2016年02月05日

音楽教育論(2/2)


《2》
 音楽の授業は音楽だけ教えていてよいものかとの疑問から、音楽の授業は音楽に親しむと直接に「考える」ことを教えることでもあるのではないかという主旨で話を続けている。

 次に。
 西洋音楽の形式はいかにつくられてきたか。それが社会や国家の発展形態とどう関連してきたか。貴族の聞く音楽はどうやって庶民におりてきたか。
 演奏するとはいかなることか。和楽器と洋楽器のなりたちの違いは何か。あるいは中国や韓国、東南アジア、南米など世界の国々の音楽のちがいはどのようにしてできたのか。単に韓国の文化を知りましょう、などというレベルではなく、人類にとっての音楽とは何か、社会形態との関連を学ぶことである。

 楽譜と歌(または演奏)の関連は。
 楽譜だけではなぜ感動を味わいにくいのか。
 音符とは何か。その論理構造は何か。また西洋にない日本独自の「間」とは何か。「間」と「休止符」は何がちがうのか。ちがう理由のなかに認識論はどう関わるのか。
 音楽によって創られる像とは何か。音楽は情操教育なのか。情操教育とは何か。情操教育は個性か、それとも画一性か。情操教育は人間の心を創るのか、創らないのか。

 一般教養と音楽の区別と連関はいかに。人間はその人の能力の範囲内でしかモノは考えられない。歌も同じ、演奏も同じであるから、いかに一般教養の習得が音楽を磨き、かつ音楽を磨くことが一般教養に関わるかを説かねばならない。だから、自分勝手な解釈をできる今流行のはやり歌のレベルがどれほど低いかを教えなければならない。性も自分勝手な解釈でやってはならないことにも共通する。

 音楽は感情と言われるが、人間は感情だけではなく、感情を支えているのは、一般教養である。それとともに、感情は脳細胞で生じるモノだから、脳細胞や全身の細胞、全体の体力が感情を支える見事な「質」になっていなければならない。
 よって、これまでも述べてきたように、音楽を通しての「保健体育」の授業にも通じ、人間の生理構造の学習にも通じる。

 感情のこもった良い歌、良い演奏ができるためには、それを支える体をいかに創るかだから、食事、睡眠、運動のありかたも学習する必要が出てくる。
 性教育も同様に、質の良い恋愛をし、健康で頭のよい子孫を生み育てるためには、まともな食事、睡眠、運動が必要であって、その知識と実践ぬきに恋愛をすることは、動物的性愛にしかならない、ということになる。ここがフェミニストどもに完全に抜け落ちた視点と言える。性教育はよい恋愛をし、生涯よい性(認識、実体ともに)でありつづける下地ができるよう、教育を施すことである。

 科学や技術が社会の要請(必要)によって創られ発展してきたように、藝術(音楽)も(そして性教育も)社会の要請によって創られてきた。この社会にとっての必要性とは何か。オーケストラ、室内楽、合唱、日本の三味線、琴、尺八など、それはどんな社会的要請によって発生し発達してきたかを学ぶことは、“直接”に社会科、歴史を学ぶことにつながる。

 わらべ歌とは何か。遊ぶとは人間にとっていかなる必須の労働なのか。わらべ歌のような日本独自のリズムやメロディーはどうしてできてきたのか。
 ぴょんこ節はなぜ日本人に好まれるか。洋風の唱歌は流れるような旋律になり、ピョンコにはならないのはなぜか。その歴史的背景、地理的背景、あるいは政治形態のちがいがどう影響してきたのか。社会科の学習になる。

 音楽は個性の表現と捉えるべきではなく、学校教育の場においては「大志」や「情熱」の象徴として聴き、歌うものである。それが特に中学生の音楽教育でなければならない必然性をしっかり教えることである。それがまた、中学生にとっての性教育も同じくに、異性を「大志」「情熱」の象徴として捉えなければならないものである。決して「生涯を通じて音楽に親しみ、楽しめる素地を育てる」だけにとどまるものであってはならない。

 と、以上のように、まとまってはいないが、私ならこんな音楽教育を受けたいという中身を述べてみた。むろんこれらの中身は、小学生には小学生向けに、中学生には中学生向けに説くべきことで、どれもこれも難しすぎるといって、放っておくべきことではない。年齢にあわせて学習させればいいことだ。

 冒頭に書いたように、音楽を音楽の勉強だとするのは間違いである。なにしろ「“学”校」なのであるから。音楽教室ではないのだ。「音楽“学”」を子ども向けに降ろしてきて、少なくても“学”の片鱗くらいは子どもに理解させなければなるまい。音楽大“学”にしても、音楽教室とは違うのであって、単に楽器の習熟や歌を上手に歌うためなら専門学校レベルとなってしまう。

 性教育も性や性器の勉強だと思っているのがフェミニストどもである。いずれも、世界の把握、文化遺産の継承、人格の陶冶を踏まえ、あるいは貫徹した教育でなければ、“学”校で教える意味がない。
 音楽は、学校教育を通して、なのだから、個性を育てるものではないことを教えなければならないだろう。好き勝手に食事をしたらどんな体ができあがるか、と同じ問題である。

 音楽も絶対に好き勝手に歌い、演奏することをはじめに学ばせないことだ。ところが今は、お稽古に通い、好きなCD を聴き、あるいは脳タリンの仲間とバンドをつくって、好きな音楽を勝手に解釈して鑑賞してしまう。この事態はまさに若者の性のありようと同じである。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする