2016年04月26日

認識を感情にするとは(2/2)


《2》
 本稿ではややテーマとずれるので昨日は書かなかったが、感情を創るには五感覚器官が生き生きと働かなければならない。感覚器官が鈍く育てば、感情も豊かにならず、感情薄い人間にしかなれない。受験勉強一直線だった子供は、この五感器官を磨くことなく育つから、逆にすぐキレたりするし、人の気持ちがわからない人間に成り果てる。

 さて、話を戻す。
 万人と仲良くしていたら、感性は磨かれない。日本人はブタ小屋を拒むし、嘘つきとは仲良くしないことで感性を磨いてきた。つまりは認識がまっとうに感情となるように、先祖代々取り組んできたのである。
 
 私の両親は、生前、絶対に老人ホームには入らないと言っていた。そのとおりに自立していた。そういう両親に育てられて私は本当に感謝している。
 老人ホームに入るにも事情はそれぞれあるのかもしれないが、あそこはブタ小屋である。老いたからとて、よくあんなところで暮らせるものだ。

 他事ながら、天寿堂の稲村氏はあるブログのなかで、人を揶揄したり揚げ足をとったりするしかできないブタと熱心に(仲良く?)論争している。「ブタに真珠」の諺があるように、いくら学問を説いてもわからない者はブタなのであって、それと仲良く関われる神経が私にはわからない。相手を嘲笑することしかできなくて、嘲笑できる自分のほうが頭がいいと思いこんでいるクズと会話ができるとは。

 わが流派では毎年カレンダーを創って会員に配布している。皆さんにお見せできないのは残念であるが、今年には初めて、武道哲学創始者たるわが師の写真が掲載された。まさに居合刀を抜かんとする瞬間を捉えた見事な写真である。
 その白く光る刀刃にはいわゆる殺気があふれ出ている。見る実力がある人がみないとわからないとは思うが、これぞ刀刃にもすさまじく意識がこもる実例でもある。まさに達人のオーラが出ている。

 見せられないで説くのはむずかしいが、そこから認識がどれほど研ぎすまされているレベルか、あるいは今回のテーマでいえば、「認識が感情になっている」かが、捉えられるのである。私はカレンダーを見て興奮を禁じ得なかった。
 この殺気を帯びた刀刃から、敷衍的にいうなら、これが弁証法なんだなとか、学の高みなんだなとか、認識学の実体化とはこれだなとの感想が浮かんだことであった。

 この認識が感情になっているレベルのすさまじさを知らず(知ろうともしないで)、弁証法ってこんなもの、とか、役にたたないとか、哲学の一種でしょとか、揶揄的言辞を弄ぶ連中は論外である。なんにもわかっちゃいない。

 われらが師を、マスゴミに出ていないくせにとか、有名じゃないからたいしたことがない、と低く見る向きがあるが、マスゴミのようなブタ小屋を拒否してきたからこそ、師はこういう認識の高みを獲得したのであって、ただ居合刀を振っていれば到達できた境地ではないのである。
 
 ブタと付き合うことはブタ小屋に入ることだ。そこで恐ろしい相互浸透が起きる。ブタを熱心に説得しようとすれば、己れの感情をさて置いて…、にならざるを得ない。レベルを下げて相手にしなければいけなくなる。そんなことをしていれば、學問とか藝術とかで最高峰をめざそうとの志がある者なら、一気に落ちるのである。

 4月14日のブログで作家・絲山秋子の愚かな見せ物芸を批判したところ、意外にも「この記事はわかりやすい」とコメントを幾つかいただき、かえって戸惑ったけれども、絲山秋子の場合も公開書斎なんかやれば認識がズンだれる。大衆に合わせた認識に落ちる、と言いたかったのだ。ブタ小屋に入る恐怖がないのが信じられない。

 話を稲村氏に戻せば、彼はどんなブタであっても論争することで勉強になることがあると言いたいだろうが、ブタと付き合うことで落ちる恐怖がないことは恐いことなのだ。そうではなく、学問を目指すのなら、屹立していなければならない。そうでなければ認識は磨かれない。そのことを、先に紹介したわが師の居合抜刀の写真が説いている。

 指導とは、相手の要求に応えるだけでなく、本当は相手が本来要求しなければならないことに応えることなのである。わが師の居合抜刀の写真こそ、弟子に居合のすごさを教えているだけでなく、本当はお前たちもこういう高みが分からなければいけない、この高みこそが学問であり認識学である、と応えているのである。その二重構造がわからなければ話にならない。

 一流の学者たるもの、一流の藝術家たるものは、社会に屹立することで、あるいは周囲を睥睨することで、言葉でいくら説いても及ばない「高み」を後進のものに教え悟さねばならないのである。まして、稲村さんの論争相手は、はなから稲村さんの説くところを理解する気がかいもくない相手なのである。
 国会でいえば、元民主党が旧社会党よりひどい「反対のための反対」とか「政権が憎い」だけの感情的対応で、国家とはをわかる気がないのだから、心底国民からバカにされている。それがわからない元民主党と似ている。

 戦時歌謡に「愛国の花」があった。一番は「真白き富士の気高さを 心の強い楯として…」となっている。知らない方はどんな歌かネットで探してください。日本人は古来、富士山をただの高い山とは見ずに、精神性の高みの象徴として捉えてきた。この歌詞もその気持ちを見事に捉えている。富士山は聳え立っているからその精神性の高みの比喩足り得てきた。人間もかくありたしの儀表として日本人は仰ぎ見てきた。

 それが支那人旅行者ごときに汚されるのは耐え難いことだが、その威厳は失われていない。変な譬えだが、富士山は周囲の山と仲良くしていないではないか。「人もかくあれ」なのである。
 また国会の例で言えば、政権はもっと屹立しなければならないのに、議会が大事、民主的でないと…、仲良く話し合って…、になっているから、政治が落ちたのである。
 バカと話し合えば落ちる。本来は屹立して、ブタを睥睨する存在たらんとするべきである。

 またいくつか例を挙げるが、クルマで言うなら、一千万円もするジャガーとかベンツとかの格調高い乗用車と、百万円もしない大衆軽自動車と、どちらと相互浸透したい(乗りたい)とあなたは思いますか? 軽自動車に乗れば、軽自動車の感性が相互浸透するのである。
 ベートーヴェンの音楽と、SMAPの歌と、どちらが聴きたいですか?SMAPの歌は、人によっては楽しいというだろうが、ブタですよ。

 高級車、ベートーヴェンの音楽、これらこそが、認識が高いレベルで感情になっている実例なのである。自分の認識が、SMAPの感情になるのがいいか、ベートーヴェンの感情になるのがいいか。選ぶのはあなただ。
 セブンイレブンにエロ本が置いてあるのはいけないと書いたら、置いてあった方がいいというコメントが来たが、コンビニにエロ本があるのは平気な感情で認識ができている馬鹿な男なのであった。

 先日取り上げた保科正之は、屹立した政治家であり、指導者だった。ものごとを議会に図ったり、多数決で決めたり、目安箱を設けたりはしなかった。ブタと交わらないから、優れた業績を残したのである。

 東京オリンピックのエンブレムも、ブタのデザイナーになあなあで依頼したから、盗作問題を起こして世界に恥をかいた。
 佐野なるご仁を見れば、粗末な認識しか持っていないことが服装、顔つき、話し方などから見てとれるのに…。
 やり直しでも、これまた一般公募。その手続きがまったくのブタである。五輪の委員会は大衆の知恵を集めれば、いいデザインが見つかると思っている。そうではなく、これはという認識が感情になっているデザイナーに任せれば良かったのである。そういう優れたデザイナーがいるかどうか、だけれども。
 




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(9) | エッセイ | 更新情報をチェックする