2016年03月29日

技の創出過程についての雑感(1/2)


《1》
 世界中探しても、わが空手流派以外に専門分野での上達論、勝負論、技術論を理論レベルに高めた組織はないと言い切れる。
 スポーツや芸能でも、成果をあげた指導者に「哲学がある」「理論的だ」などと褒めそやす向きが多いが、嘘っぱちである。いささかも論理はない。経験的に指導で成果をあげたものはいくらでもいるだろうが…。

 一芸に秀でようと苦闘するなかで、武道家の本(例えば武蔵の『五輪書』)に真理を求めて読んでみたが何もなかった…とおっしゃるのは当然で、たいていは理論でもなければ、学問でもない。それらしきがあると、せいぜいわが流派の盗作であったり…。

 芸能やスポーツで「身体の使い方」が話題になるが、すべての技には「創る」と「使う」の二重構造がある、と発見したのは南ク継正先生をもって嚆矢とする。この理論すらまだ音楽界やスポーツ界には浸透していないのではないだろう。
 技はまず「創る」ものであり、そのうえで「使い方」である。使えば技は崩れることになる。良く言われるのは包丁は使ううちに斬れ味が悪くなると同じだ。根本の技の創り方に理論がないのだと思える。

 「創る」に理論があるなら、「身体の使い方」の前に、「身体の創り方」の理論があってしかるべきなのだ。
 「創る」が意識されていたら、土台をどう鍛えるか、心臓をどう鍛えて体力をつけるか、骨の強靭さはどう演奏に関係するか、感覚器官はどうやって鍛えるべきかが解けなければならないはずである。

 例えば、ボートに乗ってオールで漕ぐ場合、固くて強い木のオールだからしっかり漕げて、ボートは進む。しかしオールを段ボールで作ったらどうだろう。進みはするにしても弱い。じゃあとばかりに、段ボールを厚くしてスピードをだそうとしているのが、昨今のスポーツでやっている筋トレである。
 あるいは進む力が弱ければ、オールの握り方や動かし方に改良を加えるとか。それが多くのスポーツ指導の現状ではないか。
 ここで譬えているオールが骨である。

 筋肉を強く働かせるには、骨の強靭さが必須である。スポーツ選手が肉離れを起こすのは、筋肉ばかり鍛えて骨を鍛えない、そのバランスの悪さからくることもあるだろう。

 例えば吹奏楽器を吹く場合、肺の筋肉で息を調節しているようだけれど、あれもじかには肋骨の強靭さが筋肉の動きを助けるのだから、楽器を吹奏する練習だけではなかなか骨は丈夫になっていかない。全身の骨を鍛えなければならないが、とりわけ背骨や胸骨は大事であろう。骨が鍛えられていれば、女性でも楽々吹奏楽器が吹けるはずだ。

 骨を鍛えるにはカルシウムをいくら摂取してもダメで、骨に衝撃を与えなければならない。高いところから飛び降りるとか、柱に背中をぶつけるとか、肋骨を手で叩くとか。
 こういう話を演奏家にすると、返ってくる答えは、一番大事なのは息の使い方ですとか、指の使い方です、になる。

 藝術は感性の世界ではあるが、感性のみで捉えるのが主流で、論理で捉えようとする向きは少ない。まして技の二重構造(創ると使う)がわかる人は少ないので、ご理解いただくのはむずかしい。
 音楽学校で習い、世界中の常識となっていることを、それは不十分だと言われると拒絶反応を起こすのが一般的である。

 楽器演奏やスポーツは、使いながら創るやり方で実際上達できないことはないから、技の創出過程の論理化をわかってもらうのは至難の業になる。
 「使い方」に関しては、何も言う事はない。その道のプロはさすがに教え方も技も持っているのだから。

 だが、指導者が使い方だけの良し悪しで弟子を見てしまうと、結局、上達の遅い人は才能がない、で終わってしまいがちだ。

 私はその使い方の前段階とでも言うか、呼吸、指使い、足の運びなどの動きの仕方を支える骨の問題や、心臓の問題、肺の問題、あるいは血液の問題などを解けなければ理論体系はできない、と言っている。「足腰を鍛える一般」ではない。足腰の強靭さが、藝術家が演奏する音とどう関わるのか、どうすればいいのか、それを理論的に解明しないと…と思っている。

 ピアニストも一流どころは巨漢である。巨漢は体重の重さゆえに自然に土台が鍛えられる。
 私はどんな演奏家でも、さらなる高みを聴衆に届けるのなら、理論的練習が必要になるのではないかと思うだけだ。

 譬えていうなら、相撲では白鵬は現在無類に強い。しかし、かつての双葉山や初代若ノ花と比べれば、まだ大横綱にはなれていない。去年くらいからは優勝を逃す事も多くなっているが、彼が双葉山クラスになり、もう一度無敵の強さを取り戻すにはどうしたらいいかが、相撲界でも評論家にも分かっていないことを悲しむだけである。
 白鵬はモンゴルの草原で鍛えた土台の遺産が消えつつある。残念だ。相撲界にも「身体の創り方の理論」がないからである。
 
 以前に野球のバットの先端とか、箸の持ち方を例に挙げて書いたことはある。先端に意識を込めるとはどういうことか、である。
 新聞紙の破き方で説いたが、「神経力」「神経体力」という概念が必要なのだ。新聞紙は誰でも、親指と人差し指で挟めば簡単に破ける。だが、小指と薬指で挟むと破くのはむずかしくなる。これは小指や薬指に筋肉の力がないからではないのだ。では何故か。

 技の創出過程では、「創る」と「使う」が二重構造になっていると発見されたのが人類史上初のことで、南ク継正先生の偉業である。
 しかし、人類はこのスポーツでも藝術でもなんでも技の創出は「創る」と「使う」が意識されずに(意識されなくても)要するに習えばよし、努力すればよし、繰り返せばよし、としてなされてきた。
 それでどんな分野でも、それなりに一流になれるし、なれなかった場合は才能がなかった、として終わりなのだった。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする