2016年02月24日

重力波についての素朴な疑問


 本稿は、Yuuriさんへのお答えだが、これまでの重力波に関する論考の流れがあるので、「です、ます」調で書かないことにしている。高慢な印象になるかと思うが、ご容赦願いたい。
 2月20日付の記事「相対性理論は妄想」に、Yuuri様がコメントをくださったので、それにお答えする。

 2月22日の「虎ノ門ニュース8時入り」で科学者・武田邦彦氏が、重力波についてしゃべっていた。彼は重力波の理解に専門知識はいらない、と断言している。誰でもわかるのだから、と。
 池に石を投げ入れれば、波が起きるでしょう、重力波もそれと同じです、と言い切った。彼も重力波を信じている模様だ。

 新聞も同じような解説をしていた。(つまり、日常感覚の程度でわかるんですよと、言っているではないか)
 この説明では、重力波の像ではなくて、池にポチャンと石を投げ込んで波紋ができる、という像を聞く側は描いて(描けるので)わかったつもりになっているだけだろう。

 Yuuri様は、私の所論は高校程度の物理の知識を元にしていると述べたら、激怒されたようである。別にバカにしたわけではないが…。
 「ローレンツ変換やシュレディンガー方程式すら知らない、との認識でよろしいでしょうか」とか「量子力学や相対性理論は日常の感覚を適用することはできません。 ですが、『日常感覚から離れている』から『間違っている』とは言い切れません」
 と、お怒りのご様子で、私の方が「残念」というしかない。

 「ローレンツ変換やシュレディンガー方程式すら知らない」のか…と、「すら」はずいぶん乱暴な言い方でどうかと思うが、いかにも私はそれらを知らない。しかし現に武田邦彦氏も言っているではないか、重力波がわかるのに専門知識はいらない、と(笑)。だから反駁するにも専門知識はいらないのである。日常感覚ではないからと言って認めないのではない。

 「ローレンツ変換やシュレディンガー方程式」は知らなくても、それより上位の(?)弁証法あるいは唯物論の立場から、合っているかどうか(矛盾がないかどうか)で判断できると私は書いてきている。

 別に武田氏が言ったかどうかは問題ではない。私の素朴な疑問に、答えていただけていないではないか、というまでのことである。
 例えば、引力を機能と実体の関係で解いてほしいと申し上げたまでである。実体と機能の説明に、そのローレンツ変換やシュレディンガー方程式を持ち出さなくても語れるはずではないか。

 これも素朴な疑問で申し訳ないが、例えば雨は空の雲から地表に落ちて来るわけだが、これを説明するのに、むずかしい計算式を持ちださなくてもわかるでしょう、と言っている。気圧の違い、風向風力の違い、雨粒の大きさなど条件がさまざまななか、雨の降下速度を得るのはむずかしい計算式でなければ出せないだろうが、雨が地表から空にあがっていくことはないと説明するのに、これは小学生でも言えることである。

 何度も言うが、高校のやさしい物理程度の知識に弁証法の実力があれば、重力波のインチキは見てとれる、と申し上げている。弁証法の実力ということを抜きに、高度な物理学の法則“すら”知らないのか、と言われても困る。もう一度いうが、日常の感覚で、と言っているのではない。
 私はちゃんと、弁証法で言えば「1」はない,「点」も「直線」もないのだと説いている。だから光が直線運動だとはウソだと言うしかない。

 ここが論理の肝心要なのに、無視されて激怒はない話だろうに。

 なぜ地球の真ん中では引力はどうなっているのか、と問うたかと言えば、それは弁証法がわかっているなら意味のない問いだからである。
 Yuuri様は、「地球の中心では引力はゼロになります。ただし、圧力でつぶれてしまいますが」とお書きになっているが、ゼロになるとは空想である。

 「Yahoo知恵袋」に、「地球の中心では重力は0ですか?仮に地球の中心を通過する穴があったとして片方の穴から石を落とすとどこまで落ちていきますか?石は何処でとまるのでしょうか?」という質問があり、答えは。

 「地球の中心では地球の重力は0になります。また、地球が一様な密度であるならば、重力は中心からの距離に比例します。仮に北極から南極まで地球を突き抜ける穴があり、空気抵抗などを受けないのであれば、片方から落とした石は、地球の中心部分に近づくほど早くなり、遠ざかるほどゆっくりになり、反対側の地表でいったん停止して、往復運動をします。
 空気抵抗などの抵抗があると、何回か往復して最後は地球の中心で浮かんで止まります。」

 こういうものがあった。これはもっともらしい答えだが、ウソである。北極から南極を通す穴は開けられないからだ。あり得ないことで、空想上の計算をしている。要するに、穴があけられたら、とか、一様の密度ならとか、中心に行けたら、空気の抵抗がないとしたら…と仮定の話ばかり。

 そんなことは出来ませんよ、と言うのに、むずかしい法則なんかいらない。数学は得てしてこうなる。これで像を描けと言われても、不可能である。像が描けてしまうのが秀才、と、こうなる。アインシュタインは秀才だから、現実にはない像というより言葉で書いてしまったのだ。

 Yuuri様も失礼ながら引力は「ある」と思っておられるのではないか。その意味は実体がないのに機能の引力だけが「ある」と思っている人がいつではないかということだ。これは観念論である。
 実体がないのに機能はあると言っているようなもので、人間という実体がないのに、認識という機能が独立的に存在して霊魂になるのだと言っているのと同じである。

 実体と機能の論理を説明するなら、たとえば手は実体であって、手がつまむ、にぎる、叩くなどの働きがあって、それを機能というのだ。実体がないのに、機能があると言うなら、それは手がなくてもつまんだり、握ったりする働きが存在する、と言っていることになる。死んでも霊魂があるとは、脳はなくても認識があると決めつけているのであって、こういう妄想である。

 宇宙のかなたで、なんだか知らない物体がいきなり動いたら波ができるとは、まさに実体もないのに機能だけが生じた、と言ってるようなものだ。こんなことはだから、中学生でも理解できる話ではないか。
 なにがしかの波なりエネルギーなりが発生して、はるか地球まで到達するとしても、その間の空間を通る間に相互浸透して、いわば「宇宙空間化」したエネルギーになるに決まっているのに、多くの科学者は相互浸透しないと思っている。

 そう言われると困る(?)らしく、いや宇宙空間は真空だとか、物質の密度が薄いからとかバカげたことを言い出す。

 似た事例でいえば、人間は鉄分を必要としているが、無機物としての鉄と、人間が生命体から(食べて)摂取した鉄分は肝臓で「人間化」された鉄とは違うものだ。それを医師は同一と勘違いする。たぶん、成分として測れば同じFeなんだろうが…。
 これを光に当てはめれば、遠くの星から出た光は、宇宙空間の物質と相互浸透して「宇宙空間化した光」となって、我々地球上で観測されることとなる。

 さて。Yuuri様は計算ができるから引力はあるのだ、とおっしゃっているように聞こえるが…。
 弁証法の本質は運動なのである。三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』を読んだだけでは、これはなかなか理解できないだろう。それは三浦さんの書き方が良くないからだ。

 引力とは、物質の運動によって起こされる機能なのである。エネルギーだと言い替えることもできよう。より具体的に説くことはできるが…、これはYuuri様に答えていただけたらと思ってお尋ねしたのだ。
 余談ながら、私の子供のころは、引力とは2つの物体が互いに引き合う力と教えられた。人と人の間にも引力は発生するが、それより地球の引く力の方が大きいので、私たち人間どうしがぶつかることなく動けるんだ、というようなことだった。

 今ではどんな説明なのかわからないが、これはウソであろう。こんなことがまことしやかに語られていたのは、やはり引力の正体が解けていなかったのだと思う。
 ネットのなかには「引力は空間のねじれだ」と答えているアンサーがあったが、観念論以外のなにものでもない。観念論については三浦さんが『弁証法はどういう科学か』のなかで説いている。あれだけでは理解はむずかしいと思うが…。

 つまり引力の原理はまちがっていても、「計算」はできるし、それで人工衛星は飛ばせるのだ。電磁波の理論はウソばかりだが、それでもラジオ、テレビ、ケイタイ電話は実用化できている。実用化できているからと言って、理屈が正しいとは言えない、そういう例は学問の世界にはいくらでもあるだろう。

 重力波に関してはこの辺で議論は終わりにしたい。まだ反論があれば受けてもいいが、弁証法が欠けている学説(?)をいくら取り上げても噛み合ないのだ。また唯物論と観念論の基礎的理解がないと、これまた議論は噛み合ない。

 議論は打ち止めといえば、逃げるのかと罵ってくるご仁がいるだろうが、私からすれば議論の俎上にあがってこないものばかりだ。
 それにYuuri様は礼儀正しい方だから尊重するが、なかには知識だけ振りかざして仕舞いには悪意で罵ってくる向きもあって、やりきれなくなる。

 これから議論を続けても、反駁される方は、だって観測できたんだから重力波はあるんだという論法か、なんとかの法則で立証されているとか、実用化されている技術があるからその元になっている「理論」は正しい、とか言ってこられる。そのパターンに集中する。
 物理の素人は黙っていろと言わんばかりだ。

 それに対してすでに私は十分説いているし解いている。繰り返してもしょうがない。それを理解しようとしないで、悪意剥き出しで罵倒して来る向きにはいくら付き合っても無駄である。弁証法や唯物論を理解しようとするより、「俺の感情を納得させろ」では意味はない。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 🌁| Comment(13) | エッセイ | 更新情報をチェックする