2016年04月12日

「治にいて乱を忘れず」とはいかなる意味か


 以前とりあげた、はすみとしこ著『そうだ 難民しよう!』(青林堂)。出版前にサヨクとザイニチから妨害を受けたのに、よく堂々出版してくれた。今もほとんどのマスゴミはザイニチ支配のために無視されている。あるいは差別表現だからと非難するだけ。

 ザイニチは何度も言うが、密入国してきた犯罪者であって、難民・移民ですらない。終戦直後の混乱につけこんで、例えば日本人から駅前一等地などを強奪し、河川敷に勝手に住み着いては役人に暴行して認めさせるなどなど、さんざんに悪事をなしてきておいて、自分たちは強制連行されてきた犠牲者なんだから、弱者なんだからと言いたい放題。

 ヨーロッパに押し寄せた偽装難民どもが聞いたら、「おれたちもそこまで悪質じゃない」と驚くであろう程の卑劣。
 その悪業を、マスゴミ、電通をのっとって報道させないために、多くの日本人は騙されてきた。

 『そうだ 難民しよう!』は、それにいささか風穴を開けた。だからザイニチは血相を変えて潰しにかかり、議員を脅しすかして「反ヘイト条例」なんかを成立させて、言論弾圧すら辞さない運動を始めた。

 サヨクは、弱者をいたわるとか、お隣どうし仲良くとか、偏見をなくそうとか言って、彼ら在日の侵食を許し後押ししてきたが、それゆえに、まっとうな日本人はますますサヨクを嫌い、韓国や支那のクズを憎悪するように、実は仕向けてしまったのだ。
 また、国会前で「あべ政治をゆるさない」とか「バカかお前は」とか「民主主義が安倍によって殺される」なんてことを言うお馬鹿たちは、まだ集まっては喚いている。

 サヨクの常套句が「弱者のいたわり」「お隣どうし仲良く」「差別偏見はなくす」といったところだが、それはいかにも美辞麗句だが、いつでもどこでも度外れに認めてよいものではない。
 こんな日常レベルの話であっても、「弱者は甘えるな、自立しろ」と言えるし、「隣同士はライバルとして競いあえ」でもいいし、「差別があるならがんばって見返してやれ」とも言い得るのである。

 「治にいて乱を忘れず」とか「常在戦場」とかの言葉は、このことを言っている。平和だからわざわざ事を荒立てるには及ばないが、認識を一方的に度外れに甘やかすなり、異端を許さないありかたは良くないという戒めでもある。

 女は弱者といわれたが、男に負けない努力をし学問を修め、学者になったり政治家になったりした人間はいくらでもいる。盲目でも目明き以上の成果をあげた塙保己一とか、ヘレン・ケラーとか、これも枚挙に暇がない。
 イギリス、フランス、ドイツは隣国どうしで、戦争もやったが、ライバルとして切磋琢磨したから、発展した。お隣は仲良くでやっていただけなら、歴史上の偉人も出なかったろうし、偉大な発明もなせなかった。

 ザイニチもそうやって、屈辱をバネにがんばって日本を見返すべく、良い努力、純な努力をすればいいだけのことだった。弁証法でいう「否定の否定」で成長発展をすればいいのに。
 ところが逆をやった。ウソ、騙し、脅し、カネで支配……。
 そういう性格だから、南北朝鮮人は、たかだかノーベル賞受賞者すら出せない(金大中はどうでもいい平和賞で、カネで買ったもの)。世界を動かす偉人も発明もできない。

 伊勢雅臣のメルマガ「国際派日本人養成講座」(4月3日付)で、『そうだ難民しよう!』が取り上げられ、同書をサヨク・プロパガンダの嘘を暴き、真実を伝えていると高評価している。
 その記事のなかに、「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会」なる団体が、この本の出版計画を事前に知って、抗議声明を出したことに触れている。

 「人権侵害のおそれのある出版物に関しては慎重な流通が求められます」「偏見と憎悪の扇動に加担すべきではありません」と、業界団体と書店に呼びかけた。
 さらに「表現の自由は最大限に尊重されるべきだが、野放しの自由ではない。人権侵害は許されない」とも語っている。

 もっともらしい言い訳だが、そういうなら、これまでのザイニチの蛮行の数々、日本人から奪った土地の謝罪と返還が先である。
 メルマガの伊勢氏はあまり有効な反論をしていないで、こんな意見(反論)もあると紹介するにとどめている。
 サヨクの卑劣なのは、公平さとか表現の自由とか、差別はどうのと言うが、その主張を利権にしていることだ。

 共産主義革命が頓挫し、日本に革命の芽がないために、代替行為としてこういう愚劣を言い立てている。それで組合からカネを奪い、役所から補助金をもらい、施設をただ同然に借りて集会なんかをやっている。現下は革命よりカネだ。共産党は暴力革命を唱える集団である。もし権力を握れば一部指導層が旨い汁を吸って、大衆は貧しいまま、都合の悪い言論は暴力で封じる、経済は衰退する、と、こうなる。

 議会もなくなるし、選挙もなくなる。一党独裁だ。海外の共産主義勢力と同調して、資本主義国を敵に回して戦争をしかける。それが彼らの歴史だった。
 だから現在の日本共産党が、国会や地方議会にいることが間違いであり、大衆への目くらましである。本来は非合法団体として、強い監視下に置くべきである。

 暴力革命をあからさまに主張したのでは、支持が集まらないし、組合を騙してカネを吸い上げることができなくなる。だから建前として、沖縄の米軍基地反対とか、「従軍慰安婦」というウソをザイニチと一緒に騒いだり、保育園を増やせとか、この『そうだ難民しよう』を非難したりして、見た目、ソフト路線をとっているだけ。

 そして問題は、根底的に間違っているのは、サヨクのもっともらしい主張そのものである。
 端的には差別だろうが人権侵害だろうが、貧困だろうが、有史以来なくなったことはないうえに、それをいわば前提に先人たちはがんばってきたのである。これは決して、差別があったほうがいいとか人権は無視すべきだとか言うのではない。

 例えば、平安時代末期、平家と源氏は血で血を洗うがごとき戦争をやった。差別や人権侵害どころの騒ぎではなく、殺し合いだった。しかしそれがあったればこそ、義経という英雄が出て、日本の歴史を塗り替えることができたのだ。古代を終わらせ、中世に移行できたではないか。その中世を終わらせ、近世の扉を開いたのは、信長、秀吉、家康などであって、彼らは必ずしも差別反対、人権重視などと「世迷い事」を言っていたのではない。
 そして近代の夜明けをもたらしたのは幕末や維新期の若者たちでもあった。

 彼らに失敗もあったし、殺しもあったし…であっても、彼らが歴史を変えてくれていなかったら、われわれ日本人は、一つには古代社会のまま、つまりアフリカや南米などと同じ、なんの発展もなかった。それどころか、白人の侵略、植民地化にまったく抵抗できなくて、みじめな奴隷国家と成り果てていたのは確実である。
 
 妙な譬えだが、平安時代末期に、天皇や大衆が「源氏も平家も戦争をやめましょう、お互いをヘイトして差別するのはいけません」などと言えたとしたら、どうなっていた? 
 戦国時代に、それぞれ群雄割拠する武将に対して、平和的に話し合いましょう、戦争はなにがあってもいけません、鉄砲も刀も槍もなくして、「9条」を制定して平和主義でいきましょう、なんて言ったほうが良かったの?

 昔の人は、差別や人権を知らないバカだったから、分かっていなかったとでも言うのか。今日と同じ意味ではないにせよ、彼ら昔の人だって理解はあった。そんなことは、当時の和歌とか物語とかを読めばわかるし、宗教だって支持を集めたことでもわかる。にもかかわらず、彼らは命を犠牲にして戦った。戦ってくれたから、日本は今日の繁栄と発展があるのではないのか。

 目先のチマチマした想念というのか、差別反対だの人権擁護だのだけを絶対価値としてはいけないのである。歴史の流れという、壮大なスケールでものごとは判断していくべきだ。
 歴史のスケールで見れば(学べば)、人間は逆境を糧に発展したのである。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 🌁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする