2016年03月24日

関東大震災で朝鮮人虐殺はなかった(1/2)


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 中学高校の歴史教科書には、「関東大震災に際して、朝鮮人が井戸に毒を投げ入れているといった流言斐語が飛び交い、日本人自警団などが無実の朝鮮人6000人を殺した」と記述されているとか。
 記憶は曖昧だが、私の中高のころの教科書もそうなっていたかと思う。
 当然、誰もが「気の毒な朝鮮人…」と刷り込まれた。

 しかし、最近ではそれが真っ赤なウソであったことが明らかになってきた。関東大震災のときには自警団は組織されたが、それよりもむしろ朝鮮人の襲撃を守った話とか、気の毒な朝鮮人を保護したとか、そもそもその時代は在日朝鮮人による騒擾事件が多発していたことなどが明るみに出始めた。

 工藤美代子氏『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(2009)や、そのリメイク版として夫の加藤康男氏の名で出された『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(WAC刊)などで詳細な研究が発表され、“真実が歪められた歴史”になっていることが判明してきた。

 昨今、敵性南北朝鮮人は、慰安婦問題で日本を攻め(責め)きれなくなってきたので、関東大震災における「大虐殺」を取り上げるようになってきている。これをしっかり反駁できるようにできなくてはなるまい。

 「余命三年時事日記」503(3月10日)にて、以下の読者コメントが掲載されていた。
     *    *    *

〈とっち〉
 関東大震災においては震災そのもの、あるいは震災時の建物倒壊や火災よって亡くなったり行方不明になった人は、1万人程度であったろうと言われています。
 つまり14万人の死者・行方不明者のうち、なんと13万人が震災そのものではなく、別な理由でお亡くなりになっているのです。では、その理由とは何でしょう。答えは「放火」です。
 なんと爆弾を使った建物破壊や放火までありました。誰がそんな不埒なことをしたのでしょうか。
 そうです。朝鮮人です。

当時の新聞の見出しを見てみましょう。
★「朝鮮人、隊をなして石油・爆弾使い放火」
(小樽新聞 大正12年9月3日号外第一)
★「朝鮮人、爆弾・放火・王子横浜で軍隊と衝突」
(荘内新報 大正12年9月3日号外第十八報)
★「朝鮮人、屋根から屋根へ放火 婦人凌辱 略奪」
(新愛知 大正12年9月4日号外)
★「朝鮮人、殺人虐殺凶悪ぶり 進行中の列車に爆弾投げつける」
(福岡日日新聞 大正12年9月4日号外)
★「朝鮮人捕縛 爆弾其の他押収。軍隊が治安維持に出動したため、不逞鮮人は爆弾を携帯しながら各地方へ退散、鎮圧鎮静化へ」
(九州日報 大正12年9月4日号外第三)

 このときの内閣は山本権兵衛内閣でしたが、震災の翌々日に次の「公式発表」を行っている。
 「不逞な朝鮮人については、三々五々群を為して放火を遂行、また未遂の事実があるけれど、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあるので、国民のみなさんは恐れないでください。」
 これが公式発表です。
 在日不逞朝鮮人たちによる略奪や暴行、放火は「事実だった」ということですね。

     *    *    *

 それがなぜ、話が真逆になり、日本人が朝鮮人を虐殺したことになったか。それは東京市長だった、後藤新平に淵源があるようだ。
 後藤新平は、不逞鮮人襲撃のニュースを敢えて新聞に掲載することを止めた。後藤の言い分は、鮮人等の暴動が後の昭和天皇に向けられることからお護りするため、だという。(は?)
 また当時の「文化人」だった吉野作造もこの朝鮮人虐殺デマ説を流した張本人だったそうだ。

 加藤康男氏の本では、後藤新平が正力松太郎に語った言葉が次のように載っている。
 「朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。
だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのまま引き下がらないだろう。必ずその報復がくる。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあったら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは、自警団には気の毒だが、引いてもらう。」
 バッカじゃなかろうか。今のサヨクと同じ。不逞鮮人のテロを朝鮮人虐殺に書き換えた真相がこれだ。

 後藤新平は台湾総督府民政官、満鉄初代総裁を経て、東京市長になり震災後の帝都復興計画などで辣腕を振るったことで評価は高いけれど、日本共産党を創ったのは、実は後藤新平である。
 後に共産党員になったものを殲滅するために共産党を作ったとされる。後藤は一族の佐野学や佐野碩らを使って、共産党の内部情報を公安警察に報告させた。よくわからない人物だ。

 話を〈とっち〉さんのコメントに戻すと、これは初耳であった。放火か…、さもありなん。こういう報道が、後藤新平の妨害にも関わらずいくらかは洩れ、ために自警団が作られた。
 新宿の自警団の一人が、内村鑑三(当時64歳)だったそうな。内村は地方から救援に駆けつけた警察官達を自宅の聖書講義室を開放して宿泊させた。

 これが真相ならば、吉村昭の『関東大震災』(文春文庫)が説くところは見直されなければなるまい。
 吉村昭の解説によれば、陸軍被服工廠跡という広大な空地がその原因だ。下町地域におけるいちばんの空地だった被服工廠跡地に避難者が殺到し、そこに周辺火災の火が四方八方から飛んできて、家財道具に燃え移ったことから、空地の人たちがパニックに陥って大量の死者を出したのだという。
 
 吉村昭が警鐘を鳴らしているのは、避難者が火事の火を運ぶことである。関東大震災であれば大八車に載せた家財道具の存在である。大地震において火が恐いのは、単に消防が働かないなかでの火事だからではなく、避難路や避難先を火事がつぶしてしまうからである。
 下町の被服工廠跡地の火災も、今となっては闇のなかだが、放火の可能性は否定できないのだ。

 阪神大震災のときは、ビルの倒壊やクルマの渋滞で消防が火事の現場に入れなかったことが大きかったようだが…。もしかして、なにせ神戸はザイニチが多い土地ゆえ、ドサクサに紛れて放火があったやもしれぬ。
 関東大震災の教訓として、今でも語られるのは、地震が起きたらすぐに台所などの火を消せ、と言われる。それはそうだが…。
 けれど、子供のころから不審だったのは、いくら地震で慌てたからとて、台所の火を消さなかったためにドッと火事が多発するのか、ということだった。

 関東大震災はちょうど昼飯どきだったとか、当時はガスより七輪なんかで煮炊きしていたから消すのに手間取ったのだと言われるが、どこかウソくさい。

 人々は家財道具を運び出すくらいの余裕はあったのだから、火事になりそうな火ならまず消したであろう。火事を消さずに家財道具を持って逃げるはずがない。火事が広まったから家財道具をかき集めて安全な所へと逃げようとした。あちこちで、人のいない場所で放火され、それが燃え広がって手がつけられなくなって、大火災になったのではないか。
 おそらく、そうした事実も後藤新平によって、朝鮮宥和政策のために伏せられたのかもしれない。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(4) | エッセイ | 更新情報をチェックする