2016年04月19日

桃田選手・田児選手が立ち直るために(2/2)


《2》
 戦前は、多分に虚像ではあっても「天皇陛下」を多くの国民が観念的に二重化して、アタマの中に像を描いて、それを自己疎外の軸にしていた。あるいは国家、を二重化していた。
 それを例えば「教育勅語」として、子供のときから叩きこんでいた。

 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
 ……


 実に格調高い名文である。恥ずかしながら私は暗誦できないが、戦前の人たちはこういう格調高い日本語の粋とも言うべき「勅語」で自己疎外の軸を創ることができたのである。

 こういう優れた自己疎外ができる指導を天皇の名で受けられた日本人は幸せだったと思う。そんな国は世界中どこにもない。あるのはせいぜい宗教。
 なのに…、人にこれだけ立派なことを言う天皇自身が、戦争に負けたら陸軍幹部に責任を押し付けて逃げたり、しこたま蓄財をしてタックスヘイブンに隠したりしたから、「教育勅語」が顧みられなくなった。ヒロヒトを擁護する人は、戦争責任をとった南北朝の光厳天皇の魂と比較してみればいい。

 敗戦のショックで、日本人はそうした観念的二重化を志向しなくなり、ボロボロになった。「歌を忘れたカナリア」になった。NHKは朝のドラマなんかで戦前を取り上げるが、戦前の人間が「教育勅語」を精神の支柱にしていたことをわざと無視するから、ブタドラマにしかならない。
 戦後は教育勅語自体も否定され、それがいかなる効力を発揮していたかも省みられることなく、個性大事になり、自己疎外は忘れられた。
 だからバドミントン選手が闇カジノに興じることがなぜいけないかを説けないで、法律で禁止されているから、としか言えないテイタラク。

 人間は、創り創られて人間になるのである。これが「人間とは何か」の原理原則だ。
 だから私たちのココロやアタマ、まとめて言えば「認識」は生まれつきの「ある」ものではなく、創り創られる。それゆえ、今度のバドミントン選手の違法賭博に関して言うなら、彼らは「いけないとわかってはいるが、止められない。ちょっとだけならいいだろう。バレなければいいのさ」、そういうココロを子供のときから創ってきたのだ。

 私たちの認識は、端的には反映像である。何をどのように反映してきて、それをいかに像として定着させるか、させてしまったか、である。小学校のときに良い先生に出会えば、その尊敬する先生を反映し、その先生になろうと自分を疎外していく。
 しかし、像は誰でも人間なら創るには創れるが、おおもとの反映した像というのは、像そのものでしかない。誰でも飯は食うと同じだ。あるいは誰でも生殖器は持っているからセックスはできる、とも言える。
 
 そんな像は、良い像であったとしても、四十代でダメになると言われる。自然成長的に創った像、あるいは像の創り方が技化するわけだが、そういう像とその創り方は四十にもなれば、ダメになっていくものである。
 早い話が、若い時は誰でもなんとか自然成長的に情熱は燃えるけれど、肉体の衰えや変化のない日常に慣れて、情熱が冷めていくでしょう?

 本当は、創ってきた像を持たねばならないし、創る像の創り方を技化しておかなければいけない。創った像、創った反映のありかたは、年取っても消えないと言われる。
 情熱の燃やし方を技化して、八十になろうが九十になろうが、情熱的であるように、創りつづけることが、人生の秘訣である。
 桃田選手や田児選手は、まともな像の創り方というものを、意識的にやらなかったから、「いけないとわかっていながら、やめられなかった」になったのである。

 「いけないとわかっている」ことを、必ず自己疎外できるようなココロの働き方に、技化することが、まっとうな像の創り方、反映の仕方なのである。だから反省しました、ニ度とバクチはやりません、と言っても、根底的に自分のココロの創り方がわかっていないし、どうしていいかもわからない人生を歩んできたから、お手上げなのである。
 本稿は、観念的自己疎外を中心に説いてきた。本当はさらに、認識が感情になるように創らなければならないのだが、この件は来週にでも詳しく説きたい。認識がバクチ、薬物、アルコール依存にならない感情を「創る」ことが肝心なのである。

 もしかすると、犯罪者として刑務所に入れられる恐怖が、バクチを押しとどめるかもしれないが、それでいいのか? そうではなく、すくなくとも「いけないとわかっているけど…」というココロの動きをしない、したくてもできない、そういう認識の創り方自体を技化するやり方ではない。

 スポーツ関係者、指導者は、そのスポーツの上達法しか知らない人が多過ぎる。学校の教師でいうなら、ある教科を教えること、テストで良い点を取れることだけしか教えられない、バカ教師と同じことであろう。
 知識を習得すること、あるいはある競技を上達させることだけではダメで、その教科なら教科で、どういう反映の仕方・させ方、認識の創り方を身につけていくかと直接の教育と指導でなければならないのである。

 数学で譬えるなら、三角形の面積を求めるとは、単純に計算の仕方を暗記して、面積の答えが出せるだけではない。その計算の仕方の論理はいかなるものか、答えの出し方の一般性から学ぶ対象への反映と関わり方の技化を修得することにまで踏み込まなければなるまい。

 楽器の修得でいうなら、ある楽器を演奏できるようになるだけではない、楽器を修得し、演奏できる過程で、いかなる反映の仕方を楽器を通じて学習するかにかかっている。それを今は、自然成長性に任せているのではないだろうか? 楽器が演奏できたら楽しい、ということで悪くはないが、それでは今度の桃田選手らのありようと変わらないのではないか。

 彼らの場合はたまたま違法なバクチをやっちゃったので、世間の指弾を浴びることになったが、彼らの過ちの一般性を見て取らねば、私たちもただの「他人の不幸は密の味」、で終わってしまう。オリンピックでメダルを取れたかもしれないのに「もったいないことをした」とする感想があったが、そんなことはまだ人生の先が長い彼らにとってはどうでもいいことだ。

 巨人の選手が野球賭博をやって追放されたことも同じで、追放して終わり、あるいが一罰百戒でプロ野球選手に自覚させるだけで終わりとは、なんとも情けない組織である。

 


posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(6) | エッセイ | 更新情報をチェックする