2016年04月30日

熊本の卑しいマスゴミ取材陣(2/2)


《2》
 毎日新聞は4月20日の夕刊で、避難所に外国語の表示がないと文句をつけていた。旅行者や留学生に対して「課題が浮き彫りになった」だと。この忙しいときに、英語ばかりか、朝鮮語や支那語で表示を出せっていうのか。馬鹿じゃなかろうか。分からなければ聞けばいいだけのことだ。日本人は親切なんだから教えてくれる。助けてくれる。外国人だからとて、至れり尽くせりのサービスが受けられると思うな。

 冗談じゃないよ。日本人の被災者は家から離れられないだろうが、外人は別の安全な県や市に移ればいい。なにも混乱している被災地に留まる理由はない。余計な手間をとらせるのだから、福岡でも鹿児島でも避難すればいい。もしかしてただで飯を食わせてもらえるから動かないとか?

 サヨクマスゴミは、行政の混乱を批判するのは被災者を助けたいからだと言うのだろうが、ウソはつくな。反日政党と組み、支那や韓国と組んで、安倍政権を悪く言いたいだけだろうに。少しでも安倍政権と自民党の失態を書き立て、映像化して、次の選挙で元民主党や共産党を勝たせたいのが見え見え。

 サヨクメディアは、こういうときに問題の本質をかわして、誰かを悪者に仕立てる。一番の標的にされるのは、政府や行政になる。外国人向けの外国語表示がないじゃないか、などというのは、これも言外に政府や行政が悪いからだと言っている。
 そんなことより、地震予知ができるとウソをつき、東南海地震が起きるとウソをついて、巨額の税金をふんだくってきた東大の地震研究者どもの実態を報道しろ。

 ところがマスメディアには、東大出が多いせいもあって、東大地震研の闇を突こうとする姿勢は皆無だ。東大の偉い先生を怒らせるとまずい、協力してもらえなくなる、と権威にしぼみ、後難を怖れているせいもあって、自主規制してしまう。
 たしかに大地震は天災ではあろうが、「熊本だって安心してはダメですよ」と地震予知の連中が注意を喚起していたら、助かった命もあったはずである。

 人工地震だ!と騒ぎ立てている人がいる。可能性は否定しきれていないが、そんなことばかり夢中になって、マスゴミと地震研究者どもの不正を見逃していいのか。世の中の病根、ヤミは、イルミナティばかりではない。この機会を利用して、日本を弱体化させようと狙って来る支那、韓国、在日などがある。
 共産党だって、破壊活動防止法の対象になっている組織なんだから監視の目を光らせなければなるまい。

 さらに、米軍がオスプレイを貸してくれて物資の輸送に協力してくれている。これを朝日や毎日は、防衛省のなかからも「政治利用だ」との声が挙っていると書き立てた。災害で活躍すれば、オスプレイの評価が高まり、導入しやすくなるからだと、政府が考えたからだというのだろう。
 防衛省の幹部が言ったというなら、誰がそういう不届きな発言をしたかを明らかにしろよ。なのに、ずるく「関係者が言っている」と逃げる。

 オスプレイが沖縄普天間基地から飛んできたので、沖縄サヨクは普天間で「オスプレイ反対」の活動をやらかす。この災害で苦しんでいる同胞がいるというのに、なんたる不実。これぞ政治利用じゃないか。こういうことをマスゴミは記事にしろよ。くだらない外国人被災者に外国語の表示を、などと言ってないで。

 「オスプレイを飛ばすのは政治利用だ」とは誰の発言かが言えない以上は、でっち上げ報道と断定せざるをえない。こんなことは小学生でもわかっている。
 政治利用しているのは、サヨクや反日マスゴミのほうである。こいつらは、ずっとそうだが、自衛隊は要らないの、憲法違反だの、軍隊は廃して災害救助隊にしろのと言い募ってきたゲスどもである。どれほど現地で自衛隊が頼りにされ感謝されているかを、いっさい報道しないのも卑劣を極める。

 4月20日の「真相深入り、虎ノ門ニュース」で、評論家・井上和彦が、子供たちの自衛隊への感謝の手紙を2つ披露していた。ここでも紹介してみよう。いずれも熊本の小学校低学年の子供だろうと思われる。

     *    *

 自衛隊のみなさんへ
 いつもご飯、おみそしるを作ってくださってありがとうございます。おふろの湯もあたたかく、とてもきもちいいです。とてもやさしくてかっこいいと、わたしはおもいます。夜おそくまではたらいているみなさんをわたしたちは、そんけいしています。これからもがんばってください!

 がんばり賞
 みなさんは、わたしたちみんなのために、おふろやご飯をがんばって作ってくれたので、ここに、「がんばり賞」をしょうします。
  平成二十八年四月十九日
   西原村の子どもたち これをかいただいひょう

     *    *
https://www.youtube.com/watch?v=wWMPAyMW-u4
 57:15〜59:51の間をご覧ください。司会の居島一平が感極まって泣いていた。感動の手紙である。私も涙腺の緩むのを禁じ得なかった。
 ネットでは大評判になっているようだが、サヨクメディアは無視である。

 以前、福島でも幼い子供たちが国道脇に立って、救助活動を行う自衛隊や警察車両に「お疲れさまでした」と声を出している姿を紹介したことがあった。
 https://www.youtube.com/watch?v=KhDN-IVfgjQ
 これが日本人じゃないか。政権の粗探しをし、自衛隊を罵倒する野党、左翼マスゴミ、日教組は、人間ではない。

 韓国や支那では、熊本の震災に心傷めている人間もいるが、「心からお祝いします」などとさわぐ下劣な連中も多いようだ。韓国の俳優がブログで「震災にめげずにがんばって」と書いたら、批判の嵐になったとか。つくづく民度の低い国民で、なんでこんな連中に日本のサヨクは「配慮」するんだかわけがわからない。そんな国へ「謝罪に行きたい」と天皇皇后は熱望しているやに…。





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2016年04月29日

熊本の卑しいマスゴミ取材陣(1/2)


《1》
 熊本の地震災害には、全国の日本国民が胸を傷め、心配している。そうでないのは在日だったり、共産党、元民主党の輩、そして朝日新聞、毎日新聞ら反日マスゴミ。

 言いたいことは多々あるが、まずは、現地に殺到してわが物顔で取材する卑しい連中について。上空に各社ばらばらにヘリを飛ばして映像を流す。地元では救助隊も住民も騒音で大迷惑している。救助隊の活動に、大声出しても聴こえない状態を創り出して、「知る権利」を強引かつ居丈高にやってのけるのは、ほとんど犯罪である。

 国民に悲惨な実態を知らせるためのニュースだから、と主張するつもりだろうが、ウソだ。ニュースはスポンサーが視聴率を稼げる刺激的な事実や映像を届けたいのである。上空から土砂崩れの山を誰も見せてくれとは言っていない。それを見せれば、視聴者がテレビに釘付けになり、ついでにCMも見てくれるからだ。

 NHKは自分たちの既得権益を維持するために、「公共放送」の顔をする目的で報道している。
 人様の不幸をダシに利用しようというのだから悪どい。
 4月28日の毎日新聞の1面トップは熊本地震から2週間の節目に、被災者百人にアンケートをとり、71人が「避難生活が終わる目処が立たない」と回答したとある。何げなくそんなものか気の毒だな、との感想で私たちは読んでしまいそうだが、新聞記者がずうずうしく被災者にこんなくだらないことをいちいち聞いて回ったのだ。復興に忙しく、みんなで力を合わせている最中に聞かれる側の迷惑はどう考えるんだ、このサヨク新聞は。被災者が「テメエら、見せ物じゃねえぞ」と言いたくなるだろうに。

 もっともありもしない「百人斬り競争」をデッチあげた毎日新聞のことだから、どうせこのアンケートも聴きもしないで勝手にこんなものだと書いたのだろう。

 重傷者や死者を救助隊が運びだしている映像も流れるが、その被害者が写されないように、隊員等がブルーシートを広げて上空からの覗き見を阻止している。ヘリのほうはなんとかしてそれを撮影しようと降下する。余計なことに救助隊員が神経使わなければならず、それだけ人員も割かねばならなくなる。
 それを見たがる視聴者も悪い。報道を注視するとも言えないことはないが、「野次馬」根性も垣間見える。

 マスゴミは重傷者や死者を撮影して何が嬉しいのだ? ただ「生々しい絵を撮りたい」それだけだろうに。
 どうしてもヘリを飛ばすなら、マスゴミが相談して1社が代表して行けよ。アホか。
 これは災害のたびに言われる。騒音が救助の支障になる、と。改善しようと言う気がやつらにはない。
 テメエたちがそうやって騒音で迷惑をかけておきながら、取材ヘリより音の少ない米軍オスプレイを騒音被害だとぬかす。

 横並びで「優等生的」なニュース映像を流し、記事に書こうとするから、「うちはヘリは飛ばさない」との方針はとれない。「災害=ヘリ撮影」の牢固としたアタマになっている。
 そんなことより、気象庁や東大地震研究所の失態、無責任を追及したらどうなんだ? 「前震」なんていう用語を突然出してきて、国民を欺いた責任については、おとがめなしか?

 それから、地上でも各社が中継車で押し寄せる。機材をあたり構わず置く、スタッフがたむろする、被害者の気持ちも考えずにマイクを突き出す。さも心配しているかに振る舞うが、誰もテメエたちに頼んではいない。救助の妨げになるし、静かに落ち着きたい被災者の妨害だ。もしかして、食事は被災者に配布されるものを横取りしているんじゃないだろうねえ。

 4月22日の産經新聞が、熊本地震をめぐるマスゴミの過熱報道での出来事を報じた。21日放送のTBS系ニュース番組「Nスタ」で、熊本県益城町の避難所を中継していたリポーターが、背後から現れた被災者と思われる男性から「見せ物ではない」「車(中継車)邪魔。どかせよ!」などと大声で怒鳴られ、生中継を急きょ打ち切った。よく言ってくれた。もっと被災地の人たちは取材陣を非難したほうがいい。

 関西テレビの中継車が、ガソリンスタンドで給油待ちしている車列に割り込む事件も起きた。なにさまだと思っているのか。
 被災者が体育館などに集まって蒲団にくるまっている様子をよく写しているが、あれはプライベートの空間である。写されたくない人もいるだろうし、迷惑に感じている人もいるはずなのに、お構いなしで、ズカズカ入り込んでえげつなく映しだす。女性なら、お化粧もしていない姿を全国放送されたくないだろうに。人の気持ちがわからない連中だ。

 反日マスゴミは、熊本の災害を政治利用している。今度の救援活動は、初動から立派だったと私には思えた。社会党村山首相のときの阪神大震災のときよりも、菅直人政権時代の3・11東北大震災のときより、圧倒的に優れている。菅直人は邪魔ばかりやった。それを国民は見ていて、民主党を政権から引きずり降ろしたのだ。

 阪神大震災のとき、社民党がいかにひどかったかを国民は見ていて、やつらを追放したのだ。兵庫県知事が社会党土井たか子に遠慮して、自衛隊に救援要請しなかったから、それで多くの人が死んだ。
 こういう事実はとっくに人口に膾炙している真相なのに、いまだサヨクメディアは口を閉ざしている。そういう汚いことをやっていながら、反日新聞は救助活動が遅い、物資が届かない、水も食糧もないと騒ぎ、政府や行政を叩く。安倍だからダメだと言いたいのだ。

 みんな全力でがんばっているときに、なんで足を引っ張るんだ。
 災害が起こったのだから、多少の不便はしょうがないじゃないか。ただちに平穏な日常に戻せと言われたって、無理である。
 家が全壊しているのに、今日中に立て直せと言うか?
 毛布が足りない、風呂もない、食事も足りない、というのは胸が傷む。不便をかけているのを、全国の国民は申し訳ないががんばってくれと祈っている。けれども、それをなんとかしようと皆が力を合わせている。それなのに、まず粗探しと批判とは何事だ。

 不手際もあるだろう。普段の、日にち毎日やっている業務ではないのだから、完璧にいかないこともある。なのに、政府や自治体や救助隊を責めるのか。被災者にも当然不満はあるだろうが、みんなが我慢のときじゃないか。譲り合い、助けあうべきときに、マスゴミが文句ばかり言うとは、お前等は朝鮮人か!
 そもそもサヨクどもは、普段、国家が嫌いなんじゃなかったか。「国民」と言われたくない、「地球市民」と言えなどと抜かしてきた。しかし実際にこうした大災害になったら、国家が救援してくれなかったらどうなった? 阪神大震災では国家が救援を出そうとしても、サヨクが妨害したために、いらざる犠牲を出した。
 最近「日本死ね!」とツイッターに書き込んだ馬鹿な母親がいたが、ほう、日本がお望みどおり死んでいたら、熊本への救援はいったい誰がやってくれたんだ?





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2016年04月28日

松村正直の誤解 〜人工知能で藝術はできるか(2/2)


《2》
 認識とは端的には「像」である。言葉ではない。しかもその像は感情像になるのだ。松村正直や人工知能を崇める人間は、言葉さえコンピュータに記憶させれば、豊かな像の小説や短歌が創ることができると勘違いしているのだろう。こんな寄稿を許した毎日新聞の担当記者も底なしの間抜けである。
 松村に限らず、ほとんどの人は認識がわかっていない。認識は形成されてくるということがわからず、先天性とか教育の埒外に置いて疑いもしない。

 歌人松村正直は、認識はいかに形成されるかがわかっていないから、もしかしたら将来は和歌や小説も創ることができるようになるかも、と思い違いをする。これから、人工知能で小説や詩を書かせようとする奴が出て来るだろうが、まったくの無駄である。仮にできたとしても、「ハーレイクインロマン」よりもっとひどい小説にしかなるまい。

 東大を出た人間の多くは、受験勉強をやりすぎて、認識と感情が「直接」でなく育ち、あるいは薄く育ち、だからこそ暗記力に優れるのだから、哀れをとどめる。松村も東大独文科で学びながら、人間の認識とは何かを学んでこなかったらしい。

 毎日新聞は、昭和12年の南京戦で「百人斬り」の捏造記事を書いて、二人の無罪の陸軍将校を戦犯に仕立てられて処刑されたにも関わらず、今もって謝罪をしない。そういうゲスの極みの恥ずべき新聞に平気で寄稿できる松村に、まっとうな人間が如何なる感情を抱くかわかりはすまい。そんなことが人工知能にできるわけがない。

 くり返すが、例えば男が恋人に顔を近づけてキスしようとしているとき、どういう像がどんな感情とともに描かれるか。それは刻一刻変化する。決して「キスする」という像ではない。拒絶されたらどうしようというとき、自分がみじめにうなだれているとか呆然としているとか、あるいはベッドに押したおして歓喜に酔っているとかの様々無限の感情像が描かれていっているのである。小説家はその感情像が無限に変化するなかから、一番この場面にふさわしい像を取りあげて、それを言語化するのである。

 こんなことは人工知能には不可能である。
 人間の認識は脳細胞の機能なのであり、脳は体の一部であって、生理機能と認識とを司り統括している。人工知能には生理機能と認識とを同じ脳という実体があるわけではない。例えば悩んで胃が痛くなることがあり、胃潰瘍があるために認識が不活発になることもあるが、それが人工知能にはない。

 人間は感情が実体を創るのである。中学生の感情が中学生の実体を創り、サラリーマンの感情がサラリーマン体を創り、相撲取りの感情が力士という実体を創るのである。松尾芭蕉は、俳句を完成させたいとの感情でみちのくを歩き、五感器官を磨いて見事な実体を創って俳句を藝術の域にもっていった。

 正岡子規は逆に、実体が病気(結核)になり、寝ているばかりで五感器官が鈍り、結核の感情となって妹に辛くあたり、ボロの俳句しかできなくなった。子規の俳句を褒める人はどうかしている。あんなのはせいぜい新聞の見出しだ。

 立派な歌人になりたければ、例えばランニングや縄跳びをやって、体を創り、草むしりやジャリ道をあるいて五感器官を鍛えなければならないが、それは歌を詠むという感情が実体を創るためでなければならない。それが人間なのであるから、そこを解明しようともしないで、人工知能でも小説や詩が創れると思うのは笑止千万である。

 藝術は人間の認識を鑑賞に耐えるレベルで外化したものだ。ここでは短歌を例に説けば、その短歌を読み聴きすることで分かるのは、歌人の生まれ育った認識の生々発展の量質転化した認識が外化したものである。
 その短歌から歌人の認識に迫りたければ、一般教養を知らねばならない。その歌人の人間関係、好悪、運動のありよう、学歴、食い物などを踏まえていないと作品は十分に味わえない。

 友人関係も当然にその歌人の作品に現れる。先に五感器官の生育と言ったが、友人関係も五感器官で創られる。その見事な五感器官で外界を反映するのであり、それで創られた認識が作品に現れるわけだ。いったい人工知能が、五感器官を鍛えたり、一般教養を身につけたり、友人関係を創ったりできるのか? おいおい。

 それが藝術一般であるけれど、短歌や俳句の場合は「もの」や「こと」を一息で、あるいは二息で表現する形式なので、要は(桑原武夫が言ったように)第二藝術になる。
 松村正直はおそらく、現在の日本歌壇の考え方というか作風が、二条派から来ることを知るまい。二条派とは、勅撰和歌集でいうと、古今集、新古今集などの主流となってきた歌風で、別の言い方をすれば鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての、南朝側、大覚寺統側、後醍醐院側が主とした歌作の考え方である。

 それにアンチを唱えたのが、京極派であった。こちらは持明院統、北朝側であり、歌人としては永福門院、光厳院、花園院らである。彼らが遺した勅撰和歌集が「玉葉」と「風雅」であった。
 日本の和歌の金字塔はこちらの京極派の歌人たちの作品であるが、南北朝の戦乱の影響で廃れてしまった。
 さらに明治期に政府と皇室が南朝正潤説を採用して、北朝を葬ったために、東大や岩波書店を頂点とする国文学者どもによって「玉葉」「風雅」は、闇に葬られてしまった。

 京極派と二条派の歌の流派に関しては、本ブログの「風雅和歌集論」を検索してご覧いただきたい。
 永福門院や光厳院の認識が、どのような豊かな感情、リアルな感情で創られたか。一方で私利私欲に固まった卑しい南朝連中=二条派の歌人の認識がどれほどボロの感情で創られたか。
 京極派「風雅和歌集」と二条派につながる「新古今和歌集」を虚心坦懐に比べてみれば明らかである。

 「風雅和歌集」の歌人に学べば、人間の認識がいかなる感情で創られるべきかが読み取れる。それが理解できていれば、人工知能にも和歌や俳句が創ることが可能か?などとする愚問が出てきようがないのである。
 
 本稿冒頭に、毎日新聞の「毎日歌壇」のページに掲載された松村正直の「月評」を取り上げるとした。
 日本には摩訶不思議な「壇」というグループがある。歌壇、俳壇、文壇、画壇など。それに新聞社や大手出版社がスポンサーとしてくっつく。外国にはこんな仲良しクラブはあるまい。

 昔は文壇の著名作家らが、「文士劇」をやらかして、アマチュアのくせにカネまでとっていた。明治からあったが、昭和になって文藝春秋社が主催し、三島由紀夫や大岡昇平までが出演した。子供ながら知って、アホかと思ったものだった。
 和歌や俳句を作ろうとする人が、誰かに師事して学ぶことは否定しないけれど、「歌壇」だの「俳壇」だの、徒党を組む必要はない。

 新聞やテレビもこれら「なんとか壇」と同じで、記者クラブを作って群れたがる。これらの最大の特徴は、お仲間うちの空気を壊さないこと、これである。
 マスゴミは誰からも何も言われない(批判されない)報道を目指し、歌壇俳壇なども仲間内で批判されない程度の付き合いを目指している。

 そんなことで、マスゴミならマスゴミで、社会の病巣を命懸けて抉りだすことができようか。歌壇俳壇では、松村の言うような「人間とは何か」「人間は如何に生きるべきか」を抉りだすような作品を創作できようか。

 例えば、至高のレベルではないにしても、はすみとしこ氏の『そうだ難民しよう!』とか、『余命三年時事日記』とかを評論するマスゴミは皆無である。ベストセラーになっている本なのだから、堂々と、褒めるなり批判するなりすればいいだろうに、マスゴミはやれない。歌壇、俳壇も当たり障りない作品ばかり。「そうだ難民しよう!」のような刺激的和歌を創って投稿したら、絶対に掲載されまい。

 やつらは言うなれば「共同体」の秩序、空気を壊されないようにだけやっている。
 だから、誰からも何も言われないように、恥部は隠し、臭いものに蓋をして、平気でいられるのである。その証拠の一つとして『風雅和歌集』が歌壇に無視されている事を挙げたのである。
 人からどんなに後ろ指を指されようとも、「人間とはを問うとはこういうことだ」と、人類史の高みを踏まえて、言うべきことは言う人間でなくて、どうして「文學者」と言えようか。





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2016年04月27日

松村正直の誤解 〜人工知能で藝術はできるか(1/2)


《1》
 毎日新聞2016年4月18日付の俳句・短歌のページに、松村正直なる歌人が「短歌月評」を寄せている。題して「人間とは何か」とあるので、「大きく出たな」と、やや興味をそそられて読んでみた。しかし…何が「人間とは何か」だ? まったくわかっていなくて堂々原稿を書くものだ。

 「人間とは何か」とテーマを掲げたら、自分なりの答えを出さなければ文章とは言えない。これから歌壇でも人間とは何かが議論されるだろう、と、それだけ。
 それにウソばかり垂れ流すサヨク毎日新聞に、平然と寄稿できる神経がわからない。

 わざわざ取り上げるほどレベルではないが、人間とは何かの一例として今回は論じてみる。
 松村が言うのは、昨今、人工知能の「アップル碁」が囲碁の棋士を破ったことにひっかけて、この出来事は「人間とは何かを改めて考えさせられるものだ」と述べている。で、歌壇でも短歌と人間をめぐる議論が賑やかなんだそうだ。

 それで彼はいくつか短歌を例にして述べた後、「現在、人工知能に小説を書かせる試みが既に始まっていると言う。やがて人工知能が優れた短歌を詠む日も来るかもしれない。私たちはそれをどう受け止め、どう評価したら良いのか。短歌における人間とは何かが、その時、厳しく問われることになるのではないだろうか。」と結んでいる。

 申し訳ないが、嗤っちゃった。
 東大文学部独文科を卒業しておきながら、ずっとフリーターをやっていたという経歴の持ち主。やっぱり東大か…と納得できるものがある。像で考えられないで、言葉で考えているからだが。それに、東大で国民の税金を莫大に費やして勉強させてもらって、フリーターとは呆れる。ならば費用を全額返納すべきだ。
 人工知能がなぜ囲碁とかチェスで人間に勝てるようになったかは、むずかしい問題ではない。また、人工知能が文學作品や藝術を創ることができるようになるか…も、答えは簡単である。

 最近、本ブログで続けて説いてきているように、人間は認識が感情になる(ならねばならない)存在なのである。それが人間の人間たる所以である。言うまでもなく、機械(人工知能)は感情がない。囲碁やチェスは、人間がやれば感情に左右されるが、人工知能は感情がないのだから影響されない。人工知能は、感情抜きに記憶して、それをゲームで使うだけだから、人間より圧倒的に記憶容量が大きくできる分、「手」というものがたくさん持てる。

 人間は感情があるから、負けたらどうしようとか、今の手は失敗だったなとか、機械に負けたら恥ずかしいとかの感情が沸き起こるのは避けられない。人工知能はそんな感情はないから、ゲーム程度なら有利である。人工知能にとっては勝負は勝負の「いわば像」しか創れない。人間は勝負の像にとどまれないのだ。

 例えば、相撲でも、横綱であっても優勝がかかった一番とかなら、感情に左右されるから、普段の力がだせずに平幕力士に番狂わせが起きたりするであろう。
 横綱が立ち会う瞬間に、彼の脳細胞にいかなる像が描かれるか。負けて砂まみれになって恥ずかしい像とか、親方に怒られる像、新聞記者にしつこく尋ねられる嫌な像が浮かぶのであり、そうなると力が出せずに負けることにもなりかねない。人工知能はこうはならない。

 感情のない機械と、感情豊かな人間が囲碁の勝負をすれば、人間はその感情ゆえに普段の力もだせずに負けることが生じる。それだけのことである。
 一方で藝術は、人間だけが創造し鑑賞できるもので、感情そのものと言って良いほどの存在である。
 その感情は、人それぞれ、育ち方も違えば教養も違い、いわゆる機械的に判断できるものではない。

 桜の花を見ても、湧きおこる感情が絶対に人は一様にならないのである。人工知能には、桜と入力したら「きれい」とか「はかない」とかの単語が返って来るように操作はできるかもしれないが、もともと別のものを(記憶させて)引き出せるようにしかできまい。
 再三言うように、人間の認識は感情と「直接」に創られるのである。

 桜の例でいえば、万葉時代の人が桜の花をみての感興(像)と、平成の私たちの像が同じではない。万葉の時代のほうが、像の深みがあったことは大いに考えられる。厳しい寒さから解放される春の喜びは、現代ではさほどない。この深みも、人工知能はゲームなら関係ないが、藝術は捉えられない。

 くり返しになるが、赤ちゃんにお母さんが、「チューリップがきれいね」と言いながら、言葉(認識)と感情を不可分に教えるのである。チューリップを見たら、それがなんであるかがわかる(認識する)だけでなく、「嫌いだ」とか「美しいな」とか、さまざまな感情が切り離せずに湧いてくる、それが量質転化して認識と感情は直接の関係になる。それが人間である。原基形態である。

 コンピュータにはこの認識と感情を「直接」に覚えさせたり、変化させたり、使わせたりすることはできない。受験勉強も恐ろしいことに、認識が感情にならないで創ることができる脳になる。





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2016年04月26日

認識を感情にするとは(2/2)


《2》
 本稿ではややテーマとずれるので昨日は書かなかったが、感情を創るには五感覚器官が生き生きと働かなければならない。感覚器官が鈍く育てば、感情も豊かにならず、感情薄い人間にしかなれない。受験勉強一直線だった子供は、この五感器官を磨くことなく育つから、逆にすぐキレたりするし、人の気持ちがわからない人間に成り果てる。

 さて、話を戻す。
 万人と仲良くしていたら、感性は磨かれない。日本人はブタ小屋を拒むし、嘘つきとは仲良くしないことで感性を磨いてきた。つまりは認識がまっとうに感情となるように、先祖代々取り組んできたのである。
 
 私の両親は、生前、絶対に老人ホームには入らないと言っていた。そのとおりに自立していた。そういう両親に育てられて私は本当に感謝している。
 老人ホームに入るにも事情はそれぞれあるのかもしれないが、あそこはブタ小屋である。老いたからとて、よくあんなところで暮らせるものだ。

 他事ながら、天寿堂の稲村氏はあるブログのなかで、人を揶揄したり揚げ足をとったりするしかできないブタと熱心に(仲良く?)論争している。「ブタに真珠」の諺があるように、いくら学問を説いてもわからない者はブタなのであって、それと仲良く関われる神経が私にはわからない。相手を嘲笑することしかできなくて、嘲笑できる自分のほうが頭がいいと思いこんでいるクズと会話ができるとは。

 わが流派では毎年カレンダーを創って会員に配布している。皆さんにお見せできないのは残念であるが、今年には初めて、武道哲学創始者たるわが師の写真が掲載された。まさに居合刀を抜かんとする瞬間を捉えた見事な写真である。
 その白く光る刀刃にはいわゆる殺気があふれ出ている。見る実力がある人がみないとわからないとは思うが、これぞ刀刃にもすさまじく意識がこもる実例でもある。まさに達人のオーラが出ている。

 見せられないで説くのはむずかしいが、そこから認識がどれほど研ぎすまされているレベルか、あるいは今回のテーマでいえば、「認識が感情になっている」かが、捉えられるのである。私はカレンダーを見て興奮を禁じ得なかった。
 この殺気を帯びた刀刃から、敷衍的にいうなら、これが弁証法なんだなとか、学の高みなんだなとか、認識学の実体化とはこれだなとの感想が浮かんだことであった。

 この認識が感情になっているレベルのすさまじさを知らず(知ろうともしないで)、弁証法ってこんなもの、とか、役にたたないとか、哲学の一種でしょとか、揶揄的言辞を弄ぶ連中は論外である。なんにもわかっちゃいない。

 われらが師を、マスゴミに出ていないくせにとか、有名じゃないからたいしたことがない、と低く見る向きがあるが、マスゴミのようなブタ小屋を拒否してきたからこそ、師はこういう認識の高みを獲得したのであって、ただ居合刀を振っていれば到達できた境地ではないのである。
 
 ブタと付き合うことはブタ小屋に入ることだ。そこで恐ろしい相互浸透が起きる。ブタを熱心に説得しようとすれば、己れの感情をさて置いて…、にならざるを得ない。レベルを下げて相手にしなければいけなくなる。そんなことをしていれば、學問とか藝術とかで最高峰をめざそうとの志がある者なら、一気に落ちるのである。

 4月14日のブログで作家・絲山秋子の愚かな見せ物芸を批判したところ、意外にも「この記事はわかりやすい」とコメントを幾つかいただき、かえって戸惑ったけれども、絲山秋子の場合も公開書斎なんかやれば認識がズンだれる。大衆に合わせた認識に落ちる、と言いたかったのだ。ブタ小屋に入る恐怖がないのが信じられない。

 話を稲村氏に戻せば、彼はどんなブタであっても論争することで勉強になることがあると言いたいだろうが、ブタと付き合うことで落ちる恐怖がないことは恐いことなのだ。そうではなく、学問を目指すのなら、屹立していなければならない。そうでなければ認識は磨かれない。そのことを、先に紹介したわが師の居合抜刀の写真が説いている。

 指導とは、相手の要求に応えるだけでなく、本当は相手が本来要求しなければならないことに応えることなのである。わが師の居合抜刀の写真こそ、弟子に居合のすごさを教えているだけでなく、本当はお前たちもこういう高みが分からなければいけない、この高みこそが学問であり認識学である、と応えているのである。その二重構造がわからなければ話にならない。

 一流の学者たるもの、一流の藝術家たるものは、社会に屹立することで、あるいは周囲を睥睨することで、言葉でいくら説いても及ばない「高み」を後進のものに教え悟さねばならないのである。まして、稲村さんの論争相手は、はなから稲村さんの説くところを理解する気がかいもくない相手なのである。
 国会でいえば、元民主党が旧社会党よりひどい「反対のための反対」とか「政権が憎い」だけの感情的対応で、国家とはをわかる気がないのだから、心底国民からバカにされている。それがわからない元民主党と似ている。

 戦時歌謡に「愛国の花」があった。一番は「真白き富士の気高さを 心の強い楯として…」となっている。知らない方はどんな歌かネットで探してください。日本人は古来、富士山をただの高い山とは見ずに、精神性の高みの象徴として捉えてきた。この歌詞もその気持ちを見事に捉えている。富士山は聳え立っているからその精神性の高みの比喩足り得てきた。人間もかくありたしの儀表として日本人は仰ぎ見てきた。

 それが支那人旅行者ごときに汚されるのは耐え難いことだが、その威厳は失われていない。変な譬えだが、富士山は周囲の山と仲良くしていないではないか。「人もかくあれ」なのである。
 また国会の例で言えば、政権はもっと屹立しなければならないのに、議会が大事、民主的でないと…、仲良く話し合って…、になっているから、政治が落ちたのである。
 バカと話し合えば落ちる。本来は屹立して、ブタを睥睨する存在たらんとするべきである。

 またいくつか例を挙げるが、クルマで言うなら、一千万円もするジャガーとかベンツとかの格調高い乗用車と、百万円もしない大衆軽自動車と、どちらと相互浸透したい(乗りたい)とあなたは思いますか? 軽自動車に乗れば、軽自動車の感性が相互浸透するのである。
 ベートーヴェンの音楽と、SMAPの歌と、どちらが聴きたいですか?SMAPの歌は、人によっては楽しいというだろうが、ブタですよ。

 高級車、ベートーヴェンの音楽、これらこそが、認識が高いレベルで感情になっている実例なのである。自分の認識が、SMAPの感情になるのがいいか、ベートーヴェンの感情になるのがいいか。選ぶのはあなただ。
 セブンイレブンにエロ本が置いてあるのはいけないと書いたら、置いてあった方がいいというコメントが来たが、コンビニにエロ本があるのは平気な感情で認識ができている馬鹿な男なのであった。

 先日取り上げた保科正之は、屹立した政治家であり、指導者だった。ものごとを議会に図ったり、多数決で決めたり、目安箱を設けたりはしなかった。ブタと交わらないから、優れた業績を残したのである。

 東京オリンピックのエンブレムも、ブタのデザイナーになあなあで依頼したから、盗作問題を起こして世界に恥をかいた。
 佐野なるご仁を見れば、粗末な認識しか持っていないことが服装、顔つき、話し方などから見てとれるのに…。
 やり直しでも、これまた一般公募。その手続きがまったくのブタである。五輪の委員会は大衆の知恵を集めれば、いいデザインが見つかると思っている。そうではなく、これはという認識が感情になっているデザイナーに任せれば良かったのである。そういう優れたデザイナーがいるかどうか、だけれども。
 




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2016年04月25日

認識を感情にするとは(1/2)


《1》
 幼稚園児が、「○○ちゃんが好き、結婚する」とよく言うが、これを本気で恋愛しているとする大人はいない。恋愛感情は思春期過ぎなければ、いわゆる本物ではないことは誰でも知っている。
 幼児でも、知識としては異性が結婚するとか、恋人になるのは知っていても、いささかも「感情」でわかっているのではないことも、誰でもわかっている。

 赤ちゃんが成長して友だちと関わることができるようになり、好悪が芽生えるわけだから、これは立派に感情が育ってきたのである。母親は赤ちゃんのときから、「ほらチューリップが咲いている、きれいね」とか「ワンワン、かわいいね」などと働きかけて、知識と感情を「直接に」(切り離すことなく)教える。

 だから徐々に、子供は認識が感情になるのだ。これを「人間は創り創られて人間になる」というのである。人間として身につけなければならない認識の基礎である。

 しかるに、教師たちは小学生が英語を習うとか、中学の勉強をする(飛び級もそうだが)ことに疑問を持たない。
 小学生には、算数でいえば「鶴亀算」や「流水算」で、現実にあるもの(子供にわかるもの)、鶴や亀や川で計算を覚えるのが正しい。それでもむずかしいが、まあいいとしよう。代数を学ぶのは中学からになっているが、どうせ代数をやるんだから、小学校でシチめんどくさい鶴亀算なんかやらなくていいじゃないか、とする見解がある。

 小学生にいきなり代数を教えることがなぜ間違いかといえば、認識が感情にならないからである。中学校で代数の論理を理解することは大事だが、式をただ当てはめて計算が合うだけの作業をしていれば、与えられた答えを覚えるだけの人間になっていく。これが秀才だ。
 ここがなかなか教育研究者にわかっていないことなのだ。

 認識は感情にならなければいけない。そうなっていない人間は、むやみに感情的になったり感情が薄くなったりする。知識だけはやたらに増やせる秀才になる。花を見ても心からきれいだなと思えず、小鳥のさえずりを聞いてもうるさいだけ、になる。

 ずいぶん昔(パソコンのない時代)、テレビ朝日が日曜日にやっている「新婚さんいらっしゃい!」という大衆番組を何度か見たことがあった。今でも放映しているらしく、大変な長寿番組だそうだ。
 そこに出て来るカップルで、新郎が東大や京大を出ているとか、医者なんかであると、例外なく見事に共通して感情が薄いのが見て取れ、唖然とした覚えがある。

 皆“秀才”であるが、人間の出来損ないで、女性を前にどうしていいかわからない、女性から誘っているのに手も出せない、キスの仕方も知らない、まして…という経験を新婦のほうがしゃべり、司会の桂文枝があきれる場面が幾度もあった。男女がどうするのか知識はあるようだが、実際にお手上げなのである。
 男だったら女を押し倒せよ、と思うが、そういう感情になれないまま。

 これが、先に言ったように、小学生に中学のことを教えてしまったがために、認識が感情にならずに大人になってしまった、あわれな現実であった。
 小学生に中学のことを教えるとは一例であって、深刻なのは小学校から受験勉強に没頭する弊害である。受験勉強では、認識に感情を入れない、入れない方がむしろ機械的に覚えられる、ひたすら言われたことを暗記するだけ。その脳の働きが量質転化する。

 『ゼンダ城の虜』とか『スカラムーシュ』を読んでも、どきどきワクワクしない人間になり果てる。
 
 以前、これも東大出の秀才であった経済評論家・植草一秀のことを取り上げたことがあって、彼は若い頃、失恋しても悲しいと思わなかったと書いていたのである。さもありなん。これが秀才君なのだ。男女の付き合いが感情にならない。だから失恋しても悲しくはならないで、ケロッとしている。

 こういう人間がサヨクになるのは必然であるが、経済のこともわかるはずがない。経済はいわば生き物で、現実そのものであり、かつ、人々の感情で動くのである。消費税ひとつとっても、東大出の“秀才”は数字しか頭にないから、税が8%から10%にあがるときの事実に関わっての人々の感情がわからない。円高になるのも、感情が関わっている。

 マルクスは資本論を書いたが、事実として(感情をともなって)資本がわかっていなかったのである。会社のひとつも経営してみれば事実として資本が反映したろうに、本に埋もれているだけだった。道徳レベルで資本家が悪いとしか言えなかった。
 認識を感情にしないまま、道徳論で社会を分かった気になった災厄が20世紀に荒れ狂ったのである。

 『共産党宣言』は、「一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている、――共産主義という妖怪が。」という有名な文言ではじまるが、まさに、道徳でものごとを見るだけの恐るべき「妖怪」が世界を戦乱に巻き込んだ。おかげで何千万人も人々が殺された。

 東京大学の経済学部がマルクス経済学に昔から席巻されつづけているのは、徒弟制度のせいもあるが、あそこはみんな受験秀才の集まりだからである。本で経済がわかるつもりになる頭になっているから、事実に基づかないマルクスの経済が受け入れられやすい。
 植草一秀も東大経済学部の出であるから、たっぷりマルクス主義の手垢にまみれ、あげくに「安保法制反対。九条守れと」たわごとを口走る。
 実に、本を読めば空手がわかり、闘えると思うような連中。

 ために東大経済学部の者は、実態の経済が理解できないとされ、財務省には入れないのである。入れたとしても始めから出世できない。国家の財務を担うのが、あ〜ら不思議、東大法学部卒になっちゃう。日本にとって不幸なことの一つだ。

 サヨク一般を、植草の例で挙げたけれど、受験秀才のなれの果ては、認識が感情にならない脳の質をつくりあげてしまったのだから、どうしても現実をわかる実力が乏しい。
 憲法研究者どもも、見事に認識が感情になっていないから、道徳でしかものが考えられない。「民主主義」もうっかりすると、国会前で「安倍嫌い!」「戦争反対」と騒ぎたてることと勘違いする。

 「憲法9条を守りたい」なんかもまさに道徳論でしかない。大東亜戦争を侵略という(それもアメリカに押し付けられた概念で)道徳的理解しかできていない。大東亜戦争がなかったら、支那やアジア諸国は植民地のままだったに違いないのだ。学問をはかない道徳で見てはならない。

 アメリカも学問(体系)ができない連中だから、テメエに利が得られる低度の道徳でしかものが考えられない。だからせいぜいプラグマティズムになるだけ。それを大東亜戦争の後に日本に押し付けたのだ。勝手に日本を侵略国だと言って、道徳的観点で非難した。戦争を道徳だけで判断してはいけないのに、あいつらは学問ができないから分からないのだ。

 以前、本ブログでアレキサンダーやナポレオンなどがなぜ英雄とされるのかの「構造論」を説いたことがあった。彼ら英雄も、道徳でみれば侵略者、大量殺人者でしかなくなる。彼らの伝記をワクワクして読むことができない。彼らを感情的道徳論で解釈するのではなく、人類の歴史を学として捉えるから「英雄」であるのに…。

 くどく言うが、認識が感情にならずに、いわば別々のものと思い込んでいるから、自分の都合のいいものだけを感情としてしまう。別言すれば感情が薄くなっている。感情が薄いから、自分の好悪だけの道徳で対象を捉える習慣が身につく。
 認識を学とすることが考えもつかない…となる。

 実際、そうやって育ったサヨクは、実に愚かなことに、支那や朝鮮と仲良く出来る、仲良くしなければならないと思うことができてしまうのだ。認識が感情にちゃんと育っている人間が、どうしてブタ小屋に住んでいる人間と仲良くなれる?
 支那人や朝鮮人は平気でウソをつき、人を騙し、裏切り、拉致し、衛生観念もお粗末である。

 日本でしだいに彼らの実態が知られるようになって、支那や韓国を嫌う感情が日本人に戻ってきたではないか。ところがサヨクだけは、それがわからないし、わかりたくない。「友好したい」とぬかす。
 日本人は暮らしのなかでも清潔整頓をする民度の高さがある。支那人や朝鮮人に「ちゃんと尊敬される人間になりたければ、清潔整頓ができるようになりなさい」と言うべきであるのに、サヨクはやれない。これは差別でもバカにしているのでもない。学問的なレベルの話である。



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2016年04月23日

田母神疑惑に思う


 平成26年2月の都知事選に候補として立ち、落選した田母神俊雄が公職選挙法違反(運動員買収)で逮捕された。
 都知事選をめぐり、複数の運動員に報酬を支払った容疑である。特捜部は田母神容疑者らが、多額の政治資金を運動員への報酬に充てていたとみて実態解明を進める、と報じられている。業務上横領疑惑もあるが、それは取り調べてのことなのだろう。

 田母神をめぐっては、資金管理団体で、平成26年に集まった政治資金約1億3200万円のうち約5千万円が使途不明になる着服疑惑が昨年中ごろに浮上した。この政治資金のほとんどは、保守層のカンパであった。つまり田母神に期待した人たちの思いを裏切って、彼は選挙で余ったカネを、遊興費に使い、身内で(謝礼と称して)山分けし、さらに田母神の愛人女性にバッグやコートを買った疑惑も取り沙汰された。

 都知事選では彼を愛国者と信じて応援し、献金した人たちの思いを裏切った道義的責任は重い。都知事選で余ったカネを勝手に私物化して、選挙を手伝った人に「謝礼」を配るのは、彼が次の衆院選(落選した)に出るための買収行為と見られても仕方がない。そんなことを知りませんでした、では通らない。
 田母神に関しては、航空自衛隊の中からも、カネに汚いという事実がいくつも囁かれてきたという。噂の域は出ないが、あり得る。

 こういう疑惑に対して、田母神陣営は「そんなことをするわけがない」などといわば感情的に反駁して(それもツイッターとかで)いるが、収支報告をきちんとすれば簡単に疑惑は晴らせる。またそれが支援しカンパしてくれた人への責任であるのに、やらなかった。
 特捜部が目をつけける前に、この件を問題視したのは、都知事選までは保守派の同士であり、選対本部長も務めた水島聡(さとる)であった。

 水島が真相暴露として、自身のチャンネル桜でくり返し、田母神の疑惑を取り上げ、さらには昨年12月に地検に告訴まで行ったようである。それに対して、田母神側も反論し、水島は嘘つきだと言い、また水島が田母神を嘘つきとチャンネル桜で罵るという闘いが続いていた。

 どっちが正しいことを言っているのか第三者には分からない。けれど、収支報告を公開すれば話ははっきりする。
 私は、田母神はこの事件に関しては心証は黒だと思うが、水島聡も信用していない。
 どちらも人間として信頼できないのである。

 まず田母神から言うと、旧ブログで彼が例の航空幕僚長を解任されたときから、疑義を唱えてきた。問題にされた彼の「アパ」というホテルチェーンの懸賞論文が、保守層にベタ惚れされたが、あんな低度で大騒ぎするか? というほどのお粗末な内容だった。

 田母神は「日本が侵略国家だったとは濡れ衣だ」と言ったまでのことで、とりたてて優れた論文ではなかった。しかし彼が時の政府(麻生首相、浜田靖一防衛相)によって理不尽な解任をされたので、一躍スター論客になった。彼が解任されたのは、別の事情があったらしく、高山正之氏が書いている。それは後述。
 失職後、田母神は講演活動をしまくり、政治活動を目指すようになり、ついに都知事選に出たのだ。

 アンチ・サヨクの人たちが小躍りして彼を支持し、カンパを寄せている様は、どうかと思っていた。先の都知事選でいえば、朝鮮・舛添よりはましに違いなかったが、訴えている政策が地についたものではない。底の浅い評論家低度のド素人丸出しで、私はとうてい投票する気になれなかった。

 そういう田母神を、むやみに担いだ水島聡もどうかしているし、有名人が支援したことも間違いだったと思わざるをえない。こんな素人を候補にしたら、かえってまずいことになるぞと忠告する人間はいなかったのか。水島も、チャンネル桜を主催していて、保守論客を出演させ、保守層の支持で経営も成り立っているわけで、その流れで田母神を都知事選に担がざるをえなかったのだろう。

 保守論客が水島を信用しなくなったら、チャンネル桜は潰れ、彼は路頭に迷うことになるだろう。
 以前、ブログで批評したことがあるが、水島が監督した「南京の真実」という映画を只だったので観に行ったことがあった(2008年5月)。

 「南京の真実」と言いながら、「この映画は南京の映像は少し出てくるものの、処刑直前の7人の様子ばかりが前面に出てしまい、なんでタイトルが『戦犯7人の最後の24時間』といったものではなく、『南京の真実』なのかさっぱりわからない。この映画は水島総監督の思い込みで構成されている。自己満足だ。さもなくば、ある種の保守愛国者の人におもねった創りでしかない」と書いておいた。

 映画を観始めて5分で外に出たくなったことを思い出した。
 「南京の真実」と銘打てば、保守層は「やっと南京虐殺なんかなかったというまともな映画が世に出るのか」と期待したろうが、それは裏切られた。
 要は水島は、映画を作るにあたってカンパを募ったが、サブタイトルの「7人の死刑囚」ではカネが集まらない、「南京虐殺」を匂わせればもっとカンパが集まると踏んでやったのではないか。

 それどころか、これは3部作にすると水島はぶち上げ、3億数千万円とかをカンパで集めた。第一部の制作費には五千万から六千万円かかったと思われる。ところが以後、第二部も第三部も音沙汰なし。関係者がどうなった? と尋ねてもだんまりを決め込んでいる。
 水島は尖閣諸島に行くために船を買いたいと言って、これも数千万円カンパを集め、千数百万円で一隻買ったものの、残りの資金が消えている。

 これは推測だが、チャンネル桜の経営も楽ではないようで、カネは欲しいのだろう。にしてもあの醜く太った体から想像すると、カネは潤沢にあると見てもよかろう。

 田母神の支援者の1人、諸橋茂一(しげゆき 金沢市の建設業KBM代表取締役会長)が、YouTubeの動画で、水島を罵っているものを偶然見た。
https://www.youtube.com/watch?v=DccGlm4bOto&spfreload=10

 諸橋は著名人ではないが、田母神の都知事選のときに張り付いて応援していたそうだ。毎朝、選挙事務所で朝礼をやるとき、選対本部長の水島がボランティアのスタッフに対して、実に態度が悪すぎたと言う。偉そうに横柄ものを言うことは絶対にしてはならない、譬え部下であっても、そんなものの言い方は良くないと注意した。

 その後も、水島は田母神候補の本部長として応援に出ていたが、街宣車に登って演説をする際、司会者の立場なのに、田母神を差し置いて30分もしゃべり続けたそうだ。知らない人が見たら、都知事選に出ているのは水島か、と思うのではないか、というくらい。

 また、諸橋は今度の田母神に金銭疑惑があるとするなら、選対本部長だった水島にも統括責任がないわけではない、と語っている。それはそのとおりで、私も、水島がやばくなったから急に自分は知らない、全部田母神と事務局長・島本が悪い、と言い出しているような印象は受ける。

 たまにYouTubeでチャンネル桜の番組を見ることがあるが、水島聡は話し振りがガサツで醜悪である。しゃべることの整理ができない状態でダラダラ言っている。
 自分だけがわかっていて、視聴者にわかりやすく伝えようと言う意志がまったく見えない。どこかで会話術でも教わってきたほうがいい。というより、根っから傲慢で、「俺が、俺が」なのだ。
 座談会を称して人を集めておきながら、自分ばかりとうとうとしゃべり続ける非礼をいつもやっている。

 だから、諸橋が言う水島批判は的を射いていると思う。しかし、事はそういう人物批判ではなく、田母神陣営のカネの出し入れの説明である。司直は人格を問うてきているわけでもなく、水島と田母神のどちらが本当を言っているかでもない。不明朗なカネの流れを問題にしているのだから、諸橋もそれに関して(知っているなら)答えるべきで、ここで水島の人格うんぬんはスジ違いである。

 水島にもカンパしてもらったカネの収支が不明朗なら、それはそれで追及すればよく、ぜひやってもらいたい。ただ、田母神と水島の不始末問題は相殺される話ではない。

 評論家の三橋貴明は、チャンネル桜の番組で、自分も都知事選のときに田母神を支持し、カンパもし視聴者に田母神に投票してくれと言った責任を感じていると語っていた。
 三橋と同じように、おそらくチャンネル桜に登場する保守派の論客たちも半分水島への付き合いであっても、田母神にカンパしたり、視聴者に応援よろしくと依頼したりしているだろう。

 その人たちは、今回の田母神事件をどう思うのか、どう責任を感じるのか説明すべきである。カネのことはわからないとか、真相は司法の手でなどと言うべきではない。自分が田母神や水島の人間性を見抜けなかった不明を恥じるべきだ。

 以前、評論家・高山正之氏が週刊新潮の氏のコラム「変見自在」に、田母神俊雄が空幕長を解任されたときに、その内幕を暴露していたことがあった。
 「防衛省の内局、つまり役人は守屋武晶次官を筆頭に、みな腐っている」と。防衛省内であまりに汚職が蔓延っていたのだ、と。
 背広組(内局)は「悪いことはみな制服組に押しつける。内局の悪い癖です」とも。

 逮捕起訴された守屋次官の後任の増田好平次官は、汚職防止のビデオを作って、そのドラマの登場人物は制服自衛官にした。
 増田は就任の際、陸海空の幕僚長を呼びつけて、そのビデオと同時に「自衛官は汚職まみれだから綱紀粛正するように」と申し渡した。それに田母神空幕長が反論した。それは汚職をやる内局に言えばいい、と。

 それが田母神解任の原因で、増田は報復に出た。俺に逆らうとはなんだと意趣返し。“論文”はさして問題ではなかったのだ。
 「田母神空幕長は統合幕僚長に昇任する予定だったのに、増田次官は人事を見送り、田母神の定年を待って次の統合幕僚長人事をやることにした。内局は、これが文民統制だと思っている。」
 
 これが役人の卑劣さであることは、とりたてて証拠を探さなくても、常識ある一般社会人ならわかるものだ。軍隊はどこでもこんなものではあるが、わが国の場合は、支那や南北朝鮮の工作が入っているはずで、田母神事件にもそれはあり得ると思う。





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2016年04月22日

竹パウダーで増毛


 男の頭髪は、年取ると禿げるか白髪になるかのいずれかとなって衰える。私としてはハゲたくない、白髪で済ませたいと願ってきた。父親は禿げなかったが、90歳過ぎてさすがに白髪になり薄くはなってきた。だからどうか自分はそれが遺伝してほしいと切なる希望を抱いてきた。
 
 昨今は白髪になってきたが、ハゲてはこないので、安心はしていたが、それでも床屋に行くと、昔はすきばさみを使っていたほどだったが、どうもすきばさみが使われない。洗髪したあと、ドライヤーをあてて乾燥させてくれたが、最近はタオルで拭くだけであった。

 なんとかこれ以上髪が抜けるのを阻止したいと思って、と手当を始めたのが、半年前。
 整髪料などは昔から一切使わないできた。自然のまま。洗髪も石鹸だけ。
 だから髪が薄くなっても毛生え薬なんか振りかけるつもりはない。

 どうしたか。
 竹の粉(パウダー)を適当に(1日か2日に一回程度)頭に振りかけてしっかり頭皮をマッサージするのである。
 半年ほど経ったと思うが、見た目にも触った感じも、髪が増えているのがわかるようになった。
 床屋に行くと、整髪後にドライヤーをかけて素早く乾かしてくれるようになった。

 これから先どうなるかはわからないけれど、確実に髪が増えたことに驚いた次第である。
 竹パウダーが良いと説くのは、療術家の柳原能婦子さんである。柳原さんのDVDを見ていたら、それがあった。
 彼女自身も髪が増える効能を知らずに、竹は生命力がとても旺盛だからと病気の治療のために頭皮に振りかけてマッサージすると良いと、患者にそのやり方を講習しているうちに、ドッと髪が増えたことを発見したそうだ。
 彼女は女だし、髪が薄かったわけではないが、竹パウダーを「こうやるのよ」と教えるために自分の頭髪に振りかけているうちに、林のようにぼうぼうになった。

 それで竹パウダーが髪を増やす効果があることを発見したのだ。
 ご存知のように、頭には多くのツボがある。例えば、心臓のツボ、肝臓のツボなどが分布している。専門家はそこへ指圧したり鍼を打ったりすることで治療するわけだが、竹の粉でマッサージすると簡単にツボを刺激できるというのだ。竹パウダーを振りかけるときは、髪は乾燥させ、水や整髪料はつけない。

 指圧や鍼以外の方法として、髪をまとめて(わしづかみして)グーッと引っ張るのも良いとされる。できれば頭皮に直角に。
 髪1本を引っ張ると抜けるけれど、束にして引っ張ると、十分に頭皮のツボが刺激される。
 ついでながら、みなさんは「子連れ狼」という時代劇ドラマをご覧になったことがあるだろう。あれに出て来る大五郎少年のヘアスタイルを覚えておられようか。

 坊主のように頭を剃っているが、頭頂よりちょっと前くらいに髪を少し残してある。なぜ子供がそんなヘアスタイルかというと、江戸時代では子供が鼻血を出したり、引きつけを起こしたときに、あの残してある髪の毛を引っ張るためである。それで治る。
 おそらく、髪の毛を引っ張る治療法が民間に伝わっていたのだろう。

 頭を押す(指圧する)だけでなく、引っ張るのもツボを刺激して有効だというのだ。それゆえ、みなさんもちょっと疲れたとか体調が悪いと感じたときに、適当に髪の毛を引っ張っていると良い。どこの部分が何に効くとするポイントはあるようだが、ざっと、まんべんなく髪をつまんで引けばよろしい。気持ち良い程度に引っ張る。

 ネットで調べれば、髪を引っ張る治療法がいくつも検索できる。
 例えば以下。頭痛に良く効くと書かれている。
 http://riraseko.exblog.jp/18246443/

 髪の毛を引っ張るだけでなく、竹パウダーを振りかけてマッサージするのも良く効くと柳原さんは説いている。頭も凝るので、マッサージすればほぐれ、血流もよくなるからだろう。
 
 その竹の粉は市販されている。竹を超微粒子レベルに(パウダー状に)粉砕したものだ。本来は、肥料用・土壌改良用やゴミ処理用(ゴミの消臭に有効)、害虫駆除、家畜の餌なので、ロットが大量である。髪に振りかけるなんてことはネットにはない。
 私は以下の「ゆめ竹」で買っている。少ロット(2キロ)で販売している。試すには手頃だ。
 http://takepowder.yaokisangyo.jp/

 ほかに、柳原さんはDVD のなかで、手足の梗塞している患者の動かない患部に竹パウダーを振ってはよく摺り込むようにマッサージをくり返していた。さらに腕を動かしてやることで、曲がったままの腕が動くようになっていて驚かされる。
 竹は筍からすくすく伸びて青竹になるスピードがすさまじい。それだけ生命力が強い植物だという。それに人工添加物も入っていない。おそらく優れた磁性体なのであろう。

 食べられるようだが、ぬか漬けに加える程度にしたほうがいいようで、ヨーグルトに入れて食べた人が、舌がざらついてダメだったと言っていた。パン用の酵母を作るにも有効らしい。




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2016年04月21日

「歴史の底を流れる大海流」とは(2/2)


《2》
 「夏子の酒」のなかで、夏子と杜氏見習いの草壁が、日本一の酒蔵である福井の「美泉」を訪ねる。客間に通された二人が酒づくりの秘訣を乞う場面がある。問われて、美泉のベテランの一流杜氏は、若い草壁青年にこう言う。

 「秘訣なんてものはありませんが…。草壁さんは蔵ではどんな役で?」と上座に座る草壁青年に訊く。
 草壁青年が「まだ、ハタラキ(酒蔵での下働きのこと)です」と答えると、
 「わしは古いんでしょうかね。昔は母屋の座敷なんぞ蔵人はおろか杜氏だってめったに入れなかったです。ましてハタラキが蔵元をさしおいて上座に座るなんて…。それだけでお払い箱ですわ」と、客然としていた草壁を厳しく叱るのである。
 「これは格式というもんです。わしには蔵には格式が必要だと思っとります。酒蔵がただの企業になり、蔵人がサラリーマンになったら、酒造りはできません」   

 そこで若い杜氏見習いの草壁青年は、自分の態度を恥じて謝罪する。これは良い場面だった。そのあと、草壁とベテラン杜氏が二人きりになると、杜氏は「草壁さん、酒造りは蔵元と杜氏の二人三脚だ。蔵元を大事にしなさい。それは技術以上に大切なことだ」と諭す。

 草壁青年が「美泉はなによりも蔵元と杜氏の息が合っているわけですね」というと、杜氏は「教えられることばかりだ。格式なんぞという言葉も社長から教わった。蔵には格式が、杜氏にはプライドが必要だとおっしゃった。わしから出稼ぎ根性をぬぐいさってしまわれた」と答えるのである。

 この尾瀬あきら氏の創作した場面は、私にはこれが日本酒が至高のいわば芸術レベルへと到達した謎解きだと思われる。どぶろく造りをしていた日本原住民系の農耕民たちは、初めは奴隷的な労働を強いられたであろうが、なかにはそうした奴隷根性、出稼ぎ根性を反省していく者が現れるのである。

 それを促したのが、一つは観念的に対象化したところの神様からの規制であり、もうひとつは貴族の把持した「格式」や「プライド」であったはずである。つまり、先ほどから言うように、格式とは? のようなレベルの高い「問いかけ」をするようになったからこそ、名酒が生まれた。格式を観念的自己疎外とすることで発展ができたのである。

 これは和歌や茶についても同様である。また、再三言うように、白人どもにとっては「聖書」がそれであった。自分たちが創った規範が自分たちを規制してくるシステムを確固として築いたのが、彼らの発展の礎だった。白人たちが創った音楽や絵画、文藝なども当然、そうした自己疎外の軸があったればこそなのである。

 史上、イエスなる人物もパウロだのペテロだのも実在しない。ローマ帝国の為政者たちが、統治のためにでっち上げたものにすぎないが、それでも観念的に対象化した宗教を考え出したのは、画期的だった。

 私は貴族特権階級が嫌いで、本ブログでも貴族はバカで残酷だという話を書いてはきたが、それは彼らのマイナス面であって、プラス面を評価すれば、それは「格式」や「プライド」に彼らがこだわった面である。王者にふさわしいかどうかの問いかけ、である。この良い面との相互浸透を意図的に起こした(学んだ)ればこそ、日本は世界に冠たる独自の文化を構築できたのであり、酒もまたしかりなのであった。すなわち自己疎外の成果であった。

 例えばこれは、和歌がもともとは貴族の遊びであったものを、今日では庶民ですらが、彼ら貴族の文化を踏襲してきている事例を考えればわかるだろう。

 この“より素晴らしき”レベルへ、より高みへという、われら先祖の指向を見逃してはなるまい。この指向こそが先に述べた(引用した)「人類の歴史は、その歴史の底を流れる大海流は巨大なウネリを隠しもって進んでいるのである」との文言につながる。
 そこを問いかけ的に自覚することこそが(たかが酒づくりではあっても)「そこを論理的に見てとれる実力を有しているかどうかで、その諸君の人生の岐路となる」のである。

 再度引用した文言はわが流派「型」の本にある文章であったが、この文言にある「論理的に見てとれる実力」と言った場合の「論理」とは何かを復習しておきたい。
 われわれの目の前にあって、頭脳でまず反映しているのは、事実である。事物事象。

 論理とは、端的には対象の性質であるが、その事実の性質を解く人間の側の論理、その二重構造である。
 例えば、川が流れている、川面に桜の花びらが浮いて流されて行く。これは事実である。見えていること、実際にそこにあるもの、あること、である。で、その川の性質とは、水自身が流れていく性質と、ものを流す性質があると言える。他にも性質はあるが、ここでは省く。

 川という対象の性質、それを認識として捉える人間の性質の二重構造だというのである。
 タックス・ヘイブンで脱税をやらかしている大富豪がいるのは事実で、彼らがなんのためにやっているかの論理もあるが、それを見て取る側の人間には、「いや、あれは合法なんだ。外国で取引をしたらいちいちカネが銀行をあっちに行き、こっちに振込みしていたのでは手間だから創られたシステムで、良いことだ」と言う奴(金融側)がいる。これも一つの論理であって、間違いかどうかの問題ではない。しかし一方で酷税に苦しむ庶民は、「脱税」という論理を展開する。

 このように、その事実の性質を解く人間の側の論理が変化する。
 したがって、本来的には二重構造だとはいいながら、対象には性質しかなく、論理は人間がアタマのなかでスジを通すものなのである。論理といえるからには、対象の持っている性質を一般的に把握できる実力があってこそ、になる。

 川の例で言うなら、石狩川、多摩川、天龍川、鴨川、淀川、筑後川…というように、川をたくさん集めて見ても、一般的に「川」と捉えていないと、石狩川は蛇行し過ぎだ、多摩川は汚れがひどい、天龍川は早瀬が多い、などなどの特徴をそれぞれ見て、「変種」だなとか「湖のやや流れがあるものだな」とか、違いばっかりに目が行くことにもなりかねない。

 だからアタマの中でスジを通せる実力を身につけて、川とはかくかくしかじかだと言えれば、論理になる。だからより正確には、対象(川)には論理性はなく、アタマの中で捉えること、捉えたことが論理だと、こうなる。

 こんなことを人間は、ギリシャ哲学の昔から考えるようになってきて、何千年。それを主に主導してきたのが、ギリシャ、ローマ、ドイツ、イギリス…といった白人国家であり、何を隠そうわが瑞穂の国 秋津島だけだ、となる。
 
 もう一度、わが流派では『型』の本の文章を提示する。「そもそも人類の歴史なるものは、いかに堕落しきっているように思えても(見てとれても)、その歴史の底を流れる大海流は巨大なウネリを隠しもって進んでいるのである。そこを論理的に見てとれる実力を有しているかどうかで、その諸君の人生の岐路となる」
 本稿のタイトルにした「歴史の底を流れる大海流」とは、で言えば、これはより高みを目指すところの論理の獲得であろうかと思う。

 「論理的に見てとれる実力」とはかくのごときを言うのだろう。




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2016年04月20日

「歴史の底を流れる大海流」とは(1/2)


《1》
 月曜、火曜と続けて、ギャンブル依存やアルコール依存症から脱却するにはとして書いた「疎外」と「観念的対象化」について、もう少し続ける。
 これは2007年にブログに書いた「『夏子の酒』と思想性の高み」で説いた一部をもとに書き直してある。
 『夏子の酒』は尾瀬あきら氏作の漫画で、ドラマ化もされた。新潟のある酒造を舞台に、極上の日本酒を主人公夏子がつくっていく話である。酒造り一般を例に「疎外」と「観念的対象化」を説いている。

 人間の認識の誕生は、そもそも樹上生活をするサルの「問いかけ」から始まった、と『看護のための「いのちの歴史」の物語』(本田克也ほか著 現代社)に説かれている。人間の認識が問いかけ的に形成されることは必然であり、原基形態である。そこを踏まえて、われわれ人間が認識(志、思い、夢、感情…というもの)を形成するに当たっては、必ずなんらかの形で対象に問いかけることがわからなければならない。

 酒づくりも米づくりも、問いかけから始まるのであるが、その問いかけレベルの質の差によって、対象の反映の仕方(問いかけに対する答)が変わるのである。
 粗製乱造の酒を造る人間と、誰もが感嘆する酒を造る人間とでは、問いかけのレベルが違ったのだと知るべきである。

 譬えては悪いけれど、アジアとかアフリカとかで百年も千年も同じレベルの酒しか作れないでいる民族は、もっとうまい酒をとか、品のある味をという問いかけの実力を持とうとしなかったのだ。
 なぜかの謎解きを、私はそういう地域は戦乱と平和が交互に訪れることがなかったせいで、人間が起きてしまった戦乱を反映し、必死にその意味を問いかけようとしたから、認識が見事に磨かれたのだと思うと書いてきた。

 酒づくりの職人たちもさまざまなレベルの人間がいただろうが、なかには優れた問いかけをした人間も現れる。それは、賤民に落とされた人間だったからこその問いかけによって「心意気」が生まれたと考えられる。
 類似の例としてこれは、ドイツに哲学が興隆したのは、ドイツが欧州のなかでド田舎とバカにされていたから、それが悔しくてがんばったからであるし、南ク継正先生が空手を世界に冠たる武道哲学にしたのも、空手が剣道や柔道に比べて卑しいものと差別されていたから、がんばって…なのである。

 柔道や剣道は、歴史があったというより、いずれも小説によって創られた虚像(といっては言い過ぎかも)によって、大衆の人気を博したせいもあって、その人気にあぐらをかいてしまい、技論、上達論、勝負論の構築などほとんど顧みられることがなかった。これでいいのかという問いかけをしなかった。したがって、バカにされる悔しさをバネにして、己が関わる対象のレベルを引き上げる情熱が生じなかった。

 柔道、剣道、合気といった本来は武道だったものは、創始者が「偉大」すぎてその考えを後進が金科玉条にしたり、早々とスポーツにして仲良くやっていく道を選んだりした。
 ところが空手はいつまでも群雄割拠、戦国時代が続いている。仲良く和合しようとする流派もあるだろうが、一匹狼であろうと、独自に「ナンバーワン」を目指そうと研鑽するわが流派も出現した。だから発展できたのである。

 日本酒の見事さも、そういう事情を考えなければいけない。酒造りといっても、多くは大手酒造メーカーのような安く作れて売れればいいとする堕落したところだっただろうが、なかには、文化を創造するような人間が登場するものである。空手界と同じである。

 自分が劣っていて、悔しいだけではダメで、悔しさをバネにするには、どうしても仰ぎ見る存在があって、そこを一定程度は目標とするし、それを超えようとしなければ、がんばる動機足り得まい。仰ぎ見る、とは、そういう存在に対して、「なぜ?」とか「俺もああなるにはどうしたら?」というような問いかけが行われ、それゆえ相手の優れたところが反映するのだ。憎むだけではなくて、問いかけなければ、貴族文化の優れたところは反映してこない。

 わが流派では『型』の写真解説の本があって、その“まえがき”のなかに以下の文章がある。「そもそも人類の歴史なるものは、いかに堕落しきっているように思えても(見てとれても)、その歴史の底を流れる大海流は巨大なウネリを隠しもって進んでいるのである。そこを論理的に見てとれる実力を有しているかどうかで、その諸君の人生の岐路となる」と。

 この「歴史の底を流れる大海流」という表現にある、人間の“より素晴らしき”を求める意志こそが「海流」の正体であろう。
 夏子とその仲間たちは、その「大海流」を見てとれる人間だった。

 彼ら酒づくり職人の信仰の対象たる「松尾様」というのは、酒造りの神様ではありつつ、彼らにとってはその神様が「大海流」の代わりなのであろう。

 三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』には「神や仏は、人間が頭の中につくり出した空想を観念的に対象化したものです」と説き、「神や仏が能力を持てば持つほど人間は無力でみじめになり、人間の能力や努力を認めれば認めるほど神や仏が無力になるという意味で、両者は敵対的な関係」だと言っている。いかにも「松尾様」も観念的自己疎外であって、つまり、人間が空想した神でありつつも、その観念的対象が自己を規制してくるものだ。

 三浦さんの宗教批判は正しいが、これでは一面的な捉え方である。むろん現代のわれわれには、観念的自己疎外としての宗教は不要であるけれど、昔の人が(この場合は酒づくりの人たちが)、「松尾様」を観念的に自己疎外したから、優れた酒文化を創造できたのも事実として認めなければなるまい。酒づくりの理想を観念的に対象化した神に託し、それを自己に良い意味で規制した。それしか、昔の人としては方法がなかろう。

 昨日のブログで南郷継正著『武道と弁証法の理論』の一節を紹介したとおり、観念的自己疎外とは、「自分自身の観念を対象化したもの。芸術、文学など。対象化する、とは分身を創るということ」であった。

 日本の征服者であった藤原氏は、決して百姓仕事をせず、奴隷女を侍らせて酒盛りをやっていたので、支那の輸入文化しか頼るものがなく、脳細胞が衰えていって、平家、源氏の武家勢力の前に敗退していく。藤原一族は独自の文化を創らず、文化を消費しただけのようには見えるが、それでも仕事にあくせくしない分、じっくりと落ちついて熟成はさせたのであろう。完熟させたことと、奴隷支配の傲慢さゆえに、自己変革できず新しい時代に適合できなくなっていくのだが、一方で日本原住民からみれば藤原貴族の文化、あるいは支那の高度な文化には、憧れもあったはずである。

 八切止夫によれば、藤原政権に対して徹底抗戦した「まつろわぬ者」たちは漢字すら(明治になるまで)使わないとか、女尊男卑の風習を変えなかったというけれど、平家や源氏は抵抗勢力ながら、貴族の文化を踏襲してもいるのである。
 「憧れ」がなければ、レベルの高い「問いかけ」も、青雲の志も生じない。平家系原住民だけでは、良い酒はできず、まさに貴族との相互浸透のおかげで日本酒が、どぶろくからワンランク上の“より素晴らしき”レベルへと上昇することができた。




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2016年04月19日

桃田選手・田児選手が立ち直るために(2/2)


《2》
 戦前は、多分に虚像ではあっても「天皇陛下」を多くの国民が観念的に二重化して、アタマの中に像を描いて、それを自己疎外の軸にしていた。あるいは国家、を二重化していた。
 それを例えば「教育勅語」として、子供のときから叩きこんでいた。

 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
 ……


 実に格調高い名文である。恥ずかしながら私は暗誦できないが、戦前の人たちはこういう格調高い日本語の粋とも言うべき「勅語」で自己疎外の軸を創ることができたのである。

 こういう優れた自己疎外ができる指導を天皇の名で受けられた日本人は幸せだったと思う。そんな国は世界中どこにもない。あるのはせいぜい宗教。
 なのに…、人にこれだけ立派なことを言う天皇自身が、戦争に負けたら陸軍幹部に責任を押し付けて逃げたり、しこたま蓄財をしてタックスヘイブンに隠したりしたから、「教育勅語」が顧みられなくなった。ヒロヒトを擁護する人は、戦争責任をとった南北朝の光厳天皇の魂と比較してみればいい。

 敗戦のショックで、日本人はそうした観念的二重化を志向しなくなり、ボロボロになった。「歌を忘れたカナリア」になった。NHKは朝のドラマなんかで戦前を取り上げるが、戦前の人間が「教育勅語」を精神の支柱にしていたことをわざと無視するから、ブタドラマにしかならない。
 戦後は教育勅語自体も否定され、それがいかなる効力を発揮していたかも省みられることなく、個性大事になり、自己疎外は忘れられた。
 だからバドミントン選手が闇カジノに興じることがなぜいけないかを説けないで、法律で禁止されているから、としか言えないテイタラク。

 人間は、創り創られて人間になるのである。これが「人間とは何か」の原理原則だ。
 だから私たちのココロやアタマ、まとめて言えば「認識」は生まれつきの「ある」ものではなく、創り創られる。それゆえ、今度のバドミントン選手の違法賭博に関して言うなら、彼らは「いけないとわかってはいるが、止められない。ちょっとだけならいいだろう。バレなければいいのさ」、そういうココロを子供のときから創ってきたのだ。

 私たちの認識は、端的には反映像である。何をどのように反映してきて、それをいかに像として定着させるか、させてしまったか、である。小学校のときに良い先生に出会えば、その尊敬する先生を反映し、その先生になろうと自分を疎外していく。
 しかし、像は誰でも人間なら創るには創れるが、おおもとの反映した像というのは、像そのものでしかない。誰でも飯は食うと同じだ。あるいは誰でも生殖器は持っているからセックスはできる、とも言える。
 
 そんな像は、良い像であったとしても、四十代でダメになると言われる。自然成長的に創った像、あるいは像の創り方が技化するわけだが、そういう像とその創り方は四十にもなれば、ダメになっていくものである。
 早い話が、若い時は誰でもなんとか自然成長的に情熱は燃えるけれど、肉体の衰えや変化のない日常に慣れて、情熱が冷めていくでしょう?

 本当は、創ってきた像を持たねばならないし、創る像の創り方を技化しておかなければいけない。創った像、創った反映のありかたは、年取っても消えないと言われる。
 情熱の燃やし方を技化して、八十になろうが九十になろうが、情熱的であるように、創りつづけることが、人生の秘訣である。
 桃田選手や田児選手は、まともな像の創り方というものを、意識的にやらなかったから、「いけないとわかっていながら、やめられなかった」になったのである。

 「いけないとわかっている」ことを、必ず自己疎外できるようなココロの働き方に、技化することが、まっとうな像の創り方、反映の仕方なのである。だから反省しました、ニ度とバクチはやりません、と言っても、根底的に自分のココロの創り方がわかっていないし、どうしていいかもわからない人生を歩んできたから、お手上げなのである。
 本稿は、観念的自己疎外を中心に説いてきた。本当はさらに、認識が感情になるように創らなければならないのだが、この件は来週にでも詳しく説きたい。認識がバクチ、薬物、アルコール依存にならない感情を「創る」ことが肝心なのである。

 もしかすると、犯罪者として刑務所に入れられる恐怖が、バクチを押しとどめるかもしれないが、それでいいのか? そうではなく、すくなくとも「いけないとわかっているけど…」というココロの動きをしない、したくてもできない、そういう認識の創り方自体を技化するやり方ではない。

 スポーツ関係者、指導者は、そのスポーツの上達法しか知らない人が多過ぎる。学校の教師でいうなら、ある教科を教えること、テストで良い点を取れることだけしか教えられない、バカ教師と同じことであろう。
 知識を習得すること、あるいはある競技を上達させることだけではダメで、その教科なら教科で、どういう反映の仕方・させ方、認識の創り方を身につけていくかと直接の教育と指導でなければならないのである。

 数学で譬えるなら、三角形の面積を求めるとは、単純に計算の仕方を暗記して、面積の答えが出せるだけではない。その計算の仕方の論理はいかなるものか、答えの出し方の一般性から学ぶ対象への反映と関わり方の技化を修得することにまで踏み込まなければなるまい。

 楽器の修得でいうなら、ある楽器を演奏できるようになるだけではない、楽器を修得し、演奏できる過程で、いかなる反映の仕方を楽器を通じて学習するかにかかっている。それを今は、自然成長性に任せているのではないだろうか? 楽器が演奏できたら楽しい、ということで悪くはないが、それでは今度の桃田選手らのありようと変わらないのではないか。

 彼らの場合はたまたま違法なバクチをやっちゃったので、世間の指弾を浴びることになったが、彼らの過ちの一般性を見て取らねば、私たちもただの「他人の不幸は密の味」、で終わってしまう。オリンピックでメダルを取れたかもしれないのに「もったいないことをした」とする感想があったが、そんなことはまだ人生の先が長い彼らにとってはどうでもいいことだ。

 巨人の選手が野球賭博をやって追放されたことも同じで、追放して終わり、あるいが一罰百戒でプロ野球選手に自覚させるだけで終わりとは、なんとも情けない組織である。

 


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2016年04月18日

桃田選手・田児選手が立ち直るために(1/2)


《1》
 バドミントン男子シングルス世界ランク2位の桃田賢斗選手とロンドン五輪日本代表の田児賢一選手が、違法な闇カジノ店でバカラ賭博をしていたことが発覚。
 4月8日に記者会見し、桃田選手は「今まで育ててきてくれた方々らを裏切ることになり、本当に深く反省している」、田児選手は「責任は全て自分にある」と謝罪した、と報じられた。

 会見の席で、スポーツ選手として違法カジノで賭博を行っていたことに対して、ためらいや後ろめたさはなかったか、との記者の問いに対して、田児選手は「そのことに関しては自分自身、いけないことだとは分かっていたんですが、やめられない自分がいた」と述べたそうだ。記者の問いも、2人がどう答えるか分かり切っているし、それを読者が満足するように書きたいだけの愚劣さ。

 バクチはなぜ、止められないか。そこがなかなか解けない謎である。アルコール中毒もそうだし、覚醒剤や麻薬の依存症もそうだが、一度嵌ったら止められない、抜けられない。
 いけないとわかっていながら止められない、これは優れて認識学の問題である。
 どこぞの体験者の集会で、同じ悩みを抱えるもの同士で傷を舐め合うと、いくらか良くなると言われるが、本当にそうかどうか。

 心理研究家とか、教育研究家とか、カウンセラーとかがウダウダ言っているようだが、彼らの致命的欠陥は「人間とは何か」の原則から解けないことである。
 昔、「酒とバラの日々」という映画があって、ジャック・レモンが主演した名作である。夫婦でアルコール中毒に陥って行く、それはもう悲惨な話であった。そういう映画を見て、ただ「恐い話だな」ですませるのではなく、いったい「人間とは何か」を考察していかなければなるまい。

 以前、本ブログでも天寿堂稲村氏の勉強会にもアル中の人間がいて、その者を立ち直らせるべく、稲村氏は本人に自分の過去を事細かく、事実と反省を書かせてオープンにさせる方法をとられていた。私はそれでは立ち直らないと指摘しておいた。
 それから、本ブログ2013年10月4日付で「アル中からの脱却の要諦」で詳しく解いておいた。
 http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/376628034.html

 アルコール依存や薬物依存、ギャンブル依存にならない予防と、なっちゃったものをどう止めるかは、同じ問題である。
 堕落を止めるには、一言で言って「プライド」これに尽きる。
 人間はプライドがあれば、そうした依存症にはならぬし、プライドに心底目覚めれば止められる道が開ける。それ以外は無理である。
 プライドこそが、人間の言動を自己疎外するのだ。

 この場合の自己疎外とは、俗にいえば規制する、であろう。
 南ク継正著『武道と弁証法の理論』ではこう説かれている。
 「人間が目的的に労働を対象化することを疎外ないし自己疎外という。構造的には労働による人間自身の二重化である。人間は労働を対象化するが、その対象化したものが結果として自分を規制してくることになる。ここまで含めて自己疎外(人間疎外)ということである。」

 自己疎外には、観念的自己疎外と実体的自己疎外の二重構造であって、実体的自己疎外の例としては、人間がパソコンを発明し、利用すれば、そのパソコンを使わざるを得ない人間にならされる(規制される)ことを言う。

 観念的二重化とは、これは頭のなかにもう一人の自分を創りだすことでもある。やさしくは人の気持ちになるとか、もう一人の自分が自分を見るである。これも自己疎外である。疎外をマルクス主義のように悪い意味だけでとらえてはならない。

 要するに、自分のアタマのなかに、もうひとりの立派な、人格者としての己れを創り出して、その像が自分の言動を律するようにする事が、自己疎外であり、それこそが人間の人間たるゆえんだ(動物にはできない!)。
 観念的自己疎外とは、「自分自身の観念を対象化したもの。芸術、文学など。対象化する、とは分身を創るということ」(南ク継正著『武道と弁証法の理論』)である。
 自分のアタマの中に自分がつくった「(立派な)分身」があれば、ギャンブル、酒、薬物依存から脱却できることになる。

 スポーツ選手は、スポーツにばかり熱中して、指導者も勝ち負けや、五輪出場の栄誉みたいなものにだけ拘泥する。勝ちさえすればそれで良いとなるから、自分のなかにプライドある立派なもう一人の分身を創る青春時代を創らせない。

 だから今回のバドミントン選手のように、悪いことと知りつつ、好きだから止められなかった、となるのである。田児選手は、観念的二重化したもうひとりの自分がお粗末で、バクチをやろうぜという悪魔の囁きをしてしまう“分身”を創っていたのだ。
 
 五輪担当の遠藤利明大臣も、スポーツ庁長官の鈴木大地も、通り一遍のどうでもいいコメントしか発せられない。どうしたら、こんなみっともない選手が出て来るのを止められるか、言えないのだ。遠藤も鈴木も、自分が「お飾り」でしかないことに恥じる思いはないのか?

 桃田選手も田児選手も、「反省してます」と言うだけで、それでもう抜けられる、止められると思っているやに伺えるけれど無理である。いずれまたやるだろう。清原も薬物をまたやるだろう。なぜなら、彼らは、自己疎外をやっていないからだ。平たくいえば、人間としてのプライドを創りあげていない。
 そういうことはまずもって、青春時代に創るしかなく、大人になればまず創ることはできない。

 だからこれから結婚する若い人に忠告しておきたいが、相手がアル中や酒乱であるか、ギャンブル好きならば、結婚はやめておいたほうがいい。直らないどころかますます悪化する。結婚したい相手のアタマの中に、観念的に立派な人間を創りあげているかどうかを見極めることが大事になるのである。

 観念的自己疎外を高校生レベルで説くならば、誰か偉人、それもスポーツで金メダルをとったなんていう愚劣、大衆レベルではなくて、世界史に残るほどの偉人を儀表(手本)として、自分の志や日々の言動を規制してかかることなのだ。自分が例えば野口英世を尊敬するのなら、彼の欠点は見ることはなく、ひたすらにすごい人として崇めて、自分のアタマのなかに野口英世を創り出すのだ。

 その観念的に創り出した自分にとっての至高の野口英世の像から、声が聴こえたらしめたものなのだ。「お前、酒には溺れるなよ」とか「ギャンブルに溺れるのは卑しい人間だぞ」という、声を聴き取って、その声に従うことで、野口英世の高みに登ろうと努めること、これである。
 清原にそれがこれから創ることができれば立ち直るだろうが、おそらく誰もそれを周囲が指導してやれまいから、また薬物に手をだすだろうと私は言っているのだ。

 ただ、彼らバドミントン選手たちを闇カジノに手引きしたのは、「女」だったと言われる。だとすると、彼らを五輪に出場させまいとするどこかの国の工作だったかもしれない。選手がハニートラップまがいに、騙されて足を突っ込んだ可能性もある。だとすれば、あまりに選手には危機意識がなさすぎだ。



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2016年04月16日

鈴木敏文、こんな日本にした責任をとれ


 昼時にコンビニの前を通るか、たまに用があって店内に入ると、ランチを求める人たちで大変にぎわっている。近所で道路工事や建築関係労働者、OLふうの女性などが、コンビニ弁当、カップラーメン、おにぎり、サンドウィッチなどを買い求めていく。
 …ゾッとする光景である。

 みなさんはゾッとしませんか? コンビニで売っているそうしたランチとか菓子類とかは、ほとんど毒だからである。そんなものを便利だから、手軽だから、うまいからと日にち毎日食っていれば、いずれ癌になるだろう。病院関係者には涎が出る光景なのかもしれない。この連中がやがて、癌だの糖尿だの心疾患だので客としてやってくる、ルンルンと。

 せめて自宅で弁当をつくって来なさいよ。自分でつくった弁当にも問題はあるけれど、コンビニよりははるかにましであろう。

 さて、そんなコンビニを日本に広めて、日本人の健康をこわしてきた男が、近々退陣することとなった。
 鈴木敏文。セブン&アイ・ホールディングス代表取締役会長で、経済団体連合会副会長なんかをやった男。

 セブン&アイ・ホールディングスが後継社長問題でもめ、鈴木は会長職を辞任することになったという。そんな問題は、勝手にしろ、であるが、マスゴミはやたらに報道する。毎日新聞は一面トップで報道していた。アホか。
 鈴木敏文は、コンビニをこれだけ巷に根づかせ、同社を世界有数流通企業に育てあげた最大の功労者であり、それがために勲一等瑞宝章や藍綬褒章までもらった。

 そういう人物なので、経済関連の新聞や雑誌を見ると、めったやたらに出庭っていた。インタビュー記事が多かったように思うが、大企業のトップらしく、実に人相が悪かった。カネ儲けの才には長けていたのだろうが、日本の医療費を押し上げた悪業はこいつのせいである。何が勲章だ。

 YouTubeの動画「食品問題の裏」(6回分)をぜひご覧いただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=pWvepQSQ750
 安部司という『食品の裏側』の著者を招いて、水道橋博士と宮崎哲弥が鼎談をしているものだ。安部司氏は食品添加物の専門商社の敏腕セールスマンだった。食品メーカーの悪辣な“手口”を次々に暴露していく。痛烈な内部告発書であった。動画では、実際に、果汁をいっさい使わないでジュースをつくるやり口とか、人口添加物の粉だけでラーメンのスープをつくる手品が明らかにされ、もう慄然!

 コーヒーフレッシュには牛乳なんて一滴も入っていない。常温で何日も保存できるのは不可思議だが、あれは植物油と水と添加物でできている。おにぎりにも、どこで栽培したかわからないコメに10種類近い添加物が入っている。弁当についてくる醤油やソースも添加物で出来た偽物。こうしたコンビニで販売している総菜類は、インチキなのだ。

 こんなものを食べ続ければ、病気になるのは必定である。 
 コンビニは、売れさえすればいい、食中毒さえ起きなければいい、コストダウンして利益をあげればいい、便利ならいい、健康的に見えさえすればいい、それだけで創られた食べ物なのである。それを指示してやらせたのが鈴木敏文であった。

 コンビニにあるのは食品だけではない。化粧品なんかもひどいものだ。そういうものなら買う買わないは、消費者の責任だとも言えようが、許しがたいのはエロ本を陳列してあることだ。
 コンビニには子供もやってくるし、年頃の子もやってくる。女性も大勢くるのだ。子供には見せられないし、女性も表紙が目に入れば不愉快になるだろう。買わなくても目に入るように店側は陳列してある。

 エロ本はおおっぴらに売って良いものではない。なのにコンビニでは、白昼堂々並べてある。売れるからと、そういう商売をやらかしたのが鈴木敏文だったのである。
 
 セブン&アイには、「オムニ7」なる用語があって、ネットショッピングのことを言っている。オムニとは、英語で「全体」だという説もあるが、これはどう見ても韓国語であって、それなら年下の女性が年上の女性を呼ぶときにつかう「おねえさん」に当たる。
 あそこが韓国企業かどうかは分からないが、こんな変な名称をつけるあたりは日本人のマインドではない。

 しかも韓国系であることがわかるのは、セブン・イレブン店員のお辞儀の仕方である。韓国式の「コンス」をやっている。両手を下腹部に置いて両肘をつっぱり頭を傾ける。一説では皇后美智子が率先して流行させたとか。日本式は、お辞儀するときは両手は両脚の脇に置くものだ。「コンス」はお上への屈従を示すものだ。真似るなんてとんでもない。

 セブン‐イレブン商法の本質は加盟店オーナーを食い物にするフランチャイズシステムにあると指摘されてきたが、まともに実態を取材して記事にしたマスゴミはない。経営の神様だなどとヨイショするばかり。オーナーたちは借金まみれになって自殺にまで追いこまれるケースも多いと聞く。

 そもそも、朝の7時から夜11時までの開店で始めた当初から、年中無休であるし、オーナーにとって勤務は地獄であった。それがやがて24時間。おかげで商店街の昔ながらの小売り店は次々に廃業に追い込まれた。
 安さ、便利さだけが追求され、私たちは多くを失った。

 人間の皮にかぶった悪魔とは鈴木敏文のことである。我々の食生活を添加物まみれにした罪は重い。鈴木の母校、中央大学はこんな男になんと名誉博士号を賜った。中央大学は本来、法科の専門学校だったが、添加物まみれの食品を作っても、店にエロ本を飾っても、たしかに法には触れまいが、法に違反しなければ何をやってもいいと教える学校だったのか。恥を知れ。





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2016年04月15日

目取真俊、辺野古でテロの売名行為


 わが国では小説や詩、演劇といった世界(業界)でも、サヨクだらけである。なんとか賞の選考委員の顔ぶれを見ると、おおむねサヨクが占める。だから新しい作家や詩人もサヨクしか登竜門をくぐり抜けられない。出版社もサヨクが横溢しているから、出て来る本の大半はサヨクになる。

 4月1日、沖縄県在住の芥川賞作家、目取真俊(めどるま しゅん)容疑者(55 本名:島袋正)が、辺野古の米軍キャンプ・シュワブの立ち入り禁止区域内に許可なく入ったとして逮捕された事件が起きた。翌日には釈放された模様だが。

 海からカヌーで立ち入り禁止区域を越え、シュワブの陸地部分に許可なく侵入した。複数で抗議活動をし、1人だけ米軍に身柄を拘束された。米軍は立ち去るよう数回警告したのに拒否されたと説明、拘束の理由は「施設や本人の安全性を懸念した」としている。

 目取真はこれまでも、付近でカヌーを使った抗議活動を繰り返していた。この男は1997年に芥川賞を受賞した。沖縄を題材にした著作が多いという。私は名前は聞いたことはあるが、読んだことはない。あるわけない。

 目取真のやったことは、犯罪である。法にのっとって処罰されればいい。軍事基地に侵入しようとしたなら、銃殺されても文句は言えないが、米軍もテロリストとは思わずに穏便に済ませた。しかしこれはテロ行為だ。
 逆に嫌韓派の芥川賞作家がいたとして、韓国大使館に無許可で侵入しようとしたら、毎日新聞はテロだというに違いない。だけど、沖縄ならテロにされないって何?

 馬鹿なサヨクの一人か…と思うけれど、新聞各紙は、芥川賞作家が逮捕されたとの報道で、まあ一致しているようだが、サヨク反日毎日新聞は、この事件について、例によって逮捕は不当だというニュアンスで伝える。
 それが同業者の作家のコメントを記事に加えたことだ。

     *    *    *

《焦燥感募らせた 沖縄県在住の芥川賞作家又吉栄喜さんの話》
 祈りの場でもある海を埋め立てることに、胸が締め付けられる思いがしている。私は直接的な活動はしていないが、沖縄の人にとってどれだけ海が大事かということを染み込ませて小説を書いている。ただ、世界的に何か危険な動きがすごい速さで進んでいる。その中で目取真俊さんには、小説を書いて今の時代にぶち当てるのでは遅いという焦燥感があったのではないか。

《気持ちは分かる 日本ペンクラブ会長の作家浅田次郎さんの話》
 (身柄拘束の報を聞き)事情を知らないので軽々には言えないが、びっくりしました。法を犯すということは強硬手段なのでいけないことだとは思うが、気持ちは分かる。返還後も沖縄の苦悩はずっと続いている。(今回の件は)いずれ自分で書くと思うので、それを読んでみたい。

     *    *    *

 このアホ作家どものコメントについては後述するが、目取真が辺野古でカヌーに乗って侵入して、警告を無視して一人だけ逮捕されたのは、どうみても売名行為である。
 目取真はさして著名な作家ではない。特定の読者にしか売れちゃいないだろう。しかも沖縄にいれば、中央のマスゴミ関係者とは縁が薄く、互助的な原稿依頼が来ない。

 ここで少々派手なことをやって名を挙げれば、東京のサヨクマスゴミが着目してくれて、原稿依頼が来るにちがいないと計算したはずだ。サヨクの読者、つまり辺野古の基地移設に反対しているお馬鹿たちなら、目取真を英雄視してくれて、原稿に注目してくれて、本を買ってくれるという流れになる。

 ごく簡単な推理である。だから早速に毎日新聞は嬉々として目取真の行為を持ち上げている。目取真は初犯だし、立ち入り禁止区域に入っただけだから、すぐに釈放されたが、出てくればすぐにサヨクマスゴミが取材に殺到しているだろう。
 だからこんなどうでもいい出来事に、マスゴミが「芥川賞作家が!!」などと騒ぐべきではない。目取真とそのサヨク仲間たちの思う壷でしかない。

 浅田次郎は、まるで示し合わせていたかのように、「気持ちは分かる。いずれ自分で書くと思うので、それを読んでみたい」と述べた。浅田が読みたい、ではなく、国民は読むべきだと言っているかのようだ。毎日新聞の意図もそこにある。卑しい手口だ。
 
 浅田次郎は「返還後も沖縄の苦悩はずっと続いている」と言うけれど、「沖縄の苦悩」ってなんだ? 具体的に言ってみろよ。
 米軍基地があるってことか? あったからどうだと?
 たしかに米軍基地があることは、日本がアメリカの属国である象徴だから気分はよろしくないが、生活に実害があるわけではないどころか、おかげで国民の税金が湯水のように沖縄県に注ぎ込まれて、相当いい思いもしているではないか。日本全体で沖縄県人が差別されているわけでもない。

 米兵による犯罪もあったが、頻発しているわけではない。敗戦直後のように、米兵が好き勝手に住民を虐待したり強姦したりした時代は過ぎた。多くの人たちの努力で米側との関係は改善されてきたではないか。
 東京にも米軍基地はある。愉快ではないが、生活上の実害はない。「東京の苦悩はずっと続いている」なんて言ったら、誰もが嗤うだろうに。

 いまだに沖縄は苦悩が…と発言することは、これまでの先人達の努力が実を結んで、沖縄の暮らしも、米軍との関係も良くなってきたことへの感謝もなく、侮辱していることになる。まだまだ良くする取り組みは何にだって必要だが、先人の思いを踏みにじる発言は卑劣である。

 次に又吉栄喜の発言だが、昔は芥川賞にはいくらか業界で権威はあったろうが、今は地に落ちている。アホ過ぎて話題にもならぬ。
 目取真には焦燥感…って、そんな高尚なものじゃない。売名行為だけなのだ。

 「祈りの場でもある海を埋め立てることに、胸が締め付けられる思いがしている」というなら、那覇空港の拡張工事で海が埋め立てられていることに反対しろよ。支那や韓国から投棄されたゴミが流れ着いて迷惑していることも非難しろ。小笠原諸島海域で、支那漁船が大量のサンゴを乱獲していき、漁網をも棄てていったために漁民が困っていることには、胸は締め付けられないのか。

 海が祈りの場やて?? なんの祈りやねん? 漫才で売れますようにの祈りでっか? アホ言うたらあかんデ。
 神聖な場所や言うんやったら、海で泳ぐのんも、魚獲るのんも、海底ケーブル敷設するのんも、船が行き来するのんもあかんちゅうことになるんやな?

 又吉よ、お前がくだらない漫才で出演するテレビ局の、フジTVとか日本TVとかは、東京湾の海を埋め立てて造った土地だぞ。お前はそれで胸が締め付けられて、そういうテレビ局には行かないはずだな?
 お前が沖縄から上京する時は、飛行機で羽田空港に降りる。羽田は海を埋め立てた空港だ。利用するなよ。羽田は戦前は、民間用と軍用に使われていた。辺野古と同じなんだよ。

 米兵の犯罪はたしかに憤りを覚える。けれど、昨今は激減している。一方でザイニチの犯罪率は日本人の2.6倍もある。朝鮮民族は根っから犯罪傾向が強烈だ。日本で犯罪を犯したザイニチに対して、じゃあ韓国本国が密入国した同胞が申し訳ないことをしたと謝ったことがただの一度もあるか。「日本人なら犯されてもしょうがない」とうそぶく連中だ。少なくとも米軍側はそれほど卑劣ではなく、謝罪はするし再発防止に努める。だいいち米兵はザイニチのような密入国者ではない。

 沖縄のサヨクは、そういうザイニチの大犯罪は放っておいて、米兵だけが悪いとするのはスジが通らぬ。まして、沖縄でザイニチが米軍基地反対の活動することは、外国人の政治活動を禁じた法律に違反するが、目取真や又吉らは、それを批判したことがあるのか。テメエも犯罪をおかすくらいだから、ザイニチの蛮行には目をつむるのだろう。

 かくのごとくサヨクはアタマが悪い。スジの通らぬ理屈で行動する。出版界、新聞界は馬鹿でないと務まらない業界である。
 




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(4) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年04月14日

絲山秋子、書店で見せ物になる愚


 唖然、呆然とはこういうことを言うのか…。
 毎日新聞4月7日付夕刊に、「群馬県高崎市在住の芥川賞作家、絲山(いとやま)秋子さん(49)が今月1日から前橋市内の書店に「公開書斎」を開き、人気を集めている」との記事が載った。

 絲山秋子は06年に「沖で待つ」で芥川賞を授賞。14年から高崎経済大の非常勤講師を勤める、となっている。むろん、読んだことはない、読みたくもない。公開書斎なんてやれば、ますますもともな人は遠ざかり、愚劣な大衆だけが寄ってくる。

 記事によると、公開書斎は名付けて「絲山房(ぼう)」。書店主と話し合って、「本屋の持つ可能性を広げたい。気軽でライブ感のある企画を」と意気投合して、週に1、2回のペースで滞在して執筆するそうだ。「訪れた人は人気作家の執筆の様子を生で見たり、直接会話したりできる。北海道から駆けつけるファンもいるというその魅力とは−−。」
 魅力?? と言われただけで嗤っちゃう。

 こんなものはただのナルシズムじゃないか。49歳にもなってみっともないと思わないのか?
 以下の動画で彼女自身が説明している。
https://www.youtube.com/watch?v=dLnQsLwAOlg

 本棚に囲まれた空間に小さめの机と椅子が置かれている。並んだ本のすき間から中にいる絲山秋子がのぞける。房の前の案内板には「動物園のように観察したり、痕跡を見つけに来ていただいても。一段落したら、お茶でも飲みに行きましょう」と、書かれている。
 新聞には写真も載っていたが、たしかに動物園だ。何が楽しくて檻に入って見せ物になるんだか。

 絲山は机に向かって、水性ボールペンですらすらと書いていく。「普段から喫茶店や電車内での書き仕事は慣れているので、意外と集中できますよ」だとか。
 集中できるかどうかなんて重要ではない。
 「房の前にはファンとおぼしき人が数人。30分後、ある女性が本棚越しにおそるおそる声をかけると、絲山さんは笑顔で応じ、女性が持参した本にサイン。その後、おすすめの小説について会話を弾ませていた。」

 まあ、その低度の「ゆるふん」みたいな文章を書いているんだろう。私は性根を入れた文章を書こうとするときは、勝負は午前中でしかない。たしか丸山健二氏も執筆は朝と午前中に集中させると書いていたが、そうでなければ頭はフル回転はしてくれない。絲山みたいに午後から、ざわざわする書店の中で、動物園のサルのように見られながら、しかもファンから声をかけられて執筆を止められて「笑顔」になれる神経はどうかしている。

 それはいかにもできるだろうが、中身の低度が張りつめるような緊張感のない文章だからできるのだ。集中して自分の世界に閉じこもらなければ書けないのに、パフォーマンスをやりながらでは、おのずと気が散るし、考え抜くことはできない。

 軽いエッセイならいいだろうが、問題はこれが、自分の人生、恋愛、学問、藝術といった、重いテーマに関わったときなのである。
 学問でいうなら世界的発見とか、藝術なら歴史に残る作品を創るとかは、雑踏のなかで執筆できるようなレベルではなくなる。

 例えば、クラシック音楽の超一流のオーケストラに所属する演奏家がいたとして、気晴らしにとばかり街のパチンコ屋に入り浸ったとする。これは恐ろしいことになる。平気でパチンコ屋に入れる認識を創れば、これは下劣なパチンコと相互浸透し、やがて量質転化を起こして、高貴で格調あるべきクラシック音楽の演奏ができかねる事態になる。
 落ちたことに自分は気が付かなくても、同じ楽団員や指揮者には見て取れ、観客にも見抜かれるようになる。そのとき気づいてももう遅い、量質転化してしまったからだ。

 以前紹介した話だが、作家・丸山健二氏が若いころ、ある編集者に文壇関係者が集まるので知られる新宿の飲み屋横町に連れていかれた。

 「編集者が嫌がる私を連れて新宿のゴールデン街にある、関係者の溜まり場へ案内した。文人とか文化人とか呼ばれることに何の抵抗もないどころか、それを歓迎する人々にはオアシスのような空間であったのだろうが、しかし、私には吐き気を催すほどのおぞましい場所でしかなかった。

 歌人だとかいう、醜く老いた擦れ枯らしのマダムと、彼女の下で働きながら新劇の女優をめざすインテリぶるのが好きな軽薄な若い女たち。作家や評論家たちの偉そうな、そして腹の探り合いのような、喋れば喋るほどお里が知れてしまう、虚勢を張った、キザな会話。自分の声に酔い痴れながら歌う歌。
 こんなところで文学論や芸術論と戯れて一体どうするつもりだと思った。そんな暇があるなら、家に帰って書いたらどうだ。」


 日本の「文化人」と呼ばれる連中は、そういうところに入り浸るのになんの抵抗もないバカどもばかりである。多くはサヨクだ。
 私も二十代のころに、友人に連れられて1〜2度ゴールデン街のそうしたバーに連れて行かれたことがあったが、とてもじゃないがなじめなかった。
 こんなところに入り浸っているのが文人や大学教授かと驚いた記憶がある。以後、誘われても断ったしそういう場所を好む友人とは絶縁した。

 愚劣な連中と相互浸透し、やがて量質転化して「ゴールデン街」の匂いが染み付いた人間になる。まさに朱に交われば赤くなる、である。赤くなったら元の色には戻れない。これが量質転化の怖さである。
 絲山秋子は、当然、日本文学史に名を残すレベルは志していないのだろう。だから世俗まっただ中の本屋で人前に己れをさらけ出せるのだ。

 私たちは、日常生活のなかでは、やむを得ず近所付き合いをしなければならず、仕事で下劣な人間と関わらざるを得ないことがある。どこか山奥の禅寺にこもってしまうわけにはいかないのだから。だが、世俗になじむ恐さを自覚しなければならないのだ。
 絲山秋子が書店で書いているふりをしているときに、見に来る女どもなんかは、文学のなんたるかも知らない、ただの夢見る乙女なのだ。

 どうしたらいいかと言えば、これ以上はないというほどの優れた指導者に師事し、常に高貴な高い志に触れ、格調の高さを失わない書物や藝術に触れて、そうしたものと相互浸透しないではいられない人間に自分を量質転化させる以外にはあるまい。

 何か汚ないものに手で触ったら、石鹸で洗うだろう。それと同じことを認識の場合も実践しなければならない。書店の雑踏にまみれるとは、作家にとっては汚れ以外のなにものでもない。忠告してもわかるまいが、どうしたら認識の汚れを落とせるかを考えておくべきである。例えば新聞やテレビを見ないわけにはいかないとしても、見たらそれは心にウンチがくっついたようなものなのだから、汚れを取り除いてきれいにしなければ恐ろしいことになる。

 地域で活動する人がいる。老人会や婦人会や子ども会を盛んにしたりすることには意義がある。
 だが、たいてい地域に住む人間はいわゆる大衆であって、高貴さ、思想性の高み、志、清冽、情熱、誇りなどという概念とは縁遠い連中の集団なのだ。ゆえに、もしこうした大衆と関わらざるを得ないとしたら、そのときはしかたなく便器を拭いたと考えて、あとで手を洗うように、ココロとアタマを高みにするべく洗うというか、引き上げておかねばならないのである。

 その具体例としては、例えば自分の魂を奮い立たせてくれるような音楽を聴くとか、よしやるぞと気魄がでるような映画や文学作品を読むとか、絵を見るとかである。
 私なら、南ク継正先生の著作を、本棚の背表紙だけ見るだけでも、手にとってパラパラめくるだけでも、1日世俗で汚れた認識を整える効果はあると思ってやっている。

 あるいは、歩くときにただの散歩ではなく、威風堂々周囲を睥睨するかのように認識を整えて歩くのだ。譬えは悪いだろうが、ヒトラーはさすが見事な歩き方をしている。そういうものを参考にしたらいい。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☔| Comment(5) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年04月13日

山尾志桜里の醜態を嗤う


 保育園の待機児童問題では、予算措置はあの最悪の民主党政権時代と比べて、自民党安倍内閣では倍に増額されているそうだ。ツイッター問題が起きる前で、である。
 なのに、この問題で名を売ろうとした山尾志桜里議員は、安倍政権は保育園児にカネをださない(ひどい政権だ)、と言い切っていた。こんな自ら墓穴を掘るのは、元民主党のお家芸だから驚くにも値しないけれど。

 民主党の時代にも待機児童問題はあったのに、当時、どこぞの匿名主婦からの
民主党名指しのバッシングはなかった。
 民主党が維新の党と合併して「民進党」と変えたそうだが、アホくさくて、付き合いきれない。その名を見ただけで、雑巾で顔を撫でられたような感じになる。だから当分、「元民主党」と書くことにする。

 その元民主党の山尾(元小沢ガールズ)は、どこの誰ともわからない怪しげなツイッターで、「保育園落ちた 日本死ね!」と書いた、品性も日本語もわかっていないアホを取り上げて、国会で安倍首相を追及した。やにわにマスゴミで脚光を浴びたことで、元民主党のイオン御曹司が喜んで、「新しい寄せ集め党」の政調会長に抜擢した。なんと軽薄なことか。また人材がいかに払底しているかの証左。

 その途端、週刊新潮に政治資金問題で追及され、急遽スキャンダルにさらされた。
 山尾の政治資金団体・桜友会が、2012年分の政治資金収支報告書に山尾本人から政治資金規正法で定める上限額を超える1114万円の寄附を受けたと記載していたことが露見。それに、山尾が代表を務める元民主党愛知県第7支部が桜友会から2012年に10回にわたって計899万円の寄付を受けたと収支報告書に記載したのに、資金団体側の収支報告書には5回分423万円分の寄附しか記載されていなかったことが、2016年3月31日付の週刊新潮に報じられた。

 虚偽記載の疑い濃厚である。
 さらに、地球5周分相当のガソリン代を収支報告書に記載していたことも明らかとなり、マスゴミ記者に取り囲まれると、「調査中」と言って逃亡した。
 こんな奴が元民主党のエースとは! イオン御曹司もテメエの軽率さに頭をかかえていることだろう。

 さらにさらに、ここに来て山尾議員が騒動に巻き込まれると、「日本死ね」の(匿名)ツイッター主は頻繁に更新していたのに、同時に更新停止していた事実がみつかり、ために、そもそもあのツイッターは山尾の自作自演ではないかとネットで囁かれはじめた。と言われ始めたら、またツイッター更新したやに…。

 山尾本人の自作自演かどうかは判別できないが、まちがいなく、あの「日本死ね」のツイッターは、誰かが元民主党と仕組んだのである。保育園待機児童問題で安倍内閣を追及すれば、7月の参院選挙で若いママたちの票が元民主党に入るのではないかとの姑息な計算にもとづく。大衆はきっと、元民主党が政権をとっていたころの無能なことなんか忘れているから、今の安倍さんが悪いと思ってくれるだろうと踏んだにちがいない。

 あのツイッターは、「日本死ね」と表現するくらいなので、ザイニチが書き込んだのだろう。日本語じゃない。
 ザイニチはなんとしても元民主党や破防法対象の共産党の尻を叩いて安倍降ろしをやってほしいのだ。
 どこの誰ともわからぬ女のツイッターを、山尾が偶然見つけて、これは問題だと、国会で取り上げるなんて…あり得ない出来事だ。山尾と、もしくは元民主党とあのツイッター主は示し合わせてやった“犯行”なのはあからさま。

 それにつけても、ツイッターの文言とされる「保育園落ちた 日本死ね!」の語感は、美しい日本語を誇りとする私たちには耐え難いものがある。「死ね」のあとにも文句が続くが、ひどいので取り上げない。
 よしんば落ちたのが事実であっても、気の毒なママなのであっても、この品性のなさは、それだけでレッドカードである。言及するに値しない。それを国会に持ち込む元民主党と山尾しおりの下劣は極まっている。

 譬えていうなら、学校の先生の前に高校の生徒が現れて、ボクの赤点なんとかしてくださいと頼んだとする。このとき生徒が、ぞんざいな口のききたかをし、不貞腐れ、横柄な物腰で、タバコをふかしながら言ったとしたら、それは許されるのか? 

 ものには言い方があるぞ、マナーを守れ、と教師なら注意する。
 あのツイッター主がやったことは、この高校生の例と同じである。こんな頼み方には返事をしてやる必要もないし、すべきでもない。

 日本に「死ね」というような馬鹿女を一言もたしなめることをしないで、「そうだそうだ」と付和雷同した元民主党には、人間性のカケラもなく、否、日本人のマインドを喪失していると言わざるを得ない。ザイニチに多額のカネを恵んでもらっているから、従わざる得なかった、という背景もあるんだろうねえ。浅ましいねえ。

 そんな連中が、昨夏から今もまだ(?)、安保法制反対を叫んでいる。9条を守れとも言う。それらと一緒になって元民主党を支持している人って…心底バカじゃないの。
 元民主党や共産党(破防法対象)が、いいことを言っているとしても(あり得へんで)、この「保育園落ちた 日本死ね!」という汚ない日本語を容認した時点で、もう日本人をやめたのと同じだ。

 安倍内閣も、待機児童云々を答弁する前に、こんな汚ない日本語の罵倒ツイッターには答えません、と反省を求めるべきだった。「日本を取り戻す」と宣言したのは、おぬしらじゃないか。あれはどうなった?

 それから保育園と保育士の数ばかり問題になるが、保育の質、保育士の質はどうなんだ?
 保育とは何か、議論してみたらどうなんだ?
 海保静子著『育児の認識学』こそ、保育士の必読書であるが、山尾は読んだのか? ほとんどの保育士も読んではいないだろう。そういう不勉強のくせに、なまいきなことを言うな。

 世の中に医師なんかが片手間にやる「保育研究」や「保育雑感」はあっても、「保育學」と呼べる高みにあるのは『育児の認識学』だけである。保育を云々するなら、人間とは何か、認識とは何か、認識はいかにして誕生するかを根本から解ける実力が必要である。
 その學的高みに、いったい今の保育士たちはよじ登ろうという気骨はあるのか。

 そこまでいかなくとも、保育士が足りない、園がたりないなか、サヨクやザイニチが忍びこまれ、やつらに幼いころから自虐史観を刷り込まれたり、韓国民謡を歌わされたりしないよう、政治家は監視すべきだろうに。




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2016年04月12日

「治にいて乱を忘れず」とはいかなる意味か


 以前とりあげた、はすみとしこ著『そうだ 難民しよう!』(青林堂)。出版前にサヨクとザイニチから妨害を受けたのに、よく堂々出版してくれた。今もほとんどのマスゴミはザイニチ支配のために無視されている。あるいは差別表現だからと非難するだけ。

 ザイニチは何度も言うが、密入国してきた犯罪者であって、難民・移民ですらない。終戦直後の混乱につけこんで、例えば日本人から駅前一等地などを強奪し、河川敷に勝手に住み着いては役人に暴行して認めさせるなどなど、さんざんに悪事をなしてきておいて、自分たちは強制連行されてきた犠牲者なんだから、弱者なんだからと言いたい放題。

 ヨーロッパに押し寄せた偽装難民どもが聞いたら、「おれたちもそこまで悪質じゃない」と驚くであろう程の卑劣。
 その悪業を、マスゴミ、電通をのっとって報道させないために、多くの日本人は騙されてきた。

 『そうだ 難民しよう!』は、それにいささか風穴を開けた。だからザイニチは血相を変えて潰しにかかり、議員を脅しすかして「反ヘイト条例」なんかを成立させて、言論弾圧すら辞さない運動を始めた。

 サヨクは、弱者をいたわるとか、お隣どうし仲良くとか、偏見をなくそうとか言って、彼ら在日の侵食を許し後押ししてきたが、それゆえに、まっとうな日本人はますますサヨクを嫌い、韓国や支那のクズを憎悪するように、実は仕向けてしまったのだ。
 また、国会前で「あべ政治をゆるさない」とか「バカかお前は」とか「民主主義が安倍によって殺される」なんてことを言うお馬鹿たちは、まだ集まっては喚いている。

 サヨクの常套句が「弱者のいたわり」「お隣どうし仲良く」「差別偏見はなくす」といったところだが、それはいかにも美辞麗句だが、いつでもどこでも度外れに認めてよいものではない。
 こんな日常レベルの話であっても、「弱者は甘えるな、自立しろ」と言えるし、「隣同士はライバルとして競いあえ」でもいいし、「差別があるならがんばって見返してやれ」とも言い得るのである。

 「治にいて乱を忘れず」とか「常在戦場」とかの言葉は、このことを言っている。平和だからわざわざ事を荒立てるには及ばないが、認識を一方的に度外れに甘やかすなり、異端を許さないありかたは良くないという戒めでもある。

 女は弱者といわれたが、男に負けない努力をし学問を修め、学者になったり政治家になったりした人間はいくらでもいる。盲目でも目明き以上の成果をあげた塙保己一とか、ヘレン・ケラーとか、これも枚挙に暇がない。
 イギリス、フランス、ドイツは隣国どうしで、戦争もやったが、ライバルとして切磋琢磨したから、発展した。お隣は仲良くでやっていただけなら、歴史上の偉人も出なかったろうし、偉大な発明もなせなかった。

 ザイニチもそうやって、屈辱をバネにがんばって日本を見返すべく、良い努力、純な努力をすればいいだけのことだった。弁証法でいう「否定の否定」で成長発展をすればいいのに。
 ところが逆をやった。ウソ、騙し、脅し、カネで支配……。
 そういう性格だから、南北朝鮮人は、たかだかノーベル賞受賞者すら出せない(金大中はどうでもいい平和賞で、カネで買ったもの)。世界を動かす偉人も発明もできない。

 伊勢雅臣のメルマガ「国際派日本人養成講座」(4月3日付)で、『そうだ難民しよう!』が取り上げられ、同書をサヨク・プロパガンダの嘘を暴き、真実を伝えていると高評価している。
 その記事のなかに、「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会」なる団体が、この本の出版計画を事前に知って、抗議声明を出したことに触れている。

 「人権侵害のおそれのある出版物に関しては慎重な流通が求められます」「偏見と憎悪の扇動に加担すべきではありません」と、業界団体と書店に呼びかけた。
 さらに「表現の自由は最大限に尊重されるべきだが、野放しの自由ではない。人権侵害は許されない」とも語っている。

 もっともらしい言い訳だが、そういうなら、これまでのザイニチの蛮行の数々、日本人から奪った土地の謝罪と返還が先である。
 メルマガの伊勢氏はあまり有効な反論をしていないで、こんな意見(反論)もあると紹介するにとどめている。
 サヨクの卑劣なのは、公平さとか表現の自由とか、差別はどうのと言うが、その主張を利権にしていることだ。

 共産主義革命が頓挫し、日本に革命の芽がないために、代替行為としてこういう愚劣を言い立てている。それで組合からカネを奪い、役所から補助金をもらい、施設をただ同然に借りて集会なんかをやっている。現下は革命よりカネだ。共産党は暴力革命を唱える集団である。もし権力を握れば一部指導層が旨い汁を吸って、大衆は貧しいまま、都合の悪い言論は暴力で封じる、経済は衰退する、と、こうなる。

 議会もなくなるし、選挙もなくなる。一党独裁だ。海外の共産主義勢力と同調して、資本主義国を敵に回して戦争をしかける。それが彼らの歴史だった。
 だから現在の日本共産党が、国会や地方議会にいることが間違いであり、大衆への目くらましである。本来は非合法団体として、強い監視下に置くべきである。

 暴力革命をあからさまに主張したのでは、支持が集まらないし、組合を騙してカネを吸い上げることができなくなる。だから建前として、沖縄の米軍基地反対とか、「従軍慰安婦」というウソをザイニチと一緒に騒いだり、保育園を増やせとか、この『そうだ難民しよう』を非難したりして、見た目、ソフト路線をとっているだけ。

 そして問題は、根底的に間違っているのは、サヨクのもっともらしい主張そのものである。
 端的には差別だろうが人権侵害だろうが、貧困だろうが、有史以来なくなったことはないうえに、それをいわば前提に先人たちはがんばってきたのである。これは決して、差別があったほうがいいとか人権は無視すべきだとか言うのではない。

 例えば、平安時代末期、平家と源氏は血で血を洗うがごとき戦争をやった。差別や人権侵害どころの騒ぎではなく、殺し合いだった。しかしそれがあったればこそ、義経という英雄が出て、日本の歴史を塗り替えることができたのだ。古代を終わらせ、中世に移行できたではないか。その中世を終わらせ、近世の扉を開いたのは、信長、秀吉、家康などであって、彼らは必ずしも差別反対、人権重視などと「世迷い事」を言っていたのではない。
 そして近代の夜明けをもたらしたのは幕末や維新期の若者たちでもあった。

 彼らに失敗もあったし、殺しもあったし…であっても、彼らが歴史を変えてくれていなかったら、われわれ日本人は、一つには古代社会のまま、つまりアフリカや南米などと同じ、なんの発展もなかった。それどころか、白人の侵略、植民地化にまったく抵抗できなくて、みじめな奴隷国家と成り果てていたのは確実である。
 
 妙な譬えだが、平安時代末期に、天皇や大衆が「源氏も平家も戦争をやめましょう、お互いをヘイトして差別するのはいけません」などと言えたとしたら、どうなっていた? 
 戦国時代に、それぞれ群雄割拠する武将に対して、平和的に話し合いましょう、戦争はなにがあってもいけません、鉄砲も刀も槍もなくして、「9条」を制定して平和主義でいきましょう、なんて言ったほうが良かったの?

 昔の人は、差別や人権を知らないバカだったから、分かっていなかったとでも言うのか。今日と同じ意味ではないにせよ、彼ら昔の人だって理解はあった。そんなことは、当時の和歌とか物語とかを読めばわかるし、宗教だって支持を集めたことでもわかる。にもかかわらず、彼らは命を犠牲にして戦った。戦ってくれたから、日本は今日の繁栄と発展があるのではないのか。

 目先のチマチマした想念というのか、差別反対だの人権擁護だのだけを絶対価値としてはいけないのである。歴史の流れという、壮大なスケールでものごとは判断していくべきだ。
 歴史のスケールで見れば(学べば)、人間は逆境を糧に発展したのである。




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2016年04月11日

保科正之 〜心に青雲の治世


 先日、舛添都知事が勝手に都有地を韓国学校に実質上くれてやる決定をなしたことについて、どうぞ都庁へ抗議メールを送ってほしいとお願いした。
 舛添は昨年秋、ロンドンとパリへ職員を多数引き連れて総額5000万円もの大名旅行をやって、都民の反発をくらってもいる。2014年度 6回の「海外出張経費」は、合計約1億8000万円にも及んだ。
 政府と関係なく勝手に、媚韓外交、媚中外交をやって、なにさまのつもりだろうか。

 その傲慢、乱費、開き直りは目にあまるものがある。
 つまりは、民主主義はこういう無様なことにもなる。都知事選挙で舛添に投票した人たちは、何も考えず、テレビで有名な人だからいいか…という低度で投票したにちがいないのである。
 どうしたって衆愚政治に落ちる。

 さて、今日は東京都のぶざまさの口直しに江戸の昔話でも書いてみましょうか。保科正之の話である。以前にブログで発表したものを大幅に書き直してある。
 言ってみれば彼が東京都の初代都知事のようなものであった。というのは、歴史好きな人なら常識であろう。そして彼もまた「心に青雲」を抱きつづけた人間であった。

 保科正之は、2代将軍秀忠の側室の子である(幼名、幸松)。異母兄の徳川家光にかわいがられた。家光が死ぬ間際に、4代将軍となる家綱がまだ弱年のため、後見人というか摂政の立場で政治を取り仕切ってくれるよう懇願していったほど、人格を見込まれた人物である。秀忠は正之をわが子と知りながら、正妻の嫉妬が怖くて認知できなかった。

 それで正之は、信州高遠藩に養子として迎えられ、やがて藩主となる。ついでいったん山形へ転封されてから、最終的に会津藩に落ち着くのである。保科家は後に将軍から許されて松平姓を名乗る。会津藩主でありながら、家光に託された幕政を担うため、保科正之はほとんど会津に帰らず、江戸でさまざまな改革を行った。

 保科正之は、幕閣の老中として何を行ったか。
 人口が激増した江戸の上水道確保のため、玉川用水の開削を決定。これで多摩地区の農業用水としても利用され、江戸近郊の農業が発達した。明暦の大火のあと、両国橋を架けさせ(それまでは単に江戸防衛上のため、隅田川には千住大橋しかなかった)、上野に広小路をつくって火除地とした。明暦の大火では保科正之は陣頭指揮をとった。

 このとき江戸城も西の丸を除いて多くを焼失したが、幕閣らがまず天守閣を再建しようとしたものを、天守閣は役に立たないと主張して許さず、町方の復興を優先させた。東京にオリンピックを誘致して、ゼネコンに利益誘導しようとする愚劣な石原前知事に聞かせてやりたかった。現在の舛添にいたっては、石原より悪い。

 これが保科正之がとった“都知事”としての大きな政策であるが、国家レベルでは家綱政権の「三大美事」と言われる改革もある。それは「末期養子の禁止の緩和」「大名証人制の廃止」「殉教の禁止」である。これらを詳しく説明していると長くなるので割愛するが、この「三大美事」によって江戸幕府は基盤が安定し、社会不安の芽をつむことができたのである。実に人間性あふれる施策であった。

 さらに保科正之は、本来の会津藩での政治でも優れた手腕を発揮した。例えば食糧備蓄制度である「社倉制度」を定め、これで自藩だけでなく隣藩の飢饉をも救っている。また、今日でいう救急医療制度や、残虐な刑の禁止、年金制度までつくり、「会津藩家訓」十五ケ条も制定している。

 「会津家家訓」のなかには「婦人女子言、一切聞くべからず」というものもある。女性諸君は激怒しそうであるが、これは当時、藩主は正室以外に側室を置く習わしであり、しばしば世継ぎ問題などで嫉妬や権力欲にかられた女が政治にいらざる介入を図ることがあったからである。実際、保科正之の場合も、正妻が亡きあとの側室お万が、別の側室の生んだ子に嫉妬して毒殺を企てる事件が起こっている。その体験があって、加えられた1条とされる。

 保科正之は、徳川300年の安寧の礎を築いた重要な人物であり、四代将軍家綱のあとに五代将軍となった綱吉という、これまた名君を生む地ならしをしたと言えよう。戦国の遺風残る殺伐とした徳川政権を、この保科正之と綱吉の二人で、平和な暮らしやすい社会を続けられる政治の基盤を創ったのである。
 綱吉を「犬公方」と言って誹るのは歴史を知らない。

 保科正之ほど、無私の政治家はいないと、今日でも高い評価を得ているのもむべなるかなである。彼の政策があったればこそ、以前『逝きし世の面影』(渡辺京二著)で紹介したように、外国人が絶賛した世界に稀な優れた日本人が誕生したのだ。
 そして、松尾芭蕉が俳句を生んだのも、井原西鶴が『一代男』を書いたのも、保科正之の政治のおかげである。

 彼は刑法も実に“近代的”な改革を行い、それまでは裁く人間の恣意に頼りがちだった判決を、誰が担当しても同じになるよう整備している。だから大岡越前守なんてのは、法整備の面からは大したことはない。判決が個人の裁量に任されているようでは、いけないからだ。

 この保科の改革という地盤があって、次の綱吉時代の「元禄文化」が華開くのである。また、さらに会津藩は周知のごとく、幕末に佐幕派として薩長と戦って悲惨な結末を迎えることになる。しかし、司馬遼太郎が「もし会津藩がいなかったら幕末の歴史はずっと嫌なものになっていただろう」と書いたように、彼らの筋を通した戦いと生きざまは、日本史の誉れといっていい。ユダヤの手先・司馬遼太郎には言われたくないが…。

 なにしろ会津戦争で新政府軍は戦死者の収拾・埋葬を禁じ、腐敗するまま山野、市街に無残な姿をさらさせた。見かねた地元民が秘かに白虎隊の少年たちを埋葬すると、掘り起こして元の場所に捨てろと命じる残酷さであった。これを命じたのは福井藩(あの卑怯に立ち回った松平春獄の藩)の久保村文四郎で、彼は後に会津藩士に斬り殺されている。当然の報復だ。

 ただ、会津の戦死者が野ざらしにされた話は異論があって、実際は藩士・伴百悦が埋葬事業をやったとも言われる。江戸時代は死体の処理は賤民がやらされていたから、戦死者の埋葬も彼らがやるしかなかった。それで武士であった伴百悦は自ら賤民の身分に落とし、懸命に敵味方の分け隔てなく埋葬したという。それをも妨害したのが久保村文四郎だったとか。

 この久保村の残忍さは彼個人の資質というより、おそらくはユダヤ=フリーメースンの人を人と思わぬ仕打ちに従ったものと思える。
 これとの対比で見れば、会津藩の人間としての素晴らしさが際立つのであり、その会津魂を育てる基礎を創ったのが、保科正之であった。

 明治維新以後、日本はユダヤ=フリーメースン=国際金融資本の手先となった長州が支配することとなり、例えば伊藤博文、山県有朋というように続く政治家たちこそが、長州を代表する悪の手先であった。いかに保科正之が育てた江戸文化と違ってしまったかに、われわれは愕然としなければなるまい。

 明治以後、日本を支配した長州閥は、会津の精神を継承させまいとし、保科正之の事績や会津武士の高潔さなどは教科書に掲載させなかった。つまり会津に顕現されていた日本人の優秀さを、ユダヤは何としても破壊したかったのである。単純な図式でいえば、会津武士は人間性であるが、ユダヤと長州は悪魔だった。

 現代はユダヤの悪すなわち、金権万能の時代になってしまった。だからわれわれがユダヤの金権世界支配から脱して、本当の人間に立ち返るには、会津魂の復活が、あるいは保科正之のような政治家の登場がなされなければならないのである。

 ここで私たちは、深く考えなければならないのではないか。保科正之は大衆に選挙で選ばれた人間ではない。江戸時代に民主主義はないのだから当たり前だ。それを私たちは封建制だとか、暗黒時代だったとか言うけれど、それは正しいのか、である。
 時代劇といえば、悪代官がいて、侍が威張り返っていて、百姓は年貢で苦しめられたとする設定ばかりだが、実際はかなり違った。

 白土三平が描いた『カムイ伝』自体は物語としては傑作としてもいいが、江戸の真実とは別である。白土の場合は、サヨク史観の偏見に満ちている。

 何度も本ブログで取り上げたが、江戸期にやってきた欧米人たちは一様に日本人の優秀さ、政治の安定を驚嘆しているのだ。
 先人の築き上げた歴史があったればこそ、現在の日本人が外国に出ても尊敬されるのであり、都民もきちんと税金をはらっている社会なのだ。それをいいことに舛添は、日本の品位を落とす馬鹿を続けている。




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2016年04月09日

パナマ文書とタックス・ヘイブンの真の狙い


 今月に入ってから、突如、“パナマ文書”公開事件が発生した。委細はもう周知のことだろうから、省くが、ここではそもそも租税回避地(タックス・ヘイブン)はなんのためにあるのかを考察してみたい。

 世界の金持ちは税金逃れのために、タックス・ヘイブンに資産を移す。自身の場合もあるが、たいていは妻や子、兄弟などに口座を作らせている。毎日新聞は合法であり「節税」だと解説していたが、国民には酷税を課しておきながら、権力者はずるをきめこんで税を逃れるのが許されるわけがない。

 今回のパナマ文書でも明らかになったが、昔から資産家や政治家などがタックス・ヘイブンを利用する。
 それを合法的にしているのは、ユダヤ金融資本である。金融のほとんどが当然、ユダヤ人の支配であるから、タックス・ヘイブンもユダヤの仕掛けである。

 ユダヤ金融機関としては、権力者に脱税を助ける代わりに、ユダヤの方針に従順になるよう手なずけるためである。
 パナマ文書暴露以降、これを指摘した評論家やジャーリストは、私の知るかぎり、いないかに見える。

 話はちょっとずれるが、映画『グレース・オブ・モナコ』(2013年 フランス制作)は、妖艶な女優ニコール・キッドマンが、王妃グレース・ケリー役をやった。
 モナコ公国とフランスのド・ゴールの対立を描いた緊迫した話だった。

 1962年。フランス大統領ド・ゴールは、アルジェリア独立戦争の戦費を得るため、モナコ政府に対し、モナコ国内にあるフランス企業から税金を徴収しフランスに支払うように要求する。モナコ国王は「モナコの国家基盤を揺るがす」として徴税を拒否するが、ド・ゴールは「要求を断るなら、モナコをフランス領として武力で併合する」と声明を発表し圧力をかける。モナコは、グレース王妃の一世一代の大芝居でこの危機を乗り切るという物語。

 史実とフィクションがないまぜなのだろうが、のちに彼女が交通事故を装って殺害される闇があり、この映画はその場面を描いていないが、暗示的である。
 日本人になじみの薄い、観光地としてしか知られないモナコがどんな国かがわかる。モナコもタックス・ヘイブンとしての国で成り立っている微妙な立場が描かれていた。

 フランスその他の貴族、資産家が、モナコ、サンマリノ、マン島、スイスとかに税金逃れのためにカネを預ける。
 だから何もカリブ海の小国ばかりが、タックス・ヘイブンではなくて、昔から行われていたのだ。
 
 ある私立の学園も、毎年莫大な裏入学や寄付のカネが入ってくるので、経営者はスイスに口座を持っていた(と噂を聞いた)。
 世界的に活躍するスポーツ選手も、スイスとかに住居を持って、税金逃れをやらかしている。テニス、スキー、サッカー、F1の有名選手は当然やっているだろう。

 ユダヤの金融機関が、そういう卑劣な租税逃れを許容しているのは(誘導しているのは)、脱税をしている連中の弱みを握ることで、言いなりにするためである。これは私の推測だが、当たっているはずだ。どこを探したってそんな証拠は出て来ないだろうが、ユダヤ勢力に観念的二重化(立場になってみる)すればわかることだ。

 ところで、今度のパナマ文書では、ロシアのプーチンや中共の習近平らが、タックス・ヘイブンを利用していると暴露された。どこまで本当かはわからないながら、そうだとすれば、これまでややもすれば、プーチンや習近平は、アンチ・ユダヤ金融資本ではないか、だからユダヤ=アメリカの世界秩序に反発しているにちがいない、と推測する声があったけれど、それが覆ったのだ。

 やはりプーチンも習近平もタックス・ヘイブンをユダ金に利用させてもらっている以上は、彼らの手のうちなのである。対立しているようで、八百長。彼らも西側ユダヤ機関に隠すより手がないのは面白いと述べた人もいたが、彼らもその仕掛けに乗らなければ生きていけない。
 また、アメリカ人が誰もこのパナマ文書で挙げられていないのは、不自然だと言われる。そのとおり、ユダヤが脱税している権力者を表沙汰にしたのは、プーチン、習近平を黙らせようと言うこともあろうし、その他権力者を脅すためでもあろうかと思う。

 逆らうと、こうなるぞ、という見せしめ。
 さて、さて、タックス・ヘイブンには皇室も口座を持っているにちがいない。終戦間際に、昭和天皇はスイスの口座から皇后名義で赤十字社に寄付することで、連合軍の追及をすり抜けようと画策したことは、もう明らかになっている。アルゼンチンにも海軍で潜水艦で金塊を運んだとも言われる。そうした闇のカネが、果たして表に出るのか出ないのか。
 妙な楽しみができた。



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2016年04月08日

アメリカ戦争映画の傾向の考察


 戦争映画『フューリー』と『アメリカン・スナイパー』をDVDで2本見た。アメリカの映画である。
 『フューリー』は2014年作で、ブラッド・ピッド主演の戦車もの。第二次世界大戦の超末期(1945年4月)、すでにドイツ国内に侵攻した米軍の戦いが描かれる。Furyとは「憤怒」という意味で、主人公の乗る戦車に付けられた名前。
 米軍シャーマン戦車と、ドイツ軍のティーガー戦車が激突する。

 以下の公式サイトで予告編が観られる。戦闘シーンはド迫力である。
http://fury-movie.jp/
 映画で使われたドイツ軍のティーガー戦車は現存する唯一の走行可能な戦車で、それだけでも見応えがある。
 当時米軍のシャーマン戦車はドイツ戦車に比べて脆弱とされ、苦戦した。ティーガー戦車1台をシャーマン4〜5台でやっと打破できたとされる。

 『アメリカン・スナイパー』も2014年作で、ブラッドレー・クーパー主演。監督はクリント・イーストウッド。イラク戦争を描く。主人公は海兵隊のスナイパー(狙撃手)として4度の派兵に及んだ。米軍史上最多の160人を射殺した実話の男をモデルにしている。
 公式サイトはこちら。
http://wwws.warnerbros.co.jp/americansniper/

 戦争映画は好きで、よく観てきた。ドンパチやるのもあれば、スパイ戦もある。自分が戦争に行ったことがないのだから、せめて迫力ある映画で仮想体験するしかない。
 多数観てきたなかで、最高傑作をひとつだけ挙げるとしたら、1965年制作の『アルジェの戦い』だろうか。高校時代に観て大変衝撃を覚えた映画だった。アルジェリア独立運動をドキュメンタリー・タッチで描いた戦争ドラマだった。

 『アルジェの戦い』のなかで、フランス軍に捕らえられたアルジェリア解放戦線の戦士が、司令官に尋問される。「お前らは無辜の市民を標的にしたテロをやるのは卑劣だ」と詰問すると、戦士は傲然と「俺たちに、お前等のように爆撃機があったら、それでパリを空爆しているさ」と答えるのである。正論だった。 
 軍事大国は爆撃機を使って、無辜の市民を殺戮しておいて、独立戦争を戦うゲリラにはカネがなくて爆撃機は使えない。

 それ以来、私はテロというものを一方的に非難する気になれない。
 シリアでもイラクでも、米軍、ロシア軍、フランス軍、みんな爆撃機、ミサイル、無人機を飛ばして、兵員と非戦闘員の区別なく殺しておきながら、テロリストがパリのキャフェを爆破するのは卑劣だとは言えまい。テロが卑劣なら、女子供まで殺戮する爆撃だって卑劣である。

 米軍は今もアフガンやシリアで無人機を飛ばして爆撃しているが、遡れば大東亜戦争で日本の都市を空襲し、原爆を落とし、ヴェトナム戦争ではジャングルをナパームで焼き払い、枯れ葉剤を撒いた。
 兵器で非戦闘員を殺したくせに、テロは卑劣だとよく言えたもんだ。

 むろんどちらも、悪いというなら悪いけれど、戦争とはそういうものだ。
 映画『フューリー』のなかで主人公がこういう。「理想は平和だ。だが歴史は残酷だ」と。私たちはいわば歴史のなかに生きているというか、やがて歴史となる今を生きている。だから常に残酷な現実を突きつけられる。それを嫌です、と言っても意味がない。

 ずいぶん長いこと戦争映画を観てきたけれど、昔はアメリカは善でナチは悪、あるいはアメリカ騎兵隊は善でインディアンは悪、そのワンパターンであった。
 しかし、いつのころからか…たぶんヴェトナム戦争の映画あたりからだろうが、単純にアメリカは常に正義で、明るく、道徳的に戦って勝つ話にはしなくなってきた。

 アメリカ軍部の闇、兵士の心の病いなどに焦点を当てるようになっているような気がする。むろん基調はナチが悪で、敵が負ける話にはなるが、ナチの側にも心はあったとするストーリーになってきた。
 冒頭に言った『フューリー』にしろ『アメリカン・スナイパー』にしろ、単純な勧善懲悪の物語ではない。登場人物の心理が昔より陰があるのだ。
 昔の『史上最大の作戦』とか『ナバロンの要塞』なんかはドンパチを観て、「ああ、スカッとした」といいながら映画館を出て来るので良かったのだが…。

 もしかするとこういう傾向は、日下公人氏が説くように、今のアメリカ人の若者は、日本のアニメを観て育った世代になってきたせいかもしれない。日下氏は、日本のアニメも戦うのだが、最後は仲良しになって終わる、そこ欧米の話と違うところだ。むこうは徹底的に殺し尽くしてどちらか雌雄が決するまで戦いぬく。皆殺しの思想である。インディアンに対してそうだったように。

 それが日本のアニメでは敵同士が、仲良くなって終わるのだ。それに影響されないわけがないと日下氏は言っている。例えば「ワンピース」なんかがそうだと。面白い考察だった。
 しかしそれよりも、昨今、アメリカは自信をなくしている。パパブッシュがやらかした湾岸戦争では国民は湧いたが、ジュニアブッシュがやらかした自作自演の9・11テロから始まるイラク戦争、アフガン戦争で事実上アメリカ軍は敗北し、すごすご撤退している。

 そうしたアメリカの軍事的退潮に加えて、国内の所得格差の広がりで若者の多くに希望が見えなくなっている。大学にはみんな行きたがるが、行くには莫大な学資ローンを組み、一生かかっても返済できるだろうかというほどの借金を抱える。
 大学を出ても、首尾よく金融界に行くか、弁護士になる以外にはまともに夢が描ける産業はない。

 だから、アメリカ人たちは、おれたちの過去はなんだったのかと思うようになっている。それがドナルド・トランプのような「偉大なアメリカを取り戻す」とか「利益はアメリカだけで占めよう」などというスローガンが支持される背景だろう。
 その内向きさが、戦争映画にも微妙に反映されるようになったのではないだろうか。

 行け行けドンドンで、戦争をやってきたが、その内実はなんだったのかと、若い世代は問いかけるようになったのだ。いくらかはまともになってきたか…。




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2016年04月07日

平安時代はなぜ終わったか(2/2)


《2》
 話を薬に戻せば、そうした強精剤として渡来の支那の薬は、なかなか本格的病気には効かないとなって、改めて日本では支那の原点に返ろうとなって、「古方」を探った。その古方がすなわち漢のころまで遡って研究されたので、今日まで「漢方」の言葉が残るのである。
 そうした流れに乗って支那から『傷寒論』のような書物が注目され、病気に効く薬がさかんに求められるようになっていった。日本古来の民間療法から和法も試されただろうし、和方と漢方が融合されるようになっていったのだろう。
 当時、すでにして日本の医療界は支那を凌駕するほどに優れていたそうだ。

 わが国で、漢方医学が本格的に研究され治療に用いられるようになるのは室町時代からとされるが、話を戻すと、平安時代末期は、病気の本格的治療の対象は天皇家と貴族だけである。
 彼らだけが薬を必要とした。必要があるから漢方が取り入れられ、民間療法が試される背景があった。

 その薬が必要になる貴族社会はなぜ病んでいったかを説くことなしに、社会科学的手法の政治や経済だけで時代は解けなかろう。教科書では、荘園の管理がどうのと説かれているし、それも否定はしないけれど、なのだ。

 もう一度言うが、天皇・貴族たちは屋敷内にたれ込めて運動をしなかった。全国の荘園主や地頭に任せっぱなしで租税を徴収していればよかった。それで内臓を悪くし、体調を崩し、ますます運動しなくなる。認識だけで脳を使うのだった。脳は統括器官であるから、運動とも消化とも一体となって働くようにできている。

 脳がものを考えたり思ったりすることは人間である以上は止められない。眠っていても認識は働いてしまうほどだ。ついでながら、人間は死ぬ間際であっても夢を見る。そこで夢のなかで三途の河原まで行ったが、家族が枕元で呼ぶ声がしたので、幸運にも生き返えれたなどと言う話ができる。実際にあの世の入口まで行ったのではなくて、夢なのである。スウェーデンボルグは生きながらにして死後の世界を見てきたと霊的体験を書いているが、あれは虚言でないとしたら夢なのである。

 悪夢は体調を悪くする原因の一つともなる。逆にいうと、脳を認識だけで使いまくっていると、眠れなくなっていく。寝る前に悩み事が起こったり、悶々と、イライラとしたりしたまま床につくと、眠れないことがあるだろう。そういうことが毎晩続くと、それだけで内臓が本来なら睡眠中は休むべきが働かされてしまうのだ。

 脳は運動器官も消化器官も働く状態になっていないのに、本来の統括の使い方をやってしまう。消化器官は運動器官のためにあるのだから、手足が運動していないのに、内臓ばかりが空回りさせられる。とりわけ睡眠中に、である。
 こうやって、平安貴族たちは、頭はボロボロ、体もヨレヨレの状態になっていった。これでは貴族社会はもたない。

 人間には手足に内臓のツボがあり前身に経絡が走っているのは、こうした統括器官、運動器官、消化器官が本当は全体で一つであるからであり、それを実体は別々であっても、機能としては一体でなければならない(一体となっている)ので、そこを関連させる機能を担う必要があるのである。

 ところが源氏を中心とした坂東武者たちはそんな貴族並みの生活はしていなかった。野山を馬で駆け巡ったり、近隣の領主の土地争いに兵隊として駆り出されて戦争をしたり、移動するにも自分の脚で一日中歩いた。こうしてとりわけ足は大地をしっかり反映するから、これは動物本来の頭脳の健全な使い方であった。頭脳が認識のための認識で動かされることもあったにせよ、外界の反映で像を創る本来の頭脳の働きを為していたのである。

 食べ物も、貴族社会ではうまいものを希求したあげくに、手のこんだ料理が食されていたが、武士たちはそんな贅沢はなく、料理といえるほどのものではない、自然に近い素材を生に近く食べていた。

 地球は大きな磁性体である。そこに住む動物も植物も磁性体だ。動物は地球が変化したものである植物や動物を食べて、磁性体を維持する。あるいは大地や樹木に直に触れ、水を飲み、地球が湧かした温泉に漬かる。こうしたことで磁性体を取り入れ、磁性体を維持していると病気にはならない。
 自然の湧き水が旨いとか、体に良いのは、成分のせいもあろうが、第一には自然の水は磁性体だからである。磁性体が強まれば体にいいし、薄まれば病気を招く。

 貴族は足袋を履き、靴を履き、屋内で生活していたから、どうしても地球の磁性体が薄れる。それに引き換え、鞍馬の山中で過ごす人間は磁性体にあふれた森林の環境にいて、磁性体を多く含んだ食事をして、嫌が応にも体調は良くなり、頭脳は冴えるのである。

 寺というところは冬でも、僧たちがろくな暖房もなく、薄着で過ごせしていた。それは体がきちんと磁性体化できていたからである。野生の動物は冬だからといって、厚着をするわけではなく、雪の上でも寝る。人間も磁性体ならばこそ、動物と同様に寒さには耐える。
 エスキモーが北極の酷寒に、いくら毛皮を着ているからとて耐えることができるのは、生肉を食べるからで、生肉は煮たり焼いたりした肉より磁性体が豊富だからである。

 料理は人の手で料理が込み入るほどに地球から離れていき、磁性体を失う。贅沢な料理を食べていた天皇・公家ほど病気になる。武士や百姓は、料理ではなく、いくらか食べやすいように煮たり焼いたりする程度で地球から離れない食物を食べていた。煮炊きする燃料も潤沢でない分、柔らかく煮込む料理にできないのも幸いだった。
 こういった理由によって、貴族は癌や内臓の病気で弱っていき、武士は粗食ゆえに内臓病は少なく済んだのでもあった。

 武士たちは、本来の生命体のあらまほしき有りよう、つまり運動器官、消化器官、統括器官は、いわば三位一体的に健全なありかたで駆使されていた。つまりは健康そのもの。頭は冴え、運動能力は高まり、内臓も元気潑溂、とこうなっていた。その人間たちが新しい時代を担うのは必然であったのだ。
 これが平安時代は鎌倉時代に、貴族は武士に、移行せざるをえなかった背景の謎解きである。

 ここから私たちは、自分の健康や頭脳の活性化のありようを学ばなければなるまい。平安貴族のような不摂生をしていれば衰えるということであり、鎌倉武士のように生活すれば、活躍できることになる。





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2016年04月06日

平安時代はなぜ終わったか(1/2)


《1》
 平安時代はなぜ鎌倉時代になって行かざるを得なかったかについての一考察。教科書に書いてある理由(例えば荘園の管理ができなくなったから…)は誰でも知っていることだろうから、本稿では書いてないことをあえてしたためる。

 例えば鞍馬口には湧き水があって、今日では湧かして温泉としている。平安時代には京の公家が下僕を遣わして鞍馬口の水をよく汲みに来ていたようだ。薬効があるから、とされていた。京の公家たちはなぜ薬効ある水を求めたのか。

 それは彼らがいつも病気がちだったからだ。史家からはそういう史料はないと言われるだろうが、状況証拠もあり、また人間一般から解けばわかる話なのである。
 貴族どもが病気になるのは、端的には彼らはろくに運動しないからである。肉体労働はいっさいない。彼らはだいたい屋敷内にいて、事務をなすか、本を読むか、会議をやるか、うわさ話をするか、女に言いよるか、和歌を詠むか…といった日常であった。

 これは脳の働きとしては、認識しか使っていないのである。脳は生命体にとっては運動のため、あるいは感覚するために使う器官が発達せざるをえない地球環境の変化にともなって、すべてを統括するべく誕生した。進化の魚類段階から誕生したとされる。そして人間にいたって脳の機能に認識が飛躍的に発達して、運動しないで「考える」「思う」作業をやるようになった。

 今日、オフィスで一日中座ってパソコンに向かっている勤労者は、運動らしい運動はしないで、ひたすら認識を使っている。
 脳が手や足などの実体を使わないで、考えるか思うかばかりに使わされる。実体を動かすことを忘れて脳は興奮する。これはクルマでいえば、エンジンの空ふかしである。クルマのエンジンは車輪をうごかすためのものなのに、もしブレーキを踏んだままエンジンの空ふかしを長時間続けていたらどうなるか。
 公家たちもおおむね屋敷内にこもって頭脳労働(?)をやり続けていた。

 こういう生活が続くと内臓が病んでくる。なぜか。生命体にあっては本来運動するものであって、考え・思うものではないからだ。内臓はそうした運動する生命体が進化過程で(魚類段階で)、運動器官、消化器官、それらの統括器官(脳・神経)に分かれたものの、消化機能を担うものであった。運動、消化、統括は形として見ると別々のものに見え、かつ別々の働きをしてはいるが、もともとの生命体(単細胞)は一つで全部であったものである。一つで全部であるのが生命体であって、それが地球環境の変化に合わせて器官は大きくは運動、消化、統括と分かれていった(分かれざるをえなかった)のだ。

 人間も本来は一つで全部の体系を持った生命体であるから、運動を忘れて統括器官の一つの機能である認識だけを酷使することは、運動、消化、統括のバランスを崩し、一つで全部(体系)を維持しなければならないものを引き剥がすようなことになる。
 ただ、地球の生成発展史のなかでは、人間が認識を飛躍的に発達させて、考えることで地球に働きかけて自然を人間化しなければ地球がもたない、あるいは生命体がもたない状況が出来したので、これは仕方がなかったのだ。そうならざるをえなかった。

 人類が認識を発展させたのは良いとしても、だから運動しないで、考える、思うばかりをやっていると、消化器官の内臓が悪くなるのだ。
  公家はそうやって運動しないで頭脳労働ばかりやったから、内臓の調子を悪くしていった。それで例えば鞍馬口まで鉱泉を汲みに来て、薬として飲むようになったのだ。貴族本人が歩いて行き来すればそれだけで、良い健康運動になったのに、みんな召使いにやらせてしまった。

 当時の医療は貴族階級だけが対象で、怪我にはそれなりの外科的処置があり、それ以外の病の処置には漢方が支那大陸から入ってきてはいた。
 漢方は主として強精剤として期待された。『源氏物語』に見るように、あの場合、光源氏は若い頃は女に馬鹿モテし、それに豪快に応える能力があったが、しだいに年取ると、ついに若い柏木に愛人を寝取られる。そのときの光源氏の悔しさ、憎悪がよく描かれているであろう。そういう男の心理が描けたのだから、やはり『源氏物語』は紫式部一人の作ではなく男が加わっているのだろう。

 権力者にとって、不老不死、わけても強精への夢は強いものであった。その風潮が『源氏物語』には投影されている。女といたす以外に男の貴族どもにはたいして仕事がないんだから、そればっかり執着する。

 『源氏物語』は、いわば男のロマンをつむいだものだ。女にもててもてて、不自由しない、精力絶倫、それもいつまでも…という。
 しかし、おそらく実際は貴族どもはこれまで述べたごとくに、生活過程が悪いので、三〇代、四〇代になると急速に衰えただろうと推察できよう。
 最近でこそ、寿命は八〇歳くらいまでは伸びたが、昔は短く、しかも五〇くらいでもうかなりの老人だった。

 平安時代ともなれば、貴族は不摂生で、早々にヨボヨボになっていっただろう。気は逸れども体が…になったはずだ。だからせめて『源氏物語』のようなものをポルノとして読んで、あやかりたいと願っても不思議はない。そもそも『源氏物語』には、枕絵がついていたという研究もあるくらいだ。






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2016年04月05日

フォアグラなんて食うもんじゃない


 先日、友人と喫茶店で逢っておしゃべりし、昼時になったので、友人が「この近所に安い洋食屋があってうまいんだ、ハンバーグになんとフォアグラが混ぜこんであって豪華なんだよ」と言った。
 私は驚いて、「悪いけれど肉は食べないことにしている。そればかりか場末の洋食屋で高級食材のフォアグラが出ること自体、異常なことだが、それが貴君はわかっているのか」と問うた。

 友人はきょとんとして「え? フォアグラがなんで悪いの」と言った。
 そこで縷々、なんで場末の洋食屋にまでフォアグラが堂々出て来るようになったかを説明し、結局は蕎麦屋に入ってザルそばを食べて解散したのだが、それをここに記しておきたい。

 かつては高級レストランや一流ホテルでしか供されなかったフォアグラが、安く出回るようになったのは、支那のせいである。ファミリーレストランやコンビニ弁当でも扱うようになってきた。
 今でも一流処のレストランなら純フランス産のフォアグラを出すのだろうが、安物のほうはフランス産と銘打っていても実は支那で生産されているものが多くなった。

 支那でフォアグラを製造する飼育工場では、身動きできないように固定されたガチョウやアヒルが数万羽、団地のように並んでいる。支那だけでなく本家フランスでもそうだが、飼育工場は劣悪な環境で、鳥が嘔吐したものや糞が掃除もされずに放置されている。

 口にはチューブが固定され、定期的にとうもろこしが流される。鳥が食欲があろうがなかろうが、口から餌が流し込まれる。胃まで刺し込まれた管で消化器が傷つけられ、鳥たちは苦しみ抜く。食い過ぎで肝臓が肥大化するまで続けられ、こうして育てられた鳥の肝臓は全てフランスに送られる。
 フランスで最終仕上げされた後に、世界中に「フランス産フォアグラ」として流通していくという。
 餌のトウモロコシは、遺伝子組み換え作物である。
 支那人が関わった農産物は恐ろしい。自分が食べるわけでないなら、知ったこっちゃないし、そもそも食の安全なんか気にも留めない国柄である。

 肝臓はフランスへ持っていかれ、皮はたぶん「北京ダック」にされるのだろう。おそろしい食べ物だ。
 そもそもフォアグラを作るフランス人の残酷な神経には慄然とする。
 鳥をわざと肝臓肥大の病気(脂肪肝)にして舌鼓を打つなんて、まっとうな神経じゃない。
 以下のYouTube画像「フォアグラ・拷問されるカモ」をぜひ見てください。可哀想で胸が締め付けられる。卵から孵化した瞬間から工場生産に乗せられる。メスはフォアグラに向かないから直ちに殺処分され、オスのヒヨコだけが生かされる。
https://www.youtube.com/watch?v=DKeve2ye790
https://www.youtube.com/watch?v=6l5linLljDw

 私は昔フォアグラを人からごちそうになったことはあるが、なんだか臭くて脂ぎっていて、さして旨いとは思わなかった。濃厚なソースがかかっていて味をごまかしているのではないかと思った。
 アンコウの肝や、カニ味噌のほうがはるかに旨いと思う。サンマのワタでもいい。

 さて、ほかにも。
 井上太郎著『諜報機関』(青林堂)によると、北京と天津の間、やや天津に近い場所に、巨大に区画された池があり、その水面の色はほとんどがピンク色に見えるそうだ。この池はうなぎの養殖場で、そのピンク色の正体は、成長ホルモンが含まれた避妊薬「ピル」の色だという。ピルを餌に使うとうなぎの成長が早く、1カ月もしないうちに出荷できるという。
 スーパーで売っているウナギの蒲焼きで、ちょっと安いのは支那産だが、とてもじゃないが食う気になれない。

 また、上海の長江河口付近には、「上海ガニ」の養殖場がたくさんある。養殖されているカニ(モクズガニの一種)は、足をぐるぐると縛られ、動けないようになっているという。そして、わけのわからない餌を与えられ、急激に成長していく。支那では蟹まで養殖されていたのか。
 上海蟹は身(筋肉)を食べるのではなくて、味噌を食べる。カニミソは甲殻類の中腸腺すなわち肝臓と膵臓の機能をもった臓器だから、毒が溜まっている。

 カニの次はエビ。日本はエビの消費は世界一で、2位がアメリカ、3位がカナダ。この3カ国で漁獲・養殖されたエビ類の世界市場の70%が消費されるそうだ。そのうち養殖が4分の一で、養殖をさかんにやっているのが、支那、タイ、インドネシア、さらにはメキシコやブラジルなどで、沿岸地区で行なわれている。エビの養殖場をつくるためにマングローブ林が伐採され、高潮問題やほかの海産物漁獲の激減、富栄養の餌による汚染などが大問題になっている。

 あなおそろしや。
 フォアグラ、ウナギ、上海蟹といった高級食材は、高く取引されるから養殖業者や商社が参入してくる。目の色替えて養殖で儲けようとするから、毒や添加物を食わせようと知ったことでなくなる。
 高級食材は危ない。高級牛肉のことも書いたけれど、サシの入ったとろける肉は癌のもとだ。ぜひに遠ざけていただきたい。
 それに養殖の魚介類は危険である。養殖できないイワシ、サバ、サンマ、金目鯛などがお勧めである。





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2016年04月04日

歴代法相の死刑執行一覧表の陰謀


 3月25日、大阪市の小学3年生女児ら女性5人がバラバラで殺害された事件(1985〜94年)の死刑囚・鎌田安利の死刑を執行したと発表された。同時に看護婦らによる福岡連続保険金殺害事件で3人を殺した吉田純子死刑囚も処刑されたという。
 こういう残酷な殺人をやるのは…おそらく在日であろう。

 毎日新聞でこのニュースを読んだが、記事では「岩城光英法相が命令した」「第二次安倍内閣発足以降では9回目で、計16人が執行された」と書き、さらに「法相別の執行命令数」が表となって掲載されている。
 いつも新聞では死刑執行がされると、1面で大きく扱われ、こういう歴代法相の死刑執行一覧が掲載される。

 このサヨク新聞の意図はあきらかに死刑反対の世論を作りたいのである。「安倍内閣で9回目で、計16人が執行」とは、いわなくていい事実である。なんでわざわざ言う必要がある? 法で裁かれた死刑囚がやっと処刑されただけのことで、きちんと法が護られている、それだけのことなのに、言外に安倍首相はほら、死刑をこんなにたくさんやる残酷な奴だというニュアンスが滲んでいる。

 どうしても新聞記者はアタマがわるいので、こういうバイアスをかけた数字しか書こうとしないが、あの残酷な事件の背景や概要を書くとか、裁判でどんなやりとりがあったかとか、死刑囚はどんな態度だったかなどを取材して書けよ。あるいは、死刑囚は判決確定してから何年も刑務所で只飯を食わされて延命できるのはなぜなのかという問題を扱ってもいい。

 それにいつもの「歴代法相の死刑執行一覧」がくせものだ。誰が何人の死刑を執行したかを見せる必要はない。鳩山邦夫が13人も殺した、仙谷由人は一人も殺さなかった…などと言いたいのである。
 まあわずか1カ月しか任期がなかった法相はともかくとして、仕事をやらずに死刑囚をほったらかしにした奴のほうが悪い。刑が確定したら、有無を言わさず執行すべきだ。何年も無駄飯を税金で食わせるな。
 判事、検事、警察、弁護士などがたくさんの税金を使い、時間を費やして考え抜いて出した結論を、法相が勝手に放置する権利はない。努力している法曹界や税金を払っている国民への侮辱である。
 死刑を執行する刑務官も社会のために嫌な仕事を引き受けてくださっている。その尊い気持ちをもっと尊重すべきではないか。

 法相になれば嫌でも死刑執行の命令を出さねばならないのに、善人ぶって「死刑反対の信念で」とか「クリスチャンだから」などと言う奴は法相になる資格がない。死刑反対論者はそもそも国会議員になるな。法の番人たるべき者が、法を守らないのだから呆れる。

 国会議員に選ばれるのは、死刑執行も含めて法をねじ曲げない、自分の感情で歪めない約束の上で立候補し、選んでいただくのだから、そこに好き嫌いだの信条だのを入れる余地はない。むろん国会で、死刑制度に付いて議論することは構わないし、死刑反対を掲げて国会議員に立候補しても構わないが、現状ある法は変わらないかぎり護らなければいけない。
 こんな明白なことすら分からずに議員になり、法相になるのか。
 
 「歴代法相の死刑執行一覧」は新聞記事に不要だが、もし出すなら、命令ゼロだった怠け者か卑怯な法相はどいつだったかを出して、議論の参考にするならいい。法相は最後の決定をするから慎重に…と言うのは欺瞞である。法相が真剣に一つひとつの死刑事案を検討していると? ウソつけ。

 法務大臣が死刑執行のハンコを捺せば、のちのち新聞が歴代法相の執行数一覧表を、死刑のたびに掲げて、記録と記憶を引っ張り出すからだ。誰それは3人だった、誰それはゼロで、心やさしい人だった、と言わず語らずのうちに表が示してしまう。へたすりゃ孫の代まで祟る。

 それが嫌で法相は執行命令から逃げる。また新聞は法相が嫌がることをわざとやって、プレッシャーをかけている。ただの何気ない一覧表ではない。
 新聞が死刑制度反対を掲げるのも、それは一つの意見だから結構だが、こういう姑息極まる記事の体裁で、執行をためらわせ、世論を死刑廃止に持って行こうとするのは間違いである。

 死刑制度は民主的手続きで決められたことなのだ。マスゴミやサヨク日弁連は、現今ある死刑制度を護るなと抜かすけれど、それは民主主義の否定である。「民主主義って何だ!」などとアホを叫ぶ一方で、民主主義で決まった法を破れというのはスジが狂っている。

 私は日本の死刑制度は一応優れていると思う。人を殺めたら、自分の命で償うしかない。この原則だけでいい。安楽死殺人や身を守る過程でやむなく殺してしまった場合は、情状酌量すべきだが。
 先きごろ、三鷹女子高生ストーカー殺害事件で、犯人の池永チャールストーマスが懲役22年の判決がくだったが、とんでもない、身勝手に人を殺した以上は死刑が相当である。

 今は人殺しでも複数でないと死刑にならない。そんなバカな。これはサヨク日弁連の陰謀である。明治時代につくった刑法を未だに(微調整しながらも)変えないのはおかしい。明治時代とは国民の認識も違えば、日本人の寿命も延びている。それに朝鮮人や支那人が大量に住み着いて悪さをする。

 日本人が懲役10年の刑ならば、外国人はその倍にする刑法があってもいいではないか。
 大事なことは罪を償わせるだけでなく、犯罪の抑止なのだから、外人は刑が重くなるとしたら、それは抑止になり得るだろう。

 日弁連や裁判官が、死刑に反対し、甘い判決を出すのは、彼ら業界が在日に汚染されているからで、日本では同胞在日の犯罪が多く、殺人事案があふれているからだ。できるだけ同胞を助け、日本社会を汚すのが彼らの陰謀だからである。
 それに彼ら法曹界の連中もマスゴミも狂っているのは、個人中心の考え方に染まっているからだ。

 強盗殺人犯であっても、個人でみれば生きているし、家族はいるし、かわいそうだとの感情が湧くのは分からぬではないが…。
 なぜ死刑があり、法があるかが分かっていない。個人はほとんど関係ない。社会、国家、それを健全な状態に維持する、端的にはそれだけが大事なのである。だから犯罪を犯したものは社会が裁いて処罰するのである。むろん殺人がもっとも社会にとって重大な行為だから、最高刑たる死刑を以てするのだ。




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2016年04月02日

借金は踏み倒す国に?


 よく日本には外国から元首がやってくる。カウンターパートとして首相が応対し、たいていは経済援助を約束して終わる。
 アメリカや中共の元首だとマスゴミの扱いは大きいが、弱小国に対してはおざなりのニュースで済まされる。

 日本はカネを持っているし、ODAは大盤振る舞いが常だから、外国元首は要するにたかりにくるのだ。日本側もODAによって、政治家、官僚、ゼネコンなどが儲かる仕組みだから、積極的に貸しまくる。対外純資産額(対外債権)は約366兆円にもなる。ずっと世界一だ。とはいえ、日本がせっせと世界にカネを貸しだしたのは80年代後半といわれ、まだあまり償還期が来ていないのでカネが返ってこない。

 カネの貸し借り自体は、悪いことではない。例えば貧しい国が借りたカネでインフラを整備し、国を豊かにして民衆の生活が楽になるなら、おおいに結構である。
 そうはいっても、韓国や支那のように、借りたカネは踏み倒すのが常態である国に、際限なく貸すのは間違いである。カネを何に使うかの明朗会計がどこもあやふやらしく、当該国民の幸福につながらないとしたら悲しい。

 日本は、外国から借りたカネは全部返済してきた。日露戦争でユダ金から借金したのも、長いことかかったが完済した。そういう地道な積み重ねが、世界の信用を得てきた。
 世界のほとんどの国は、借りたカネは踏み倒そうとし、約束は破り、私腹を肥やし、いいがかりをつけるものだが、それで国同士が揉め、戦争をやり、嫌い合って結局良いことがなかった。
 
 ところが日本だけがまじめに働いて、借金はきちんと返し、困っている国があれば渋らずに貸してあげて、貸しはがしなんかはやらず、結局世界で唯一経済が安定している国になり、国民も不満を言わない。
 だから世界中の国が、日本を手本にしたいと考えるようになってきた。

 たまにテレビを見ると、ずいぶん日本に定住する外国人が増えているらしい。それも欧米やアジアだけでなく、アフリカや南米のようなあまりなじみのない国からやってくる。それも結構日本語が達者で感心する。旅行者も増えてきた。支那人や韓国人には来てほしくないが、その他の国の人々はみんな親日的だ。

 さて、話がズレたが、奨学金についてである。あれは借金だ。志ある若者に勉学を機会を与えるために、学費の足しにと貸し出し、社会へ出てから返してもらう仕組みで、大変結構であった。
 ところが最近、明らかに共産党系と思われる連中が、カネを返したくないと言い出している。奨学金が安すぎると言ったかと思うと、返済が苦しいから、奨学金は貸与でなく、ただでくれないかと言う。

 奨学金で苦しいときに助けてもらったのだから、それこそ熨斗をつけて感謝して返済するのが当たり前である。借りて返さないと、奨学金を希望する次世代の若者が借りられなくなる。
 なのに、ごたくを並べて、楽をさせろ、「徳政令」みたいなふうにしろとは、なんたる卑劣か。おそらくそういうことを言うのはザイニチなんだろう。

 昔は帝国大学、今は国立大学であるが、これは国家に尽くす人材を養成する機関であって、多くの税金がその志ある学生に無償で学費を負担している。だから官僚や学者、科学者、法曹界の人間となって一生を国に奉仕しなければならない。
 であるのに、東大、京大を出てなかにはタレントになるバカがいる。加藤登紀子、高田万由子、菊川怜、膳場貴子、和久田麻由子…。男だと香川照之、草野仁、野田秀樹、宇治原史規など。タレントになるなら学費を返しなさい。税金泥棒じゃないか。

 昨今の奨学金事情は、悪化していると聞く。今や国公立大学でも初年度に納める金は80万円にもなる。私立大学で131万円、私立短大で111万円にのぼる。
 私が学生のころは、私立だったが入学金・授業料は今の半分くらいだった。奨学金を利用している者はごく少なかった。それがだんだん利用学生の割合が増え、90年代には20%台、2012年には52.5%に激増した。今や2人に1人は奨学金をもらっている。
 しかもそれだけでは足りずに、学生はアルバイトに精を出す。

 そのアルバイトも、雇う側はブラック企業が多く、非正規の社員を安くこきつかおうとする。なかには学生のくせに優雅な暮らしがしたくて、勉学そっちのけでバイトに熱中する不届きものもいるやに聞くが、多くは親からの仕送りが少なく、バイトせざるを得なくなっているようだ。
 勉強したくても、カネを稼がないと授業料が払えないのでは、本末転倒である。

 国税庁の調査では、民間企業で働いている人の平均年収は、1997年の467万円から2013年には414万円に下がっているのだ。親も収入が減っている。だから子供に仕送りが十分できなくなる。いきおい、子供もバイトをせざるを得ないし、奨学金をあてにするしかない。これは国の責任である。

 支那や韓国に大盤振る舞いしているから、行くべきところにカネが行かず、学生も苦しむ。
 私らのころは奨学金といえば無利子だった。ところが今や無利子もあるが、4分の3は利子付きの奨学金が占める。
 昔は貸し出し側は、日本育英会だったが、今は日本学生支援機構に変わって、あろうことか利子で儲けようとする魂胆をあらわにした。

 おいおい、奨学金で金貸し業かよ。という一方で、先に言った利用者が今や2人に1人というのは、実態はどうなんだろう? 大学全入時代になって、言っては悪いがとうてい大学について行けない偏差値の低い若者でも、無理して大学や専門学校に行こうとする。
 低レベルの大学を出たって、非正規の職業にしか就業できないのが現実である。

 つまり偏差値の低い大学に入っても、授業についていけずにバイトにうつつを抜かし、やや安い利子だからと奨学金をもらい、卒業はしても何百万円かの借金が残る。ところがそれを順調に返済できるほどの給与をくれる企業には就職できないのだ。当たり前じゃないか。
 非正規労働にしか就けないような可能性がある大学(というよりまず企業が相手にしてくれない大学)に行ってわざわざ奨学金という名のローンを組むのであれば、大学など行かないほうがマシではないのか。

 サヨクは、こういう実態をごまかして、政府攻撃の手段に使う。先日もテレビのニュースで明らかに共産党系の連中がサヨク弁護士とともに奨学金は無償にしろと主張する集会を開いているさまを流していた。ならば共産党諸君、政府に対して支那や韓国に回るカネ、ザイニチ学校に回るカネ、ザイニチに回る生活保護や年金などを貧しい学生に回せというべきだろ。

 話を冒頭の外国から信頼される日本、に戻せば、日本は外国からの借金はまじめに働いてきちんと返済してきたから信用される国になれた。なのに、今やその内実はガタガタだ。国立大を出たのに、タレントになって勝手をやる奴が出るようになった。これは事実上、借金の踏み倒しに相当する。

 ヘボ大学しか入れないバカ者が見栄で大卒の肩書きを欲しいがために無理にローンを組んで、あとで返済できないのが分かり切っているのに……。これも返すあてのない借金をなんとかなるだろうの甘い考えでやらかすのだ。まるでサブプライムローンだ。

 信用される国、借りたカネはちゃんと返す国民、それが崩れようとしている。先人たちが未来の私たちのためにと、貧しい暮らし貧しい国庫のなかから、勉強して国のために尽くす人間になってくれと願って創ったシステムが、悪用されるようになってしまった。

 その原因は、GHQが、とか、支那や韓国の工作が、と言えるだろうけれど、あくまで私たち自身の問題として反省しなければなるまい。
 私は、再三言うように、ヒロヒトが責任から逃げたからであると思う。よしんば天皇教信者が言うように、大東亜戦争に天皇が消極的だったとか関与しなかったとしても、国のトップだった彼が、もしも負わなくてもいい責任すら負って、自決していたなら、国民はこうまで堕落し無責任にはならなかったはずだと、私は主張する。

 その無責任天皇を国民がこぞって許し、天皇に責任はなかったことにして、テメエも上がやるならオレっちも、と楽なほうにいっせいになびいたのだ。
 「親亀こけたら子亀もこけた」のである。





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2016年04月01日

続・「なでしこ」落日の責任はどこに


 女子サッカー日本代表チーム「なでしこ」の敗退について3月23日に書かせてもらったが、少し補足してみたい。
 私の論考に対して、女性をバカにしているようだが、男だって…と揶揄的なコメントもあったからだ。それは私の主旨とは違う。

 前回も述べたように、女子の集団は統括も指導もやっかいなのである。「わがまま、嫉妬深い、妬みそねみ、派閥をつくる、互いに足を引っ張る、チクる、実力ないのに目立ちたがる、すぐ自惚れる、指導者を独占したがる…などなど、それはもう大変な“生き物”なのである」と書いたとおり。
 むろんだからとて、男が女より優秀だとは言っていない。誤解なきよう。

 ただ、前回は新聞記者どもが、そういう女性の特質を利用して愚痴や監督批判を引き出して、チームの和を壊したと述べたまでである。W 杯での優勝時は、まだ「なでしこ」がさほど有名でなく、誰もがまさか優勝するとは思っていなかった。W 杯以後に、大衆は「なでしこ」のことなら何でも知りたがるようになり、マスゴミもそれに同調するようになった。
 チーム内に不協和音があれば、それっとばかりにマスゴミの餌食になる。

 当然、アメリカその他、ライバルチームもあの手この手でチームの和を壊す陰謀を仕掛けてくる。まして白人どもは、日本人が勝つことが許せないのだから、ありとあらゆる妨害工作をしてくると思わなければいけない。監督と選手を離反させることもためらうわけがない。それでマスゴミの記者を使って、ゆさぶりをかける。
 前回引用したスポニチの記事も、そうした工作の一環とも疑ってみるべきなのだ。

 それにまずいのは、「なでしこ」は国内チームからの寄せ集めであることだ。Aチームから選ばれた選手と、Bチームから選ばれた選手は、本来凌ぎ合うライバル同士であり、もともと仲は良くない。しかも誰が代表で試合に出られるかで、ギャラが変わって来る。試合に出れば在籍チームから認められるが、代表に選ばれても出番がなかったら、給与はアップしないだろう。
 カネがからむのだ。日本のため、と思って団結はするが、それも勝ち抜くためである。

 昔、1964年の東京オリンピックで、女子バレーチームが金メダルをとった。大松博文監督率いる日紡貝塚チームがそのままオリンピックに出た。
 当時、日紡貝塚という企業チームに丸投げするのではなく、いろいろな社会人チームから優秀な選手を選抜して、代表チームにすべきだとの意見があった。

 しかし最後は、単独で世界各地の試合で勝っていた日紡貝塚に任せるべきだとの世論が後押しもあり、大松氏がそれなら俺は監督を引き受けないと言ったこともあって、寄せ集め代表チームは見送られた。優秀な選手を選抜しろとは、スポーツも知らなければ指導も知らないアホのいうことだった。日紡チームに任せて大正解だった。

 日紡選手達は、辺鄙な田舎で合宿生活をしていた。ごくたまに気晴らしといって大阪市内に出向く程度。それも監督と一緒。企業のほうも大事な嫁入り前のお嬢さんを預かっているからと女性の勝手にさせなかった。だからこっそりマスゴミの記者が選手に逢うことができなかった。いい時代だった。

 彼女等は会社の仕事をこなしてから夜間にシゴキぬかれていた。「鬼の大松」とまで言われるほどに、情け容赦なく、男以上の激しい練習をやりぬいた。大松氏は女をあそこまでしごくとは、とずいぶん批判も浴びた。すさまじいバッシングだったが、勝つことで評論家どもを黙らせ、「東洋の魔女」とまで讃えられた。

 「東洋の魔女」たちからは、今回のなでしこのようなチームの不協和音は洩れてこなかった。社会には戦争体験者が多く、しごきは当たり前とする風潮がまだ通用した。今ではできないかもしれない。実際、できなくなって、なでしこは柔になって負けたのだ。
 当時の東京オリンピックは、敗戦後、輝ける日本を取り戻すべく、オリンピックを成功させたいとの思いが、国民に共有されていた。

 とくに女子バレーの宿敵はソ連チームだった。ソ連には日本人ならみんな恨みを抱き、なんとか一矢報いてくれと日紡貝塚に必勝を願っていた。彼女たちもカネのためではなかった。婚期が遅れるとの不安のなか、日本のためにと必死に戦ったのである。
 そんな気概は、現今の女子サッカー代表にはあるまい。

 日紡貝塚チームがなぜ東京オリンピックで金メダルに輝いたかというなら、それは彼女らが大松監督を心の底から信じたからなのである。彼女らもなにせ先に言ったような女性の一般性としての性格をもっていたから、チーム内にいつでも不協和音が起きる可能性はあった。
 しかし、大松先生について行けば勝てるとの信念があったから、どんなシゴキにも耐え、婚期が遅れることも忍んだのだ。

 日紡貝塚選手にとって大松監督は神であり、彼の言葉は神のご意志と受け取っていたはずだ。試合に出れば勝つのくり返しが、いやおうなく信じさせたからなのである。だから東京五輪で、金を取れたのは寄せ集めの優秀な選手団よりも、チームの団結があったからというより、選手が監督を信じ込んだその一点が大きかった。
 
 私もささやかながら空手の指導をしてきたが、伸びる人間は私の指導を信じたからだ。信じればうまくなるのは、道理である。その点では、男より女の方が感情的だから、信じるとなれば徹底する。男はなかなか指導者を信じない。

 おそらく大松監督はまず乙女らを「監督を信じれば強くなる」と分からせたのだろう。シンクロナイズドスイミングの井村雅代コーチもそういう指導なのだろう。「なでしこ」の佐々木監督も、ドイツのW杯で勝つまではそれができたはずだ。それが雑音が混じり、新しく代表に入ってくる若手は、そうではない。疑心暗鬼でやってくる。

 しかし、佐々木監督の場合は、次のロンドン五輪サッカーで金メダルを取り損ね、しだいにメッキが剥げてきた、選手が監督はメッキだ思ったらそれまでである。とうとうダメになった。佐々木氏も有名人になり、指導に自信をもつようになったろう。押しも押されぬ名監督のレッテルが貼られ、選手を信じさせるより、俺がやればある程度は勝てるさとの慢心が起きてきたのではないか。

 大松博文監督は、時代もあったがやたらマスゴミに登場しなかった。大阪府貝塚市の田舎にこもって、ひたすら家族も犠牲にしてバレーの指導に明け暮れた。佐々木監督は、言ってみればスターになってやたらにマスゴミに露出した。東京五輪のころ、日本中の大衆が大松の私生活なんか知らなかったし、知ろうとも思わなかった。しかし佐々木監督は、サッカー以外のことでもやたらにマスゴミに出ていた。あれがいけない。下劣なマスゴミはなんとかして、佐々木監督や澤選手の動静や話をもらおうとしたからだが。

 選手もそうであって、日紡貝塚の女子はバレー以外でマスゴミに出ることもなく、当時はPCもなかったから自分でブログをつくって私生活を見せるなんてことはなかった。
 一流への道を歩きたいなら、私生活を大衆にさらしてはいけない。
 私生活をさらけだせば、人気が出る。そうすれば大衆レベルに落ちるのである。

 だから佐々木監督は、「なでしこ」の選手たちにはブログを禁じなければならなかった。驚くべきことに彼自身がブログを開設して私生活をさらけだしている。まだ凡将であったゆえんである。そんなことをすれば選手が監督を信じなくなる。自分たちととんとんの男だとみてしまう。「なでしこ」がリオ五輪予選で負けたのは、彼らが平気で私生活をブログでさらけ出したからだと言っても言い過ぎではない。
 「落ちた偶像」という映画(キャロル・リード監督)があったけれど、佐々木監督は自ら偶像から落ちたのだ。

 大松博文監督に指導された日紡貝塚の選手たちは、いうなれば四六時中監督と一緒だった。バレーだけの付き合いではない。だから選手たちは見事に大松のアタマになれたし、そのアタマで戦えたのだ。「なでしこ」はそうではない。国際マッチがあるときだけ、集合する。それではなかなか戦いに集中しても意志一致はむずかしい。

 国際マッチはどこの国も寄せ集めの選手集団だから条件は同じであるが。
 女子バレーはさほど活躍できていない。それは代表チームを選抜にするのも一因だろう。優秀な選手さえ集めれば勝てるほど勝負の世界は甘くない。かつてプロ野球の巨人がそれで失敗した実績があるのに、スポーツ界は未だに学ばない。

 せんだって、琴奨菊は横綱になれないとブログで予言しておいたが、そのとおりになったでしょ。その種明かしは簡単だ、彼が勝負の世界に私生活を持ち込んだからだ。結婚の箔付けにと初場所で星を買ったに違いなく、場所後に美人妻とテレビや地元の祭りに出ずっぱりになった。勝負師が結婚なんて私生活をデレデレ見せるものではない。だから、琴奨菊には二度と横綱になる目はない。

 

posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(3) | エッセイ | 更新情報をチェックする