2016年05月10日

生命誕生の謎(2/3)


《2》
 『武道の科学』の中に、南ク継正先生が説く(解く)「生命とは何か」が入っている。その箇所を引用させていただく。

     *    *

 生命とは、生命体の機能の本質であり、それは実体としては端的には代謝(広義の)にある。別言すれば、生命体とは簡単には常に外界たる地球と内界たる生命体との一般性的同一性を保つべく運動(=代謝)する=しなければならない必然性体として実存するものであり、この運動(=代謝)が止めば生命体は即生命現象が止んで物体と化す実態である。

 この運動(=代謝)を止めさせないためには、常に外界から基質を摂取し、それによって自己を常に更新すると直接に外界との一般的同一性を保つことが必然性である。生命体とはこのような運動(=代謝)によって存在しつづけている地球に特有な物質の存在様式なのである。

 なぜ代謝(=運動)を行なうのか。それは端的には生命体がそもそも発展過程中のある時期の地球そのものであったからであり、地球はそのものの生成発展の運動途上の特有な物質としてその機能発生と直接に分化したからにほかならない。したがって、地球とは相対的に独立した形式を採っているようでも、これは絶対に直接の統一そのものでありつづけなければ生命現象は実存しえない物質なのである。

 その直接の統一の構造形態こそが代謝すなわち運動そのものなのである。この運動(=代謝)の維持過程が生命の歴史なのである。
   (『南ク継正 武道哲学 著作・講義全集 第1巻』現代社)

     *    *

 これが唯物論の立場から定立した「生命史観=生命史論」の根幹である。弁証法を真摯に学んでいない人には理解は困難である。「直接」「統一」「必然性体」「同一体」などの概念ですらついてこられまい。だから生半可な知識で、論じられたつもりになるものではない。

 余談をちょっと言うと、この文章を教養がある人なら国語力で読んで「わかる」ことはできるはずだが、むずかしいのはこれを「感情でわかる」ことなのである。たいていの人は国語力でわかって知識にしてしまう。そういう場合に、「俺の教養で知っている知識と違うじゃないか」とのさもしい感情を沸き起こしつつ文章を反映すると、揚げ足を取りたくなるのだ。ここが違う、ここはおかしい、例外だってあるだろう、こうは言い切れまい…などと素直さのカケラもない読解力を駆使することになる。
 
 「むずかしい文章だけど、感情でわかるまでがんばろう」とならないかぎり、南郷学派の生命史観の高峰に昇るための麓にも立てないで終わる。


 この定立にあるように「なぜ代謝(=運動)を行なうのかと言えば、生命体がそもそも発展過程中のある時期の地球そのものであったから」と解かれている。武田邦彦が言うような、若かりしころの地球の激動的発展過程にいっさい着目することなく、いわばA+BはCになったみたいな理屈はお笑いである。

 例えば赤ん坊は生成発展の激動期にある。地球もいわばその赤ん坊のような時期に生命を誕生させたのである。ところが武田らは大人になった人間(静止的になった人間)を見て、生命誕生の謎が解けると思い込んでいる。
 宇宙空間にあるどこぞの隕石や小惑星に探査機を飛ばして、砂をしゃくってきて、今の地球上で分析したら、46億年前の様子が解明できると思う宇宙研究者も同じ間違いを犯している。

 受験秀才の成れの果ての宇宙研究者は、小惑星の砂の中に「模範解答」が隠れているとでも思っているのか。
 莫大な税金を費やして探査機を飛ばすのではなくて、例えば玄米と野菜中心の食事をし、ジャリ道を裸足で歩いて五感器官を磨き、武道空手を研鑽してアタマを良くし、そのうえで『南ク継正 武道哲学 著作・講義全集』を熟読し、弁証法という認識を感情で創ることだけが、生命誕生の謎の解明への道なのである。

《3》
 生命現象のはじめは、代謝する気体の様態であったと述べておいたが、この生命現象が国家でいえば原始共同体なのである。そして国家の誕生が、生命体すなわち単細胞なのである。

 生命現象の段階では、区別と連関がない。生命体になると、区別と連関ができる。
 やさしい例でいえば、シチューをつくろうとして、肉や野菜を鍋で煮ているレベルが実体性で、まだシチューになるか、カレーになるか、味噌汁になるかの区別と連関がはっきりしない。

 それをシチューに実体化すると、これはカレーとも味噌汁とも肉ジャガとも区別がつき、素材はカレーや味噌汁と連関しているな〜と思えるであろう。
 生命体で言うなら、単細胞には膜ができる連関があり、アメーバだのゾウリムシだのと区別ができてくる。
 それを敷衍して、原始共同体は区別と連関がなく、国家となって区別と連関ができるのである。

 国家の場合、連関とは例えば戦争であって、どの国家も軍隊を持ち、他共同体との対峙が生じて戦争になる共通性で連関する。
 難民は実体たる国家が崩れて、ふたたび実体性になったものである。あれを見ればわかるとおり、国家になっていない集団は保護されない。国家が国家を維持するには、戦争は必須であって、「恒久平和」はただのロマンである。

 サヨクは馬鹿だから「国家」という言葉をつかったら「右翼」とレッテルを貼ってきたが、最近は堂々国家論が語られるようになってきたのは喜ばしい。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする