2016年05月25日

軍人片岡覚太郎の至醇遥か(1/2)


《1》
 片岡覚太郎著『日本海軍地中海遠征記』(河出書房新社)がある。今からざっと100年前、第一次世界大戦のおり、連合国の一員として地中海海域に派遣された帝国海軍艦隊に参加した一主計中尉の記録の書である。海軍の公式記録文書の復刻で、近年、作家C・Wニコル氏の編集・解説で(2001年に)出版されている。
 主計とは、軍隊では経理、被服、烹炊などを担当する。

 帝国海軍は、英国との同盟関係の道義を重んじて日本からはるか遠くの地中海に駆逐艦隊を派遣し、ドイツ潜水艦と戦って、同盟国の将兵を命懸けで護った。彼らは栄えある武勇と忠恕を、ヨーロッパの人々の記憶に刻み込んだ。
 不幸にして戦死した英霊の墓地と記念碑が、マルタ島にある。

 これを知ったのは、軍事評論家の井上和彦氏の『日本が戦ってくれて感謝しています 2』(産経新聞出版刊)の記述であった。
 その書のなかに、冒頭の片岡中尉の本からの引用がある。片岡中尉が任務を終えて、海軍根拠地マルタを去る時の述懐である。

     *    *

 自分の努力が認められると、認められないとは、自分の知ったことではない。ただ、国民としての本分を尽くしたという自覚が、自分にとっての大いなる安心である。満足である。少しでも自分の努力を認めて貰いたいと云う、さもしい私心が、その間に萌す(きざす)と、折角の御奉公に疵(きず)がつく。

 不幸不満の囁きやら、沙上の偶語やらを聞くことは、その原因を作った方にも責があるかも知れないが、囁きを起こすこと、それ自身が誤りである。一年有半の任務を了て(おえて)去るに臨み、地中海を顧みた僕の胸中には、ただ任務の果し得た感謝の外何ものもない。得意もなければ失意もない。

 内地に働く人があってこそ、吾人の外征も首尾よく遂げられたのだと思うと、帰国して自慢して見たいと云うこともなければ、誉めて貰いたいと思うこともない。氷のような冷ややかな頭の中には、ただ、日本の国家、極東に偏在する祖国、世界の智力と富力とを傾けた戦争の、活きた舞台を踏んだ一員として、ますます多事多難なるべき帝国の将来が、あるばかりであった。

     *    *

 この文章を、井上和彦氏も「日本海軍将兵の自覚と決意のほどをうかがい知ることができる」としたためている。本稿のテーマに入る前に、井上氏のこの一行の感想に触れておきたい。
 この言及はそうだろうが、彼もその中身を解かない。「自覚」とは何か「決意」とはいかなるものだったかへの言及を止めてしまう。

 以前、本ブログで永栄潔氏の『ブンヤ暮らし三十六年』(草思社刊)を評したときに、こう書いた。
 「新聞の記事にしろ著名人の書くモノにしろ、多くは『それでどうなる?』『それは何故なの?』の先が書かれていない。
 よしんば井上和彦氏が、マルタ島と帝国海軍の関わりを発掘してくれた功績があるにせよ、この一行を書き付けただけで、萎靡、沈潜、不全、失調してしまう。

 井上氏は「虎ノ門ニュース」にも毎週出演してサヨク批判を展開しているが、「おかしいよ」「お前病人に行け」などと漫談まがいの話しかできていない。もっと踏み込めよ、と言いたくなる。サヨクの投手が投げる球を、ほらボールだよと見逃してばかりいて、どんな珠でも打ち返してホームランにする力量はない。見ていて面白くない。
 井上氏の著作は、マルタ、インドネシア、グアム、サイパンなどを探訪して書いているから広い意味でノンフィクションと言えるだろう。

 ノンフィクション作品は、往々にして筆者が取材のほうにエネルギーを傾注して、文体の工夫、すなわち「見せる、ひきこむ、楽しませる、わくわくさせる、次も見たくなる」そういうサービスが雑になりがちである。それに取材を依頼してきた新聞社なり雑誌社なりが、取材費が潤沢ではなく、原稿料も少ないために、悪く言えば量を稼ごうと水増しして書いてしまいがちである。
 井上氏が表題にしているように、日本軍が戦ったところでは、みんな感謝しているということだけ言って能事畢れりになっている。せっかくの素材にめぐり逢いながら、もったいないことである。

 さて。
 第一次世界大戦で地中海に展開した帝国海軍艦隊の輸送船護衛や対Uボート戦、救助活動を、世界は賞賛してやまなかった。ヨーロッパ人にも、当時は学校にもろくに行けない人たちがいただろうが、そういう人だからこそ日本人の清々しさは感じ取ったのだ。
 しかし、むろん大東亜戦争後は、アメリカの陰謀でそんな第一次世界大戦の武勇は、くず箱に放り込まれ、やみくもに日本は悪かった、加害者だったと言われて、すべて消しさられてしまった。

 私もこの片岡覚太郎中尉の文言には強く心肝を叩かれた。彼は海軍主計士官だったから、じかの戦闘には参加していない。のちの主計中将まで昇進している。
 片岡の文言は、今日では古くさい封建的考えで、単なる御恩奉公でしかないではないかと揶揄的に捉える人が多かろう、とくにサヨクに染まった人は。

 この本はちょっと高額なので私は買っていないが、公式な海軍記録なのである。中身はまるで旅行記のようなおおらかさがあると云われる。だがサヨクは、海軍公式記録だから、主計中尉が上層部へのおべっかで書いたんだろうと嘲弄するかもしれないが、私は違うと思う。修辞的に言うなら、片岡は最小を述べつつ最大を感じさせているからとも言える。あるいは俗にいうなら、大いなる自己滅却の歓びとでもいうか…。押し付けがましさがどこにもない。なんでも斜に構えて、戦前をバカにするのがサヨクの常道だが、物事はプラスの面を汲み取るべきなのだ。

 こんなことを称揚したら、小賢しいサヨクは、アメリカの戦争に引きずりだされて自衛隊が殺され、日本も戦争に巻き込まれるぞ、と怒鳴り出す向きがいるだろう。もしくは天皇のためにとか国益のためにと騙して国民を戦争に行かせてころすのだろうとか言い出しかねない。
 ソレとコレとは別であるのに、わかろうとしないで、迷蒙に閉じこもって外界のまったき反映を拒んでいる。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(3) | エッセイ | 更新情報をチェックする