2016年05月18日

生理的に受けつけない文章(1/3)


《1》
 私が初めて南ク継正先生の名を知ったのは、大学3年生のときだったかと思う。友人の家に遊びに行くと、本棚に吉本隆明氏の主宰する雑誌「試行」が並んでいた。パラパラとめくっていると「武道の理論」というタイトルが目に入ってきた。筆者が「南ク継正」とあった。
 へえ、武道に理論なんかあるのか? と驚いて読んでみると、実にスッと頭に入ってくる文章なのである。

 この文章は受けつける、と思ったのがまずは最初の感想だった。
 それから自分でも「試行」を定期購読して読むようになったが、お目当ては吉本氏と南ク氏の論文だけで、あとはどうでも良かった。そのうち、吉本氏の論文は色褪せ、ついに「武道の理論」だけを読むために購読したものだった。
 爾来、南ク継正先生の読者を続け、今日に至っている。

 さて、話のマクラはこのくらいにして、今回の主題は、文章には生理的に受けつけるものと絶対に受けつけないものがあると述べたいと思う。
 南ク継正先生の文章は、当初から私にとっては生理的に受けつけるものであって、いくら難解でも(妙な言い方だろうが)心地よいものであり続けている。

 換言すれば、私は南ク継正先生の論文の論旨とともに、その文章の感情をも伴って学んできた。だから南ク継正先生の悪口を言う人間が許せない感情になっている。

 文章ではなく、これは音楽でもいいし、衣服でもいいし、友人関係、恋愛関係でも言えることかと思う。その感覚がどうしても受けつけないもの、好きにはなれないもの、毛嫌いせずにはいられないものがある。逆に、理由はとりたててないが、好きでたまらないこともある。

 言うまでもなかろうが、こういうことが生じるのは、子供のころから培ってきた認識がどんな感情で創られたかによる。先月くらいからこの件は本ブログでたびたび説いてきたから省略するが、ひらたく言えば育ち方によるのである。

 作家マーク・ トウェインが小説『王子と乞食』を書いたが、その主題はともかく、王室で育った王子が乞食の生活ができるものではない。今日的比喩でいうなら、大邸宅のウォシュレット付きのトイレを使っていた者が、汲取式便所でしかも紙がなくて竹べらで拭く生活ができようものか。

 文章もそんなぐあいである。文章は「何を書くか」と「どう書くか」は不離一体である。だが、「何を書くか」しか念頭になく、どんな汚い表現でもかまったこっちゃないという輩がいるのだ。これはもう、トイレでさえあれば、人から見えようが不潔だろうが構わぬという支那人みたいなものであろう。

 文学で言うと、子供のころ好きになった開高健の文章は生理的に受けつけるものになった。しかしどうしても読めない作家が何人もいた。例えば、大江健三郎、石原慎太郎、三島由紀夫、高橋和己あたりは、相当無理して我慢しなければ読めない。
 大江や三島の文章が好きな人を非難しているのではない。それは好きずきである。

 大江の個人全集の月報に開高が文章を書いていたことがあって、開高が大江と親しかったころ、パリに旅行に行って、地下鉄に乗った、と。酔っぱらっていた大江は、日本語で目の間に座っているフランス人をバカにし嘲笑し始めた。言葉は通じなくても、フランス人にも雰囲気は伝わり、目つきが険悪になって大江をにらみつけてきたそうだ。開高はこれはまずいと、大江を横から肘で押して、そのフランス人客から遠ざけ、事なきを得たという内容だった。

 そのエピソードをあえて大江の全集月報に筆を行(や)った開高の怒りもそうとうなものだったが、今度は開高健の全集の月報で大江が寄稿して、あのパリでの出来事をわざわざ開高さんは暴露してきて、よほど僕のことが嫌いだったのかと驚いた、と書いていた。反省はなかった。
 開高はパリでの大江の傍若無人で、あたかも東大をひけらかす態度に不快感を持ったのだろう。当然である。

 大江はそういう下劣な男であった。だから開高と大江は仲違いするようになったと思う。それでも大江はノーベル賞をもらったから、偉い人だと思う人は思ったらいい。私はかかる大江とその作品を生理的に受け付けないだけである。

 以前、漫才師の居島一平が司馬遼太郎の文章を評して、「嫌です」と断言していた話を本ブログで書いた。司馬の評論家口調、上から目線のもの言いがダメだと、歴史上の人物にも辛い思いもあったんだから「寄り添う」べきじゃないかと言っていた。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/432033499.html
 すばらしい感性だと思う。同感だった。

 しかし、司馬や大江らの文章を勉強になるからとか、触発されるからとか、先輩だからと言われて読まされるのは苦痛である。認識は感情で創るものなのだから、感情が受けつけないものを強いられるのは苦痛なのである。

 もうひとつ挙げておくと、小林秀雄の文章も大嫌いで読めたものではない。谷沢永一氏はこう評した「当たり前のことに勿体をつけ、反り返るような姿勢で絢爛たる字句を操作する名人でした」と。同じく向井敏は、「殺し文句にかけて海内無双の名手といえば、これはもう知れたこと、小林秀雄である。(中略)その著作歴は、さながら殺し文句の絢爛たるオンパレードの観を呈する。人を悩殺し、驚倒させ、感服させる名文句を工夫することに明け暮れたといったほうがいっそ実態に近いかもしれない」

 大学時代に一応は読んだが、たいした内容もないのに、もったいを付けているだけだと、思って棄てた。小林秀雄の文章も生理的に受けつけない。

 余談になるが、甲子園を目指す高校球児たちは、監督や先輩のどんなシゴキにも耐えぬくことができるのは、甲子園に行きたいとの感情が何物にも勝って強烈だからである。シゴキもリンチも、感情が受けつける(我慢できる)ようになっている。

 逆に子供が勉強嫌いになるのは、教師が教科の中身だけを教え、中身をいわば「快」の感情で受け入れるようにしてやらないからである。数学なら数学を、「嫌」の感情で創らせる教師が悪い。数学のテストは最後の答えが間違っていたら零点をつけるけれど、途中の計算方法があっていたら半分点をあげるとかすれば、生徒はそれほど数学を嫌いにならないだろうに…。

 文章は文章で、どれも違いはないじゃないかと言う人もいるだろうが、それはやはり認識が感情で創られることがわかっていないのではないだろうか。

 昨年11月頃、本ブログで「スジを通した音楽批評とは」として、知人が自身のブログで書いている音楽批評を論じたことがある。それとブログ「VINYL JUNKY」を書いていたMICKEY氏の文章を比べて、どちらがまともか述べたものだった。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/428594001.html
 スジの通らない音楽批評の文章は読めないが、「VINYL JUNKY」の文章は読める、と書いたら、いくつもの罵声を浴びた。

 このときは、「優れた音楽だ」というだけの文章は、どこにも何故どうして優れているかを説いていない。筆者が自分だけ酔っている文章だから、こういうのは文章としてダメで、読めたものではないと述べたのである。
 媚中・副島隆彦の文章がこれであって、例えば「胡錦濤は人間が立派で優れた政治家だ」と書くが、どう立派なのかを書かない。こう言う文章は私は受けつけないのだ。

 文句を言ってきた者は、文章がわかっていないと思うが、それも好みだと見切りをつけた。


posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする