2016年05月19日

生理的に受けつけない文章(2/3)


《2》
 2チャンネルは昔見たことがあるが、生理的に受けつけない。ネットに便所の落書きをするのは、いうなれば車夫馬丁のやることである。同様に、人様のブログに、はじめから腐す目的、揶揄する目的でコメントを書き込んで来る文章も、俗に言えば生理的に受けつけない。
 それらひねくれた者たちは要するに、自分のねたみ、嫉み、ひがみ、劣等感のはけ口に書き込むだけなのだ。

 それが抵抗なく受け付けられる人がいるのは、私には関係なく構わないけれど、信じられないことなのだ。
 余計なことを言うと、私は天寿堂の稲村さんの文章も読むのは苦手である。彼は博学才潁で、人間的に尊敬できる人と思っているし、恩人でもあるが、文章は我慢しないと読めない。

 それは主題や内容から来る苦痛ではない。
 それでも無理して読むことはあるが、苦労する。こと文章に関しては彼は異郷の人である。どこがどう、ということは個人攻撃だと思われかねないから今は言いたくない。

 これも一例だが、名著『学生に与う』を書いた河合栄治郎は、戦時中、軍部によって東大を追われた。そのとき河合の弟子たちはみんな河合を裏切ったのである。裏切って離れた弟子の経済研究者たちは、おそらく「河合先生への尊敬も御恩も変わらない」と言うだろう。だが、隠すより現るるなしで、弟子の経済研究者どもは東大教授にはなったが、それっきりだったではないか。

 ずるく立ち回った連中であった。教授であっても車夫馬丁のごとし。
 師のもとを離れれば、河合栄治郎の弟子でも見るように、これは文章でいえば「何を書くか」はちゃんとやっているが「どう書くか」は蔑ろにしたことになる。

 「どう書くか」がないがしろにできるのは、認識が感情で創られるとの原則を重視していないからだ。
 恋人同士が別れたとする。でも男には未練があって、なんとかヨリを戻したいと願った。で、ラブレターを書いたとして、そのときに、「ねえまたやり直そうぜ」とだけ書くだろうか? それでもって心が離れかけている女を呼び戻せるか? これでは「何を書いたか」だけである。

 だが、どんなに自分が女を好いているか、君無しではやっていけないか、その内容を心から訴えたいのであれば、「どう書くか」に鏤骨(るこつ)の呻吟をしないではいられまい。場合によっては友人に相談するだろう、「どういうふうに書いたらいいのか」と。しかし「何を書くか」だけでいいと思うなら、「ヨリヲモドセ」と電文みたいなもので意味は通じる。

 恋人と別れたくない男の認識にどんな感情があるかを、女の方は文章から感じ取るものである。だが、女の方が車夫馬丁なみのゲスで、要は体がほしいだけ、癒されたいだけなら、男の感情の品格なんか気にはすまい。

 私は自分のブログでは「口汚くコメントで揶揄してくる輩」、「南ク継正先生をくさすためにだけ腐してくる輩」とは、論争しない(相手にしない)方針であること宣告している。それを、「逃げ」と罵倒している向きもあるやに、あるところから聞いたので、いささか不愉快になった。そもそも妬み僻みで書いて来る相手のコメントを読まないのだから、論争になるわけがない。
 それで、本稿をしたためて、もういちど認識は感情で創られるのであり、それが人間の本道であることを述べてみたかったのである。

 文章は認識の外化であるから、そこには“純粋な論旨”だけが表出されるのではない。必ず感情が染み込むというか付随するというか、切り離せない。感情豊かなら感情豊かな文章になり、感情薄ければ感情薄い文章になる。
 大江のパリでのエピソードに見るように、彼は言葉のわからない外国人にならどんな罵倒をしても構わないとする薄い感性の持ち主なのである。だから平気で「9条の会」に入れる。

 顔つきが悪い人は、感情がボロだからで、そういう人が書く文章も(話し方も)ボロにならざるを得ない。

 ヘーゲルの論文を翻訳した人は、学問とは、弁証法とは、が、その人間なりの感情でわかっていないから、いうなれば“純粋な論旨”だけ翻訳しようとするので、超難解な佶屈聱牙(きっくつごうが)な文章に成り果てるのであろう。

《3》
 非行少年は、年を追うごとに増加し、弱年化し、惨酷、陰湿になってきていると感じられる。
 そう感じられはするが、非行少年は大人より経験値が少なく、財力もコネもない。大人(非行成人)よりずるく立ち回れないし、権力を使って隠蔽したりする力がないから、表沙汰になっていく。

 2チャンネルに便所の落書きをして回る者も、人様のブログを妬み嫉み僻みで揶揄して回るゲスも、非行成人の一種である。
 大学教授やマスゴミ記者のようにゲスのくせに、上手に立ち回って偽善の糖衣にくるまわることができなかっただけの違い。こうした“エリート”は一流大学を出ているから、妬み嫉み僻みを持たずに済んでいる。
 
 エリートからは落ちこぼれた彼らの心理を推し量ると、第一に子供のころから大人になっても、いじめなどを受けてきて、自分が社会から疎外されているとする恨みがあるのだろう。
 また、こんなに僕はがんばっているのに、ものを知っているのに、世間から認められないのは理不尽だと感じる不満。

 土居健郎という心理学者が『甘えの構造』を書いてベストセラーになったことがあったが、ゲスたちに共通するのは「甘え」である。自分で努力することなく…、文章で言えば「何を書くか」はわかっていても「どう書くか」に全く腐心しないような具合でいるのに、世間が自分を認めてくれるはずなのにの思い(錯覚)が強いようだ。

 俺は知識の宝庫なんだ、理論だって確かなんだ、の自惚れ。それを認めない奴が悪いと思い込むから、人様の見解を妬み嫉み僻むようになっていく。実績の片鱗もないくせに、なにさまだと思っているのか。それで「論争相手になってくれなきゃいや〜ん、バカ〜ン」と拗ねる。

 例えば自分の“鍼灸理論”に自負があるなら、周囲や世間とのさしたる連携や注目がなくとも、ひとり闊歩して生きてゆく強靭な意気が、浩然たる姿勢があってしかるべきであって、人様のブログやコメントの見解に(匿名で)いちいち楯突く閑があろうはずがない。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする