2016年05月13日

五山文学の偉大性とは(1/2)


《1》
 五山文学は中世の華やぎを表している。その華やぎとはいかなることかを考察してみたい。
 五山文学は、鎌倉末期から室町時代にかけて、鎌倉五山、京都五山(それぞれ5つの禅寺)で修行していた禅僧らが書き残した漢詩である。通俗的には禅の思想を説いている詩だとも解説されている。

 当時の支那は宋であったが、日本から学僧が留学したり、逆に宋からの僧が日本に来たりして、宋の漢詩が日本に入ってきた。
 五山文学の名前だけは教科書で見たとしても、中身はどんなものかを知る人は少ないだろう。よこばくの興味を抱いたとしても、なにせ漢詩だから読み解くのが面倒で、不人気なのは気の毒である。みなさんも、なんだ漢詩か、かったるいなあ〜と言わずに、しばしお付き合いください。

 頓智話で有名な一休も、五山の僧の一人で、やはり漢詩をものしている。
 時代的には、五山文学も龍安寺の石庭もおおむね同じ時代に創られた作品である。龍安寺をつくったとされる特芳禅傑もおそらくは漢詩をものしていたであろう。そこに共通して、私は「中世の華やぎ」があると思えた。龍安寺の石庭にも「中世の華やぎ」がある、と。

 私に五山文学を教えてくれた恩師はこう言っていた。
 「後に世阿弥の『花伝書』に顕われる『秘すれば花』の花という言葉が、中世の華であろう。中世の華の本質は、無常観に支えられた華やぎ、あるいは華やぎの無常観である」と。
 恩師はまた、五山文学は煩悩から超越した清浄界の文学であると語っていたことを今でも思い出す。

 五山の禅僧たちは多く八宗兼学的に仏教各派の教義を研究していた。八宗兼学とは、宗派にとらわれずに仏教全般を学ぶありようである。禅宗以外は排斥している現在のありようとは違った。
 彼らは支那に留学しては当時の元・明の仏教だけでなく、儒学をも兼習していて、広く支那の精神文化を学んで来た。そうせざるを得ない社会的背景があったのである。
 中世に於いては、面白いことに、寺院が学府を兼ねていたことは中世ヨーロッパの教会とも類似している。

 五山文学とは、漢詩だけでなく日記なども含まれるが、ここでは詩にかぎる。人事、花鳥、天然を諷詠したものだけではなく、不立文字(ふりゅうもんじ)とされる禅機にふれた作品も、禅の境地を述べた漢詩もある。僧らの作品はおおむね精神性の高みがあり、俗人の漢詩文とは比較にならないと言えよう。
 一つの特徴としては、禅境・禅機を述べた作品には、俗人が表現するとは異なった日常性を否定した言語が用いられた。禅を極めんとした人間でなければ、摑めない言葉遣いがなされるゆえに、いっそう俗人には理解、鑑賞がむずかしい。

 では実際に五山の漢詩とはどんなものだったか、見てみよう。
 義堂周信(1324〜88)の『空華集』中の作品を取り上げよう。(漢詩は略し、読み方のみ掲載)

竹雀 (竹の雀を)
  太倉(たいそう)の粟を 啄(ついば)まず
  主人の屋を 穿(うが)たず
  山林にて 生涯を有(たも)ちつつ
  暮れには宿(しゅく)す 一枝の竹に

 竹林に遊ぶ雀を見ている作品である。竹林に草庵を囲む禅僧の、俗を離れた修行の間の一時である。戒めを決して破らないなかに、心の自由自在をかいまみせる作品と言える。

 これをものした義堂周信は、なにげない雀の動きを筆に行(や)るように見え、その表現には鏤骨(るこつ)のあとは見えないし衒いもない。しかし実は今風に言えばその風景に感動している。ココロ動かされたのだ。だから詩にした。
 とは言い条、個別対象の雀への感興を肯定しつつ否定している。そこを捉えるのがむずかしい。雀の様子にただ感動してもしょうがないからだろう。たかが雀にさえ感動し得るとは、その己れの五感や精神性や心象風景を見事にする修行の一環なのである。

 換言すれば、これは八宗兼学的修行によって、彼らの認識が感情になっている詩なのである。竹やぶに遊ぶ雀を反映しているときの、感情、その清浄さや、屹立したさまを見てとれるかどうかだ。

 たかが雀への個別的(個人的)感興で能事畢れり(おわれり)とせず、そこに五感、精神性、心象風景を見事にするという一般性を、義堂周信は(本人はそれと自覚はせずに)“文學”にしたのである。

 もう一つ、明極楚俊(みんきそしゅん)の「山居」を紹介しよう。彼は元(げん)から日本に来た僧である。

山居
  幽居しつつ野僧の家を出づることなく
  白屋は三間にして 紫霞(しか)に護られたり
  澗(たに)に臨んで 泉に掬(きく)しては閑(しずかに)幽を嗽(くちすす)ぎ 
  籬(まがき)に傍(そう)て 竹を拾ひては 自ら茶を煎ず
  黒猿は子を抱きて 坐して法を聞き 
  青鹿は群れを呼びて 跪(ひざまず)きて花を献ず
  語を寄す 世途(せいと)の塵俗の客に
  淡中の滋味は 實に 誇るに堪へりと

 詩の意味は、山中に隠れ住む野僧たる私は、外に出ることもない。茅葺きの家はわずか三間しかなく、紫色の霞にまもられているほどの仙境にいる。谷間の泉に行って清水を手ですくっては、ゆったりと口をすすいでいる。静寂があたりを包んでいる。垣根のあたりで竹枝を拾ってきて湯を沸かし、自分で茶をいれる。
 私が仏の道を説いてやると、子を抱いた猿が庭に来て経を聴いており、鹿は仲間を呼んで、ひざまずいて仏に花を捧げるのである。世の中のけがれた人々に私は言葉を贈る、この山中の真水の、さっぱりとした味は、まことに誇るべきものである、と。

 現代語に意訳してしまうと、詩の趣が喪失してしまうから、だいたいの意味がわかったら、詩を音読していただきたい。
 鮮やかなイメージが描けることだろう。谷間の清冽な清水が喉を通っていくかのようであり、憂い、苦悩の心を洗い流してくれるかのようでもある。こういうのが中世の華やぎなのだ。

 最後の一行は漢文では「淡中滋味實堪誇」であるが、この浩然とした心のありようが、禅家として見事なのだ。ただ「お茶が旨い」ではない。「浩然の気」とはご存知のように、辞書的には「天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気。 物事にとらわれない、おおらかな心持ち」であるけれど、平安時代が終わって、世の中がしたたるような新緑の世界に満たされてきていることの反映でもある。

 なかに「誇り」という言葉があるが、この認識は、ぐだぐだと和歌に耽溺していた平安貴族にはないものなのである。
 キリスト教でも、通俗仏教でも、もし同じような詩があるとすれば、猿や鹿も法話を聴いた、で終わるところだろう。「どうや神や仏は偉いんやデ」と。ところが、明極楚俊は最後の二行で、人間とはいかなるものかを説けるのである。
 
 平安時代最盛期に建立された宇治平等院を見れば歴然とわかるように、あの貴族社会は、要は「神さん、仏はん、よろしゅうお頼み申しまっせ」でしかないのである。
 われわれは現在から昔の古代や中世を見るから、遅れた社会、停滞した暮らし…などと評価しがちだが、それではいけない。
 当時としては、いかに禅が先進的思想であったか、名詞的なとどまる認識ではなく、動詞的ないきいきとした認識が禅だったのだろう。くどく言うが、今の禅で判断してはならない。

 例えば、「生死一如」という仏教の人生観を表した言葉がある。生きると死ぬは表裏一体、というほどの意味だ。諦観の含みがある。せいぜい、命というものは自分一代の命ではない、過去から未来へつながっていくものだ、だから今生きている私は後の世代に「生きる意味」を引き継いでいかねばならぬ、というほどの意味ならやや能動的になろうか。

 それを、わが流派の会歌の歌詞では、
  
  『武道講義』は悟すなり
  再び来たらぬ人生ぞ
  生死一如を極むるは
  人類古今の望みなり

 となっている。
 仏教では、生死一如を名詞として捉えているが、わが流派は「極める」と、動詞で表現している。この違いは実に偉大である。人生観に天と地の差があるのがおわかりだろうか。認識が感情になるとは、として説いてきているが、仏教のはその感情が静止的、名詞的であるのに対し、わが流派では認識が感情になっているそれが動詞的感情となっている。

 歴史に名を残すほどの、偉大な足跡を残すとか、文化遺産の深化発展に功績があったとか、多くの命を救ったとか、そういうものこそが生死一如を極めることである。何度も本ブログで書いてきたが「歴史性」を獲得すること、それが「極める」という動詞的表現になる。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする