2016年02月29日

月なき み空にきらめく光


 このところ、重力波や引力のことで、あれこれと述べてきた。Yuuri様と若干の論争もできて楽しかった。
 もうこの話は打ち切ると言いながら、また、というのも気が引けるが、本稿は旧ブログの再録であるからご容赦を。
 2006年6月にブログを始めた直後に書いたものである。
 これも引力の問題を扱っているから、ご参考までに。かなり加筆してある。
 また、これを理解していただければ、重力波がないことも分かっていただけようか。

   ■    ■

  月なきみ空に きらめく光
  ああ その星影 希望のすがた
  人智は果てなし無窮の遠(おち)に
  いざその星影 きわめもいかん
          (唱歌「星の界(よ)」)
https://www.youtube.com/watch?v=sQqmZvD3RUQ

 という、優美な唱歌がある。賛美歌の曲に填詩したのだろう。
 それは話のまくらで、なんで星(恒星)は光っているのかという話をしたい。また、この歌のように星空を眺めて無窮の遠(おち)に思いを馳せて、引力というものの謎を巨大なスケールで考えてほしいのである。

 東京では夜空に星はほとんど見えず、「津軽海峡冬景色」じゃないけれど「はるかにかすみ見えるだけ」である。空気の澄んだ田舎で見る満天の星には感動する。あの夜空こそ、引力とは何かを語っているではないか。

 さて。
 恒星は太陽と同じものである。太陽が地球や土星を引き連れて運動しているように、他のすべての恒星も惑星を伴っている。
 恒星は必ず惑星を引き連れている。だからこそ恒星が燃え(光り)つづけるのである。そんなことは天文学者の誰も言ってないぞ、と気色ばむ向きもあろうが、まあ、聴いてください。

 太陽(恒星)は、惑星を引きつつ、惑星群に引っ張られて移動している。決して、太陽は一点にドンと居座っていて、その周りを惑星が楕円運動をしているのではない。太陽系自体が、他の太陽系(恒星系)と引きつ引かれつしながら、移動している。太陽系自体が、あっちに引かれこっちに引かれしているのである。

 たとえば、惑星がバラバラにある状態のときと、ほぼ一直線上に並んだ状態のときでは、引力の強さが異なる。わかりやすく、太陽と惑星の配置を横から見た図に描けば、ほぼ一直線上に惑星が並べんで右なら右に偏れば、太陽は惑星群のほうに(右に)引かれるのである。

 ちょっと話がずれるが、惑星がバラバラに、とはおかしな表現になってしまうが、その意味は、太陽から見て、惑星が上のほうや下のほう、斜めの方にあるのではなくて、ほぼいわば太陽の赤道にあたるところの延長上に並んでいる。

 つまり太陽が回転する時の遠心力で水星から火星までの惑星が飛ばされたからこうなっている。では、なぜそれら惑星は飛ばされたときに宇宙のかなたまで飛んでいかなかったのか。そして今はずっと太陽からの距離を一定に保って公転しているのか、いられるのか。

 話を戻せば、太陽は移動するがゆえに宇宙空間の物質を取り込むことができる、というのだ。つまり、稲を刈るコンバインのように、移動していくから、稲(宇宙空間の物質)を取り込むことができるのであって、コンバインがじっとその場にいたら、稲を取り込めないのと同じ理屈か…。

 恒星が宇宙の一点に存在するだけなら、やがて水素からヘリウムへの転換、核融合、はいわば燃え尽きてしまうはずが、そうはならない。
 太陽は移動しているから、宇宙空間物質を取り込んで、水素からヘリウムに転換する過程で燃焼することができる。このあたりは申し訳ないが半可通で、これ以上は説明できない。
 太陽(恒星)はそれゆえ、永遠に燃えつづける。

 この太陽(恒星)のありよう、存在性とでもいうか…、宇宙空間の物質を取り入れては自己化し(水素をヘリウムに転換し)ちがう物質を(おそらく)外に出している、そしてエネルギーを使い、放出しているありよう、これは実は生物のありようとそっくりだと気づきませんか?

 太陽の存在する論理が、地球上に誕生した生命体の生存する論理に、引き継がれている、とみることもできよう。
 太陽がそうした運動が可能なのは、宇宙全体の恒星どうしの引き合いもあり、また引き連れている惑星と引き合ってつながりあってこそ成り立っている。

 太陽が個として成り立たぬように、生命体もその個の生物だけでは成り立たない、自然環境との共存というよりも、地球上の自然環境すべてで生命体であるということである。
 その生命体の誕生から人間までの歴史を、人類史上初めて解いたのが『看護のための「いのちの歴史」の物語』(本田克也ほか著・現代社)なのである。

 惑星は、太陽から飛び出した。太陽に近いところから水星、金星、地球、火星…と並ぶ。これらは太陽から飛びだしたものだが、それ以降の木星、土星などは太陽から飛び出した天体ではなく、他から太陽系に引きずり込まれて、太陽になりそこなった惑星であろう。

 水星から火星までの惑星は飛び出したときは燃えていたはずだが、公転自転のスピードが早すぎるために、燃える環境を維持できなかった。そのため冷えていった。そして唯一地球だけが冷える過程の化学反応で生命体が誕生した。
 これが恒星が必ず惑星を引きつれているわけだ。

 これに軌道が違う彗星の問題があるが、これはご勘弁を。いずれ解けるのだろうが。
 ここまで説いてきながら、私はまだではなぜ引力が生じるかは言っていない。実は言うつもりもないが、この恒星どうしの引力、恒星と惑星の引力を像として描いていただければ、大きなヒントになるはずである。いずれの天体も、自転している、これである。

 自転は、天体という実体の機能なのである。なぜそんな機能が必要なのか、あるいは誕生したのか、それが引力とはなにかの答えだろう。

 自転していなければ、公転もできないし、恒星と惑星の距離も保てないのである。
 皆さんに想像していただきたいのだ。引力とか重力とか填は、かかる無窮の宇宙の、実体と機能を指して言うのであって、ニュートンが見た「リンゴが地面に落ちる」の現象は、そのごくごく小さな現象だということだ。

 地球の中心では引力はゼロになるとか? 冗談で言ったが、天体を分解したら中から引力の元が発見できるのかとか? それは誤りである。
 無窮の宇宙の実体と機能にひきかえ、重力波の説明は、池に石が落ちて波紋がひろがるように…と、チマチマした説明である。

 余談ながら、この論理を踏まえれば、宇宙に果てはあるのかとの疑問にはすでに答えがでていることがわかるだろう。宇宙に果てがあるとすれば、そこがいわば壁になり、宇宙全体の引力のバランスがそこで狂うではないか。宇宙に果てがない、無窮だからこそ、この巨大な引力の引き合いのバランスがとれている。
 そして当然にブラックホールもないし、宇宙の膨張もないのである。

 これらの言説は受け売りを、私の解釈を加えてしたためている。私ごときの発見ではない。しかし中学生程度の知識で十分これは解けるのだ。
 どうして見て来たわけでもないのに、わかるのかといえば、それが弁証法の実力。弁証法が技化していないと、恒星の謎は解けなかったのである。

 恒星は自転しているが、惑星はその恒星とは逆方向の自転をしている。恒星が安定的に自転ができるのは、惑星が存在して、かつ惑星が恒星とは逆の回転をしているからである。自動車のタイヤとそれを止めるネジの例でわかってほしい。タイヤの回転と同方向にネジ(ボルト)が締めていれば、タイヤは飛んでいってしまう。

 『弁証法はどういう科学か』にあったように、これは「対立物の統一」だからなのである。あるいはゼノンが言ったように、「飛んでいる矢は止まっている」が理解できないと、解けない謎なのだ。
「あるものがあるものである、とともに、あるものでない」それが運動である。太陽も、太陽であるとともに太陽でないから、運動している。

 つまり、恒星がじっとしているように見え、月なきみ空にきらめいて見えるのは、運動しているからである。恒星は決して、いわば床の間の置物みたいにじっとしているのではない。運動しているからこそ、燃え(光り)かつじっとしているように見える。

 竹馬に乗って、じっと立つことは難しいが、歩いていると安定する。
 「弥次郎兵衛」というおもちゃがあるが、あの真ん中の人形が恒星で、左右の重りが惑星である。惑星とバランスがとれているから、中央の人形(恒星)はじっとしていられる、という例が適当かどうかわからないが。
 「弥次郎兵衛」は棒(針金)で重りとつながっているけれど、静止しているからそれでなんとかバランスは取れている。恒星と惑星の間に棒はない。ではなんでつながっているのか、である。

 恒星(人形)は、惑星(重り)を伴わなければ、存在できない。だから恒星は必ず惑星を引き連れているのだろう。

 ところで、宇宙空間の話に関して、本ブログ「宇宙空間に水分子はない・再説(3/4)2014年12月3日付で論じてある。よろしかったらご覧ください。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/409988036.html




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする