、日本の安全保障をアメリカに任せていることで、こんな事態を招いている。日米同盟を称讃する保守は、やっぱりアメリカ様の機嫌を損ねないよう、奴らのこうした性犯罪に目をつむる。サヨクも保守も、同じような態度。
 サヨクはアメリカ出て行けと叫ぶにしても、支那や韓国には「へいこら」するから、最低の連中である。




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2016年02月22日

覚醒剤使用者は極刑に


《1》
 清原和博が覚せい剤所持で逮捕されてから、スポーツ紙や週刊誌では連日、どこから入手したの、いつから常習になったの、知人達のコメントだのが大賑わい。

 清原が野球でスターだったから…という視点はわからないではない。大衆にとっては衝撃だったろうが、いささか話題にするには度がすぎる。
 先に、本ブログでも取り上げたが、清原なんかどうだっていい。自業自得だ。
 肝心なのは覚醒剤が蔓延するこの日本社会の問題と、覚醒剤に手を出してしまう人間になる教育の問題である。

 覚醒剤がどこから密輸されてくるかといえば、北朝鮮、韓国、支那がほとんどである。その国の中の、反社会的勢力が持ち込んでいるのではない。国家ぐるみなのだ。
 この3国は、日本を敵視し、占領、蹂躙しようと狙っている。
 だから、覚醒剤は敵性国家が対日攻撃兵器として持ち込んでいるものである。

 覚醒剤製造はあちらでは表向きは非正規の工場であろうが、実は国家が製造させている。密輸業者は軍隊や国家秘密警察などであり、売人はザイニチ工作員である。
 特亜3国はそういう国なのである。友好なんかできるわけがない相手だ。

 その真相を日本のマスゴミは、まったく触れようとしないで、清原個人のあれやこれやを記事にし、釈放されたらそれこそテレビや週刊誌がどっと取材に押し寄せようと持ち構えているかのようだ。
 清原はいかにも犯罪者ではあるが、事はそれでは済まない。

 北朝鮮、韓国、支那が日本に戦争を仕掛けてきているのである。その真相を、マスゴミはやはりこの特亜3国に牛耳られているから、日本人の関心を清原にだけ向けるようにしている。
 日本のマスゴミは、特亜3国の支配下にあるため、こうした覚醒剤による侵略をごまかすために、友好国だとか隣人だとか、草の根交流とか、観光で互いを知るべきとか、キレイ事を記事に仕立てる。
 麻薬事件が起きても、それは特亜3国のごく一部の悪い奴が、日本のヤクザと手を組んでいるだけなのだというスタンスをとる。

 そういう見方は間違いだ。
 2月13日付記事で覚醒剤のシンジケートのことを書いた。覚醒剤を使って日本を弱体化させる工作があり、それを裏で支える日本側の受け皿というか、ザイニチ、警察、宗教団体、政治家、マスゴミなどが一大シンジケートを形成している、という話である。

 覚醒剤を撲滅しようと思えば、簡単なことではないか。後述するがマレーシアのように、覚醒剤に関わる犯罪には死刑を持ってするようにすればいい。どこの国でも原則、スパイは死刑にするんだから、同じ重さでよい。
 清原は入手先をゲロしないのなら、執行猶予をやめて実刑を言い渡せば良く、入手先をゲロしたら減刑する取引を行なえばいい。そうすればルートは次々に暴露される。

 それがわかっていながら、政治家も役人も法律を改正しない。甘やかす。甘い刑罰にしているのは、裏で、覚醒剤の取引が行なわれることを必要としているからだ。

 現行法規では、清原は初犯だからすぐ釈放されようし、裁判でも執行猶予がつくだろう。マレーシアでは、即、極刑で、日本でもそれくらいの刑罰は必要である。
 所持だけなら、懲役20年。使用していたら、死刑。それでいい。戦時国際法は日本にないが、それを施行させて適用すべきである。

 2009年に日本人元看護婦が、約4キロの覚醒剤をスーツケースに潜ませてクアラルンプールで入国しようとした捕まり、裁判で死刑が言い渡された事件があった。数回にわたる裁判があったが、最終的に2015年10月に連邦裁(高裁)で死刑が確定した。後は国王の恩赦にすがるだけ。
 元看護婦は一貫して、覚醒剤のことは知らなかった、カバンは頼まれて運んだと弁解していたものの、覆らなかった。

 本人が知らずに運び屋にされることもあるから、慎重にしなければなるまいが、基本は厳罰にすべきだ。
 覚醒剤に侵されれば国家の根幹が揺るがせられるからである。日本人はノー天気だ。「清原さんが…」ばかり。あるいは「ASKAが…」「酒井法子が…」と騒いでは忘れる。これでは特亜3国は笑いが止まるまい。


《2》
 ヴェトナム戦争を扱ったアメリカの映画を観ると、兵士たちがみんな麻薬を吸っているのに驚かされる。 
 『プラトーン』とか『7月4日に生まれて』とか…。
 兵隊達はキャンプで夜に酒を飲むか、マリファナぐらいなら軍隊では大目に見られていたのかもしれない。そして年がら年中、どつきあい、悪い冗談、仲間の揶揄、賭けごと。それがアメリカの軍隊である。

 ところが。旧日本軍はどうだったかと言えば、極めて品行方正であった。同じ映画で比較しても、例えば戦時中の『土と兵隊』でもいいし、戦後の『ああ江田島 海軍兵学校物語』でもいい。だらけた場面はまったくない。

 軍事評論家の井上和彦氏が、先年、戦跡ラバウルを訪ねたときの映像を見た。
https://www.youtube.com/watch?v=kjgRLVRN4_E
 それによると、原住民は日本人と見ると大歓迎、手作りの日の丸を作って振ってくれ、親しげに寄って来る。あげくは「さらばラバウルよ」や「もしもし亀よ」「海ゆかば」などの日本の歌を歌ってくれるというのだ。彼らは白人が来ても知らん顔しているそうだ。

 井上氏も涙が止まらなかったと語っていたが、私も動画を見て涙腺の緩むのを禁じ得なかった。
 これは、いかに私たちの先祖がかの地でも立派だったか、原住民を尊敬を持って接し、優れた友好関係を築いたか、なのである。
 もし特亜どもが言うような、侵略し、略奪、強姦、性奴隷、と現地の人たちを虫けらのように扱っていたとしたら、70年経っても、日本人を大歓迎してくれることなど起きるわけがない、ということだ。

 しかし、白人や支那人は、こうした原住民を虫ケラのごとくに扱ってバカにした。自分たちは先の映画さながら、酒に溺れる、大麻は吸う、強姦をやらかす、兵士同士でどつきあう、…とこうだから、純朴な原住民たちから軽蔑を持って見られるのである。
 
 特亜3国やアメリカ、ロシアなどは、こんな規律の素晴らしく立派で、だから強い日本人が煙たい。むしろ奴らには恐い存在だ。戦争をしたら、志気がものを言うから、日本人を相手にしたら手強いのだ。
 特亜3国もアメリカもロシアも、軍隊の程度が低い。だから日本人を覚醒剤などで堕落させたいのである。
 私が特亜3国のトップなら、当然そういう戦略をたてる。それを陰謀というのだ。



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2016年02月20日

相対性理論は妄想


 「重力波観測成功のいかさま」として2月15日にアップしたところ、Yuuri様からお尋ねがあった。お答えするが、ウソだと言う理由は、ブログでだいたいは書いたつもりだ。
 まずYuuri様の質問を掲載しておく。

     *    *    *

重力波について、相対性理論は出鱈目だとおっしゃっておりますが、どういうことでしょうか。
現時点での観測事実として、相対性理論に反する現象は見つかっていない、というのが定説です。
特殊相対性理論だけでなく、より高度な一般相対性理論も、それがなければ、たとえばGPSの誤差を訂正できません。

しかし、私自身、学生時代に相対性理論を学びましたが、特に一般の方は、(ご存じでしょうが)リーマン幾何など、用いる数学が非常に高度で、私自身は挫折してしまいました。
青雲様は、もちろん、数学的な理解をしたうえで、「出鱈目だ」とおっしゃっていることと存じますが、相対性理論のどの辺が間違っているのでしょうか。

もし間違っているとしたら、物理学は大幅に書き直す必要があります。
あと、タイムマシンやワープはむしろ相対論に反する現象として一笑に値すると思いますが…

     *    *    *

 重力とは何かといえば、そのもの自体の重さと引力の二重構造である。現実にはそのもの自体の重さは測ることはできない。引力を排除することが出来ないからだ。引力を抜きにした重さを仮に測りたくても、不可能である。そのもの自体の重さは、空想であり、「そう考えられればこのくらいの重さじゃなかろうか」として“計算”するしかない。

 無重力状態があるではないかと反論されるかもしれないが、「無」はあり得ない。地上に比べれば微小だとしても、引力不在はないのだ。

 地球から遥かかなたの宇宙空間で測れば、引力を計算しなくてもそのもの自体の重さが測れるのではないかと考えたい人はいるだろうが、宇宙空間にも引力は生じている。
 重力波があるとする科学者は、この宇宙にあまねく存在する引力をどう考えるのか。引力はないと仮定して…の話に過ぎないのだ。

 重力波の発生の図を新聞で見させてもらったが、これでみなさんは像が描けるのかと、私は問う。
「3分で重力波がわかる動画」というアニメがあって、マスゴミが流した図もこれとほぼ同じである。
http://gigazine.net/news/20160215-gravitational-waves-explained/

 説明は、一枚の布のような平面に玉が落ちると、波が生じるんだという。何これ? 宇宙は平面か? 「平面ガエル」じゃないんだよ。二次元の図で説明して「ほらこのとおり」と言われて、納得できますか? 宇宙は三次元なんですよ。(4次元じゃないのかなどと言わないでね)
 三次元の図で説明してくださいな。

 ある平面に、物体が落ちると…とは、まさに地球上の出来事のいわばコピーであって、360度の空間でそんな「落ちる」ことが起きるか?
落ちているんじゃない、移動したんだと言いたいだろうが、ならばそういう図を描いてみせてほしいものだ。

 波が広がるというけれど、何か湖に石を投げ込んだときのような波紋の図になっているが、宇宙のどこに水面と大気が接しているような場所があるの? あるならそういう図を描いてほしい。
 水面に波が生じるのは、空気と水の接している面があるからだ。
 像で描くとすれば、水中で魚が動いた状態に近いのではないか。その魚の動きによって、水は動かされるが波紋になるのか? なるわけがないじゃないか。なぜなの?

 そこには引力が働いているからであるし、水中は均一で静止しているのではなく、地球の自転や海流や、大気の風や、生物の動きなどがからまって運動している。宇宙空間に生物はいないだろうが、真空でもないし、均一の物質で満たされているわけでもない。運動している(運動させられている)。

 実際に星は公転や自転をしているではないか。当然、宇宙空間の物質は、いうなればかき混ぜられたり、星に引っ張られたり、物質どうしがぶつかったり、電磁波の影響をうけたりしている。だから仮に波が生じても、すぐに消えるに決まっている。むろん、消えたわけではなく、また違う動きとなっていわば波及していく。それが運動である。

 ある天体から出た光があったとして、それが地球に到達するまで、気の遠くなるような距離を移動するわけで、途中の均一ならざる空間で、さまざまな物質にぶつかり、星の引力で曲げられたりして運動してくる。アインシュタインが妄想したように、一直線にはならない。
 アインシュタインは相対性理論のなかで、光速不変の原理と言ったが、光速は不変どころか、変化している。

 地球上の実験施設(日本ならKAGURA)で計測できるとおっしゃる。地球が丸いので地表では直線がとれないから、地中に穴を掘って直線をこしらえるらしい。で、その長さは何万キロなの?地球をはみ出すくらいのトンネルなんでしょうね? は? たった7キロですって? 宇宙の広さを東京ドームくらいだと勘違いしているらしい。

 Wikipediaによると、「重力波による空間の伸び縮みを測定するレーザー干渉計では、ノイズを除く事が重要になる」とあるが、いくら精密な機械を作っても、ノイズを除去することは不可能だ。「ないことにして」観測するだけのことだ。真空が出来ないのと同じことだ。

 地球上では、「真空だとして計算する」「どこまでも直線だとして計算する」「電子が原子核の周りを楕円軌道で動くとして計算する」といったようになっている。それで人間が作る工業品なんかは問題がない。ということなのだ。
 譬えてみれば、円周率は絶対に正解が出せないようなものだ。しかし、3.14 の数値程度で、十分精密機械はできる。

 あるいはこういう例でも説ける。
 数字の「1」はあるのか。「2」でも「3」でもいいが、「1」を出すことはできない。アインシュタインはおそらく、だせると思い込んで計算しているのだろう。数学をやっている人たちは、もしかして「1」があると思っているのだろうか。
 数字とはいわばアバウトなのである。

 例えば1グラムの物体が「1」だと言いたいかもしれないが、その物体を測る機械も厳密には微妙に違うし、その物体も微妙に質も違えば量も違う。気圧も刻々と変化しているし、水蒸気や微細なゴミだってついている。

 ここまで書けばもう理解していただけようが、アインシュタインの言ったのは、特殊相対性原理(互いに等速度で運動しているところでは物理法則は同じ)というのと、
光速度不変原理(真空中では光源の速度に関係なく光の速度は常に一定)の2つの原理に基づいて組み立てられた理論となっている。互いに等速度で運動している物体は、ない! のである。「真空中では…」と言うが、そもそも真空はない! のだ。だから前提自体が妄想である。

 一般相対性理論で言うと、これは全く異なる考え方から定義された物理量である重力質量(万有引力の原因としての質量)と慣性質量(物体を加速する時の加速しにくさとしての質量)がある、とされるが、現実世界で、そんな2種類の質量はない!のである。まさに言葉で考えたもの。
 純粋に(?)そんな運動があるとするのはムチャクチャである。しかもこの2種類の質量が「等価」だという原理があるだと?

 「等価」って何? 等しい価値があるってことか、いわば等しい数値になるってことか? 「二つの命題において、一方が真であれば他方も真、一方が偽であれば他方も偽という関係が成り立つとき」も等価というのだろうが、これで慣性質量と重力質量とが説明できるの?

 相対性理論は弁証法の否定なのだ。弁証法を学んでいれば、こんな屁理屈はとうてい受け入れられるはずがない。
 弁証法は、端的にいえば運動である。運動とは、これまで述べてきたようになっている。「1」がない、というのも運動のゆえなのだ。

 どうしても私たちは「1+1は2になる」のアタマに創られている。「1+1は2になるとは限らない」というのが、弁証法なのだ。
 「1+1=2」は私たちの生活においては有効である。数学がGPSに活用できるのも当たり前だ。だが、現実世界では限定的な真実、とでもいうしかない。
 1+1=2にしかならないと考えてしまう人には、「重力波」のウソは見破れない。

 宇宙は天体であれ、天体以外の空間であれ、物質でいわば満たされている。そこで不断に相互浸透も量質転化も起こっている。

 もし光が遠くのある天体から出て地球の向かったとしても、途中でなにかの物質と相互浸透しないわけにはいかない。その量の積み重ねが質の転化をもたらす。光だけが例外ではない。
 
 ユークリッド幾何学とか非ユークリッド幾何学にしても、「点」とか「直線」というものは、現実にはない!のに、あることにして「成り立たせている」。机上の空論だ。だからYuuri様が「リーマン幾何学」がわからなくなった、のは極めて正常なのである。

 余談ながら、アインシュタインの生い立ちを見ると、幼いころから数学に夢中で、小学生では成績優秀だったという。人はみなアインシュタインを天才に仕立てるが、本当は数学に耽溺し、友人も少なく、外界との正常な反映を疎かにしてしまった子の悲劇と見なければなるまいに。

 Yuuri様のおっしゃるように「物理学は大幅に書き直す必要がある」のである。それを先導するには、弁証法抜きにはあり得ない。






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2016年02月19日

ローマ法王と東方正教会主教、どつきあう


 2月12日、カトリック教会の頂点に立つフランシスコ・ローマ法王(79)と、ロシア正教会最高位のキリル・モスクワ総主教(69)が、キューバの首都ハバナの空港で約2時間会談したと報じられた。
 なんでこんなどうでもいいことがニュースになるんだか。

 カトリックと東方正教会は1054年に分裂し、以来反目しあってきたが、このたびの両教会トップの会談は史上初だとか。両者は共同宣言に署名し、過激派組織自称「イスラム国」によるキリスト教徒迫害に危機感を表明するとともに、中東からのキリスト教徒「追放」と「新たな世界戦争」を阻止するよう国際社会に要請、と。

 ふん。カルトどうしが会って、何を偉そうに。国際社会に要請? なにそれ? 戦争終結になんか効果があるの? あるわけないじゃない。ただの信者に向けてのパフォーマンスである。
 まして千年間も互いに破門しあってケンカしてきたどうしが、初の会談で、「和解と協力に向けての歴史的な一歩を踏み出した」になるわけがない。

 各国の東方正教会の中で、ロシア正教会は1億人以上の信徒を擁する最大組織。

 そこで。座興に。
 私が法王と総主教の対談を盗聴したので、それをご披露しよう。

* *

 (フランシスコ法王がキリル主教に歩みよって抱擁しながら)
フランシスコ(以下フラ):よう来たのワレ。
キリル(以下キリ):(相手の足を踏みながら)おお、あいかわずけったいなお椀みたいな帽子をかぶっとるやんけ。似合わへんデ。鍋の蓋か。カッパか。ハゲ隠しか。
フラ:(突き放しながら)ケッ!おどれ、なんやその格好は、うっとうしい頭巾などかぶりよって…、アタマの中が蒸れるやろ。仰々しく古代の習俗そのままやないけ。東方正教会言うんは進歩はないんか。古色蒼然、なんかカビ臭いやんけ。

キリ:何言うてんねん、けったくそ悪。おどれこそ血の臭いがしよるデ。カトリック2000年の血塗られた過去が染み込んでおる。
フラ:何じゃこらぁ〜その顔見れんようにしたるぞコルァ〜。罵り合うために来たんやないんやぞ、ワレ。
キリ:カストロが招待してきたから、キューバ見物がてらや。なんぞ用かい?

フラ:ほんまは用はないんやが、世界平和をカトリックとロシア正教と、二大宗教の巨頭が会ったことにすれば、マスコミが記事にしてくれるやんけ。
キリ:べつにマスコミがどうでもええのんとちゃうか。パククネが言うとったやろ、「千年の恨みは消えへん」デ。
フラ:自称イスラム国によって、大事なキリスト教徒が殺されとんのや。信徒が減ったら、上納金が減るねんで。

キリ:そらまあ困るなあ。信徒がなんぼ死んでもかまへんのや。葬式で儲かるしなあ。だが、上納金のあがりがなあ…。
 異端のカトリックがどうなろうと知ったことやないんやが、仲ようしとることにしとかんと、うちらも信徒に冷たい言う評判がたつのも困るデ。
フラ:異端とはなんやコラ、おどれ。正教会のほうが異端やんけ。破門したんはこっちや。こっちが正統やと、千年間言い続けても、理解できないアホのくせしやがってからに。

キリ:ふん、よう言うワ。破門した?それはこっちのセリフや。イスラムに偶像崇拝を嘲られてビビったんはワレやないけ。おんどりゃ、この千年、カトリックが何千億人異教徒を殺戮してきたんや。なかには魔女裁判とか言うて、信徒の女を火炙りにしよるわ、分派したプロテスタントを殺しまくるわ、ワルを際限なくやらかしてきたんは、どこのどいつや。
フラ:何ぬかしてけつかる。スターリンがやった粛清や虐殺を容認して肥え太ったんは誰や、なんやら正教会とか抜かす悪魔宗教ではなかったんか。東方正教はいつも国家権力のイヌやんけ。

 キリ:何さらすんじゃい、スターリン治下ではやむを得なかったんや。その暗い時代でも、ロシア正教のおかげで大衆は安寧を得ていたんやデ、信仰のおかげやんけ。ドタマかちわったるぞ、われ。
フラ:ゲス野郎なに抜かす。プーチンと仲がいいんやて? あのKGBあがりのゴロツキ野郎が。ウクライナに侵攻しよってからに。正教会とプーチンがつるんでおるのやろ。
キリ:ウクライナがどうした。クリミアでもウクライナでもロシア正教の信徒を守るためや。なにが悪い。

 フラ:イコンなんか信徒に買わせて儲けやがって。あんなもん、偶像崇拝やないけ。
 キリ:イコンは神の像や。おぬしらイエス信仰よりマリア信仰に替えよってからに、女ならなんでもええのんか、この助平め。マリアなんぞいかさまや。

フラ:負け犬の遠吠えや。抜かしよって。ロシア正教の地域は今も貧乏や。ワシらヨーロッパのカトリック国はみんな裕福や。神がどっちを祝福されたかはっきりしとる。

キリ:カトリックに富があるんは、アフリカ、アジア、アメリカ大陸へと宣教師を派遣しては、アヘンや武器火薬を売りつけ、代わりに現地の人間を奴隷にして大儲けしてきたくせに、なにをいまさら、シリア内戦終結に向けてとか、しらじらしい。
フラ:うっ。そ、そんな昔のことは蒸し返すな。お互いスネに傷はあるもんや。今や今や。「国際社会が「暴力とテロの停止」と「対話を通じた平和」に取り組むよう呼びかけようやないか。

キリ:まあ声をかけてくれたカストロの顔も立てなあかんしな。共同宣言には妥協してもええデ。ただ、正教会のなかには、異端で人殺しで、阿片シンジケートで、奴隷貿易主催者だったカトリックへの不信が多くてなあ。
フラ:また嫌味か。いい加減にしいや。相身互いや。もともと神なんかあらへんのに、「ある」言うて大衆を騙くらかして儲けてきた仲やないか。そっちもこっちも、なんやかんや言うても、ユダヤのシモベどうしやないか。こうして千年ぶりに会うたのも、ユダ金さまの指示。わてらは大衆を騙していたらそれでええのや。

キリ:あのよォ。それは承知してるねん。けどな、ロシアと旧ソ連領内の国々で最近カトリック宣教を活発にしとるけど、それが営業妨害やで。ちょっかい出しよって、ほんま、どついたろか。
フラ:世の中は競争社会や。うちらもイスラムやプロテスタント、日本のソーカなんかがデバってきよって信徒が減って困っとるんや。まちがったキリスト教から、正しいカトリックに改宗してやっとる。感謝せい。

キリ:こきゃあがれ。二度と近づくなボケェ。
フラ:ほな、決裂や。けど、事務方にはあんじょう宜しく言っとくワ。「世界のキリスト教徒を守り、戦争を回避するために両教会が協力することで一致した」「私たちは兄弟だ」と言ったことにしたってん。
キリ:勝手にさらせ。もう知らんワ。




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2016年02月18日

風邪は一発で治る


 昨日の五十肩の治し方に関連して、今日も神経の話である。

 関西にお住まいのある年配の方が、東京にいる娘一家が全員インフルエンザにかかって高熱で動けなくなったので、上京して助けなければならなくなりましたと新幹線のなかからメールをくれた。
 言外にどうしたらいいだろうというニュアンスがあったので、メールで治し方を伝授した。

 治し方の伝授といっても、これは後述するが、天寿堂の稲村さんの受け売りである。
 やり方はいとも簡単で、手指と足指の、付け根にある水かきをつまむだけである。軽く、であって、なにも強くつまむ必要はない。
 それをすべての指の間で行い、何回か繰り返しなさいと伝えた。

 その方は娘たち家族にこの簡単な施術を施したそうだ。一晩寝て、翌朝には全員が熱が下がり、治ったとメールをいただいた。自慢じゃないが、そうなると私は確信していた。
 私自身はもう三十数年、風邪をひいたことがない。わが流派で教わったことをほぼ忠実に実践してきているから、風邪もインフルエンザも寄せ付けなくなった。

 それはさておき、指の水かき療法は、天寿堂で教わって以来、毎日風呂に入りながらとか寝しなにつまんでいる。私の場合はみずかきを自分でつまむとお腹がゴロゴロ鳴る。経絡でつながっているからだ。身体が喜んでいる実感がある。風邪を引かないから、風邪に有効かどうかは確かめていないが、効くはずだと思っていた。

 天寿堂稲村さんによると、この指の水かきのツボは交感神経を活性化させるのだそうだ。どうもツボ自体が交感神経を活性化させるもののようである。
 それで、稲村さんによれば、風邪は交感神経の弱まりが原因なので、水かきを押す(つまむ)ことで、交感神経の弱まりが一発で改善され、風邪も治ってしまう。

 稲村さんは「水かき療法」として確立させたいと仰っている。
 感染症には東洋医学は無力だと言われて、明治以降西洋医療にとって代わられたが、江戸時代には漢方や鍼灸治療で治していたのである。感染症も、ツボで治ることが明らかになっている。

 つまり、感染症も、いかにもウイルスや黴菌が感染していないわけではなかろうが、それは交感神経の弱まりや歪みが原因となって、ウイルスや細菌の侵入と増殖を招く結果になるのであろう。
 いかに体内でウイルスや最近が猛威をふるっていても、交感神経を正常に戻してやれば、神経が治癒に働いてくれて、風邪の症状は治る。

 私はこの三十数年、風邪を引かないと述べたが、マスクもしないし、うがいもしなければ、手洗いも適当である。予防接種もやったことがない。予防と言ったらまあ身体を冷やさないようにするだけ。冗談で言うのだが、インフルエンザで高熱を出している人とキスしたってへっちゃらだよ、と。

 知り合いの医者は毎日、インフルエンザやウイルス性胃腸炎を何十人も診てウイルスを浴びていても、感染しないで体調は良好です、と言っていた。インフルエンザなどがうつるものなら、医者は全員アウトだろうに。こういうと医者は予防接種して免疫があるから、などと言う人がいるが、ウソっぱちである。

 この件は本ブログで何度も書いたから繰り返さないが、ウイルスは私たちの暮らしのなかで、ウヨウヨいる。体内にもいつも入ってくる。マスクや消毒で防げはしない。
 感染しちゃうのは、神経が弱まっているとか栄養が十分でないなどして、そもそも体調が万全でないからなのである。
 昨日も書いたが、身体全体の問題だ。某風邪薬が、「あなたの風邪は喉から?」「お腹から?」などと広告CMで言っているが、それは現象論である。身体の一番弱いところに症状が現象するだけで、全体を治してやることが最も大事なことだ。

 だから神経を活性化することが全身に効くのである。
 学校や会社でも、風邪をうつされたといって、先に風邪を引いた人を恨んだり、いじめたりする傾向があるやに聞くが、完全に間違いである。西洋医者は風邪はうつるというウソを広めて、イジメを生み出しているのだ。

 風邪をひいたなと思ったら、指のみずかきを何度もくりかえしつまめばよろしい。
 それと、ビタミンCの粉末を1グラムずつ服用しなさい。予防には1日1グラム。風邪にかかったら1グラムを2〜3時間ごとに飲むことだ。




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2016年02月17日

五十肩でお悩みの方に


 私の空手道場で取り入れている運動に、「手叩き」がある。これは世間では「茶摘み」とか「アルプス一万尺」「みかんの花咲く丘」などの歌に合わせて、2人が向かい合って手を打ち付け合う遊びに似ている。骨の鍛錬だから力強く打ち付けるが。

 他にもペットボトルに水をいくらか入れて振り回す練習などもあって、先日、そんなものをやって休憩時間になったら、1人の弟子が、「実は…」と申し出てきた。
 「ここしばらく前から五十肩で左腕が上がらなくて、服を着たり脱いだりするのが難儀だったのですが、先程からの練習で治っちゃいました」と言うのである。

 事前に聞いていなかったので、私も驚いた。彼も練習のはじめは激痛だったかと思うが、がんばって普段どおりに手を動かし、足を動かしているうちに、五十肩が治ったのだ。
 もし練習前に、五十肩で動きませんと聞いていたら、「なるべく動かしたほうがいいが、無理しないで」と言っていただろう。
 ところが知らなかったがために、普段通りの運動をさせたのが幸いした。

 音楽にあわせて、互いに手を出して叩き合う運動だったので、自分が怠けてはいられない。無理にでも相手の手に自分の手を出さなければならない。その相手に合わせなければ…の認識が、痛い腕を叱咤したのであろう。自分ひとりではなかなか痛みに耐えて腕を動かすのは大変だけれど。

 その構造については推測するしかないが、一つは手(腕)に衝撃を与えることで、神経が目覚めさせられたこと。二つは、骨にも筋肉にも衝撃が与えられたので、患部の骨と筋肉への指圧やマッサージになったことであろうか。三つは、足の運動も加わっているので、全身的に脳の統括が行なわれたこともあったのではないか。

 脳は本来的には全身の統括を行なっているものである。動物は全身的に動くが、人間は右手だけ動かすということをやってしまう。それが肩こりや腰痛の原因の一つであろう。
 デスクワークは座ったまま、手を運動させるので、非常に歪んだ運動である。全体を使わないから歪みがくる。

 五十肩の場合は、痛みのために左手なら左手を使わないでいる、歪んだ状態なのである。全身的運動での統括ができていない。使わないという歪んだ運動をしていることになる。

 それで、全身的運動を行なったために、脳が本来の全身的運動の統括を正常に行なって、五十肩の痛い部分をも構わずに(いたわることなく)、動かす統括をしたのではないか。血液の流れも、全身的になったのが良かったと思う。
 神経痛の人が温泉に入ると症状が軽減するのは、全身を温めて血流を全体的に行なうようになって、神経痛の部分をも正常なものとしてくれるからではないか。

 五十肩を治すならば、腕だけ動かすとか衝撃を与えるとかではなく、全身運動をするなかで健康体にしなければならないのだと思われる。
 
 癌になった場合も、それが例えば乳癌だとすると、医者はその患部の乳房だけを問題にするようだが、本来は全身の病態をみなければならないはずだ。とくに全身の栄養を司るというか、血液を正常にしている肝臓が悪くなって、部分の乳房なら乳房の栄養状態が異常となって癌化するのだから、根本の全身的栄養を改善し、肝臓の状態を正常にしてやることが、癌の治療の根本にならなければおかしいではないか。

 話を五十肩の神経の問題に戻す。
 五十肩は、よくアイロンを持って振ると効果があるとか、何もしなくてもそのうち治るよ、とか言われるが、要するに動かせばあっという間に治るのであって、痛いからと怠ければ治りが遅くなるのだ。

 五十肩は神経が勝手に痛みを訴えているのだから、「テメエ、怠けるんじゃねえ!」と叱りつけて、認識で無理にでも腕を動かしてやって、神経自身の勘違いを正してやればいいのである。
 
 五十肩は、ネットで調べるともっともらしい解説はあるが、原因不明となっている。どういう病気かというと、関節の周辺に炎症が起きるのだと。整形外科にてレントゲン、CT、触診の結果、骨などに異常はない。当たり前だ。それは神経の病だからレントゲンなんかには映らない。

 医者は神経に関しては研究が少ないからわかっていない。そのくせ病院は、レントゲンやCTなどを撮って無駄な治療費を患者に負わせ、金儲けを企む。
 五十肩なら痛みに耐えて、腕を動かせば治りますと言えば、病院は儲からない。だから痛み止めの薬でなんとか…とウソをつく。

 話は変わるが、YouTubeの「虎ノ門ニュース8時入り」(2月4日)で青山繁晴氏がスキー事故で腰の骨を骨折した話をしていた。
https://www.youtube.com/watch?v=90LgOjqMP9g
 (1:15:27〜1:24:21までご覧あれ)
 当然緊急入院したが、医師からはもう年齢的に言ってももうダメで、自分ではトイレにも行けなくなり障害者認定も受けなければならないと宣告されたそうだ。

 しかし、青山氏は仕事を抱えていたので、キャンセルするわけにもいかず、無断で病院を脱走してしまった。入院してたら原稿も書けない、このままだと「ケガ人の頭になっちゃうから」と。
 腰には場所が場所だけにギプスを嵌められず、コルセットをしたまま。それで東京に戻り、翌日には飛行機で九州に講演に出かけたそうだ。
 ムチャクチャ痛かったから飛行機のなかでも、顔から痛みで脂汗がボタボタと落ちたそうだ。

 それから東京で病院には通ったが、やがて腰の骨はくっついて、後遺症ゼロ。これで腰が強くなり、腰痛もないという。
 番組では、青山さんは特異体質だから真似しちゃダメでしょう、とか、これを一般論にしてはいけないけど、とスタッフが言っていたが、いやいやどうして、この事実から一般論を導くべきである。

 身体の異常を修復してくれるのは神経なのである。西洋医療では神経の働きにあまり注目せず、薬で治そうとばかりするけれど、本当は神経に治させるのが良いのであり、それが冒頭の五十肩のこともそうだし、青山氏のムチャぶりにも当てはまるのである。

 それに青山氏がチラッと言っていたが、「このままではケガ人の頭になってしまうから」は、素晴らしい考え方である。より正しくはケガ人の認識、病人の認識になり、それがやがて量質転化して、認識レベルにとどまらず、脳(実体)までもがケガ人の、病人の脳の実体になり果てるのである。

 「アルプスの少女ハイジ」に登場するクララの病気はまさに、あの少女が病人のアタマになっていたから歩けなかったのである。

 五十肩も青山氏の骨折も、認識が神経を叱咤して懸命に働かせたから、見事に神経が治してくれたのである。
 われわれの空手流派では、下痢したらたくさん食えと言われる。普通は胃腸を休ませるために、しばし食べるのを控えろと言われるが、そうではない。胃腸を怠けさせるなと叱られる。
 食べれば否応なく神経は(おおもとの脳細胞も)消化のために働かされる。胃も腸も、怠けてはいられない。

 もう一つわが空手流派の話だが、昔、ある海岸で合宿をしていた。
 指導者たちが、海岸で多数の会員を指導するのだが、野外だし波の音なんかもあって大きな声を出さなければ聞こえない。それで一日中怒鳴りまくる。
 翌日も早朝から、練習が行なわれる。このときにはさすがに指導者のほうも声が枯れている。となると、おおぜいの会員に声を出して指導しきれないだろう…と思うだろうが、そうはならなかった。

 指導者たちは、はじめは枯れて大きな声がだせないようだったが、しばらくするとしわがれていた声が直り、同じように大きな声で怒鳴るようになった。
 「これが量質転化の実践だ」と言われた。声がでなくなったからと、喉をいたわるのではない。
 まさに声帯にかかわる神経を、怠けさせなかったから、神経がちゃんと仕事をして嗄れた喉を修復してしまったのである。

 たまに運動をすると筋肉痛になることがあるだろうが、これも翌日に痛いからといって休むのではなく、はじめは痛くても運動すれば、あっという間に筋肉痛は収まるものである。湿布薬なんか貼るまでもない。




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2016年02月16日

日韓通貨スワップの裏側


 経済が世界規模で激動しているさなか、小さなニュースとして扱われているが、日韓通貨スワップ協定の再締結が検討されているとされる。
 通貨スワップは、各国の中央銀行が協定を結び、自国通貨危機の際、自国通貨の預入や債券の担保等と引き換えに一定のレートで協定相手国の通貨を融通しあうことを定める協定のこと、である。

 という建前になっている。
 これは昨年12月28日に合意された日韓の慰安婦問題解決につながる話であろう。

 韓国経済は一時の勢いをなくし、輸出が振るわなくなり、外国からの投資も逃げて、凋落の一途、崩壊寸前といわれる。
 韓国はとりわけ貿易依存率が高いゆえに、経済が行き詰まって外貨準備がなくなり、ドル決済ができなくなると国家破綻を招きかねない。
 だから、日韓でスワップ協定を結んで、経済危機が招来したら、日本から円というより、実質的にドルを借りて当座をしのごうというのだ。

 日本と韓国の、相互の助け合いと、マスゴミは報道する。ただ実質は、日本が経済破綻する恐れはないので、韓国を救ってあげるだけの協定だと解説される。
 それで、日本の保守層は(私もそうだが)、韓国なんか反日だし、嘘つきだし、慰安婦だの竹島だので戦争状態にしてきているのだから、さっさと潰れてしまえ、と思う。なんで韓国なんかにスワップ協定を結ぶのだ? 恩を仇で返すやつらを助けてやることなんかない、とむかつくのである。

 しかしそんな国民の気分は政府も官僚もわかっているはずで、わけても現政権は安倍晋三氏だから、韓国を不快に思っているに違いないが、政府と自民党は韓国とのスワップには前向きなのはどうしてか? もしかして自民党、公明党、民主党などのなかに親韓派議員が多いからか…と疑われる。

 一方で、韓国はアメリカがイランへの経済制裁を解除する動きとなって窮しているらしい。経済制裁されていたイランから韓国は石油を密輸入していた。イランの弱みにつけこんで安く買い叩いたうえに、代金をウォン決済させ、制裁中を根拠に韓国内銀行にプールしていた。それがここにきて、イランの制裁が解除されたので、イランは韓国内銀行に溜められていた代金(ドル)を回収し始めたようだ。公表されてないが、相当巨額らしい。

 韓国は困った。建前上アメリカに内緒でイランと密貿易していたから、アメリカには泣きつけない。イランになんとか思いとどまって代金回収を先伸ばししてくれないかとパク姫は画策しているやに…。
 しかしイランだって怒り心頭だろう。韓国が許せないに違いない。
 それで、もう一度日本とスワップ協定を結び直さないといけなくなっている、という背景があるそうだ。

 さて。
 マスゴミでも語られず、あの裏事情を知りつくしているかのごとき青山繁晴氏も言わない「理由」がスワップ協定にはある(らしい)。
 それはスワップによって、日本が「リスクなし」「働かずして儲かる」仕組みがあるから、である。

 日韓スワップと言いはするものの、誰が見たってこれは対等ではあり得ない。日本は大国なのである。経済では韓国より強国だ。
 韓国は日韓併合から日韓基本条約に到る日本の援助のおかげで経済的にはなんとか自立的にはなれたが、依然として小国なのである。
 韓国は、北朝鮮があったればこそ、なんとか成り立ってきた国であり、かつ優秀な日本と言う国の隣国だったことが幸いしてきた。
 戦後、「防共の砦」とか言われて、八百長の北朝鮮との対峙を演じてきて、日本からの援助をもぎとってきた。

 もし韓国が、そうした東西冷戦のぶつかる場所や、大国の緩衝地帯とかにない国だったら、アメリカ、日本、支那などからは放っておかれ、例えばラオスとかカンボジアとかのように、経済的にも冴えない国で終始していただろう。

 韓国は日本の隣りで、共産主義の脅威を防ぐ防衛線だから、向こうに寝返らせないため、あるいは北に負けないために、防衛力を維持させなければと、西側諸国に存立を保障されてきた。
 だから裏で北朝鮮の脅威を演出していても、なんら不思議ではない。北の核開発や拉致も、韓国が応援しているにちがいない。
 北が「脅威」でなくなれば、日本やアメリカは援助をしてくれなくなる。

 日本もアメリカに脅されながら、かつうまく立ち回って援助しつつ、一部の企業や官僚らが利権を貪ってきたのだ。
 韓国の労働賃金が高騰するまでは、日本企業はずいぶんと韓国を下請けに利用してきた。

 述べればまだあるけれど、ざっくり言えばそういう大国と小国の関係であるのは、いくら韓国人が歯噛みしても覆せない事実だ。
 その大国、強い立場にある日本が、韓国になぜスワップで援助するかといえば、利子で儲かるからである。 
 しかし、これは政府も害務省も一切公表しない、野党も追及しない。だから国民は知らないまま。

 日韓スワップ協定の契約書は、これまでも公開されたことがなくこれからも不明になっている。

 大国が貸す必要もないのに、小国にカネを渡してやるほど、国際関係は善意では動かない。それが当たり前である。むろん小国も利子を払ってまでスワップで実質的にカネを融通してもらっているとは国民に説明しない。

 しかも、スワップ協定は、結んだからとて実際にカネを貸すわけではない。イザという事態にならないかぎり、ただの約束にしかすぎず、カネの移動はない。つまり韓国としては、借りたカネを投資に回したり、為替で運用したり、基幹産業を育てたりすることはできない。

 同等の国力の国どうしなら、スワップ協定をしたからといって普段は何も起こらないが、スワップで助けてほしいのは韓国だから、約束しただけで金利を払わねばならぬらしい。だから日本は、一銭も融資することなく、ただ韓国からの「万一のために」のおかげで、利子だけが入ってくる。

 韓国にしてみれば屈辱であるが、背に腹は代えられない。ただの「約束」という協定に、利子を払い続ける。これはいわば掛け捨ての生命保険のようなものだろう。
 だからスワップ再締結なんか、本音では結びたくない。

 こういう仕掛けだと、廣宮孝信氏(評論家)がブログで明らかにしている。
http://grandpalais1975.blog104.fc2.com/blog-category-6.html
 日本側は韓国などの弱小経済国と通貨スワップを結べば、労せずして金利が得られる。こんなおいしい話があるか。日本はASEAN諸国ともスワップ協定を締結している。

 これはアメリカの、というよりユダヤ金融のFRBがやっている仕掛けだそうだ。FRBはドルをいろいろな国に通貨スワップ協定を結び、ドルが投資されなくても、黙っているだけで金利が入ってくるのだそうだ。
 ユダ金は、アメリカに巣食って(寄生して)、強大な軍隊を背景に、こうしたドル支配を貫徹させてきた。

 世界的戦争、第一も第二次も、朝鮮、ヴェトナム、イラクなどで戦争を仕掛けたのは、振り返ってみれば、世界をカネで支配するためにアメリカを戦勝国にし、世界に軍事力で睨みを効かせ、ドルを世界中の国に貸したり、スワップしたり、あの手この手で収奪してきたのであった。

 ユダ金にしてみれば、日韓がやれ竹島の、やれ慰安婦の、と揉めていれば、見事に国民の関心はそちらに向き、いがみ合ってくれる。ユダ金による阿漕な支配は隠蔽しきれるのだろう。日韓政府のおそらくは密約になる、スワップの利子は、誰からも見えない。その不労所得はいったいどこに消える? 誰が潤う? まともに国庫に入るのか?

 国会で野党も追及しないところを見ると、もしかしてそのスワップ不労所得は、与党・野党・官僚で山分けか?


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2016年02月15日

重力波観測成功のいかさま


 2月11日、「重力波」を米国の研究チームが世界で初めて検出したと大々的に報道された。これはアインシュタインが百年前に予言し未確認だった現象が、立証されたという。
 この発見によって、新たな天文学や物理学に道を開く歴史的な発見とされ、マスゴミは「重力波天文学幕開け」「ノーベル賞の受賞は確実」と大はしゃぎだ。

 まったく…アホ言うたらあかんデ、ホンマ。

 重力波なんてあるわけがないじゃないか。アインシュタインは大嘘つきなのである。相対性理論もブラックホールもデタラメなのだ。
 いつもこうしたニュースがでるたびに言っているが、天文学者どもはみんなイカサマ師である。税金や企業からの研究費欲しさに、アインシュタインを利用して話をつくる。あるいはノーベル賞をとって箔をつけたいのか。

 とりわけアメリカの研究者は悪質だ。
 火星に水があるの、地球外に生命体の痕跡があるの、と、ウソ八百のオンパレード。アメリカの科学は、プラグマティズムだから、要するに宇宙関連もビジネスなのだ。

 「検出したのはカリフォルニア工科大とマサチューセッツ工科大などの共同研究チーム。米国の2カ所に設置した大型観測装置「LIGO」(ライゴ)の昨年9月以降のデータを解析し、重力波をキャッチしたことを確認した。」(産經新聞WEB版2月12日付)

 ついで共同通信は、以下のように解説した。

     *    *    *
Q 重力波って。
 A 重さのある物体が動いたときに周囲の時間や空間がゆがみ、波のように伝わる現象で「時空のさざ波」と呼ばれます。アインシュタインが100年前、一般相対性理論で存在を予言しました。人が腕を回しても発生するはずですが、小さすぎて検出できません。

 Q 観測の対象は。
 A 光が脱出できないほど重力が大きな「ブラックホール」や高密度の「中性子星」などの非常に重い天体同士の合体や、星が大爆発する超新星爆発などによる重力波を狙います。ただこれらの重力波が地球に届いても、地球と太陽の間の距離が原子1個分ゆらぐというわずかな変化しか起きず、観測はとても難しいのです。

 Q 本当に存在するの。
 A 米国の天文学者2人が1970年代に二つの重い天体が互いの周りを回る現象を調べ、重力波によってエネルギーが失われていると突き止めました。重力波が存在する間接的な証明となり、2人はノーベル賞を受賞しました。

 Q 何の役に立つの。
 A 重力波は、時間や空間が伸び縮みすると考える相対性理論の正しさを証明する決定打となります。また光では見ることのできないブラックホールなどの天体を調べられるようにもなります。これまで調べられなかった宇宙の姿が重力波で見えるようになり、宇宙の成り立ちへの理解が深まると期待されます。

     *    *    *

 新聞記者諸君は、なんでも宇宙研究者の言うことを鵜呑みにしないで、自分でちゃんと勉強しろよ。こんなものは高校の物理程度の知識で簡単に論破できるのだから。

 「重さのある物体が動いたときに周囲の時間や空間がゆがみ、波のように伝わる現象」と言うけれど、そもそも、時間が歪むって何? 空間が歪むって何? 空想小説の話でしかない。
 時間とは、物質の運動過程であって、それを人間が暮らしの上で暦や時計の動きとして認識しているだけである。運動をある尺度で区切っているのだ。「時間」なるものがあるんじゃない。これは絶対である。

 それを勘違いするから、相対性理論だとかワープするだとか、タイムマシンが創れるとか、妄想するアホが出る。「腕を回しても発生するが、小さくて観測できない」とは言いも言ったり。発生しませんよ、そんなもの。観測できないくせに、微小だから…とは、卑怯である。

 「物体があると周囲の時空が歪み、他の物体を引き寄せる」「その時空の歪みが波のように広がる」と発生する仕組みが解説されるが、その運動のエネルギーがどこから生じるんだ。まったく紙の上の妄想を、まじめくさって言うもんだ。
 まことしやかに物が動くと周囲に歪みが生じるなどと、それが事実としてある前提で語るが、まったくの空想である。

 今回観測したのは、「地球から13億年離れた場所で、それぞれ太陽の29倍と36倍の質量を持つ2つのブラックホールが合体した際に生じた重力波とみられる」。「2つのブラックホールは光速の半分のスピードで衝突し、より重いブラックホールになった。その際、太陽の3個分に相当するエネルギーが重力波となって広がったという」。

 こんなこと言われて、像が描けるだろうか。推測のまた推測でしかない。
 ただの言葉遊びである。像で考える実力を身につけた者は、こんな言葉だけで「さもありそうな」「いかにもなっていそうな」そんなものには騙されない。
 天文学者もマスゴミの記者も、受験秀才の成れの果てだから、像で考える実力を身につけず、言葉でわかったつもりになってしまう。

 ブラックホールがあるという前提でものごとの説明が進んでいくが、そもそもブラックホールの存在が証明されたわけでも、事実から論理が導き出されたわけでもない。
 「物体があると周囲の時空が歪み云々…」の説明と「ブラックホールが合体して云々…」と、どうつながっているんだ。話が(像が)つながらない。

 話に付き合うのもバカらしいが、ブラックホールとは、極めて高密度かつ大質量で、強い重力のために物質だけでなく光さえ脱出することができない天体」とされている。ならば波動だって「脱出」できないはずじゃないか。エネルギーは脱出できないが、波は脱出できる??? 

 「極めて高密度かつ大質量」「重い重力」…これこそただの言葉でしかないことが皆さんにはお分かりいただけるだろうか。どういう像なんですか、これは?
 例えば、恋人に対して「ボクの愛は地球より大きい」と言ったとすると、こんなものはただの言葉でしかない。けれどまあココロのことだから、恋人にはなんとなく気持ちだけは伝わる。
 だが、科学的事実でこんなことを言ったらただのバカである。

 かと思うと、エネルギーは消滅する、だと。エネルギー不滅の法則をテメエの都合で無視して、いやこれは違う次元の話だなどとうそぶく。
 アホか。

 宇宙科学者は、なにせ遠過ぎて観測もろくに出来ない何億光年向こうの天体ゆえに、素人を煙に巻いて、勝手な推測を「言葉で」述べ、それをもとにもっと調べれば宇宙の謎が解けると、だまくらかして予算をぶんどる、たちの悪い商売をしている。人間の月面着陸という大ウソを国家ぐるみでやらかしたのがアメリカであった。その連中が今度は「重力波」と言い出したのだ。

 ウソをついて、新発見だ!と発表しても、それを反証する研究はおいそれとは出てこない。誰かの反論がきても、それを検証するのだって時間がかかる。無視していれば、栄誉だけ手にしてあの世に去っていける。




 

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2016年02月13日

覚醒剤シンジケートの闇


 元プロ野球選手・清原和博の覚醒剤所持の事件で連日マスゴミは大騒ぎをしている。
 個人のことに報道の焦点が集まっているかのようだが、どうせもう彼には未来はない。執行猶予で出てきても、またヤクをやって塀の中に舞い戻るに違いない。

 覚醒剤依存が機能レベルならまだ立ち直れたろうが、今や脳の実体が依存せずにはいられないほどの中毒になっているようだから、離脱は無理である。
 アル中も、酒好きの嗜むレベルなら立ち直れても、アルコールが食べ物レベルになってしまっては不可能なのと同じことだろう。
 彼はなるべくしてああなっただけのことである。

 娑婆に出れば、同じワルの仲間と交際するのだから、抜け出られるわけがない。野球もダメ、タレントとしてもダメ、やれる仕事もないのだから、暴力団との関係が切れるとは思えない。
 最近は、全国あちこちのパチンコ屋を回っては、トークショーと客との写真撮影に応じる商売で食っていたと聞く。一回30分滞在で150万円くらいのギャラをもらっていたとか。

 哀れだね〜。本人もみじめだと思っていただろう。
 パチンコ屋関連のそうした仕事(?)を紹介してくれ、食べさせてくれるのは暴力団関連である。今度の事件でも釈放されたら、またパチンコ業界にでも世話になるほかない。ならば、ヤクが抜けるわけがなかろう。

 私は1年ほど前だったか、東京の広尾で歩いている清原を見たことがある。スネに刺青が掘ってあるのが分かった。ここまで落ちたかと唖然とした。
 清原は自らあの悪い顔を創ったのである。暴力団風の顔をつくって、周囲を脅したい気持ち(認識)、それは脳細胞の働き(機能)であり、その機能が顔という実体を創ってしまった以上、変われない。娑婆に戻ったら、「良い顔」になるよう努力しなければいけないが、やるわけない。

 清原がまだ現役で巨人の選手だったころ、もう堂々たるヤクザの威風を漂わせていた。野球選手一般がろくなことはないが、それにしてもひど過ぎた。何年巨人にいたか知れないが、巨人は清原の扱いに苦慮しただろう。打てないくせに威張っていて、高給をとった。監督がたまりかねてベンチに置くと、ブンむくれていた。

 清原、元木、ローズがベンチにいて、雰囲気を非常に悪くしているのがテレビ中継からさえ見てとれた。巨人がこの3人を戦力外にして、ホッとした選手が多かっただろう。
 巨人の元選手・野村貴仁が、フジテレビの番組で、自分が清原に覚醒剤を渡していたし、「清原が覚醒剤をやっていたのはチームメートもみんな知っている」と証言。覚醒剤の受け渡しが球場内でも行われていたと伝えた。

 しかし、本筋は六本木でセレブ向けのクリニックをやっていた(今は廃業)平石貴久が、精神不安を宥めるため合法的に処方したアンフェタミンから清原は嵌っていったのだろうと経済ジャーナリストの須田慎一郎氏が語っている。

 巨人時代から清原は覚醒剤に手を出していたのに、証拠不十分で立件されなかったというが、極めて怪しい。警察が捜査する気がなかったのだ。

 そもそも清原を甘やかした西武ライオンズやプロ野球界が悪いし、その前のPL学園高校も悪い。野球さえできればいいとした連中が、こぞって清原をダメにしたのだ。本人も悪いのはむろんだが。

 清原を「番長」と呼んで、ひとつのキャラクターにしたマスゴミも同罪である。今さら清原を断罪するなよ。マスゴミが、清原をまるでサイコパスのようにおもしろがって持ち上げた罪は重い。今度の事件でも、これでもかと清原の悪事を暴いては、儲けている。

 いろいろ報道されるなかでわかってきたことは、清原が覚醒剤の中毒であることは業界では知れわたっていたらしい。友人知人が気づかぬわけがない。離婚した奥方も知っていただろうに。
 なにせ、覚醒剤の発作で2度も死にかけ、救命救急に搬送されたのであれば、警察だって気づかないはずがない。病院が通報しただろうに。

 それに誰でも、彼が転落したことを気づいていたはずで、「まさか」とか「嘘だろう?」などとコメントしている同業者がいるようだが、そんなアホな。
 やっぱり、というのが常識人の反応である。週刊文春だかで疑惑が報じられたときに、みんな感づいたのだ。
 なのに、なぜこれほどまでに逮捕が遅れたか、と、なぜ清原個人にばかり話題が集中するのか、ではないか。

 日本には北朝鮮、韓国、支那、タイなどから覚醒剤が密輸され、主に暴力団が商売にしている。暴力団のほとんどはザイニチである。
 先に言ったように、パチンコ業界もザイニチが支配する。
 暴力団は清原を使って、パチンコ業界で稼がせ、その上前を覚醒剤を常用させることで吸い上げていたのだ。

 要するにザイニチが、覚醒剤やアヘンなどを扱って巨利を上げており、それに警察や政治家、官僚などがからむ。
 清原が真っ黒だと言われながら、野放しにされていたのは、シンジケートにとってそれが望ましいからであろう。
 暴力団が警察に手を回して、逮捕をずっと免れていたと思うよりない。

 どうして今、逮捕にいたったかは不明だが、もしかするとシンジケートにとって清原は価値がなくなったのかもしれない。覚醒剤のやりすぎで、脳がボロボロになって、暴力団や警察でさえ困るような奇行でもやりかねない事態に至っていたとか…。

 あるいは、安倍政権になってから暴力団=ザイニチへの締め付けが強くなり、やつらの活動が制限されてきつつあるから、清原を突破点に覚醒剤販売組織の全容を解明し、ザイニチを潰す動きと連動しているのかもしれない。

 清原は覚醒剤の入手先については黙秘していると報道されている。
 警察にゲロしてシンジケートからの報復を怖れてのことかと思ったら、先の須田慎一郎氏は、出所してからまた覚醒剤をやる気でいるために、入手ルートを失う恐怖があって口を割らないのだとか。

 警察が清原の入手ルートを知らないはずがない。内偵すれば簡単に割れるはずだ。1カ月も前からずっと清原の住むマンションの向かえに部屋を確保して張っていたそうだから、判明するのではないか。
 警察が、清原は入手ルートをしゃべらないと、マスゴミにリークしているのは、知っているけどマスゴミには教えないよと言っているのだ。

 芋づる式に覚醒剤販売ルートが暴露されては、暴力団も警察も、ザイニチ利権の代表である国会議員らも困るから、話は清原個人で終わりだろう。
 警察は、必ずしも覚醒剤の販売ルートを摘発に乗り出すとは限らず、例えば覚醒剤に関わった政治家や官僚、大企業社長なんかを揺する材料にするだけかもしれない。





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2016年02月12日

「あざみの歌」「山のけむり」はなぜ名曲か(3/3)


《3》社会性の意味
 その歌の構造(作詞・作曲者の精神に内包された文化)としては、日本の歌の場合は、宮廷雅楽やら庶民のわらべ歌、浪花節や民謡、ご詠歌に声明(しょうみょう)、さまざまな音楽の伝統が複合しているところへ、西洋の音楽も加わって混合してきているけれども、「あざみの歌」「山のけむり」で説いたように、文化のより高みで問いかけてこその認識の形成、熟成という隠された構造があるのである。その歌という対象の構造にこそ、われわれ日本人は自分を合わせていかねばならない。

 何度も言うけれど、歌は決して自分が歌いたいように歌うものではなく、歌って良いものでもない。聴衆たる日本人の心にしみ込む歌とするには、日本人とその優れた社会の対象の構造に、しっかりと問いかけ(!)、自分の歌をあわせることだ。つまり比喩的にいえば対象の構造によって歌わされることである。それが、歴史性ある歌手となる道であり、また素人でも歌を通して優れた感性を目指す者の必須の道となるのではないだろうか。

 おそらくは庶民も、かかる音楽や歌の特性自体を理解していなくても、その歌、その曲が、「日本なるもの」を十分に内包したというか、日本文化の結晶となった創作者の精神に触れた思いになれるときこそ、その歌がヒットし、人の心に残るのであろう。

 「日本なるもの」と書いたが、私たちは日本の歌を聴いて、日本の文化、生活、しきたり、義理人情などが反映する。それは日本の歌、つまり演歌や唱歌でなければダメで、クラシック音楽や汚いジャズ、ロックでは反映はない。とくに若い人が流行にまどわされ、マスゴミや愚かな友人に影響されてジャズやロックを聴いて酔いしれているのは、たまのことならともかく趣味にまで嵩じては決してよいことではない。

 あんなものでは感性は豊かにならないからだ。あれらは再三言うように、自分が歌いたいように歌っているにすぎない。
 一言言っておけば、感性と感情は違うのであって、わが流派では「感性は感情の理性形態または法則レベルであって、感情を学問的にいえば感性になる」と教えられる。だからジャズなんかは感情レベルの盛り上がりにすぎない。

 私は再三、社会的認識を創らねばならないと説いてきた。その場合の社会的とは当然に「日本的なるもの」である。ここは当然に「あざみの歌」との関連で言っている。
 「日本という環境は、彼ら歌手の顔でさえ創る実力を把持していた」とか、「歌も(音楽も)外界の反映であり、作者の認識の反映である。つまり外界からの反映で認識を創るものであるわけだから、社会性をカットしてはならないのだ」と書いてきた。

 われわれは社会に生きているのだから、その対象たる社会に見合った生きざまをしていかなければならないのであって、この場合の社会の意味を「あざみの歌」をダシにして説いてきたわけだが、再度説明しておきたい。

 この社会性とは、国民どうし、あるいは家族や会社といった小社会で、互いにもたれあうことを言っているのではない。
 ひとつのエピソードを紹介する。ある人が海に入って、泳ぎ、かなり沖まで行ったところが沖は海水温も低く、流れも速く波もきついので、疲労して心臓が止まりそうになった。そこで近くをたまたま泳いでいた若い人を見つけて岸まで誘導してくれと頼んだ。若い人は「誘導するとは、どうすればいいのでしょうか?」と尋ねたそうだが、「並んで泳いでくれればいい」と言って、いっしょに泳いで岸まで戻ってきたというのだ。

 これは別に手を引いて救助されたのではない。止まりそうな心臓を、認識が叱咤激励して頑張らせたのだとその方は言っていた。人様が見ているのに、みっともないことはできないぞという認識が頑張らせたのだ、と。これが社会というものである。
 だから、今の社会は頑張れば歩ける老人が、怠けて車椅子で引いてもらっている。いかに日本がひどい社会になっているかだ。


 私が「あざみの歌」で説きたいと思っている「社会」もこれである。もたれあったり、癒しあったりする意味ではない。「あざみの歌」における社会性は、いかに叙情歌であろうと、男女もたれあいの歌ではないことはこれまで説いてきておわかりいただけたと思う。

 ここでようやく作詞家の話をしたいが、「あざみの歌」は横井弘作詞、「山のけむり」は大倉芳郎作詞である。いずれの詩も私には島崎藤村の影響を見る。彼らが島崎藤村に直接師事していようがいまいが関係なく、藤村は日本叙情詩の先駆者であった。毀誉褒貶があるのは承知しているが、少なくとも彼は詩を西洋文学の高みで捉えて、自分の試作に生かしたのだ。

 バイロンとかハイネとか、思想性の高みを誇った詩を自分もと試みたと思う。藤村はバイロンやハイネの志や誇りの詩の、その高みを感情でわかって、バイロン、ハイネの高みで試作したと言っていいのだ。その伝統というか影響を後進の詩人・作詞家たる横井と大倉は受けているのである。

 何が藤村以来の伝統だったか。そこが論理的に理解している詩人はおそらくいないだろうが、端的には、常に文芸の対象たる外界をそのレベルで反映させないで、高めて反映させることである。
 マンガでさえも学問以上に高めて読むことである。漫画家のレベルに降りればバカになる。高みによじ登っていくことである。島崎藤村はそうしたのだ。

 例えば「小諸なる古城のほとり」という有名な詩を思い浮かべてもらいたい。あれは小諸の風物を歌っているようであるが、風景に託して自分の至情や志を表出している、つまり風景を風景以上のものとして見ている詩である。

 このことを、幼児教育レベルで説いたのが、『育児の生理学』(瀬江千史著)である。
 「育児においては、どのような像を意図的に子供につくり出すか、描かせるかが大事なのです。(中略)バラの花を見せるさいにも、たんに『これはバラよ』ではなく『きれいね。ほんとうにいい香り!』と、子供がいきいきと“問いかけの像”を描けるようにすることが大切です。」と。

 このように幼児にもいきいきと“問いかけの像”を描けるようにすると同様なことが、まさに藤村が詩作で行なったことであり、「あざみの歌」「山のけむり」の作者の意図なのである。単なるアザミの花や山のけむりではないのだ。

 だから。
 「あざみの歌」の横井弘、「山のけむり」の大倉芳郎。いずれも「『これはバラよ』ではなく『きれいね。ほんとうにいい香り!』」と話いかけるように対象を捉えて作詞している。それに加えて高みによじ登ろうとする意志的な歌詞なのだ。おそらく当人たちはさほど自覚的ではなかっただろうが…。

 これは先に紹介したようにある人が沖合に泳いでいって心臓が止まりそうになったとき、若い人に並んで泳いでもらったエピソードと同様、若い人自身は救ったとは自覚せず、ただ並んで泳いだだけ、ということと同じだ。救ったことを自覚しないで救ったように、横井弘と大倉芳郎は自覚せずに偉業をなした。

 私はだから、かかる「対象たる外界をそのレベルで反映させないで、高めて反映させること」こそが本当の社会性とよぶべきものであり、それこそが日本なのだと訴えているのである。

 このような優れた社会性というか文化性は、支那人や朝鮮人にはないのだ。彼らは関わる対象のレベルをひきずり降ろしてしまう。日本の優れたところを学べばいいのに、ウソばかりついて日本を貶めることで自分らが優位に立てると錯覚する者どもである。

 かかる「対象たる外界をそのレベルで反映させないで、高めて反映させること」こそが本当の社会性とよぶべきだと言うのは、まさにもたれあったり、癒しあったりする意味での社会ではない、と理解できるであろう。
 社会とは、学校の教師が教えるような、産業があり、交通があり、政治があり、隣近所があるというだけのものを指していうのではない。ここまで教えてこそ教育ではないか。

 それゆえ、憧れの対象たる佳人に対しても、よじ登るべき高みとして捉えることになっていくのである。

 私が、歌には歌の対象の見事な構造があるのであって、鑑賞し、歌い奏でるならば自分をその構造に合わせなければならないと書いたのは、歌も歴史をひもとけばわかるように、「対象たる外界をそのレベルで反映させないで、高めて反映させること」を連綿と継承してきたからこその進歩があるのである。それを指して「対象の見事な構造」であると指摘している。単に歌い継がれる現象を指して言っているのでないことは、最後まで本稿を読んでいただいた方にはもうお分かりのことと思う。




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2016年02月11日

「あざみの歌」「山のけむり」はなぜ名曲か(2/3)


《2》「歌は世に創られ、世は歌に創られ」
 「山のけむり」「あざみの歌」でヒットした伊藤久男は、作曲家・古関裕而から芸名をもらい、戦前に古関作曲の歌謡曲や軍歌を歌って一世風靡した。同じコンビで今の高校生にも知られている歌として、あの甲子園の大会歌「栄冠は君に輝く」がある。この歌もYouTubeで聴ける。申し訳ないが作詞家のことは後で述べる。古関裕而は野球関係の曲も多く、早稲田の「紺碧の空」、阪神の「六甲おろし」、巨人の「闘魂こめて」もみんな彼の作曲だ。

 それはともかく、甲子園の「栄冠は君に輝く」を聴くと、古関裕而の想いが伝わってくる。彼が「山のけむり」や「アザミの歌」を作曲したのと同じ想いがそこにある。古関裕而もまた、問いかけのレベルがすばらしかったのだ。現在はプロ化し堕落した甲子園だが、古関裕而が作曲したころは、彼なりにそれこそ「佳人への片想い」レベルで、あの高校野球を見ていたことがわかる。その思いの深さが「栄冠は君に輝く」の、心にしみつつ胸はずむ曲となった。

 「山のけむり」とは「憧れ」そのもので対象(佳人)を見ているからこそ、その佳人のレベルで夕焼けの見事さが反映するのである。
 高校生の野球という対象を「良い方向への想像を膨らませ」見事に憧れそのもので見て、その憧れのレベルで甲子園の見事さが反映したのであって、そこから創った歌が「栄冠は君に輝く」であった。藝術家が何を“見て”創作したかを見抜くことが肝心であって、結果の作品だけ鑑賞してもしょうがない。

 また古関が戦時中に作曲した軍歌(戦時歌謡)も同様であって、「暁に祈る」「露営の歌」「海を征く歌」「愛国の花」「若鷲の歌」などにも表現されたのである。戦争をも、古関裕而は見事な問いかけで、至高の憧れで見る事ができた。藤田嗣治の戦争画と並んで、これが本物の“大東亜戦争肯定論”なのだ。決して侵略肯定ではない。

 鬼畜米英蘭はもとより、敵性支那・朝鮮・ロシアにも、戦争をかような至高の文化レベルに捉えた民族はない!(ざまみろ!)
 特攻で散ったわれらの先達も、本当に守りたかったのは家族だけではない。この見事な問いかけでなりたつ日本、見事な問いかけに応え得る日本を守ろうとしたのである。

 おそらくは同じ思いで林秀彦氏も名著『海ゆかば山ゆかば』(PHP)を書き、軍歌を絶賛したのであろうし、林氏のミュージカル『帰ってきたガリバー』で日本の軍歌や唱歌を世界の子どもたちに歌わせようとの企図にその思いはつながるのだ。
http://www.lilliput.com.au/Menue/TopJp.html

 素晴らしい方向への問いかけをしていけば、素晴らしい像を次から次に創りだし、自分の認識を創り、淡い恋愛感情を培うことになる。と同様に、その対象がたかが野球でも、あるいは世界に冠たる軍歌や唱歌でも、「これぞ日本」となるのである。
 だから冒頭に書いたように、YouTubeで昔の伊藤久男が歌う「あざみの歌」を聴くと、これがあのころの日本だったという思いで胸が熱くなり、思わず目頭が潤んでしまうのである。像の厚みがそうさせる。「あざみの歌」や「山のけむり」が創られたのはNHKラジオ歌謡だった。あのころは、NHKでさえまだ日本を守ろうとする思想があったのに…。

 大江健三郎が集団自決を守備隊隊長の「命令」であると『沖縄ノート』でデッチあげたその根拠を、「当時の日本軍を貫いていた“タテの構造の力”、あるいは“日本人一般の資質に重ねることに批判の焦点を置いて”などと言った戯言を私は批判したことがある。
 なんでもかんでも皇民教育が悪だったと大江は主張するが、ヴェトナムやインドネシアで戦後も残って卑劣な欧米人支配からの解放と独立のために戦った兵士らは、大江の唾棄する皇民教育を受けて育った青年だった。

 彼らは、ヴェトナムやインドネシアの人々の中に、古関裕而が本当は説きたかった思想、すなわち対象への見事な問いかけで思いが深まっていき、ヴェトナムやインドネシアの民をより見事な理想と見て、「良い方向への想像を膨らませて」捉えていったのである。

 その理想への強烈な問いかけが、自分の血を捧げてかの国を白人イルミナティによる植民地支配の鉄鎖から解放せんとしたのである。これもまた、“タテの構造の力”であり、“日本人一般の資質”だった。これを大江はどう説明できるのだ。

 日本人にかかる(大江のいう)“タテの構造の力”や“日本人一般の資質”があったればこそ、戦後すぐNHKラジオ歌謡で流した「あざみの歌」や「山のけむり」が国民的大ヒットになったのだ。みんなはおそらくなぜこの歌に惹かれるのか自覚はできていなかっただろうが…。
 
 この項の冒頭に昔の歌手の顔を取り上げて、「人間の顔は環境で創られる。日本という環境は、彼ら歌手の顔でさえ創る実力を把持していた」と書いた。そうだ。日本人の顔つきの良さは、見事に憧れそのもので対象(佳人)を見て(問いかけて)いるからこそ、その佳人のレベルで夕焼けの見事さが反映するごとくに、みんながかかる反映が技化するような優れた教育を受けたからその環境が整っていったのである。

 その環境とは、例えば近所付き合いでもあったろうし、学校の先生が見事であったからだろうし、それに唱歌も童謡も見事で、童話や昔話も素晴らしく、江戸時代からあった天下人たる武士の魂の残り火があったからであろうし、講談や落語でさえ人の道が説かれたからだろうし、ありとあらゆる事物事象が、問いかければ問いかけるほど見事に応えてくれる文化だった。それこそが日本であり、日本人であったのだ。

 その素晴らしい環境が、古関裕而を創り、伊藤久男を創った。その環境によって創られた彼らがまた日本を創る“指導者”となり、日本人を創ったのである。「歌は世につれ、世は歌につれ」とは言うが、本当は「歌は世に創られ、世は歌に創られ」であったのであり、「日本人が日本を創り、日本が日本人を創った」のだ。

 歌を歌うときは自分が歌いたいように歌っていてはダメで、本当のプロの歌手はちゃんと聴衆の心にしみいるように歌わねばならない。聴衆の心にしみるように歌った歌手が、「あざみの歌」の伊藤久男であった。

 人間は、対象の構造に自分を合わせなければ成長はない。例えば、誰でも小学生から中学生になるときに、中学校という対象の構造に自分を合わせて、自分を変える。嫁入りもそうであって、亭主の家風という対象の構造に嫁は自分を合わせ、その家の人となった。だから基本的には嫁は夫の姓を名乗るのが望ましいのだ。医者になるには、医学・医療という対象の構造に合わせて自分を変えるしか立派な医者になる方法はない。

 弁証法も、それがこの世界の事物事象と思惟を貫く一般法則である以上、その己が対象とする世界の弁証法性に自分を合わせなければ、世界の構造に分け入って解明し、かつ自分自身の頭脳そのものを弁証法性を帯びた頭脳に創り変えることはできないのである。

 歌手も同様である。歌には歌の対象の見事な構造があるのであって、自分をその構造に合わせなければプロにはなれず、上手な歌い手にもなれない。学校の音楽教育は果たして、その観点から教育を実施しているであろうか、ただ音譜の規則を覚えさせ、メロディやリズムやといったテクニックだけを教えているのではないだろうか。テクニックや音楽の楽しさと直接に、音楽の見事な構造(あるいは作詞・作曲者の精神に内包された日本文化というか)に自分を合わせて創ることをも教えなければいけないのに…。

 音楽(歌)は感性であるだけに、庶民にも優しく浸透できる。日本人ほど歌好きな国民はいないとされるが、それが日本文化形成に大きな力となってきたのだろう。だから、先ほども紹介したが林秀彦氏が日本の唱歌や軍歌で構成したミュージカルで、世界中の人々に日本の良さをわかってもらおうという企画は、ぜひとも実現していただきたい。それが日本を悪魔と宣伝する支那・朝鮮の下賎な野望を打ち砕き、世界中から日本民族が尊敬される道である。



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2016年02月10日

「あざみの歌」「山のけむり」はなぜ名曲か(1/3)


 Yuuri様から、音楽教育についてすばらしいコメントを頂戴した。
 それで、以前に書いた私の音楽論を思い出したので、再録することにした。先週書いた音楽教育論の実践編でもある。


《1》「あざみの歌」と「山のけむり」の構造を解く
 「人見知り」の認識の構造について書いたことがあった。そのプラス面として、例えば恋心をいだいたときに声をかけられないことが感情の熟成をうながす、と説いた。そしてその例として昔、伊藤久男が歌った名曲「あざみの歌」や「山のけむり」が良い意味での人みしりだということを詳しく説きたい。

 伊藤久男の「あざみの歌」は、YouTubeで聴く事ができる。
http://www.youtube.com/watch?v=SNBuMMY1-bY&feature=related
 倍賞千恵子の「あざみの歌」も、伊藤久男の「山のけむり」も一度聴いてみていただきたい。倍賞千恵子の「あざみの歌」もすばらしい。本当に名曲が伊藤久男と倍賞千恵子のおかげで、名曲中の名曲になった。歌詞はいずれもネットで検索していただきたい。

 YouTubeにある伊藤久男と倍賞千恵子の歌を聴くと、目頭が熱くなるのを禁じ得ない。彼らの歌のなかにまさに失われた日本が見えるからだ。それはまるで、亡くなった最愛の祖父母が生き返って遭えたかのような衝撃を覚えるほどのことである。「あざみの歌」や「山のけむり」…あれが日本だった。それ以外の言葉が見つからないほどだ。

 YouTubeにある伊藤久男や霧島昇の顔を見ていると、あのころは歌手でさえこんなに良い顔をしていたなと、つくづく思う。だから「あれが日本だった」と言うのだ。人間の顔は環境で創られるのである。日本という環境は、彼ら歌手の顔でさえ創る実力を把持していたのだ。いまやその実力は風前の灯。東海林太郎が有名だが、彼ら歌手はほぼ直立不動で歌っている。倍賞千恵子でさえ、やや片手を動かす程度で、大仰に動きまわったりしない。歌唱力一本で勝負できたのだ。
 あれが歌手のプライドだ。魂が直立不動にさせるのである。楽器を演奏するのも、やたらに身体をゆすったりするのは魂の不足なのである。

 ザイニチの歌手が多くなっている現在、そんな人間としての誇りを把持した歌手はいない。
 こんなことを言っても若い人には意味がわからないのではないか。
 彼らはいうなればただの流行歌手だ。

 伊藤久男なんか酒の飲み過ぎで糖尿病を抱えていたほどであったが、それなのに、日々どういう魂で何をプロ歌手として創っていたかがはっきりわかる。伊藤久男は戦時中、古関裕而作曲の軍歌を大いに歌った歌手であるが、古関裕而の魂を受け取ったのであろう。

 音楽では古関裕而が、絵画では藤田嗣治が軍部に協力した筆頭の藝術家とされ、戦後アホ丸出しの時流便乗サヨクに批判されたが、そんなことはクソくらえだ。彼らだけが本物の藝術家であった。サヨクよ、悔しかったら彼ら以上の藝術を創ってみせろ。

 さて。
 私たちは、ややもすると歌ひとつとっても社会を見ずに自分を見てしまう。だから歌を歌う、聴く、奏でるといった場合に、自分の感情が満たされればよしとしている。「あざみの歌」も自分のいわゆる心象風景と重ねるだけで聴くことはできるが、社会から見るというか社会から聴くというか、そういう関わり方がないように思える。歌も(音楽も)外界の反映であり、作者の認識の反映である。つまり外界からの反映で認識を創るものであるわけだから、社会性をカットしてはならないのだ。

 認識は希望の星にも、悪魔の星にもなる。あの清原は認識を悪魔の星にしてしまった。歌を自分の感情が満たされるだけで聴けば、まあ認識は希望の星にはならない。歌は自分の心を、魂を育て、創るために聴き、歌うものである。
 社会から歌を聴く、あるいは心を育てるために聴くとはいかなることかをこれから書きたい。

 「あざみの歌」(横井弘作詞・八洲秀章作曲)は1950年、「山のけむり」(大倉芳郎作詞・八洲秀章作曲)は1952年、戦後間もなくのNHK「ラジオ歌謡」で流され、大ヒットした。テレビのない時代である。戦争に負けた日本がもういちど立ち直ろうとしていた時代そのものを背景として、この歌は創られ、伊藤久男によって歌われた。

 作詞者、作曲者、歌手が共同して日本国民にしみいるようにと心をこめた歌、それが「あざみの歌」であり「山のけむり」だった。いずれも単に叙情歌と言って片付けてはなるまい。
 伊藤久男のこの2曲はどのように聴くべきか。

 「山のけむり」の歌詞は、青年が山に登り、一人の佳人に出会う(佳人は美人より上の女性)内容である。谷の清水を汲みあって、ヤマバトの声を聴いて、一緒に峠を降りてきた…という体験をし、その佳人と別れた先で見た景色の素晴らしさを歌っているのである。その情感が、「夢のひとすじ 遠く静かに揺れている」とか「君とともに降りた峠のはろけさよ」「淡い夕日が 染めた茜のなつかしく」という歌詞に表現されている。

 現代なら、若者が佳人と出会ったらこういう感情にはならず、即物実体論的に「じゃあ喫茶店に行きましょうか」とか、もっと露骨にどうしたらこの女性をものにできるかなどと考えることを基調にした刹那的歌詞になってしまうのではないか。それでは「はろけさよ…」という歌詞にはならない。

 例えば目の前に食べ物を出されて、でも食べてはいけないと言われて、ずっと目の前に置かれていたら、どれほどその食べ物への思いが深まり、思いが無限に広がっていくか。電車の中で美人に出会ったとすれば、いろいろな問いかけをする。年はいくつか? どこに勤めているか? 趣味は? などと素晴らしい方向への問いかけをしていくだろう。素晴らしい像を次から次に創りだし、自分の認識を創り、淡い恋愛感情を培うことになる。

 ところが、出会ってすぐに「居酒屋に行こうよ」「いいわよ」となったら、直接生身の反映になってしまう。事実をもろに見せつけられる。欠点が互いに見える。しかし、良い方向への想像を膨らませていけば、あんな素晴らしい人と付き合えたら、自分の人生も見事になるのに…と思えば、次にはそんな素晴らしい人にふさわしい自分になろうとすることになる。そうやって見事になって彼女に自分を振り向いてもらおうとなる。

 「山のけむり」は、まともな話もできない二人のまま、山奥に見事に咲いた花のように見立てて、見事に憧れそのもので対象(佳人)を見ているからこそ、その佳人のレベルで夕焼けの見事さが反映するのである。その見事な反映が「夢のひとすじ 遠く静かに揺れている」とか「君とともに降りた峠のはろけさよ」「淡い夕日が 染めた茜のなつかしく」という歌詞で表現されている。

 初めからデートして、アンミツでも食べたなら、たとえ彼女の実力が10あっても、アンミツの食べ方で3くらいしか反映しないものだ。「山のけむり」という歌は、わずか1〜2時間の出会いが、その若者の心を見事に育てるのである。もしその佳人がクラシック音楽が好きだと“錯覚”すれば、クラシック好きが嵩じてそれが人生の目的にもなる。それが「あざみの歌」である。

 「山には山の憂いあり 海には海の悲しみや…」という歌い出し。これは山の高さや海の深さよりも「私」のあざみへの思いが深まったという歌である。あざみの花とは、やはり佳人を指す。その佳人への片想いだ。それゆえ「心の花よ、汝(な)はあざみ」となる。先ほどと同じく、問いかけ的反映でますます想いは深まる。すばらしいほどの心の豊かさが培われていく。

 だからこそ初恋は成就させてはならない。初恋は想いが叶ってしまうと、この「あざみの歌」のような心の深みができず、発展がなくなる。高校生の恋愛はしてはいけない。ブタのレベルの恋愛になるからだ。人間の成長には、それなりに精神と肉体に見合った成長をさせてくれるようなものが必要なのである。

 アリスの『あの日のままで』は高校生の男の子が、片想いの彼女の思い出を歌ったもので、「言葉を交したことも、肩をならべて帰ったこともない」…そんな君の「はにかんだような君の笑顔に、思わずうつむいてしまった」…そんなボクだったというのである。この歌が流行した当時、それほど深い意味があるとは思ってもみなかった。

 そのアリスさえもが認識論、恋愛論の高みで捉えると、見事な藝術レベルになる。




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2016年02月09日

白人はなぜラテン語を学習するのか(2/2)


《2》
 本稿は、なぜヨーロッパでは今も熱心にラテン語や古代ギリシャ語を子供に学ばせるのかを考えようとしている。
 今日はヨーロッパのマイナスの面から迫ってみようかと思う。

 ドイツ映画『1945戦場への橋』は、第二次世界大戦最末期の45年春、敗戦目前となったドイツのある村を舞台に、7人の高校生が教室から駆り出されて、訓練もなしに村の橋を防衛するように命じられる話であった。
 もう明日にも米軍がくるという土壇場のときにも、高校でラテン語を勉強しているシーンが出て来る。

 ほんの、二言三言の文法についてのやりとりだが、こんなものを勉強させられる青年が気の毒に思えた。
 厳格を持って鳴らすドイツだからか、このラテン語という廃語になった言語で学習を縛り付けることの効用を狙っているとしか思えない。
 私たちも、中学や高校で英語の文法を学ばされたが、いささかも楽しくなかったであろう。試験があるから無理矢理覚えた、だけである。学習する理由を教師がプライドとともに教えないからいけない。

 英語ならばまだしも、使えるようになれば人生に役立つが、西洋人にとってのラテン語はまず人生で使うことはないだろう。だからほとんど試験のための学習になる。
 これは若者を徹底して野方図にさせない、勉強はそもそも苦痛だ、それを克服しろと言っているのではないか。

 これは西洋の宗教でもいえることかと思う。とりわけカソリックやギリシャ正教は厳格である。信者を教会に始終来させて懺悔、告解をさせる。ここまで個人の生活や考えをギリギリと縛りつけなければ成り立たない社会なのかとも想像される。

 同じくドイツ映画で『白いリボン』という名作があった。第一次世界大戦直前、ドイツの田舎の村が舞台で、不気味な殺人事件が次々に起きる話である。村のボスとして教会の牧師が君臨し、学校を取り仕切って若者を徹底して道徳や規律で縛りつける。この牧師は自分の10人ほどもいる子供に、純真無垢な心が育つようにと腕に常に白いリボンを結びつけさせている。

 腕にリボンを結びつけられた子供は、常に父親が睨んでいるから悪いことはできないかろうという狙いなのだ。
 息苦しいほどのドイツ社会の縛り、掟、統括ゆえに、若者の認識が歪んでくる、それを問うた映画だった。
 『白いリボン』にラテン語も古代ギリシャ語の学習も出てはこないが、当然やっていたはずだ。

 西洋の教育事情は知らないが、日本では何かと利権と結びつく。小学生にも英語をやらせることになったのは、国際化にふさわしく云々とは表向きで、英語教育の利権を拡大したいためである。
 以前本ブログでも取り上げた「習字」なんかも、書道教育界の利権でやっているようなものだ。習字がいらないと言っているのではなく、生徒に黙って筆で字を書かせているだけなら、利権を維持しているだけではないかと問うた。

 だからイギリスやドイツでは、ラテン語教師の利権が確立されていて、代々それで食っている教師がいるのだろうと想察される。だから止められない…。

 それと、話を『白いリボン』に戻すと、白人の性への欲求の強さへの重しがあるのではなかろうか。奴らは性衝動が日本人みたいに淡白ではない。肉食だからそうなる。坊主が菜食するのは、性の欲求を抑えるためだから。
 それを抑えないと大変なのだろう。だからキリスト教で押さえ込み、ラテン語や古代ギリシャ語の学習で縛り付けている面があろうかと思う。

 しかし、抑えつければつけるほど、人は鬱屈するし、欲求不満が爆発する。それが映画『白いリボン』では殺人へとつながっている。
 それに以前にも書いたが、アメリカや欧州の子供、若者、とりわけ軍隊の中では、始終ケンカしている、いじめあっている、バカにし合っている、なんという社会なのだろう。まあ映画で観るかぎりなのだが、現実もそうだから映画でも当たり前のように演出されるのだろう。

 先に取り上げた『1945戦場への橋』では16〜17歳くらいの男の子たちが、やにわに兵士に仕立てられて自分の村の橋を守らされるのだが、お互いに常に罵り合い。すぐ相手をバカにした言い方をするか、気に入らないことを言われて切れる。大声で怒鳴りあう。言い返すときこう言えば相手がカッとなってむかってくる、とわかっていながら、突き飛ばしたり、殴ったり。

 それでも友達が弾に当たって倒れれば懸命に手当をしようとする友情はある。普段はお互い憎みあっているとしか思えないのに、訳がわからない。
 『ハリーポッター』は観たことがないが、予告編だけでも、寄宿舎内でお互いをバカにし合い、ドツキあっている場面があるでしょう。

 自分が相手を言葉でバカにすれば、あるいは食ってかかれば、どうなるかは、日にち毎日繰り返して、わかっているはずなのに、絶え間なくドツキ合っている。
 まるで、鶏小屋に何匹か入れた雄鶏が、いつもつつきあっているみたいだ。

 頭が悪いんじゃないか、と思えてならない。野獣だ。火病は決して韓国人だけではない。
 いったいそうなるのは、キリスト教やむずかしいラテン語なんかで縛りまくっているから、自由を求めての反動なのだろうか。それとも、そうした重しをかけ続けないと、若者はあまりに無軌道になってしまうからなのか。
 
 こんな連中が、アジア、アフリカ、南北アメリカに出向いて、現地の無辜の民を蹂躙しまくったのだから、たまったものではない。
 ヨーロッパもアメリカも、白人は常に戦争ばかりであった。隣りの国と終始揉めている。だから、遠慮していたら、優しくしていたら、略奪され、女は犯され、放火され、奴隷にされる社会であった。そうした乱獲り社会だから子供のうちから「強さ」を誇示しないではいられない。

 要するに、われわれ農耕民族からすると、白人はサイコパスである。人間の異常性が脳細胞の実体化にまで及んでしまったようなもの。そのサイコパス性を閉じ込める装置の一つがキリスト教、もう一つがほとんど意味のないラテン語の文法学習なのではないかと思ったのだが…。





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2016年02月08日

白人はなぜラテン語を学習するのか(1/2)


《1》
 ヨーロッパでは、今でもラテン語や古代ギリシャ語が学校で学ばれている。ラテン語は完全に廃語になっているのではなく、バチカン内では公用語となっている。ラテン語は、元はローマあたりの方言であったらしい。ギリシャ語はむろん現代でもギリシャでは使われているが、古語の学習である。

 なぜ西洋では今もこうした古語が学ばれ、厳しい試験科目になっているのか。先日、ある人と雑談するなかで話題になった。
 常識的には、千年以上にもわたって、西洋ではラテン語を学ぶことが一番の教養だったから、と説かれる。支那の文化圏だった地域は漢文を習うのと同じだと。

 ラテン語も古代ギリシャ語も、現代のヨーロッパの言語の基となっている言葉が多く、学術用語にもラテン語が残されている。
 あるいは、ヨーロッパは各国で言葉が違うため、共通語がないと不便だからと、共通語の代わりに公的文書にはラテン語が用いられた歴史もある。

 と、こんな説明がなされているようだ。
 あるいはただ「教養のため」とか言われるかも。
 
 ところで私はその説明にやや物足りないものを覚えた。
 世間的には、だいたいこうして流布されている理由で、とくに異論があるわけではないけれど、せっかく学習するなら、思想性高く捉え返すべきではなかろうか。私は友人と雑談するなかで、私見を開陳した。

 これは、日本でもなぜ漢文を学ぶのか、古文を学ぶのか、と共通している、と思っていただきたい。
 それは端的には、英雄になるため、これである。換言すれば、思想性の高みを学ぶため、である。
 なにをバカなことを言っているのか、ヨーロッパではそんな説はないぞと誹られるだろうけれど…。

 西洋で言えば、ラテン語はローマ帝国の、古代ギリシャ語は古代ギリシャで用いられた言語である。いずれも領土的にも文化的にも世界制覇を成し遂げた国の言語であった。
 
 そこで思い出してほしいのが、『プルターク英雄伝』である。古代ギリシャとローマ帝国の英雄たちを扱った評伝である。厳密には多少異なるかもしれないが、ギリシャ語はアレキサンダー大王がしゃべった言葉、ラテン語はシーザーら皇帝が使った言葉なのだ。
 ただそれだけのこと、と考えることはできるけれど、いずれも英雄とともにあった言葉である。

 言ってみれば、英雄を生んだ言葉なのである。あるいは、世界レベルの学問や藝術を生んだ言語である。
 これをだから、英雄と直接の言語と捉えるべきだと私は会話のなかで説いた。
 それゆえ、今日の西洋でも、いわば英雄への憧れ、俗にいえばあやかりたいとの思いがあるはずだ。
 今日の西洋の学校で古語が学ばれるのは、西洋が世界を支配しようとする思いがあるからであろう。

 英雄を出し、傑出した学問や藝術を創ったのは古代ギリシャと古代ローマだが、何の文化もなかったドイツ、フランス、イギリスなどはそれも自分たちの先祖の範疇にあると勝手に思って、ラテン語などを修得しようとしている面もあろうか。

 それが彼らの文化の優位性だという自負がある。
 それが白人圏では国会議事堂とか大ミュージアムの建物が古代ギリシャ風の威風堂々の様式で建てられている。
 私たち日本人が、古文や漢文を学ぶのも、先に言ったように、日本文化の優れた歴史性を引き継ぐためである。

 私は高校時代に国語の先生に尋ねたことがある。古文や漢文はもう日常で使うわけでもないのにどうして勉強するのですか?と。先生はすぐさま答えてくれた、それは日本語の幅が広がるからだと。
 君たちが大人になって、自分の考えや感情を人に伝えるとき、古典を知らないと語彙が乏しくなり、表現も狭くなる。いずれ必ず役にたつ。そう教えていただいた。

 そういうものだと信じて古典を学び、大人になって、なるほど高校の先生がおっしゃったことは正しかったなと思う。古典を学んでいなかったらと思うと恐ろしくなる。

 先日、ある酒席で日本酒を飲んでいたとき、ある人が「お猪口で飲むのは面倒だから、コップ酒でいきますか」と笑って言った。それを聴いたわが友が、やんわりとだが厳しく「武士は猪口でしか飲まなかったんだよ」と言った。

 「へえ、そうなの」というと、
 「ぐい飲みなんかは車夫馬丁ふぜいの飲み方だ。ましてコップ酒なんかは日本の伝統にはない。武士は、猪口で飲むと決まっていた。なぜなら飲み過ぎないためである。外で酒を飲んで、家に帰るまでに酔って不覚をとることのないように、小さな器にしてチビチビとお互い差しつ差されつ飲んだ」
 と説明してくれた。

 この話と古典、古語の学習は話がずれていると思われるだろうが、古典、古語の文章や詩歌のなかに、かかる文化が直接にあるのだ。
 言語は認識の、像のいわば実体化だから、例えば武士が不覚をとらぬよう酒は猪口で飲んだというその認識のありようが、言語化にも生きているのである。
 こうした高いレベルの武士の文化を支えていたのが、当時の言語である。いうなれば「英雄、色を好む」ではないが「英雄、猪口を好む」なのであった。

 古典に親しむために古文、漢文の学習がある。西洋ではそう認識されているのかどうか。
 そうでなく、ただラテン語や古代ギリシャ語の文法のみであるとするなら、生徒は苦痛であろう。

 昔読んだヘルマン・ヘッセの『車輪の下』は、ラテン語学習で苦しむ若者の話だったという印象しか残っていないけれど…。




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2016年02月05日

音楽教育論(2/2)


《2》
 音楽の授業は音楽だけ教えていてよいものかとの疑問から、音楽の授業は音楽に親しむと直接に「考える」ことを教えることでもあるのではないかという主旨で話を続けている。

 次に。
 西洋音楽の形式はいかにつくられてきたか。それが社会や国家の発展形態とどう関連してきたか。貴族の聞く音楽はどうやって庶民におりてきたか。
 演奏するとはいかなることか。和楽器と洋楽器のなりたちの違いは何か。あるいは中国や韓国、東南アジア、南米など世界の国々の音楽のちがいはどのようにしてできたのか。単に韓国の文化を知りましょう、などというレベルではなく、人類にとっての音楽とは何か、社会形態との関連を学ぶことである。

 楽譜と歌(または演奏)の関連は。
 楽譜だけではなぜ感動を味わいにくいのか。
 音符とは何か。その論理構造は何か。また西洋にない日本独自の「間」とは何か。「間」と「休止符」は何がちがうのか。ちがう理由のなかに認識論はどう関わるのか。
 音楽によって創られる像とは何か。音楽は情操教育なのか。情操教育とは何か。情操教育は個性か、それとも画一性か。情操教育は人間の心を創るのか、創らないのか。

 一般教養と音楽の区別と連関はいかに。人間はその人の能力の範囲内でしかモノは考えられない。歌も同じ、演奏も同じであるから、いかに一般教養の習得が音楽を磨き、かつ音楽を磨くことが一般教養に関わるかを説かねばならない。だから、自分勝手な解釈をできる今流行のはやり歌のレベルがどれほど低いかを教えなければならない。性も自分勝手な解釈でやってはならないことにも共通する。

 音楽は感情と言われるが、人間は感情だけではなく、感情を支えているのは、一般教養である。それとともに、感情は脳細胞で生じるモノだから、脳細胞や全身の細胞、全体の体力が感情を支える見事な「質」になっていなければならない。
 よって、これまでも述べてきたように、音楽を通しての「保健体育」の授業にも通じ、人間の生理構造の学習にも通じる。

 感情のこもった良い歌、良い演奏ができるためには、それを支える体をいかに創るかだから、食事、睡眠、運動のありかたも学習する必要が出てくる。
 性教育も同様に、質の良い恋愛をし、健康で頭のよい子孫を生み育てるためには、まともな食事、睡眠、運動が必要であって、その知識と実践ぬきに恋愛をすることは、動物的性愛にしかならない、ということになる。ここがフェミニストどもに完全に抜け落ちた視点と言える。性教育はよい恋愛をし、生涯よい性(認識、実体ともに)でありつづける下地ができるよう、教育を施すことである。

 科学や技術が社会の要請(必要)によって創られ発展してきたように、藝術(音楽)も(そして性教育も)社会の要請によって創られてきた。この社会にとっての必要性とは何か。オーケストラ、室内楽、合唱、日本の三味線、琴、尺八など、それはどんな社会的要請によって発生し発達してきたかを学ぶことは、“直接”に社会科、歴史を学ぶことにつながる。

 わらべ歌とは何か。遊ぶとは人間にとっていかなる必須の労働なのか。わらべ歌のような日本独自のリズムやメロディーはどうしてできてきたのか。
 ぴょんこ節はなぜ日本人に好まれるか。洋風の唱歌は流れるような旋律になり、ピョンコにはならないのはなぜか。その歴史的背景、地理的背景、あるいは政治形態のちがいがどう影響してきたのか。社会科の学習になる。

 音楽は個性の表現と捉えるべきではなく、学校教育の場においては「大志」や「情熱」の象徴として聴き、歌うものである。それが特に中学生の音楽教育でなければならない必然性をしっかり教えることである。それがまた、中学生にとっての性教育も同じくに、異性を「大志」「情熱」の象徴として捉えなければならないものである。決して「生涯を通じて音楽に親しみ、楽しめる素地を育てる」だけにとどまるものであってはならない。

 と、以上のように、まとまってはいないが、私ならこんな音楽教育を受けたいという中身を述べてみた。むろんこれらの中身は、小学生には小学生向けに、中学生には中学生向けに説くべきことで、どれもこれも難しすぎるといって、放っておくべきことではない。年齢にあわせて学習させればいいことだ。

 冒頭に書いたように、音楽を音楽の勉強だとするのは間違いである。なにしろ「“学”校」なのであるから。音楽教室ではないのだ。「音楽“学”」を子ども向けに降ろしてきて、少なくても“学”の片鱗くらいは子どもに理解させなければなるまい。音楽大“学”にしても、音楽教室とは違うのであって、単に楽器の習熟や歌を上手に歌うためなら専門学校レベルとなってしまう。

 性教育も性や性器の勉強だと思っているのがフェミニストどもである。いずれも、世界の把握、文化遺産の継承、人格の陶冶を踏まえ、あるいは貫徹した教育でなければ、“学”校で教える意味がない。
 音楽は、学校教育を通して、なのだから、個性を育てるものではないことを教えなければならないだろう。好き勝手に食事をしたらどんな体ができあがるか、と同じ問題である。

 音楽も絶対に好き勝手に歌い、演奏することをはじめに学ばせないことだ。ところが今は、お稽古に通い、好きなCD を聴き、あるいは脳タリンの仲間とバンドをつくって、好きな音楽を勝手に解釈して鑑賞してしまう。この事態はまさに若者の性のありようと同じである。




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2016年02月04日

音楽教育論(1/2)


《1》
 学校教育における音楽の授業は、多くの場合、音楽は音楽の勉強をすることだと思われていないだろうか。実際、私が小・中・高と受けてきた学校での音楽の授業はそういうものであった。上手に歌えればよし、音楽の知識があればよし、音符がわかればよし…。なので、以下、私が本当は受けたかった音楽の授業を、かくあるべしと述べる。そのいわばラフスケッチである。

 まず、小学校のうちは、歌や楽器演奏や鑑賞を楽しくやればいいと思う。音楽は好きになればいい。中学くらいからは音楽教育は本格化するべきであろう。
 音楽は世界を把握するための出発点であることを生徒に認識させなければならない。音楽を通して、人間とは何か、文化とは何かを学ぶのである。
 これがどういうことかを、これから説いていく。これを説くことで、なぜ学校教育に音楽が必須なのかが子どもにも親にも納得がいくようになるだろう。

 学校では、音楽を聴かされ歌わされるわけだが、そもそもその前に「音楽がわかる頭」にする教育がない。それをするべきだと思う。
 また音楽の授業は、音楽に親しむと“直接”(切り離せないこと)に「考える」ことを教えることでもある。国語も社会も、「覚える」ことばかりで、「考える」ことをあまり指導していないのではないか。音楽は歌い、演奏し、楽譜を読めるだけでなく、音楽を通して考えることがないがしろにされてきたように感じる。

 音楽はそんなものではない、楽しめばいいと言われるかもしれない。だが、ことは学校教育のなかでの音楽なのだ、それは性教育にも通じる問題提起になり得る。
 性教育も、日教組がやらかしているのは、性器のことや男女の体のこと、いわゆる性のことを知る、覚えることばかりで、「性」を考えることをしていない。それが問題なのである。
 以下、音楽教育を性教育と読み替えることもできる。

 さて、では。例えば。
 歌のある音楽と、歌のない音楽のちがいは何か。歌がある場合とない場合で、音楽はどのように人間の認識に反映するのか。ここを説くには人間にとって認識とは何かを踏まえなければならない。それがわかったとして、小学生のときに歌のある音楽を聞かせ、歌わせる意義は何か。成長過程にとっていかなる意義があるか。

 歌のない音楽を聞かせたり、演奏させたりする意味は何か。中学生ではどうか。高校生ではどうか。歌わせるのは何歳からがいいのか、演奏させるのは何歳からがいいのか、またその理由は、人間の成長過程の一般性を踏まえてどうなるのか。

 そもそも歌うことの意義は何か。認識の発達の面と実体(体の生理構造)の面へと影響は何か。実体面でいえば、歌うとき唇はどうするのが正しいのか。喉はどうか。立って歌うのと座って歌うのでは、実体にどう影響するのか。
 演奏するとは、認識と実体にどう関わるのか。ピアノが楽譜どおりに弾けることは重要だとしても、その演奏という行為は子どもの成長過程にどう関わるか。

 これらのことから音楽を通しての教育、認識と実体への関わりを子どもに理解させる。歌い、演奏することの楽しさを実感させつつ、なぜそれが楽しいと感じるのか、それがどう体や心の成長に有意義なことなのかを理解させる。

 以下、つづける。
 歌がうまい、とは何か。なぜ「うまい」と感じるのか。へたとは何か。音程はなぜ崩れるのか。崩れるときの認識は何か、実体はどう影響しているのか。
 人前でしゃべったり歌ったりすると「あがる」ことがある。
 「あがる」とはどういう状態か。認識の問題か、実体の問題か。
 音痴とは何か。なぜ音痴になるのか。音痴は先天的か後天的か。後天的なら、どうやって音痴はつくられるのか。どうしたら直せるのか。音痴は認識の問題なのか、それとも実体の歪みなのか、実体の歪みとしたら、実体のうちのどの部分がどう関わるのか。放っておくことはいいことなのか。音痴になると、いかなる社会関係の問題が生じるか。そこから、人間にとって社会とは何かを学習することができる。

 これらを学習することで、人間の技化過程(習得過程)とは何か、どうあるべきかが学習され、他のスポーツや習い事、勉強に応用できるようになる。人を好きになること、異性とつきあうことも、一種の対人関係の技化の過程が必要だから、そうした技化過程ぬきに単純に好きになったからキスしていい、とはならないことを学ぶことに通じる。 

 レコードとCD と生演奏では何がどうちがい、それが人間に与える認識への働きかけはどう変わってくるのか。音の「質」とは何か。そこを踏まえて、では人間はどのような反映の「質」を追及するべきなのか。音楽だけではなく、当然人間関係の学習そのものにストレートに関わる。人間性の質、文化の質にも関わる学習になる。

 性教育であれば、異性との恋愛=ふれいあいを、人形で学習した場合と、本で学習した場合と、映画やテレビで見て理解した場合では、何がどうちがうのか、どうあれねばならないのかを学習することになる。
 
 歌唱力とは何か。上手に歌えることか。力強い声が出ることか。歌唱力があがるとはどういうことか。歌唱力がつくとは、人間の内臓(肺や心臓)、血液、神経にどう影響するのか、あるいは内臓の実力は歌唱力にどう影響するのか。
 亡くなった本田美奈子が「歌唱力抜群だった」と褒めそやされるが、その意味はわかって使われているとは思えない。概念のないところに言葉がやってくる、の典型である。

 演奏する楽器によって、足を使わない楽器、手だけ使う楽器、口を主に使う楽器などがあり、これは人間の生理構造にどう影響するか。人間の生理構造をふまえると、どういう楽器を習わせることが子どもにはふさわしいのか。

 和歌や詩吟、長唄など邦楽を朗詠するとはいかなることか。西洋音楽とは形式だけでなく、どのように人間の認識や実体に関わるのか。どうして邦楽は日本独自のものに育ったのか。歴史や地理の学習につながる。

 合奏とは何か。合唱とは何か。どのように生成し発展してきたのか。単独で歌う(演奏する)場合と、合唱(合奏)の場合のリズム、メロディー、ハーモニーはどう形成されるのか。リズムやハーモニーは人類史のなかでどのように発見されたのか、それはどういう必然があったのか。

 国歌とは何か。国歌にみられる格調や威信とは何か、どう感じなければならないか。国歌には国家の精神が表明されているが、それはなぜか。君が代は世界の国歌のなかで、どのように評価するべきか。どんな精神が君が代にはこめられているか。先進国と後進国の国歌は何がちがうか。それはなぜか。この学習から、国家とは何かを学習するとともに、人間が国家とは離れて生きていけないことを自覚していくべきである。

 宗教音楽とは何か。信じるとはのイメージ形成につながる。決してキリスト教の信仰を勧めることではなく。端的には「信じる」とはいかなる認識か、を理解することであり、親や先生を信じた場合と信じないで自分勝手に勉強したりした場合の違いを理解させることにつながる。同じように…、異性を信じるとはどういうことか。また、異性に信じてもらえる人間になるのはどうするのか。
 
 音楽は人間社会でどのように発生し、発展してきたか。宮廷音楽の発生と発展、民謡の発生と発展を理解する。では校歌とは何か。なぜ校歌があるのか、その前になぜ人類は学校を発明することになったのか。学校の目的とは何かを理解したうえで、校歌の意義を理解させたい。

 これは性教育でも同じで、学校とは何かを踏まえて、学校で性を教えることの是非如何が問われ、性教育が行われるとしたら、どのような観点で教育されることになるのか。学校とは何かを踏まえないと、どういう性教育になってしまうか(これは生徒に言う必要なし)。人間は性をどのように捉えてきたか、その歴史性を教育することである。




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2016年02月03日

安倍内閣支持率の高さ


 今週は、マスゴミ各社がそれぞれに(?)内閣支持率の世論調査を行なって結果を出してきた。
 甘利大臣の辞任を受けて、サヨクマスゴミは嬉々として「きっと安倍内閣の支持率が落ち、野党の支持率があがるはずだ」と睨んだのだろう。バカだね〜、ほんと。

 結果は各社おおむね同じで、安倍内閣の支持率はほぼ横ばいか、やや上がった。甘利問題はまったく影響がなかったのだ。
 毎日新聞は昨年12月の世論調査から、今回の調査結果から8ポイントも内閣支持率が上がって51%になったと、まるでお通夜のような筆致で書いていた。

 サヨクマスゴミは、安倍内閣を倒したくてしょうがない。足摺りし、身悶えして、なんとか安部首相を落としたいのだ。
 だから甘利問題を「週刊文春」を買収して起こしたものの、官邸と甘利大臣の周到に練ったあの「辞任会見」でサヨクは敗北したのである。

 大衆も、あの辞任会見でだいたい納得したし、むしろ甘利さんは気の毒だった…の空気が生まれたくらいだ。閣僚辞任はやむを得ないとしても、議員までやめろとはさすがのマスゴミも野党も言えなかった。
 甘利氏の言うとおりかどうかは分からないが、この場合は秘書の不始末に対して責任を取るとしたことが、日本人の潔さとして評価されたのであろう。

 嘘か真か定かではないが、世論の多くはそう捉えた。会見のときの顔つきからも真相を見てとった。なのに、マスゴミと野党は勘違いした。また自民党のオウンゴールとみて、国会で追及しようとしたが、逆に国民から愛想を尽かされる結果となった。説明不十分だとか安倍首相の任命責任だなどと、バカなことを言いはって、審議に出席しないとは、大失敗である。

 昔の社会党と同じじゃないかと、大衆は呆れた。何故かつての社会党が崩壊したかが分かっていない。泥船の社会党から抜け出して、民主党と看板を架け替えた船に乗り移っては見たけれど、なんだやっぱりバカは治ってなかったと、とっくに国民は知ってしまった。

 で、民主党は、選挙用ポスターで「民主党は嫌いだけど、民主主義は守りたい。」と打ち出した。みんなが「自虐ポスターじゃないか」と唖然とした。あるいは「1人ひとりを大切にする国へ」だと。
 民主党はもう万年野党でやって行かせてください、と言っているのと同じ。

 こういうキャッチコピーを考えたのは、プロの広告代理店のコピーライターであろう。民主党がカネを使ってコピーライターに発注したものとみられる。典型的な広告コピーライターの手口だから、笑える。
 コピーライターにはこうした「ひねった」コピーを創るのが一つに習性だから、選挙向けポスター用の案を幾つか出したのだろう。

 それが頭の固い民主党のお歴々には新鮮に映り、いいじゃないかと乗ってしまった。コピーライターは言葉を弄ぶ技はあるが、政治を知らないのに。バカだね〜、ほんと。

 産經新聞に「おおさか維新の会の馬場伸幸幹事長は2日の代議士会で、金銭授受疑惑が浮上した甘利明前経済再生担当相の辞任後も内閣支持率が下落しなかった現状に触れ、民主党などの国会対応が国民の支持を得られていないと酷評した。
 馬場氏は「審議拒否などの“嫌がらせ工作”が見抜かれ、『そういうことをして何があるねん』ということが浸透している」と強調した。」
という記事があった。

 この人に言われるまでもなく、誰だったわかっている。
 おそらく民主党もわかっているだろうが、手が打てない。完全に息詰まっている。いくらかサヨクのおバカや、労組に言われて何も考えずに投票するバカが民主党を支持するだろうが、無党派層の支持は失っている。

 7月に参院選があって、同時に衆院選をやれば、自民党圧勝で、民主党はひどい惨敗を喫するだろう。
 これはネットの普及が大きい。これまで政治家、官僚、労組、ザイニチ、マスゴミなどは情報を独占し、隠蔽してきたことが次々にばれて、安倍総理のスローガンにあったように(中身はともかく)「日本を取り戻そう!」が国民に浸透してきたのだ。
 甘利氏の問題くらいではビクともしないほどに、反日サヨクへの嫌悪が揺るぎないものになった。

