2016年05月16日

人は淋しき


 人間はたいてい淋しがりである。
 人間はそもそも共同体と直接に誕生したので、集団(社会)から離れては生きられない。共同体とともに生きる、共同体に感謝する、共同体の発展に尽くすなら、問題は生じにくいが、どうしても個性が生まれる。共同体の縛りを嫌がると、アナーキーな心情に傾く。
 そこが「淋しい」という感情、孤独感が芽生える根本である。動物にはそういう感情は起きるわけがない。

 また、個性はうっかりすると「自分勝手が良い」と思うものだから、それが嵩じると精神病にも到る。とりわけアメリカや支那は、社会に伝統文化がなく、いわゆる良い意味での自己疎外ができるような規範がないので、自分だけ良ければいい、になりがちであって、だから精神病患者とカウンセラーがゴマンといる。

 アメリカや支那のようにならぬためには、子供のころからしっかりと友だちを作り、仲良くしたり喧嘩したりして、認識が社会性を持ったものにしておかなければいけない。
 認識の社会性を持たない人間の場合は、精神病になりがちで、それよりやや軽いのが、ギャンブル依存やアルコール依存になって抜けられない人間になる。

 さらに軽い場合、つまり認識はまともであるが、ちょっと淋しがりやだというケースでありがちなのが、犬や猫をかわいがる人であろう。それも溺愛するタイプ。
 動物学者のコンラート・ローレンツは「ひとりぼっちで淋しい人は犬を飼うといい」と書いていた。
 たしかに犬は人から見て邪念がなく、主人にはシッポを振ってめいっぱい愛情をふりまいてはしゃぐから、人の気分を安らかにしてくれる。

 開高健は『ずばり東京』でこういうことを書いていた。東京の超豪華なペットのホテルをルポしての感想だった。
 「私の漠然とした予感では、犬好きも猫好きも、どこか病むか傷ついているかという点では完全に一致しているのではないかと思う。どこか人まじわりのできない病巣を心に持つ人が犬や猫をかわいがっているのではないかと思う。犬や猫をとおして人は結局のところ自分をいつくしんでいるのである。」

 このように、ペットを必要とする人間は、良く言われる「癒し」を希求する認識があると思われている。愛犬、愛猫程度なら、精神病やアル中、ギャンブル依存症と違って、社会性がいわば担保されていて、異常とはならないが、なかにはペットを我が子以上に甘やかすバカもいて、正常と異常の境目がわかりにくい。

 酒も合コンとか、花見とか、宴会なんかで陽気に飲むのはまあいいとしても、独り淋しく飲む酒は哀れである。
 歌謡曲にはよくあるが、淋しさをまぎらすために飲む酒があり、逆に一人酒が人を淋しくさせることもある。かくいう私も若いころは、一人で酒をチビチビやって淋しさに浸ることがあった。それが一種の「癒し」だと勘違いして、妙に孤独感をいや増す効果(?)があった。

 しかし空手を始めてそういう馬鹿げた自分とは訣別した。そんな愚劣なことに関わっている閑はなくなった。
 人間は誇り、情熱、大志だと教わったからだ。

 ところで。
 これまでブログを書いてきて、人様のブログにいそいそと悪口を投稿する人間を観察すると、これは相当淋しい人間だと気づかされる。2チャンネルもそうだろう。あるいはブログやツイッターをやる人間もそういう傾向はあろうかと思う。
 はっきりした目的を持たず、とにかく誰かとつながっていたいと希求して、ブログ、フェイスブック、ツイッターをやるのは、淋しさをまぎらすためであろうか。さもなくば、ただのひねくれ者か。

 そこへ感想、批判、質問、お礼を投稿する場合は、まともなコミュニケーションと言えるが、とにかく相手をくさす、揶揄する、揚げ足を取る、語尾に「WWWW」などとつける、こういう手合いは、要するに普段、人と上手にまじわれない孤独で胡乱な人間なのである。

 そんなクズでもいいから、論争したい、関わっていたいと思うのは、その人も孤独感にさいなまれている。
 そんな心の病んだ手合いと口角泡を飛ばして論争することがいいとは思えないが、そうしないと「テメエは逃げるのか」と罵る人がいるから困ったものだ。

 まるで、アル中の人間、酒癖の悪くてからむ人間であっても、喜んで一緒に飲めと強要しているようだ。ごめん被りたいであろうに。
 酒癖の悪い人間が、酒席で「おい、おれの酒が飲めねえてのか」と絡んでくるものを、横から「断るな。喜んで付き合えば触発されることもある、新発見もある、先輩じゃないか。一緒にグデングデンになるまで付き合うべきだ」とは! 誇りも志もある人間が、そんなことができるか。
 酒癖が悪い人間は、自分の認識をまともな社会関係で創り損なっているから、その自分勝手に創った淋しい感情を、酒の力を借りて人にからむことで、落ち着かせているのである。だから注意しても止めない。人様のブログや見解にケチをつけるしかできない手合いも、これと同じである。

 ブログのなかには、やたら陰謀説を取り上げて、「鬼面人を驚かす」のやり口で、読んでもらおうとする向きもある。あるいは、自分ではろくに勉強もしないで、人の論旨を捉えることなく言々句々だけを見て揣摩憶測をくり返す。これも一種の淋しい人間だろう。

 くり返し説くが、認識は感情で創られる。社会的妥当な感情で創りそこね、孤独感とか疎外感とか淋しい…とかの感情を異様に育ててしまうと、軽い場合でペットの溺愛、あるいは人様のブログやツイッターに向けて悪口を書かずにいられないようになる。
 もっと悪化して、アル中、ギャンブル依存、果ては精神病なのである。

 像は(認識は)感情を持っている。その感情によって像は自分のアタマの中の像に変形されていく。侮辱されたとか、相手にしてもらえなかったとかの像が「あんな奴、ぶっ殺してやる」の像に発展、変形されてゆく。そういう感情のままに像を描いて落ち着く場合がある。
 一般論でいえば、こういう(像を勝手に描いて落ち着く)認識の形成が、人様のブログに、揚げ足を取り、揶揄し、上から目線でケチをつけたがる人間の病理と言えよう。

 淋しさ、屈辱感、嫉妬、劣等意識、それを落ち着かせるために、こういう愚かな人まじわりしかできなくなるのである。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする