2016年03月15日

田中角栄と朝日新聞の売国犯罪(2/3)


《2》
 佐藤慎一郎は、田中角栄を中国に連れて行ったのは朝日新聞だと語っている。その経緯に詳しい近現代史研究家・長塩守旦(ながしおもりあき)氏から、鬼塚氏は多くの資料を得たそうだ。長塩は佐藤慎一郎の弟子にあたる。
 以下は、その長塩氏の話。

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 長塩 例の朝日新聞の関係なんですけど、〔佐藤慎一郎は〕「後藤基夫編集局長は田中内閣ができる前、二月に広岡知男朝日新聞社長と北京に行った。そのとき一〇〇万円の餞別を児玉誉士夫からもらっている。広岡社長と後藤基夫が北京で約束してきたのは、佐藤内閣を倒して田中内閣をつくらせるため、中共と朝日は協力するということ。

 田中内閣ができたら、直ちに台湾を切り捨てて日中正常化をやるという約束をしてきた。広岡と後藤は帰国してそのとおり、朝日の全紙面を割いて毎日毎日佐藤内閣の悪口、田中角栄の宣伝をやって田中内閣を実現させた。
 朝日の社内報に後藤基夫は、田中内閣をつくったのは朝日の力だとはっきり公言している。

 田中は中共と朝日のお陰で総理になれたことをよく知っている。後藤基夫は帰国と同時に田中と会っている。中国と約束したことをそのまま田中に承知させた。それで田中は総理になると、約束通り台湾を切り捨てて日中国交回復をやった。

 その後、後藤基夫が北京に行くときに児玉誉士夫から一〇〇万円の現金をもらっている。これは今度のロッキード事件が発覚したときに、児玉誉士夫の帳簿を調べたときに確認されている。これと同じようなことが十数年前、社会党の浅沼稲次郎が北京に行くとき、児玉誉士夫からたくさんのカネが渡されている。浅沼が北京で、米は日中共同の敵だと発表した。児玉誉士夫が中共の工作員だということ以外に説明できぬ。これは問題である。
 (引用終わり)

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 また長塩氏は、児玉誉士夫はアメリカと中共のダブルスパイだったと言っている。アメリカは児玉をロッキード事件で失脚させるまでは、知っていて使ったのだ。
 また、朝日新聞はロッキード事件で、田中角栄と全日空・ロッキード社と組んで、トライスターを買うことに積極的に動いていた。
 航空事情に詳しい高山正之氏は、トライスターは欠陥機だったのにと証言している。それを知りながら朝日は欠陥機を日本に入れようとした。

 しかし事件が公になると、口を拭って角栄を罪人扱いして、テメエらの悪事にはしらばっくれていたのだ。
 なにせ当時はインターネットがなかったから、私たちには知り様がなかった。今はネットの普及で、こうした朝日の恥部が次々に暴露されて行く。

 その見返りが、築地の約1000坪の土地で、これは田中角栄から国有地を払い下げてもらったのである。こういうことも佐藤慎一郎の「総理秘密報告」には書いてあるのだという。
 朝日は中共の走狗となったので、例えば兵馬俑(秦の始皇帝の地下宮殿)の人形なんかを中共から優先して借りては、国内で展覧会をやる。巨額の儲けになる。

 築地に社屋を移転できたおかげで、旧社屋のあった有楽町の超一等地をデパートなどに貸して莫大な(?)家賃収入を得ている。

 朝日新聞は、新聞社のなかでは最も社員の給与は高いし、寄稿者への原稿料も高い。だからインテリはみんな朝日に書かせてもらいたがる。そして朝日の意向を汲んで「左巻き」の見解を書く。
 死んだサヨク小田実は朝日から、原稿用紙6枚でと依頼されたのに、60枚も書いて送ってきて編集者を困惑させたという。これなどは、いかにサヨクの売文家どもが朝日にたかっているかの証左である。

 朝日新聞は、日本の対中ODAがトータルで6兆円にもなっていることを報道しないし、それを自民党に質すこともない。

 朝日は中共の下僕に成り下がったが、その前はGHQに屈することで生きながらえたメディアであり、アメリカの工作機関だった。だから朝日が中共と組んで佐藤内閣を倒し、田中に政権を取らせ、さらに日中国交回復まで進んだことは、アメリカが承知のうえでやっていることに違いない。角栄がアメリカの意向を無視して独自に日中国交を成し遂げたから追放されたと見るのは間違いだろう。

 田中角栄が日中国交回復を実現させる前は、日本と中共との間では細々とLT貿易が1962年以降行なわれていた。LTとは、中共側代表の廖承志と、日本側代表の高碕達之助(元通商産業大臣)の頭文字LとTをとったもの。その後は覚書貿易と名を変えた。

 日本側にこの協定の締結を持ちかけたのは、日本共産党である。つまり中共の意向を汲んで(というより命令で)日共が政府と財界に働きかけた。しばらくは日共の息のかかった企業が、独占的に中共との貿易を仕切って儲けていた。それが昨日取り上げた河野洋平が会長をやっていた「国貿促」だった。
 しかし、これでは中小規模の取引しかできず、日本財界も中共ももっと大々的な互いに大もうけできる大企業の参入を模索していた。

 当時は冷戦のまっただ中で、日本はソ連や中共とは原則的に交流ができなかった。今になってみれば明らかなことだが、ソ連や中共は共産主義を採用して、経済的に大失敗をやらかし青息吐息だったのだ。喉から手が出るほどカネがほしかった。
 実際、昭和47(1972)年の日中共同宣言が出されるころは、中共はほぼ経済的に破綻状態だった。

 ソ連との領土紛争(ダマンスキー島事件1969年)、毛沢東により「大躍進政策」で、五千万とも七千万人とも言われる人々が殺されるか餓死した。またヴェトナム戦争にも中共は支援をしていた。
 そもそも何も産業がない中共には、外貨獲得の手段がほとんどない。よってLT貿易も中共側はドルも円も底をついて先細りとなった。

 支那が国家破綻寸前であった一方で、日本側財界は、なんとかして10億人もの市場を当て込んで、日中貿易を拡大したかった。
 それで中共は、周恩来が先頭に立って、日本側とたくみな交渉で経済援助を獲得していった。田中角栄が訪中する1カ月前には、すでに経済界では国交回復後の日中貿易のあり方や技術支援の方向が話し合われ成果をあげていたのだ。

 だから、角栄は、1972年、アメリカがニクソン訪中で国交回復をしたことに触発されて、急いで日中国交回復に向かったわけではない。その前にレールは敷かれていた。日本の新聞は筆を揃えて支那を礼賛していた。かかる報道管制を十年ほどにわたって指示したのは自民党の2、3の代議士だという。その一人が日中の架け橋の重要な役割を担っていた自民党の古井善実であったという。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする