2016年05月31日

トランプ現象の背景にあるもの


 アメリカ大統領選挙の共和党候補ドナルド・トランプについて、しきりに解説する声が聴こえてくる。
 「トランプ現象」と呼ばれる背景にある社会的変化と何か、アメリカがこれから何処へ向かおうとしているのか…。

 アメリカ大統領は、アメリカ国民が選挙で選んでいると民主的手続きが信じられてきたわけだが、実際のところ選挙キャンペーンは八百長であって、実質はユダヤ金融資本が決めてきたのである。民主党と共和党を交互に政権に就けて、大衆に政権を選ばせていうように仕組みながら、1年ほどかけての選挙キャンペーンは、ただのお祭りで、大衆にとっては4年に一度の夢を見る期間が与えられるのみ。あるいはガス抜き。

 さはさりながら、おそらく全部が全部ユダヤの言いなりになるわけでもないし、いくらかは大衆の意思も考慮され、また大統領やその周辺のスタッフの資質、政治姿勢も加味されてものごとは進んで行くのであろう。
 私は今度もそうだと睨み、どうせ揉めながら候補者選びが進もうと、最後はヒラリーに決まるのだろうと思っていた。

 ユダヤ金融に関わるウォールストリート筋がヒラリーと親和性が高いのだから、それで決まるはずだと。しかしどうもヒラリーが、ユダ金から次期大統領を確約されたことで思い上がって、ボロボロとミスを犯し、順調であるはずの候補者選びでケチをつけた。ユダ金も頭を抱えたのではないか。

 一方でCNNなどのメディアが当初は共和党はトランプ候補を取り上げていたようなので、私は賑やかしだろうと思いつつも、もしかしてユダ金はこちらのハチャメチャ男を米大統領に仕立てるつもりなのだろうかと怪しんむようになってきた。勝敗がついていないうちに先くぐりはどうか…との思いもあって、控えてきたが。
 
 宮崎正弘氏はメルマガで以下のように解説していた。
 「『反知性主義』という、米国政治に間歇的におきる噴火現象とも捉えることが出来る。この『反知性主義』と呼ばれる大衆運動は、プラカードに『物言わぬ大衆はトランプとともに立つ』と掲げ、トランプ支援の動きが本格化したのは予備選直前、2016年1月4日だった。
 ミシシーピー州のボロキシーという片田舎に、この街の歴史始まって以来、1万3000名の有権者が野外集会場に集まり、その凜烈な寒さのなか、じっとトランプを待っていた。
 壇上にトランプが登壇すると一斉にウォーという叫び声、プアホワイトの大半が待ちに待った人物が登場したのだ。」

 なるほど。
 ではそうしたプアホワイト不満分子たちの、思いとは何だろうか。
 私は幾つもの識者の見解を見聞きしてきたが、一番印象にのこっているのは高山正之氏の話だった。これは「日いずる国」というトーク番組で、彼が語っていたことである。
 ざっと、以下のような内容だった。

 トランプが言っていることは、1980年から90年代に言われた、日本の防衛ただ乗り(批判)論である。日本は商品物価を下げて米国に売り込んでいるから、アメリカの製造業の雇用が奪われると言って、日本バッシングが起きたがそれと同じ現象だ。ヒラリーの考え方も同じ。
 
 トランプが終始言うのは「アメリカは正しい。悪いのはカラードだ。アジアやメキシコだ」と。これはアメリカ建国以来の、インディアンを皆殺しにしていい、という時代からの発想のまま。『白鯨』を書いたハーマン・メルヴィルは「アメリカは現代のイスラエルびとだ、神に選ばれた民であって、アメリカ大陸という神から与えられた国に来た聖なる使命を持った人間である」と言った。

 旧約聖書の民数記には、イスラエルの民はカナンびと、ペリシトびと、ミディアンびとなどを皆殺しにしろと神は言っている。神殿はぶち壊せ、と。処女だけは兵士が慰みものにしてかまわない。この傲慢な“思想”をユダヤ教徒とキリスト教徒は、インディアン鏖殺(おうさつ)の正当性の根拠にした。
 
 また、ダーウィンの「種の起源」による適者生存も利用された。優秀なものが生き残り、悪いものは淘汰される。アメリカ人はこれに喜んでとびつき、白人だけが適者で、黒人も黄色人種も不適格だから殺していい、奴隷にしていい、と。
 ところが彼らのその“思想”を日本人が打ち砕いた。日本が戦って白人支配の植民地をなくしてしまった。

 もし日本が戦っていなければ、20世紀も21世紀もそのまま白人が適者づらして世界を支配していただろう。日本人は、白人より徳は高く、優秀である。日露戦争でも勝ち、大東亜戦争でもはじめのいいところでは勝った。負けたのはモノがなくなったからだった。原爆を落とし日本人をやっつけたと、今でもアメリカ人は考える。しかし日本がやったことはすべての植民地をなくしたことで、それが世界中にあまねく知れわたった。

 白人国家は植民地を失ってみんな貧乏になった。とりわけヨーロッパの凋落はひどく、困った挙句みんなで助け合いましょうといって出来たのがEUである。EU にはもともと原資がない。武力と奸計で植民地から苛烈な収奪をして富を得てきたからだ。自分たちの才覚でやっていかなければいけないのに、あまり才覚がない。今は左前になっている。格好つけて旧植民地から人を入れたり、難民を受け入れたりしたが、口では偉そうに言ってももうアップアップ。

 アメリカ一は資産があって頑張れたが、だいぶ傾いてしまった。
 アメリカは、言うことをきかない国を経済封鎖してきた。イラン、ミャンマー(ビルマ)、キューバ。軍事独裁国家だから懲罰しろ、と。しかしミャンマーは、イギリスに植民地支配の賠償をしろと突きつけた。だから長期の経済制裁を受け、あげくに英国の犬、アウンサン・スーチーを送り込んで黙らせることに成功した。
 
 ミャンマーのように、旧植民地国が旧宗主国に賠償を求め始めたらまずいからこそ、経済制裁をし、悪口を言いたい放題やった。
 ところが2015年、イラン、ミャンマー、キューバで相次いで経済制裁が解除された。もう白人どもには、まつろわぬ国家を傷め付ける余裕がなくなってきたのだ。白人どもは、これまで楯突いた連中にもすり寄って、もの欲しさに出かけていくらかでも生活基盤を取り戻そうというのだ。それくらい、行き詰まっている。

 ヨーロッパはガタガタ、アメリカも開拓時代に先祖返りを始めた。貧すれば貪す、である。アメリカ大統領選もどう転んでも良いことはもうない。
 アメリカ人大衆は、日本バッシング、支那も嫌いになってきた。彼らは日本や支那を叩くヒラリーにもトランプにも賛成している。日本も支那も敵だと。

 今のアメリカの状況は、F・ルーズベルトがニューディール政策をやった頃と似ている。彼がやった失業対策は失敗して却って失業者が増え、もはや戦争しかないと言って、日本に戦争を仕掛けたのだ。支那も同じ状況になっている。習近平体制はもうダメ、あれは奴隷を働かせて成り立っていた国だった。経済は右肩下がり、まともに株式市場すら開けない。中共もルーズベルトと同じ、公共事業の失敗である。

 中共は経済が行き詰まり、この大衆の不満を戦争ではけ口をつくることを織り込んでいるようだ。もし中共が日本に攻めてきたら日米同盟はどうなるか。アメリカは日本も支那も嫌いだと言っているのだから、日中戦争勃発は拍手喝采以外のなにものでもない。
 ということは、日本は今度の大統領選を見て、日本も核を持った大国ダメだということだ。

 アメリカの大統領候補たちは、日本や支那を捨て駒と考えている。自分たちだけ生きていければいい、と保護主義丸出し。トランプが大統領になれば、日本の自立は早まる。幻想を吹っ切ることができる。

 高山正之氏は概ね、こう説いている。アメリカの人種差別意識、選良意識、自惚れ傲慢、そして経済的行き詰まりを背景にトランプが登場してきているとの分析に賛成である。
 冒頭に紹介した宮崎氏による、プアホワイトの不満は、旧態依然の古いアメリカの考え方から進歩はしていない。

 アメリカもユダ金(ウォール街)も、現状をF・ルーズベルトの時代と相似していると見てとって、ふたたび不満なプアホワイトを煽らせて武器を手にとらせるか、戦争を歓迎するべく、扇動者としてのトランプを据える予定なのだろうか。




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2016年05月30日

韓国サッカー選手の認識の歪み


 『韓国・浦項とレッズ西川らあわや乱闘 ピッチに浦項のキム・グアンソクがゴミぶちまけ 韓国メディアは「観客がゴミ投げた」』という記事が産経新聞web版(5月4日付)に掲載された。
 例によって、反日親韓の毎日新聞はしらんぷり。NHKも朝日も東京新聞もたぶん無視だろう。スポーツ紙のweb版にもなかった。

 これは非常に問題になる事件である。
 ご存知ない方はぜひ以下のYouTubeでご覧いただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=zU9EkxjO-bI
 以下が産經新聞の記事。やや長いが引用する。

     *    *
 5月3日に埼玉スタジアムで開催されたサッカーのアジア・チャンピオンリーグ(ACL)1次リーグ、浦和−浦項(韓国)戦で、韓国選手がスポーツマン精神を疑わせる行為を行い、浦和の西川が激高するシーンがあった。韓国メディアには、浦和サポーターが浦項選手を狙って異物を投棄したと報じるメディアもあり、相変わらず自らの行為を正当化しようとする傾向がうかがえた。
 問題のシーンは試合終了し、両チームの選手があいさつを交わす場面で起きた。

 選手がピッチの中央に集まる際に、浦項の選手がテーピングをピッチに投げ捨てた。浦和の選手が指摘していったんは拾ったものの、あろうことかキャプテンマークを腕に巻いた背番号「3」のキム・グアンソクが拾った選手からゴミを奪って再びぶちまけたのだ。
 これを見た浦和選手が憤慨。西川は鬼のような形相で落ちているテーピングを回収し、相手選手に詰め寄った。ズラタンや柏木らも猛抗議。ベンチから大勢のスタッフも飛び出し、乱闘寸前になった。

 3万人以上が詰めかけた埼スタジアムには浦和サポーターの浦項への大ブーイングが響き渡った。「拾えよ」「ふざけんなよ」「サッカーやめちまえ」などの声がこだました。
 (中略)

 普段温厚な西川がこんなに激怒する姿を見たことがない。それほど浦項の選手がとった行動は、スポーツマン精神からかけ離れたものだった。
ところが、韓国メディアのオーセンは、浦和選手の証言とはまるで違う状況を報じている。浦和サポーターが過激な行為で知られると紹介したうえで、試合後に「浦和の観客が浦項の選手を狙って異物を投棄した」とし、「何人かの浦項の選手がゴミを拾ってしまうなどの反応をした」と報じた。さらに「最終的には興奮した日本選手たちと浦項の選手たちが悪口を言い合い、体当たりを行うなど、互いに衝突した」と伝えた。

     *    *

 韓国メディアの言い分は、まったくのデタラメである。厚顔無恥。ちゃんと動画に映っている。明々白々。レッズの選手が正しい。観客のブーイングもまっとうだ。見て見ぬ振りをしたら、日本人の風上にもおけない。乱闘を制御しているのも立派だ。
 ま、このゲス選手が韓国人だとおおっぴらになって、一人でも多くの日本人が嫌韓へと覚醒すればいいし、彼らのあまりにパセティックな行為を報道しない反日サヨクメディアもいっそう愛想を尽かされていくだろう。

 この韓国チームキャプテンの行為は、威力業務妨害罪にあたるはずだから、日本サッカー協会はさっさと警察を呼んで逮捕させれば良かった。犯罪を見てみぬふりをしてはいけない。

 韓国人はものを考える力がないと言わざるを得ない。教育を人間のアタマとココロの問題と捉えずに、大人になってずるがしこい人間にして、人を踏みつけても構わないからずるくカネ儲けするように仕向けるために学校教育を施している。
 その結果の一が、反日であって、それがあのサッカー選手の直下(じきげ)に日本人に反抗する振る舞いに及ぶ。

 一つには気の毒だが、韓国には国民の範となる歴史上の人物がいないのだろう。日本にはいくらでもいる。多少のフィクションが混じっていようとも、例えば仁徳天皇、聖徳太子から始まって、義経、信長、秀吉もそうだし、文学藝術の分野でもいくらでも挙げることができる。それらを日本人は儀表として生きざまを決めてきた。韓国にはいないかごく少ない。

 「月刊アカシックレコード」の佐々木敏が、こう書いていた。
 今の韓国人は併合時代に日本にされた(支配された)ことに傷心しているのではなく、「自分たちが日本人でない」現実に傷付いているのだ、と。韓国人は日本人に対してどんなに反日愛国的なことを言おうと、ホンネでは、日本人のほうが韓国人より優れていると思っているからだ、とも。

 私は、日本に併合された屈辱と、日本人より劣っている劣等感の両方だと思う。佐々木のいかにも利いた風な推断には賛成しない。
 ホームレスも年期がはいってくると、何十年と体を洗っていないために、垢は皮膚にも服にもこびりついて変質し、得体の知れない固形物になって全身を覆う。おそらくその垢の固まりから毒茸も生えるだろう。
 髪の毛も黒い異物となって固まり、異臭すさまじくとても50メートル以内に近づけるものではない。

 韓国人の反日感情はこれと同じく、もはやただの垢レベルではなくなって、体に浸透して、脳の実体の要素と化しているから、佐々木敏のいう「認識レベル」では済まない。垢なら洗って落とせるが、もう無理。
 今回のサッカー試合の韓国人の狼藉は、まさにもう脳細胞が反日化しきっていることの現れである。異臭を放つレベルになった。

 韓国がどう崩壊しようと知ったことではないが、反日教育をすれば、それは反日だけでは済まなくなるのである。社会や人を恨む妬む嫉む僻むという感情と一体化した国民の認識を創ることになる。あたかも稟質(ひんしつ)のようになり果てている。
 「人を呪わば穴二つ」とは、人に害を与えようとすれば、やがて自分も害を受けるようになるというたとえなのだが、穴は2つではおさまらない。この諺には認識論が欠けている。

 人を呪うココロは過剰に培っていけば、それは機能レベルから実体レベルに量質転化して、何事に対しても呪うしか脳が働かないようになっていくのである。どんなに自分にミスがあったり勘違いしたりしていても、「呪う」がすぐ機能するから、反省はいっさいなくて、都合が悪ければウソをついてでも我を通そうとするようになる。

 中東地域の、キリスト教、ユダヤ教、イスラムシーア派、イスラムスンニ派の憎しみあい、呪いあいは、何千年と続いてきて、互いにもう赤ん坊のときから身内以外の人を憎悪する脳になっている。我々としては放っておくしかないが、そのいがみ合いに目をつけて欧米人や支那人が介入して戦争を煽って武器弾薬を買わせようとする。

 そうした邪悪なユダヤ資本勢力は、こういう韓国サッカーチームのバカを見てほくそ笑んでいることだろう。ここにも商売のネタが転がっている、と。日韓に憎悪を焚き付けていけば、中東とか東欧(旧ユーゴ)のような戦乱を引き起こせる、と。

 これは高山正之氏が語っていたことだが、スポーツの世界では、日本だけが世界中の国と違うことをやっている、と。例えば、試合の前と後とで、日本人選手は試合場、コート、プールなどで一礼をする。外国人はそうではない。
 大相撲に見るように、外国人力士はハワイもそうだったしモンゴルでも、仕切りのときから相手を睨みつけている。それを最近は観客が愚劣にもやんやの拍手を送るようになったが、実に見苦しいと本来の日本人なら眉をひそめる。「礼」の精神がないと高山氏は説いていた。
 韓国人にも支那人にもない。彼らは白人に近い。

 日本人ときたら、あれは外国でのサッカーW杯のときだったが、ゲームが終わったあと、日本人サポーターたちはいっせいに掃除をしゴミを持ち帰ったことがあった。一部の外国のメディアや民衆はそのありようを称讃したが、おそらく半分以上の外国人は「こざかしいことしやがって」と憎しみを抱いたのではないか。
 韓国人もおそらく、悔しさと妬みと憎悪を抱いただろうと推察できる。なんで日本人ばかり良い格好しやがって、おれたちは…、と。

 その恨みが、本稿で取り上げた醜悪な韓国選手のピッチ上でのゴミ棄てや、韓国メディアの反応につながっているだろう。韓国選手はきっと「そんなに日本人がゴミを拾うのが好きなら拾わせてやる」と思ったに違いない。




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2016年05月28日

人工国家イスラエルの欺瞞(2/2)


《2》
 第二次世界大戦後、イスラエルを建国したのはアシュケナージ系ユダヤ人で、彼らは国家を創るのに“国民”を必要とした。ずいぶん汚い手も使って、ユダヤでありさえすればいいとばかりに、世界中に散らばる“同胞”をかき集めたのだ。

 千年も二千年も中東に住みつづけ、それなりに定着しているユダヤ人は、新天地イスラエルへの移住をためらっていた。それでシオニストたちは、例えばイラクならばイラク人から迫害され、脅されているユダヤ人を救うと称して、イスラエル工作員がひそかにユダヤ人地区でテロを頻発させた。イラク人がユダヤを迫害していると芝居を打って、やむなくイラクのユダヤ人がイスラエルに逃げるしかない状況をつくった。
 中東のアラブ人たちがイスラエルを憎悪するのは当然であろう。

 イスラエルは建国以来、周辺のアラブ系住民に囲まれていた。そもそもアラブ人(パレスチナ人)が住んでいた土地をイギリスやフランス、アシュケナージらが強引に割り込んでアラブ系の住民を追い払ったのだ。根拠は相変わらず聖書の記述だけで。
 ユダヤが敵視されるのは当然である。ユダヤとアラブは紀元前から反目しあっているのだから、どだい友好できるわけがない。

 イスラエルはパレスチナ人への対抗手段として人口を増やし、アメリカ在住のユダヤ人の献金で儲け、せっせと砂漠を緑地化して繁栄していった。砂漠に文明社会をいきなり築いたのである。文明社会には、富裕層とそれを支える下層階級が、(嫌な言い方だが)必要な要素である。
 富裕層を目指したアシュケナージは、単純労働や兵士、人が嫌がる汚い仕事をさせるためにも、貧しい階層を意図的に創らねばならなかった。

 それで目をつけられたのが、エチオピアなどで最下層に押し込められていた、「聖書」だけが根拠のユダヤ人を連れてきて、働かせることだったのだ。キブツという集団農場は社会主義的試みとして、きれいごとを言ってつくられたが、下層民には土地を持たせない仕組みにして、農業に従事させ搾取したのであった。
 体の良い奴隷だが、アシュケナージの言い分としては、エチオピアで貧困、飢餓、差別に苦しむよりイスラエルはましだろうとうそぶいたのである。

 歴史は繰り返すと言われるが、昨年あたりからヨーロッパで大問題となっている中東からの難民・移民問題は、いわば形を多少変えた「モーセ作戦」「ソロモン作戦」なのであろう。
 ヨーロッパの資本家階級は、安価な労働力が欲しいだけなのだ。

 当然ながら、聖書は紀元前からしたためられてきた歴史書でもないし、史料でもない。ユダヤ教と言っても土俗宗教としては多種多彩だったろう。そのうえイエスは古代ローマ帝国がデッチあげたイカサマ宗教なのだから、アダムとイヴだのモーセだの、シバの女王だのは神話である。
 それを強引に根拠に、ユダヤ教キリスト教の宗教者たちは、既得権益を創り維持するために、貧しい民を洗脳し、支配の根拠としていった。

 今の難民・移民は、本当のシリアからの難民は少なく、それに便乗して、少しでも楽な生活がしたいと中東、東欧、北アフリカからやってくる連中である。それも悲惨の極みだが、ヨーロッパの白人社会に入れば入ったで、虐待・差別で苦しみ続けることは必定である。
 白人の一般庶民も苦しむ。

 ヨーロッパで、かかる難民・移民を排斥する主張を掲げる政党が支持を増やしているけれど、それを日本のマスゴミは「極右」とか「ネオナチ」と罵倒する。そういうレッテル貼りは実情を何も考えない。平和で経済的に安定してる欧州の社会に難民・移民への強い斥力が生まれるのは当たり前である。

 安倍政権と自民党は愚かにも外国人労働者を大量に受け入れ、不足がちな労働力を確保しようとしているが、官僚も政治家も、「数字」しか見ていない。彼ら受験秀才の成れの果てが、才子才に溺れて最悪の政策を強行し、苦しむのは庶民になる。
 彼ら受験秀才どもは「現場」とか人間の心とかがどれほど惨たらしいものになるかが分かっていない。日本社会が盤根錯節と化して、塗炭の苦しみにのたうつようになるのに。支那や韓国は巧妙に日本へ労働者の提供と称して、民度最低のクズを送り込んで来るに決まっている。

 まして厄介極まるのが、『約束の旅路』でも描かれているが、それぞれの宗教である。宗教対立ほど凄まじいものはない。差別にも殺し合いにもつながる。
 本当に人間とは度し難い生き物で、神なんかいるわけがないのに、未だに信仰する己れの愚かさを自覚できない。しかも他の宗教を徹底して馬鹿にし、排斥してやまない。最も悪質なのはキリスト教、ユダヤ教であった。テメエたちだけが神に選ばれた民と妄想して、それを信じない者を皆殺しにしてきた。

 日本に大量の難民、移民を招き入れるとは、宗教騒乱を引き込むことでもある。実際にキリシタンが侵入してきたときに九州あたりで起こったことでは、宣教師が日本人を改宗させ、各地の仏教寺院に打ち毀したのだ。
 支那の義和団事件について高山正之氏が『変見自在(習近平よ、反日は朝日を見倣え)』で説いていたことは以前にも紹介したが、再度しるしておく。

 「義和団が暴れ出した発端は布教にきたドイツ人宣教師らの傍若無人な振る舞いにあった。彼らは特権を笠に着て、仏教寺院を壊してはキリスト教会に建て直していった。彼らは専横で乱暴だった。
 仏教徒は怒って抗議したが、白人宣教師と中国人信徒はそれに暴力で応えた。」

 これがキリスト教の裏の面である。この映画でも、アシュケナージどもは、エチオピアからの人間にアシュケナージの風習である、割礼を強いようとして、猛反発を受けている様子が描かれている。
 黒人ユダヤを騙して、割礼に従わせようとするアシュケナージの医師の邪悪なことと言ったらない(役者は名演技だ)。

 これをみるだけでも、ユダヤ人がただ一方的にナチに迫害されたかわいそうな人々と見るのは間違いだとわかる。彼らの傲慢と邪悪はなにもパレスチナ人を殺しまくるだけではなく、“同胞”にも向けられるからだ。
 日本が難民・移民を受け入れるなら、彼らに宗教活動を禁じるべきである。嫌なら来るな、で良い。

 難民を大量に受け入れるとは、どういうことか、こういう映画を観て、数字、統計ではないリアルな像をみんなが持つべきではなかろうか。




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2016年05月27日

人工国家イスラエルの欺瞞(1/2)


《1》
 『約束の旅路』(2005年フランス映画)は痛切な映画だった。エチオピアからの難民の少年が、イスラエルで生き抜いて行く話である。
 日本からはあまりに遠く、かの地の事情を知らないために「なぜこんなことに?」と思いながら観る人も多かろう。

 1980年代、エチオピアは大飢饉に襲われ、下層の人たちが大量に死に、絶滅の危機に瀕した。エチオピアには肌の色は黒いが多くのユダヤ教徒が主に北部のゴンダール山中に下層民として虐げられながら暮らしていた。イスラエル政府とアメリカ政府は彼らの“救出作戦”を実施した。1984年「モーセ作戦」と、1991年の「ソロモン作戦」の二回あった。モサドが仕切ってイスラエルの航空会社と空軍の協力により彼らの多くは救出され、現在イスラエルには約6万人が移住している。

 この映画はそのイスラエルが行った実在の難民移送作戦“モーセ作戦”(1984年11月から3カ月間)を題材にしたフィクションだ。エチオピアのユダヤ教徒は、エチオピア政府が移住を禁じていたから、エチオピアからひそかに脱出して自力でスーダンの難民キャンプまでいかなければならなかった。それも徒歩で。イスラエルは極秘でスーダンから空輸で難民を移送する作戦だった。

 エチオピア国民をイスラエルが合意もなく連れ去ろうというのだから、エチオピア政府も国民も怒ったのは当然である。どだい大量の難民が移動するのに極秘を貫けるわけがない。多くの難民が旅路の途中で襲われ、妨害され、命を落としたのだった。映画では、8000人のエチオピア系ユダヤ人がイスラエルへ移送されたが4000人がその途中で飢えや野盗の襲撃により命を落としたと述べていた。
 行くも地獄、留まるも地獄だ。

 そのエチオピア難民の中には、ユダヤ人と偽り、スーダンの難民キャンプからイスラエルへと脱出しようとした者もいた。そのなかの一人がこの映画の主人公9歳のエチオピア人少年シュロモだった。 真実の素性と名前を隠し、新しい土地で周りからの差別に苦しみつつ生きる少年の葛藤と苦難の人生を描いている。

 映画では、エチオピアで暮らすユダヤ人を「ファラーシャ」と言っていたが、これは差別的「外国人」という意味であった。
 イスラエルのユダヤ人たちの中には肌の黒い彼らをユダヤ人だと認めない人たちが多かったそうだ。豊かな暮らしを手に入れるためユダヤ人であると嘘をついて逃れてきたのではないかといつも猜疑の目で見られていた。
 この問題も一つの重要なテーマになっている。

 実際に起こった事件では1996年1月末、エチオピア系ユダヤ人はエイズ感染の危険性が高いとして、「イスラエル血液銀行」が彼らの献血した血液を秘密裏に全面破棄していたことが発覚した。さらにイスラエル保健相が、「彼らのエイズ感染率は平均の50倍」と破棄措置を正当化した。
 これに対して、エチオピア系ユダヤ人たちは、「我々のみ全面破棄とは人種差別だ!」と猛反発。 怒り狂った数千人が首相府にデモをかけ、警官隊と激しく衝突したことがあった。

 ユダヤ人は東欧系のアシュケナージ、スペイン系のスファラディ、北アフリカ・中東のユダヤ社会出身のオリエント東方系に大別される。イスラエルでは数ではスファラディ、オリエント東方系が多いが、少数派のアシュケナジームが権力を握っている。
 よく言われることだが、本物のユダヤ人はスファラディであって、アシュケナージは偽ユダヤだと。

 アシュケナージはもとはカスピ海あたりの原住民だったが、国を滅ぼされ流浪の民となり、ユダヤ教に民族ごと改宗した。そして、世界各国に入り込んで主に金融を支配して隠然たる勢力になった。
 彼らは自分たちがイスラエルを追われたユダヤの民(シオニスト)と偽称し、アラブ人の土地を奪ってイスラエル建国を正当化しようとした。
 ナチによるユダヤ迫害も彼らシオニストの策謀だとも言われる。
 まったく…今の朝鮮人が不法に日本に密入国してきながら、強制連行された被害者だと偽称するのと、やり口はそっくりだ。

 エチオピアのユダヤ人とは、聖書ではソロモン王とシバの女王の関係が記されていて、シバの女王から生まれた子孫とされるのが「エチオピア系ユダヤ人」である。彼らは自らを「ベド・イスラエル(イスラエルの家)」と呼び、『旧約聖書』を信奉するが、『タルムード』はない。1973年にスファラディ系のチーフ・ラビが彼らを「ユダヤ人」と認定した。この一言が壮絶な悲劇を招来した。

 これを唯一の根拠として、エチオピア系ユダヤ人は、祖先の地イスラエルに“帰還”するのを正当としている。われわれから見ると、白人系と黒人系が同胞とするのには違和感があるし、とうてい根っこの感情では相容れないのではないかと思われるけれど…。
 実際、エチオピア系ユダヤ人はイスラエルでは下層階級にされている。

 イスラエル政府による「モーセ作戦」「ソロモン作戦」はユダヤ人の同胞たちを飢餓や貧困から救うために強行したとメディアでは解説され、正当な行為だったと流布されている。それを鵜呑みにしているのは、脳がオボコの連中だけ。
 しかし、世界中のメディアはユダヤ資本の傘下にあるから、真実は報道されない。『約束の旅路』のような映画や、書物で真相が少し洩れて来るのみである。

 従って、シリアスな映画も観なければ、本も読まないB層の民はな〜んにも知らないでお花畑にいる。こういう連中は、人権を叫び、9条を守れなどと馬鹿を言う。
 イスラエルのできあがってしまった社会の理非曲直はもう正しようがない。




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2016年05月26日

軍人片岡覚太郎の至醇遥か(2/2)


《2》
 片岡の述懐は、個人が社会なり国家なりの従者になっているように見えて、実はそうではなく主体性ある個になっている。それがあとで書くが現代っ子ほど個性的であるように見えて、実際は社会の従者にならされている皮肉な現象がある。

 地中海に派遣された帝国海軍将兵が命懸けで同盟国の人たちのために戦ったばかりではなく、云わず語らずとも、片岡の至醇の極地というべき認識もヨーロッパの人々に伝わっているはずである。
 今も日本人がヨーロッパに旅行に行くと、最も信用されるのは、こうしたはるか先輩たちが積み上げてくれた日本人のスピリットが継承されているからだろう。韓国人や支那人とは隔絶している。

 私が片岡のこの記述で思ったことは、組織と個人のことであった(国家と個人でもいいが)。人は組織に尽くそうと一員になり、任務をこなし貢献し、逆に教えられ育てられするものである。ところが、往々にしてうまくいかないことが発生する。こじれて、組織をやめていくこともあろうかと思うし、辞めさせられることもあろう。
 
 そんなとき、ややもすれば人は組織を恨むものである。俺があんなに頑張ったのにとか、貢献したつもりなのにとか、受けた恩は十分返したぞとか。要は、俺を認めてくれないのは不当だとの思いで満たされることにもなる。恨みを抱いて、あとの人生を過ごす向きもあるやに…。

 しかし片岡はそんな認識は突き抜けている。これはすごいことだ。
 片岡の文章の前半を今一度読み返してほしい。彼は自分は認められようというさもしい気持ちで任務を遂行したのではない、と言い切っている。

 似たような記述は、藤原岩市の『F機関』(原書房)にもあったと思う。藤原は大東亜戦争のとき陸軍特務機関としてマレーやインド、インドネシアの独立に関わった男の中の男である。命を賭けで、インド等の植民地を独立させようと心胆を砕いた。私心を棄てている。

 また、多くの特攻隊志願兵の気持ちとも通じているだろう。
 こうした個人の認識は、国や社会にあまねく存在していた。別言すれば受け入れられる素地が社会にあった。
 現代の人間は、平和ボケし、個性大事で育ってきているから、片岡の思いはまったく理解できまい。

 例えば、まず教師が悪い、親が悪い、友達が悪かった、とすべて人のせいにする。俺を認めなかった教師や親が悪いのであって、俺は悪くない。という弁解で頭がいっぱいになっている。片岡のような人間は世の中から払底した。
 組織の理想実現のためなら、自分はどうなってもいい、そんな考えは今では嘲笑の的だろう。

 本ブログで何度か、テレビドラマ『陽はまた昇る』の警察学校の指導のありようをとりあげてきた。見事なドラマだった。
 警察学校の訓練生たちは、娑婆っ気が抜けず、人のためになろうと警官を志したものはおらず、公僕たるの自覚がない。まさに今時の若者。それを鬼教官がしごきあげるストーリーなのだ。

 訓練生たちは次々にクレームをつける。訓練が厳し過ぎる、ケイタイを取り上げるのはやりすぎだ、雨なのに外でランニングさせるな、わかるように説明しろ、女房の出産に立ちあわせろ、ともっともらしい要求や不満を叫ぶ。
 それを鬼教官が一つひとつ事実でわからせていく。

 鬼教官はこんなふうに言う。
 「警官はそもそも不公平な世界だ。楽して出世していく奴もいる一方、寝る間も惜しんで働き、へたをすれば命も落とす。こんな割の合わない仕事はない。それが嫌なら警官になるな」
 「お前たちのように、世の中をなめきった奴は生きている資格はない」
 「うまいものを食って、女と愛し合うために生きているような君たちに、銃を持たせ、手錠の掛け方を教え、人殺しを取っ捕まえるやり方を教えるのが、ここ警察学校だ」

 こう言われた訓練生たちは「むかつきます。せっかくやる気になってがんばっているのに、水をぶっかけるようなことばかりなぜ言うんですか」と。
 鬼教官はこう言い返す。
 「むかつくのはこっちだ。どいつもこいつも文句ばっかりイッチョ前。何もできないくせに、権利ばかり主張する。
 お前たちは、ガタイだけ、能書きだけ、緊張感のかけらもない、そのうえ謙虚さが微塵もない」
 
 訓練生たちはドラマでは成長していくのだが、これが日本の若者たちだ。すべて半煮え。貧寒な精神風土になり果てた。だから、9条は変えないでというバカが過半数もいる。
 いったい、地中海でヨーロッパの人たちの尊崇を集めた大和男子はどこに行った? 日教組と文科省の木っ端役人が推進してきた個性尊重の成れの果てがこれだ。

 最後に、『日本海軍地中海遠征記』の編者のC・Wニコル氏が本の解説のなかで語る、面白いエピソードを紹介しよう。
 それはニコル氏が片岡の遠征記をまとめようと思い立って、取材のためにマルタ島に赴いたときのことだった。
 マルタが1964年にイギリスから独立したときに、初代の副大統領になったダニエル・ミカレフという人物(医者でもあった)と会ったときに、ミカレフは日本の艦隊がマルタにやってきていたことを知らなかったそうだ。

 それでニコル氏が経緯と将兵等の数や滞在期間を説明すると、ミカレフはハタと膝を叩いて「なるほど、それだ!」と言った。ニコル氏がポカンとしていると、「マルタの歴史を通じて、この島に住んでいた東洋人などほとんどいなかったんだよ。いたとしたってごくごくわずかなものだった。それなのになぜ、マルタの赤ちゃんにこうも多くの蒙古斑があるのかと、長いことふしぎに思っていたんだ。あなたのおかげで謎が解けましたよ」とミカレフは笑顔で語った。

 「ふたりして声をあげて笑いだしてしまった。さすれば強壮な明治の海軍軍人は、海と同じく陸の上でも猛り立っていたというわけだ !」とニコル氏は記している。
 愉快な話であるが、これもうっかりすると、またアタマの歪んだ朝鮮人や支那人、そして反日日本人から、日本軍がマルタで「従軍慰安婦」やら「性奴隷」を強制していた、などと言われかねないが…。



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2016年05月25日

軍人片岡覚太郎の至醇遥か(1/2)


《1》
 片岡覚太郎著『日本海軍地中海遠征記』(河出書房新社)がある。今からざっと100年前、第一次世界大戦のおり、連合国の一員として地中海海域に派遣された帝国海軍艦隊に参加した一主計中尉の記録の書である。海軍の公式記録文書の復刻で、近年、作家C・Wニコル氏の編集・解説で(2001年に)出版されている。
 主計とは、軍隊では経理、被服、烹炊などを担当する。

 帝国海軍は、英国との同盟関係の道義を重んじて日本からはるか遠くの地中海に駆逐艦隊を派遣し、ドイツ潜水艦と戦って、同盟国の将兵を命懸けで護った。彼らは栄えある武勇と忠恕を、ヨーロッパの人々の記憶に刻み込んだ。
 不幸にして戦死した英霊の墓地と記念碑が、マルタ島にある。

 これを知ったのは、軍事評論家の井上和彦氏の『日本が戦ってくれて感謝しています 2』(産経新聞出版刊)の記述であった。
 その書のなかに、冒頭の片岡中尉の本からの引用がある。片岡中尉が任務を終えて、海軍根拠地マルタを去る時の述懐である。

     *    *

 自分の努力が認められると、認められないとは、自分の知ったことではない。ただ、国民としての本分を尽くしたという自覚が、自分にとっての大いなる安心である。満足である。少しでも自分の努力を認めて貰いたいと云う、さもしい私心が、その間に萌す(きざす)と、折角の御奉公に疵(きず)がつく。

 不幸不満の囁きやら、沙上の偶語やらを聞くことは、その原因を作った方にも責があるかも知れないが、囁きを起こすこと、それ自身が誤りである。一年有半の任務を了て(おえて)去るに臨み、地中海を顧みた僕の胸中には、ただ任務の果し得た感謝の外何ものもない。得意もなければ失意もない。

 内地に働く人があってこそ、吾人の外征も首尾よく遂げられたのだと思うと、帰国して自慢して見たいと云うこともなければ、誉めて貰いたいと思うこともない。氷のような冷ややかな頭の中には、ただ、日本の国家、極東に偏在する祖国、世界の智力と富力とを傾けた戦争の、活きた舞台を踏んだ一員として、ますます多事多難なるべき帝国の将来が、あるばかりであった。

     *    *

 この文章を、井上和彦氏も「日本海軍将兵の自覚と決意のほどをうかがい知ることができる」としたためている。本稿のテーマに入る前に、井上氏のこの一行の感想に触れておきたい。
 この言及はそうだろうが、彼もその中身を解かない。「自覚」とは何か「決意」とはいかなるものだったかへの言及を止めてしまう。

 以前、本ブログで永栄潔氏の『ブンヤ暮らし三十六年』(草思社刊)を評したときに、こう書いた。
 「新聞の記事にしろ著名人の書くモノにしろ、多くは『それでどうなる?』『それは何故なの?』の先が書かれていない。
 よしんば井上和彦氏が、マルタ島と帝国海軍の関わりを発掘してくれた功績があるにせよ、この一行を書き付けただけで、萎靡、沈潜、不全、失調してしまう。

 井上氏は「虎ノ門ニュース」にも毎週出演してサヨク批判を展開しているが、「おかしいよ」「お前病人に行け」などと漫談まがいの話しかできていない。もっと踏み込めよ、と言いたくなる。サヨクの投手が投げる球を、ほらボールだよと見逃してばかりいて、どんな珠でも打ち返してホームランにする力量はない。見ていて面白くない。
 井上氏の著作は、マルタ、インドネシア、グアム、サイパンなどを探訪して書いているから広い意味でノンフィクションと言えるだろう。

 ノンフィクション作品は、往々にして筆者が取材のほうにエネルギーを傾注して、文体の工夫、すなわち「見せる、ひきこむ、楽しませる、わくわくさせる、次も見たくなる」そういうサービスが雑になりがちである。それに取材を依頼してきた新聞社なり雑誌社なりが、取材費が潤沢ではなく、原稿料も少ないために、悪く言えば量を稼ごうと水増しして書いてしまいがちである。
 井上氏が表題にしているように、日本軍が戦ったところでは、みんな感謝しているということだけ言って能事畢れりになっている。せっかくの素材にめぐり逢いながら、もったいないことである。

 さて。
 第一次世界大戦で地中海に展開した帝国海軍艦隊の輸送船護衛や対Uボート戦、救助活動を、世界は賞賛してやまなかった。ヨーロッパ人にも、当時は学校にもろくに行けない人たちがいただろうが、そういう人だからこそ日本人の清々しさは感じ取ったのだ。
 しかし、むろん大東亜戦争後は、アメリカの陰謀でそんな第一次世界大戦の武勇は、くず箱に放り込まれ、やみくもに日本は悪かった、加害者だったと言われて、すべて消しさられてしまった。

 私もこの片岡覚太郎中尉の文言には強く心肝を叩かれた。彼は海軍主計士官だったから、じかの戦闘には参加していない。のちの主計中将まで昇進している。
 片岡の文言は、今日では古くさい封建的考えで、単なる御恩奉公でしかないではないかと揶揄的に捉える人が多かろう、とくにサヨクに染まった人は。

 この本はちょっと高額なので私は買っていないが、公式な海軍記録なのである。中身はまるで旅行記のようなおおらかさがあると云われる。だがサヨクは、海軍公式記録だから、主計中尉が上層部へのおべっかで書いたんだろうと嘲弄するかもしれないが、私は違うと思う。修辞的に言うなら、片岡は最小を述べつつ最大を感じさせているからとも言える。あるいは俗にいうなら、大いなる自己滅却の歓びとでもいうか…。押し付けがましさがどこにもない。なんでも斜に構えて、戦前をバカにするのがサヨクの常道だが、物事はプラスの面を汲み取るべきなのだ。

 こんなことを称揚したら、小賢しいサヨクは、アメリカの戦争に引きずりだされて自衛隊が殺され、日本も戦争に巻き込まれるぞ、と怒鳴り出す向きがいるだろう。もしくは天皇のためにとか国益のためにと騙して国民を戦争に行かせてころすのだろうとか言い出しかねない。
 ソレとコレとは別であるのに、わかろうとしないで、迷蒙に閉じこもって外界のまったき反映を拒んでいる。




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2016年05月24日

過剰に失敗を恐がる感情(2/2)


《2》
 憲法を守れとわめくおバカどもは、もう時代にも合わず、そもそもマッカーサーが白人に従えと恫喝してつくった憲法であることにも目をふさいで、とにかく現状維持、変えるな、と言い続けている。
 これも一面では、失敗を過剰に恐がっているのだ。一字でも変えたら、アメリカ様が怒る、支那様がかまってくれなくなる、韓国がヘソを曲げる、だからソッとしておきたい。

 国家、国民の安全なんかどうでもいい。自分個人が、失敗するかもしれないことに関わりたくないだけである。
 木っ端役人どもは、務めを平穏無事に終わって、いいところに天下るしか考えない。民間企業では失敗を怖れずチャレンジしなければ、業界で勝てないことを承知している人間が多いが、役所は違う。成功しなくても挑戦しなくても、ひたすら失敗だけしなければいいと考えるアホになる。

 害務省の木っ端役人が、支那や韓国などが日本を貶める「いわゆる従軍慰安婦」「南京虐殺」「化学兵器の遺棄」などを言い募ってくるのに対して、だんまりを決め込むのも、この性向のしからしめるところである。
 正しいことであっても、言えば日本を憎悪している連中に突かれることが恐いのだ。

 何が正しいかを、自分で考える実力を蔑ろにして、与えられた模範解答を記憶して従順になるだけの知力しか持たなかった、お笑いである。
 自分で考えてみろ、自分で調べてみろと言われて、主体性を預けられるのが恐い。主体性を持てば、失敗はあり得るから、それをひたすら逃げる。

 地震研究者も同じ。先輩や指導教官が「こうだ」と決めた、プレートテクトニクスや断層だけで、地震を見るだけ。自らの信念で、失敗覚悟で研究する度胸がない。地震の予知ができるとウソをつけば、それがウソとばれるのが恐くて、象牙の塔に立て篭る。

 昭和16年、日本は米英らと大戦争を決断した。それは結果を見れば失敗だった。たしかに取り返しがつかないほどの失敗だっただろうが、それでもう失敗を恐がって何もやらなくなるとは、本当に情けない。戦争を決断した人たちは、少なくとも失敗を怖れて何もしない、というバカではなかった。

 政治や経済の話から卑近な話になるけれど。
 よく異性を好きになっても声もかけられない、どうしていいかわからないなんて言う純朴(?)な人がいる。声をかけて嫌われたらどうしよう、ふられたらみっともない、笑われる、バカにされるとの恐怖が生じて、手も足も出ないようだ。

 好きな異性に告白できないのも、それはそれで感情が熟成されるから大事なことではあるが、度が過ぎて、四十歳過ぎても童貞です、なんてのは困ったものだ。勇気が持てないのだから。
 よく言われることだが、昔は朝早く街中を豆腐売りが自転車でやってきたり、新聞配達の少年が走っていた。
 あれは貧しいが勉学に燃える少年がやっていた。
 誰もが感心な子だと褒めた。しかし…、もし大人になっても、四十歳になってもやっていたら、誰が褒めるだろう。

 いくら感心な子と褒められようと、大きくなれば豆腐売りや新聞配達を止めるという、いわば冒険に踏み出していかなければならない。冒険に出れば失敗もあり得る。それを恐がって新聞配達を生涯続ける道がないわけではないが、バカにされるだけだ。
 異性に告白できないのも、9条はやめてはいけないとダダをこねる奴もこれと同じだ。

 これも「失敗が恐い病」である。異性にアタックしてダメなら、くよくよ嘆くのは数日にしてアタマを切りかえて、ならば相手がいつの日か後悔するような立派な魅力ある人間になってやる、と決意して頑張ればいいだけのことだ。

 失敗から学ぶとはそういうことである。
 私はちなみに、異性に嫉妬したことはない。嫉妬の感情がわからないではないが…。なぜなら、相手から見て私が取るに足らないからなのだと反省するからだ。
 また、昔々女性から「あなたが逢う女性に嫉妬する」と言われたことがないわけではないが、信じなかった。それを信じれば自惚れることになる。

 自惚れれば、実力以上に自分を偉そうに思うようになり、同じ感情で今度は人を妬み、嫉み、僻むようにもなっていく。コインの裏表だ。
 「いつか立派になって見返す」それだけである。失敗はその糧になると考えているから、サヨクどもや木っ端役人のように過剰に失敗を怖れることはない。

 話の後半はちょっと趣向を変えて、愉快に持って行きたい。
 開高健が南北アメリカ大陸縦断の釣り紀行を週刊朝日に連載していた。それがやがて単行本となって『もっと遠く、もっと広く』になった。
 以下はそのうちの南米ベネズエラのことである。
 
     *    *

 (案内人の日系2世のメキシコ人にこう言われたそうだ)このあたりじゃすることが何もないので友達の女房を盗んだり盗まれたりして退屈しのぎをしているんです。センセイもここに住んだらそうなりなすワ、といった。
 ベネスエラでの国民の総人口のうち30パーセントか40パーセントくらいはこういう情事の結果としての私生児だといわれている。

 しかし、私生児といっても、家庭にあるかぎりは正嫡の子と何のけじめも差別もつけずに仲よく暮らしあっている。父が浮気してつくった子は“おとうさんの子”、母が浮気してつくった子は“おかあさんの子”と呼び、父と母が睦みあってつくった正嫡の子と、何のわけへだてもなしに仲よく暮らしあっているというのだ。

 これはいかにも南方的な寛容の美徳にラテン気質が上乗せされた挿話であって(中略)私としては、あっぱれな美談だというしかないのである。北方の、厳格な、偽善でこわばった、貧寒な精神風土とくらべると、どうころんでも、あっぱれとしか、いいようがないではないか。混沌と奔放の背後にある寛恕と微笑にこそ注目すべきである。

     *    *

 皆の衆、どうだす? 偉いもんやデ。底抜けの明るさや。くったくないねんなあ。

 どだい日本ではとうてい考えられまい。いじましい私小説やらドラマやらでは、男女がいがみ合い、憎みあい、そしりあって、とめどなき世界を現出させるだろう。
 こんなシッチャカメッチャカな家庭をテレビドラマでやろうとしたら、初回で抗議が殺到して打ち切りになるに決まっている。

 たぶんベネズエラあたりでは、男が女に声をかけられなくて悩むとか、ふられて落ち込むなんてことはないのではないか。
 なんといっても、Que será será.(ケセラセラ)の国柄だから、我々は敵わない。
 でも、いくらかは学んではどうか。いい加減にするという意味ではなく、開高がいうように寛恕と微笑を、である。

 わがくに民は、本稿冒頭から言うように、たった一度の失敗で怯え、人の目を気にし、偽善にまみれ、間違わないよう間違わないようと小心に震える、度し難い性向を持つようになっているからだ。
 日本人は、世界基準で言ったら、悩まなくていいことでいつまでもいじましく悩み、自分が傷ついていると思い込むけれど、傷ついているのは相手だとは毫も考えない。だからときにはラテン気質でストレスを避けるのが必要かと思う。

 青山千春氏が言ったように、すぐマイナスに考えるのではなく、前向きにプラスに考えることが良いのではあるまいか。
 開高が紹介している正嫡の子、“おとうさんの子”“おかあさんの子”のように、太平洋側のメタンハイドレート、日本海側のメタンハイドレート、みんな仲良く開発しましょう、になればいいのに。





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2016年05月23日

過剰に失敗を恐がる感情(1/2)


《1》
 2013年のことだから、やや旧聞に属するが、メタンハイドレートの専門家、青山千春氏が「チャンネル桜」の番組「日いずる国」に出演して、重要なことを語っていた。
https://www.youtube.com/watch?v=5xE5Uw4PkbE

 2013年3月、愛知県沖で海底の砂に混じるメタンハイドレートを採掘して、分離し、初めてメタンハイドレートから天然ガスが採取された。海上でオレンジ色の炎が吹き出している写真を覚えておられる方もいるだろう。
 ところが、この試掘は10日間の予定が、どこかが目詰まりして取れなくなり、5日間で打ち止めになった。

 この報道を受けて、専門家の青山千春氏はいくつかのテレビのワイドショーに呼ばれ、見解を尋ねられたが、司会者どもが判で押したように「あれは失敗ですよね」と、あたかも嬉しそうに青山氏に同意を求めてきたのだという。

 「それは失敗ではなく、まずは愛知県沖で初めてメタンハイドレートが取れたこと、しかもわが国自前の資源だということ、世界で初めてメタンハイドレートを海底の砂から採るのに成功したことが大事なことなのだ。
 その技術は他の国はまだどこも持っていない。日本が唯一持っているのだから、あちこちの国に技術を売ることができる。メタンハイドレートは世界中にあるのだから。

 こうしたプラスの面を誰も見ようとしない。失敗したと言っても、まだ初の試掘の段階なのだから、そのデータを使って改良していくことができる。
 こうした良い点をなんで言わないで、すぐ失敗ですよね、ダメだったんですねという話に持って行こうとするのか」


 と青山千春氏は語り、テレビ局側に「頭にきた」と言っていた。
 同席していた青山繁晴氏も「これは日本が敗戦によって、過剰に失敗を怖れるようになってしまったせいで、失敗から学んで、それを生かすことが大事なのに」と語っていた。

 青山夫妻の言うことはまったく同感だ。失敗から学び、成功は励みとしていっそうの努力をしていけばいいだけなのに、どうして失敗ばかり気にするのだろう。
 自前の戦闘機をつくる話も、ちょっと不具合が見つかると、それ失敗だ、やっぱり日本人はダメなんだとする風潮をマスゴミは醸成する。計画が挫折したの、杜撰だの、計画の大幅な見直しは避けられないといったと言葉が踊る。プルサーマル計画もそうだし、米軍のオスプレイもそうだ。

 失敗があると、マスゴミの報道は「それみたことか」とあえていえば喜んでいるかのようだ。実に記者どもの思い上がった、しかも無芸の極み。
 それを怖れてみんなが萎縮するようになった。
 日本人は夢を、それも身の丈以上の夢を持つことに臆病となってきている。「等身大」が良くて、「癒されたい」だけとなり、傷つくのが恐いのが優しい心根だと思い込む。

 小保方晴子のスタップ細胞発見のときも、マスゴミはあげて「失敗だ」「捏造だ」と大喜びで報じ、彼女の人生までブチ壊した。もし失敗したら、またがんばって再起して、という言い方がどうしてもできない。
 こんなになってしまったから、もう「坂の上の雲」など掴めない国民になった。

 本ブログで再三言ってきたが、2チャンネル常連とか、人様のブログに入り込んで誹謗中傷、揶揄三昧をやらかす輩は、この失敗をひたすら怖れるチキン心情の裏返しである。とにかく人のあら探しをして溜飲を下げる。自分では人からどんな後ろ指をさされようとも言うべきことは言う人間になれば良いだけのことなのに、それができずにゲスになりさがる。

 自分は失敗したくないから、人のあら探しをしては、俺はこんなにものを知っている、でも“企業秘密”だからそれ以上は教えてやらないぜなどと、いきがる。人の言論にイチャモンをつけているだけなら、失敗しなくて済むからだ。それがからくりである。

 自分で問題を立てて、自分で考えて論を展開すれば失敗は起きる。表現も考察も完璧にはならない。人から馬鹿にされることもある。
 ゲーテは「人間は失敗するものである、努力しているかぎりは」と言った。これは格言になっている。
 で? それを恐がって自分では論を立てられないくせに、評論的揶揄だけはせっせ、せっせだ。

 安保法制反対、9条を守れ、自衛隊は憲法違反だとわめく連中も、要は過剰に失敗を怖れている。それが抜きがたい感情になっている。戦争をやって負けた、多数の人が殺された、支那人や関係ない韓国人にさえ嫌われた、だからそんな失敗は二度と嫌だとなって、殻の中に閉じこもるわけだ。
 今も破防法の対象である共産党やその仲間どもの頭脳は、理屈じゃない。失敗は嫌だ、周辺から嫌われるのは嫌だという感情が支配している。
 
 彼らはまた、市井の理非曲直なんか条件次第なんだという簡単な原則がわかっていない。今日、黒が正しいとなっていても、明日は黒が間違いだった、となることはいくらでもある。
 それが受験秀才にはどうしても理解不能らしい。受験に失敗したら人生に先はないと恐怖を覚えつつ思春期青春期を送ってきたのだろうか。だから逆に成功して東大に入ろうものなら、超傲慢に、超権柄づくになる。

 戦争は絶対に悪いとの感情しか持たないし、人にも強要する。だから条件次第では戦争もやむなしとかいう考えは、どうしても失敗に結びつけて考えるようだ。失敗したらどうするんだと。
 なんのことはない。失敗したらそこから学んでやり直せばいいだけのことだ。それは楽なことではないが、正道はそこにしかない。
 
 日本海側の有望なメタンハイドレートの開発が木っ端役人どもや東大教授どもに妨害されるようだが、やつらは敗戦がトラウマになっていて、日本が自前資源を求めるようになったら、また欧米各国にいじめられ、戦争に引きずり込まれたり、日本が資源を求めて他国を侵略したりするようになるんじゃないか、それが失敗のもとになる、と考えてしまうのか。




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2016年05月22日

サヨク「怒りの声」のいかさま


 沖縄県うるま市の女性会社員(20)が4月から行方不明になっていた事件で、県警は米軍軍属の男を逮捕した。
 逮捕の一報を出した毎日新聞も、朝日新聞も、この犯人を「元米兵」という書き方をした。「軍属」とわかっていながら、あえて読者に刺激を与えるべく「元米兵」という言葉を選んだのだ。ウソではないが、さりげない手口で世論を反基地へと誘導しようと言うさもしい魂胆。

     *    *
「基地をなくして」怒りの声 元米兵逮捕で抗議行動(朝日新聞5月20日付 web版)

 沖縄の米軍基地で働く米軍属の男が逮捕された事件をきっかけに、「基地をなくして」の声が強まっている。
 逮捕されたシンザト・ケネフ・フランクリン容疑者が働いていた米軍嘉手納基地(沖縄県嘉手納町など)。そのゲート前では20日、相次いで抗議集会が開かれた。正午には約250人が集まり、黙禱した。手を合わせ、涙を流す高齢の女性もいた。

 「女性の死を絶対に無駄にしない。この悔しさを絶対に忘れない」。3人の小学生の子供がいる保育士の城間真弓さんはマイクを握り声を詰まらせながらそう訴えた。

     *    *
 
 まあ なんつーか かんつーか、阿呆くさの記事である。毎日新聞もご同様の筆調。
 女子強姦殺人事件が起きたのは、米軍基地のせいだというのは、いつものワンパターン。
 これはサヨク活動家もそうだが、「風が吹けば桶屋が儲かる」式のこじつけである。

 これは一人のバカな男が犯した凶悪犯罪であって、それ以外ではない。司直の手で裁けばいい。その男がたまたま米軍基地に勤める妻子持ちの軍属だっただけのことだ。基地のせいではない。基地がなければ起きなかった事件だとのたまうのなら、風が吹かなければ桶屋は絶対に商売にならない、と強弁するのと同断ではないか。

 サヨクの言い分は「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな基地が悪いのね」である。
 こういうサヨクの言い分がまかり通るのであれば、ザイニチの凶悪犯罪の多発には何故おぬしらは抗議の声をあげないのか。
 米軍軍属は合法的に沖縄に居住しているが、ザイニチはほとんどが密入国者であり、あまつさえウソをついて強制連行されたと被害者面している。

 米軍基地があるから米軍関係者による犯罪が起きる、と、ザイニチが不法移住しているから犯罪が多発する、と、どっちが本物の理屈なの? 米軍基地をなくしてと主張する声を、どうして「ザイニチは本国に帰れ」と言えない?

 たしかに昔は、米兵はタチが悪く、日本人を平気で手篭めにして、にもかかわらず、逮捕権、裁判権が日本になくて、悔しい思いをしたが、ずいぶん日米双方の努力で改善したではないか。地道に沖縄県の人も米軍関係者も、交流を通じて犯罪が起きないように努めてきて、成果は確実にあがっている。
 だから、もはや「米兵の犯罪=基地があるから」の理屈は通らなくなった。

 サヨクどもは、ヒステリックに米軍基地をなくせとわめくが、そのあと、どうやって日本を守るつもりだ?
 米軍基地をなくせとわめきちらすが、安全保障と外交にはアホな民意なんか不要である。
 米軍がもし撤収していったら、ただちに支那が占領するだろう。自由はいっさいなくなる。ものは奪われ、女子は強姦される。それでも構わないから、米軍だけは嫌、というのか。

 今回の凶悪犯罪は、個人の凶悪犯罪として処理しなければならない。国家間の問題はまったく関係がない。
 国家論で言うなら、共同体が存続することが肝心なのであって、個々の人間が無事に生き抜くことができるとか、だれもが食っていけるとかなんてことは二の次なのである。
 沖縄県に米軍基地が集中しているのは、支那の脅威に対応するためである。ほかにもあるだろうが、メインはそれだ。

 だから日本を守るためには沖縄に軍備を充実させるしかなく、それを決めるのは政府であって、県知事風情ではない。そこをサヨクもマスゴミもわかっていない。
 他事ながら、衆参同日選挙が取り沙汰されていたようだが、首相が必要と判断したら、熊本の災害があろうとなかろうと、断じてやるべきである。それが国家だ。

 青山繁晴は、熊本県民が迷惑するから衆参同日選挙はやってはいけない、などと言っていたが、それは間違いである。消費税をどうするか、安全保障をどうするかの民意を問うなら、国家存続のためなんだからそれが優先する。
 また彼は「主人公はぼくたち国民です」などとキレイ事いうが、それも間違いだ。国家が主人公なのである。むろん「国家権力」が主人公と言っているのではないから誤解なきよう。共同体が主人公だと言っている。

 だから社会保障なんてものは、ほどほどにしなければいけない。世の中はどこへ行っても弱肉強食である。日本人だけが能天気。
 世界を見渡せばすぐわかることだが、どこの国だって金儲けを一心不乱にやる。他国を蹴落としてでも、だ。だから貧乏人を大事にして、妙な平等を図っていたら国は潰れる。

 われわれから見て、アメリカもロシアもイギリスも格差が大きいし、嫌な国であるが、しかし国家を第一に考えているのは日本よりはるかにまっとうである。
 実際、木偶の坊と化した老人を大事にして、若い者が介護に就くのは馬鹿げている。だから日本経済が停滞する。老人を大事にすることではなくて、国家の発展を総力で図ること以外にない。

 社会保障を充実させたいから、消費税を“目的税”として徴収するとして始めてしまったから、そのため国の経済が落ち込んだではないか。
 話を戻せば、沖縄の事件は基地反対に結びつくものではない。結びつけたがるサヨクや新聞が狂っている。





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2016年05月21日

子供のボクが言うのもなんやけど(舛添批判篇)


 ちょうど1年ほど前(6月8日)に、ボクはウチのお兄ちゃんがAKB48に入れ揚げているのを嘆いたんやけど、今日はまた書かせてもらうデ。

 金曜日にウチのおかんといっしょにテレビ見たってん。東京都知事が偉っそうに記者会見しとったワ。30分ほど見てたんやが、アホらしゅうなってボクもおかんもテレビ消してもうた。
 何を聞いても同じセリフ。「第三者の弁護士に政治資金報告書の精査を依頼する。厳しい公正な立場で助言をいただく」のくり返し。
 追及する記者も、ぜんぜん迫力なし。都民に代わって追及するのでなくて、ご見解を賜わりたいだから呆れるデ。

 うちら大阪市民やが、東京都民だったら、あのハゲ野郎に腐った卵を投げつけているワ。大阪府も、横山ノック、太田房江、橋下徹とろくでもないゲスが知事をやらかしてきたけど、東京も、青島幸男、石原慎太郎、猪瀬直樹、それにきわめつけのゲス・舛添と、ひどいもんやねえ。同病相哀れむや。

 ボクのおかんはテレビに映る舛添に向かって「アホンダラ。お前のやったことは今のところ“犯罪性”なんや。“犯罪”は司直の領分やが、“犯罪性”は有権者の判断でええのや。“犯罪”かどうかは、弁護士の判断を仰ぐのは勝手やデ。けどな、“犯罪性”は、今すぐ有権者に進退を申し出て説明する責任があるのや」と罵っとった。テレビに向かって言うてもしゃあないやろ。

 舛添の疑惑については、いろいろ言われるだろうから、ボクは別の感想を言ってみたいんや。
 同じ子供の立場で思うんやが、舛添にも今の女房のとの間に子供が二人いるのや。子供がこの親の不始末で、どれほどの被害を被っておるか、ちゅうことや。学校でいじめられとるはずや。

 当たり前や、いじめがいいとは言わへんけど、子供に「お前の肌着は税金で買うたんやろ」「お前の鉛筆も税金ネコババしたんやな」と言われて、子供は反論でけん。「お〜い、ホテル三日月」なんてあだ名もつけられるに決まっとる。

 それが子供には一生ついて回るんやデ。へたしたら孫の代まで祟る。「お前の父ちゃんは税金ごかましよって」とか「おじいちゃんは犯罪者やろ?」と言われ続ける。舛添本人は、もし糾弾されても弁護士が「合法でっせ」と言うたら逃げ切るつもりやろが、子供には一生冷笑がついて回るんや。子供に罪はないんやデ。

 アホやねえ、舛添は。これが人の気持ちがわからない受験秀才の成れの果てや。舛添は家に帰っても、俺一人が苦労してるてな、苦虫噛みつぶしたような顔してるんとちゃうか。

 今のまだグレーのうちに、疑惑を持たれた以上は、潔く辞任します、と言うてたらまだ悲劇は最小で止められたのに、悪あがきしよってからに、子供のために墓穴をせっせと掘りよったんや。
 舛添本人は都庁の会見で釈明できるかもしれんが、子供はなんも言われへん。残酷やが、それが社会の掟やおまへんか。

 「都民のみなさまの厳しいご指摘は、真摯に受け止めまして」とか抜かしよって、何言うてけつかる。女房はある程度共犯だろうが、我が子の苦しみは真摯に受け止めてやらんのか?
 女房だって、近所の八百屋で買い物すれば、「奥さん、これも領収書必要でっか?」と嫌味を言われるデ。針のムシロや。

 もう海外に逃げるしか、安住の地はないのやおまへんか。政治資金規正法の抜け道を利用したセコイやり方が、いくら合法で、と弁解しても許されるものではないねん。

 冒頭で、知事会見で質問するマスゴミの記者のていたらくをチクリと言っておいたんやが、もうほんま、ありきたりの優等生的質問ばっかりしくさって、アホか。
 聞きたいことをただ聞いているだけやん。だから舛添にのらりくらりと逃げられてもうた。

 そもそも、今回のスキャンダルはみんな「週刊文春」のスクープやがな。新聞社が独自に暴いたもんはないんや。何やっとんのや。自分で取材してなくて、人のふんどしで相撲とろうとするから、核心を突いた追及がでけへんのや。

 しかも、記者連中は聞きたいことを、どんな言い方で、どんな話し方をしたら相手にグサッと突き刺さるか、な〜んにも考えていない。
 これは「心に青雲」で書いてあったように、何を書くか、だけで、どう書くか、が何も工夫がないのんと同じや。

 なかにはイラッとしている記者もいたようだが、そんな感情的になっても意味はないのや。ユーモアもあらへん。皮肉もない。諧謔も、機知もない。そろいも揃って受験秀才だから、知識はあっても知恵がないねん。
 法律に精通している弁護士というても、それは舛添が選ぶ、なあなあの友達に決まっているのや。自ら都議会の百条委員会の設置を願い出て、客観性を担保するんやったら、まだしも。
 その都議だって、みんな政治資金報告については、すねに傷もっているんやから、ブーメランにならんよう案配するに決まってるねん。

 そもそも舛添が政治資金報告書を作成して総務省に提出するときに、なんぼ会計責任者が作成したとて、最終的にハンコを捺したんは舛添本人や。全部承知のうえやないけ。それを他人に精査してもらわなわかりまへんって、なんや。
 そもそも多くの弁護士は「三百代言」いうて庶民は軽蔑しとるんを知らんのか? 「三百代言のセンセイがたに任せて大丈夫なんでっか?」とでも言えばまだ面白かったろうに。記者どもはあっさり認めてしもうた。呆れるデ。

 各社お笑い芸人や落語家でも同伴して質問させるとか、やり方を芸人から教えてもらうとかしなければ、見ている視聴者も退屈やないか?
  で、テレビ局も、おさだまりの、局のほうに顔ぶれが代わり映えのしないコメンテーターを配置して、誰でも言えるようなことを言わせてる。来週もこの話題でワイドショーは引っ張れる、と喜んでいるだけや。

 記者が質問して、舛添が答えたら、会見場でも茶の間でもドッと爆笑してやったら、一番舛添が窮しただろうに。
 舛添が答えやすい質問の仕方ばっかりや。
 笑いで攻めたろ、という知恵はないんか?



posted by 心に青雲 at 03:00| 東京 ☁| Comment(8) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年05月20日

生理的に受けつけない文章(3/3)


《4》
 『誇り〜 伝えよう この日本のあゆみ 〜』は、30分弱のアニメで、第一次安倍政権のころ、文科省の教材として採択されるはずが、反日勢力に潰されたいわくがあるアニメだそうだ。
 YouTubeで見られる。

 物語は、現代っ子の典型であるある少女が、日本の近現代史に関心を持つ青年と出合って、彼から明治以降の歴史の概略を聞くのである。
 青年は少女を誘って靖国神社を参拝し、こう言う。
 「敗戦によって、アメリカにいたぶられ、日本人は自虐史観に犯されて、それが日本人から自信と誇りを奪っている」と。

 少女が尋ねる。
「国のために亡くなった人たちが、今の日本を見たらどう思うかな。こんな国にするために俺たちは戦ったんじゃないって、きっと怒るよね。私がいうのもなんだけど、なんか最近、世の中荒んでいるし…」

 それを受けて青年はこう言って、立ち去っていくのだ。
 「もちろん、問題はたくさんあるけど、それでも焼け野原だった状態からここまで国を立て直し、今も平和を守っている国を誇りに思っていると思うよ。ただ、もっと日本に大切にする心を持ってほしいと言うだろう。
 かつての日本は美しい国だった。自然の恩恵に浴し、神様に感謝し、四季折々の季節を楽しむ豊かな心があった。人を思いやり、礼儀や作法を重んじる国、今はそういう心が失われている。」

 実はこの青年は、少女のおばあさんの兄で、特攻で戦死した霊魂だったとわかって終わるのだが、味わって欲しいのは最後の言葉だ。
 「かつて日本は美しい国だった。人を思いやり、礼儀や作法を重んじる国」だった、と。

 人様のブログにコメントを投稿するとか、論争を挑むとかする際に、2チャンネルが典型であるが、文章も態度も美しくなく、人を思いやる心もない、揶揄、罵倒、卑小、嘲り…礼儀も作法も踏みにじってくる者がいる。しかも自分は匿名で。こういうのを、汚い言葉で申し訳ないが「ブタ小屋」だと言うしかない。

 自分と異なる意見やものの見方が存在することや、相手にも一定の理があることを頭から認めず、レッテルを貼って貶価する。自分の主義・主張を訴えるなら、自分のブログとか本をだすなどして、江湖の評価を得たらいいだけのこと。

 自分が気に入らない、わからない論理や認識を引きずり降ろす狼藉を平然とやらかす。自分が正しいと思うなら、相手を思いやらずとも構わず、礼儀も見識も必要ないとする態度である。
 こういう輩が吐き出す罵辞は見ないことにしているが、うっかり見てしまうと、その文字の奥から吹いて来る荒涼たる陰風にうそ寒くなってくる。
 こんな輩が跋扈する社会になったことを、英霊たちは悲しんでいると思う。

 昨日もしたためたが、以前から私はこういう輩とは関わらないと宣言してきている。生理的に受けつけないのだ。論争を挑まれているのに、逃げるのかという人もいるらしいが、大間違いである。読む気にさせてくれないほうが悪いのに、逃げるも逃げないもない。人に反論する、質問をする場合、日本人なら文章も美しく、人を思いやり、礼儀を重んじていなければならぬのだ。

 高級レストランは客にも厳しくマナーを要求し、スーツにネクタイ着用でないと入店させないほどだ。それをホームレスの格好でやってきて異臭を放ち、カネは払うから食わせろと言って、通る話か。

 ところが「そんなの関係ねえ♪」(芸人小島よしおの台詞)とばかり、意見交換できればいい、先輩だからいい、触発されればいい、と言うのなら、それはドナルド・トランプさながら、言いたいことを言って何が悪い、の態度である。あるいは「愛国無罪」を叫んで日本大使館に汚物を投げつける支那人と同じ。
 いったい昔の「美しい日本」を創ってきた先達が聞いたら何と言うだろうか。

 日本で知識人なるものは、外ズラは正義をかざし、無欲を衒い、人格者のように振る舞うけれど、常に己れを高しと自認する(自惚れる)ために、必ず他者を侮蔑し擯斥(ひんせき)する。実に醜い、それの極端に露骨なのが2チャンネルに投稿する者である。また人様のHPやブログを荒らし、貶価せずにいられず、揶揄するを好むものが後を絶たない。一種の嗜虐症ではあるまいか?
 かかる者を相手にすれば、それは相手と同等と見られることになる。

 大学などの学術世界は、学問の府ではなくて、互いに激しい足の引っ張り合い、嫌がらせ、嫉妬、妬み、抗争の絶えない地獄である。
 私も編集者という商売柄、多くの大学教官と仕事で付き合った。「大学教官は、好きな研究ができていいですね」とうらやましがると、「君ねえ、それは大学の内実を知らないからだよ」と言って、いろいろ愚痴を述べるのだった。

 地獄と言えば、山本鈴美香さんの漫画『エースをねらえ!』に忘れられないエピソードがあった。亡くなった宗方コーチの親友の坊さんが、主人公(岡ひろみ)に“天国と地獄には同じものがある”と説くのである。
 同じ物とは、ご馳走の入った大きな皿と、人間の身長より長い箸。天国でも地獄でも、人々が車座になって座っている。その中央に、ご馳走の入った大きな皿がある。そして、座っている人達が長い箸をもっている。

 違いは、地獄では人々は我先にと、ご馳走を箸でとって我先にと自分の口に持っていこうとする。けれど、箸が長すぎて口に届かない。だから、ケンカが絶えず、いつまでたっても誰もがお腹を空かせている。
 一方、天国では、箸でとったご馳走を互いに「あなたから先にどうぞ」と、向かいに座っている人の口に入れてあげる。だから、みんなが穏やかで、ちゃんとご飯を食べられる。

 うまいことを説くものだと感心した。つまり日本の大学が地獄とはこういうことを言う。
 その地獄の様が個人ブログにまで及ぶ。人様のブログにケチをつけるだけに夢中になる輩は、地獄の住人である。日本人の良さはこの天国の住人のようであるからだ。

 大学の例は世間一般の話である。そういう世界に足を突っ込めば、マスゴミに登場できて、市井に名は知られるようになるかもしれないが、魂は腐っていく。
 私ごときブログに嫌がらせをしてもしょうがないだろうに、それでもイチャモンをつけずにいられない者がいる。よく閑があるもんだ。

 そうした大学の教員たちが、仮に論理のすごさがあったとしても、それだけ能事足れりでは、人は尊敬しない。
 中学高校で、教師は圧倒的に知識や論理力で生徒に勝っている。なのにどうしてほとんどの教師が生徒に軽蔑されてゆくのか。それは生徒が教師の人間性の美醜を見抜くからである。 
 その意味では、冒頭に紹介したアニメの中の言葉、「かつての日本は美しかった」が、今でも子供たちにはひそかにつながっている。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(13) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年05月19日

生理的に受けつけない文章(2/3)


《2》
 2チャンネルは昔見たことがあるが、生理的に受けつけない。ネットに便所の落書きをするのは、いうなれば車夫馬丁のやることである。同様に、人様のブログに、はじめから腐す目的、揶揄する目的でコメントを書き込んで来る文章も、俗に言えば生理的に受けつけない。
 それらひねくれた者たちは要するに、自分のねたみ、嫉み、ひがみ、劣等感のはけ口に書き込むだけなのだ。

 それが抵抗なく受け付けられる人がいるのは、私には関係なく構わないけれど、信じられないことなのだ。
 余計なことを言うと、私は天寿堂の稲村さんの文章も読むのは苦手である。彼は博学才潁で、人間的に尊敬できる人と思っているし、恩人でもあるが、文章は我慢しないと読めない。

 それは主題や内容から来る苦痛ではない。
 それでも無理して読むことはあるが、苦労する。こと文章に関しては彼は異郷の人である。どこがどう、ということは個人攻撃だと思われかねないから今は言いたくない。

 これも一例だが、名著『学生に与う』を書いた河合栄治郎は、戦時中、軍部によって東大を追われた。そのとき河合の弟子たちはみんな河合を裏切ったのである。裏切って離れた弟子の経済研究者たちは、おそらく「河合先生への尊敬も御恩も変わらない」と言うだろう。だが、隠すより現るるなしで、弟子の経済研究者どもは東大教授にはなったが、それっきりだったではないか。

 ずるく立ち回った連中であった。教授であっても車夫馬丁のごとし。
 師のもとを離れれば、河合栄治郎の弟子でも見るように、これは文章でいえば「何を書くか」はちゃんとやっているが「どう書くか」は蔑ろにしたことになる。

 「どう書くか」がないがしろにできるのは、認識が感情で創られるとの原則を重視していないからだ。
 恋人同士が別れたとする。でも男には未練があって、なんとかヨリを戻したいと願った。で、ラブレターを書いたとして、そのときに、「ねえまたやり直そうぜ」とだけ書くだろうか? それでもって心が離れかけている女を呼び戻せるか? これでは「何を書いたか」だけである。

 だが、どんなに自分が女を好いているか、君無しではやっていけないか、その内容を心から訴えたいのであれば、「どう書くか」に鏤骨(るこつ)の呻吟をしないではいられまい。場合によっては友人に相談するだろう、「どういうふうに書いたらいいのか」と。しかし「何を書くか」だけでいいと思うなら、「ヨリヲモドセ」と電文みたいなもので意味は通じる。

 恋人と別れたくない男の認識にどんな感情があるかを、女の方は文章から感じ取るものである。だが、女の方が車夫馬丁なみのゲスで、要は体がほしいだけ、癒されたいだけなら、男の感情の品格なんか気にはすまい。

 私は自分のブログでは「口汚くコメントで揶揄してくる輩」、「南ク継正先生をくさすためにだけ腐してくる輩」とは、論争しない(相手にしない)方針であること宣告している。それを、「逃げ」と罵倒している向きもあるやに、あるところから聞いたので、いささか不愉快になった。そもそも妬み僻みで書いて来る相手のコメントを読まないのだから、論争になるわけがない。
 それで、本稿をしたためて、もういちど認識は感情で創られるのであり、それが人間の本道であることを述べてみたかったのである。

 文章は認識の外化であるから、そこには“純粋な論旨”だけが表出されるのではない。必ず感情が染み込むというか付随するというか、切り離せない。感情豊かなら感情豊かな文章になり、感情薄ければ感情薄い文章になる。
 大江のパリでのエピソードに見るように、彼は言葉のわからない外国人にならどんな罵倒をしても構わないとする薄い感性の持ち主なのである。だから平気で「9条の会」に入れる。

 顔つきが悪い人は、感情がボロだからで、そういう人が書く文章も(話し方も)ボロにならざるを得ない。

 ヘーゲルの論文を翻訳した人は、学問とは、弁証法とは、が、その人間なりの感情でわかっていないから、いうなれば“純粋な論旨”だけ翻訳しようとするので、超難解な佶屈聱牙(きっくつごうが)な文章に成り果てるのであろう。

《3》
 非行少年は、年を追うごとに増加し、弱年化し、惨酷、陰湿になってきていると感じられる。
 そう感じられはするが、非行少年は大人より経験値が少なく、財力もコネもない。大人(非行成人)よりずるく立ち回れないし、権力を使って隠蔽したりする力がないから、表沙汰になっていく。

 2チャンネルに便所の落書きをして回る者も、人様のブログを妬み嫉み僻みで揶揄して回るゲスも、非行成人の一種である。
 大学教授やマスゴミ記者のようにゲスのくせに、上手に立ち回って偽善の糖衣にくるまわることができなかっただけの違い。こうした“エリート”は一流大学を出ているから、妬み嫉み僻みを持たずに済んでいる。
 
 エリートからは落ちこぼれた彼らの心理を推し量ると、第一に子供のころから大人になっても、いじめなどを受けてきて、自分が社会から疎外されているとする恨みがあるのだろう。
 また、こんなに僕はがんばっているのに、ものを知っているのに、世間から認められないのは理不尽だと感じる不満。

 土居健郎という心理学者が『甘えの構造』を書いてベストセラーになったことがあったが、ゲスたちに共通するのは「甘え」である。自分で努力することなく…、文章で言えば「何を書くか」はわかっていても「どう書くか」に全く腐心しないような具合でいるのに、世間が自分を認めてくれるはずなのにの思い(錯覚)が強いようだ。

 俺は知識の宝庫なんだ、理論だって確かなんだ、の自惚れ。それを認めない奴が悪いと思い込むから、人様の見解を妬み嫉み僻むようになっていく。実績の片鱗もないくせに、なにさまだと思っているのか。それで「論争相手になってくれなきゃいや〜ん、バカ〜ン」と拗ねる。

 例えば自分の“鍼灸理論”に自負があるなら、周囲や世間とのさしたる連携や注目がなくとも、ひとり闊歩して生きてゆく強靭な意気が、浩然たる姿勢があってしかるべきであって、人様のブログやコメントの見解に(匿名で)いちいち楯突く閑があろうはずがない。



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2016年05月18日

生理的に受けつけない文章(1/3)


《1》
 私が初めて南ク継正先生の名を知ったのは、大学3年生のときだったかと思う。友人の家に遊びに行くと、本棚に吉本隆明氏の主宰する雑誌「試行」が並んでいた。パラパラとめくっていると「武道の理論」というタイトルが目に入ってきた。筆者が「南ク継正」とあった。
 へえ、武道に理論なんかあるのか? と驚いて読んでみると、実にスッと頭に入ってくる文章なのである。

 この文章は受けつける、と思ったのがまずは最初の感想だった。
 それから自分でも「試行」を定期購読して読むようになったが、お目当ては吉本氏と南ク氏の論文だけで、あとはどうでも良かった。そのうち、吉本氏の論文は色褪せ、ついに「武道の理論」だけを読むために購読したものだった。
 爾来、南ク継正先生の読者を続け、今日に至っている。

 さて、話のマクラはこのくらいにして、今回の主題は、文章には生理的に受けつけるものと絶対に受けつけないものがあると述べたいと思う。
 南ク継正先生の文章は、当初から私にとっては生理的に受けつけるものであって、いくら難解でも(妙な言い方だろうが)心地よいものであり続けている。

 換言すれば、私は南ク継正先生の論文の論旨とともに、その文章の感情をも伴って学んできた。だから南ク継正先生の悪口を言う人間が許せない感情になっている。

 文章ではなく、これは音楽でもいいし、衣服でもいいし、友人関係、恋愛関係でも言えることかと思う。その感覚がどうしても受けつけないもの、好きにはなれないもの、毛嫌いせずにはいられないものがある。逆に、理由はとりたててないが、好きでたまらないこともある。

 言うまでもなかろうが、こういうことが生じるのは、子供のころから培ってきた認識がどんな感情で創られたかによる。先月くらいからこの件は本ブログでたびたび説いてきたから省略するが、ひらたく言えば育ち方によるのである。

 作家マーク・ トウェインが小説『王子と乞食』を書いたが、その主題はともかく、王室で育った王子が乞食の生活ができるものではない。今日的比喩でいうなら、大邸宅のウォシュレット付きのトイレを使っていた者が、汲取式便所でしかも紙がなくて竹べらで拭く生活ができようものか。

 文章もそんなぐあいである。文章は「何を書くか」と「どう書くか」は不離一体である。だが、「何を書くか」しか念頭になく、どんな汚い表現でもかまったこっちゃないという輩がいるのだ。これはもう、トイレでさえあれば、人から見えようが不潔だろうが構わぬという支那人みたいなものであろう。

 文学で言うと、子供のころ好きになった開高健の文章は生理的に受けつけるものになった。しかしどうしても読めない作家が何人もいた。例えば、大江健三郎、石原慎太郎、三島由紀夫、高橋和己あたりは、相当無理して我慢しなければ読めない。
 大江や三島の文章が好きな人を非難しているのではない。それは好きずきである。

 大江の個人全集の月報に開高が文章を書いていたことがあって、開高が大江と親しかったころ、パリに旅行に行って、地下鉄に乗った、と。酔っぱらっていた大江は、日本語で目の間に座っているフランス人をバカにし嘲笑し始めた。言葉は通じなくても、フランス人にも雰囲気は伝わり、目つきが険悪になって大江をにらみつけてきたそうだ。開高はこれはまずいと、大江を横から肘で押して、そのフランス人客から遠ざけ、事なきを得たという内容だった。

 そのエピソードをあえて大江の全集月報に筆を行(や)った開高の怒りもそうとうなものだったが、今度は開高健の全集の月報で大江が寄稿して、あのパリでの出来事をわざわざ開高さんは暴露してきて、よほど僕のことが嫌いだったのかと驚いた、と書いていた。反省はなかった。
 開高はパリでの大江の傍若無人で、あたかも東大をひけらかす態度に不快感を持ったのだろう。当然である。

 大江はそういう下劣な男であった。だから開高と大江は仲違いするようになったと思う。それでも大江はノーベル賞をもらったから、偉い人だと思う人は思ったらいい。私はかかる大江とその作品を生理的に受け付けないだけである。

 以前、漫才師の居島一平が司馬遼太郎の文章を評して、「嫌です」と断言していた話を本ブログで書いた。司馬の評論家口調、上から目線のもの言いがダメだと、歴史上の人物にも辛い思いもあったんだから「寄り添う」べきじゃないかと言っていた。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/432033499.html
 すばらしい感性だと思う。同感だった。

 しかし、司馬や大江らの文章を勉強になるからとか、触発されるからとか、先輩だからと言われて読まされるのは苦痛である。認識は感情で創るものなのだから、感情が受けつけないものを強いられるのは苦痛なのである。

 もうひとつ挙げておくと、小林秀雄の文章も大嫌いで読めたものではない。谷沢永一氏はこう評した「当たり前のことに勿体をつけ、反り返るような姿勢で絢爛たる字句を操作する名人でした」と。同じく向井敏は、「殺し文句にかけて海内無双の名手といえば、これはもう知れたこと、小林秀雄である。(中略)その著作歴は、さながら殺し文句の絢爛たるオンパレードの観を呈する。人を悩殺し、驚倒させ、感服させる名文句を工夫することに明け暮れたといったほうがいっそ実態に近いかもしれない」

 大学時代に一応は読んだが、たいした内容もないのに、もったいを付けているだけだと、思って棄てた。小林秀雄の文章も生理的に受けつけない。

 余談になるが、甲子園を目指す高校球児たちは、監督や先輩のどんなシゴキにも耐えぬくことができるのは、甲子園に行きたいとの感情が何物にも勝って強烈だからである。シゴキもリンチも、感情が受けつける(我慢できる)ようになっている。

 逆に子供が勉強嫌いになるのは、教師が教科の中身だけを教え、中身をいわば「快」の感情で受け入れるようにしてやらないからである。数学なら数学を、「嫌」の感情で創らせる教師が悪い。数学のテストは最後の答えが間違っていたら零点をつけるけれど、途中の計算方法があっていたら半分点をあげるとかすれば、生徒はそれほど数学を嫌いにならないだろうに…。

 文章は文章で、どれも違いはないじゃないかと言う人もいるだろうが、それはやはり認識が感情で創られることがわかっていないのではないだろうか。

 昨年11月頃、本ブログで「スジを通した音楽批評とは」として、知人が自身のブログで書いている音楽批評を論じたことがある。それとブログ「VINYL JUNKY」を書いていたMICKEY氏の文章を比べて、どちらがまともか述べたものだった。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/428594001.html
 スジの通らない音楽批評の文章は読めないが、「VINYL JUNKY」の文章は読める、と書いたら、いくつもの罵声を浴びた。

 このときは、「優れた音楽だ」というだけの文章は、どこにも何故どうして優れているかを説いていない。筆者が自分だけ酔っている文章だから、こういうのは文章としてダメで、読めたものではないと述べたのである。
 媚中・副島隆彦の文章がこれであって、例えば「胡錦濤は人間が立派で優れた政治家だ」と書くが、どう立派なのかを書かない。こう言う文章は私は受けつけないのだ。

 文句を言ってきた者は、文章がわかっていないと思うが、それも好みだと見切りをつけた。


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2016年05月17日

韓国の北朝鮮情報は一字も信用できない


 北朝鮮が弾道ミサイルを潜水艦から発射したが、失敗だった、と韓国の情報当局が発表した。
 北朝鮮が何か、核実験にせよ、政変にせよ、起きたらしいとなると、真っ先に韓国の情報機関がもっともらしく発表する。
 日本のマスゴミは、いかにもそれを信頼できる情報であるかのように、右から左へ報道する。

 だから国民も騙されて、韓国の北朝鮮に対する情報の収集力は日本より上で、韓国政府が持つ北朝鮮関連情報は質、量ともに、日本政府のそれを上回る、と日本人は信じ込まされる。
 なにせ韓国は北朝鮮とはまだ休戦状態であって、常に戦争の危機を孕んでいるから真剣に北の情報を収集している、それもかなり正確に、と思いがちだ。
 私はかねてからそれが疑問だった。

 そもそも韓国政府の情報収集力はしっかりしているとの「常識」を裏付ける客観的証拠は存在しない。そんなものは日本人の思い込みにすぎない。おそらくアメリカもロシアも中共も、韓国のそうした発表を信用していないだろう。
 ブログ『BBの覚醒日記』に、朝鮮人にとって、支那と朝鮮の国境にまたがる白頭山(ペクトウ山)は、聖地と崇められているけれど、この巨大な山の面積の大半は支那領なのに、それについては「ケンチャナヨ」細かいことは気にしない、という連中だとあった。

 なんでも「ケンチャナヨ」これくらいまあいいか、で済ませる性格なんだから、どうして北朝鮮の情報だけはきっちりしていると言えるだろうか。
 剣道も茶道も、ソメイヨシノ桜も、日本の文化はすべて韓国がオリジナルで、熊本城すら韓国人がつくったと平然とウソを言うんだから、北の情報もウソばかりと警戒しなければいけない。

 昨年5月に日韓両国政府間でいったん合意された日韓軍事情報包括保護協定(日韓GSOMIA)の締結が、韓国側の署名拒否のドタキャンによって延期され、いまだに締結されていないという珍事の原因はなんだろうか。
 軍事情報包括保護協定とは防衛秘密を交換する際の手続きを定めたもの。事務局レベルでは必要性が同意されながらも韓国政府が難色を示した。

 産經新聞の解説では、韓国国内の反日感情や中国への配慮が締結の障害となっているそうだ。これにはアメリカ軍もイライラが募るだろう。
 さらに最近は、パククネ大統領が、「慰安婦」に関する日韓合意を蔑ろにする発言を堂々行なって、年末の合意はやっぱり反故にされる模様である。国内の反日団体に遠慮して、デッチあげの「少女像」は撤去する話にはなっていないとぬかした。

 こんな身勝手な韓国が、北の情報だけは信用できると言えようはずがない。仮に日韓GSOMIAが結ばれても、あちらからはウソばかり摑まされるだろう。
 最近ネットで見かけるのは、朝鮮戦争時の米軍のリッジウェイ将軍が、韓国軍について証言している話だ。韓国軍は当時最新の兵器を韓国陸軍に与えても、戦闘が始まるとそっくり遺棄して敵前逃亡したという。

 韓国軍だけ勝手に、命令を無視して撤退するものだから、戦線の一角が崩され、他の国の軍隊が損害を被ってしまう例が多発したとリッジウェイは怒っている。2010年製作の韓国の朝鮮戦争を扱ったドラマ「戦友」は、国のために勇敢に戦う兵士の物語だったが、全部ウソだったわけだ。
 だから休戦協定は、米軍、中共軍、北朝鮮軍の協定であって、韓国はお味噌にされたのである。

 こういう国柄であることを、NHKや共同通信はちゃんと国民に分からせてから、「信用はできないが、韓国がこう言っているぜ」とニュースにすべきだった。




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2016年05月16日

人は淋しき


 人間はたいてい淋しがりである。
 人間はそもそも共同体と直接に誕生したので、集団(社会)から離れては生きられない。共同体とともに生きる、共同体に感謝する、共同体の発展に尽くすなら、問題は生じにくいが、どうしても個性が生まれる。共同体の縛りを嫌がると、アナーキーな心情に傾く。
 そこが「淋しい」という感情、孤独感が芽生える根本である。動物にはそういう感情は起きるわけがない。

 また、個性はうっかりすると「自分勝手が良い」と思うものだから、それが嵩じると精神病にも到る。とりわけアメリカや支那は、社会に伝統文化がなく、いわゆる良い意味での自己疎外ができるような規範がないので、自分だけ良ければいい、になりがちであって、だから精神病患者とカウンセラーがゴマンといる。

 アメリカや支那のようにならぬためには、子供のころからしっかりと友だちを作り、仲良くしたり喧嘩したりして、認識が社会性を持ったものにしておかなければいけない。
 認識の社会性を持たない人間の場合は、精神病になりがちで、それよりやや軽いのが、ギャンブル依存やアルコール依存になって抜けられない人間になる。

 さらに軽い場合、つまり認識はまともであるが、ちょっと淋しがりやだというケースでありがちなのが、犬や猫をかわいがる人であろう。それも溺愛するタイプ。
 動物学者のコンラート・ローレンツは「ひとりぼっちで淋しい人は犬を飼うといい」と書いていた。
 たしかに犬は人から見て邪念がなく、主人にはシッポを振ってめいっぱい愛情をふりまいてはしゃぐから、人の気分を安らかにしてくれる。

 開高健は『ずばり東京』でこういうことを書いていた。東京の超豪華なペットのホテルをルポしての感想だった。
 「私の漠然とした予感では、犬好きも猫好きも、どこか病むか傷ついているかという点では完全に一致しているのではないかと思う。どこか人まじわりのできない病巣を心に持つ人が犬や猫をかわいがっているのではないかと思う。犬や猫をとおして人は結局のところ自分をいつくしんでいるのである。」

 このように、ペットを必要とする人間は、良く言われる「癒し」を希求する認識があると思われている。愛犬、愛猫程度なら、精神病やアル中、ギャンブル依存症と違って、社会性がいわば担保されていて、異常とはならないが、なかにはペットを我が子以上に甘やかすバカもいて、正常と異常の境目がわかりにくい。

 酒も合コンとか、花見とか、宴会なんかで陽気に飲むのはまあいいとしても、独り淋しく飲む酒は哀れである。
 歌謡曲にはよくあるが、淋しさをまぎらすために飲む酒があり、逆に一人酒が人を淋しくさせることもある。かくいう私も若いころは、一人で酒をチビチビやって淋しさに浸ることがあった。それが一種の「癒し」だと勘違いして、妙に孤独感をいや増す効果(?)があった。

 しかし空手を始めてそういう馬鹿げた自分とは訣別した。そんな愚劣なことに関わっている閑はなくなった。
 人間は誇り、情熱、大志だと教わったからだ。

 ところで。
 これまでブログを書いてきて、人様のブログにいそいそと悪口を投稿する人間を観察すると、これは相当淋しい人間だと気づかされる。2チャンネルもそうだろう。あるいはブログやツイッターをやる人間もそういう傾向はあろうかと思う。
 はっきりした目的を持たず、とにかく誰かとつながっていたいと希求して、ブログ、フェイスブック、ツイッターをやるのは、淋しさをまぎらすためであろうか。さもなくば、ただのひねくれ者か。

 そこへ感想、批判、質問、お礼を投稿する場合は、まともなコミュニケーションと言えるが、とにかく相手をくさす、揶揄する、揚げ足を取る、語尾に「WWWW」などとつける、こういう手合いは、要するに普段、人と上手にまじわれない孤独で胡乱な人間なのである。

 そんなクズでもいいから、論争したい、関わっていたいと思うのは、その人も孤独感にさいなまれている。
 そんな心の病んだ手合いと口角泡を飛ばして論争することがいいとは思えないが、そうしないと「テメエは逃げるのか」と罵る人がいるから困ったものだ。

 まるで、アル中の人間、酒癖の悪くてからむ人間であっても、喜んで一緒に飲めと強要しているようだ。ごめん被りたいであろうに。
 酒癖の悪い人間が、酒席で「おい、おれの酒が飲めねえてのか」と絡んでくるものを、横から「断るな。喜んで付き合えば触発されることもある、新発見もある、先輩じゃないか。一緒にグデングデンになるまで付き合うべきだ」とは! 誇りも志もある人間が、そんなことができるか。
 酒癖が悪い人間は、自分の認識をまともな社会関係で創り損なっているから、その自分勝手に創った淋しい感情を、酒の力を借りて人にからむことで、落ち着かせているのである。だから注意しても止めない。人様のブログや見解にケチをつけるしかできない手合いも、これと同じである。

 ブログのなかには、やたら陰謀説を取り上げて、「鬼面人を驚かす」のやり口で、読んでもらおうとする向きもある。あるいは、自分ではろくに勉強もしないで、人の論旨を捉えることなく言々句々だけを見て揣摩憶測をくり返す。これも一種の淋しい人間だろう。

 くり返し説くが、認識は感情で創られる。社会的妥当な感情で創りそこね、孤独感とか疎外感とか淋しい…とかの感情を異様に育ててしまうと、軽い場合でペットの溺愛、あるいは人様のブログやツイッターに向けて悪口を書かずにいられないようになる。
 もっと悪化して、アル中、ギャンブル依存、果ては精神病なのである。

 像は(認識は)感情を持っている。その感情によって像は自分のアタマの中の像に変形されていく。侮辱されたとか、相手にしてもらえなかったとかの像が「あんな奴、ぶっ殺してやる」の像に発展、変形されてゆく。そういう感情のままに像を描いて落ち着く場合がある。
 一般論でいえば、こういう(像を勝手に描いて落ち着く)認識の形成が、人様のブログに、揚げ足を取り、揶揄し、上から目線でケチをつけたがる人間の病理と言えよう。

 淋しさ、屈辱感、嫉妬、劣等意識、それを落ち着かせるために、こういう愚かな人まじわりしかできなくなるのである。





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2016年05月15日

舛添要一クンの辞職を勧める


 13日金曜日に、都知事の舛添要一が定例記者会見で、一連の政治資金疑惑で釈明していた。
 なんで、政治家や役人となあなあの関係になっているマスゴミ記者のクズどもと対面して釈明を済ませたことになるのか。ふざけるな。
 都民の代表を選抜して、知事と対面して質疑応答、甘んじてつるし上げを受ければ、舛添はあんなニヤニヤした態度では済まなかっただろう。

 マスゴミ記者も、普段領収書をごまかしたり、接待費で豪遊したり、私的な酒席なのに帰りにタクシーを使って会社のタクシー券で落としたり、企業だのの接待を受けたり、会社のカネで海外で遊んだりしているんだから、舛添を糾弾する資格はない。なのに偉そうにものを言う態度には呆れる。

 舛添がいけすかないゲスなのは、昔からわかっている。顔に品性がない。さして才覚があるわけでも話が面白いわけでもないのに、マスゴミに拾われてタレントに育てられ、名が売れているのを利用して政治家になっただけの男であった。
 あんなカスを都知事に選んだ都民が馬鹿なのである。
 舛添は行政では無能のくせに、都市外交をやりたいと抜かす。現代は古代ギリシャの都市国家が点在しているのではないから、外交は政府がやることだ。地方自治体が勝手にやることは許されない。個人の名誉欲とマスゴミに出たいだけ。

 「虎ノ門ニュース」でジャーナリスト有本香が言っていたが、もはや民選知事は止めるべきかもしれない。有権者も馬鹿で有名人ばかり選んでしまう。大阪も東京も。だから不祥事ばかり起こす。田母神が都知事になっていたら、彼も行政能力はゼロだったろう。

 週刊文春で暴露された今回の舛添の不始末。私的遊興費を政治活動とウソをついて税金を奪った罪は重い。
 ゲス舛添は、合法だからいいんだ、帳簿のツケの間違いは訂正して返金すればいいんだと主張した。
 政治家がこうしたカネのスキャンダルで取り上げられるたびに、適当に言い繕って、法にしたがって適切に処理していると抗弁することが多い。

 合法かどうかで問うなら、合法なのだろう。「道義的責任」にも政治家どもは軽く触れるが、ほんの申し訳程度のことだ。
 しかし、舛添が政治資金に付けた遊興費や、飲食代、絵画購入、散髪代なんかは、いくら合法であっても、やってはいけないことなのである。それが人の上に立つ政治家の、あるいは税金をいただく身の、倫理である。税務署の理屈とはまた話が違う。

 マスゴミの記者どもは、舛添に「これは合法」と言い訳されると、みんな黙る。せいぜい「道義的責任は?」と問うだけで、それに対しても、「はい、道義的責任は感じています」とか「まことに不徳のいたすところで、今後しっかりと職務を全うして行きます」と答えられると、もうそれっきり。

 金曜日の舛添とマスゴミ記者の応答なんか、屁のツッパリにもならない。茶番である。「適法」「道義的責任」これらはただの言葉であって、税金を重いものとする感情が欠落している。舛添も東大出、マスゴミの記者どもも一流大学出ばかりだから、こういう言葉さえ出ていれば、なんの感情も湧くことなく、「わかってしまう」事態になる。言葉で満足して終わる。

 それこそ爪に火を灯すように節約して暮らしている納税者の感情が、舛添もマスゴミ記者も理解できないアタマになっている。庶民は正直の税金として払ったカネを舛添が、寿司屋やレストランで飲み食いし、「政治活動だ」と平然と言うことに、どんな感情になると思うのか。嘘をついても言い逃れすればいい、というのだから。

 だから冒頭に書いたように、税金を払っている都民のなかから選抜して、糾弾集会に呼べば、もっと白熱した討議になるというのは、都民のほうが感情がこもるからである。マスゴミ記者はその感情が薄い。舛添問題の記事さえ書ければいい、それもお定まりの記事にすれば事足りる。

 虚偽記載ではありません、仕分けをした会計責任者が勘違いしただけです、との舛添の醜い責任転嫁を、マスゴミ記者どもは「あ、そうなの、じゃあいいや」にしてしまう。
 舛添があとから弁明してもダメなのである。
 そもそも、「李下に冠を正さず 瓜田に履を納れず」の諺は小学生でも習うことである。そんなことを舛添もトボケたし、記者どもも知らないふりをしたことが、ゲスの極みである。

 日本人の国民性は、「李下に冠…」であったはずなのに。だからいくら重要な会議を酒席でやった、旅行しながらやった、としても、政治活動費に入れることそのものが間違いなのだ。
 瓜田に履を入れただけで上に立つ人間の資格はない。瓜を盗んでいなくても、である。それだけのことで、適法に処理したかどうかなんて問題じゃない。

 舛添が、ヨーロッパ視察、アメリカ視察で大名旅行をやらかしただけで、その随行に行った都庁職員もクビである。
 湯河原の別荘に公用車で行き来したことも、これは有権者・納税者を裏切ったのだ。公私混同という疑いを持たれただけでどう釈明しようと、レッドカードなのである。
 なのに舛添は「まったく問題ない」とか「都内の自宅では湯船に足を伸ばせない」とかバカを言った。

 都民の同情を買おうというさもしい、いじましい、すれっからしのバカである。人工関節を入れているから、辛いというなら、都知事になるな。都知事になる人間であれば、そういうことは口にしないか、死ぬまで黙っているものである。それが人に奉仕する者の態度であり、プライドではないか。

 遊興費を政治活動費に入れたのが虚偽記載かどうかより(虚偽記載だが)、政治家として、人間として使命感、責任感、誇りがないことが問題であり、辞職に値することなのである。

 定例会見の最中、舛添はなんどもグラスから水を飲んでいた。そのたびに、コップを持つ手に反対側の手を添える「朝鮮式飲み方」をしかけては、慌ててやめているのが見てとれた。つい癖になっているらしい。ああ、やっぱりヤツはあちらなのだなと、わかってしまった。

 これだけ都民から軽蔑され、元妻の片山女史にも引導を渡されたんだ、恥ずかしくて知事はやっていられまいに。




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2016年05月14日

五山文学の偉大性とは(2/2)


《2》
 一例としてあげたが、いうなれば、平安時代の仏教は名詞的意味の「生死一如」の考えしかなく、鎌倉時代(中世)になって動詞的な「生死一如を極める」に変化発展したのだと譬えれば、外れてはおるまい。断るまでもないが、平安時代の人生観である「生死一如」は、飛鳥・奈良の時代に比べれば大きな認識の発展があったのである。より人の胸奥にはいっていったのだ。

 先に述べたように、明極楚俊は現代風に言えば帰化した支那人ではあるが、往時の日本の知識層の認識と、元の知識人とが共鳴したのだろうし、彼も日本の社会のありようと相互浸透して、“時代の人”となったのだろう。
 こうして人生観とか認識のありようをも、運動として捉えること、過程で捉えることが弁証法の適用である。弁証法の用語を用いなくとも、この「生死一如」の像の変化発展を捉えるのが、弁証法の駆使の例である。

 藝術作品は創作も鑑賞も、個人の個別性ではあるが、その玄(奥)にある一般性を看取すれば良いと思われる。だから、2つの漢詩作品を取り上げたが、個別には雀が…とか、一杯のお茶が…に筆を行(や)っているが、そこに共通する一般性、すなわち人間の覚醒とか、新しい浩然たる認識、情熱、誇り、能動的精神とかを理解することが大事だろう。

 そしてそれにただ感動、感心するだけでなく、かかる一般性を己れの心象風景に見事にするために活用すればよいのだ。それができたときに、昔の身辺雑記に見える漢詩が藝術として成立し得るのである。

 個別性を一般性の論理はむずかしいかもしれないが、例えば私たちが風邪を引いたなら、喉が痛いとか頭痛がするとか症状は個人個人で違うからそれを個別性というが、医師はその症状に共通する性質を見てとって(反映したうえで)「風邪一般」の像を描き、その像をもとに個別患者に治療を試みていくものである。医師は患者の個別症状の反映からある病気一般の像を描く実力を持つべきものである。

 禅僧たちは、個人が抱える問題を個別性に終わらせずに、そこになにがしかの一般性をまさぐって捉えることで、禅境・禅機の認識に達しようとした。龍安寺の石庭も、彼らなりの禅境・禅機という一般性を捉え、それを己れの精神の自由や心象風景を見事にする修行と考えたはずである。

 五山の僧たちを現在の仏教僧の生活や為事から類推してはなるまい。「明鏡止水」もそれは一つの認識のありようでしかない。
 五山文学が隆盛する同時期に、『玉葉和歌集』『風雅和歌集』が伏見院、花園院、光厳院、光明院の北朝系天皇により編集されたことも記憶すべきである。『風雅和歌集』については本ブログで詳細に論考を示した。(13回に分けて掲載)
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/258833332.html

 日本の漢詩文の歴史は、古代の大陸文化の流入にさかのぼり、支配者たちの公文書をはじめ、私的なものまで漢字が用いられた、漢詩文が男の表芸(おもてげい)の一つであったことは江戸末期まで続く。

 これを踏まえて五山文学を別角度からみると、禅僧たちが「個人」になっていることが見てとれる。それ以前の平安時代の宗教は鎮護国家としての宗教である。天台宗、真言宗などはその典型である。
 平安期の『源氏物語』は紫式部の個人的小説ではない。あくまで藤原氏の権力維持のため、国家管理のために、政敵を残酷に葬ってきたために、向後に悪霊として祟ることのないように、絵空事のなかで栄達させて怨霊を気分良くさせるためのものである。そうでなければ当時、超貴重な和紙を女に与えて物語等書かせるわけがない。

 いわば国家行事としての『源氏物語』の成立なのだ。しかし、そういう縛りというか、哲学的に言えば自己疎外されていながらも、人間の心、個人の思いに焦点を当てて描けた、作者たちには感嘆してよいのである。

 ところが鎌倉時代になってくると、仏教も個人としての信仰とか生きざまとかがテーマになってくるのである。平安時代のいわば藤原氏の一党独裁的な安定した戦乱のない時代から、源平の争い以降、応仁の乱などへと続く戦が常態の時代に入って行き、個人にとって明日の生き死にが重大な関心になってくるのである。

 だから武士を中心にして禅が流行する。死を恐れない自分、死を越えた自分が意識されるようになるからである。それゆえに、五山の禅僧らは自分の気持ち、感情、考えを述べる。そのいわば個人の解放に、「中世の華やぎ」があるのである。別言すれば「華やぎ」とは思想性であり、誇りであるとも言えようか。五山文学には、書いたら褒めてもらいたいという野心や見栄はないのだろう(出世のためにつくった人は論外)。龍安寺石庭にもそれはない。

 禅の思想と言えば、本来の釈迦の教えに回帰させようとの意図があった。菩薩だの観音だの、加持祈祷に縋るのではなく、釈迦は自分以外を頼るなと言っている。自ら努力するだけ。それが本来的には釈迦直伝の教えであった。
 人間はこうして宗教を媒介にして、個別の悩みや苦しみを人間の認識の一般性として捉える道を発見したのである。

 平安時代にはまだ心の自由自在は少なかったのではないか。仏教とて、平安時代は個人的修行に没入できる環境ではなかった。来世を祈念するとともに、鎮護国家のための仏教だったからだ。平安期の仏教はやがて潮が引いて干潟のようになった。干潟に取り残されたクラグみたいにブワブワと潰れながら恨み節を呟いたのが「古今集」や「新古今集」の和歌だった、とこうなるのだ。

 鞍馬寺は義経の幼少期に預けられた寺ではあるが、平安時代のことなのだから本質は鎮護国家の寺なのである。京の西北の鬼門に対する備えとして開山されたのであった。個人の修行のためや安寧を得るためではない。

 再三言うように、平安時代末、源平の対立が起こって以後、日本は戦乱に巻き込まれていった。武士の、あるいは野盗の跋扈する社会。禅はそのシビアな、戦闘での個別の死、あるいは個人の恐怖を想定しながら、如何に生きるか、如何に死ぬかの一般性を彼らは直視するために頼りにされた。

 頼りにするとは変な言い方になるが、自分自身の戦闘力や集団の武力以外に頼れるものを求めるのが、自然であろう。貴珠賤蚌(きしゅせんぼう)とは、美しい真珠も元は汚い貝から生まれるところからきた言葉で、禅の思想も同様に殺しあいの、汚なく混乱した社会から生まれた真珠であった。
 同様に、『風雅和歌集』も、南北朝戦乱のなかから誕生した、奇跡的な貴珠賤蚌であった。

 当時の武士たちは、戦闘そのものや死を、ただの野垂れ死ににしたくなかったのだ。そこに武人の精神性の高みが生まれた。貴族は宇治平等院に見るように、死というものを空想(妄想)でしかない極楽浄土を望んで、菩薩だの観音だのに縋った。加持祈祷の延長にある。平安時代の『源氏物語』もそんな人間ばかり登場する。

 今からいえば醜態である。今日でもひたすら仏にすがる宗派がないではないが、武人たちはそうはいかない。自分が人を殺していくのだから、極楽には行けそうもない。
 どうしたら心の安寧が得られるかは真剣、切実な課題なのだ。自分の行為を精神性の高みに置こうと考えたのである。

 その武人たちのレベルこそが、禅を高みに引き上げ、五山文学や、『風雅和歌集』や、枯山水や、能を生み、北朝天皇の光厳院に見られるように南北朝戦乱の責任を取るまでに高まった。
 光厳院が創建した常照皇寺は京都右京区の山間にある。常照皇寺の“正気(せいき)”は、こうした社会を反映しているから、今日も人の心肝を叩く。「中世の華やぎ」がある。

 五山文学の担い手は、日本の精神界の開拓者だった。五山文学は日本人がこの時期に人間に目覚めたことを示しているのである。仏教は堕落し、死んだら神様・仏様が救ってくださると、平安時代まっさかりの平等院当時の思想そのまま受け継いでいる信徒たちが今も多い。
 その意味では自分以外頼るなとの思想性を把持する五山文学に共鳴する人間は今もすくないことになる。

 禅僧たちは、不立文字(ふりゅうもんじ)などと言いつつ、せっせと漢詩を詠んだ。漢詩が詠めると出世も早かったとか。いまだに鎌倉など五山の寺には整理しきれない漢詩が山のようにあると言われる。
 不立文字とは、禅宗の教義を表す言葉で、悟りや教義の伝承は、文字や言葉によらずに、師から弟子へ体験によって伝えるものこそ真髄であるとする。

 だから当然に龍安寺石庭も言葉で意味・意義を伝承するものではなかったのだ。毎日毎日、白砂を掃除して庭を造り直すことの繰り返し自体に、その不立文字を捉えさせようとしたのであろう。
 したがって、龍安寺の石庭をそのものとして眺めることは庶民にとってはそれなりに満足がいくにしても、精神性の高みを志す人間にとってはたいして意味もないことなのである。





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2016年05月13日

五山文学の偉大性とは(1/2)


《1》
 五山文学は中世の華やぎを表している。その華やぎとはいかなることかを考察してみたい。
 五山文学は、鎌倉末期から室町時代にかけて、鎌倉五山、京都五山(それぞれ5つの禅寺)で修行していた禅僧らが書き残した漢詩である。通俗的には禅の思想を説いている詩だとも解説されている。

 当時の支那は宋であったが、日本から学僧が留学したり、逆に宋からの僧が日本に来たりして、宋の漢詩が日本に入ってきた。
 五山文学の名前だけは教科書で見たとしても、中身はどんなものかを知る人は少ないだろう。よこばくの興味を抱いたとしても、なにせ漢詩だから読み解くのが面倒で、不人気なのは気の毒である。みなさんも、なんだ漢詩か、かったるいなあ〜と言わずに、しばしお付き合いください。

 頓智話で有名な一休も、五山の僧の一人で、やはり漢詩をものしている。
 時代的には、五山文学も龍安寺の石庭もおおむね同じ時代に創られた作品である。龍安寺をつくったとされる特芳禅傑もおそらくは漢詩をものしていたであろう。そこに共通して、私は「中世の華やぎ」があると思えた。龍安寺の石庭にも「中世の華やぎ」がある、と。

 私に五山文学を教えてくれた恩師はこう言っていた。
 「後に世阿弥の『花伝書』に顕われる『秘すれば花』の花という言葉が、中世の華であろう。中世の華の本質は、無常観に支えられた華やぎ、あるいは華やぎの無常観である」と。
 恩師はまた、五山文学は煩悩から超越した清浄界の文学であると語っていたことを今でも思い出す。

 五山の禅僧たちは多く八宗兼学的に仏教各派の教義を研究していた。八宗兼学とは、宗派にとらわれずに仏教全般を学ぶありようである。禅宗以外は排斥している現在のありようとは違った。
 彼らは支那に留学しては当時の元・明の仏教だけでなく、儒学をも兼習していて、広く支那の精神文化を学んで来た。そうせざるを得ない社会的背景があったのである。
 中世に於いては、面白いことに、寺院が学府を兼ねていたことは中世ヨーロッパの教会とも類似している。

 五山文学とは、漢詩だけでなく日記なども含まれるが、ここでは詩にかぎる。人事、花鳥、天然を諷詠したものだけではなく、不立文字(ふりゅうもんじ)とされる禅機にふれた作品も、禅の境地を述べた漢詩もある。僧らの作品はおおむね精神性の高みがあり、俗人の漢詩文とは比較にならないと言えよう。
 一つの特徴としては、禅境・禅機を述べた作品には、俗人が表現するとは異なった日常性を否定した言語が用いられた。禅を極めんとした人間でなければ、摑めない言葉遣いがなされるゆえに、いっそう俗人には理解、鑑賞がむずかしい。

 では実際に五山の漢詩とはどんなものだったか、見てみよう。
 義堂周信(1324〜88)の『空華集』中の作品を取り上げよう。(漢詩は略し、読み方のみ掲載)

竹雀 (竹の雀を)
  太倉(たいそう)の粟を 啄(ついば)まず
  主人の屋を 穿(うが)たず
  山林にて 生涯を有(たも)ちつつ
  暮れには宿(しゅく)す 一枝の竹に

 竹林に遊ぶ雀を見ている作品である。竹林に草庵を囲む禅僧の、俗を離れた修行の間の一時である。戒めを決して破らないなかに、心の自由自在をかいまみせる作品と言える。

 これをものした義堂周信は、なにげない雀の動きを筆に行(や)るように見え、その表現には鏤骨(るこつ)のあとは見えないし衒いもない。しかし実は今風に言えばその風景に感動している。ココロ動かされたのだ。だから詩にした。
 とは言い条、個別対象の雀への感興を肯定しつつ否定している。そこを捉えるのがむずかしい。雀の様子にただ感動してもしょうがないからだろう。たかが雀にさえ感動し得るとは、その己れの五感や精神性や心象風景を見事にする修行の一環なのである。

 換言すれば、これは八宗兼学的修行によって、彼らの認識が感情になっている詩なのである。竹やぶに遊ぶ雀を反映しているときの、感情、その清浄さや、屹立したさまを見てとれるかどうかだ。

 たかが雀への個別的(個人的)感興で能事畢れり(おわれり)とせず、そこに五感、精神性、心象風景を見事にするという一般性を、義堂周信は(本人はそれと自覚はせずに)“文學”にしたのである。

 もう一つ、明極楚俊(みんきそしゅん)の「山居」を紹介しよう。彼は元(げん)から日本に来た僧である。

山居
  幽居しつつ野僧の家を出づることなく
  白屋は三間にして 紫霞(しか)に護られたり
  澗(たに)に臨んで 泉に掬(きく)しては閑(しずかに)幽を嗽(くちすす)ぎ 
  籬(まがき)に傍(そう)て 竹を拾ひては 自ら茶を煎ず
  黒猿は子を抱きて 坐して法を聞き 
  青鹿は群れを呼びて 跪(ひざまず)きて花を献ず
  語を寄す 世途(せいと)の塵俗の客に
  淡中の滋味は 實に 誇るに堪へりと

 詩の意味は、山中に隠れ住む野僧たる私は、外に出ることもない。茅葺きの家はわずか三間しかなく、紫色の霞にまもられているほどの仙境にいる。谷間の泉に行って清水を手ですくっては、ゆったりと口をすすいでいる。静寂があたりを包んでいる。垣根のあたりで竹枝を拾ってきて湯を沸かし、自分で茶をいれる。
 私が仏の道を説いてやると、子を抱いた猿が庭に来て経を聴いており、鹿は仲間を呼んで、ひざまずいて仏に花を捧げるのである。世の中のけがれた人々に私は言葉を贈る、この山中の真水の、さっぱりとした味は、まことに誇るべきものである、と。

 現代語に意訳してしまうと、詩の趣が喪失してしまうから、だいたいの意味がわかったら、詩を音読していただきたい。
 鮮やかなイメージが描けることだろう。谷間の清冽な清水が喉を通っていくかのようであり、憂い、苦悩の心を洗い流してくれるかのようでもある。こういうのが中世の華やぎなのだ。

 最後の一行は漢文では「淡中滋味實堪誇」であるが、この浩然とした心のありようが、禅家として見事なのだ。ただ「お茶が旨い」ではない。「浩然の気」とはご存知のように、辞書的には「天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気。 物事にとらわれない、おおらかな心持ち」であるけれど、平安時代が終わって、世の中がしたたるような新緑の世界に満たされてきていることの反映でもある。

 なかに「誇り」という言葉があるが、この認識は、ぐだぐだと和歌に耽溺していた平安貴族にはないものなのである。
 キリスト教でも、通俗仏教でも、もし同じような詩があるとすれば、猿や鹿も法話を聴いた、で終わるところだろう。「どうや神や仏は偉いんやデ」と。ところが、明極楚俊は最後の二行で、人間とはいかなるものかを説けるのである。
 
 平安時代最盛期に建立された宇治平等院を見れば歴然とわかるように、あの貴族社会は、要は「神さん、仏はん、よろしゅうお頼み申しまっせ」でしかないのである。
 われわれは現在から昔の古代や中世を見るから、遅れた社会、停滞した暮らし…などと評価しがちだが、それではいけない。
 当時としては、いかに禅が先進的思想であったか、名詞的なとどまる認識ではなく、動詞的ないきいきとした認識が禅だったのだろう。くどく言うが、今の禅で判断してはならない。

 例えば、「生死一如」という仏教の人生観を表した言葉がある。生きると死ぬは表裏一体、というほどの意味だ。諦観の含みがある。せいぜい、命というものは自分一代の命ではない、過去から未来へつながっていくものだ、だから今生きている私は後の世代に「生きる意味」を引き継いでいかねばならぬ、というほどの意味ならやや能動的になろうか。

 それを、わが流派の会歌の歌詞では、
  
  『武道講義』は悟すなり
  再び来たらぬ人生ぞ
  生死一如を極むるは
  人類古今の望みなり

 となっている。
 仏教では、生死一如を名詞として捉えているが、わが流派は「極める」と、動詞で表現している。この違いは実に偉大である。人生観に天と地の差があるのがおわかりだろうか。認識が感情になるとは、として説いてきているが、仏教のはその感情が静止的、名詞的であるのに対し、わが流派では認識が感情になっているそれが動詞的感情となっている。

 歴史に名を残すほどの、偉大な足跡を残すとか、文化遺産の深化発展に功績があったとか、多くの命を救ったとか、そういうものこそが生死一如を極めることである。何度も本ブログで書いてきたが「歴史性」を獲得すること、それが「極める」という動詞的表現になる。



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2016年05月12日

農水省の犯罪


 TPP関連法案の審議を、たまに辛抱してテレビで見ていると、元民主党は、もっと農家や畜産家を甘やかせ、努力なんかさせるな、とばかり言っているように聴こえる。
 甘やかしてきたのは自民党も同じではあるが、この期に及んで、世界の貿易の趨勢は、1国だけが得をする体制ではやっていけなくなっているのであって、ひたすら関税の障壁を互いに守って国内産業を甘やかし、それで政党が支持票をもらう構図は、限界が来ているのではないか。

 だからTPPが良いのかどうかは別問題で、中身がどうもはっきりしないから論じようがない。どうやらこうらしい、で、あれこれ言う。TPPは端的には、ウォール街の連中が仕掛け、望んでいることだから、いずれアメリカの大統領がどう変わろうと、実現することになるだろう。その趨勢のなかでいかに賢く、騙されずにやるしかあるまい。反対論だけ述べても、犬の遠吠えでしかない。

 ときどき輸入小麦の価格が高騰して、パンや菓子、うどんやラーメンなど食料品の値上げに見舞われる。原産地が干ばつで…とか、石油の値段が上がって…とか言われることがあるが、原因の一つは、
「食料自給」が叫ばれるわりには、国産小麦粉は流通していなかったからだ。
 なぜかというと品質が悪いからだとのことである。
 たいていの国産小麦粉は質が悪く、パスタにもならないので、業者は外国産の半値でも買わないとか。

 以前、近所の生協で国産小麦粉100%のスパゲッティを販売していたので、一度買ってみたことがあるが、これはコシがなくて旨くない。タダでもお断りのシロモノであった。
 「国産小麦100%」などとパッケージに示されていると、ついうかうかとポストハーべストの問題でも安心だろうし、なにより自給率アップに貢献できるかも…などと考えて買ってしまいかねないが、大間違いである。
 パスタはデュラム・セモリナ小麦でないと、おいしくない。

 浅川芳裕著『日本は世界5位の農業大国』(講談社+α新書)にはこんな解説がある。
 「自給率の低い小麦や大豆を作付けすると、農家は転作奨励金という補助金が支給される。小麦や大豆を作るだけで収入が得られるため、単収(単位面積当たりの収穫量)や品質の向上に真剣に取り組まない農家が増加している。」

 農家に「転作奨励金という補助金」を支給するシステムにしたのは、農水省官僚と政府(自民党も元民主党も)である。
 こういうシステムを作れば、人民は自努力をしなくなり、依存体質が骨がらみに身に付いてしまう。だからますます行政に頼る。
 行政は依存されるからいよいよ仕事が出来、なんとか協会をいくつも立ち上げて天下り先をかくほしてゆき、我が世の春を謳歌できる。

 「小麦や大豆を作付けすると」とか「小麦や大豆を作るだけで」とあるように、これは別に収穫しなくても良い、という意味である。
 タネを畑に蒔いて(作付けして)、栽培すると見せかけただけで補助金がもらえるとなれば誰がまじめに働こうとするか。害獣、害虫に食わせるばかり、か。

 われわれの納めた税金は、かくのごとく無駄遣いされる。役人と怠け者にされた(なった)農民の不労所得になっていく。
 これだから小麦粉を扱う業者は「国産小麦なんか外国産の半値でも買わない」と突き放すことになる。

 輸入小麦の高騰によってパン、うどん、ラーメンなどの小麦を使った食料品の値上げが起きると、マスゴミは品薄の理由として、「国際的な穀物価格高騰が原因」としてきた。別にマスゴミは自分たちで取材、調査して記事にしたのではない。農水省の官僚に言われるままに報道しているだけだ。それに農水省の御用学者どもに発言させる。いつものことである。

 浅川芳裕氏は、「2000年から2008年までの国際小麦価格と日本における外国産小麦価格を比較すると、日本の価格は国際価格より2、3倍も割高だ。つまり日本では一貫して『国際的な穀物価格高騰』とは別次元の高価格が維持されていることになる」と説く。
 つまりマスゴミの流す情報は大ウソなのだ。

 そして農水省の悪辣なところは、「国際的な穀物価格高騰」とセットで、「だからこういう事態に備えて食料自給率を向上させることが大切」とするインチキ・キャンペーンを打つことにある。

 浅川芳裕氏の『日本は世界5位の農業大国』は、小気味良い筆致で真相を暴露している。つまりは国策、というより農水省の陰謀で小麦価格が吊り上げられているのであって、世界中で小麦生産量が減ったからではないのである。農水省の陰謀とは何か。
 少し長くなるが、引用する。
 
     *    *    *

 答えはシンプルだ。農水省が自ら小麦価格を高騰、維持させているのである。
 建て前上、民間企業は小麦を自由に輸入することができる。しかし農水省の政策に沿って、国は小麦に対して250パーセント(1キロ当たり55円)という関税を課している。

 これは、海外から1トン3万円の小麦を買う場合、税関にその2.5倍の7万5000円を支払わなければならないという法外な税率だ。3万円の原料が10万5000円になる。これでは正味の国際価格で原料を調達し、食品を製造する海外メーカーに太刀打ちできるはずがない。

 そこで農水省は、「少しは安くするよ」とばかりに、高関税に比べ低価格を提示できる強権的な仕組みを持っている。それが国家貿易だ。

 政府はユーザー企業から必要量をヒアリング、商社に国際価格で買いつけさせた小麦をすべて買い取り、無関税で輸入する。その価格に1トン当たり1万7000円の国家マージンを乗せて、製粉業者などのユーザー企業に政府売り渡し価格で卸す。
 つまり、国家が小麦の貿易と国内価格を一元的にコントロールできる仕組みになっているのであり、完全な価格統制としかいいようがない。7万5000円と1万7000円、どちら余計に支払うか二者択一を迫られれば、誰しもが後者を選ぶしかないだろう。

 では、なぜ農水省は企業や国民の負担を増やしてまで、小麦貿易に強制介入する必要があるのか。こちらの答えも単純だ。それは財源と天下り先を確保するためである。

 年間の小麦輸入量は約570万トン。それに1トン当たりの国家マージン1万7000円を掛ければ、約969億円になる。さらには、企業に「契約生産奨励金」という拠出金を1トン当たり1530円上納させている。これは約87億円にもなる。これを前金で支払わなければ、国は小麦を売ってくれない。締めて約1056億円が農水省の財源になるのだ。

 これは、農水省の一般会計予算とは別に計上される特別会計である。農水省のなかでも、これだけの特別会計を持てる部署は、国家貿易を独占する総合食料局食糧部食糧貿易課くらいしかない。だから、「小麦の国家貿易担当は省内ではエリート、有望な天下りコース」と公然と囁かれる。
 そして、主な天下り団体は、特別会計の61億を握る「全国米麦改良協会」と、同85億円の「製粉振興会」の2つだ。

     *    *    *

 みんな農水省に騙されてきた。
 農水省は国民を騙してテメエたちの特別会計というお手盛りにむしゃぶりついている。その既得権を手放すまいとて、TPPに反対なのである。関税がゼロにでもなったら、国家貿易という仕掛けで国民や業者からふんだくるカネがなくなってしまう。

 さらに農水省は農家に転作奨励金という補助金(税金)を支給して、国産小麦を保護しているかにみせかけて、まずい小麦を作らせのは、小麦はなんとしてでも輸入ものでまかなう事にしたいからだ。輸入すればするほど、農水省の懐にカネが入る仕掛け、これを手放すはずがない。
 これを陋劣陰険と呼ばずして何とする。

 TPPが実現したら、小麦がもっと安く手に入るようになるし、国産小麦も競争のために上質のものを栽培するようになるだろう。ふざけた貿易上納金を廃止するだけでも、パンもうどんももっと安価に食べられるのだ。それを阻むのが農水省の木っ端役人どもなのである。
 
 浅川芳裕氏は『日本は世界5位の農業大国』で農水省の大ウソ(小麦生産国で減産になっている)を次々と打ち破ってくれる。以下に挙げてみよう。
 中国とインドが経済発展と人口増で小麦輸入が増えていると言うが、昨日今日激増したのではない。順調に輸入量が伸びているのであり、2008年や今年、突発的に起きたのではない。小麦が足りないのは中国やインドのせいではない。
 
 バイオ燃料の需要拡大もよくニュースで語られるが、これもウソ。どれだけ小麦生産量を押し上げたかといえば…。
 「世界のバイオ燃料作物生産の7割を占める米国とブラジルの小麦生産量は、それぞれ6800万トンと580万トン。米国は減るどころか新興国の需要に対応して増産している。
 ブラジルは気候的に小麦作に適していないため、従来から小麦の生産が減っているわけではまったくない。」
 とのことだ。

 ロシアもアルゼンチンも、自国の食糧が優先すると日本に売ってくれなくなると心配するのもウソである。農水省はロシアからもアルゼンチンからも一度も輸入したことがない。ロシア産小麦は、日本人が求める品質に到達していないのだそうだ。

 日本が長期にわたって輸入してきたのはアメリカ、カナダ、オーストラリアの主要3国である。小麦は世界的に少しも減産していないから心配ない。ただ農水省がウソの情報をマスゴミに流して、価格を操作しているから日本で品薄になる。

 というように浅川氏は次々に農水省のウソを論破していく。
 農水省は小麦の輸入を独占して、国際価格の2〜3倍で家計を苦しめている。
 それでも平然と犯罪行為を続けるのは、「食料安保」「食料自給率向上」を旗印に、官が管理・統制しないと国民が飢えるからと言って、自分たちの存在と仕事を必然と見せかけるためである。





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2016年05月11日

生命誕生の謎(3/3)


《4》
 ある方が、生命の誕生についてこういうことを書いていた。
 生命現象は究極のウルトラCを編み出した。生命現象の本体の周りに膜といういわば城壁を築いて、冷えていく地球本体の影響を直接に受けない自分自身を造りあげた。これが〈生命の誕生〉である、と。
 
 この文章の前後があるから、この部分だけ取り出すのは気がとがめるけれど、この説明がある典型なので取り上げる。
 大衆向け解説ならば、「ウルトラC」でいいかもしれないが、生命体が膜をつくった、というと観念論になる。「編み出した」もなにか変な表現で、単細胞になるために何かが意志を働かせて(例えば神様の意志で?)細胞膜を作ったみたいになってしまうからだ。
 唯物論ではどう書くかはむずかしい。生命現象に膜ができるしかなかった、そうならざるを得なかった、と書くしかない。
 これはただの「言葉の綾」で済ますわけにいかない。

 西ノ島で噴火が起きてマグマが流れ出しているが、あのように、どろどろのマグマが地上に出れば、冷えて固まるしかないように、その現象がいわば膜に覆われて固定化するように、生命現象もある機能(冷えるかと思えば冷えない、温まるかと思えば冷えるのくり返し)が量質転化してきて、それが実体性レベルになりつつある段階で、その(冷えて行く)地球との関係性でいやおうなく、「それが地球」になるしかなくて、生命現象の地球が実体化するありかたが、生命体からみれば細胞膜の誕生だった。

 水には、「流れる」という機能と「ものを流す」という機能がある。このように、地球の生命体誕生のころの機能には、ただ他の惑星のように単純に冷えて行くのではなく、地球の4分の1の大きさのある月のせいで、あろうことか(!)冷えたり温まったりの、別の機能ができてしまった。あるものでありつつあるものでない、この矛盾が地球にだけ生命現象となるしかなかった。水に「流れる」と「ものを流す」の矛盾した性質があるように…。

 地球もその矛盾の固まりになるほかなかったのだ。
 この矛盾の解決を地球自身がみずから図ったかのように見えても、物質の性質が変化することでそうなるしかなかったのが、生命現象であり、さらに膜をつくることで生命現象を生かす矛盾を抱え込んだ地球になるほかなかったのではないか。

 「あるものがあるものであるとともに、あるものではない」との矛盾の例として、三浦つとむさんは『弁証法はどういう科学か』のなかでこういう例を出している。

 「『生』と『死』とを別々のこととして扱うのが、わたしたち生活の中での常識です。(中略)科学者はこのような常識にとどまらずに、もっと深く物ごとのありかたをさぐっていきます。『生』と『死』も、細胞のありかたでとらえます。からだの細胞は、特別のものを除いて、生まれた後にもたえず分裂をつづけ、古い細胞が死に新しい細胞が生まれてきます。(中略)『死』は生まれたときから『生』といっしょに存在しているといわなければなりません。」

 このような、「生」と「死」とが同時にある(生でありつつ死でもある)という矛盾は生物に限らず、物質の構造なのであり、これを認識として捉えて弁証法という。
 もっと広げていうと、古代ギリシャのゼノンが「飛んでいる矢は止まっている」という有名なテーゼを提起した。これも三浦さんは「飛ぶ矢は空間の一点に存在しかつ同時に存在しない」というのが正しい答えだと述べている。「あるとともにない」なのである。

 この矛盾が運動の本質なのである。ゆえに、生命の誕生においても、この矛盾の埒外にあったはずがない。勝手に決めつけるな、と言われそうだが、この弁証法の認識が感情になっていなければ、とうていわかるわけにはいかない。

 ヘーゲルは「媒介と同時に直接性を含んでいないものは、天にも、自然にも、精神にも、どこにも存在しない」と説いた。これに対してレーニンが、唯物論では「天」は棄てなければと言ったと『弁証法はどういう科学か』で紹介しているが、それは省略。

 「媒介」とは、常識的つかい方では、他のものを介して…であるが、弁証法的には、あれがなければこれもない、ということである。三浦さんは『弁証法はどういう科学か』でその例を解いているので、詳しくはそちらで学んでいただくとして、生命誕生にあたっても、地球のある現象のなかにおいて、「媒介と同時に直接性を含んでいる」事態が起きたと考えるほかはない。
 つまり何かがなければ、生命もなかった、のである。

 地球に新たに誕生した生命現象は、地球と直接の関係にありながらも、媒介たる何かを介して生命となっていったと言えよう。それが生命の誕生と同時に、媒介物として水が誕生しないわけにはいかなかったということになる。
 石ころに雷が当たったら生物になったわけはないが、よしんばそうだとしても、同時に地球とその生物を媒介する存在が、同時にできなければ、偶然誕生した生物も、地球との一体性を維持して生存することはできなかったのである。ところが現今の科学者たちは、それが解けないから、はじめから水があったとする説に固執することになる。

 もしも火星にも水がある(あった)というなら、それは火星のある現象が起きた際の媒介物として誕生しているしかないのだから、いったいその「ある現象」つまり生命現象があったのかということになる。火星に水だけが存在して生命体が存在しないのなら、そんな馬鹿なことは起こらないでしょ、なのである。
 
 今回の冒頭の引用文にある「生命現象の本体」という言い方も、正確さを欠く。そのいわば正体は何であるかが説かれていない。「ある現象」が突然、意志を働かせたかのように、冷えゆく地球の影響を受けない自分を創った、と読める。でも、その「生命現象」は地球自身の現象、地球が創った現象である。地球自身が地球でない(?)ものを創るとはいかなることなのかがこれは解かれなければならないはずだ。

 癌は悪性新生物とも言うが、人間自身が自分の実体に人間でないもの(死なない細胞)ができることである。地球の癌が生命体だというと顰蹙を買いそうだがこれは譬えだから勘弁してほしいが、おそらく論理的には似た構造なのではないだろうか。

 だから細胞膜とは、地球から相対的に独立しなければならなかったと直接に、地球自身の現象として維持されなければならなかった。ここに「あるものでありつつ、あるものでない」という壮大な矛盾が生じ、その矛盾を解決するために誕生した、かかる機能を持った実体なのである。

 それゆえ、現代のわたしたち生物は(今も、当時からずっと)かかる矛盾を孕みつつそれを解決するために、生物(地球)を食べて、かつ水や空気を地球との媒介として生かして、生存するのである。
 こうして地球との一般的同一性として生物が誕生してきて、その地球規模の機能は維持されてきたのだ。

 余談だが、だから地球外生物が地球に来たとしても(来れるわけないが)、生存はできないとわかる話なのである。また、もし人類が月や火星に飛んで行けたとしても、その天体自体には、やってきた生物との一般的同一性は持ちようがないから、いくら酸素や水を運んだとて、その天体との共存は不可能だとわからねばならない。

 最後にお断りしておくが、本稿は南郷学派が措定した「生命の歴史」のまったき紹介ではない。『看護のための「いのちの歴史」の物語』(本田克也ほか著、現代社)から、学んできた私の一応のまとめである。だから、本物はこちらの学問書であるから、詳しくは本を読んで学んでいただきたい。



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2016年05月10日

生命誕生の謎(2/3)


《2》
 『武道の科学』の中に、南ク継正先生が説く(解く)「生命とは何か」が入っている。その箇所を引用させていただく。

     *    *

 生命とは、生命体の機能の本質であり、それは実体としては端的には代謝(広義の)にある。別言すれば、生命体とは簡単には常に外界たる地球と内界たる生命体との一般性的同一性を保つべく運動(=代謝)する=しなければならない必然性体として実存するものであり、この運動(=代謝)が止めば生命体は即生命現象が止んで物体と化す実態である。

 この運動(=代謝)を止めさせないためには、常に外界から基質を摂取し、それによって自己を常に更新すると直接に外界との一般的同一性を保つことが必然性である。生命体とはこのような運動(=代謝)によって存在しつづけている地球に特有な物質の存在様式なのである。

 なぜ代謝(=運動)を行なうのか。それは端的には生命体がそもそも発展過程中のある時期の地球そのものであったからであり、地球はそのものの生成発展の運動途上の特有な物質としてその機能発生と直接に分化したからにほかならない。したがって、地球とは相対的に独立した形式を採っているようでも、これは絶対に直接の統一そのものでありつづけなければ生命現象は実存しえない物質なのである。

 その直接の統一の構造形態こそが代謝すなわち運動そのものなのである。この運動(=代謝)の維持過程が生命の歴史なのである。
   (『南ク継正 武道哲学 著作・講義全集 第1巻』現代社)

     *    *

 これが唯物論の立場から定立した「生命史観=生命史論」の根幹である。弁証法を真摯に学んでいない人には理解は困難である。「直接」「統一」「必然性体」「同一体」などの概念ですらついてこられまい。だから生半可な知識で、論じられたつもりになるものではない。

 余談をちょっと言うと、この文章を教養がある人なら国語力で読んで「わかる」ことはできるはずだが、むずかしいのはこれを「感情でわかる」ことなのである。たいていの人は国語力でわかって知識にしてしまう。そういう場合に、「俺の教養で知っている知識と違うじゃないか」とのさもしい感情を沸き起こしつつ文章を反映すると、揚げ足を取りたくなるのだ。ここが違う、ここはおかしい、例外だってあるだろう、こうは言い切れまい…などと素直さのカケラもない読解力を駆使することになる。
 
 「むずかしい文章だけど、感情でわかるまでがんばろう」とならないかぎり、南郷学派の生命史観の高峰に昇るための麓にも立てないで終わる。


 この定立にあるように「なぜ代謝(=運動)を行なうのかと言えば、生命体がそもそも発展過程中のある時期の地球そのものであったから」と解かれている。武田邦彦が言うような、若かりしころの地球の激動的発展過程にいっさい着目することなく、いわばA+BはCになったみたいな理屈はお笑いである。

 例えば赤ん坊は生成発展の激動期にある。地球もいわばその赤ん坊のような時期に生命を誕生させたのである。ところが武田らは大人になった人間(静止的になった人間)を見て、生命誕生の謎が解けると思い込んでいる。
 宇宙空間にあるどこぞの隕石や小惑星に探査機を飛ばして、砂をしゃくってきて、今の地球上で分析したら、46億年前の様子が解明できると思う宇宙研究者も同じ間違いを犯している。

 受験秀才の成れの果ての宇宙研究者は、小惑星の砂の中に「模範解答」が隠れているとでも思っているのか。
 莫大な税金を費やして探査機を飛ばすのではなくて、例えば玄米と野菜中心の食事をし、ジャリ道を裸足で歩いて五感器官を磨き、武道空手を研鑽してアタマを良くし、そのうえで『南ク継正 武道哲学 著作・講義全集』を熟読し、弁証法という認識を感情で創ることだけが、生命誕生の謎の解明への道なのである。

《3》
 生命現象のはじめは、代謝する気体の様態であったと述べておいたが、この生命現象が国家でいえば原始共同体なのである。そして国家の誕生が、生命体すなわち単細胞なのである。

 生命現象の段階では、区別と連関がない。生命体になると、区別と連関ができる。
 やさしい例でいえば、シチューをつくろうとして、肉や野菜を鍋で煮ているレベルが実体性で、まだシチューになるか、カレーになるか、味噌汁になるかの区別と連関がはっきりしない。

 それをシチューに実体化すると、これはカレーとも味噌汁とも肉ジャガとも区別がつき、素材はカレーや味噌汁と連関しているな〜と思えるであろう。
 生命体で言うなら、単細胞には膜ができる連関があり、アメーバだのゾウリムシだのと区別ができてくる。
 それを敷衍して、原始共同体は区別と連関がなく、国家となって区別と連関ができるのである。

 国家の場合、連関とは例えば戦争であって、どの国家も軍隊を持ち、他共同体との対峙が生じて戦争になる共通性で連関する。
 難民は実体たる国家が崩れて、ふたたび実体性になったものである。あれを見ればわかるとおり、国家になっていない集団は保護されない。国家が国家を維持するには、戦争は必須であって、「恒久平和」はただのロマンである。

 サヨクは馬鹿だから「国家」という言葉をつかったら「右翼」とレッテルを貼ってきたが、最近は堂々国家論が語られるようになってきたのは喜ばしい。



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2016年05月09日

生命誕生の謎(1/3)


《1》
 「虎ノ門ニュース」(4月25日)で、科学者の武田邦彦が、「なぜ命が誕生して増えたか?」を解説していた。
 ご覧になりたい方は、ネットでアップされているので、その1:05〜1:14の間で語られている。

 武田邦彦は、知識の人なのでたまに知らなかった知識を披露してくれるけれど、「科学者という名のタレント」となり過ぎて、大衆に降りて學の世界のことはいかがなレベルか…と思わざるを得ない。先日も「時間はある」「時間は誕生した」と解説していて、唖然とした。
 その「虎ノ門ニュース」で彼が語っていたことの概略を以下に記しておく。

 武田は「最初の生物のお母さんは誰?」と問いかけ、それは昔は神様がつくったとか宇宙から来たとかいわれていたが、今では石ころからできたことになっている。海のなかの石ころに、雷かなにかがドーンと落ちて、それで石ころがバーンと分解した。そのときできたカケラが最初の生物だ。偶然に出来た。
 生物となったカケラはそこらへんの食べ物(二酸化炭素)を食べて増えていった。
 ちょっと待て、タイトルは「なぜ命が誕生したか」のはずが、いつのまにか「なぜ生物が誕生したか」になっている。生命が誕生したことと生物の誕生は似ているが違う。学者なら厳密に使うべきだ。

 太陽から出た惑星で、金星、火星と地球を比べると、金星火星には二酸化炭素が95%くらいあるが、地球は二酸化炭素はごく少なく窒素と酸素になっている。こうなっているのは、地球では生物が増えて二酸化炭素を消費したからだ。生物はやがて二酸化炭素を食べ尽くして地球上から消える運命だ。

 最初の生物が2つに増え、6つに増えして「できちゃった」、ということが今ではわかっている。(「できちゃった」などとまるで「できちゃった婚」みたいな言い方には驚く)
 生物は本来は二酸化炭素を吸って酸素を出すものであるが、私たちは酸素を吸って二酸化炭素を出している特殊な生物だ。

 太陽は“原子炉”だから、地球に放射線や紫外線が降り注いでいる。だが生物が誕生して増えていき、酸素を出すうちに、大気ができ、さらに成層圏まであがってオゾン層ができた。このオゾン層のお陰で太陽からの放射線や紫外線を止めることができた。このため、はじめは生物は太陽からの有害な紫外線などを避けて海中10メートルくらいにしか生息できなかったが、オゾン層ができたために紫外線が減り、水面近くに浮上することができるようになって、太陽をしっかり浴びてますます繁殖できるようになった。やがて陸上にもあがり、今の繁栄がある。

 生物の進化は淘汰によっている。生物は目なら二つ目、三つ目、五つ目などが試され、脚も体中(下、上、横、と)あちこちに作ったがやがて身体の下にあればいいとなり、口もはじめは丸かったがそれでは食べにくいので横に平たくしたものが生き残った。
 はじめはどうしたらいいかわからないから、トライアル&エラーで試して、環境に適合できた生物が残っていったのだ。
(おいおい、生物が自分の意志でさまざまに試した、では観念論だろうが)

 ざっと、こういう解説がなされた。みなさんはどう思われるだろうか? 私は「馬鹿言ってんじゃないよ〜♪」であったが。
 このオパーリン説をもとにした武田の説明が、おそらく教科書でも定説となっているのであろう。
 いろいろ突っ込みどころはあるが…、まず生命誕生の謎解きであるが、武田だけでなく現今の科学者が間違っているのは、いきなり「生物」という実体ができたと思っていることである。

 まずは「実体性」が起きてから「実体」になる。これが弁証法の捉え方である。いきなり実体が誕生すると考えるから、「偶然」、「雷のような強烈な刺激が…」と妄想を駆使するしかできなくなる。
 雷が…って、水分子もないのに雷が発生するか。他の惑星を見ればわかるように、地球上にも水はなかった。

 武田は生命の誕生の説明に、月があったことを何も触れていない。原初の地球にあった物質が、太陽と月の影響で(相互浸透で)、あるなんらかの現象が生じ、それが量質転化していって実体性を帯び、実体性がそれを維持するために実体化するのである。
 きわめて一般的な言い方しかしていないから分かりにくいだろうが、こう考えるほかない。

 46億年前に誕生した地球上には、溶岩とガスしかなかった。それだけの物質が、どうやって生命現象が誕生してきて、やがて生命体になったか、なのである。水も、はじめは水のような現象(もやのような湿った気体)ができ、水のような実体性ができていったのである。地球には、超高温のマグマがあって、それが物質の一般性としてやがて冷えていった。これは他の惑星や月も同じ過程を辿っていったのだ。

 地球にほかにあった現象としては、太陽の周りを公転していること、巨大な衛星の月が地球の周りを回っていること、地球自身が自転していること、そして引力で太陽に引かれ、月を引力で引きあい、それと遠心力とがつり合っている。熱は外に出て行く。地球内部のマグマの熱も遠心力もあって外に出て行く。
 こうした現象が、いわば生命誕生の条件であったし、それ以外にないのである。
 これだけが「生物のおかあさん」になり得る存在だった。

 なのに、科学者たちは、はじめから水があったことにする、雷ができることにする、石ころがあったことにする、とんでもないご都合主義で推理するのだ。彼らは生命現象抜きで、いきなり実体たる生物ができたと思っているらしい。生物という実体が誕生する前に、「命」がなぜどうやって誕生したかが解かれなければならないのである。

 火星や金星、月はその物質の一般性の論理しかないのに、どうして地球だけに生命現象が生じ、それがやがて実体化して地球を被い尽くし、常に地球と付かず離れずで相互浸透を維持し続けるようになったのか、と考えねばいけない。その思考過程を省いて、偶然石ころに雷が落ちたなどというのは、こじつけもいいところだ。

 46億年前の地球と太陽と月という実体に関わる機能の変化によって、生命現象が起きたのである。
 端的に言えば、マグマが徐々に冷える過程で化学反応でガスが発生し、地表を覆うようになる。それが遠心力と引力のバランスで散っていかずに大気となっていく。

 地球本体と気体は、他の惑星のようにいわば右肩下がりで冷えていったのではなく、熱く燃える月があり、地球が自転・公転しているために、冷えるかと思えば温められる、温められるかと思えば冷えるのくり返しが何万年とつづき、「あるものがあるものであるとともに、あるものでない」、そういう新しい(矛盾そのものの)機能が誕生したのだ。
 この機能(矛盾)がそのまま、生命体に受け継がれて、「死ぬかと思えば死なない、死なないかと思えば死ぬ」生命全体の機能となっていく。

 気体が地球との一般的同一性を保つべく運動しはじめたこと(これが代謝)、その代謝せざるを得なかった気体が生命現象なのである。それが長い年月で実体化したのが最初の生命体である単細胞だった。それができると直接に水が誕生したのだ。

 いきなり単細胞だけが誕生しても生存できないとわかるだろう。直接に気体も水も誕生されなければ、生命現象も生命の実体も生存し続けられないのであって、水のあとから生物ができたのでも、生物のあとに水ができたのでもない。

 ついでに言えば、人類の誕生にしても、現今ではアフリカ起源説が言われるが、ウソである。アフリカだけでなく(南極や北極はともかく)、地球上全体に、人類が誕生する環境ができ、人類は生存できる直接の環境が整ったのである。アフリカが起源と勘違いされるのは、現在のアフリカ人、それもジャングルにいる人間は(言い方は悪いが)ずっと文明化しなかったから、原始時代のままの古いDNAが残っているからなのである。ヨーロッパやアジアの人類では文明化によってDNAが変化してきたのだ。




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2016年05月07日

川内原発は停止させるな


 またぞろサヨクどもが、熊本の震災があったので、近くの川内原発を停止させろと騒ぎ始めた。地震で原発が壊れたら大変だと。
 サヨクは感情論に訴えるしかできない愚物である。「原発は恐い」の感情を煽り立てる。先くぐりだ。
 危険なのは原発だけではない。飛行機もクルマも、医療機器も薬も、家の中も、100%危険でないところなどどこにもない。

 「虎ノ門ニュース」4月21日に青山繁晴氏が原発の安全性について手短に語っていた。
 川内原発を止めろと言う声があるが、熊本の地震で川内原発にかかった力は8.6ガル(gal)だった。ガルとは地震に関わる振動加速度の計量で、この場合は建物に瞬間にかかる力である。

 原発が揺れを感じて自動停止するのは160ガル。原発が地震の衝撃にどれくらい耐える造りになっているかというと、620ガルである。
 で、青山は「160ガルで自動停止する原発をたった8.6ガルで止めるのか。それなら技術というものの信頼はいっさい持ってはならぬことになる。全部、感情論でやることになってしまうから、それがどれほど間違っているかを理解してほしい」と述べていた。

 まったくそのとおり。
 不通になっていた九州新幹線も4月27日には再開した。まだ余震の怖れもあるのに、反原発信者どもは、これに文句は言わない。野党も言わない。新幹線も丈夫だが、原発はもっと頑丈に造られている。なのに、新幹線の再開は良くて、原発は問題なくても止めろと、ムチャクチャを言う。

 毎日新聞4月28日の社説は「地震国と原発 常に用心深くありたい」と題して、このガルの問題を取り上げていた。
 「断層帯で最大8.1の地震が起きた場合でも150ガルにとどまるというのが審査時の評価だ。 確かに、これだけを考えれば問題はなさそうに思える。しかし、それはあくまで、地震が想定の範囲に収まった場合だけだ」

 と、こういう論法で大衆を騙しにかかる。「さも」心配しているかに、「いかにも」理屈らしく見えるが、「ダモクレスの剣」ではあるまいし。「常に用心深くありたい」って…、「杞憂」の故事を笑えないレベルである。
 ならば家に住むなよ。海岸に近づくなよ。普通の木造住宅が地震で倒壊する危険性は、原発が傷害を受けるよりはるかに高い。「常に用心深く」というなら、住めないことになる。
 「住宅が安全なのは、地震が想定の範囲に収まった場合だけだ」と言ってみろよ。

 想定以上のマグニチュード10とか20とかの地震が来たら、原発が壊れるに違いない、というのだが、そのときはビルも家屋も鉄道も道路も全部壊れる。毎日の論説委員は、家屋も鉄道も安心じゃないから、造るなと言っているのと同じである。

 青山氏のいうとおり、そんなことなら技術への信頼はいっさい持つな、感情論だけで生きろ、と強要することになる。毎日新聞論説委員はここまでアタマが悪い。
 
 NHKのニュースを見ていたら、あるNGOがチェルノブイリに行って調査してきたとの話だった。要点は、チェルノブイリでは事故の影響で甲状腺癌の人はいくらか発生したが、それ以外の癌患者はみつかっていないとIAEAが発表しているにも関わらず、このNGOのド素人調査団は、噂では甲状腺癌以外の癌もあるのではないかと言われた、だから福島第一原発の事故のあと、癌患者は一人もいないと公式発表があるが、信じられない、もっと調べるように関係機関を追及すべきだ、とのたまう。

 IAEAは権力の手先だから信用ならんと主張することができないわけではないが、ならば反原発派の科学者が言うことなら信じるのか? ド素人のNGOが、どうしてそんな図々しいことが言えるのか。反原発のバイアスがかかるのは正義か?
 NHKはこういうくだらないニュースを垂れ流して、原発を恐い恐いと煽っている。本当にタチの悪いサヨクメディアである。勉強しない大衆は、NHK様が言うなら、本当なんだろうと信じる。

 NHKも反日サヨクも、青山繁晴が言ったようなごく簡単なガルの説明すら無視して、原発反対だけに極端に偏った情報を流す。本当のことが暴露されると、自分たちの活動が疎外されるのは嫌なのだ。
 反原発を唱え続けることで、サヨクは労働組合から組合費をふんだくって懐を肥やしてきた。組合費を搾取されている労働者が、サヨク政党やサヨクNGOがウソだらけだと分かったら、怒って組合費を拒否するようになる、となればサヨク労組は干上がってしまう。

 関西電力高浜原発の稼働差し止め判決もひどかった。大津地裁の裁判長ははじめから「差し止め」の腹づもりだったのだ。
 原子力規制委員会が策定した、世界で最も厳しい新規制基準による適合審査が合格して、再稼働したばかりなのに、同原発から70キロ圏内の(それほど遠い)滋賀県のサヨク住民が起こした仮処分申請で、運転を差し止める判決を出した。

 高浜原発については、原子炉等規制法によって安全を確保して建設されているにもかかわらず、その法体系を大津の裁判長は一顧だにしなかった。この法は、世界中で共通の規則体系である。多くの技術者が膨大な実験を費やして解析評価を決めたものを、ただ「恐い」、ただ「もしかしたら事故が」の感情だけで、踏みにじった。

 マスゴミも裁判長の言うとおり、関西電力が説明を尽くしていないので危険だと、画期的なすばらしい判断を示したと有頂天になっていたが、世界で認める基準がド素人のくせにダメに決まっていると断じたのだ。いったいどうすりゃいいんだと、関西電力は呆然となっただろう。サヨクどもと裁判長は、大企業たる電力会社をいじめて溜飲をさげているのだ。

 原発のエンジニアたちは、よく勉強し、研究・工夫して国家のために努力して安全性を確保してくれてきた。二見喜章の『原発報道に異議あり』を読めば、彼らの奮闘ぶりと誠実さがよくわかる。
 労組から組合費をふんだくるしかやって来なかったサヨクどもと比べて、どれほど人間として信頼できるか。エンジニアへの恩沢をサヨクは考えもしない。
 原発をなくせば、支那や韓国が喜ぶから反原発をやっている。ウジ虫のような奴らである。

 さらに北陸電力の志賀原発についても、原子力規制委員会が廃炉にしろと勧告した。原発が活断層の上に立っているからだと言う理由で。サヨクメディアは欣喜雀躍。
 彼らの言う活断層は、マスゴミでも喜んで使われる用語だが、12万〜13万年前以降にずれた可能性が否定できない断層を「活断層」と定義している。さして科学的根拠はない。地中のことはまだほとんど分かっていない、とすべきを、それでは研究者に税金の補助金がもらえないから、「さも」「いかにも」の話を作る。

 プレートテクトニクスは、昔は「仮説」として教科書に載っているだけだったのに、いつの間には「定説」になった。研究者やマスゴミが「わかりやすい」と紹介しているうちに、とんでもないことになった。こんなものを「理論」と呼ぶのはおかしい。大陸が移動するなんてのは妄想だ。

 熊本の地震でも「活断層」という言葉がしきりにマスゴミで踊って、今にも断層がズレるかのように人を不安にさせるが、「12万〜13万年前以降にずれた可能性が否定できない断層」である。それに、いわゆる活断層にだけ地震が起きると決まっているわけではない。

 規制委員会が2013年に勝手に決めた新しい規制基準であって、その上に原子炉建屋を置くことを禁じているが、それまでこういう禁止規定はなかった。志賀原発1号機の建設が開始されたのは1988年であり、2013年に改正された法律を遡及適用して廃炉にしろとは、嫌がらせであり、営業妨害である。

 「事後法」を何にでも適用していいとなったら、これは法治国家とは言えない。連合国がやらかした「極東裁判」のリンチと同じだ。

 評論家・池田信夫は自身のブログ(4月28日付)でこう書いている。
 「2基で7000億円の建設費がかかった志賀原発は、北陸電力の最大の資産であり、国がこれを何の法的根拠もなく廃炉にすることは、憲法第29条に定める財産権の侵害である。先週の記事でも書いたように、立憲主義とは「個人の権利・自由を確保するために憲法で国家権力を制限する」ことであり、委員会の措置は立憲主義に反する。

 安保法をめぐって「立憲主義を守れ」と騒いでいる人々が、このような巨額の財産権侵害に沈黙しているのは奇妙だ。彼らは憲法で守られるのは正義の味方の人権だけで、悪い電力会社の財産権は侵害してもよいと考えているのだろうか。」

 この通りである。
 もうひとつ、青山繁晴氏は「虎ノ門ニュース」(4月28日)で、原子力規制委員会の委員長・田中俊一は、原子炉の壁の専門家にすぎないと解説していた。素人同然なのだ。
 ひどいのは規制委員会を実質牛耳ってきたのは東大地震研のボス、島崎邦彦で彼は元規制委員会委員長代理で、地震予知連絡会の会長もやっていた男だったが、彼が地震研の利権をぶんどるために、「活断層だ、活断層だ」と騒いできたのである。

 日本はそもそも活断層(何万年前にズレたかもしれない地層)の上にたっている国で、人によっては8000か所もあるという説もあるくらい、どこもかしこも活断層なのである。それが危ないというなら、飛行場も高速道路も石油コンビナートも、重要な施設は建てられないことになると青山氏は指摘している。

 原発の世界はひどい縦割りで、横断的連絡もなく、総合的判断もできないでいる。学者どもはテメエの利権のために原発を利用している。こういう実態に安倍政権はメスを入れるべきなのに、放置している。人工地震か!と煽るだけでなく、このありようを問うべきではないのか。




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2016年05月06日

弁証法とは論理であり、感情である(2/2)


《2》
 4月26日の本ブログで、わが流派のカレンダーの話を書いた。わが武道創始者の居合刀を抜かんとする(あるいは納刀する)瞬間を捉えた写真から、私が何を像として描いたかを説いてみた。
 この居合の写真がすごいのは、抜いた刀を鞘に納刀するよう途中に見えても実は、いつでも抜ける気魄が漲っているとわかるところにある。刀を抜く時はまあいわゆる殺気があっても、納めるときは気を緩めがちだが、これは武道用語では「残心」と言っていかに倒した敵であっても、気を消さないことなのである。

 その「認識が感情になっている」のレベルのすさまじい高みは、見せられないので理解を得るのはむずかしいけれど、発している気、俗な言い方をすればオーラが見事なのである。歴史性を極めた像になっている。

 刀刃を構えるその「絵」こそ、弁証法であり学問であり、それらの高みであると書いた。認識が感情になっていることがまざまざと見て取れるものなのだ。
 それがお粗末ながらも私にも見てとれたのは、武道空手の長年の学びが感情になっていたからである。

 これは藝術作品とは、ド素人を感心させる程度では藝術とは言えず、心を持っている人間を感動させることである。だから、わが武道創始者が居合を身構えるその瞬間から、例えば弁証法を感じとることができるかどうかは、見る側が弁証法を感情として持っているばかりか、写真を撮影した人間もその感情を持っている必要があるのである。

 余談ながら、こういう写真を見ても、たいていは「すごい迫力ですね」「構えの姿体が美しい」「さすが武道の達人」と感想は述べるが、さらにその迫力の正体は何か、なぜ美しいと感じるのか、さすがとはどういう意味か、などを自分で追及しようとする者は少ない。
 私は少なくとも、こうして十年に渡ってブログを書いてきて、それを追及しないではいられない感情を創りあげてきたのである。

 見事な気を発することができるには、どれほどの修行過程があったか。空手で五感器官を鍛え、勝負の世界に身を置き、食事や睡眠を徹底して管理し、住居も衣服も健康体になるよう努め、睡眠を完璧にし、指導を実践し、組織を統括して国家論も研鑽し、極意を極めるために認識学を創り、学者を何人も育てあげ、ノーベル賞級の発見を何百と為し、発音のキレを良くし、目の力を増し、人格を磨き上げ……こういう日にち毎日を、子供のころから捲まず撓まず続けて来られたから、今もなお続けておられるからこその、成果である。

 論理を優れた感情と化した過程がこういうことなのだ。知識を豊かな感情にするには、かかる研鑽なしにはあり得ない。それをさらに譬えるなら、零戦のパイロットが実際の空中戦で戦って、生死の境目をくぐり抜けて来るような、そんな鍛錬を日々己れに課すのだ。南郷学派を揶揄する輩に、そんなことができるのか?

 真夏の炎天下、裸足で熱い砂利の上を歩いて、足裏が一夏に何度もヤケドして皮膚がズル剥けることをやらなければ、弁証法を高みに置いて感情化することはできないのに、「ヤケドしてアタマが良くなるなんてあり得へん」とボロアタマで判断して逃げるだけのくせに。
 東大を頂点とする學の世界に、それをやり抜いた人間がいるか?

 それと同等の修行・修業を為さねば、学問も弁証法も理解はできないことなのである。その裏付けがなくて弁証法がどうのこうのと言うのは、知識でしかない。修行の裏打ちもない知識でどうたら言えば言うほど、支離滅裂になっていく。

 平易に言えば、砂利道を裸足で歩く鍛錬を何十年続けてやったこともない輩が、私は弁証法がわかってますの、弁証法を使って専門に活用していますのと言うのは、馬鹿も休み休み言え、でしかない。ボロの五感器官でゴタクを並べるんじゃない。

 こうした修行過程を何十年、求道者として実践して初めて、弁証法という認識が感情となるのである。それを一枚の写真が見事に示している。弁証法が感情になる、それも運動的感情になっていないご仁に、いくら弁証法とは…と説いてもまったく無駄だ。

 クラシック音楽を生の演奏で聴いたこともなく、CDやレコードですら聴いたことのないご仁が、クラシック音楽を論じられるつもりになることほどアホくさい話があろうか。レベルは低いがそれと同じことだ。

 弁証法は対象を一般的に捉えるとは書いたが、そこには二重構造があって、「専門の一般性(運動性)を学ぶ」と「一般的な運動性を学ぶ」である。その像の違いをわかるようにしなければ…。
 一般的に捉えただけでは、ただ「運動していること」になってしまう。知識で終わりだ。

 人間は専門分野を持てば、専門に関わっての一般的なアタマにはなる。物理学的なアタマとか医学医療のわかるアタマとか、だ。その物理的一般的に創ったアタマが対象を見るから、対象が物理的に反映するようになる。
 弁証法の場合は、弁証法でアタマを創ればその弁証法のレベルで対象が反映してくる。

 弁証法で創ったアタマになっていれば、例えばコーヒーを淹れたときに地震のメカニズムが発見できたりする。
 ついでに言わせてもらうと、地震研究者は弁証法のアタマになっていないから、火山性地震があり、断層がズレる地震があり、プレートがどうのという地震があると思っている。火山は火山、断層は断層とバラバラ。

 地球で生命体がいるのは表面のごくわずかであって、ほかの内部はマグマがある。マグマは熱い。プレート説の変なところはこのマグマが対流している、動いているとだけ捉えて、熱であることを忘れている。地殻は常にマグマに接しているのに、相互浸透しないとでも思っているのだろうか。これが対象を「運動」として捉えられない哀れな頭脳、となる。

 コーヒーの粉をお湯をたらして、蒸らしたら湯を注ぎ込む、粉は膨らむ。粉は均一には膨らまない。いうなれば割れ目もできたり陥没したりしながら盛り上がり、カップにコーヒーが流れおちつつ粉は落ちて行く。決して均一にはカスは残らない。
 この現象から、地殻は地下深くのマグマで蒸らされてもいて、ある所では断層になり、ある所では噴火になる、あるところでは蒸気が出て、固い所ではプレートみたいになってぶつかり合う、とこういう捉え方ができてくる。

 あるいは樹木の年輪がどうして出来るかを見ても、「いわゆるプレート」の生成が類推できる。海の中の溶岩が岩盤になっていく。それが重なって年輪のようになっていて、地震が起きるとその年輪状の岩盤がずれる、あるいは崩れる。その地震は海の中のが溶岩が(マグマが)流れて起きる。

 余談になったが、中学程度の知識でも、地震のメカニズムは解けてくるのが弁証法の力であろう。例えばこれが認識が弁証法の感情になる、の例である。相互浸透とか量質転化の法則を、対象に当てはめたのではない。いわば感情が分からせる。
 弁証法はむろん論理であり、別言すれば認識であるけれど、感情となっていなければ知識にすぎず、使えないのである。

 認識が感情になっている、弁証法が感情になっている、そうでない人間は、昨今の地震の解明においても、東大の研究者のように、スジが通っていなくても勝手にわかってしまうアタマに成り果てている。いかに彼らがアタマが悪いか。本当にアタマの良い人間は、受験の成績には現れない。事実をつなげる論理をわかろうとする、そういう感情ができている人間なのだ。

 最後に今一度本稿のまとめを書いておく。
 南郷先生の著作、南郷学派の著作、生命史観、それらについての認識(知識)を、マイナスの感情と直接に創っている人、言い換えれば妬み嫉み僻みの感情とともに創った認識では、未来永劫、南郷先生もわからなければ、生命史観もわかるはずがない。

 こんなことはみなさんも、学校時代に得意になった教科、嫌いになった教科を思い返せばわかることだ。感情しだいで決まってくる、ということが。
 なぜかをくり返し説いてきた。それは認識は感情で創られるからである。対象を感情薄くアタマに入れれば、それは薄くしか反映しないし、対象をマイナスの感情で理解すれば、悪感情でしか反映してこなくなる。

 そんな人と関わって会話したり論争したりしても、理解を得ることはできるわけがない。理解したと思ってもそれは知識にしかならない。それが時間の無駄だけならいいが、バカと相互浸透する恐さなのだが…。





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2016年05月05日

弁証法とは論理であり、感情である(1/2)


《1》
 弁証法を知識として聞きかじった人は、まずもって永遠に「弁証法の頭脳」になることはできない。
 南ク継正先生のご著書はいわずもがな、不肖が書く弁証法、あるいは天寿堂稲村さんが書く弁証法を読んで、わかったつもりにはなれても(揶揄できたと思えても)、それは知識でしかない。
 空手を本だけで読んで、空手の技を使って闘えると思い込むようなものである。本で読んだものは空手の知識である。

 こんなことは小学生でもわかることなのに、大の大人が誤解する。
 三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』を読むと、弁証法は、対立物の相互浸透、量質転化、否定の否定、の3法則と書いてある。解説してあるから、相当難解ではあるが、わかることは出来たとしても、あくまで知識でわかったに過ぎず、「弁証法は運動だ」と実体験で捉えるには及ばない。

 人によっては「唯物史観」とか「生命史観」とか言葉はあれこれ使うけれど、中身が何もない。でも自分は知識があるからわかっているんだと自信をもってしまう。「唯物史観」とはおかしな造語(間違った言葉)であることがわかっていない。言葉で考えるから、これがまかりとおる(つもり)。「生命史観」については5月9日と10日に本ブログで取り上げることにする。

 本テーマとあまり離れてはいけないから簡単に言うと、「唯物論で捉えた歴史の論理(あるいは流れ)」が正しい言葉であって、ならば唯物論とは何か、対立する観念論とは何がどう違うかを提示したうえで、観念論で捉えた人類の歴史とはどう違う考えなのかを説きもしないで、勝手に言葉を創るものではない。「唯物史観」とは、日本のマルクス主義者がいい加減にでっち上げた絵空事である。
 つまるところ、共産主義革命をやりたい連中が、大衆をだまくらますために人類の歴史は「唯物史観」によって明らかなごとくに、資本主義が消滅して共産主義社会になる必然があるんだとするためにデッチあげた理屈である。

 「唯物論」の「歴史」はある。観念論に対立する概念として、唯物論がいつどのように誕生して、自然科学や社会科学などの考え方にどのように影響を与えてきたか、唯物論に着目した歴史は問うことはできる。だが、こんなことは大衆にはどうでもいいことだった。
 しかるに日本のサヨクの言う「唯物史観」はせいぜい、実体経済が人間の社会を動かしてきたとする捉え方を軸に歴史を見るということだろう。

 唯物論と観念論の相違は、三浦つとむさんが説いているとおり、世界の起源をどう捉えるかによる。また私たちのアタマの中の思い、感情、つまり認識は実体なのか、像なのかの論争が大昔からずっと続いてきて、未だに決着がつかないというか…、実は南郷学派が決着をつけているのだが、それが唯物論か観念論の違いなのである。
 観念論は認識は実体だとするから、才能はあるとか、運命は決まっているんだとか、死んでも観念は残って霊魂にもなると言う場合もある。

 唯物論は、認識は像であり、脳という実体の機能だと考えるのである。だから実体が死ねば機能も働かなくなるから、機能だけがこの世に残って幽霊になるなんて考えないのだ。唯物論は観念論との対比で「認識は反映であり、像だ」と説く。
 その唯物論で世界史の流れを学的に捉えて、「唯物論で捉えた歴史の論理」というのであって、「唯物史観」では訳がわからないのである。「唯物史観」なる妙な造語をこしらえた戦前のコミュニストがいかにアタマが悪かったかでしかない。

 こんな概念規定も不可能な用語を平然とつかえる知識のいい加減さと、自分に許せてしまえる感情が、私には耐え難い嫌悪感を催す。私はこんな用語がつかわれている文章を読むほど閑ではない。ただこの用語が並んでいるのを某ブログでチラッとみただけで、なにもかもが見てとれただけのことだ。

 話を戻そう。
 「生命」でもいいし、「地球」でもいいが、この言葉の像は、今の生命や地球ではなく、百億年の歴史の流れを抱え込んでいる図というか一般性の像が、弁証法の像になる。それを極端に一般化して言うと「運動」である。初心者に「相互浸透」「量質転化」「否定の否定」の3原則を説くにしても、それらはいずれも「運動」でくくることができる、そういう動的な像で創らせなければならない。やさしく言えば「浸透」も「転化」も運動である。

 だが、これを動的な像で捉えることが至難の業である。一つには誰もが教科書で学び、受験のためテストのための勉強をしてきているから、像が静止的であり、形而上学的であり、知識にしかなっておらず、知識にしかなっていかないからである。
 弁証法でアタマを創れば、すべての事実を弁証法で捉えられるようになるが、受験で創ってきたアタマのままでは絶対に不可能である。そのために武道空手を修行して、受験で創ったアタマを創りなおさないといけない。この道以外に、弁証法がわかるアタマにはならない。

 例えば、身体のある一点が腎臓のツボだという場合、そこに鍼を打ち、灸をすえると腎臓の病気が治るのは、いかにも治療効果はあがるにしても、それは知識である。これを捉えて、平易に言えば、ツボに熱や痛みの刺激で相互浸透し、量質転化して治った、と説明することはできない話ではないが、この低度では弁証法が云々と言うレベルではない。だからどうした、になる。

 この腎臓のツボの例で言うなら、生命の歴史がいかなる発展をしてきてツボになったか、あるいは皮膚はどうしてできたか、血液はどんな進化発展のすえに人間の血液になってきたか、神経の働きはどう誕生し、発展してきたか、認識がどのように関係するか、認識はどのようにサルで誕生したか、生活環境はいかに影響するか…などなど無限ともいえよう関わりの要素が、一個のツボを巡っての像、動いている像として捉えられていなければならないのである。

 それをいわば概括レベルで駆使できるアタマの働きが身に付くことが弁証法がものになった、という。
 そういうアタマの働きが身についていることである。弁証法が血肉化していることだ。これが先週からしきりに説いている「認識が感情になる」なのである。

 なぜ弁証法が必要になるかといえば、専門分野を一般性として学ぶためである。
 弁証法は、三浦さんは3法則とは別に「自然、社会、精神を貫く一般的な連関、運動、発展の法則」と書いているとおり、一般性の学問なのである。その一般性は「どんな運動をしているか」である。






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2016年05月04日

「将とは兵をして喜んで死なしむるにあり」とは


 アメリカのTVドラマ『24 -TWENTY FOUR- シーズン1』をDVDで観た。CTU捜査官、ジャック・バウアーの活躍を描いたサスペンスシリーズ。CTUとはテロ対策ユニットで、このドラマでの架空の政府機関のことだ。
 黒人の大統領候補暗殺事件を軸に、1日=24時間に起こった事件をリアルタイムで描く。リアルタイムで物語が進行する都合上、複数のシーンで様々な事件が平行して起こり、それらが複雑に絡んでその場その場で物語が急展開していく。「次はどうなるか?」のサスペンスが上質でついつい見てしまう。緊迫感、迫力、ストーリー展開もすばらしく、アメリカのテレビドラマの質の高さを再認識させられる。

 この物語は、まさに盤根錯節が重なり合い動いているなか、その複雑さを視聴者に感じさせない工夫が見られる。エンターテイメントに徹している。日本の昨今のテレビドラマが、いかに幼稚であるかを思い知らされる。
 ただこういうエンタメでは、工夫がややもすると衒いになりかねないが、それは避けられていると思う。
 映画でもテレビでもシリーズものは、だいたい初回が良くて後になるほど質が落ちるものなので、『24』はずいぶんたくさんのシリーズが作られているようだが、シーズン1だけで私は十分だ。

 さて、ところで。
 このドラマを観て思ったことは、パフォーマンスの重要性である。『24』は社会問題を提起する作品ではなく、エンターテインメントに特化したものだけに、「見せる、ひきこむ、楽しませる、わくわくさせる、次も見たくなる」そういう仕掛けが見事なのである。
 われわれ日本人は、どうもまじめで(まじめすぎて)アタマの柔軟性に欠ける。大学の授業なんかも、ふざけろとは言わないが、学問の世界に「見せる、ひきこむ、わくわくさせる、次も見たくなる」が皆目ない。教授や講師らは、渋面を崩さず、学生が聞いていようが聞いていまいがおかまいなしで、「流れ作業」をやる奴ばかりだった。

 すべての学校で、冗談ばかり言い、脱線ばかりする教師がいるが、それを良しというのではない。勉強がそういう意味で楽しくてはいけないけれど、四角四面で良いとも言えまい。
 諺に「将とは兵をして喜んで死なしむるにあり」とある。それがパフォーマンスであるところの「見せる、ひきこむ、わくわくさせる、次も見たくなる」が必要なゆえんである。
 こんなことは教師を養成する大学の講義では教えまい。

 学的論文でも、ガチガチで、言っていることさえ正しければいい、難解な言葉を並べればいい、文章に余裕というか遊びがあってはいけない、また厳格、実直、佶屈聱牙(きっくつごうが)、堅苦しい…であれば良いとする傾向は顕著にある。衆愚を寄せ付けない、「シッシッ、あっちに行け」というのであろうが、それでは業界内でしか通用しないし、自分も像で考えなくて言葉だけで考える悪弊に陥る。これを才人才に倒れるともいう。

 だから、こういう『24』のようなエンタメを見て、「見せる、ひきこむ、わくわくさせる、次も見たくなる」あるいは「自分にもできそう」と思わせるパフォーマンスが必要な所以を学習したほうがいい。昔のテレビドラマや映画なら、主人公が正義で、悪者は単純にワルで、必ず征伐されるだけで喜ばれたが、もうそんな時代ではないことを『24』からも感じなければならない。
 主人公は単純なスーパーヒーローではない。多くの欠点がある男で、失敗もやらかす。見るものは自分に近い人間か…と親近感を抱く。

 空手でも、昔はひたすらその場突き、その場蹴りを号令に合わせて延々くり返すものだったが、それでは時代に合わなくなった。空手の品位、精神の高みを把持しつつ、どういうパフォーマンスを取り入れるかが大事である。
 最近では、練習にフォークダンスや盆踊りまで取り入れて、空手の上達につなげている。
 建築の世界でも、みんな実力はトントンのはずだが、パフォーマンスがうまい人、それに気づいた人が有名になっている。丹下健三とか黒川紀章にしても。

 なんのためにこんな話をするかというと、一つはいうなれば哲学を説く論文のありようであり、もう一つ弁証法や認識論の研究会と謳うブログで感じるもどかしさなのである。
 彼らの志は立派、論理展開もいい、としても、正しければ通じる、わからないほうが悪い、論理の高みはしょせんむずかしいのだ、という意識が前に出過ぎている。いささかのパフォーマンスがない。

 南ク継正先生の『なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生のための“夢”講義』がどれほど、高尚な學の世界を説きながら、パフォーマンスを取り入れておられるかを、なぜもっと学ばないのであろうか。
 端的に言えば、社会性に合わないことをやってもダメである。サヨクどもが社会性に合わないことをやって、どんどん凋落していっているだろうに。

 天寿堂さんは、ご自身の健康腺療法の集大成を、一般向けにやさしく書いた本を出版しようとされている。私も執筆を勧めた縁で、期待しているのだが、天寿堂さんの本の原稿が、まだ出版社からOKが出ないのは、編集者がこのままでは読者は「見せる、ひきこむ、わくわくさせる、次も見たくなる」あるいは「自分にもできそう」と思わせるパフォーマンスが足りないと判断しているからだと私は思う。
 「書いてあることが正しければ売れるはず」で能事畢れりとしていては、先に進まないだろうに。

 普段の天寿堂のHPなどの文章は、ヘーゲルの哲学論文のようである。それも日本語訳の。ヘーゲルは『エンチュクロペディ』のように、自分で書いたものもあるが、講義を弟子がまとめたものもある。ベルリン大学で彼が哲学講義をしているときは、教室は常に満員の盛況だった。いくらドイツ人が堅物だとて、面白い講義でなければ学生は聴きにはこなかったはずだ。

 別にヘーゲルの講義が漫談だったとは言わないが、学生にも分かりやすかったにちがいないのである。

 余談ながら、本ブログでは、小説風にしたり、子供の日記風にしたり、ご隠居と与太郎の掛け合いにしたり、パフォーマンスを取り入れようとしている。毎度同じ気難しい文体では飽きられると思うからだ。
 この手法は、開高健の『ずばり東京』(光文社文庫)から学んだ。1960年代前半の東京五輪直前の首都をルポした作品で週刊朝日に連載された。開高は都内各所を隈無く巡り東京を描き上げた。各章ごとに様々な文体を駆使するなど、実験的手法も取り入れている。開高がどれほど表現に鏤骨(るこつ)の呻吟をしたか。作家じゃないから、論理だけが勝負だと言われるかもしれないが、それは未熟でしかない。

 この開高の『ずばり東京』を、谷沢永一氏がこう評した。
 「何事をもゆるがせにしない開高健は、この分野においても渾身の努力を傾け、その華麗な表現力は読者を喜ばせ、評判を呼びルポルタージュの水準を一気に高めた。」
 哲学的言辞さえ弄していたらよくて、分からない方が悪いという姿勢は、「何事をもゆるがせにしない」ありかたではない。

 本稿でも、『24』の話をまくらに振り、空手の話、建築の話、を取りまぜ、主題を説くのに堅苦しくならない工夫はしている。また、像が具体的に描けるように配慮している。それを自慢するわけではないけれど、これもパフォーマンスの一つである。

 ドラマ『24』は一例に過ぎないが、ドラマや映画なども、時代の流れを学ぶためには見ておかねばならない。こういう大ヒットしたドラマを見れば、人間関係の機微にも詳しくなるし、どういうことをやったら若い人から嫌われるとか、女性が嫌うのはこういうことだとか、どういうものの言い方をすると人はバカにされていると怒るのかとか、どういう風に相手に観念的に二重化するかが学べる。
 「見せる、ひきこむ、わくわくさせる、次も見たくなる」にはどうしたらいいかも学ぼうと思えば学べる。

 わが空手流派のある指導者は、大学空手部で教えるにあたって、練習場(道場)も確保できないから、昼休みの実質40分に大学の校庭で練習をやるしか出来なかった。昼休みだから大勢の学生が遠巻きに見物している。見ていると俺もやってみたい、となって、部員が百人以上にも膨れ上がった。だが決して楽しい練習をやったわけではない。しかしやりたくなるという練習をしたから、人数が増え、誰も止めずに全員が黒帯になった。

 これが先に言った「将とは兵をして喜んで死なしむるにあり」なのである。この諺を、戦争の「一将功なりて万骨枯る」の意味と同じように受け取ってはならない。指導者や論文執筆者の心構えを説いた金言なのである。




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2016年05月03日

ギャンブルの裏表


 4月22日の「虎ノ門ニュース」で、経済評論家の須田慎一郎氏が、ギャンブルの解説をしていて、面白かった。
 せんだってのバドミントン五輪選手の闇カジノ発覚問題の裏側である。
 
 そもそも日本のヤクザには2つの流れがあって、一つが賭博を生業とするもの、もう一つが香具師(フーテンの寅の世界)である。山口組の中にもこの2種があるそうだ。このふたつの世界は相容れないテリトリー意識があるとか。現在はこれら博徒とテキ屋のバックには暴力団がいる。

 現在は暴力団の賭場は、インターネットで海外のカジノと提携して行われるケースが多くなった。海外でバカラならバカラをやっているのを、リアルタイムで日本でも表示される。配るカードに発信器が付いた特殊なもので、不正が起きないようになっているんだとか。
 それを日本の賭場で見ながら賭けるのだ。

 そのインターネット賭博の売上げが、月に100億円、それも都内だけで、という。裾野は広いと須田は言っていた。
 インターネットだから、警察が踏み込んでも、すぐ回線を切ってしまえば証拠はない、サーバーは海外にある。賭博は現行犯でないと逮捕できない。
 こういう巧妙な仕掛けができている。
 
 魚心あれば水心で、バクチをやりたい人間が多数いるから、世の中ではあの手この手で法をすり抜けて大繁盛なのである。
 暴力団主催バクチのユーザーは、町の旦那衆である。ちょっとカネを持っていて遊ぶカネが自由になる連中で、三度の飯よりギャンブルが好き、町のいたるところに雀荘があることからも察しがつく。

 暴力団にしても、これらがユーザーなので、決して客から巻き上げることが目的ではない。ヤクザは堅気の人が遊ぶ金をカスリとしていただく。堅気の皆さんに楽しんでもらって我々渡世人は生きているという意識がある。旦那衆にリピーターになってもらってなんぼの世界。人を誘い込んでバクチにはめてやろうとするのは、意味がない。

 富裕層の、弁護士、会計士、医者、スポーツ選手、芸能人などに客になってもらって、日ごろの憂さを晴らしてもらって、気持ちよく帰ってもらいましょう、それがもともとの江戸時代から続く賭場の流れである。
 清水次郎長も国定忠次も、そういう博徒であり、素人衆を相手に銭を集め、任侠の道とイキガっていたのだ。

 したがって、自分だけ勝てばいいとするような賭場荒らしは排除される。賭場は勝ちゃいいではない。みんなが楽しんでいる空気を壊さないことがルールである。マスゴミが記者クラブに寄り集まって、抜け駆けがないよう、一人勝ちがないよう回しているのと似ている。

 さて、日本には公営ギャンブルがある。お上が胴元になっているギャンブルだが、これ以外はみんな違法ギャンブルになる。
 公営ギャンブルは、競馬は農水省、競輪は経済産業省、オートレースとボートレースは国土交通省の所管官庁である。パチンコはギャンブルとは別枠で遊技であるが警察庁の管轄である。摘発すべき警察がギャンブルを所管するのが具合が悪いという意識があるのか?

 宝クジは自治省や各自治体。Toto(スポーツ振興くじ サッカーの試合に賭ける)は文部科学省の所管である。教育を管轄する文科省までがギャンブルの胴元になるのかと批判があったが、五輪でメダルを取るためカネを集めなければとかうまいことを言って実現させた。
 全部役所のひも付き。そこで所管官庁は、公益社団法人なんかをいくつも作っては天下るのだ。

 競馬競輪などからテラ銭を巻き上げ、自分たち役人とそのOBにカネを吸い上げる構造をつくるわけだ。
 そうするとこれがヤクザの商売敵になる。馬鹿な博打キチガイは公営ギャンブルに来てもらわなくては困る。だから官の側はヤクザを「違法賭博」として徹底して潰そうとする。やっていることは同じなのに。

 先のバドミントン選手の摘発は、一罰百戒である。官がヤクザと民間人を恫喝しているのだと須田慎一郎は言っていた。違法なバクチはダメですよ、摘発されたら一生棒にふりますよ、だからパチンコに来てね、競馬なら健全でいいよと誘っている。
 「闇カジノはやばいから、じゃあ場外馬券を買いにいくか」となる。

 巨人の選手が野球賭博で首になった事件でも、要するに公営ギャンブル以外は許さんぞ、という恫喝なのだ。
 これ以外にも、外国の駐日大使館の中でも賭博は行われている。どこかもビルの一角を借りて大使館にしているような、まあ小さな国が怪しい。
 これはヤクザと抗争になるという。外交特権があって官は立ち入れない。
 
 須田慎一郎によると、公営ギャンブルはテラ銭の3割を利益として持っていくそうだが、ヤクザはそれほどまでは取れていないそうだ。つまり、笑い話であるが、ヤクザ主催のバクチのほうが「お得」になる。
 須田の話は勉強になった。なるほど裏社会とはそういうものかと。
 この話を聞くと、ヤクザより悪質なのは役人だと思えて来る。

 違法賭博はダメで、公営賭博なら良いとはスジが通らない話である。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年05月02日

東大総長式辞のお粗末


 2016 年東京大学入学式が4月12日に行われた。式場の日本武道館には、今年も大量の親どもが蝟集する醜態をみせていたようだ。
 なんで大学の入学式に親がでしゃばる? そこから止めなければ東大に再生はない。新入生も、口に哺乳瓶をくわえているように見える。みっともない。

 今年から東大でも推薦入学が始まったとかで、ニュースになっている。推薦入学者を入れれば、頭でっかちの東大生がいくらかでも減ると思ったら大間違いである。

 現在、東京大学総長は五神真(ごのかみ まこと)がやっている。東大だけが「学長」といわずに、ヤクザみたいに「総長」という。鼻持ちならぬエリート意識。五神が入学式で式辞を述べているのを、東京大学のHPで読んだが、けっこう長文で、会場で聞いていたら眠くなるのではないかと感じた。以下引用したあたりがサワリだろう。
     *    *

 皆さんには、これまでの学びのスタイルをより能動的なものに切り替え、「自ら原理に立ち戻って考える力」、「忍耐強く考え続ける力」、「自ら新しい発想を生み出す力」という三つの基礎力を身につけて「知のプロフェッショナル」となることを目指していただきたいのです。範囲の限られた知識を吸収することとは異なり、三つの基礎力には、要領の良い習得法というようなものは存在しません。

 目標と意欲をもって、かなりの時間にわたる努力の継続が必要になります。しかし、足を一歩前に踏みだせば、これはつらい作業ではなく、刺激的で魅力的な楽しいことだと感じるはずです。皆さんはその扉、すなわち学問の扉を今まさに開こうとしているのです。魅力あふれる知の世界での、皆さんの挑戦、それを私たちは全力で応援したいのです。

      *    *

 なんと嘆かわしい訓示だろうか。全編これ「言葉で考え」ていて、いささかも「像で考えて」いない。これがもし東大生にわかるなら、そちらのほうがどうかしている。恐ろしいことだ。こんなことでは、絶対に「学問の扉」が開けるわけがない。しかも「応援」だと?運動会かお前らは。
 五神はまた、新入生に対して「新聞読みますか?」と問いかけ、インターネットや記事のヘッドラインだけでなく、本文を読みましょう、また海外メディアの報道とも比較しましょうなどと言っている。お前等中学生かッ!? 本物の人の道が説けない学長じゃ情けないだろうに…。

 「真の知識は人がみずから経験し、思考することで生み出される」だと。さも立派なことを述べているようだが、こんな簡単なことなら苦労しない。この低度しか考えていないから、東大から学者も藝術家も誕生しなくなったのだ。学問は体系だとも、一般教養がいかに大事かも説かれない訓示なんて…。

 五神は東大工学部の物理を専攻してきた人間で、察するところ、理系の勉強ばかりで感情が抜けているやに思われる。理系は感情が薄くなるから、本当に恐い。學で成果が挙げられない(ノーベル賞は無理)と諦めて、学長で君臨する道を選んだのだろう。学者を志して東大に入りながら、学長とかの出世コースに行くのは、転落である。

 また、受験勉強秀才に量質転化しているほとんどの学生を、いかにまともな人間、感性豊かな人間にしてやるかが東大の重要課題なのに、それがまったく意識されていない様子もここから伺えて、悲しくなる。
 新聞読んでますか? と総長が語りかける低レベルも東大の現状を現しているが、「知のプロフェッショナル」という空疎な言葉を云々する東大教授らには寒心するしかない。

 ところで、評論家・青山繁晴が4月14日の「虎ノ門ニュース」で、この4月から東大で教えることになったと自己宣伝していた。客員教授にでもなったかと思ったら、学生自治会主宰の自主ゼミなんだそうだ。そのゼミが「知力の再構築」と題するものだとか。
 これは彼の説明によれば、「頭の力をもう一回、組み直そう。受験脳に現実というヤスリをごりごりかけて、現実に使える頭にすること」を目標にしている。

 青山繁晴は、受験勉強とは模範解答があって、それを探す脳をつくってきている。だが、現実の世界は今、アメリカは凋落し、EUが経済崩壊、難民問題で揺れ、支那はバブルがはじけて国家崩落が始まっている。世界には模範解答はもともとないところへ、今はいっそう世界が壊れていって模範解答がどこにもない。
 模範解答を探す頭になっている秀才が高級官僚になっていけば、これまで以上にもっと日本はおかしくなっていく。

 だから受験脳にヤスリをかけて直しましょうというのが、自主ゼミの主旨なのだと述べている。徹底的な東大批判もやった、と。ゼミに出た東大一年生のメールを紹介して、青山は世界の現場第一線を取材して歩いて、現実問題に真正面からぶつかって知力を再構築してきた人だから、話がとても面白くためになった、と言ってきたそうだ。

 「受験脳に現実というヤスリをかける」とは変な譬えで訳がわからない。いかにも模範解答だけ暗記してきた受験秀才諸君には、模範解答がない現実世界で、最前線にいる人たちがいかに対応しているかの生の話は面白かろう。だが、それを聞いて、受験脳が消えるとは思えない。知識が増えるだけである。
 
 受験秀才の根源的宿痾は、先週あたりから再三言ってきたように、認識が感情にならないまま大人になっていることなのである。認識が感情になるような訓練を、少なくとも東大では教養学部の間にシビアにやって、取り戻さないことには、青山の目指すところは実現しない。知識が増えるだけである。

 バクチ、酒、薬物依存は悪いと知りながら止められない、そういう心の病気と、東大生が受験勉強の“達人”になるのは、基本的に同じことである。東大生は模範解答を詰め込む勉強が「やめられない止まらない、カッパえびせん♪」になっちゃったのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=sIHIkGxraNs
 バクチは悪いことだが、東大に受かることは良いことと、世間常識では見ているから、いいようなものの、心の病いの構造は同じである。

 どちらも、ずばり言って「認識を感情に」出来そこねた青年なのである。だから東大ひとすじで生きてきた五神総長の訓示からもわかるとおり、彼・五神の認識には感情のカケラもなくなっていることが見てとれよう。
 東大生がもし本気で「知力の再構築」を志すなら、東大にもあるわが流派の空手に勤しむしか道はないのである。武道空手の修行によってのみ、まっとうな認識を感情にできる道が開ける。

 今は東大に限らず、人をテストだけで決める。学科試験だけが秀でた者が東大に行く。その弊害をいかに克服するかの理論を持っているのはわが空手流派だけだからだ。わが流派だけが、人間論があり、人間は認識的実在であることを知っている。技は心が使うのだから、心が(つまり感情が)できあがっていなければ、技は使えないからである。空手流派の中には突きのスピードはいくらだとか測って自慢している向きがあるらしいが、そういうことをやるとダメになる。人間は機械でもモノでもない。



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