 保守の安倍支持の岩盤的支持層(保守)が、年末の「慰安婦問題での日韓合意」でショックを受けながらも、安倍首相に替わるトップがいないとの思いで、やはり支持はするだろう。

 これも民主党政権3年間のぶざまな失政のおかげ、支那や南北朝鮮の反日のおかげだが。
 時代は確実に変わった。民主党はその奔流が読み取れずに、旧態依然の国会対策をやればやるほど国民から見放されるに決まっている。

 話は変わるが、某日、家にいるときに玄関のチャイムがピンポ〜ンと鳴った。宅急便かセールスか?と思いつつ出てみると、若い女性が立っていて、「新日本なんとかですが…」と言う。
 新日本って…共産党の関係かと思い、共産党なら思い切りバカにしてやろうと玄関から出ていくと、全く違います、という。
 訊けば、戦前の教育を受けた70歳以上の方を探しているという。戦前の教育を教えてもらって、現在組織として取り組んでいる、日教組に毒されない、まともな教育の場創りに生かしたいのだそうだ。

 「そもそも日本はGHQによって弱体化を目的とした政策によって、わが国が誇るべき崇高な精神が失われてしまいました。日本が抱える様々な問題の根幹は、戦後の強欲主義思想や、日本特有の精神などの継承が断絶されたことで…うんぬん」と言うので、途中で遮って、もう先を言わなくてもいい、あなたとほぼ同意見だ、と答えた。
 それで何をご要望か? というふうになっていった。

 こんなことは、未だかつてなかったことだ。
 共産党や宗教団体が工作にやってくることはあっても、反日勢力と戦う姿勢を見せている保守団体が現れるなんてことは想定できないことであった。朝日新聞が発行部数を激減させるはずだ。
 この一事をもってしても、時代は変わったと実感する。
 安倍内閣の誕生と高い支持率は、その世論の変化をあらわしている。




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2016年02月02日

コメント投稿に関してお願い


 コメントの投稿ができないという苦情を何度かいただいております。申し訳ありません。どうもこのSeesaaブログの欠陥らしいので、引っ越し先を考えておりますが、目下いろいろ研究中です。
 それまでの間、バックアップ用に設定した以下のブログサイトからコメントを投稿していただけないでしょうか。
 http://blog.livedoor.jp/hienkouhou/


posted by 心に青雲 at 10:00| 東京 ☁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする

船員予備自衛官化を進めよう


 「これは異なこと!」と思わず呆れたのが、民間船員を予備自衛官化したいとする防衛省の計画に、海員組合が反発したと報道で知ったからだ。それを、サヨク毎日新聞は、行間に反日感情を滲ませて以下のように報道した。

     *    *    *

船員予備自衛官化「事実上の徴用」海員組合が反発(毎日新聞2016年1月29日)
 
 民間船員を予備自衛官とし、有事の際に活用する防衛省の計画に対し、全国の船員で作る労組の全日本海員組合が29日、東京都内で記者会見し、「事実上の徴用で断じて許されない」とする声明を発表した。防衛省は「強制はしない」としているが、現場の声を代弁する組合が「見えない圧力がかかる」と批判の声を上げた。

 防衛省は、日本の南西地域での有事を想定し九州・沖縄の防衛を強化する「南西シフト」を進める。だが、武器や隊員を危険地域に運ぶ船も操船者も足りない。同省は今年度中にも民間フェリー2隻を選定し、平時はフェリーだが有事の際には防衛省が使う仕組みを作る。今年10月にも民間船の有事運航が可能となる。

 一方、操船者が足りないため、民間船員21人を海上自衛隊の予備自衛官とする費用を来年度政府予算案に盛り込み、有事で操船させる方針。
 この動きに海員組合は今月15日、防衛省に反対を申し入れ、29日の会見に臨んだ。森田保己組合長は「我々船員の声はまったく無視されている。反対に向けた動きを活発化させたい」と述べた。
 申し入れでは防衛省幹部から「予備自衛官になるよう船員に強制することはない」と言われたという。だが、森田組合長は「戦地に行くために船員になった者はいない。会社や国から見えない圧力がかかるのは容易に予想される」と強調した。

     *    *    *

 いかにも新聞は、防衛省と海員組合の双方の言い分を、事実として取り上げているかに見える。しかしあからさまにこれは、海員組合の主張を正しいとして紙面に提供して、防衛省がいかに悪だくみをしているかと非難する目的である事がわかる。

 サヨクメディアの特質でありつづける「個人主義」の全面展開そのものだ。この記事を書いた記者もデスクも、要は国家は悪で、個人は自由でなければならないと信じ込んでいることは簡単に見て取れる。完全に国家とは何かのまっとうな認識が欠如している。

 船員の方のなかには、まっとうな人もいるだろうに。有事の際には一身をなげうち、「私」を一擲してお国のために馳せ参じると言う高貴な方もいるだろうに、この組合長は、テメエのわがままだけが総意だという。

 私は防衛省の計画は当たり前だと思う。おおいに推進すべきだ。
 こんな当たり前のことは、支那、韓国、北鮮、ロシアなどなどの脅威があろうがなかろうが関係なく、当たり前の国家態勢の整備である。

 大江健三郎や副島隆彦などは「戦争準備だ」とわめくだろう。そういうことをやると支那を刺激するとほざく。知能程度が低過ぎる。

 国家の存在あっての個人、この認識が悪い事のように私たちは戦後、教えこまれてきた。個人が大事で、国家は個人の自由を奪う悪いやつで、ないほうがいい存在と、反射的に思考してしまうように、私たちは刷り込まれる。
 その一つの現れが、俗のレベルでいえばオリンピックに出る選手が「楽しみました」と平然と言ってのけるあの風潮である。

 「兵隊にとられる」「税金をとられる」というのは、庶民にとっては実感レベルであろうし、実際、お上がほしいままに国民を勝手に利用する悪はある。
 しかし、にも関わらず、私たちは国家から離れては生きられない。
 この人間の定めというか、存在の根源を棄てようとしても棄てられないのに、あえてサヨクどもは棄てなければならないと暴言を吐く。

 そのくせ共産党が天下をとれば、国家意志のもとに国民を奴隷状態に押し込めるのだからタチが悪い。
 国家は悪だ、国家は廃絶しろ、まったき個人の自由を認めろという考えが、こうした組合などのサヨクの思いだろう。
 ならば問う。

 お前は、お金を使わないのか? 学校にも行かないつもりか。日本語も使いたくないのか、いや、そもそも言語は使いたくないのか。道路は舗装されてないほうがいい? 信号機もなくて交通ルールも邪魔か。電気もガスもいらないんだな。水道も下水もない社会がいいのか。人も勝手に殺せる代わりに、自分もいつ誰に殺されても文句も言わないのだな。自分の建てた家に、他人が押し掛けて住んでも構わないのか?

 と、こうなるのである。これが国家を否定した末路だ。
 船が航行できるのは、そこに海が広がっているからではない。国家があるから、その規制が行き届いているから安全に航海できるのである。その安全を確保しているのが国家であり、それを支えるために税金を払い、選挙で投票行動をし、航行のルールに従う。

 そもそも海員組合があるということは、自分勝手には船を浮かべて走らせることができないのを認めているのだ。
 大東亜戦争では多くの船と船員が徴用され、亡くなっているのは事実であるが、だからもう二度と徴用はダメだとする結論に導くのは、いたずらに敵国を利するだけ。無茶苦茶な短絡思考である。

 防衛省もこうしたサヨクの無理解、反国家主義に怯えて「強制はしない」と逃げるのがいけない。堂々国家の危機に際して、操船技術を持った船員がお国の役にたって、護るべきは当然だと言う論陣を張ってしかるべきである。
 私的感情や都合は排除されなければならないのである。

 先に言ったように、国家の恩恵を日にち毎日享受して生きていて、自己も成り立っているのに、「戦争だけはいやよ〜」とは、勝手過ぎる。
 海員組合の意向を無視するな、意見を聴けとはなんたる暴言。
 これは何も国粋主義でもないし、軍国礼賛でもない。国家とはの本質を捉えれば、有事に際して国民が軍に協力し、できるかぎりの奉公をするしかない。

 やや他事ながら、先の天皇訪比ではパラオに続いて、海上保安庁の巡視艇「あきつしま」がマニラに派遣された。パラオではホテル代わり、そしてパラオとフィリピンではタクシー代わりにヘリコプターまで天皇の自虐的な日本の英霊を貶める謝罪行脚に使われた。
 これはれっきとした「徴用」である。海保の船は天皇の物見遊山のために税金で作られたのではないからだ。

 これに対して、海員組合もサヨクマスゴミも、一言も問題にしない。天皇が国家元首という位置づけだから、徴用は当たり前としているのであれば、戦時に民間船員を徴用して何が悪い?

 災害があれば、炊き出しをし、寝る所を提供し、水を配る。誰に命令されなくても「お互い様」のココロで、助け合うではないか。それは困っている個人を助けるだけではない、社会を維持させるためである。社会が正常に維持されないと、個人の生活も営めないことを、誰もが無意識的にわかっているからである。
 日教組がいくら反日を刷り込もうとしても、ついに一端緩急あるときは、健全な国家意識、社会意識が国民の間に残る現実がある。

 船員が戦時に徴用されるのは、操船技術が高度に専門性があるからで、その特殊で有用な技術を社会の維持のために活用させてほしいからだ。人はその得意分野を生かして社会に役立っているのだし、それがゆえに社会で生かされる資格がある。

 大東亜戦争のとき、すべての家は夜間、灯火管制の下に置かれた。灯火が洩れれば、敵に空襲の目標を与えてしまうからだ。
 よくドラマなどでは、これは市民生活の圧迫だった、迷惑だったとする視点で描かれる。暗闇のなかでは生活しにくいから、登場人物が思わず愚痴を言う、電灯をつけると近所から厳しく注意される。
 なんて嫌な、相互監視の世の中なんだ、といった主旨でドラマに描かれる。

 ならば。俺に灯火管制を強制するな、おおっぴらに電気を点けさせろと言うのか? 電気を点けて生活したい俺たちの声を無視しているとでも言うのか?
 そんなことを許せば、灯りのついた家が敵の目標になって、周囲の家も空襲にさらされる。

 灯火管制も、戦時の船員徴用も、国家の存立という論理のなかでは同じことである。
 何度も書くが、国家の本質は他共同体との対峙である。人間は一匹狼としては生きられず、共同体と「直接」の存在である。共同体は必ず他の共同体との軋轢が生じ、対峙する存在となる。だから国家にならざるを得なかったのだ。
 右翼でもなんでもない。学問上の常識である。
 
 その本質論を把持しないで、個人の自由のみを言い募るのは愚の骨頂である。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年02月01日

零戦里帰り飛行への感謝


 1月27日、鹿児島県の海上自衛隊鹿屋基地で零式艦上戦闘機のテスト飛行が行なわれた。
 機体の所有者はニュージーランド在住の日本人・石塚政秀氏(55)。世界で唯一日本人が所有している飛行可能な零戦とされる。

 ただ、青山繁晴氏は「虎ノ門ニュース」で、実は三菱重工には1機隠し持っていると語っていたが。どうやらお定まりの労組に阻まれて公表できないようだ。

 産經新聞記事によると、
 「石塚氏は、2010年2月に米国人バイクレーサーから購入した後、日本国内での飛行を目指して、資金集めや、関係省庁との交渉を進めた。
 当初、戦後70年である昨年の実現を目指したが、安全保障関連法案の審議をめぐり、『戦争賛美の誤解を受けかねない』と複数のスポンサーが撤退し、関係省庁も消極姿勢だった。

 石塚氏はようやく飛んだ零戦を見上げ『感無量だ。部品の一つ一つに日本人の勤勉さが詰まっている。飛ぶ姿を見て、今の日本人に自信を取り戻してもらいたい。この機体を、日本のいろいろな場所で飛ばしたい』と語った。」
 と報じている。

 石塚氏は7年掛かりで準備を進め、一昨年11月に零戦の“入国”を果たした。メンテナンス料として2000万円がかかるとして、寄付金を募ってこられた。
 石塚氏は零戦購入だけで私財3億円を費やし、女房に愛想を尽かされて逃げられたという。女は度し難い。

 石塚政秀氏は「日本の空を飛んでくれて、ありがとうという気持ちだ」とも語っていたようだ。

 「空を飛んでくれてありがとう」か…、いい言葉だ。日本人にしか持てない認識である。
 私も動画で飛行を見て、感激した。まさに感無量。
 が、それにつけても、零戦飛行を認可する官庁のおバカなこと。

 石塚氏の所有する零戦は、日本に持ってきても置き場がなくて苦労した。鹿屋基地の司令官が立派な方で、受け入れた。だが、それに文句をつけてくる役人がいる。説得して鹿屋に置けるようになると、また役人が異動して、新任者と一から交渉をやり直し…。

 零戦はわが国の誇りである。それが理解できないアホ日本人がいるのが情けない。特亜以外の国は、零戦を高く評価し日本の誇りと認めてくれる。
 零戦を飛ばして文句を言うのは、支那と韓国だけだというのに、役人がなんだかんだとこの里帰り飛行を妨害するとは、本当に意気地なしの間抜けである。

 ゴロツキ支那の植林事業に90億円もの無駄金を棄てるくらいなら、われらが文化遺産である零戦を、未来永劫とは言わぬまでも、飛行できる状態にするように90億円を出すことは遥かに大事である。

 そのゴロツキ支那が早速、噛み付いてきたらしい。
     *    *    *
 中国中央テレビは27日、日本の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を復元した機体が同日、海上自衛隊の基地で試験飛行したことについて「日本の(軍国主義復活の)野心を暴露した」などと報じた。 同テレビはゼロ戦について「殺人魔機」として「臭名(悪名)が高い」などと批判。日本政府の安全保障政策などと絡め、試験飛行が日本の軍事大国化への願望を示すとの考えを主張した。(共同通信)

     *    *    *

 恥を知らない赤い共同通信は、向こう様の言う通りになぞるだけ。バカでもできる記事だ。
 支那も韓国も、ランドセルが軍国主義の象徴だとか、サクラも軍国主義復活だと言って来る。日本が世界各地にサクラを植林する事にイチャモンをつける。旭日旗はいわずもがなだが。
 そんなことをいちいち記事にして、日本人を不愉快にさせて何が嬉しい?

 戦闘機を「殺人魔機」というなら、世界中の戦闘機、爆撃機などは全部そう誹るべきではないか。テメエ達はついに戦闘機どころか旅客機すら作ることができなかったくせに、笑わせるな豚ども。
 ということくらいは共同通信も、常識として踏まえれば、こんな報道はそもそも恥ずかしくて配信できまいに。

 こういうニュースを、共同通信やサヨク新聞は喜んで垂れ流すのは、とにもかくにも日本人に自虐史観、自虐思想を植え付け続けたいからである。そんな分かり切った話なのだから、共同通信にせよ新聞にせよ、踏み込んで国益を軸に記事を書けばいいのに、絶対にそうはしない。

 「戦争や植民地化で被害にあわれたアチラさまが、わたしたちに反省や謝罪を求めておられます」のくり返しだ。みんなそれに嫌気がさして、新聞が読まれなくなった。

 アメリカは最低な連中であるが、それでも戦った相手をむやみに故なく貶めることは少ないようだ。
 零戦の優秀さは優秀さとして認め、そのパイロットの技量を褒め、勇気を讃える。勝者の余裕でもあろうが、支那人や韓国人の狭量さ、底意地の悪さはまさに別格。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする