2016年04月18日

桃田選手・田児選手が立ち直るために(1/2)


《1》
 バドミントン男子シングルス世界ランク2位の桃田賢斗選手とロンドン五輪日本代表の田児賢一選手が、違法な闇カジノ店でバカラ賭博をしていたことが発覚。
 4月8日に記者会見し、桃田選手は「今まで育ててきてくれた方々らを裏切ることになり、本当に深く反省している」、田児選手は「責任は全て自分にある」と謝罪した、と報じられた。

 会見の席で、スポーツ選手として違法カジノで賭博を行っていたことに対して、ためらいや後ろめたさはなかったか、との記者の問いに対して、田児選手は「そのことに関しては自分自身、いけないことだとは分かっていたんですが、やめられない自分がいた」と述べたそうだ。記者の問いも、2人がどう答えるか分かり切っているし、それを読者が満足するように書きたいだけの愚劣さ。

 バクチはなぜ、止められないか。そこがなかなか解けない謎である。アルコール中毒もそうだし、覚醒剤や麻薬の依存症もそうだが、一度嵌ったら止められない、抜けられない。
 いけないとわかっていながら止められない、これは優れて認識学の問題である。
 どこぞの体験者の集会で、同じ悩みを抱えるもの同士で傷を舐め合うと、いくらか良くなると言われるが、本当にそうかどうか。

 心理研究家とか、教育研究家とか、カウンセラーとかがウダウダ言っているようだが、彼らの致命的欠陥は「人間とは何か」の原則から解けないことである。
 昔、「酒とバラの日々」という映画があって、ジャック・レモンが主演した名作である。夫婦でアルコール中毒に陥って行く、それはもう悲惨な話であった。そういう映画を見て、ただ「恐い話だな」ですませるのではなく、いったい「人間とは何か」を考察していかなければなるまい。

 以前、本ブログでも天寿堂稲村氏の勉強会にもアル中の人間がいて、その者を立ち直らせるべく、稲村氏は本人に自分の過去を事細かく、事実と反省を書かせてオープンにさせる方法をとられていた。私はそれでは立ち直らないと指摘しておいた。
 それから、本ブログ2013年10月4日付で「アル中からの脱却の要諦」で詳しく解いておいた。
 http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/376628034.html

 アルコール依存や薬物依存、ギャンブル依存にならない予防と、なっちゃったものをどう止めるかは、同じ問題である。
 堕落を止めるには、一言で言って「プライド」これに尽きる。
 人間はプライドがあれば、そうした依存症にはならぬし、プライドに心底目覚めれば止められる道が開ける。それ以外は無理である。
 プライドこそが、人間の言動を自己疎外するのだ。

 この場合の自己疎外とは、俗にいえば規制する、であろう。
 南ク継正著『武道と弁証法の理論』ではこう説かれている。
 「人間が目的的に労働を対象化することを疎外ないし自己疎外という。構造的には労働による人間自身の二重化である。人間は労働を対象化するが、その対象化したものが結果として自分を規制してくることになる。ここまで含めて自己疎外(人間疎外)ということである。」

 自己疎外には、観念的自己疎外と実体的自己疎外の二重構造であって、実体的自己疎外の例としては、人間がパソコンを発明し、利用すれば、そのパソコンを使わざるを得ない人間にならされる(規制される)ことを言う。

 観念的二重化とは、これは頭のなかにもう一人の自分を創りだすことでもある。やさしくは人の気持ちになるとか、もう一人の自分が自分を見るである。これも自己疎外である。疎外をマルクス主義のように悪い意味だけでとらえてはならない。

 要するに、自分のアタマのなかに、もうひとりの立派な、人格者としての己れを創り出して、その像が自分の言動を律するようにする事が、自己疎外であり、それこそが人間の人間たるゆえんだ(動物にはできない!)。
 観念的自己疎外とは、「自分自身の観念を対象化したもの。芸術、文学など。対象化する、とは分身を創るということ」(南ク継正著『武道と弁証法の理論』)である。
 自分のアタマの中に自分がつくった「(立派な)分身」があれば、ギャンブル、酒、薬物依存から脱却できることになる。

 スポーツ選手は、スポーツにばかり熱中して、指導者も勝ち負けや、五輪出場の栄誉みたいなものにだけ拘泥する。勝ちさえすればそれで良いとなるから、自分のなかにプライドある立派なもう一人の分身を創る青春時代を創らせない。

 だから今回のバドミントン選手のように、悪いことと知りつつ、好きだから止められなかった、となるのである。田児選手は、観念的二重化したもうひとりの自分がお粗末で、バクチをやろうぜという悪魔の囁きをしてしまう“分身”を創っていたのだ。
 
 五輪担当の遠藤利明大臣も、スポーツ庁長官の鈴木大地も、通り一遍のどうでもいいコメントしか発せられない。どうしたら、こんなみっともない選手が出て来るのを止められるか、言えないのだ。遠藤も鈴木も、自分が「お飾り」でしかないことに恥じる思いはないのか?

 桃田選手も田児選手も、「反省してます」と言うだけで、それでもう抜けられる、止められると思っているやに伺えるけれど無理である。いずれまたやるだろう。清原も薬物をまたやるだろう。なぜなら、彼らは、自己疎外をやっていないからだ。平たくいえば、人間としてのプライドを創りあげていない。
 そういうことはまずもって、青春時代に創るしかなく、大人になればまず創ることはできない。

 だからこれから結婚する若い人に忠告しておきたいが、相手がアル中や酒乱であるか、ギャンブル好きならば、結婚はやめておいたほうがいい。直らないどころかますます悪化する。結婚したい相手のアタマの中に、観念的に立派な人間を創りあげているかどうかを見極めることが大事になるのである。

 観念的自己疎外を高校生レベルで説くならば、誰か偉人、それもスポーツで金メダルをとったなんていう愚劣、大衆レベルではなくて、世界史に残るほどの偉人を儀表(手本)として、自分の志や日々の言動を規制してかかることなのだ。自分が例えば野口英世を尊敬するのなら、彼の欠点は見ることはなく、ひたすらにすごい人として崇めて、自分のアタマのなかに野口英世を創り出すのだ。

 その観念的に創り出した自分にとっての至高の野口英世の像から、声が聴こえたらしめたものなのだ。「お前、酒には溺れるなよ」とか「ギャンブルに溺れるのは卑しい人間だぞ」という、声を聴き取って、その声に従うことで、野口英世の高みに登ろうと努めること、これである。
 清原にそれがこれから創ることができれば立ち直るだろうが、おそらく誰もそれを周囲が指導してやれまいから、また薬物に手をだすだろうと私は言っているのだ。

 ただ、彼らバドミントン選手たちを闇カジノに手引きしたのは、「女」だったと言われる。だとすると、彼らを五輪に出場させまいとするどこかの国の工作だったかもしれない。選手がハニートラップまがいに、騙されて足を突っ込んだ可能性もある。だとすれば、あまりに選手には危機意識がなさすぎだ。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(4) | エッセイ | 更新情報をチェックする