2016年06月30日

孤城落日の朝日新聞


 「月刊Hanada」7月号で元朝日新聞記者の永栄潔氏が同じくOB長谷川煕氏と対談している。永栄潔氏は昔お世話になった知り合いで、本ブログでも氏の著書を取り上げて論じたこともあった。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/417347598.html
 保守系の言論雑誌や保守系ネット配信動画では、朝日新聞の問題がしきりに論じられている。

 永栄氏と長谷川氏の対談では「朝日新聞の部数偽装問題」を語っている。
 私は、朝日新聞の個々の問題では保守系論客がそれぞれ言っていることにさして異論はないが、歴史の流れについて言及した論評は見たことがない。

 朝日の近年のもろもろの事件は、新聞そのものがもう終わろうとしている時代に私たちは生きているのだいう思いを募らせる。もっと大きくいえば、日本が衰退する流れは止めようがないのではないかということである。
 例えば、東芝、三菱自動車、シャープ、東洋ゴム、三井住友建設などの不祥事に見るように、じわじわと日本を支えてきた産業に陰りが見えてきた。朝日もその流れにある。

 日本人の認識が落ちただけでなく、日本人の脳という実体がダメになりつつある。やさしく言えば、カラダと働きが衰えているのである。朝日、東芝などで露呈してきた萎微(いび)は、山雨来たらんと欲して風 楼に満つ、であろうか。
 たいていの人は、まだ働きが歪んだだけと思い、実体が下降期に入ってきていること言及しない。
 朝日の大罪たる慰安婦とか、吉田調書とか、押し紙とか、個々に現れている問題は、それぞれ原因も結果もわかっていても、それだけ見ていてもわからない大きな歴史の流れのなかでは、衰退の主たる要因ではないのではないか。それらの問題は、大きな衰退の流れのなかの一コマでしかないというのが私の感慨である。

 永栄氏は対談のなかで「公正とか公平とかにとらわれず、贔屓にしてくれる読者層に照準を合わせて記事を書く新聞事業体を意識的に目指す、というやり方が案外、賢いのかも」と語っている。ご本人はこれは反語だと言うが…。
 よしんばそれで一時、朝日新聞の衰退に歯止めがかけられたとしても、大きな歴史の流れは止めようがないと私は思っている。
 朝日だけではなく、他紙も同じ運命をたどるはずだ。

 情報を新聞が独占していた時代は、テレビが登場し、ネットが登場して終わったのだ。現在、朝日新聞が突きつけられている諸問題は、きっかけに過ぎず、衰退の流れに棹さしただけのこと。
 私の子供のころの朝日新聞は輝いていた。情報でも言論でも、一流の名をほしいままにしていたが、だんだん衰退してきている。

 それをごまかそうとして、押し紙をやらざるを得なかったし、サヨクにおもねって反原発やら、中共賛美やら、韓国の都合の悪いことは報道しないなどに傾いていかざるを得なくなってきた。
 個々に歪んだイデオロギーを持った記者がいたことも問題だったが、そんなことより、新聞業界でもトップランナーだからこその朝日の凋落は少しずつ進んできたのだ。

 トップにいるとの自負が、変わる勇気を殺ぐ。二番手三番手ならまだしも。これではダメだからもっと何とかしないと…と思える。それまでの自分を棄ててゼロからやり直せようもあるが、トップにいるのは正しいからだという至極もっともな認識が、実は凋落の一番の原因になる。東大も、財務省も、みなそうなっていく。

 先日、テレビで東大五月祭の様子をやっていた。他大学の女子大生が東大ブランドの男子学生を求めてやってくるらしいが、およしなさいってば。今、トップにいる奴はほとんど変われないのだから。東大出の男の妻と言うブランドは手にいれたとしても、苦しみの人生を送る可能性のほうが高い。

 あれほど絶頂を極めた世界帝国のアメリカも、衰退の道に踏み込んできている。あと何年もつだろうか。50年後はアメリカも、かつてのスペインや大英帝国のように覇権が終わるだろう。戦争で勝てなくなった、暴言トランプが登場した、支那の横暴を止められない、タックスヘイブンが暴かれたなどなど、衰退のしるしがあちこちで露呈しているが、それへ対処できたとしても、もう国家の寿命は終わっていくしかない。

 冷静になってみれば、朝日新聞もその役割を終えるときがやってきたのだ。おそらく、ざっくり言って「サザエさん」が連載されていたころが朝日の絶頂期だったのではないか。
 慰安婦報道が間違っていたと言うことは誰でも簡単に言えるが、それはいかにも一部の記者がやったことのようでいて、本当はそうならざるを得ない流れが朝日にあったのではないかと私は睨んでいる。もう反省しても謝罪しても手遅れだ。その謝罪すらする気があの新聞社にはないのだから、臨終を迎えている。

 三菱自動車や東芝は、トップの資質が悪かったというのは表面的な原因であって、おそらく誰が社長でも程度の差はあっても、衰退する流れは止められなかった。
 大相撲も、もう本当は終わっている。外国人をつれてきて無理に延命させているだけである。
 巨人に賭博など不祥事が出たが、あそこも長嶋・王を絶頂期として、あとはどう抵抗しても衰退していくほかなかった。

 国家も人間も自然も、スパンの違いはあっても、すべて誕生して成長し、最盛期を迎えたあとは衰退していって死を迎えるしかない。
 正規分布の曲線のように推移する。
 それがヘーゲルが解いた「歴史哲学」の要諦であろうか。
 朝日新聞の部数減も、多少の“延命装置”をつけて生き延びても、もう実際は手の施しようがない。仮にテレビも禁止、ネットも禁止にできたとしても…。
 今年の新入社員は、おそらく定年までは会社が存続していないだろう。

 衰退を止める一つの方法としては、トップを変えることである。相撲では元力士の横綱経験者を理事にしているが、それでは頭が変わらない。まったく相撲とは縁のない人間を理事長にすれば再興できるかも。
 巨人は監督をはえぬきの選手から昇進させるのを止めて、他球団から連れてきて監督にさせればまだしもなのに、ファンも納得しないし、選手もOBも承服しないはずだ。だから変われない。変われないから新しくなれない。

 朝日新聞も、トップにマスコミとは関係ない業種から若い情熱家をひっぱってきて社長にし、四〇代以上の社員全員のクビを切れば、再生の道がひらける可能性があろうが、できるわけがない。新聞業界を知らない奴に社長が務まるかと反発するだろう。そうとしか考えられない脳になっているから、終わるしかない。

 「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり ひとたび生を得て 滅せぬもののあるべきか」




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2016年06月29日

遊郭とは何だったのか(3/3)


《3》
 谷沢永一氏は『もう一度読みたい昭和の性愛文学』の中で、一番に推奨しているのが富島健夫の性愛小説である。
 富島健夫は、宇野鴻一郎、川上宗薫とともに官能小説御三家みたいにいわれていた時期(1980年代)があった。彼は早稲田大学仏文科を出て、はじめは純文学をめざしていた。デビュー作が芥川賞候補になったほどだった。
 Wikipedia には、「1960年代からは青春小説、ジュニア小説に着手する。性の問題を回避して青春の文学は成立しないと主張し、それまでタブー視されていた10代の性の問題を正面から扱い、1969年『ジュニア文芸』(小学館)に連載された『おさな妻』はテレビや雑誌等で賛否両論を呼んだ」とある。

 富島は後年はポルノ専科になったが、純文学を志していたから、ただの扇情的エロ小説にならなかったことは首肯すべきことだった。
 他のポルノ作家とは一線を画していたのである。
 谷沢氏も、富島健夫が小説のなかで性交を描写しながらも、男女の体だけでないココロの機微にも触れていることを高く評価している。

 谷沢氏は、富島健夫の短編『ベアトリーチェ陵辱』と長編『処女連盟』を著書で称讃している。戦後文学で性交を描いた第一人者は富島健夫だと述べている。

 谷沢氏は富島健夫のほかにもう1人、強く推している作家がいる。広山義慶で、紹介しているのは『女喰い』(祥伝社刊)である。この小説はタイトルはえぐいけれど、なかなかの秀作である。
 主人公はスケコマシでかつヒモで食っているという設定である。
 素人の女をこましては、性技でとことん官能の世界に溺れさせ、貢がせる。私も若い頃、谷沢氏が本で勧めているので、読んだことがある。

 勉強になった。だが、五輪選手並みに体力をつけ、仕事並みの持続力と情熱がなければ、とても女を取っ替えひっかえ毎夜、なんども昇天させるなんてことはできはしないから、あくまで小説での話ではあるが、性交の教科書としては満点であった。男にとって女のヒモとなって暮らせれば楽かと思いきや、とてつもない体力とご奉仕のココロが必要なのであった。

 日本では、依然として性交は何が正解なのか闇の中である。AVやエロ本で密やかに学ぶ実態で本当に良いのか。かといって医学的かり解剖的見地で説かれても何の意味もない。
 世間で流布している曲解に惑わされることなく、男女が健全で十分官能に浸れる性交はどうあるべきかを、文章の冴え、機知、諧謔などで味つけした文学があってもいいのではないかと谷沢氏は説いているように思う。

 まだまだ性はタブーだらけである一方で、下品でどぎついエロが裏社会でまかり通っているのは健全なありかたではあるまい。
 今回は思い切って性について書いてみたが、振り返って気づくことがある。それは日本人がいかに性について、両性どうしを大事にしてきたか、これである。夫婦の間柄も、遊郭の存在も、それは決して忌まわしいものではなかった。

 途中で『我が秘密の生涯』を紹介したが、あれは裕福な階級の男が次々に下層階級の女を誑かしカネを握らせて犯しまくる小説である。自分の欲望全開で、いささかも女性に対する思いやりも尊崇もない。それに引き換え、日本人は性交はうまくいかない場合もあったかもしれないが、互いを労る気持ちでは西欧の人間に負けていない。

 以前、軍事評論家・井上和彦氏がラバウルの戦跡を訪ねた動画を見たが、かの地では、今も原住民が日本人と見ると笑顔で手を振ってくれ、兵隊さんから教わった「もしもし亀よ」や「海ゆかば」「ラバウル小唄」を歌ってくれる。日本人に対する感情はすこぶる良く、女学生さえあの戦争も日本が勝っていたらもっと良かったのに、と言うそうだ。
 それは当時の日本軍の将兵が、決して現地の人々、とりわけ民族にとって大事な女性を尊重して、決して強姦などしなかったことを物語っている。

 ラバウルの話は遠いようではあるが、昔から、日本人は軍隊でさえ、女性は大事にしたことの証左である。それは国内での男の女性を尊重するありようが外国に出ても失われなかったのだ。ラバウルにも慰安所はあったが、将兵等は現地の女性を襲わなかった。韓国軍やアメリカ軍のような女性蔑視の思想は持たなかったからだ。

 韓国軍は南ヴェトナムで罪もない女性に襲いかかって私生児「ライダイハン」を夥しく生ませた。スペイン人は中南米で、英国人は北米で、インディアンを強姦しまくった。

 支那人は最近でも、文化大革命で強姦しまくり殺戮しまくった。
 戦前、佐藤慎一郎が書いた『大観園の解剖 〜漢民族社会実態調査』(原書房)は、日本統治下の満州ハルピンの漢人地区のおぞましい阿片窟、売春窟を克明に調べ上げた報告書だが、見事な記録文学になっている。支那人の性、売春、阿片中毒の実態を知るには絶好の書である。

 ここでも最下層の支那人は、廃人になっても阿片も売春・買春も止められないで死んでいくのである。最後は着るものさえ売って、なけなしのカネで阿片を吸い、女を抱こうとする。そしてついに全裸で路上に放り出される。異性への思いやりなどかけらもない。
 いずれこの本は取り上げたいと思うが、目も口も開けていられないほどの酸鼻を極めた性欲のありようが描かれる。

 他国では男はみんな性欲に飢えただけの狂人どもで女性を徹底的に陵辱してやまない。『我が秘密の生涯』にある性欲の暴走をそのまま現地に持ち込むようなものだった。

 日本人はそうではない。富島健夫や広山義慶の小説も、性交を書いた小説に違いないが、基本は男が女をいかに悦ばせるかに専心し、その女を悦ばせることが男の快楽であるとする小説である。いわば「即自対自」のありようであって、韓国人やスペイン人のごとき、性を「即自」でしか捉えられない手合いとは異なる。

 遊郭は悲しい場だったかもしれないが、その場でさえ、私たちの先祖は人を決して家畜扱いしなかったことだけは忘れてはなるまい。
 わが国では性交においても、男女に論語に言う「其れ恕か」、つまり「思いやり」の美徳があって、そのうえに性の欲望が上乗せされて連綿と歴史を紡いできているのである。
 
 ただ戦後は受験勉強が激しくなり、実物を反映して感情を創る学習がなされなくなり、東大を典型例として感情が薄く育つ若者が増え、人への思いやりもなくなってすぐに離婚になった決着するようになった。赤ちゃんのときから紙おむつと粉ミルクで育つ子が増え、これもまた人間的感情を乏しくしている原因になっている。







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2016年06月28日

遊郭とは何だったのか(2/3)


《2》
 遊郭の話のつづきになる。
 私も戦後生まれで遊郭は行ったことがない。だからどんな実態だったかは、小説や映画で知るばかりである。
 今は映画もあれば、AVもある。エロ雑誌もあふれかえっている。そこでこっそり学習するから、初夜を迎えて周章狼狽せずに済むようになっている(と思う)。仮にそういうものを一切禁じたら、また男も女も暗黒に放り込まれて、それこそ出生率はガタ減りし、離婚も増加するだろう。
 なにせ親も学校も教えてくれないのだから。

 学校で敵性日教組がやらかしているのは「性器教育」であって、ただ単にどうせ大人になって知るんだから、小学生に教えちゃえ、という低度の“悪さ”である。
 人形を使って「体位」まで教えるのは、戦後に流行した高橋鐵、謝国権、ドクトル・チエコ、奈良林祥などの古めかしい「医学的性解説」から一歩も出ていない。
 谷沢永一氏は以下に紹介する本の中で「体位、という全く無意味な駄弁を売っていた」と書いている。

 さて、遊郭であるが、以下に谷沢永一著『もう一度読みたい昭和の性愛文学』(KKロングセラーズ刊)から引用させていただく。既婚の男が遊郭に行くなんて穢らわしいと思わずに、まあ話を読んでいただきたい。

     *     *
 
 嘗て遊郭が存在した条件について、世の誤解が訂正されないまま、連綿として今日に至っている。
 昔の遊郭は高価であった。未婚の若い男がしばしば訪れることができるような、手軽な存在ではなかった。一般の若者にとって、遊郭に泊まるなど、経済的に不可能であった。最も安価(やす)いチョンの間を申し入れ、登楼するだけでも、所得に比べて懐がかなり傷んだ。

 それゆえ、平素より値下げをする通例の紋日(もんび)には訪れる若者が殺到したものである。
 女郎と一夜を過ごす泊まりには、主として中年の妻帯者で、それ相当に懐の温かい男たちが赴いた。
 妻がいるのに何故金を払ってまで宿泊するのか、サマセット・モーム流に言うなら、自家(うち)では無料で手に入るものを何故金を払ってまで求めに行くのか、男の家庭が殺風景だからである。

 女郎の部屋に入ってみるがいい。そこには年代ものながら、よく拭き清められた茶箪子があり、違い棚には可愛らしい人形その他が飾ってある、座布団は清潔でふんわりと柔らかく適度に厚い。
 火鉢には備長炭が活けてあり、灰はきれいにならされている。どちらを向いても温かい雰囲気が上品にかもしだされていた。
 すなわち、擬似的な居間の構えである。

 然り、其処は理想的な心の安まる家庭の舞台装置として演出されている。そこで台の物(つまり夜食)を取り寄せ、甲斐甲斐しく世話をされて満足の気分を味わう。
 男は、家の妻の無神経で無愛想な振る舞いに倦怠感を消去できず、一時(ひととき)の安らぎを求めて女郎の部屋に入り、そこで疑似家庭の安堵感を楽しむのである。

 あとの床入りはオマケであった。何も性に渇えて(かつえて)いるわけではないからである。察するに男の妻は、亭主にまめまめしく仕える生活に飽いて、万事ぞんざいになっているのであろう。
   添乳して たなにいわしが御座りやす(『柳多留』第十四篇)
 女房は、赤ん坊に添乳するため、つまりは布団のなかに寝そべっている。そこへ今日一日汗を流して働いた亭主が帰ってきた。

 女房は起き上がりもしない。顎で物言うように投げ言葉で、台所の棚に干鰯があるから、それを生のまま齧って飯を喰えというのである。飯だけは炊いてあるけれど、それは釜のなかですっかり冷えている。
 世に冷飯(ひやめし)食いという、その冷飯だけを女房が用意した。しかし汁までは手がまわらない。
 (中略)

 今日一日精一杯働いてきた夜食の待遇がこのようでは、男が生き甲斐を感じるわけにはいかないだろう。こういう類いの男たちが、遊郭でかりそめに家庭の味を感じようとしたのである。現代社会と違って、女房を離婚することなんて不可能であった。それは女ひとりを死地に追いやるような残酷な措置である。

 いったん結婚した以上、亭主は我慢を重ねなければならない。
 遊郭は、離婚された女が路頭に迷う悲劇を阻止するための、社会的安定装置の役割を果たしていたのである。

     *     *

 これが世間知に長けた人の見識であろう。幼稚なサヨクのように、ひたすら、後先考えずに、善か悪かのみ言い立てるのは愚かである。世の中には、どうしても、そうせざるを得ないことに満ちている。性の世界も、である。
 私は遊郭は娼婦と性交するところとしか認識していなかったから、蒙を啓かれた。なるほど、と。
 そんな遊郭の疑似家庭なんて、いい大人がままごとかよと軽蔑する向きもあろうし、そう言えないこともなかろうが、日本人はそんな売春の場でも、一方的な男の性欲のはけ口にしたわけではなかったことは考慮しなければなるまい。

 谷沢氏が挙げているような夫婦を、一体誰が修復し得るだろうか。できるわけがない。韓国人が反日を止められないのと同じだ。どちらにも言い分があって、歩み寄る手はない。なんとかなるとほざくのは、新聞の人生相談回答者か、新興宗教であろうか。
 遊郭は道徳的には忌むべきかもしれないが、偽善ではない一つの解決の仕組みだった。




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2016年06月27日

遊郭とは何だったのか(1/3)


《1》
 『源氏物語』には枕絵がついていた、とはよく言われる説である。絵巻物ではなく、だ。
 現在残っているのは、性行為の描写を除いたいわば“純文学”的な物語だけだが、本来はいわばポルノの要素があった。
 上級貴族や大名の娘などが嫁ぐときには、親は『源氏物語』全巻を嫁入り道具として持たせたこともあった。一つの資産でもあったろうが、性行為の仕方を親が、詳細かつあからさまに教えるわけにもいかないだろうから、これを読んで(枕絵を見て)、理解しなさいと。

 『源氏物語』は古典中の古典、世界最古の小説、とされているから、大学の国文科でも研究対象にする人は多い。現代語訳あるいは翻案に挑んだ小説家も、与謝野晶子、谷崎潤一郎、田辺聖子、瀬戸内寂聴らがいる。
 研究者たちは『源氏』がポルノだということになると、それを研究してます、とは言いにくいから、素知らぬ顔で無知な女子大生なんかに教えている。

 英国のビクトリア王朝時代の『我が秘密の生涯』(田村隆一訳)も壮絶かつ驚嘆すべき性記録文学であるが、『源氏』にもそのような要素があったのではないかと推察される。
 『我が秘密の生涯』は、以下に解説がある。
http://jounin.web.fc2.com/1MySecretLife/MySecretLife.html

 新書判の本だが、細かい字でニ段組みになっている。それこそ毎ページに1回は性交があるほどの、圧倒される性交描写の連続であるが、このビクトリア時代の英国には無国籍者になったマルクスがいた。『我が秘密の生涯』は、官能小説でありつつ、当時の無慈悲な階級社会を見事に描いている。マルクスはこの小説にある社会を見ながら『資本論』を書いたのだと思うと、共産主義が生まれる一つの生々しい現実背景が見える気がする。というより、マルクスは下層の民を見ないで、せっせと大英博物館に通って本を読み漁っていた。

 だからマルクスの『資本論』を読んでも、えげつない階級社会の具体的像はいささかも読者に反映してこない。それこそ実感の得られない「一般論のマルクス」で終始した。19世紀イギリスのえげつない格差社会は、わが国にはほとんどないに等しかった。本邦と英国の性のありようの違いを通して『我が秘密の生涯』ではいわば実感的に理解できる。

 ポルノグラフィが発禁になり、性行為も隠れていたすものになっているのは、功罪半ばすると私は認識している。功のほうは、男女の性愛を押さえることでいわばココロの至純を得てきたことであろう。動物的欲望に走らず、異性への思いを胸に抱いて熟成させることで、感情が豊かになる。
 罪は性交が暗黒のヴェールに覆われ、誰もが“正しく”教えられないまま、異性と関わらざるを得ないこととなっていることではないか。また、禁酒法と同様に、ダメと言われるとヤクザが裏で商売をするだろう。

 性交についての言い伝えも、ほとんどは男女を脅すためのものばかり。処女伝説、名器伝説、オルガスムス、失神などが陰微に流布されて、その誤解で傷ついた女性も多いだろうし、男も劣等感に悩まされるなどの悲劇を生んでいる。初夜に失敗したり、相手の反応が冷たい場合、自分は不具ではないかと、男も女もむやみに怯えることにもなる。

 傑作だったウソは、生物ではモグラと人間の女性にだけ処女膜がある、というやつだった。こんなことでも、まことしやかに先輩から後輩へと伝承される。そういう伝説がウソかマコトかは、自分でひそかに雑誌や本で確認するしか手はない。
 性交の知識は、昔から友人からとか、本で読んでとか、芝居や映画で観て得るものである。“正解”が得られればいいけれど、先輩や友人は、無知な男にはわざとウソを教えて、脅すことがある。

 例えば、先輩が童貞の後輩に処女なら破瓜の際に出血するものだと教えるとする。そんなことはウソだが無知な男は信じる。で、実際の場面で出血がなかったら、その女は処女じゃなかった、俺にウソをついた、とんでもないアバズレだと思い込んで「百年の恋」も冷めて別れる。女のほうは好きな男に処女を捧げたのに、とんだ誤解で一方的に罵倒され、捨てられる。
 女はもう二度と男は嫌だと、修道院に逃げ込むとか…。

 男のほうにも多々ある。早漏、遅漏、短小…。そういう誤解でひどい劣等感にさいなまれる者も多かろう。徴兵検査でのM検も誤解を生んだ。M検査のMはサンスクリット語の「魔羅」からきたもので、徴兵検査で性病と痔疾の有無などを確認するためであったが、このとき軍医が診察して童貞でないと判明すると面罵される、とはウソであったが、巷間ひそかに伝わっていた。医者が見たって、童貞かどうかは分かるわけがないし、新兵が童貞でなければ失格だなどと言う規則があるわけもない。

 しかし情報がなければ、そんな勘違いが生ずるのも無理はない。
 ほかにも、女性にどうアプローチしていいかわからないとか、キスの仕方もわからないとか、変なことを先輩から吹き込まれたために恋人を娼婦のように扱っちゃったとか。変態になるとか。

 こうした類いの悲劇、喜劇は世界中にごまんとあるだろう。イスラムの女たちが真っ黒の衣装で目以外の肉体を隠すのは、イスラム以外の人には異様に見えるが、夫以外の男性には欲情の感情を湧きおこさせない仕組みだから、それなりに合理性はある。
 イスラム世界に対して、女が抑圧されているとか、遅れているとか言うべきではない。

 女に余計な知識を与えないで、夫にすべてを任せる。女は夫が全てだから、何かと比較することなく、これが夫を愛することだと信じて一生を終えることができる。
 だからキリスト教圏には修道院があるが、イスラムには修道院がない。如何に女が性のことで傷ついていないか、でもある。

 日本の場合、とりわけ戦前は性交については暗黒時代で、誰もが手探り。ポルノだって発禁なんだから、遊郭に出向いて商売女から教わる以外になかった。鉄砲の撃ち方も知らずに戦場に放りだされるようなものだったろう。それが戦後、性の開放が進んで暗闇からやっと明るみに出てきたのである。

 現代の人間から見れば、遊郭は非人道的で、女を性奴隷にして悪辣な商売にしか思えないだろうし、いかにも女性の身売りとか悲劇があった。しかしプラスの面もあったのである。それが暗闇で困惑する男に性交の手引きをしてあげる機会だったのである。
 軍隊での慰安婦が、女性の人格を否定する犯罪であるかのように言い立てるサヨクがいるが、あれを単に男のみっともない欲望のはけ口とだけ捉えるのはまちがいである。軍隊に入って、慰安所に連れていかれて、生まれて初めて性交のいたし方を学んだ少年も多かったはずだ。

 そのお陰で、彼らは結婚して初夜を迎えるにあたって、純潔を保ってきたはいいけれど、何をどうするか分からなくて新郎新婦で途方に暮れずに済んだのである。慰安所や遊郭で、童貞を捨ててもらっているからこそ、男は自信をもって初夜を迎えられた。新婦のほうも恐がることなく安心して身を委ねることができただろう。
 こう説くと、アホなサヨクから、それは国家が兵隊を増やすために「産めよ増やせよ」の政策の一環だったのだと、得意の誹謗中傷に持ち込もうとするだろうが、はなはだしい迷蒙というべきであろう。

 私が申しているのは、人間は本能を喪失しているのだから、男は教育されて男になるのである。女も教育されて女になる。教育されなければ性交も出来ない、子供も生めないままである。また男が男になる過程で教育され方や自己の学習の仕方を過てば、同性愛者になることからもこれは分かることだ。
 戦前はとりわけ、性交の知恵がすべて暗黒のなかでの手探りだったから、遊郭でそれを得るしかなかったのが一般的だった、それだけのことである。



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2016年06月26日

参院選は時代の分岐点か


 選挙期間中だから個人名を出してはいけないとされている。おかしな縛りである。選挙中なればこそ、議論を活発にし多少の非難攻撃があろうとも、候補者や支援者は戦わなければなるまい。
 それを候補者の名前を出したら違反だとは、国民をバカにしている。こんな馬鹿げた規則を創ったのは役人と政治家である。

 既得権益だけを守り、大衆を盲目のままにしておきたい勢力が、旧態依然を続ける。政策論争に発展するとたいていの候補者は困ってしまう。自分が何も政治や経済や国家を勉強していないから、ディベートになったら馬脚をあらわすからだ。ただむやみに名前だけ覚えてもらえばよいのと、組織票だけを頼みにしているからだ。

 名前は出さないが、以下のYouTube動画でこの候補者の街頭演説を聴いていただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=70b4tYrYXpw
 検索していただければ彼のたくさんの街頭演説がアップされている。

 日ごろ、絶対に政治家にはならないと公言されていた方が、急遽立候補されたのには驚いたが、信念を変えられた理由が納得できるものだった。
 選挙公示直前に、安倍総理から電話があって出馬を要請されたそうだ。その経緯も彼は街頭演説でくり返し述べている。

 安倍総理は彼が要請を断ると、ちょっと待ってくださいと言って、あなたが議員になって国会で発言してくれたら、外務省が変わる、経済産業省が変わる、そして自民党部会で発言すれば自民党議員も変わる、と説明したそうだ。
 これは彼の正式な出馬記者会見でも語っていた。

 これを知って、私も驚いたが、彼が一番驚き、その言葉を重いものと受け止め、熟考の末に参院選出馬を決断したのだ。
 私は安倍もバカじゃないなと思った。彼が参院議員になれば政治が変えられると期待します、というのだ。安倍総理のやる気が出ている。

 あの媚中・副島隆彦は根拠も述べずに「安倍は低能だ」とわめいているが、安倍より副島の方がその言葉にふさわしい。
 媚中・副島は、今回の参院選では東京選挙区から出ている某をかつて支援していた。この某は、自民党議員時代によくテレビタックルなんかに出ていたが、そこから、新党日本、国民新党、無所属、民主党、無所属、減税日本、日本未来の党、つばさ日本、国民党、そしてこんどの○○の怒り云々…と、何度も節操なく転々とし、ことごとく落選してきた男だ。

 政治家になることを職業にした男だ。もう誰も有権者は相手にしなくなった。
 こんなどうしようもない男を褒め上げていたほど、媚中・副島には政治センスがない。安倍は低能だなどと罵辞を投げつける資格はない。
 媚中・副島よりはるかに安倍晋三のほうが、政治的には賢い。

 安倍総理の心意気は彼に伝わったのだ。私は彼の意見と違うことはいくらでもあるが、安倍総理の心意気に心肝を叩かれて参院に出ようと決断したことは、見事だと思った。

 氏の街頭演説で衝撃だったのは、彼が「大音量での候補者名の連呼」や「白手袋」「クルマの中からウグイス嬢の騒音」「名前をひらがなにしない」「当選して万歳を叫ばない」など、選挙で常識とみられていたことに、ことごとく反発してやらないことを宣言していたことだった。

 従来の選挙期間にみられる候補者のひどい偽善、嘘、テメエが当選しさえすればいい、との行動を私たちはとても不快に思いながら、どうにもならないと諦め、虚無的になっていた自分に気づかされた。候補者がみんな偽善者、嘘つきであることを知りながら、次善の策として投票せざるを得なかった。
 だからいつも選挙期間中は、我慢の連続だった。
 候補者はみんな偽善者だから、投票したい人がいつもいない。だから最善が棄権することになる。

 棄権すれば既得権益に漬かり、組織票で当選するバカが大手を振ってのさばるだけ。

 しかし、今回は選挙権が十八歳以上に引き下げられ、一つの変われるチャンスでもあった。サヨクマスゴミは、若い人たちなら日教組の影響が及ぶだろうし、投票率が上がれば、共産党や元民主党に有利になるのではないかと、愚劣なキャンペーンを張ってきた。
 もう新聞とかテレビではなくて、大衆誘導詐欺集団である。20歳でもまだ若過ぎると私は思う。まして18歳ではダメだ。これは空手の白帯に組手をやらせるようなものだ。

 いっぽうで自民党も、保守政党とはいえ汚れきり、大企業や官僚どもと癒着してろくでもない連中ばかり。徹底して事勿れ主義であって、支那が尖閣諸島に来ようが、竹島が奪われようが、ザイニチが特権をむさぼっていようが、な〜んにも関心がない。
 誰も彼もが、政治家を商売にし、世襲をやり、利権や優遇を一部癒着した有権者に与えて、ぬくぬくと居座ってきた。

 氏は、そんなみんなが嫌う政治家、政治状況を私たちの子孫に渡していいのか、と問いかけている。変えなければいけないことは、まともな有権者ならわかっていることだが、政治屋や木っ端役人どもの利権の壁に阻まれてどうにもならないのだった。

 選挙はいつだって「しきたり」で済ませてきたのだ。「しきたり」だからこそ変えなければならないのに、まったく変えられないできた。自民党にNOを言うべき革新勢力も、自民党以上に怠け者で嘘つきでテメエの既得権益だけを守るだけ。
 「しきたり」は変えなければ発展はない。憲法9条というシキタリもとっくに変えていなければならないのに、国民のどうやら過半数が今のままでいいと考える。

 氏は街頭演説で強調している、選挙に出てプロの選挙アドバイザーにしたがって、名前を売ることはしないと。そもそも男子は自分を売り込んではいけない。人のために尽くすのみである、と。
 政党の公認をもらいたいがために、自分の政治的意見を変える奴は政治家になる資格はないともいう。

 6月24日、イギリスの国民投票で英国のEU離脱が決定した。為替も混乱、株価は大暴落となっている。いずれ稿を改めて書きたいが、EUは国家論から解けば、分裂するのは必然である。政治と経済しか見ないから評者たちは見通しを間違えるのだ。
 彼は街頭演説で、イギリスのEU離脱やアメリカのろくでもない大統領候補に出現は、旧来の戦勝国による支配が終わるということだと説いていた。

 これは日本にとってチャンスということではなく、否応無く世界は混乱していくしかない。そこでは日本の「戦後」がやっと終わり、これからいっそう責任を負わなければならない時代になっていくということなのである。
 激震する世界に対応して、国益を守り、世界の安定をリードするにあたって、旧態依然の利権にがんじがらめの社会では日本は落下速度がましてしまうだろう。

 そのときに参院選挙が巡ってきたのである。参院では大きな政権交代は起きないが、これは後世になって、あの参院選が分岐点だったと言われるのではないかと思われる。



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2016年06月25日

弁証法は“国語力”ではわからない


 三浦つとむ著『弁証法はどういう科学か』は、弁証法学習の基本書であると、南郷学派では説かれている。
 もし弁証法に興味を抱いて、この基本書を読みにかかったとしても、私たちはすぐさま蹉跌を味わうことになる。
 弁証法がどういう科学かは、三浦さんが知識的に説いてくれているけれど、それをどう学べばいいかが説かれていないからである。

 私たちは、否応なく人様の文章を学校で習ったとおりに“国語力”で理解しようとする。むろん読み書きの国語力がなければ理解の端緒にさえ立てないものの、それだけでは知識は得られても、こと、弁証法については、理解し使えるようにはならない。
 ここが弁証法修得の壁になる。
 
 『弁証法はどういう科学か』の文章は、像に転換しなければならないとされる。これが弁証法が分かることなのだが、学校教育ではなかなかに文章や言葉を像で捉える勉強を教えてもらえない。しかたなく国語力でがんばることになる。

 「弁証法って哲学でしょ」と断言したご仁がいたが、これが典型的な「言葉で分かったつもり」である。弁証法の像もなければ、哲学の像もないのに、こういうことが言えるのこそ、学校時代から秀才の誉れ高かったご仁の特質になる。

 弁証法の理解は、どういうものかが分かるだけでなく、どう学んでいけば使えるようになるかが大事なことである。その、どう学んでいくべきかを説いた方は、史上、南ク継正先生しかいない。古代ギリシャの哲人も、カントもヘーゲルも説けなかった。
 だから現今、弁証法を知識的に知るならともかく、使えるレベルで修得するには、南ク継正先生の著書にすがるしかない。

 これは何度も例として挙げているが、空手を知識でわかるのなら、本を読み、動画を見れば分かりはするが、空手で闘えるようにはならないのと同じで、弁証法も駆使するには、自分で実践して生き生きした像を創り、かつ使ってみせて何事かを解くことなのである。
 したがって、「弁証法は哲学でしょ」とは、な〜んにも分かっていないタワゴトである。「空手は格闘技でしょ」と言っているようなものだ。それが正解だとしても、空手の技で闘えるものではないからだ。

 以前、大陸移動説をウソだと断言しておいたが、大陸移動があると思えるのは、像を形成する実力が乏しいための起きる気の毒な誤解である。あの場合はよく図が示されて、地球上で一つだった大陸が、マグマの力(?)で移動していって現在の形になったと示される。
 そうした図は、紙に描かれるせいもあって見事に平面図であって、決して立体的な像ではない。

 だが地球は球体であることを忘れている。球体の像が描かれることなく、平面図で理解したつもりになる、この恐ろしさ。アホらしさ。巨大な球体の地球で、海にぷかぷか浮いているわけではない大陸が、いそいそと移動するなんて、狂気の沙汰である。大陸がもし移動したら、地球が壊れることぐらい像ができないのだろうか。

 これは図での話であるが、ことほど左様に、受験秀才ほど、像ではなく言葉や紙の上の図でわかってしまう。三陸を襲った10メートル高さほどの津波でさえ、どれほど陸地を破壊するか、その像でもあれば、地球の上を大陸が移動したとしたら、どれだけメチャクチャに壊れると思うの?

 移動した証拠が、例えば大西洋を挟んで、南米東側の海岸線とアフリカ西側の海岸線が、あたかもクッキーを割ったかのように、合わせてみればぴったり形状が合うと言う研究者がいる。バカ言ってんじゃないよ〜♪ それこそ移動なんかしなかった証拠でしかないじゃないか。移動してなお海岸の形状が変わらない? アホか!

 話を戻せば、大陸移動説をとっても、国語力でわかる人は像を描かずにわかるつもりだから、とんでもない話を「わかって」しまう。
 弁証法もまた同じ。

 物理には苦い思い出があって、高校2年のときに新任の物理の教諭が着任し、教えはじめた。今思っても、この教師はダメ人間で、生徒に物理の像を創らせる授業をしなかった。
 いつも仏頂面で、自分勝手にユーモアのひとかけらも無くしゃべって終わる。おそらく生徒の一人としてあの先生の授業はわかりやすいとか、人間が尊敬できると思った者はいなかったと思う。

 それで私もいっぺんに物理がわからなくなり、面白くなくなった。
 この物理の教師は、教科書もそうではあったが、全部計算、数式で授業をするのだった。数学の授業と変わりがなかった。 
 数学は割り切って数字を扱っていても、物理がこいつのせいですべて数字になったことが痛かった。

 例えばアインシュタインの相対性原理の数式があって、E = mc2
と表す。みなさん、相対性原理を像として教えられずに、この数式だけで解れ、暗記しろと言われて、教師についていけますか?
 わが遥かなる高校の物理の教師は、これだった。

 物理は地球上の、あるいは宇宙の実際にある現象を認識として捉えたものである。本来的に認識は数字にはならない。よく笑い話として、恋愛指数をはじき出そうとする研究者が現れては、好きの度合いを数字で測ろうと試みる向きがあったが、そんなことができるわけがない。

 弁証法は、数で計算するのではなく、像で計算するようなものだと説かれる。
 だから像で考えれば(弁証法の像で考えれば)、相対性原理が成り立たないことぐらい簡単に解るが、数式で出されるといかにも本当らしく思ってしまうのが、現今の私たちの悲しい性なのである。

 アインシュタインは、自分の「相対性理論」なる空想を、数式化したので、これでいける、となったのだろうが、数学がわかる頭脳は怖い。彼は物理の問題を計算でと解こうとしたから、頭が悪くなったはずである。
 宇宙の像、あるいは光の像でもいいが、像がさらに像でまとまって行くのが、構造の構築である。最低でも、地球上でしかもせいぜい100メートルほどを、不完全な装置で測ったのが光の速度だとわかっていたら(像ができていたら)、宇宙空間では光の速度は一定で、直線を進むなどということはウソだろうと気づかなければならない。

 光が直線で進む、速度も一定としないと、数式が成り立たないから、強引にそう解釈する。
 しかし、光が速度が変化せず、真っすぐ飛ぶなんてことは、物理的像を持てれば、あり得ない話だとただちに分かるのである。それが弁証法の像である。

 しかし、たいていの人は、数式のほうを信じる。は? なんで?
 数式の虚構の世界に入れば、計算して答えの数字が出るから、正しいと思い込む。
 ご愁傷さま。




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2016年06月24日

今日はブログ記念日(3/3)


《3》
 国語の教科書は、(最近は知りませんが)長い間良い文章の見本が文学作品に偏っていました。作家の文章で、名文を選んで教科書に載せているのでしょうが、それはおかしいのではないか、と誰かは忘れましたがある作家が書いていました。
 子供が全員小説家になるわけではありません。ほとんどの人は日常の、手紙、メール、ビジネス文書などを書くのであって、相手にちゃんと伝わる文章を書ける力をつけるために国語の勉強があるのです。

 例えば科学者が書く文章、社会科学者が書く文章、役人が書く文章など多種多様でしょう。それぞれ仕事に就き、専門分野でそれに合った文章を書く練習はするのでしょうが、学校では文章の基本中の基本を教えるべきであって、小説家の文章ばかりに偏するのはおかしいのです。

 文章の基本を学校で教えていないことはないでしょう。文法も、熟語も、漢字も、句読点の付け方なども基本です。それはそれでいいと思いますが、そもそも教科書で小説の文章を重視する姿勢自体が胡乱ではないかと言っているのです。

 また別の譬えを挙げます。今週始めに出汁の話を書きましたが、料理の基本である出汁(だし)は、私は顆粒化学調味料は絶対使いません。昆布と鰹節が多く、ときには干し椎茸や煮干しを使うこともあります。
 テレビの料理番組や料理の本では、昆布は湯が沸騰したらサッと取り出さないと香りが飛んでしまうから、煮過ぎてはいけないとされます。それは料亭や旅館でプロの調理師がやること。煮込んでも香りがまったくなくなるわけではありませんし、家庭の食事で大事なことは栄養素が摂れるかどうかです。
 
 つまり、文章もそうなのであって、教科書に小説家の文章を儀表として載せて学ばせるのは、プロの調理師の出汁の取り方と同じで、味も香りも過不足ない料理に仕上げてあるかもしれないが、日常生活ではナンセンスでしょう。

 子供が学ぶべきは、日々の健康を守るための食事にふさわしい出汁の取り方なのであって、同様に、国語の実力も人に誤解を与えないとか、読んで不快にならない書き方、きちんと書いた人の認識を理解できる実力を修得すべきなのです。

 南ク継正先生の『なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生のための“夢”講義』を読まれた方は、よくご存知でしょうが、柔道の井上康生、卓球の福原愛、マラソンの高橋尚子を取り上げて、なぜ彼らが早々に(若くして)第一線から退かなければならなくなったかを解いておられました。

 詳しくは同書(第1巻〜6巻)を精読していただくとして、一つに大事な要諦は、彼らが“歩く”という運動を技化しなかったからだ、それぞれの競技の体躯の動かし方は鍛えただろうが、基本中の基本の“歩く”を蔑ろにしたからなのだと解いてありました。
 まさか、あれだけ世界に通用するアスリートが、“歩く”ができていないなんて! と誰しも驚くでしょうが、それが真実でした。

 柔道にせよ卓球にせよ、もちろん足は動かしていますが、彼らは必ずその競技に合った動かし方、あるいは得意なこれなら相手に勝てるという動かし方を熟達させます。要するに勝たなければしょうがないので、「使い方」に執着し、「創り方」を重視しません。
 技は使用過程に置けば歪みます。歪んだ体はマッサージや鍼などで修復するでしょうが、それでも次第に歪んできて、アスリートが40歳くらいまでやれるケースはほとんどないでしょう。

 何が言いたいかというと、文章を書くのも、スポーツや武道における“歩く”運動と同様の基本的な書き方(創り方)があり、それを中学・高校でしっかりと習熟させて創っておき、また大人になってもいつまでも創ることをくり返すべきなのではないかと思います。
 国語の教科書に載っている小説家の文章は、いわば「使いかた」が見事な文章の手本なのであって、名人芸のようなもので、素人や初心者には無用なのです。

 井上康生や高橋尚子などは、歩けるから歩く練習をしない。そんなの必要ないと思っていたでしょう。文章もおそらくそうで、誰でも書けないことはない。書けるから作家になるのでもなければ、事改まって文章を磨くことなんかしません。それで、自分では人にわかる文章を書いているつもりになっている…のではないでしょうか。

 文章における“歩く”基本は何なのでしょうか。それを意識して地道にこれからも書いていけたらと思っています。

 今回は本ブログの10周年を意識して書いてきましたが、どうも後半は文章作法に偏った内容になってしまいましたが、そもそも文才という稟質(ひんしつ)のない私でも、十年続ければ続けたなりの手応えが得られることをお話してみたかったのです。






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2016年06月23日

今日はブログ記念日(2/3)


《2》
 前回、「語彙の像が明晰な文章が理想だ」と述べました。今日はそこを少し詳しく説いてみたいと思います。
 一つの文章を批判的に取り上げてみます。たまたま読み終わったばかりで手元にあった『余命三年時事日記2』からです。

 「情報が隠蔽され捏造されてという時代には洗脳工作は有効だったかもしれないが、現状ではネットにおいては情報があふれ出している。そしてその利用と享受者は紛れもなく若者である。(サヨク)の連中が騒げば騒ぐほど醜態をさらけ出し、若者は知れば知るほど離れていく。」
 
 とあります。かっこして(サヨク)としたのは、原文は具体的な組織名が書いてありますが、書くのも穢らわしいので省きました。
 先般書いたのですが、私はこういう文章が生理的に受けつけないのです。『余命三年時事日記』は、ザイニチに関する情報を知ろうとときどきブログも読むのですが、いつも苦痛に耐えながら読むのです。
 みなさんは、この文章をどう思いますか?

 本全体を読んで来ると、筆者がここで言っている「情報」とはどういうものかはわからないではありませんが、これではどんな情報のことを言いたいのか分からないのです。
 以下は読みながら私の頭によぎってくる疑問や不快感を( )に入れてもう一度引用します。

 「(どんな)情報が隠蔽され捏造されて(どのように、いつ)という時代(という、をここで使うか? 話がとびすぎだ)には洗脳工作(誰がどのように?誰に対して?)は有効(どのように?)だったかもしれないが、現状では(じゃあもうその“時代”は終わったのか、なにを証拠に?)ネットにおいては(どこのネット?)情報(どんな情報?)があふれ出している(なにをもってあふれているというの?)。

 そしてその利用(その、は何を指している?)と享受者(なにをどのように享受している?)は紛れもなく若者である。サヨクの連中が騒げば騒ぐほど(なにをどのように騒いでいる? たとえばどんなことをどこで?)醜態(どんな? そこで?)をさらけ出し、若者(は? 若者がネット情報を享受していると言ったかと思えば、こんどは離れる? 何から離れるの?)は知れば知る(どんなことを知るから?)ほど離れていく。」

 こんなに読み手を疲れさせるのは悪文です。文章も言葉も雑なのです。ネットユーザーは若者が多いけれど、サヨクが「戦争法案」などのようにスジの通らないことを主張するので、若者のなかには嫌気がさして、サヨクの主張からも、ネット社会全体からも離れてゆくものもいる…ということを言いたいのだろうと思いますが、『余命三年時事日記』の文章は、読み手が恣意的に理解できる余地を残し過ぎなのです。冒頭に書いたように、語彙の像が明確になっていません。

 ではもう一つ。これはある文章を学問的文章を書かれる方が添削した例です。
 まずは元の文章。これはテニスのコーチが弟子にいろいろと教えるとして、弟子がその教えられたとおりにラケットを振り、コーチもそれでいい、と太鼓判を押したとしても、ボールが当たらない場合がある。それはどうしてかを説いた一部です。

「端的には筋肉の使い方が間違っているからである。つまり実体として間違っているのである。それは力の入れ具合で、踵や爪先などへである。」

 これがどのように修正されたかが以下です。添削箇所を( )に入れてあります。

 「端的には(、)筋肉の使い方が間違っているからである。つまり実体(の運動形態)として間違っているのである。それは(たとえば)力の入れ具合(など)で、踵や爪先などへ(の力の入れ方など)である。」

 短い文章だからわかりにくいかとは思いますが、手をいれたので俄然分かりやすくなったでしょう。
 添削する前は言葉で書こうとしており、後者は像で書こうとしているのです。先の「余命…」の文章も、言葉で考えており、像で展開してくれないので、わかりにくい文章となっていました。

 私はこれでもがんばって、「テニスの筋肉の使い方うんぬん」の文章のように、観念的に二重化した、いわば論理に曖昧さが残らない文章を書かなければと、この10年チャレンジしてきました。
 コメントで何人かの方が、私の文章を「読みやすい」と言って下さって、本当に嬉しかったです。

 4〜5年前に、私は師の著書にサインをいただく幸運に恵まれました。そこに私の名前と著者のお名前、そして一言「優れた筆の冴えをいつまでも」と達筆に書いていただきました。天にも昇る気持ちとは、こういうことだと思いました。これは家宝です。
 人間、やはり努力だなとつくづく思わされたものでした。

 なんの取り柄もない私が、これだけは人に認めてもらえるようにと高校のときから努めてきた文章力を、師は見てとってくださり、これからも頑張れよと激励してくださったのです。
 『ガラスの仮面』の主人公「北嶋マヤ」も、なんの取り柄もない少女でしたが、演技することだけが好きで、一意専心、努力していったことが認められていくマンガですが、私も一瞬、北嶋マヤになった気分でした。




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2016年06月22日

今日はブログ記念日(1/3)


《1》
 6月22日はわたしにとって“記念日”です。2006年6月22日に、ブログをはじめました。
 それから今日が区切りの10年になります。
 回数(日数)にして、約2870。
 自分でもよく捲まず弛まずブログを書き続けてこられたと思います。継続は力なりを信じて、きっと何かの量質転化が起きてくると信じて。
 もちろん、しっかり目的的にこれを量質転化させようと企図してのことでした。

 いつもは私事は書かない方針ですが、10周年記念ということで、私の文章を書くにあたっての思いから始めます。
 私は高校生のころから日記を書き始めました。その目的は文章がうまくなりたいからでした。「今日は何をした」と書くこともありましたが、たいていは随筆気取り、評論気取りで書いていました。もっとしっかりした目的意識性を持てば良かったのにとは今にして思いますが、当時は誰も指導してくれる人もなく、むろんPCもネットもない時代、どこに発表するわけでもなく黙々と書いていたものです。

 ざっと10年くらいは続けたのですが、就職し結婚もした為に、日記は遠ざかりました。たまに書く程度。年に3回ほど、なんてこともありました。ほそぼそと続いていたとも言えないようなザマでした。
 しかし、高校時代から日記をつけていたので、多少はボキャブラリーも増え、言々句々の扱い方も心得てきて、書くことが苦痛でなかったので、編集者という為事に就いて助かりました。自分も書くし、人の書いた文章をチェックできなければならないからです。

 誰の文章だったか忘れましたが、文章がうまくなりたければ、書くことを続けなさい、とあったのを守って実践してきたのです。本ブログも、とにもかくにも毎日書き続ける、それしか私みたいに才のない人間はやりようがなかったのです。毎日やっていれば、なんとか人に読んでもらえる文章になるんじゃないかと思うしかありませんでした。

 最近になって、谷沢永一氏の本の中に、同じことが書いてあるのをみつけて嬉しくなりました。こう書いてあったのです。

     *    *
 文章力を鍛えるには簡単な方法があります。ただひとつ、若いときから捲まず弛まず中断せず、連続して営々と書き続けることです。問われるのは、継続する根性だけです。
 「今はまだ若いから」などと口実をかまえて足踏みしてはなりません。年齢(とし)をとって経験を踏んで円熟してからおもむろに書こう、などというのは卑怯な逃げ口上です。
  (中略)
 ある学者が六十三歳の定年になって初めて著書を出しました。資料はいっぱい持っている人でしたが、その人の本はなんとしても読みにくい代物でした。
 
 私が師匠と仰ぐ中村幸彦先生にそのことをひと言漏らしたら、「若いときから書かないようではいけませんよ」とおっしゃった。
 まったくその通りで、書くだけの内容をもっていても、書く力に乏しければ、読みにくいものとなってしまいます。
 なぜか。文章は技術だからです。したがって絶えず腕を磨かなければなりません。
 (『最強の国語力を身につける勉強法』PHP)

     *    *

 私が空手流派の指導局に入ったときには、それこそ毎週、反省文やレポートを提出しなければなりませんでした。提出しなければ当然クビです。文章を書くのは好きだったので、苦痛ではありませんでしたが、書いても書いても合格はもらえず、叱られてばかりで、大変な緊張を強いられました。もちろん今ではご指導に感佩(かんぱい)しています。

 以前ほんの少し、天寿堂・稲村さんの主宰する弁証法のゼミにチューターとして関わったことがあったのですが、ゼミ生たちは、忙しいの書けないのと言って、反省も感想もなかなか書いて来ない。私はそれに指導者として大変怒ったのですが、稲村さんはあまり気にしていませんでした。
 「書くことは考えることである」と言われているのに、書けないから書かないのでは、弁証法がわかるようになるはずがありません。
 その後はどうかわかりません。

 文章を書くとは、頭の中の像(認識)を外化するためにその像にふさわしい語彙を探し、相手に読みやすいように組み立てる工夫をすることでしょう。言葉を単に記憶から探してきてまとめるのではないはずです。

 その場合にボキャブラリーが貧困であれば、いくら考えても月並みな表現しかできません。だからよく本を読んで人の使っている語彙を真似したり、表現法を真似たりしてきました。
 語彙も表現も豊かにしていくには、偏った専門分野の本だけ、気に入った人の本だけを読むのではなく、もっと広い違った領域の書物を読み漁ってきました。

 その貪欲さと浮気性(?)のお陰で、まったく関心のなかった武道の本にも手を伸ばしたので、南ク継正先生の著作と出合う僥倖(ぎょうこう)に恵まれました。
 若い頃、恋人が私の部屋に来て、本棚を眺めて「あなたは実に多方面の読書をしているのね」と驚いていたことを覚えています。
 
 本を読むのは二重構造で、知識を増やすものと、自分のアタマとココロを創るものがあります。くり返し精読するのは後者です。
 加えて、上手な文章を書きたくて、たくさんの本を読んだとも言えます。

 また、これもどこで読んだか忘れましたが、文章は誰にでも書けるが、立派な人間にならなければ、良い文章、人も心肝を叩くような文章は書けない、とあったのです。文章はレトリックではなく、文体に自然とにじみ出てくるものがあるというわけでした。
 ですから、しつこく書きますが、人様のブログに誹謗中傷、揶揄、イチャモンをつけてくる圭角ある輩(立派でない輩)のコメントは、よしんばそれが穏当至極であっても読まないし、相手にしない方針を貫いています。

 人の粗探しばかりしている人間は卑しい人間ですから、どだい文章も読むに耐えません。それが平気で読めて、議論(?)できる人が私は信じられないなあと思うだけなのです。かといって、「良い人」なら「良い文章」を書けるものではなく、やはり文章を書く技能は身につけていかなければならないと思います。
 主語述語が明確で、語彙の像が明晰で、味のある表現で、人柄も自ずとにじみ出るそんな「意到り筆随う(したがう)」の境地は遠い理想です。

 あまり人様のことをあげつらうのはどうかと思いますが、世間にはたしかに上手いし、味がないわけではない文章があります。名文と言ってもいい上手なものはあります。でも、そういう文章はサッカーのベッカム選手みたいにイケメンだけど中身が何もない男に似ています。

 読むに値しない名文は、小説家に多いし、新聞の社説なんかはほとんどそうです。蘊蓄はあるし名調子なのに読んでも得るものがない。
 論説委員なんぞは、蘊蓄を気障にひけらかし、拙芸を售って(うって)口を糊(こ)するを恥辱とせぬ手合いというほかりません。実際、新聞販売店に「押し紙」を強要して不当な売上げをあげて平然としているのですから、内実は暴力団です。

 読んでわかり、得るものがあって、しかも機知に富んでいて面白い、そんな文章が書けるようになりたいものです。それを目指して10年、ブログを書いてきましたが…。



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2016年06月21日

たかが出汁、されど出汁(2/2)


《2》
 女優だった沢村貞子さんは、『沢村貞子の献立日記』『わたしの台所』などのエッセイストをたくさんものした。若い人はご存知ないかもしれないが、親も兄弟も甥も演劇一家である。津川雅彦は甥にあたる。
 「献立日記」は沢村さんが57歳から84歳までの26年間、毎日続けた献立日記であり、暮しかたと夫との過ごし方の記録でもあった。
 沢村さんはいっさい外食しなかった。女優だからあちこちロケ地を飛び回らなければならないけれど、彼女は泊まりがけの仕事は断った。家で料理をするためである。

 自分のためでもあろうが、夫に一汁三菜の食事を朝から律儀に食べさせるためであった。レシピも載っているが、毎日何十年続けることの偉大さ、であろうか。
 ちなみに沢村貞子は生涯350本以上の映画に出演した大女優であった。左翼演劇活動をして戦前、二度の逮捕歴があるが、転向しないでがんばった意志の強い人である。

 戦前に俳優の藤原釜足と結婚したことがある。戦後すぐ映画・演劇評論家の大橋恭彦と京都で出会い交際が始まる。大橋が上京して事実上の夫婦となったが、大橋に家庭があったため、離婚は認められず22年後の1968年に正式に結婚した。
 その夫を大事にして沢村は毎日食事をつくり、献立を記録した。

 頭がさがる。現代の女優やタレントは、行きつけのレストランの何がうまいなどとテレビで語ったり、ブログで自慢したりしている。グルメを競っているけれど、家族を思って食事をまめに作る様子はない。だからみんな若くして癌になる。

 当然、沢村さんは時代が時代だったが、インスタント出汁なんかは使わなかった。出来合いの総菜なんかでごまかさなかった。ゆえに、エッセイを書いても名文と称讃されたほど、頭脳が冴えた。
 今時の女性は、おっくうがって昆布や鰹節でまっとうな出汁を取らない。「だって忙しいんだもの。仕事を持ち、子供の面倒まで見て、本格的な出汁なんか取っていられない」と、口を尖らせる。

 しかしね。沢村貞子さんをみなさい、と私は言っている。彼女は子供こそいなかったが、仕事を持ち、エッセイを連載し、多忙でなかったわけではない。それが毎日三食、料理するだけでなく買い物をし、献立日記までしたためていたのだ。
 毎日、安くて栄養があっておいしいものを考えて作るだけでも、頭をしっかり働かせるから、ボケないうえに、健康な身体を作ることができたのである。

 インスタントの、「調味料(アミノ酸等)」入りの、お手軽な出汁で済ませれば、栄養はない、人工添加物で体も脳も腐っていかざるをえなくなる。出汁の良い香りも知らずに、五感器官の一つ、嗅覚も鈍いまま。その上、毎日のくり返しを面倒がり、楽にすませようとの怠惰に蝕まれていくのである。言い訳ばかり達者な人間になる。
 
 まだある。
 親がそうやって出汁をとることをおっくうがって、怠けを選択すれば、それを日にち毎日子供が見て学習していく。例えば、算数の計算を、紙のうえでやるのではなしに、はじめから電卓でやってしまうようなものである。あるいは、漢字が書けなかったら辞書を引くべきを、面倒だからひらがなのままでいいとか、PCのキーボードで打てば自動的に変換してくれるからいいや、と言うようなものだ。

 親が出汁をとるのを億劫だと言えば、子供も真似て、そうやってなんでも億劫、かんでも面倒と言って楽を選択するようになる。「だって、それって面倒なんだもの」「みんながそうやっているんだから」と言い訳が上手な子供になっていく。
 あげくに勉強が面倒になり、偏差値が低くて大学にすら入れないで専門学校に行くしか道がなくなる。専門学校が悪いというわけではないが。

 たかが出汁じゃないかと言うべきではない。人間は弁証法性なのである。あること続ければ、必ず量質転化を起こすのである。出汁をとるのは億劫だ、のココロを毎日続ければ、何事にも億劫な人間に、面倒なことは避けたがる人間になっていく。自分だけでなく、それは亭主にも子供にも相互浸透していくのである。

 親は日々の食事に、旬の新鮮な素材を吟味し、添加物のない調味料を揃え、伝統に沿った出汁をとる、そうしたまともな調理をするには、手間がかかることを子供に教えなければならない。日がな一日、「勉強しなさい」「塾の宿題はどうした」とわめき散らすだけではダメである。子供には強いても、自分は肝心要の食事で手抜き三昧で、子供に示しがつくのか。

 沢村貞子さんが弁証法を知っていたわけではあるまいが、見事に彼女は弁証法的に生きた。 
 再三説くように、認識は感情で創られる。インスタントで済ませていいやとの感情が、認識のすべてに浸透する。
 「適当でいいや」「そこまでしなくても」「良いのは分かっているけど、できないよ」「ま、なんとかなるんじゃないの」といった、その感情で認識が創られる。
 その感情が生涯に渡って、あなたの人生を「事をなさしめない」という形で妨害してくるのだ。

 なのに、「わたしは弁証法を使って仕事をしています」と堂々言い切る女史がいるかと思えば、それを信じてその女史を「弁証法の達人」と軽々しく褒めそやしてしまう人がいて、驚く。
 弁証法を駆使しています、という女史は、聞けば「出汁? そんなものインスタント出汁で済ませているわ」と答える。「昆布や鰹節がいいのは分かっているけど、料理に時間がかけられない」とも言う。なんだ、なんにも弁証法がわかっていないじゃないか。

 弁証法は論理であり、また感情であると書いてきたが、弁証法を学ぼうとか、自家薬籠中のものにしたとか言うなら、たかが出汁ひとつでも、おっくうがってインスタントで済ませられる感情にはなれないのである。化学調味料を摂取して相互浸透したらどうなるか、それを連日続けたらどんな量質転化を起こすか恐くなる感情に、ならなければならない。

 だから、まともな出汁も取らないいい加減な食事をしておきながら、しかもそういう日常を科学したこともない。南ク継正の著作を学ぶことは億劫だから、適当に一言隻句だけ聞きかじって「どうせこんなもの」と勝手に決めつけるくせに、言うことだけはいっちょまえ。
 俺は弁証法は間違っていると思うぜとか、「生命の歴史は間違いだろ」とか誹謗中傷する輩が、いかに愚か分かるのだ。

 平気で文末に「WWWW」などと付けて相手を揶揄した気になって、自分のほうが賢いと自惚れる、そのココロは、まさにインスタント出汁で怠け、香りも偽物、味も偽物の食事でいられる神経そのものなのである。




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2016年06月20日

たかが出汁、されど出汁(1/2)


《1》
 ある友人とお茶をしていたときに、それぞれ食事は自分でちゃんと玄米菜食中心につくっているという話になり、ついで出汁の取り方に及んだ。「出汁はどうとっているの?」との問いに、彼女は「顆粒だし」と答えた。
 ちょっと待て、と。昆布や鰹節じゃないのか? 「ええ、つい面倒で」と答える。
 さて、お立ち会い。そこから私の説教が始まった。

 出汁を化学調味料で済ませるって、それは日本が好きではないのだ。
 出汁こそ日本文化の粋。他国には「出汁」もなければ「旨み」という言葉もない。「おいしい」という形容詞はあっても。素材や調味料の味と香りはあっても、ひと手間かけた出汁の旨みと香りがないのが、外国の料理である。

 イギリスなんかその典型。旨みを味わう認識がないから、頭が良くならない。実際、イギリスは7つの海を馳せて世界帝国を一度は築いたが、植民地が独立していくと、収奪ができないために凋落の一途を辿った。もはやクルマも作れない。

 支那や東南アジアでは「味の素」がさかんに使われる。彼らも遅まきながら、化学薬品ではあるが出汁にちょっぴり気づいた。でもきちんと手間ひまかけて出汁をとらないから、永遠にアホ。
 日本では表だって「味の素」のような化学調味料は激減したことになっている。「味の素」を食べるとバカになると噂が出、舌がしびれるなどの症状が世間に伝わって、食卓からあの赤い小ビンがかなり消えた。

 しかし日本では化学調味料の消費量は減っていない。どこに隠れているかといえば、加工食品に、である。「グルタミン酸ナトリウム」では評判が悪くなったから、「調味料(アミノ酸等)」と表示されるように代わった。加工食品のほとんどにこの表示がある。「あしたのもと、味の素」などとCMを打っているが、よくも図々しく、である。「あしたの癌の素」じゃないのか。

 顆粒の出汁の素には「天然だし」と書いている商品もあるが、それはごく一部が天然というだけで、半分は化学調味料である。ちゃんと商品の裏側には「調味料(アミノ酸等)」と表記されている。
 そのくせ「純だし」「黄金だし」などの得手勝手な商品にして消費者を騙すのだから阿漕(あこぎ)である。
 「化学調味料無添加」もあるが、それでもこれは人工的に処理されている。「調味料(アミノ酸等)」がない分、割高な商品を作っているだけ。毒に変わりはない。

 なんもむずかしいことはない。
 例えば朝、鍋に水をいれて昆布と干し椎茸をぶち込んでおく。夕方それを火にかけて沸き立ってきたら鰹節を投入する。しばらく煮てから冷まし、昆布などを取り除いて、冷蔵庫に入れておくか、冷凍しておけば、すぐに味噌汁やおひたしやらに使える。

 出汁をとったあとの昆布は、自家製の昆布の煮〆にすればいい。干し椎茸は、吸い物にも煮物にも入れればいい。煮干しのカスは犬猫にくれてやってもいいが、私は食べる。
 作家で料理研究家だった丸元淑生は、野菜クズで出汁をとることを推奨した。ネギの根っこ、椎茸の石突き、ピーマンの種、蕪のヘタなど、簡単に捨てているものを、冷蔵冷凍して溜めておいてから、鍋で煮て、エキスを取る。

 こういう野菜から栄養素がたっぷり出ておいしい出汁(スープ)になる。とった出汁は小分けにして冷凍しておけば、味噌汁や煮物に加えられる。たいした手間ではあるまい。テレビやスマホをいじっている間にできてしまうほどだ。
 ついでに言うと、醤油も出汁の一種だが、私は醤油をつかうときに能登産の「いしり」や秋田の「しょっつる」をちょっと加える。そうすると良いコクが出る。「いしり(いしる、とも)」はイカとイワシがあるが、私はイカのほうがおいしいと思う。

 顆粒だしなら、スプーン1杯鍋に放り込むだけで簡単ではあろうが、これも弁証法性であって、プラスとマイナスが両方存在する。簡単ですむというプラスの面を得れば、栄養が不十分、人工添加物を摂取する、怠け者になるなどの多くのマイナスが生じる。

 その手間ひまを惜しまないこと、これが日本を愛することではないのか。私たちの先人は、とくに日本のお母さんたちが営々と手間をかけて出汁をとり、おいしい味噌汁や煮物を子供に食べさせてくれてきて、日本文化の優秀性が創られてきた。そのありがたい伝統を、忙しい? 怠けたい? それで放擲していいのか? 次代に引き継ぐ責任は考えないのか?

 また、こうも言った。あなたのお子さんにもきちんと出汁をとることは躾けないといけない。そうすれば子や孫が栄養の豊かな食事をして健康に頭がよくなり、認識が歪むこともない。
 出汁は面倒だというなら、それは子供の教育も面倒だからやらない、というに等しい。良い子に育つ努力がいやだって、どういうこと?

 先月半ばに、東京でアイドルをやっている女子大生が、ライブ会場の前でストーカーに刺される事件がおきた。あのストーカーをやった男は、まず絶対に母親が出汁をちゃんととった旨い味噌汁を飲ませていなかったに違いないのである。原因はそれだけではないにせよ。

 以前にも書いたことだが、世の中にはグズな人間がいる。たいていの人はそれは生まれつきグズなんだ、で済ませてしまうだろうが、それではいけない。
 なにが原因で(何とどう相互浸透して)、どのようにそれが量質転化したあげくの「グズ」になっているかを研究しなければならない。

 グズになる理由の一(いち)が、食事次第、これである。
 自分で食事を作らないことと、親が作った食事がダメな場合の二重構造である。
 まず母親が料理がへたで、つくってもまずいものしかできず、たいていは面倒がって出来合いの総菜や弁当だけ買って家族に食わせるようだと、子供はほとんど例外なく学校の成績は悪くなり、運動神経も悪くなり、ドンクサイ子になる。

 よしんば母親がちゃんと料理をつくって子供に食べさせる人であっても、子供本人(女でも男でも)が長じて自活しなければならなくなったときに、面倒がって料理を作れない生きざまを選択すれば、これまた愚鈍に転落していく。

 まともな出汁になる昆布、鰹節、干し椎茸、煮干しその他、みんな自分の家庭の食事になるまでは、多くの人の手で、手間暇かけて作られてくる。漁師が、お百姓が、苦労して育ててくれ、また尊い生命体の命をいただいて(奪って)くる過程がある。

 人工添加物みたいに、簡単に手に入るものではない。ややもすれば、子供は肉も野菜も海藻も、スーパにあるものと思ってしまうだろう。素材がなんだかも知らずに出来合いの総菜やコンビニ弁当で育てば、生き物への感謝、魚をとってくれ、野菜を栽培してくれ運んでくれた人たちへの感謝が生まれない。人の気持ちがわからない。殺される家畜の気持ちがわからない人間になる。

 以前のブログではピアニストだった中村紘子を取り上げた。彼女は、料理はいっさいしない女だったから、そんな炊事もできない女にピアノが上手になるわけがないと書いておいた。指の動きだけは達者になっても、手に心がこもらない。手に心がこもらないでピアノを叩いたって、人の琴線に触れる音は出せないのである。

 手に心がこもる、感情がこもるためには、料理をして、夫のため、子供のために健康になるように、おいしく食べてくれるようにと、心を込めて炊事することが肝心である。
 そうした基礎中の基礎を蔑ろにして、ピアノだけ弾いたって、若いうちは美人だとかなんだとかでチヤホヤされても、やがてキリギリスみたいに秋風が吹いてくればおしまいになる。

 私の知り合いにも、若い小説家志望の男がいるが、独身で食事はいつも外食だというから、「君には文学はできないよ」と言ってある。文章を書きつけるにしても、その指先に感情がこもる訓練を日常生活のなかでやらないでおいて、傑作は書けなくなるのである。

 食の乱れは家庭の乱れ、家庭の乱れは社会の、そして国の乱れになっていく。健全なる精神は、健全なる舌にあり、とも言えよう。
 母親が子供に、夫に、まともな食事を創らず、インスタントに堕ちれば、舌の味覚も香りを味わう嗅覚も育たない。五感の一つが鈍感なまま、それでみずみずしい感性が育つはずがない。

 出汁の取り方が人生を左右する!



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2016年06月19日

子供のボクが言うのもなんやけど(舛添辞職篇)


 5月21日のブログで、「子供のボクが言うのもなんやけど(舛添批判篇)」を書かせてもろたんやけど、今日は、一応あのゲスが辞職したよってに、また一言いわせてもらいますワ。

 舛添がやっと辞職してくれて東京中が安堵したやろな。舛添がバカにしとった庶民に返り討ちにあったのや。庶民をなめたらあかん、税金盗まれれば怒るに決まっとる。しかし、あのゲスもよう粘ったもんや。それと、舛添問題がワイドショー化して、彼本人をこれでもかと叩くのは舛添の責任とはいえ、恐ろしいもンがあって、それが止んだのもホッとした。
 
舛添が辞めたんはええけど、どこのワイドショーも「週刊文春」の暴露をネタにして舛添いじめ、都議会も本来テメエたちが問題にしなければいけない都知事の不品行を放置しとったくせに、一躍テレビに映るからとはしゃいで、でも追及はテレビで仕込んだいじめ材料のみやった。

 媚中・副島隆彦は、自分のサイト(学問道場)で舛添を擁護してまんナ。
 「私は、舛添要一都知事が、かわいそうだ。あんなにいじめられて。なんとか都民が声をあげて、舛添要一を救けなければ。いいじゃないか、数百万円のけち臭い私用や、公用車の私用や。あんまり、細かいことを言うなよ。都知事としての仕事をしてくれていれば。彼は、今の日本国にとって大事な人材なのだ。」
 と、こうやねん。

 ほらナ。副島はんはいつものように、どうして舛添が今の日本国にとって大事な人材かの理由を述べないでっしゃろ。すかたんやねん。
 たしかに奴がちょろまかした金額は小さいかもしれんけど、問題は奴が韓国利権ズブズブやちゅうことと、都民のために働いとらんいうことやデ。ウソにウソを重ねたことも、自分の子供に辛い思いをさせたことが悪いゆうてんねん。

 最初、海外出張や公用車での別荘通いがメディア記者に問われたときは、傲慢そのものやってん。「これはまったく問題ない」と開き直るいうより、都民に対して「そんなことも知らねえのか」と見下した態度やった。定例会見でも、記者に対して「うん、うん」とうなずいてふんぞり返りくさっとった。

 風向きが変わり、「週刊文春」が連続してスキャンダルを報じ、舛添の人間性が「なんや?」と問われるようになると、「うん、うん」とは相槌を打たなくなり、「法にのっとっている」「第三者の厳しい目で精査」などと逃げ始め、傲慢はやや影をひそめだしたなあ。
 さらに追い詰められると、「これは真摯に受け止め」「反省して参りたい」と一見低姿勢に転じたのや。

 けど、6月13日都議会集中審議などで、不信任決議をしたら都議会解散をするぞとほのめかしたことが逆効果となって、都議会議員全員がアタマにきてからに、かばわなくなりよった。「ここで止めたら死んでも死にきれない」「子供のことを思えばすぐにやめたい」「都政の混乱が心配だ」と泣き落としを抜かすに及んで、みんなその浅はかな戦術に呆れ果てたのや。

 自民党・公明党の本部から、「参院選挙で不利になるからさっさと止めさせろ」と圧力がかかり、腰が引けていた都議どもも舛添辞任やむなしに傾いたわけや。
 この事件についてはみんながあれこれ言うやろが、ボクはこれは戦後教育のことが一番問題やと思うねん。
 舛添のルーツを取材した以下のテレビニュースがおもろいデ。
奴の人格形成のルーツを探ったものや。8分ほどのもんやが、「やっぱりや」とうなずきながら見られる。
https://www.youtube.com/watch?v=sUmPx53X3n0

 彼の出身は北九州市で、古くは八幡市だった地区で、製鉄所で有名なとこや。戦争直後、一家は市場で八百屋をやっていた。市場というてるけど、闇市だったとこが残ったんやろな。なら、おそらく闇市を占拠したザイニチや。テレビでは、今は広い道路になっているとこを映しとった。つまり、市がもともとザイニチ不法占拠されていたところを、区画整理として立ち退かせたんやろな。

 舛添の水の飲み方が朝鮮飲みやし、パククネに会って卑屈に笑って新宿に韓国人学校を建てる約束をしてくるなんぞは、まさにザイニチの卑しい所業。ウソは平気でつく。ウソがばれても開き直る。ことごとく朝鮮人の特徴まるだしや。祖父母の情報がないのやし。
 舛添辞職で“除鮮”が進んだいうてウチのおかんが喜んでおった。

 貧乏人の子だくさんで5人兄弟(上は全部姉)の末っ子やった。幼稚園のときから友達がいなかったと近所のばあさんから証言をとってる。ザイニチやから近所付き合いができないねんナ。
 中学2年で大黒柱の父親を亡くし生活が困窮する。でもがんばって高校にあがると成績は常に一番。写真を見ると、高校生とは思えない人を射抜く目つきで、まるではぐれオオカミみたいに人を信じていない目やな。

 心の内の貧しさ、余裕のなさがあらわれとる。このとき人生の師と出逢わなかったのが一番の彼の悲劇や。師から「君の顔は直しなさい」と指導してもらえず、勉強ができる奴にみんな恐れをなしてしまった。
 彼は猛勉強して秀才となっていたのや。部活は陸上の短距離選手、ちゅうことは集団競技が苦手やったんやな。高校教師が10年20年に1人の逸材というほどの受験秀才や。それで東大法学部に現役合格。おガキ様のころから、今にみとれ、ワイが一番になったる、言うて駆け上がろうとしてきよったんやな。

 受験勉強にそれだけ入れ込めば、あわれなもんやが、自分のことばっかりになりよる。自分が良ければいいになる。テストの質問に完璧に答えさえすればええのや、自分の意見はなくてええ、世間を欺こうがなにしようが勝てばええのや、という思考回路ができてくるのや。その典型やデ。
 今度の騒動でも、終始一貫、奴の弁明の反省は言葉だけの言い繕いで、魂の、いや感情のカケラさえなかった。勝ちたい、言い逃れたい、知事でいたい、それしかあらへん。

 ウチのおかんがテレビ見ながら言うてたデ。飢えた野獣のように受験勉強まっしぐらで、他人を平気で蹴落とす奴や。学校のセンセたちに人間の魂を教えてもらわんかったんやろなと。一番になってもうたら反省なんかできんようになるデ、あんたも気イつけや、人生はお金やないねんで、言うてたワ。

 人間性は顔に出るんや。舛添の顔見て本質がわからんのはアホや、卑しい顔は創られるんや、子供がどんなにイジメにあってもその気持ちがわかる男ではない、と言うとった。

 舛添の人間性に問題がおおいにあるちゅうことは、マスゴミ記者なら知らないはずがなかった。新党を立ち上げたって誰も寄って来よらんかったやないか。自民党だって公明党だって知らないはずがないデ。なのにあの都知事選では、マスゴミがあのゲスを都知事にしようとキャンペーンを張りよった。これはいったいなんや? 韓国や支那の謀略だったんやろか。
 政治家どももマスゴミも、舛添がこういうセコイ男で、女にもだらしなくて、いずれ問題を起こすことはわかっていたはずや。

 舛添の最初の妻は革マル派で活動しているときに学生結婚。フランス留学中に現地の女と結婚。次が片山さつき(財務官僚)と見合い結婚。三人目が現妻で、もとは奴の秘書。ほかに2人の愛人がいて、婚外子が三人もおる。蓮舫に懸想しよってプロポーズまでして断られたそうや。
 片山さつきとの離婚は、舛添の暴力が原因と言われとるそうや。

 女も女や、とおかんも言うてたで、東大法学部卒の肩書きに目がくらみよってからに、アホや、言うて。結婚するなら人間性を見なあかん。うちの兄やんはAKB 48に入れ揚げとるアホやが、人に危害を加えたり、人を騙して犯罪者にならんだけ舛添よりましやとも、おかんは言うてはった。それも一理や。
 
 これはやね、やっぱり出自の問題にからむ劣等感と、受験秀才ゆえの魂の欠落以外のなにもんでもないんや。舛添は一番になるんやったら、受験のルールに従えばええと見抜いてきたのやが、それさえ実現できたら何でも自由になると勘違いしたんやろな。女にだらしないのんも、俺ならなんでもできるという思い込みからや。人の上に立つ人間は人格者でなければいけない言うような日本人のマインドが舛添に絶無なんはあちらの人間やからや。

 結局、舛添事件の教訓いうのんは、みんな政治とカネの問題や、政治資金規正法がザル法やから悪いんや言うてる。それはそうやが、ボクが思うに、受験教育がもたらした魂の欠落と、ザイニチの問題ということやと思うねん。
 本来、政治資金規正法は、政治家がワルをやらんはずやという信頼の元に創られて当然なんや。常に抜け道を探したろ、いうのんが政治家になるとは想定しとらん。

 なんぼ抜け道を塞ごうとしたって、法に完全はない。だから少しでも疑わしきは罰す、で、重税を課すとか、1回選挙に出馬させないとか、というシビアな「保険」を賭けるぐらいしかできんやろ。
 



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2016年06月18日

副島隆彦の一番弟子、中田安彦の無知


 媚中・副島隆彦の一番弟子に中田安彦がいる。「アルルの男・ヒロシ」というホストクラブの源氏名みたいなハンドルネームを使う。最近は本名とこれを併記しているようだが、以前、媚中副島は「ハンドルネーム」や匿名で掲示板に投稿するなと怒鳴っていたのに、身内には甘いのかと呆れていた。

 どんなハンドルネームを使おうと勝手ではあるが、いささかも志が見られない、ぬるい名前をよく付けるものだ。師匠副島も弟子に対して、名称にも品格を意識しろとは指導できない程度なのだ。

 中田安彦が連中のいわゆる「学問道場」の「今日のぼやき」なるみっともない名称のコーナーで、媚中副島の新刊本(『日本が中国の属国にさせられる日 迫り来る恐怖のシナリオ』)を紹介していた。これを取り上げることから始めたい。
http://www.snsi.jp/tops/kouhou/1892

 媚中副島はあれだけ、これからは支那が世界覇権国になる、支那はすばらしい、支那は大国でちっぽけな日本なんか相手にしていない、とわめいていたのに、今度は支那が日本を攻めてくると言いだした。支那は外資が引き揚げて、経済が立ち行かなくなっている。日本に秋波を送って、なんとか戻ってきてちょうだい、とひそかに懇願している。これを副島はなんと解説するの?

 世間の動向を見るに敏なのだろう。節操がない。尖閣諸島に支那が不当に侵攻してきていることについて、副島は、支那の善良な漁船を、日本の海上保安庁の巡視艇が挟み撃ちにしていじめていると喚いていた。安倍首相が米国のネオコンの指示で、支那と戦争をはじめたいから、尖閣諸島で罪もない支那漁民をいじめていると、わめいていた。

 しかし、菅直人政権のときに、支那の工作船が海保の船に体当たりをしているのがYouTubeの動画で公表されると、卑怯にも副島はだんまりを決め込んだのだ。媚中・副島が言うとおりなら、ヴェトナムでもフィリピンでもインドネシアでも韓国でも、支那漁船が不法操業しているのはウソで、みんなそうした国が戦争に持って行こうとして、ことさら支那を挑発していることになる。

 海保だけが悪いことをやって、ヴェトナムや韓国や…は正当だとでも? 支那はどこでも悪辣なことをやらかしているだけなのに。
 以前は人民元で貯金しろ、絶対得だと唆していたが、その言うことを信じて人民元を買った人は、人民元暴落で今や泣いているだろうに。

 ウソをついていたことと、中共から(カネをもらって?)日本を叩いていたことを謝罪したうえで、やはり支那は脅威だと思いますと言うなら、まだしも、しらばっくれて今度は支那が日本を攻めてくるかも、で本を出して儲けようとは、見下げた根性である。

 さて、中田安彦は政府が共産党は今も破防法の対象であるとの見解を示したことを取り上げている。

「共産党の「暴力革命」不変 「破防法の対象」と政府答弁書 」(産経新聞3月22日付)
 政府は22日の閣議で、共産党に関し「警察庁としては現在も『暴力革命の方針』に変更はないと認識している」とした答弁書を決定した。
 同時に、暴力主義的破壊活動をした団体の活動制限などを定めた破防法との関係では「現在も同法に基づく調査対象団体だ」と指摘した。鈴木貴子衆院議員(無所属)の質問主意書に答えた。


 これに対して、中田安彦は、
「安倍政権がこのように閣議決定までして、日本共産党は今も『暴力革命の方針を変更していない』と政府答弁書を出したというニュースです。私は日本共産党は支持していませんが、このニュースが選挙前の今になって出てきたことに不快感を覚えました。

 保守政党である自民党は『反共の防波堤としてアメリカに育てられて操られてきた』という自分たちの恥部を解決できていないことを良くあらわしているニュースだと思いました。同時に日本共産党も、とっくにただの社会民主主義政党(貧困層への福祉の上乗せと労働者の待遇改善を求める政党)になってしまっている、のに今もこの名前を捨てられない。これは共産主義に対する反省(総括)がまだできていない、ということだと思います。」


 ずいぶん底の浅い考察で、これで「学問道場」だって?と言いたくなる。
 まず、自民党がアメリカに育てられ操られてきた政党であることに間違いはないが、それだけではない。日本国民が騙されている面はあるにちがいないが、それでも共産主義を嫌悪するからこそ、自民党を支持してきたのも事実である。

 そうした多角的視点を持たずに、一方的な陰謀で片付けてはいけない。
 なにより解せないのは、日本共産党が、「ただの社会民主主義政党(貧困層への福祉の上乗せと労働者の待遇改善を求める政党)になってしまっている」との認識である。

 それは共産党のカモフラージュであって、暴力革命を撤回したわけではない。奴らが表向き、そういう穏やかな行動をしているからといって、本質が変わったわけではないことくらいは見抜けないと、評論家とは言えない。
 以下の動画を見ていただければ、以下に共産党が暴力集団かが見てとれる。
https://www.youtube.com/watch?v=Go5NPYygt78

 6月5日に行なわれた渋谷の「反共産党デモ」に対する、共産党の妨害行為が映されている。正当な国民の権利であるデモ行進を、自分たちをじゃまする者として、共産党は妨害し続けたのだ。は? これが「ただの社会民主主義政党」か? デモを妨害した連中は、表向き「共産党」とはわからない一般市民ふうにしながら、警官への公務執行妨害にひっかからないギリギリで行動している。
 組織的であることは明白である。

 中田のこうした甘い認識は、師匠である媚中副島の対支那認識とそっくりである。
 媚中副島は、チベット、ウイグル、モンゴルなどへの中共の侵略、弾圧にはまったく触れずに、支那はもう世界一の経済大国だ、日本は支那に従えと書き散らしていた。

 中田は共産党の出自が在日朝鮮人団体であることも知らないのか。 
 共産党の活動費の出所も知ろうともしないのか。
 共産党の資金源は、善意の党員のカンパだと奴らはいうが、嘘っぱちである。

 選挙のたびに、当選がまったく見込めないのにすべての選挙区に候補者を立て、莫大な供託金が没収されても平然とカネを使う。
 前回の衆議院選では供託金約10億円を納め、約7億円が没収されているのだ。おかしいと中田は思わないの?
 各選挙区でどれだけ共産党支持者がいるか得票できるかを把握し、その分析から地方議会に最適な人数を送り込んで、立候補させる。これにより、共産党が地方の首長を確保したり、地方議会で半数以上を占める事態に発展する。

 政党規模から言えば国から20億円台はもらえるのに拒否。なぜなら、財政報告を秘密にしたいからだ。彼らは妙な理屈で政党助成金を拒否しているが、そうまで出来るのは、支那や北朝鮮、ロシアあたりからの資金援助があるからなのは明々白々である。
 日本共産党は主に中共の意図に沿って反日、反政権をやらかしている。

 それをまた支那から支援されている反日マスゴミがいて、共産党の実態を報道しない。「貧困層への福祉の上乗せと労働者の待遇改善を求める政党」のイメージをマスゴミが振りまく。それを中田安彦は鵜呑みにする。なにが「不快感を覚えました」だ。アホか。

 参院選を前にして、「連合」の分裂が取り沙汰されている。元民主党の支持母体だった連合のうち、金属労連など大所帯の労組が、共産党とタッグを組もうとしている元民主党に愛想をつかして離脱するのだ。そうなれば元民主党は選挙で惨敗だろう。労組にしてこれだけ共産党への憎悪が深いことを、中田は知らない。





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信仰の自由は最大限に保障するな


 日本の「歴史」は、東大史学科が決めてきた。大本はユダヤに指示されているとしても。
 明治初期にお雇い外国人のルートヴィッヒ・リースというあまり出来の良くないドイツ人の歴史研究家が、なんにも歴史学のなかった当時のわが国に、勝手に日本を蔑視しながら決めてしまった官許歴史そのままを庶民は教えこまされる。それは同時に天皇家や政権にとって都合のよい歴史なのだ。

 ついでながら、このリースは来日中に日本女性と結婚した。一男四女をもうけたのに、ドイツへ帰国の際には息子の応登(オットー)だけを連れ帰り、妻と娘を捨てた。いけすかないドイツ人だった。

 そのリースの決めた日本史を、サヨクに染まった東大史学科の連中が踏襲し、さらに自虐史観、階級闘争史観の色に染める。
 縄文人は朝鮮半島から渡ってきた弥生人に皆殺しにされ、縄文文化は滅びて、稲作とともに渡来した弥生人によって新生日本が作られたなどと大ウソをついてきたが、近年縄文時代の遺跡が次々に発掘され、縄文時代から稲作があり、人種も交替したわけではないことが知れ渡った。でもまだ東大史学科とその流れの文科省、日教組は認めない。

 媚中・副島隆彦は明治維新がイギリスをバックにした伊藤博文ら長州下級武士によるクーデターだったと言って、ヨーロッパ人が押し付けて、これが世界基準だとされている日本の官許歴史の裏側を、自ら暴いたくせに、在日参政権やら靖国問題になると、一転してヨーロッパ人の言うとおりにしろと言う。

 現在のアメリカは、日本の保守派の靖国参拝の動きを「カルト・オブ・ヤスクニ」という概念にして、押しとどめようとしていると媚中・副島隆彦は見て、だから靖国を「狂信」するなという。靖国をカルトと蔑称する媚中副島の認識の歪み、言語感覚の劣等には嫌悪感以外にない。
 靖国が政治問題になることは好ましい状況ではないにせよ、戦死した人たちやその遺族が、どんな気持ちで靖国に思いを寄せているかを、平然と泥を塗る仕打ちが、「カルト」という罵声であろう。政治批判で靖国に唾を吐きかける前に、どうして日本人の哀しみや感謝のココロにまずは寄り添えないのか。副島は、妻娘を捨てたリースみたいに、いけすかない男である。

 天皇や首相の靖国参拝を実現させようとすれば、中国で市場を獲得しようとしている、たとえばトヨタとかパナソニックとかが儲けられなくなる。
 アメリカは日本を中国に嗾ける(けしかける)という戦略は中止したんだから、日本も欧米人にしたがって、靖国参拝をやめろと言う。「ここが何よりも大事な点」と副島は言っているのだ。
 何もかも経済発展のためには屈服しろってか。

 日本は支那の市場をなくしたら一時的に困ることは確かであるが、だからといって民族のアイデンティティまでかなぐり捨てるだけが正しいはずがない。
 副島隆彦と佐藤優の対談本『小沢革命政権で日本を救え』(日本文芸社)で、副島はこう言っていた。
 「天皇のご意思に従うことを右翼」と言います。本物の右翼であるならば、たとえ、今の天皇が嫌いでも、「昭和天皇のご遺志には従え」ということです。それが私の「A級戦犯合祀反対、靖国神社はもう汚れた論」です。」

 は?なにこれ。天皇の意思にしたがうことが右翼? だれがそんな定義を決めたんだ。リースが、日本は単一民族だと勝手に決めたのとそっくりのムチャぶりである。

 この本は2010年の出版だが、よくこんな恥ずかしい対談を両人はやって、今も売っているもんだ。大外れじゃないか。
 ついでに言うと、日本文芸社は汚い出版社で、「あなたの持っている原稿を応募してくれれば、審査して出版します」との謳い文句で、庶民から原稿を応募させたうえで、出版はできませんが、とても惜しいので、自費出版しませんか、と誘う手口をやる。自費出版の編集料・手数料と書店配布料で稼いでいる。違法ではないものの、そんな出版社から副島と佐藤は自著を出すのだから、それでも有識者かと呆れる。
 
 媚中副島には昭和天皇がまるで無謬で、神聖にして冒すべからずという前提があるようだ。アメリカと裏取引して大東亜戦争の惨禍を引き起こした責任者であるヒロヒトをまったく免罪にして恥じないとは、あきれた男だ。だから天皇崇拝者だと断定できる。

 言わせてもらえば靖国が汚れたのではない、ヒロヒトが日本を汚したのだ。ヒロヒトには靖国をうんぬんする資格はなく、尊重されるべき「意思」なんてものが問題にされること自体がおかしい。

 それにしても、媚中・副島は「戦犯」というそれこそ欧米が事後法で勝手に判断して、敗戦国の指導者や軍人兵士をリンチにしただけの概念を、ごもっともと押し頂く無様さには呆れはてる。少しはパール判事の爪の垢でも煎じて飲め。

 佐藤優は同書で、靖国問題は宗教団体の問題だから、彼らの自治に従えば良く、合祀にも賛成だと述べている。
 「それに対して外部からの意思、特に政治権力からの意思が働くということは、次にはキリスト教にも働くかもしれません。
 その意味では、私は、民主党の石井一参議院議員が主張した、創価学会施設を民主党が監視するという暴論に断固反対します。
 どのような宗教団体が行なうことに関しても、それが他者に危害を加えないかぎり、私はすべては放ったらかしでよい、という考えです。」

 こういうところが、佐藤優の八方美人的な言論の面目躍如で、ソーカにも良い顔をし、靖国神社にも良い顔をし、大衆受けする「権力の介入はいけない、信仰は自由なんだ」みたいなきれいごとを言う。
 古来、宗教が国家と無関係に存在したためしは無い。政教分離は理想であるが、現実はそれを隠れ蓑にして、宗教団体が政治に介入し、権力と一体となり、無辜の民を虐殺し、麻薬と結びついてきた。
 だから政教分離を実現するためには国民の代表たる国会議員が、宗教団体を監視しなければならないのである。

 副島も佐藤に同調して、「私も宗教の自由は徹底的に守れという立場です。宗教は国家体制以前から存在するし、もともと国家体制の枠に入らないものです」ときたもんだ。
 驚くべき無知ではないか。宗教が国家体制の枠に入らないだと?
 社会は国家に覆われて初めて秩序を保たれる。そのうえで国民はしっかり生活できるのだ。宗教も当たり前の話だが、その社会の一部なのである。国家の枠組みに入らない宗教を挙げてみろ、ありゃしないから。

 国家は共同体から発展した秩序である。宗教は共同体に共有される認識であって、太古の昔に個人の心的救済を目的に個人が考え出したわけではない。
 時代が下るに連れて、共同体としての宗教が、個の信仰をも許容するようになっていっただけ。

 国家は他共同体(国家)との対峙で生まれる。だから宗教といえども、国家という「缶詰の缶」に守られている。軍隊や警察と関係なく存在できる宗教団体なんてないのだ。
 それをなんと媚中・副島は「宗教は国家体制以前から存在する」などと言う。それは近代国家だけを見て古代国家を想像するから誤解するのであろう。

 佐藤優も、自らクリスチャンだと偉そうに述べているが、私はなんと破廉恥なことを臆面もなく言えるものよと呆れる。何度も言ってきているが、古今東西、世界中に不幸をまき散らしてきたのはキリスト教ではないか。キリスト教だけが原因とは言わないが、歴史上の戦争は、もしキリスト教がなかったら100分の1くらいに減っていたであろう。
 まあそれが10分の1でも1000分の1でもいいのだが、人類の争いのもとを背後から、あるいは表立って仕切ってきたのがキリスト教である。

 日本では戦国時代に、キリスト教のイエズス会は大名たちに、キリスト教を信仰させる名目で近づきながら実際は鉄砲の火薬を売りつけ、代わりに婦女子を奴隷として大量にヨーロッパに連れていったのだ。それはキリスト教がやったのである。信長を暗殺したのもキリスト教徒イエズス会であった。

 こういう宗教を、なんで「宗教の自由は最大限に保障されるべき」などと言えるのか。佐藤は「『自分の信仰が侵されないようにするにはどうしたらよいか』という観点から全部見て、それにマイナスになることにはすべて反対です」とのたまう。バカじゃなかろうか。戦前戦中の日本は国家神道にやや行き過ぎがあったかもしれないが、紀元前から自分ら以外の宗教の自由を絶対に認めてこなかったのはキリスト教ではないか。
 なのにキリスト教は一度たりとも責任をとったことがない!

 端的に言えば、宗教の信仰の前に国家の存立があるのだ。
 ところが国家の枠内にあるべき宗教が、獅子身中の虫のごとくに、政治に介入し、戦争を引き起こし、麻薬の裏ルートになりして暴れるからこそ、政教分離が必要なのである。
 信仰の自由は最大限に保障してはならないのである。国家の存在に支障がない範囲で勝手な妄想を許可されている。
 だから靖国神社も、国家の枠のなかで踊らされる宿命(?)があるのだ。国家と無縁に存在することが許されるわけがない。



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2016年06月17日

白鵬に引退を勧告したい


 大相撲5月場所は白鵬の優勝で幕を閉じたが、白鵬の土俵態度の悪さにはほとほと嫌気がさした。
 彼が大関から横綱になったころは強くて、勝ち方もきれいでファンだったが、今はひどいことになっている。

 場所中、大関・横綱の取り組みはよく見たが、白鵬の勝ち方の汚さは際立っていた。立ち合いはほとんど張り手を相手にかます。あるいは肘打ち。相撲用語では「かち上げ」というらしいし、反則ではないとNHK解説北の富士は言っていたが、とんでもないことだ。
 たしか勢との勝負だったかと思うが、右の肘打ちで、勢がノックアウトされて腰から崩れ落ちた。

 あんなのはプロレスだ。
 下位力士に張り手や肘打ちをするのは、横綱としてふさわしくない。
 解説の舞の海が「白鵬が下位力士にああいうことをするようになったのは、そうしないと勝てなくなったからだろう」と指摘していたが、その通りである。
 まだ十分に第一人者なのに、優勝したいがために“らしくない相撲”を取る。

 モンゴルで鍛えた体躯の蓄えがなくなっている。5月場所で白鵬が張り手や肘打ちをやっていなかったら、全勝はできなかったろうし、稀勢の里が優勝していたかもしれない。相手力士にしてみれば、白鵬とやれば、立ち合いに張られたり肘打ちされたりすると分かっているから、鋭い突っ込みができにくくなる。白鵬はそれを狙っている。

 まっすぐ頭から突っ込んで来る相手の顔を張れば、相手は一瞬クビを横に向けた状態で横綱の胸か頭に激突する。これは頸椎の損傷を招く危険な行為ではないのか。相手力士はクビをへし折られてはたまらないから、突進を控え目にしなければならなくなる。

 朝青龍も白鵬も、モンゴルの草原で乗馬やモンゴル相撲で鍛え、その基本の体力で日本に来て相撲の技を磨いたから、横綱になったことは評価していい。しかし彼らは、日本の風土の体力になると蒙古での遺産は消えてゆく。白鵬も日本の風土で創られて弱くなったのだ。例えばクルマに乗る、エレベータに乗るなど。それで焦って、闘志剥き出しの顔をし、張り手や肘打ちをしなければまずいとなったのである。

 白鵬は千秋楽で鶴竜をうっちゃりで倒したが、勝つには勝ったがいっしょに倒れている。ほかにも上手投げを打ったら自分もコケている相撲があった。稀勢の里を破った一番でも、相手のクビを押さえつけなければ投げが打てない。土台の強靭さがなくなっているから、技が崩れてしまう。

 それに多くの批判を浴びている「ダメ押し」は醜い。なか日だったか、横綱審議委員が見ているときでさえ、相手力士が土俵を割っているのに、土俵下に突き飛ばし、横審の委員が渋い表情をしているのがテレビに映っていた。

 しかし千秋楽後、守屋秀繁委員長は、全勝優勝した横綱・白鵬について「圧倒的な強さだと思う」と評価したうえで、「一部の委員からはダメ押しやかち上げについて『第一人者の自覚を持ってほしい』という意見もあったが、私としては闘争心の表れだと思う」と理解を示した、と報じられた。甘やかすのもいい加減にしろ。
 こいつは相撲の格式や所作、伝統を何もわかっていない。
 それにあの相撲では「圧倒的強さ」とは言えなくなった。他が弱過ぎるだけだ。

 NHKの実況アナウンサーも、白鵬の闘志あふれる相撲、などと褒めそやしていた。アホか。相撲では闘志は内に秘めるものであり、技の見事さを見せるものであって、何をやっても勝てばいいとは言えない。白鵬は双葉山を尊敬しているそうだが、双葉山は汚い相撲は取らず、闘志剥き出しで相手を威圧することはしなかった。

 双葉山は伝説の横綱で、立ち合いは常に受けてたち、相手に頭をつけるなんて平幕相撲は取らなかった。しかも彼は隻眼だったが引退まで誰にも悟らせなかった。みんなが大横綱だと尊敬した。

 大鵬や初代若乃花の時代の相撲は格式があってきれいだった。子供ながらにみんな、力士から勝負の立派なありようを学んだものだ。それが今や白鵬の相撲は子供に見せられない。
 強い横綱ということで、マスゴミがチヤホヤし、部屋の親方も大きな収入源だから厳しく言えず、NHKも「強い強い」とだけ言う。

 白鵬は仕切りの仕方も見苦しい。塩をまくときに、肩の高さから横なぐりに撒いている。日馬富士と鶴竜のモンゴル横綱も同様である。相撲では腕をさげ下から塩を撒くものである。種まきじゃないんだから、派手に塩を撒くべきではない。今の3横綱は伝統無視だ。

 それから最後の仕切りのあと、青房下、赤房下へ塩を取りに行くときの、みっともないへっぴり腰はいったいなんだ。白鵬と日馬富士の二人がやっている。膝を卑屈に曲げて足早にタオルを取りに行く。横綱としての威厳がない。横綱は最高位なんだから、いつでもかかってこいと、堂々かまえて、土俵を睥睨するようでなければならない。あれでは銭湯の三助だ。

 琴奨菊の仕切りの最後の塩を撒く前に「イナバウワー」のごとき体をそらせるパフォーマンスも、見苦しい。観客はやんやの拍手を送っているから、いい気になっているのだろうが、相撲とは関係ないことだから止めるべきである。相撲も今やスポーツだから眉を顰めるほどのことはないのかもしれないが、土俵にあがったらこれから勝負!という前に、隙だらけの格好をして観客の受けを狙うべきではない。

 これは白鵬ではないが、稀勢の里と琴奨菊の二人は、仕切るときの「下がり」がだらしない。ビシッと脚の両側のつけねに束ね、あたかも刀を刺しているかのような佇まいを見せなければならないのに、下がりがあちこちに向いて、下の砂にまで垂れている。
 さがりは儀礼的なものだが、一応は下半身を隠す意味がある。
 さがりは場所ごとに、まっすぐピンと張るように布海苔の溶液に浸けて絞り、乾燥させる。だが琴奨菊はピンと張っていない。さがりがあると動きにくいと思っているのかもしれないが、見苦しい。

 いったい相撲協会は何を指導しているのだ。
 白鵬の懸賞金を行事から受け取るときも、「これみよがし」である。以前は朝青龍の受け取り方が批判されたことがあったが、白鵬は受けとったあと、「やったぞ」「どうだ」と懸賞をわしづかみにして振っている。観客やテレビに映ることを狙っている。日本人は勝っても謙虚でなければいけない。

 モンゴル人の白鵬たちは、相撲はただの格闘技でしかなく、勝ってカネをもらえればいいと考えているのだろう。だから日本人の批判が理不尽にしか思えないはずだ。日本人は、大相撲が興業であることは承知しているが、格式を重んじてきたのだ。相撲はケンカじゃない。先に言ったように、技を見せるものである。

 最近の力士はないようだが、ハワイ出身の曙らは、土俵上で相手としばし睨みあっていた。それを観客が大拍手するようになって、相撲はまたワンランク落ちたのだ。

 日本の大相撲は彼らとマスゴミが勝手に「国技」などと称しているが、もはや誰も「国技」とは思わなくなった。ハワイ出身の力士に日本人力士が勝てなくなり、それからやれブルガリアだのエジプトだの、ただの力自慢ばかりが土俵にあがるようになり、それを寄せ付けない日本人力士はもういない。
 大相撲はとっくに命脈が尽きているのであろう。

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2016年06月16日

人工芝マットは欠かせない


 私の空手道場では、会員に人工芝マットを踏むように推奨している。
 ホームセンターなんかで1枚200円くらいで売っている、緑色した人工芝マット、その裏側を踏む。
 百円均一ショップでも売っているが、やや質が悪い。
 竹踏みでもいいが、私は人工芝の裏側が適当だと思っている。

 内臓に疾患がある人は、相当痛いと思うが、我慢してはじめは1分からでもやって、1回あたり1000回を目安に踏むといい。
 さらに、掌でも人工芝を叩いて刺激している。
 このことは以前にも書いたと思うが、また改めてしるしておきたい。

 もちろん、アスファルト道を裸足で散歩することもやっている。
 仕事を持っている人はたいてい、日常生活のなかでくたびれて、神経が鈍い統括で済んでいる状態だから、空手道場では、その神経をシャキッとさせてから練習しないと、鈍いままで技が創られる(良い技が創られにくい)。練習前にしっかり素足で足踏みをさせている。

 これは南郷学派の措定した〈生命の歴史〉から発見された論理である。
 樹上生活をしていたサルが、なぜヒトになれたかの謎解きがここにある。決して神様がヒトを創ったのではない。

 詳しいことは、南ク継正先生の『なんごうつぐまさが解く 看護学科・心理学科学生のための“夢”講義』(現代社)に書かれている。
 足裏と手のひらを鍛錬したから、サルはアタマがよくなったというのだ。
 ゴリラやチンパンジーなどのサルは今もサルのままで人間になれなかった。犬や猫も人間になれなかった。これが何故かは、誰も解いていない。

 哺乳類のほとんどが四つ足を均等に使っている、昔も今も。人間に進化したサルだけが、手と足をそれぞれ別個に、相対的独立的に使った。そうせざるを得ない状況が、大きくいえば地球の変化によって、創らざるを得なかったのである。
 人間になったサルは、右手と左足というように別個の動きを何百年、何千年とくり返したのである。
 
 犬や猫を見れば、四肢を別個には使えない。それで地球環境に適合しているからだ。
 だから、どうやら、哺乳類動物をサーカスなんかでもし芸を仕込んで四肢を別個に使えるようにしたら、寿命は短くなるそうだ。
 逆に、人間は別個に使わないと寿命が短くなる。現に、狼少女のアマラとカマラは哺乳類として育ったから少女期に死んでいる。

 手を例にすれば、日本人の食事は、左手で茶碗やお椀を持ち、右手で箸を持つ。しかも箸は指先と箸の先端に意識を込めないとうまく使えない。こういう食事のありかただから、頭がよくなった。
 西洋人はナイフ、フォークを使うこともあるが、たいていはスプーンでしゃくって食べていて、左手は遊んでいる。しかもスプーンやフォークは指先の神経が鈍くて済む。だからあまり頭が良くならない。

 若いときに頭をシャキッとさせたいなら、また老いてボケたくなければ、足裏と掌をしっかり鍛え、刺激する毎日を過ごさなければいけない。靴下や靴を履かない時間を持てばいいし、ときどき掌を叩いて刺激するのも良い。それが脳を活性化させる。

 老人ホームなんかでは、とにかく怪我がないように、おとなしくしていてくれだから、老人はどんどんボケる。
 四肢を別個に使う運動をやり、足裏や掌を刺激するように頑張らせれば、ボケを防止できる。
 老人はなにもしないでテレビ漬けになって怠けておいて、大事に大事に介護してほしいとはなんたるわがままか。東北大の川島隆太の提唱する「脳トレ」なんかはいかさまである。

 老人ホームに入ってから、脳トレやリハビリで頑張りましょう、では遅すぎる。若いころから、しっかりした体力を身につけ、健康を維持し、手足の感覚器官を鍛える習慣づけをしておくことだ。

 社会が、老人になって動けなくなったら介護が充実しているから何とかなるにしているから、ますます老人はつけあがる。怠けてしまう。
 あげくに莫大なカネが怠惰な老人のために消えていく。若者が弱年のときから介護保険料を払わされ、それが怠け者で、もうなんの生産性もない老人に消えていく。

 老人が若い頃に働いてがんばってくれたから老後を大事にしてあげなければ、というのは御為倒し(おためごかし)である。今はそれでいいとしても、若い人たちが50年後に老人になったころには介護保険料はもう払底して納めた保険料の半分ももらえないみじめな社会が到来する。老人のために若者の夢がつぶされていく。

 年金もあれはねずみ講である。50年後の保障はあるまい。どんどん支給年齢があがり、支給額も減っているではないか。年金や介護費が足りなくなるからといって消費税を青天井で上げていけば、国民の消費マインドは下がり、いよいよ不景気になって国家はジリ貧である。
 国家を潰さないためには、いずれ老後を年金や介護保険に頼るシステムは大幅に見直さざるを得なくなる。

 本ブログではくり返し述べてきたが、個人の社会保障なんかに未来はない。肝心なのは、国民全員が食えるとか、老後に楽ができるとかではない。あくまで共同体が存続できることだけが大事なのである。マスゴミは国民に甘い幻想を振りまくものではない。
 現実に、難民になったら99%は野垂れ死にである。国家が保護しないからだ。

 シリアでもリビアでも、為政者は個々の国民を救うことは大事ではなく、それぞれの共同体が存続できるよう必死なのである。権力者個人の利益のためという面はあるが、国家論で説くなら、国家は国家を存続させるにふさわしい人間だけを優先して生かす道を選択するからだ。

 だからみじめな、介護士に頼る老後を迎えないよう、今から健康を維持してボケないように努力しなければならない。政治家も官僚も助けてはくれない。




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2016年06月15日

地震と気象の関係


 地震がなぜ起きるかについては、5月6日のブログでちょっと触れたが本当はまだ解明できていない。
 ところが「わからない」では、東大地震研や気象庁が国から補助金を受けられないから、やつらは大風呂敷を広げて、研究は進んでいる、予知も可能になったと嘘をついてきた。
 南海トラフに地震が発生する確立は80%だとかなんとか、適当なことを言って人の不安を煽る。
 占い師と同じゲスである。

 しかし、最近でも中越地震、東日本大震災、熊本大分地震と、みんな外れてきた。無責任で身勝手きわまる。カネだけふんだくれれば、あとは想定外の地震が起きたとか、活断層が日本中にあるんだからいつ大地震が起きても不思議ではなかったんだ、などとうそぶく。
 それをマスゴミが黙って報道してくれる。なんのお咎めもなし。

 どっちもどっち、相も変わらず、誰からも何も言われない発表と報道を目指している。後難がないように、である。東大はこう言っているが、自分はどこも危ないと思うと科学者が述べ、議論を戦わせるならいいが、みんなぬるま湯に漬かっている。これで世の中の病根をえぐって、少しでも暮らしやすい安全な社会にすることなどできようか。

 奴らの行動は既得権益を守ること、それだけが目的である。うそを付こうがトボケようが構わない。それが受験秀才のなれの果て。
 聞けば、東大地震研には、ほかの研究機関の水準をはるかに超える予算が税金からおりるそうだ。だから詐欺行為がやめられない。

 先にも述べたが、プレートテクトニクスは地球の部分的ありようでは考えられるが、大陸プレートと海洋プレートがぶつかりあったり、大陸の下に潜り込もうとしていたりとか言うのは、うそである。
 プレートテクトニクスは、ヴェーゲナーなる研究者が大陸は移動したとの珍説を証明しようと考えられたデッチあげにすぎない。
 元は一つだった大陸が離ればなれになった? 馬鹿言ってんじゃないよ〜♪ 

 そもそも大陸が移動したと思うほうが狂っている。地殻変動で、海の底が持ち上がって陸地になるとか、陸地が陥没して海底になるとかはあっても、大陸が移動するわけがない。ルービックキューブかなにかと勘違いしているんじゃないか。
 例えばサッカーボールの中に水でもいれて、表面の皮を移動させようとしたらどうなる? 壊れるだろうに。地球も同じように、大陸が移動したら地球そのものが壊れる。

 すでに本ブログでは何度も説いてきている。
 2013年4月29日「地震は予知できない」
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/357725901.html
 2013年5月6日「大陸移動説の誤り」(1〜3)
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/359106412.html

 などをご覧いただけたらと思う。詳細に大陸移動説を批判してある。マントルは対流しているなんて、スジの通らぬ与太を信じる奴がいるのにはアタマを抱える。
 これまで説いたことがあるかどうか定かではないけれど、地震と気圧の関係もムシできない。地震やら気象やらは、研究が縦割りで、自分の牙城を守るのに必死の連中がやっている。
 だから地震と気象の関係は結びつけたがらない。地中のことは地中で、大気のことは大気で研究している。

 マスゴミの記者もアホだから、地球全体で考えることができないから、専門家の言うことを後生大事に載せるだけ。
 受験秀才ばかりだから、偉いスジからこれが模範解答だと言われると、それをおちょぼ口して押し頂いて、他に説はないのかとは絶対に思考しない。

 1982年ごろに一時話題になった『富士山大爆発』という新書判の本にあった。著者は相楽正俊。元気象予報官だった。
 彼は1983年9月に富士山が爆発すると“予言”し、週刊誌あたりで騒がれ、結局富士山の噴火は起こらず、馬鹿にされて終わった。大衆向けにセンセーショナルな本にしたのも悪かった。プレートを定説にしたかった東大連中やマスゴミを敵に回して、プレート理論では地震は起きないと提唱したことも嫌われるもとだった。

 しかし、富士山は噴火しなかったが、当時、三原山は噴火した。噴火の場所がややズレただけで、相楽の“予言”は当たらずとも遠からずだった。しかし東大などの地震研究者がこぞって馬鹿にしてたので、陽の目は見なかった。

 相楽はこう書いている。
 「私の長期予報によると、1983年9月10日前後、気温は急激に上昇し、生暖かい風が吹くようになる。これは、太平洋に高気圧が張り出してくるためである。その高気圧は太平洋の海面を強く圧する。海水は海底を押し下げる。海底下のマグマ(液化した溶岩)は、この圧力を受けて日本列島の下へ入り込んでくる。富士山の下へも押し込まれてくる。

 そこへ、台風がやってくるのである。関東、甲信地方に大雨を降らす。富士火口深くしみた大量の雨は、熱いマグマに熱せられて水蒸気になる。たまりにたまった水蒸気は大爆発し、火口を広げ、溶岩が、火山弾が飛び出してくる。低気圧は、地下の構造物を吸い上げるということを忘れてはならない。

 しかし、富士山が爆発する前2、3カ月に必ず予兆がある。それを心得ておけば、被害は最小限に食い止められる。関東直下型地震にしても同じである。
 異常気象は、気候の狂いだけではなく、火山爆発、大地震を伴うことを忘れないでもらいたい。」


 相楽はまたこうした異常気象が生じるのは。太陽の活動と密接に関連していると説いた。
 太陽は、宇宙の天体の配列によって、核爆発によるエネルギー放出が変化する。よく言われる黒点やフレアの変化がそれで見える。太陽の活動が弱まれば、地球の受け取るエネルギーも小さくなる。北極南極の氷が増えたり減ったり、あるいはエルニーニョ現象などもこうした天体のありかたと関連がある。

 異常気象という現象が周期的に起きるのは、太陽と惑星、あるいは太陽と他の恒星との配列、つまり引力と遠心力がある程度周期的に変化するからだと思われる。
 なのに東大地震研のものどもは、頑強にプレート説か、活断層説にだけしがみついているから、アホかというのだ。

 相楽は、「地殻は、火山や地震の前には隆起するのが普通である。地震は、マグマによって隆起した地殻が沈降するときに起きると考えられるし、沈降してしまえばしばらくは安全だ。火山は上昇したマグマが地殻を突き破って噴出するもの」と述べている。
 だから熊本の地震がおさまるのは、近くの沈降が終息してからなのかもしれない。

 地殻が隆起するのは、大気や海水の地殻をおさえつける気圧が軽くなったときに起きやすい。実際、火山付近の気圧が低いときに噴火しやすいというデータはある。
 相楽は触れていなかったと思うが、近くの隆起沈降は、気圧だけではなく、月と太陽との関係も視野にいれなければいけない。
 満月・新月のとき、あるいは大潮のときには海面だけでなく、地面も月の引力で引かれ、地球が弾性変形を起こすのだ。地球は剛体ではなく、弾性的性質や粘弾性的性質を持つからである。

 つまり、地震の原因を単にプレートが沈み込んでとか、活断層が動いてとだけ執着して能事畢れりとするのは、ひとえに東大地震研や気象庁が自分たちの既得権益を守るために、異論を排斥するからである。そういうカネの分捕りあいの醜い嗜慾の犠牲になるのは庶民なのである。




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2016年06月14日

信仰の自由なんか最大限に保障するな


 日本の「歴史」は、東大史学科が決めてきた。大本はユダヤに指示されているとしても。
 明治初期にお雇い外国人のルートヴィッヒ・リースというあまり出来の良くないドイツ人の歴史研究家が、なんにも歴史学のなかった当時のわが国に、勝手に日本を蔑視しながら決めてしまった官許歴史そのままを庶民は教えこまされる。それは同時に天皇家や政権にとって都合のよい歴史なのだ。

 ついでながら、このリースは来日中に日本女性と結婚した。一男四女をもうけたのに、ドイツへ帰国の際には息子の応登(オットー)だけを連れ帰り、妻と娘を捨てた。いけすかないドイツ人だった。

 そのリースの決めた日本史を、サヨクに染まった東大史学科の連中が踏襲し、さらに自虐史観、階級闘争史観の色に染める。
 縄文人は朝鮮半島から渡ってきた弥生人に皆殺しにされ、縄文文化は滅びて、稲作とともに渡来した弥生人によって新生日本が作られたなどと大ウソをついてきたが、近年縄文時代の遺跡が次々に発掘され、縄文時代から稲作があり、人種も交替したわけではないことが知れ渡った。でもまだ東大史学科とその流れの文科省、日教組は認めない。

 媚中・副島隆彦は明治維新がイギリスをバックにした伊藤博文ら長州下級武士によるクーデターだったと言って、ヨーロッパ人が押し付けて、これが世界基準だとされている日本の官許歴史の裏側を、自ら暴いたくせに、在日参政権やら靖国問題になると、一転してヨーロッパ人の言うとおりにしろと言う。

 現在のアメリカは、日本の保守派の靖国参拝の動きを「カルト・オブ・ヤスクニ」という概念にして、押しとどめようとしていると媚中・副島隆彦は見て、だから靖国を「狂信」するなという。靖国をカルトと蔑称する媚中副島の認識の歪み、言語感覚の劣等には嫌悪感以外にない。
 靖国が政治問題になることは好ましい状況ではないにせよ、戦死した人たちやその遺族が、どんな気持ちで靖国に思いを寄せているかを、平然と泥を塗る仕打ちが、「カルト」という罵声であろう。政治批判で靖国に唾を吐きかける前に、どうして日本人の哀しみや感謝のココロにまずは寄り添えないのか。副島は、妻娘を捨てたリースみたいに、いけすかない男である。

 天皇や首相の靖国参拝を実現させようとすれば、中国で市場を獲得しようとしている、たとえばトヨタとかパナソニックとかが儲けられなくなる。
 アメリカは日本を中国に嗾ける(けしかける)という戦略は中止したんだから、日本も欧米人にしたがって、靖国参拝をやめろと言う。「ここが何よりも大事な点」と副島は言っているのだ。
 何もかも経済発展のためには屈服しろってか。

 日本は支那の市場をなくしたら一時的に困ることは確かであるが、だからといって民族のアイデンティティまでかなぐり捨てるだけが正しいはずがない。
 副島隆彦と佐藤優の対談本『小沢革命政権で日本を救え』(日本文芸社)で、副島はこう言っていた。
 「天皇のご意思に従うことを右翼」と言います。本物の右翼であるならば、たとえ、今の天皇が嫌いでも、「昭和天皇のご遺志には従え」ということです。それが私の「A級戦犯合祀反対、靖国神社はもう汚れた論」です。」

 は?なにこれ。天皇の意思にしたがうことが右翼? だれがそんな定義を決めたんだ。リースが、日本は単一民族だと勝手に決めたのとそっくりのムチャぶりである。

 この本は2010年の出版だが、よくこんな恥ずかしい対談を両人はやって、今も売っているもんだ。大外れじゃないか。
 ついでに言うと、日本文芸社は汚い出版社で、「あなたの持っている原稿を応募してくれれば、審査して出版します」との謳い文句で、庶民から原稿を応募させたうえで、出版はできませんが、とても惜しいので、自費出版しませんか、と誘う手口をやる。自費出版の編集料・手数料と書店配布料で稼いでいる。違法ではないものの、そんな出版社から副島と佐藤は自著を出すのだから、それでも有識者かと呆れる。
 
 媚中副島には昭和天皇がまるで無謬で、神聖にして冒すべからずという前提があるようだ。アメリカと裏取引して大東亜戦争の惨禍を引き起こした責任者であるヒロヒトをまったく免罪にして恥じないとは、あきれた男だ。だから天皇崇拝者だと断定できる。

 言わせてもらえば靖国が汚れたのではない、ヒロヒトが日本を汚したのだ。ヒロヒトには靖国をうんぬんする資格はなく、尊重されるべき「意思」なんてものが問題にされること自体がおかしい。

 それにしても、媚中・副島は「戦犯」というそれこそ欧米が事後法で勝手に判断して、敗戦国の指導者や軍人兵士をリンチにしただけの概念を、ごもっともと押し頂く無様さには呆れはてる。少しはパール判事の爪の垢でも煎じて飲め。

 佐藤優は同書で、靖国問題は宗教団体の問題だから、彼らの自治に従えば良く、合祀にも賛成だと述べている。
 「それに対して外部からの意思、特に政治権力からの意思が働くということは、次にはキリスト教にも働くかもしれません。
 その意味では、私は、民主党の石井一参議院議員が主張した、創価学会施設を民主党が監視するという暴論に断固反対します。
 どのような宗教団体が行なうことに関しても、それが他者に危害を加えないかぎり、私はすべては放ったらかしでよい、という考えです。」

 こういうところが、佐藤優の八方美人的な言論の面目躍如で、ソーカにも良い顔をし、靖国神社にも良い顔をし、大衆受けする「権力の介入はいけない、信仰は自由なんだ」みたいなきれいごとを言う。
 古来、宗教が国家と無関係に存在したためしは無い。政教分離は理想であるが、現実はそれを隠れ蓑にして、宗教団体が政治に介入し、権力と一体となり、無辜の民を虐殺し、麻薬と結びついてきた。
 だから政教分離を実現するためには国民の代表たる国会議員が、宗教団体を監視しなければならないのである。

 副島も佐藤に同調して、「私も宗教の自由は徹底的に守れという立場です。宗教は国家体制以前から存在するし、もともと国家体制の枠に入らないものです」ときたもんだ。
 驚くべき無知ではないか。宗教が国家体制の枠に入らないだと?
 社会は国家に覆われて初めて秩序を保たれる。そのうえで国民はしっかり生活できるのだ。宗教も当たり前の話だが、その社会の一部なのである。国家の枠組みに入らない宗教を挙げてみろ、ありゃしないから。

 国家は共同体から発展した秩序である。宗教は共同体に共有される認識であって、太古の昔に個人の心的救済を目的に個人が考え出したわけではない。
 時代が下るに連れて、共同体としての宗教が、個の信仰をも許容するようになっていっただけ。

 国家は他共同体(国家)との対峙で生まれる。だから宗教といえども、国家という「缶詰の缶」に守られている。軍隊や警察と関係なく存在できる宗教団体なんてないのだ。
 それをなんと媚中・副島は「宗教は国家体制以前から存在する」などと言う。それは近代国家だけを見て古代国家を想像するから誤解するのであろう。

 佐藤優も、自らクリスチャンだと偉そうに述べているが、私はなんと破廉恥なことを臆面もなく言えるものよと呆れる。何度も言ってきているが、古今東西、世界中に不幸をまき散らしてきたのはキリスト教ではないか。キリスト教だけが原因とは言わないが、歴史上の戦争は、もしキリスト教がなかったら100分の1くらいに減っていたであろう。
 まあそれが10分の1でも1000分の1でもいいのだが、人類の争いのもとを背後から、あるいは表立って仕切ってきたのがキリスト教である。

 日本では戦国時代に、キリスト教のイエズス会は大名たちに、キリスト教を信仰させる名目で近づきながら実際は鉄砲の火薬を売りつけ、代わりに婦女子を奴隷として大量にヨーロッパに連れていったのだ。それはキリスト教がやったのである。信長を暗殺したのもキリスト教徒イエズス会であった。

 こういう宗教を、なんで「宗教の自由は最大限に保障されるべき」などと言えるのか。佐藤は「『自分の信仰が侵されないようにするにはどうしたらよいか』という観点から全部見て、それにマイナスになることにはすべて反対です」とのたまう。バカじゃなかろうか。戦前戦中の日本は国家神道にやや行き過ぎがあったかもしれないが、紀元前から自分ら以外の宗教の自由を絶対に認めてこなかったのはキリスト教ではないか。
 なのにキリスト教は一度たりとも責任をとったことがない!

 端的に言えば、宗教の信仰の前に国家の存立があるのだ。
 ところが国家の枠内にあるべき宗教が、獅子身中の虫のごとくに、政治に介入し、戦争を引き起こし、麻薬の裏ルートになりして暴れるからこそ、政教分離が必要なのである。
 信仰の自由は最大限に保障してはならないのである。国家の存在に支障がない範囲で勝手な妄想を許可されている。
 だから靖国神社も、国家の枠のなかで踊らされる宿命(?)があるのだ。国家と無縁に存在することが許されるわけがない。



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2016年06月13日

『竹林はるか遠く』と朝鮮人の止めどない蛮行


 『日本人少女ヨーコの戦争体験記 竹林はるか遠く』(ハート出版)を読了。これはブログ「余命三年時事日記」で話題になっていたので購入した。著者はヨーコ・カワシマ・ワトキンズ。戦後アメリカ人と結婚して在米だそうだ。
 今の北朝鮮北部に家族で住んでいた著者の一家が、終戦直後に引き揚げる過程が描かれている。

 満州や朝鮮半島から戦後に引き揚げてくる日本人たちの悲惨な様子は、すでに多くの書が書かれている。引揚者のなかには女優でいえば、有馬稲子、浅丘ルリ子、小林千登勢、松島トモ子らがいる。引き揚げの体験をしたためた人もいた。壮絶なご苦労をされ、なんとか半死半生の体で帰国された方がおられる一方で、現地で殺され行方知れずになった方も多い。

 本書はもとは英語で書かれ(1986年)、その邦訳(2013年)である。アメリカでは学校で副読本に指定され、数々の賞を授賞したとのことだ。
 発刊から20年後、突如、韓国系アメリカ人が猛反発を起こした。それまでは何も問題にしていなかったのに。
 「日本人を被害者にし、長年の日帝侵略が朝鮮人民に対して被害、犠牲、苦痛を与えた歴史を正確に書いていない」「強姦についても写実的に書いており、中学生の読むものにふさわしい本ではない」といったイチャモンをつけて、本を教材からはずす運動をあらゆる手段を使ってやりはじめた、とある。

 さらに在米韓国人どもは著者の父親(シベリア抑留になった)が「七三一部隊にいた戦犯だ」とか「慰安婦を満州に送った悪者」などと、あることないこと言い立て、世界中に広まったそうだ。もちろんウソである。奴らはこうして平気でウソを吐く。

 本書をひもとくと、北朝鮮には終戦直前にソ連軍が卑劣な侵略をはじめ、ソ連に飼われていた朝鮮共産主義者も侵攻してきた。そして彼らは日本人市民を無差別に殺戮し、強姦し、家屋財産を奪ったのである。赤十字の列車でさえ、見境なく攻撃した。あきらかに戦時国際法違反である。
 当時、朝鮮半島は日本だったのであり、合法的に日本人が居住していた。これは敵国であっても住民や捕虜は保護しなければならないのに、ソ連軍と朝鮮共産軍は無視して蹂躙してきた。

 日本人たちは持てるだけの荷物をかかえて、家族ごとに徒歩で、線路を辿って南のソウル(米軍治下)へ逃れようとした。それを共産軍は待ち伏せして片端から殺し、女は強姦した。荷物を奪い、金歯まで抜いていった。
 こうして嗜慾に突っ走るざまは朝鮮人の「面目躍如」であった。
 これが現在の北朝鮮の国民である。

 本書にもあるが、なかには健気に危険を冒して日本人を助けてくれた朝鮮人もいたけれど、この朝鮮人の非道はわれわれの記憶にとどめなければならない。その点で、著者は公平に見ている。

 『竹林(たけばやし)はるか遠く』では、主人公は11歳の子供だった。母親と姉(16歳)の三人で決死の逃避行を続けていく。
 その間、ずっと野宿、食べるものはない。水は川に降りて掬い、着たきり雀。朝鮮人に見つかって女と分かれば強姦は必至だから、頭を坊主にして胸をきつくしばって膨らみを隠した。
 昼間は隠れて眠り、夜中に歩く。

 ソウル(京城)に着いて、やっと治療を受け、駅構内で寝ることができても、誰も食糧はくれないので、米軍が泊まるホテルの裏で残飯を漁る。そこから無蓋列車で釜山まで行き、何日も船待ちをし、その間も港の倉庫なんかに寝泊まりして、ゴミを拾って食べる。日本人引揚者同士でも盗みが発生する。

 命からがら日本(福岡)に帰ってきても、臨時の宿泊所が1カ月しかいられない。食事も配給されない。一家は京都へ行き、そこで落ち着くことになるが、知り合いもおらず、駅舎に浮浪者のように寝起きする。引揚者だからと国や市からの援助はない。当時はボランティアもない。勝手に生きてくれだった。

 国民が呻吟しているのに、ヒロヒトは何をやっていたのだろうか。俺には戦争責任はない、とうそぶいていただけだ。国内でも、ザイニチが暴れ回っていても、拱手傍観していた罪は重いと私は思う。天皇家が海外に隠匿した莫大な資産を困窮する国民に配っていたら、どれほどの人たちが救われただろうか。

 母親が偉いのは、そんな境遇にあっても娘二人に教育は絶対に必要だからと、女学校に入学させる。
 主人公は女学校(中学)に入るが、一人も友達ができない。良家の子女ばかりで苦労をしらないのだ。しかもボロを着て、髪が坊主だったからだイジメにあった。
 カネがなく母親も死んでしまったので、文房具も買えない。そこでゴミ箱からくしゃくしゃになった紙を拾って伸ばし、ちびた鉛筆や辞書も拾って、負けじとがんばるのだ。

 空き缶を拾い、靴みがきをし、手製の「お手玉」を作っては売り、ゴミを漁って食事を確保していく。
 すさまじいサバイバルで、圧倒される。たくましいなあと感動した。

 現在も朝鮮人は、テメエたちは被害者だった、日帝支配は残酷だった、恨みは千年忘れない、ザイニチ特権は当然だ、と言い募る。
 そうやって反日をわめくのは、自らの終戦直後からの蛮行を現代の日本人に知られたくないからである。
 朝鮮半島から引き揚げる日本人を、そして国内の日本人を痛めつけてきた。

 『余命三年時事日記2』では、こう解説してある。その通りだと思う。
 「最初に結論を言えば、韓国人の日本人に対する恐怖心がそのすべてである。特に一世、二世にそれが強い。それはそのはず、彼らは戦後蛮行の当事者であって、戦後隠蔽してきた数々の蛮行がすべての日本人に知れ渡れば当然のこととしてすさまじいリベンジが来ることがわかっているからだ。

 ところが三世ともなると潜在意識が根本的に変わってくる。
 三世以降、つまり、息子や娘、孫等には、自分たちの蛮行を伝えていない。自分たちを正当化するために、事実、歴史をねじ曲げて、日本人を悪者にして対抗しようとしているのだ。
 真実が知られては困る。よって韓国、国家をあげて歴史を捏造し、反日教育をしているというわけだ。これは在日韓国人も全く同様である。」


 ここにある「戦後蛮行」とは、日本本土のザイニチに留まらず、『竹林はるか遠く』にしっかりと描かれている朝鮮半島からの引揚者への容赦ない強奪、殺戮、強姦も含まれるのである。
 加えて、北朝鮮政府による日本人拉致も、彼らがとぼけて被害者を返さないのは、日本人が拉致の実態を知って、復習に燃えることを怖れるからだ。

 5人の拉致被害者は帰ってきたが、彼らが朝鮮の実態を今も語れないのは、まだ残る日本人があちらで残虐な仕打ちを被る可能性が高いからである。

 今やネット社会になり、また「嫌韓本」が書店に並び、フィギュアスケート、サッカー、野球の国際試合で、どれほど韓国人が汚いことをやっているかが、どんどん明るみにでてきた。大きなきっかけになったのは、小泉訪朝によって北の拉致が暴露されてからだった。
 危機感を抱いているザイニチは民団・総連を先頭に、元民主党や共産党に資金援助してまで、既得権益を守り、勝つ拡大しようとしてきている。

 なりふりかまわず、安保法制反対を掲げて、安倍内閣を潰そうと諮っている。安保法案もさることながら、奴らにとっては、それを口実にザイニチ、韓国、北朝鮮に厳しい姿勢をとる安倍内閣を倒せればいいのだ。安保法反対は、ザイニチ特権維持のための隠れ蓑に等しい。
 安保法制反対をわめく輩は、要するに諸悪の根源たるザイニチを擁護していることになる。





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2016年06月12日

天寿堂稲村氏からの指摘


 過食症に関して、天寿堂稲村氏からご指摘がありました。
 私が本文中に、過食症も拒食症と同じく、交感神経が影響していると書いたことについてです。

 「交感神経についての記述が引っ掛かりましたので、一言メールを差し上げようと思いました。
 過食症の行で消化器を統括しているのが交感神経であるかのような記述が見受けられましたが、あそこは副交感神経ではないかと思います。消化吸収を直接に統括しているのは副交感神経です。では交感神経は何をしているのかと言いますと、運動との兼ね合いで消化器の働きを抑える働きをします。ですから精神的な内容から消化器を働かないようにする拒食症の方には交感神経が大きく関与しているとは思いますが、過食症の方はどちらかというと副交感神経の方だと思います。
 過食症と拒食症はメダルの裏表のようなものではないかと思います。つまり、認識の影響で交感神経が副交感神経を異常に押さえつけた反動として、副交感神経が異常亢進して過食症に陥るとか・・・・」

 ご指摘ごもっともです。私自身がまだ交感神経と副交感神経の違い、あるいはホルモンとの関係などがよくわかっていないので、過食症でも交感神経が関わるだろうと推察してしたためたものです。
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2016年06月11日

拒食症・過食症の原因を探る(3/3)


《3》
ご隠居:親が精神病だと子供も精神病になる例が多いだろう。
与太郎:そうですね。遺伝なんでしょ。
ご隠居:違う、違う。精神病は遺伝なんかじゃない。母親が精神病だと、子供も大人になって精神病になることが多いはずだ。それは子供は母親と日常濃厚に関わるからだよ。
 母親のものの感じ方、考え方がどうしても似てしまう。

 それだけではない。食べ物の好みも似てくる。親がつくる食事を食べて子は育つのだから。体は食事でつくられる。脳も神経も身体なんだから、それがもし偏った食事か、少食か多食かでも影響を受ける。母親が野菜嫌いなら子供に野菜を食べさせないだろう。
 それで健康な脳や神経がつくられない。加えて運動の仕方、睡眠の取り方なども、親のやり方を受け継いで行く。命終に至るまで変われない。

 こうして親が精神病だと、その生活過程が、子供の実体(脳と神経)および機能(認識)を歪ませていき、子供も長じて精神病に苦しむ。それがまた孫にも伝わり…と悲劇の連鎖がつづきかねない理由だ。
与太郎:さいですか。じゃあ遺伝じゃないんですね。

 ご隠居:ちょっと話は飛ぶけど、世界中に難民がいるだろう。今はドイツやフランスなどに貧しい難民が百万人も押し寄せている。子供連れも多いそうだ。となると、親も子供もろくな食事が食べられず、睡眠もまともじゃない。運動もできずにテント暮らし。先行きがまったくわからない。これでまともなココロの状態を保てるか?
与太郎:いやあ、それは厳しいでしょうな。体も不調になるし、ココロも歪んでもおかしくないですね。しかも慣れない外国の土地での不安はすさまじいでしょうね。

ご隠居:そうとも。西欧諸国は何万人移民難民を抱え込んだという数字の問題だけではなく、彼ら全員が精神病予備軍になっていくという悲劇がやがて…社会不安を醸成する。
 以前紹介した映画『約束の旅路』は、エチオピアの少年が偽装難民としてイスラエルに渡って暮らしていく話だったが、少年は難民キャンプで過ごしたから、精神病になっていた。イスラエルで保護はされるが、人との正常な交わりができなくなっている。そのあたりが映画ではよく描けていたよ。

 映画では長じてまともになり、医者にまでなる物語なんだが、実際は精神病が克服できるケースは少ないと思う。
 それに、難民は生活がまともじゃない、食事も最低、だからどうしても病気になる。その治療費は、難民を受け入れた国が税金で負担しなければならないから、これからそれが財政を圧迫する。
与太郎:そりゃ大変だ。食い詰めた精神病患者や癌患者があふれ返るわけですね。

ご隠居:昔から、支那は戦乱が絶えなかった。王朝も次々に変わった。農民たちは常に生活を追われて難民になった。それも大量に。
 これは言うなれば先程から説いているように、親も子も実体も認識も不安定のなかに叩きこまれ、精神病になっていくのだ。代々の認識の歪みの連鎖がさらに量質転化して、民族的特徴を形成してしまう。だから、支那人は息をするようにウソをつくと言われるだろう。

与太郎:そうですな。支那人は約束は破る、人は騙す、人のものは俺のものという、虚勢をはる、ズルをする、わがまま勝手。日本に爆買いにくる支那人はマナーゼロですものね。支那ではコンコルドが飛んでいるんだそうで、フランスの模倣で(笑)
 あれは狂人なんですね。だから世界中で嫌われるんだ…。
 
ご隠居:そのとおり。日本人は国土は狭くて難民になれなかったし、難民という「民族大移動」をやらずに済んで、こんなに精神的に穏やかで健全なココロの民になったのはそういう背景もあったと思うよ。
与太郎:じゃあ、アメリカはどうなんで?

ご隠居:あそこも元は難民がヨーロッパから渡って来た国だからな。ピューリタンが新天地を求めて…なんてウソ。民度の低い食い詰めものがほとんど。はじめからウソをついて、不安、疑心暗鬼、劣等感にさいなまれていたのさ。それが原住民を大量に殺戮しつつ、西へ西へと「開拓」していく。開拓ってのは、言葉はかっこいいようだが、難民なんだよ。

 だから、国家は保護してくれない、周囲の仲間だって信じられない、わが身だけが大事、生きて行くには他人から奪わなければならない。野営でろくに食事ができない、睡眠も地べたに寝る有様。西部劇を見ればわかるように、荒野の真ん中にみずぼらしい街を作っては、常に暴力沙汰。

 野菜を栽培するより、肉を喰らっている。彼らは野生のバッファローやリョコウバトを絶滅させるほどに食いつくし、大量のウシを飼っては主食のように食った。栄養バランスが悪い。それに肉ばかり食えば、性格がすぐカッとキレやすくなる。交感神経も正常に成長しない。友人とさえしょっちゅうドツキ合い、戦争を仕掛けて興奮するのが大好き。

 黒人や支那人苦力らを人間として扱わなかった。
 これがまともな人間のココロか? しかもキリスト教というウソで固めた宗教を信じて、現実で認識をまともにしなかった。最も極端なのがアーミッシュで、彼らは現代文明を拒否して、自動車も電気も電話も使わない。半狂人だと思うね。

 難民時代に作った精神病そのもののココロが、代々つづいて民族のものの見方考え方が出来上がった。F・ルーズベルト大統領は、あれは狂人だったと、その前のフーヴァー大統領が証言している。狂人が大統領になっちゃう国なんだ。

 日本を騙して戦争に引きずり込んだのだから、狂人のために私たちはえらい迷惑を被った。アメリカは平気で日本人の婦女子まで空襲と原爆で殺した。
 今のオバマは対人恐怖症だそうだ。そんなトップが精神病なんだから、国民だって歪んでいるし、相互浸透してさらに歪む。ヒラリーやトランプも相当狂っているだろ?

 アメリカは狂人の勢いで西へ西へと侵略していって、ついに太平洋を越え、中東にまで手を伸ばしていったが、その狂気ゆえに社会が立ち行かなくなってしまったのだ。彼らは自らを反省することができない。
 だから、今のアメリカは夥しい数のココロの病いを抱えた人間がいて、膨大なカウンセラーがいる。それはこういう歴史があったからさ。
 カーペンターズのカレンがもし兄に恋していたとしたら、やはりそれはアメリカ社会の歪みが生んだものと言えるかもしれないね。
 アメリカ人には、超肥満体がよくいるだろう。栄養過多の脂肪の取り過ぎもあるだろうが、一種の過食症で大食いがやめられない。つまり精神が病みやすいんだ。

与太郎:う〜む。アメリカに生まれなくて良かった。
ご隠居:それから、与太郎の知り合いの女の子のケースは、その祖母がいけないね。母親のまともな認識で子供を育てず、祖母の歪んだ甘やかす認識で子供を育てちゃいけない。




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2016年06月10日

拒食症・過食症の原因を探る(2/3)


《2》
ご隠居:女の子の場合、子供時代にあれほど好きだったお父さんが、ふとしたことで大嫌いになり、同じテーブルで食事をするのも嫌!という暴走をはじめることもある。思春期の脳細胞の激変のせいだよ。

与太郎:ああ、あっしの娘もそうです。親に反抗するし、嫌うし。あっしが入ったあとの風呂は入りたくないなんて抜かしやがって。
ご隠居:こういう場合に親が、科学的に娘に思春期特有の脳と認識の暴走を説明してあげられればまだ良いが、むずかしいことだね。

 親が思春期の子供の教育に失敗すると、非行に走ったり摂食障害になったりする。
 女の子が突然、尼さんになるとか修道院に入るとか言い出すとしたら、それは好きな人に拒絶されたとか、友達はみんな持てて彼氏がいるのに自分だけいないとか、それで心が傷ついた場合だろうね。

与太郎:へえ、じゃあ修道院に行く女は、みんなブスで持てなかったからってことで?
ご隠居:ブスとは限らないさ。とくに性格が人に嫌われるタイプだとか、親がひど過ぎて家庭そのものに絶望したとかもあり得る。
 普通に成長している子なら、異性との恋を夢見たり、結婚して幸せな家庭を築きたいとか、好きな仕事をやりたいと思うのが健全な社会的認識なのに、あえて恋を断ち、仕事もしない、他人のお恵みだけで半ば死んだような反社会的暮らしを選ぶのは、拒食症と似たココロの構造が生まれたからなんだよ。

与太郎:ご隠居のおっしゃる認識の暴走っていうのが、わかってきました。
ご隠居:さらに付け加えておくと、女の子は男の子に比べると、どうしても親が甘やかしがちだ。かわいければいい、とチヤホヤしてしまう。それで社会性が身に付かない。わがままになる。自分勝手がいい、になりがちだ。自分の認識を社会性ある感情で創るようにしないと、個に執着した暴走が起きてしまうのだ。

与太郎:ご隠居の話は分かったつもりなんですがね。ウチの近所に3歳の女の子がいるんですが、この子がメチャクチャに太っているんですわ。親が心配して、食べるのを控えさせようとするんですが、親の隙を盗んでまで冷蔵庫をかき回して、なんでも食べちゃうんですよ。
 親が叱ると、同居しているおばあちゃんが孫が可哀想だ、食べたいなら食べさせろ、食べさせないのは鬼嫁だと怒るわけです。
 思春期でもないし、恋をしているわけでもないのに、どうして超デブになるんで? 過食症とかって病気ですか?

ご隠居:それは、実体面で言うと、子供が好きなものを勝手に食うから偏食になっている可能性があるし、栄養状態が悪くて交感神経が歪み衰えているせいで、体全体の統括が狂っているのかもしれない。食べ過ぎれば、消化器系は酷使され、消化器も交感神経も疲れ果てるんだ。
 疲れ果てた交感神経は、それが長期に続けば「習い性になる」みたいに、その鈍くなった交感神経の働きが常態になって、そのレベルで消化の統括をやるように量質転化して、大食から戻れなくなる。

 こうなると、いくら気持ちでは大食いはやめたいと思っても、脳細胞も交感神経もそれを正常と思い込んでいるから、もう体がいうことをきかない。認識(機能)の歪みが、神経(実体)の歪みに転化したら大変だ。吃りもはじめはふざけてやってみるとか、人前であがってしまって…と機能レベルでの歪みだったものが、続くうちに実体(口、舌、喉など)が歪んでしまう。

 あるいは、アタマの回転と発音のスピードが合わなくなって、瞬時に描いた像を表現(外化)できないことが技化する。
 こうなると直しようがなくなる。

 認識面で解くならば、幼児の場合は「即自」だからだよ。即自とは、哲学の用語で、自分が自分であることがわかっていない状態、自分と他人との区別がつかないレベルをいう。「対自」とは相手と自分の区別がつくようになったレベルをいう。幼児レベルが即自、三歳くらいから対自的に目覚めていく。さらに、「即自対自」とは、両者、対立物を統一して、「それを踏まえて自分はこうしなければいけない」という場合だ。

与太郎:それとデブとどう関係があるんで?
ご隠居:誰でもそうだが、人間は自分がどうしてもかわいい。幼児なら玩具を独占したい、母親にだけ甘えたいなんてのがそうだ。自己中心。小学生くらいからだんだん「対自」に目覚めていく。人にも自分と同じ欲望があるんだとか、いじめられるとい嫌なんだとかがわかっていく。
 幼児がデブになるとしたら、根本はやはり自分勝手が強すぎることにある。

 ひとえに親に問題があって、子供を「対自」に導いてやれていない。別の言い方をすると、これは観念的自己疎外を育てるにあたって正常ではないということだ。 
 観念的自己疎外とは難しい概念だが、自分のココロ(観念)に自分の分身をつくることだ。

 人間は労働(遊びも子供には労働)を対象化するが、その対象化したものが結果として自分を規制してくる。ものを製造するとか藝術活動も観念の対象化だ。
 やさしく言えば、立派な健康な自分になろうとアタマを働かせればまともな観念的自己疎外になるが、わがままを押し通すとか、親の歪んだ認識で子供が感情や思考を規制してしまえば、超デブになっても止められないとか、キレやすいとかになる。

 アタマのなかにもう一人の自分を創り出して、それで自分の言動を規制するのは、人間の特徴であって、そうでないことはない。その意味では観念的二重化とも自己の他人化とも言い替えることができる。

与太郎:ご隠居、難し過ぎますよ。
ご隠居:学問から解かなければ拒食症や過食症、精神病の謎は解けないからしょうがないんだ。
 その女の子のばあいは、あるいは夫婦間に問題があって、親が子供の教育をいつもイライラしながらやるとか、子供を産むんじゃなかったなどと思いながら子育てしていると、愛されていないことが子供に伝わる。
 言うなれば子供も周囲との協調ができなくなる。

与太郎:へええ、親に問題、なんですか。



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2016年06月09日

拒食症・過食症の原因を探る(1/3)


《1》
 某日、ご隠居と与太郎が近所の喫茶店でコーヒーを飲んでいる。店内にはカーペンターズの「トップオブザワールド」が流れている。

与太郎:この歌手カレン・カーペンターさんは美声でしたね。
ご隠居:そうだな、うまれついて歌手になるべき女性だったという感じだね。
与太郎:32歳で若死にしたのは本当に残念でした。
ご隠居:拒食症だとか。

与太郎:あっしは食うだけが生き甲斐なんで、どうして食べたくなくなるんだか分かりません。しかも食べなければ死んじゃうとわかっているときになっても、食事を拒むって…。
ご隠居:それが認識の恐さだな。認識は希望の星にも悪魔の囁きにもなるんだ。
与太郎:へ? にんしき? 拒食症は低血糖症から起きるって、テレビで解説しているのを見ましたよ。原因はまあさまざまだけど、ダイエットのやりすぎとか、ストレスや家庭環境、成長期の不安などの心の病気だとされているとも言っていました。

ご隠居:低血糖症説は論外だね。もしそうなら、糖を点滴してやれば死に到ることはなかろうに。心の病気というのが一応正解だが、ストレス、家庭環境、不安では一般的すぎる。その中身を言わないと。
与太郎:思春期が圧倒的に多く、それも女性に顕著なんだとか? 若い女の子は「やせ願望」がありますからね、それが嵩じるのかな。

ご隠居:それはそのとおりだが、「やせ願望」程度なら、死に直面してもなお食べない(食べられない)のでは、願望レベルでは説明がつかない。生きる本能さえ失わせるほどの認識の威力とはなんだと。
 たしかに世間が女のデブは不格好だと言うから、それが「もっとやせたい、太りたくない」という思いを抱かせ、過度のダイエットに走る傾向が強くなる「素地」ではあるが、この本質は認識の暴走なのだ。嵩じるというより、暴走というのがふさわしい症状になる。
与太郎:あっしにゃ暴走って言われても分かりませんよ、ご隠居。

ご隠居:じゃあ聞くが、患者の大半が10〜20代の女性なんだが、この時期は「やせたい」願望だけなのか? この年代の特徴はなんだ?
与太郎:そりゃまあ、恋多き年頃ってやつですかね。思春期ですからね。
ご隠居。そう、その思春期がキーワードなんだよ。多くの医者や心理研究家は、南ク継正先生が措定した「思春期の実体と認識の構造」がわかっていない。不勉強の誹りは免れない。
与太郎:じらさないで教えてくださいよ。

ご隠居:では少し説いてやろう。
 過食症、拒食症になるのは、思春期・青春期の若い女性に多く見られる。
 恋人の男性、あるいは片想いの男性、尊敬する男性教師や、音楽やスポーツの男性コーチから、太っていると笑われた場合に、「大変だ、嫌われる」という恐怖に陥りやすい。

 「太っている」と面と向かって言われたのでなくても、彼の目つきや言葉のはしっこで、「なにか私の体型をじろじろ見ている気がする。あの冗談は私のことをバカにしているのかも。もしかして私をデブだと思っているのかしら?」という根拠にない疑問であっても、「自分は太り過ぎだ」との思いが強烈に膨らむ。
 これが拒食症になりえる。

 とりわけ思春期は脳細胞が急激に発達し、男は男に、女は女になる時期で、南郷先生は「大人になりにいく」という絶妙の表現をされた。これは爆発レベルで脳が変化している最中なので、「思い」は強烈に膨らみ、バケモノのように自分の思考を占領してしまう。暴走するのだ。

 せんだって、東京品川区の荏原町駅で、中学2年生の女の子二人が心中のようにして鉄道自殺した事件があったろう。あれも大人ならたいした悩みには思えなくても、思春期だから悩みの像が膨らんで暴走するんだよ。突然、脳細胞が急激な成長を起こす。

 だから、1時間前まで来週の演劇の発表を喜んでいたはずが、突然演劇が大嫌いになって、死にたいと言う感情が膨らむ。あの事件の場合は、おそらく二人ともその思春期の暴走が一緒に来たのだろう。

 過食症の場合も同じで、好意を寄せている人に「君はやせすぎだね」と言われたか、そう思われていると勝手に思い込むかして、「食べなければ大変だ」となる。
 治すのは、一番はその好意を寄せている男性に「君は太っていない」とか「痩せ過ぎじゃない」と言ってもらうことなのだよ。「あるいはスタイルがいいね」とか。拒食の子にいくら食べろと言ってもダメ。

与太郎:カーペンターズは兄妹で活動していましたが、wikipedia を見ると、カレンは自分の体型については太りすぎという固定観念を持っていた。ある日、カレンは兄リチャードに「ねえ、お兄ちゃん。私って太ってる?」と聞いたという。するとリチャードは「あぁ、ちょっとな」とさり気なく答えた。事実、その頃のカレンは平均的な女性と比較してぽっちゃりしていた。その兄の言葉を受けたカレンは、「絶対に痩せてやる!!」と発奮。ダイエットに励むようになったが、それが彼女の寿命を縮める結果となってしまった。とあるんですね。

ご隠居:それだけだと、断定はできないが、カレンは兄を恋人のように慕っていたんだろう。ただの兄貴じゃなかったんだよ。
与太郎:今流れている「トップオブザワールド」は、女性が恋人と出合った歓喜を歌っていますが、カレンにしてみれば兄のことだったのかもしれませんね。
ご隠居:うん、カレンの歌いっぷりは、アメリカ人にしてはとても感情がこもっているよね。同じステージに立って演奏している兄が身近にいる幸福感があったとしてもおかしくはないね。

 与太郎:それって、ご隠居が良く言う「認識は感情で創られる」でしょう? 自分がやせているとか、太っているとかの認識が、好きな人に嫌われたらどうしよう、という感情で強烈に創られるからこそ、変われないんですね?
ご隠居:おお、そのとおりだ。わかってくれて嬉しいね。
与太郎:じゃあ、全部その男に思われたいという切なる感情なんですね。

ご隠居:いやそれはな、異性のからみでない場合もあり得るよ。先に言ったように、女性はふだんからスタイルを過剰に気にする。それがちょうど思春期に目覚めて、スタイルを超超過剰に気にするように脳が暴走することも考えられるな。




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2016年06月08日

新聞書評欄が日本をダメにする


 新聞にはたいてい書評欄がある。週刊誌や月刊誌にも。日にち毎日、夥しい数の書評が出る。
 こんな奇習があるのは日本だけだとか。
 新聞や雑誌に書評が載るのは、本好きな人がそのページを見ては、参考にして本を買うため、とは表向きの理由で、実は出版社の広告を書評の側に掲載して広告料を取るためである。

 毎日新聞でいうと、毎週日曜日に3ページも費やして書評が載るが、その1ページ目は必ず岩波書店の広告がドンと出る。つまり新聞は、岩波書店の広告欲しさに書評を載せる。 
 当然、書評で取り上げる本も、広告主の出版社の新刊が優先される。岩波の本が麗々しく書評に取り上げられる次第である。

 それならそれで、新聞・雑誌が書評欄は半分広告です、と断ればいいのに、ずるく、真面目に良書を取り上げて論じているかのような体裁をとるから、小賢しいったらない。
 ささいなことのようだが、こういうウソ、ごかましが、次第に社会に蔓延し、三菱自動車、タカタのエアバック、東亜建設の羽田空港滑走路データ不正、舛添の公金横領などの道義地を払う事態へとつながっている。

 もう30年も前のことだから、今はどうだかわからないが、都市で配られるタブロイド版夕刊紙にも書評欄があった。わずか百字か二百字でまとまっているものだったが、これはその夕刊紙の書評担当が選んで書いているのではない、と教えられたことがあった。
 本を出した出版社の編集者が、その夕刊紙向けに「書評」を書いて持って行き、掲載してもらっているのだった。

 あたかもその夕刊紙が評しているかのような原稿を書いて、ぴったりの字数で提出する。
 新聞には、「ラテ欄」と称して、ラジオ、テレビの番組表がたいていは最後のページに載っている。そこに、新番組の紹介が載る。あれも新聞社側が書いているのではなく、テレビ局か芸能プロが書いて、「載せてちょうだい」と持って行くにちがいない。絶対に新番組をけなさないから、それと知れる。

 評論家や大学教授らが書く書評は、一見すると真面目そうであるが、あれはいうなれば著述家たちの「帆待ち仕事」である。本業以外の小遣い稼ぎ。大学の給料だけでは贅沢ができないから、せっせとこの手の「帆待ち」で忙しい。読みもしないで本を論じる者もいるやに聞く。それは書評を読むとなんとなくわかる。書評のはずが、自分の意見ばかり書いてあるとか。

 著述家はどこの出版社とも知り合いだったり、友達の友達はみな友達だったりするから、書評を頼まれたらその本の版元に連絡して、梗概を見せてくれとおねだりして、それを入手しては、さも自分が書いたようにデッチあげる。いうなればもう軽業師の所業だ。

 それにこの業界では、批判的書評は好まれない。貶価はご法度。八分は誉めて、二分ほど書評者が著者へ注文をつける程度になる。気持ちが悪い美辞麗句が踊る。
 したがって、業界では売文業者同士の社交と化しているのが、わが国の伝統であるらしい。

 マスゴミは広告をくれる大企業の不祥事や、役所の怠慢などを絶対に報道しないのも、社交場にしているからである。根は同じ。そうやっておいて、新聞各社は「押し紙」という犯罪行為を平然とやってきて、互いに「おぬしも悪よのう、フフフ」と言いあっている。

 人様を貶したら、今度は自分の著作がその憂き目に合わないともかぎらないから、批判は避ける。自分の著作がボロクソに言われない「保険」として、当たり障りなく褒めておくわけだ。
 そのため、書評が批評よりも紹介に重点を置くことになっている。

 昔は平野謙とか谷沢永一のように、真面目に仕事をした人はいたけれど、今はどうか?
 朝日新聞の記者ではあったが、百目鬼恭三郎は筆名「風」で、長年「週刊文春」誌に『風の書評』を書いて、その博覧強記と歯に衣着せぬ舌鋒で、著述家たちを震えあがらせたが。その百目鬼も、朝日の書評で級友だった丸谷才一の小説を絶賛し、江藤淳から仲間褒めだと批判されたから、全面的には信用できなかった。

 先に言ったように、書評は本の紹介の役割を担っているのが実態だから、本を選ぶのに書評を利用しよう、偉い知識人が言うなら確かだろうと思う人は、考え直したほうがよい。
 谷沢永一は「率直でオープンな書評は日本ではほとんど期待できないと考えたほうがいいでしょう」と述べている。

 それにサヨク反日新聞は、左にバイアスが掛かっているから、例えば『余命三年時事日記』なんかはベストセラーになっていても、無視するのである。
 NHKテレビでも中江有里という女優兼作家が、今週の推薦図書なんてことをやっていたが、これも支那や韓国を批判したり、戦前を評価する本などは取り上げない。公器なのに勝手にタブーを作る。

 最後にひとこと。
 南ク継正が有名じゃない、マスゴミに取り上げられない、だから評価するに値しないと言うご仁がいるけれど、それはここまで書いてきたことをご理解いただければもうわかるだろう。
 恐くて新聞雑誌も、評者たちも手が出せないのである。学的レベルが高過ぎて歯がたたない。

 ジャーナリズムや書籍は、評する者と評される者が同業者という世界なので、真っ向勝負の批評などやったことがない、しょせんは「帆待ち仕事」でやっつけだ、でもある。
 南ク継正先生がマスゴミに出るのを避けておられることもあるが、マスゴミは大学や既存出版社などの徒弟制で成り立っているから、誰も取り上げようとは思っていない。

 吉本隆明氏も晩年は書評が良く出たが、若い頃はジャーナリズムから無視された。恐くて手がだせないからだ。





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2016年06月07日

輝ける古墳造成時代(2/2)


《2》
 この四世紀間、日本人はせっせと土木工事に勤しみ、広大な田圃を造り、主食を増産して、人口を増やすことに成功した。土木工事の技術は、道路の建設や巨大王宮の建設に生かされていく。
 近畿地方から地方へ、大きな道路が敷かれていき、これによって中央政権が地方の支配をつつがなく遂行できるようになっていくのだ。

 地方の豪族にまつろわぬ動きがあれば、ただちに軍隊を差し向けることが出来るようにもなっていったろう。中央と地方の連絡も、整備された道路のお陰で早く確実にできるようになっていく。
 それは統一王朝の出現と維持を堅固なものにした。やがて飛鳥時代になって、日本独自の「文化」が花開くのである。仏教は6世紀前半に伝来したようだが、それが寺院や仏像をしっかり造るようになる。

 かねてよりの私の持論だけれど、日本人の脳細胞が幾たびかの戦乱を経ることで、飛翔したのである。例えば源平騒乱のあとの鎌倉時代の文化、南北朝戦乱後の室町文化、戦国時代後の江戸初期の元禄文化といったようにである。戦乱で日本人全体での体軀と認識がシビアな反映を強いられ、磨かれるからであり、戦乱が終息して平和になって、文化的な活動が落ち着いて出来るようになって、一気呵成に独自の文化が花開くのである。

 それにならえば、古墳がしきりに造成された時代、すなわち土木開墾が行なわれた時代は、人々はそれまでやったことのない運動を強いられたのである。強いられたといっても、奴隷の苦役ではなかったから、辛いには辛い労働だとしても、希望があった。これで飢餓に苦しまなくて良くなる、腹一杯飯が食える! との目的があった。

 だから開墾灌漑の工事をしながら、言うなれば楽しく、前向きに捉えながらの労働でもあったはずである。
 これは空手の修行でも言えることで、道場で厳しい練習をするにあたって、嫌々やれば上達はしないし、五感器官が鍛えられることでアタマは良くならない。
 よしんばどんなに肉体的にしんどい練習であっても、喜んでやれば、上達も早いし、アタマも良くなる。

 空手の達人になる修行では、たとえばモッコを担いで山を造り、足で踏み固め、さらに土を盛っていく。あるいは一抱えもあるような樹木を素手で引っこ抜く。巨木を担いで移動させる。こういう修練をわが流派が行なっていることは、学問誌『学城』をひもといている方なら、承知しておられるだろう。

 辛い労働でも夢をもって、前向きにやればすばらしい成果があがる。それまでやったことのない運動と、五感の反映で、人々は体力がつくだけでなく、アタマも飛躍的に良くなったのである。
 これは戦争とは違うけれど、それまでの日本人がやったことのない労働だったのである。人民が総動員されて、広大無辺の土地を、重機もないのに森の木を引き抜き、薮を払い、真っ平らにならし、モッコを担いで山を築いていく運動が、すさまじく手足の感覚器官を鍛え上げていった。

 神経は躍動的に動かされ、その元締めの脳も画期的に揺さぶられた。
 そのうえに、食事が充実していったから、実体への栄養も行き渡った。食事が重労働をも可能にした。
 認識は感情で創られるのである。感情(機能)をはぐくむためには、五感器官の実体が立派にならなければならない。五感器官を喜んで駆使する労働と、栄養がとれたことで、その感情のレベルが見事になっていった。

 さらに言えば、この土木工事によって、われらの先祖は、技術というものが生活を豊かにし、国を富ませ、強くすることを学習したはずである。
 例に挙げるのは悪いけれど、アフリカとか東南アジアとかでは、日本人のようないわば「技術信仰」とでもいうような、向上心はついに生まれなかった。後進国の奥地はまるで縄文時代が今日まで続いているような案配であったではないか。テレビのドキュメント番組で見たが、インドネシア奥地の山村では、カマドすら作る知恵が生まれなかったのだ。

 カマドと、ただ石ころを組んだだけの焚き火では、煮炊きするための火力に大きな差がでる。焚き火では火力が得られないから、いきおい森林から大量の薪を伐採してこなければならず、結局ハゲ山となり、砂漠化していく。人々の生活がいよいよ困窮していった。
 暗澹たる厭悪が何千年と続くまま。

 日本では技術が誕生したのである。今日も、「技術立国」とか「技術大国」と自他ともに許すこの実力は、世界を圧倒している。その曙がこの時代だったのではあるまいか。
 仁徳天皇一人の功績ではないけれど、彼が技術立国日本の礎を創ったと言っても良いのではなかろうか。

 国が富むことで、わが国は支那や朝鮮からの侵略にも耐える実力もいっそう付いたことだろう。開墾工事をみんなで力をあわせてやることで、団結力ができてきたこともあっただろう。
 もしかすると、みんなで力をあわせることの経験から、「和」の大事性が強く認識されるようになったのではなかったか。
 聖徳太子の「十七条憲法」ができるのは、ちょうど古墳の造成=開墾が終わりつつある頃だった。

 「和をもって尊しとする」とは聖徳太子一人の思いつきではなく、あの憲法が発想され、また受け入れることのできる「社会的共通認識」が育っていたから成立したのである。ここからも、どれほど日本人全体のアタマが良くなっていたかの証拠が見てとれる。



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2016年06月06日

輝ける古墳造成時代(1/2)


《1》
 「古墳時代」とは妙な呼称である。
 一応、三世紀半ばから七世紀末頃までの約400年間を指す。旧石器時代、縄文時代、弥生時代、の後に古墳時代が来て、次に飛鳥時代、そして奈良時代へと連なる。この時代は国内にも支那の歴史文献にも倭国の記述がなく詳細を把握できないため、「空白の四世紀」と呼ばれている。
 
 支那から(無礼にも)倭国と呼ばれたヤマト王朝の勢力が拡大し、王権が強化統一されていった時代である。この時代の末期に「日本国」を名乗ったもののようである。
 私の子供のころ教わったときは、大和時代と呼ばれたが、最近では一般的でなくなってきているらしい。われら日本史の最初の英雄、仁徳天皇(第16代天皇 4世紀後半)はこの時代である。王朝が成立しているのに、王朝を時代名にしないって何? サヨクの差し金か?

 だいたいこのころに、ヤマト王朝が北海道東北を除いて全国統一政権が樹立したと考えられている。
 古墳がしきりに造られた時代も、その数や規模はいわゆる正規分布を描き、中期ごろに多くなって巨大化したが、後期には数も減って小さくなっている。これは何を物語るのか。

 歴史学会では、古墳はずばり天皇・皇族や地方豪族の墓だとされる。天皇や地方豪族が、人民を搾取し強権をふるって奴隷として酷使して、自らの権勢を後世に残すために大きな墓を建てたのだと、学校でも教わった。これは一つにはエジプトのピラミッド建設の解釈を模倣しているやに想像する。
 ピラミッドの場合は、奴隷を使役して王が墓を造るため、石材を積み上げさせたのだと解かれてきたが、それがウソで、実は山を崩して造ったものだと解明されている。

 古墳は、どこを見ても平らな土地に土を盛って造ってある。人工的な盛り土だ。もしも天皇や豪族の墓だとするなら、いったいその膨大な量の土砂はどこからどうやって運んできたのか。
 墓にするなら、自然の小高い丘にでも埋葬すれば十分なのに、なぜわざわざ平地に造らせたのか、はなはだ疑問である。

 古墳の周囲は平地だから、現在は住宅街か田んぼが広がっている。造られた当時も、田んぼか畑だったはずである。
 ここから、日本歴史学会の定説にぼちぼち異議が唱えられている。
 稲作は縄文前期には日本にあった。弥生時代に〈弥生人〉が渡来して持ち込んだのではない。ずっと小規模の水田で、河川や湖のそばにあっただけである。菜畑遺跡(佐賀県唐津市)を見れば明らかだ。

 それが古墳が造られる時代になると、かなり大規模化した水田が登場する。そして当然、稲の収穫量も飛躍的に増えている。
 これは大規模な灌漑工事が行なわれたことを指している。
 本来、自然の土地は起伏があって当たり前である。河口付近は土砂の堆積で平地が多いが、太古から手つかずの自然ならば、大なり小なり土地は真っ平らではない。

 そこを開墾して平らにならし、水田にする工事をすれば、大量の土砂が出る。灌漑だから、水路も確保しなければならず、また溜め池も掘らねばならない。どうしても掘った土砂を捨てなければならない。
 これからリニア中央新幹線の大工事が始まるようだが、アルプス山脈にトンネルを掘るから、すさまじい量の土砂が出て、その処理をどうするかが大問題になっている。
 と、同じように、往時も土砂の処理は考えねばならなかった。
 それで土砂を集めて、盛り土にし、古墳にしたのである。

 この説を聞いたときには感嘆した。そうだよな、と。
 古墳は各地にあるが、とりわけ近畿地方に多い。それはつまりヤマト朝廷が近畿で勃興し、強大な権力となったからである。そして大阪平野や奈良盆地などを灌漑して、余った土砂を小山にした。
 それによって、民は米がたらふく食べられるようになり、人口も増え、国家が隆盛していったのである。
 
 したがってサヨク史家が言うように、天皇や豪族が人民を奴隷としてこきつかって、見栄や私欲で墓を造らせたわけがない。
 みんなが食べられるようになり、食糧をめぐっての争いも減って、平和になって、どれほど人民が幸せになったか。
 仁徳天皇陵も灌漑で盛り土したところに、家来や人民が天皇は偉大な方だったとの感謝を込め、また死後も魂としてみんなを見守ってほしいと願って、その盛り土を利用して陵墓にした、というわけだった。結果として陵墓になったのだ。

 おそらく仁徳さんの有名な逸話、「民の竃は賑わいにけり」は、こうした土木工事に敏腕を振るった天皇を偲んでの「神話」になったのではないだろうか。
 サヨク史家どもはいつも階級闘争史観を展開し、王権は絶対悪で、善良な人民を収奪し虐げたことにするけれども、支那や朝鮮ではあるまいし、「やらずぶったくり」の極端な苛斂誅求は行なわれなかった。

 もし、天皇や豪族が、人民の膏血をしぼりに搾る圧政をしていたなら、飛鳥、奈良、平安の時代の仏像が、どれもみんな穏やかな、慈愛に満ちた表情になるだろうか。これは直接の証拠だと言うつもりはないが、いにしえの人々の認識一般がそれら仏像の表情に、滲み出るはずではないか。

 要するに「空白の四世紀」とは、全国的に開墾、灌漑が盛んに行なわれ、米の収量が飛躍的に伸びた時期である。やはり「大和時代」の呼称のほうが良いだろう。
 七世紀末ごろに古墳の建設が行なわれなくなるのは、そうした古式の灌漑工事をやらずに済むようになったからだ。
 多くの土地が開墾され、土地が平らにされ、水路も発達していたから、新たに荒れ地を開墾しても、土砂は水路を利用して船でどこか(海?)に運んだり、大規模な堤防を造るのに利用されるようになったと言われている。

 実際、明らかに古い盛り土で古墳なのに、豪族の埋葬品もなく、墓とは言えないものが多いことが、古墳建設の目的が墓ではなかったことを示している。

 前方後円墳とか、形がいくつかパターンがあるが、それは盛り土が雨などで崩れないために固めたからだという。盛り土が崩れないよう、出来上がるまでは板で囲いをし、さらに周囲に溝を掘って、崩落に備えたので、仁徳陵のような巨大古墳には堀がある。
 盗掘を防ぐため、といいうより、土砂の固定のほうが大事だった。



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2016年06月05日

北海道、少年行方不明事件 補足


 このseesaaブログではコメントが弾かれることが多々あります。皆様にご迷惑をかけて申し訳なく存じます。
 以前申し上げましたが、もう一つ「バックアップ心に青雲」を開設してありますので、こちらがダメならバックアップのほうからコメントを投稿していただけませんでしょうか。
 お手数で恐縮です。
http://blog.livedoor.jp/hienkouhou/


 昨日書いたことに若干の補足。
 父親の言うことが事実だとすれば、との但し書きが必要だが、世間では「この親にしてこの子あり」と言う。子供が他人やクルマに石を投げる行為をし、それを親が叱ってもなお止めない。ついには子の反抗的態度に頭に来て、山中にクルマから降ろして置き去りにした。

 この親子の行為について、みんな、とにかく行方不明になったから…と咎めだてはしていないが、誰もが納得はしなかったろう。
 いかにも、つい行き過ぎた折檻や躾は親ならたいてい経験はあるだろう。だからまあそんなところだろうと思っている。
 しかし、親子の振る舞いは、やや常軌を逸している。

 あの親子は、どちらもやや異常である。子供は親の鏡である。親が異常だから子にもそれが現れる。それは遺伝するのではない。親の認識がおかしければ育て方が歪む、それで教育される子供も強く影響を受けないわけにいかない。

 人間は性格を親から生まれつきで受け継ぐのではない。人間は親や教師に教育された内容で自分自身となる。人間は親と子の共同作業で創られる。
 普通の子なら、おそらく親に叱られてクルマから降ろされても、その場で泣きわめき続けるだろうに、あの少年はさっさと見知らぬ方向へ歩き出した。置き去りにされたら直ちに行動している。これは異常ではないのか?

 そういう子供の勝手な行動は、親の教育によるのである。親が少年にもっと山奥へ行けと命じたのではないが、異常な行動をとるにはとるだけの親の変な認識があっただろうと思う。

 すなわち、向後の少年の生育をまともたらしめるためには、親の再教育が必要である。おそらく二度とどこかに子供を置き去りにすることはやるまいが、素直ならざる少年を創った、その親の考え方を直さないと、あの少年は気の毒な人生を送ることになりかねない。

 たぶんカウンセラーらは少年のトラウマを心配するだろうが、少年と親にいかなる働きかけをするかが最重要なのである。




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2016年06月04日

北海道で救出された大和君のこれから



 北海道七飯町の林道で行方不明となっていた小学2年の田野岡大和君が、7日目の3日朝に鹿部町の陸上自衛隊駒ケ岳演習場内で保護された。親に置きざりにされた地点から6〜7キロも独りで歩いて、水だけ飲んで生きながらえたそうだ。
 日本中が安堵しただろう。

 さて、毎日新聞の3日夕刊には、専門家の見解として、長野県山岳遭難防止対策協議会講師・丸山晴弘という人物のコメントが掲載されていた。
 「成人が水だけ飲んで何日もしのいだ例はあるが、子供ではあまり聴いたことがない」「水を得られたことと風をしのげたことが大きかったのではないか。人間は、風で体温を奪われると低体温症になってしまう。小さい子がよく耐えた」と述べている。

 医者もこんな感想だろう。たしかに割合元気で瀕死の重態ではなく発見されて、ひと安心ではあったが、たぶん医者が着目していない問題があると思われるので、それに少々言及しておきたい。
 それは神経の問題である。

 少年はそうとう怖い思いをしたはずである。親に見捨てられ、空腹で寒いなか、真っ暗闇の世界で6日間も過ごしたのだ。その恐怖や不安は想像を絶するものだったにちがいない。
 そうした超度級の恐怖を味わうと、神経はどうなるかである。
 よく山で遭難して救助された人が、何日間か寒さや空腹のなかでとてつもない恐怖を味わったあと、胃の穴があいたという話を聞くことがある。

 これは神経が強烈に働かされて胃に傷害が起きたのである。
 大人でもそうであるから、子供ではどれほどの神経の衰弱があったか。
 神経とは実体であり機能であるが、本来的には実体も機能も五感器官とともに鍛えておかなければいけないものだが、まだ7歳の子供となると、しっかりしているとは言えまい。

 神経の情報伝達は電気的に行なわれる。つまり通電力があるわけで、普段の生活なら少々の悲しいことや怖いことがあっても、保護者の親がいるし、すぐそうした感情はおさまるだろうし、オオゴトにはならない。
 しかし今回の事件のケースでは、先にも言ったように超度級の恐怖に襲われたはずで、それも死に直結するほどのものが連日続いたのだ。

 神経は五感器官を通して強烈な反映にさらされるばかりでなく、内界すなわち心の中でも恐怖や不安を自分で反映させ、増幅させただろう。
 反映は巨大だが、神経の実体が子供だから弱いのだ。
 神経の通電力はそれに耐えきれたかどうか。とりわけ怖い思いは強烈な電流となる。いわゆる電線も強烈な電流電圧にさらされると、耐えられないで破棄される。

 この神経の状態を果たして医師や親が見てとって、十分なケアができるかどうかである。
 少年はおそらく、毎晩怖い夢を見ていただろうと思われる。空腹で実体に栄養が行き渡っていないところへ、もともと子供だから神経の実体と機能が万全でない。それゆえ夢は怖い夢にならざるを得ない。

 戦場の兵士とか、死刑囚が処刑される前とか、ヤクザに絡まれたとか、そんなときに失禁する話はよく聞く。有名なところでは、マッカーサーが厚木の飛行場に降り立つときに、日本軍に襲撃される恐怖で失禁していたことが写真で明らかにされている。
 これは反映の強烈さで神経の働き(機能)が強烈に働きすぎて、神経はその他の実体が耐えられない状態になったということだ。

 つまり、体力は神経にもあるのであって、神経体力が限界を超えた場合に、恐怖で失禁することにもなる。
 少年がどうだったかは分からない、発表もされないだろうが、6日間、昼も夜も恐怖と不安にさらされたのだから、神経自体の体力が限界を超え、その他臓器などもガタガタにされたに違いない。

 医師は少年が、体温、血圧、食欲、血糖値などが正常に戻れば退院させるだろうし、そうするよりないけれど、少年の神経がどこまで正常に戻れるかは見てとれるかどうか。
 
 自閉症は、2歳くらいの子に限って発症するわけだが、あれも今回のような恐怖を幼児が味わうことによる。たいていは親が子供にとんでもない恐怖を味わわせたからだが、親は責任逃れをするし、子供にはむろん記憶もなく、何が原因で自閉症になったかわからないままなのである。恐怖が原因で外界の反映を拒絶し、内界の楽しかった思い出だけに浸ってしまい認識の自己完結というべき事態になっているのだ。

 今回の少年は、もう7歳だから、自閉症にはなりようがないけれど、いったんすり込まれた強烈な記憶が、夢のなかで反復され、ボロボロになった神経の体力が阻害されて、今後も少年を苦しめることになるだろう。まことに可哀想でならない。
 どれほど親や教師らが、手厚いケアで、五感器官と神経の実体と機能を正常に、かつ体力をつけるよう導いてあげなければならないか、である。

 父親は少年に「つらい思いをさせて、ごめんな」と言ったとか。それはそれとして、大事なのは今後である。こんなことは二度とごめんだと親も思うだろうから、ややもすれば甘やかしがちになりかねない。厳しい鍛錬などは手控えることにもなろう。例えばボーイスカウトでのキャンプなんかはやらせられなくなる。
 それではいけないが…。

 それに、少年は末っ子なうえに相当わがままに育っている様子で、親のいうことを聞かないから体罰で置き去りにされたほどだ。これは親の教育がかなりおかしいからである。なにがしか障碍がある子なのかもしれないが、これから親は子供のわがままにあまり強く出られない可能性が高い。
 今までより、親身に、どう教育するのが正しいのかを親が勉強して努力できるかどうかが鍵になる。

 それから、神経の実体を見事にする食事も考えなければならない。どんな食べものがいいかは、ここでは書かないが、ローマ帝国がゲルマン民族によって滅ぼされたのは何故かが一つのヒントとだけ言っておこう。ゲルマン人が主食にしていた食物こそが、彼らの神経の実体を見事にしたから、ローマを倒せたのだ。




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2016年06月03日

変わりたくない自分の感情


 松下幸之助が「鳴かぬなら それもまたよし ホトトギス」と詠んだそうだ。こういうのを偽善者という。パナソニックはあくどいことをやってまで会社を発展させてきたし、「松下政経塾」をつくってろくでもない元民主党の政治家を量産した。
 その二枚舌の松下幸之助を、媚中副島隆彦は「PHP」から本を出してもらったときに誉めちぎり、これ以上ないおべんちゃらを言った男だった。

 松下幸之助は、あくどい商売をやりながら、こういう善人ぶったお為ごかしを言っただけで、それを見抜けないほうがどうかしている。衒いもいいところじゃないか。「まねした電気」とバカにされたものだった。昔は上流から中流の家庭は、松下電機の家電は置かなかったものだ。恥だったのだ。松下が下流向けの家電を大量生産して、あまねく「家電3種の神器」が行き渡った功績はあるけれど。

 今の自分では嫌だ、これではダメだと思って努力しようとする人がいる。逆にそんな必要はない、自分は自分なりで良い、あるいは人は人なりで良く、人生なにも無理に努力しなくてもそれぞれを認めれば良いとする人がいる。
 後者の考え方を端的に表現したのが、冒頭の“駄句”であろうか。

 最近、一つのテーマで本ブログは書いてきているが、それは認識は感情で創られる、である。
 自己変革を望む人はいるだろうが、自己を変革したいなら、変えたくないという自分の感情を抑えなければ変えられない。
 認識は変えられると誰もが思っていようが、ところがどっこい、認識の変革を張り付いている感情がじゃまして変われない。

 「今日のランチはとんかつにしよう」と思っていたが、やっぱりカレーを食べよう、という程度なら認識は変えられるけれど、もっと根源的な性格とか思想とか、志とかになると、おいそれとは…になる。
 何度も書いてきたが、アル中とかギャンブル依存とかは、止めようと「思う」ことはできても、「変えたくない自分の感情」は、盤根が地中深く張っているように、脱却できないのである。

 端的には、自分は心底バカだという感情になり切らなければ、変われるわけがない。アル中にしてもギャンブル依存、薬物依存も自分は感情で心底「おれはバカなんだ」とは思っていないのだ。なかにはギャンブルをやめられない自分を「僕の病気だから」と屁理屈を言うやつがいる。「病気がある」と思っている愚か者だ。

 だから「今の自分では嫌だ、立派になりたい」と思っても、人はなかなかにして変わることができない。なにしろ人生、20年、30年とやってきて、それなりの自分だという感情があるのだから、今の自分が嫌だとはいいながらも、やはり自分がかわいい感情が勝つのである。バカだとは思いたくない。

 自分はバカだという感情からは出発できないものだ。量質転化してしまったからだ。今の自分を半ば肯定し、さらに良くなればいいのだと思いたいのである。あるいはちょっと酒が好きなだけ、ギャンブルはいつでも止められる、と言い訳する。
 女の人でいえば、着ている服はまあ満足しているが、化粧がどうも嫌だとか、イヤリングが似合わないわ、という程度の認識がこれである。だから決死の覚悟で自分の感情を変えようとは思わない。
 
 そもそも赤ん坊のときから、自分が何を反映し、何を問いかけて、あげくに現在の性格とか志というほどのものが「感情」と直接に出来上がっているかを見ようともしない。だから変わりたいなあと思いつつも、蛮勇をふるって変われないのだ。

 結局、変われないものだから、人は自分をごまかして幸之助みたいに「鳴かぬなら それもまたよし ホトトギス」でいいではないかと開き直る。
 そしてそのダメな自分を肯定してくれる恋人を探し、受け入れ、あるいはそのレベルの本とか文章とかを読んでは満足する。
 人様のブログにちょっかい出して、悪意ある誹謗中傷を するのは、誰かにかまってほしいだけのさもしい人間だ。人の意見を嘲笑できれば、自分が肯定できる気分を味わえるのだろう。

 こういう人は大志とは何かがわかっていない。
 または目的とは何かもわかっていない。
 といえば、知っていますよそれくらいと反発されようが、それは辞書の意味でわかっているだけのことである。

 大志を持っていなければ、自分の目指した目的は決して達成できないという構造がある。いかほどのレベルの大志を持っているかで、基本というべきスケールや、出来上がりが違って来る(決まってくる)。

 「それもまたよし ホトトギス」とは、妥協である。
 ある妥協をすれば、必ずその妥協レベルでその人は創られてしまう。ある人が、ブログにはじめから悪意でコメントをしてくる人にまともに論争を受けてたっているから、「朱に交われば赤くなりますよ」と忠告したことがあったが、「先輩だから」と答えが返ってきたのには仰天した。
 人は妥協のレベルで落ちるのに例外はない。なぜそうなるか。

 たとえば最初はこれくらいいいじゃないか、と思う。次にはその「これくらい…」が重なる。
 私も人のことは言えないが、みなさん自身青ざめるレベルで思い起こされるのではないか? 別に誰もが高い志をもたなくたっていいじゃない、という人は青ざめることはないだろう。
 
 老人のボケを例にとってみよう。最初は動かないレベル。次は動けないレベル。最後は動こうともしないレベル。こうなって人生終わるのだ。最初の「動かないレベル」で維持することはできない。これが弁証法である。自分の怠惰、妥協が、自分自身と相互浸透し、量質転化してゆく。目的達成の過程である。多くの人が身を以て実感できるであろう。

 もう一つ例を挙げようか。性同一性障害とやらである。
 ここに女の子がいるとする。最初は男の子に憧れるレベル(動かないレベル)。なぜなら周囲(親や教師)に同性として唾棄すべき日常を送る人がいて、絶対にあんな女になりたくないと思っている。それが思春期と重なって、思いが強烈に膨らんで、女性になれなくなるレベルになる(動けないレベル)。
 その思い(女性になれなくてもいいと)を認めてくれる周囲が現れ、最後は「動こうともしないレベル」すなわち、女には戻ろうにも戻れないレベルに完成する。

 こうやって自分で自分を「病気」にするのである。
 こうなるのも、一つには、自分は立派な女性になるのだという志を持ち損ねるからだ。女性が立派な女性に、男性が立派な男性になるのは、自然成長性ではない。目的意識的に(レベルの差はあれど)自分を育てるからである。
 自分が女であれば、女になる目的をどう捉えるかがなければならない。そうでないから、女は40歳、50歳になると、ただのグータラおばさんになってしまう。自然成長性のままに、妥協してもそれもまた良し、とする生活するからである。

 これは先に指摘したように、すべては妥協、妥協、そしてまた妥協の産物である。妥協すれば、人間は必ず落ちる。
 なぜかなら、人間だからである。動物は生まれて本能のままに生きて、死んで行ける。人間はそうはいかない。歴史性を持たねば必ず堕落する。認識的実在だからである。

 村上春樹の『羊をめぐる冒険』では、要するに能力はある(?)が何もしたくない、なんでもない自分がいい、という考え方を批判したことがある。

 村上の小説がバカ売れするのは、ダメな自分、妥協したい自分を彼が肯定してくれるからだろう。
 たしかに誰もが自転車をこいでいるわけではない。それでも犬やネコなみに生きて行くことはできるだろう。それで良いという人に、言うべきことはなにもない。
  だが人生に挫折や苦難はつきもので、必ず苦しい時期はやってくる。艱難をダメ自分を肯定している人が果たして乗り越えられるだろうか。

 目的的人生をめざし、苦難に耐え抜くという、いわば根性を創っておくとは、苦難に耐える認識をして脳細胞を「苦難に耐える」プログラムに変えておくことなのだ。そうしておけば、仮に老人になって、認識力が落ちてきたとしても、今度は脳細胞のほうがシャッキっとしてくれるのである。
 志を抱いて目的意識的に生きることは楽ではない。これまでの甘えた自分を捨てて、地獄に飛び込むことなのである。しかし、そういう闘魂を創ってこなかった人は、飼われたヒツジで満足するしかない。



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2016年06月02日

なぜ庶民の暮らしは貧寒になるのか(2/2)


《2》
 庶民は一向に生活が楽にならない。それが大方の実感である。夫婦は共稼ぎをしないと食っていけない。子供とふれあう時間が激減して、悪い影響が出る。こんなに働いているのに、将来に夢が持てない。こんな状態で消費税を10%に上げるとは、庶民に死ね、買い物はするなと言うに等しい。
 昨日、安倍首相が消費増税延期を表明したことは大変良かった。
 
 日本人は真面目に働き、謙虚で誠実で、貯蓄もし、技術も世界最高を持ち、積み上げてきた資産もインフラもあるのに、なぜ豊かになっていないか。他国と比較すれば悪いとは言えまいが、本当はもっと豊かになっているはずがそうなっていない。
 それがこれまで見てきたように、大きくは役人天国のせいである。役人どもの陰謀を本来ならメディアが穿ちを言うべきを、たらし込まれて沈黙している。

 もう一つには外国に湯水のようにカネを吸い取られるからだ。もしもっと自分たちで稼いだカネを自分たちで使えていたなら、例えば震災においても、地震に強い家やインフラが整備できていて、被害ははるかに少なくてすんだはずである。
 各地の病院もカネ儲け一辺倒に走らずに済んだかもしれない。

 ところが自国でカネは使えずに、国連分担金、アメリカ国債、支那へのODA、韓国への莫大な援助、北朝鮮への送金、世界中のあちこちへのカネがカツアゲされ、際限なく出ていく。
 国連には日本が最大の分担金を支払っている。一位はアメリカのはずが、なんだかんだとアメリカは払わないでいるから、日本がダントツになっちゃっている。

 国連にカネを召し上げられたあげくに、常任理事国にはしてもらえず、敵国条項は残り、やれ「従軍慰安婦」だの「性奴隷」だのとウソを言い立てられ、報道の自由がないの、皇室は男女差別だの、女性の人権がないのと、デタラメを言われるばかり。
 さらにはユネスコ、ユニセフとカネはふんだくられる。ああいうところに寄付する人の気持ちがわからない。余裕があるんだろうが、盗人に追い銭じゃないか。

 ユネスコやユニセフに対応するための組織が日本に必要ということで、これまた特殊法人、公益法人がつくられ、役人が天下り、その子弟がやすやすと就職する(まったく働かない)。国民に善意を強要するくせに、自分たち役人は無報酬では働かない。役人の子弟が公益法人や特殊法人に就職したら、選挙権は剥奪すべきである。ついでに言えば、選挙権年齢を18歳まで下げたのなら、70歳以上の高齢者から選挙権は取り上げたほうがいい。選挙は未来を担う若者の声を生かすべきだ。
 震災が起きるとボランティアの人がどっと手伝いに行くのは、良いのだが、公益法人や特殊法人に勤めている連中は、閑を持て余しているんだから、そういうクズを強制的に片付けに行かせればいいのにと思う。

 日本を敵国としている支那や韓国になんで莫大なカネをくれてやるんだ? まったく理屈が通らない。

 アメリカ国債を買うのは、日本を核の傘で一応護ってくれている見返りだとも言えようが、それにしても莫大である。これはアメリカに貸し付けていると言っても、どうせ返ってこないだろうから、差し上げている。返してくれと言おうものなら、核を落とすぞとかまた人工地震をお見舞いしようかと脅してくるにちがいない。
 アメリカは日本と支那が国債を買っているから、贅沢をいまだにやれている。

 アメリカは日米同盟を結んで、中共や南北朝鮮の「脅威」から日本を護っていることにしないと、国債を日本に買わせられない。だから、アメリカが中共、南北朝鮮と示し合わせて、日本を脅し続けることで、国債を買わせ、アメリカ人は怠けながらリッチな生活ができる仕掛けなのだろう。中共も韓国も、日本からのオコボレで国を発展させることができた。
 こんな旨い話はないから、これからだって、奴らはデッチあげやらイカサマやらで日本にたかることを止めない。

 そうした日本のカネが国連やら支那やら韓国やらに吸い上げられる仕組みの中にあるのが、役人の天下り先の、無数にある特殊法人、公益法人などやNGO などが日本人の稼いだカネにたかり、庶民をあざむく豪奢な暮らしをやらかしている。
 さらにこうした天下り法人が系列の株式会社までつくって、民業を圧迫する。元の原資は税金なのに。
 マスゴミの人間も、官僚とつるんでいるから、こういう実態は決して報道しない。なにが「知る権利」だ。

 日本の財政がどうのこうのと言う際に、マスゴミも財務省も政治家も、口を揃えて一般会計の話だけとは、こんな異なる風景はあるまい。各省庁が牛耳る特別会計はオクビにも話題にされずに、「日本は財政破綻だ」と平然とウソをつく。ほとんどの庶民は特別会計の存在を知るまい。
 
 先日、賭博の話をしたけれど、役人どもは公営ギャンブルをやらかして、庶民から不正なカネをふんだくって、天下り先を確保維持している。だから非合法のヤクザのギャンブルは許さず摘発するのである。テメエたちの取り分がなくなっては困るからだ。
 マリファナや覚醒剤の摘発も同じで、財務省の巨大な財源であるタバコが吸われなくなっては困るからである。

 財務省は、マスゴミや経済研究者、経済評論家らをアメとムチで言いなりにさせる。先にも言ったが、財務省の内幕を暴いたり、やりかたに疑問をしゃべったりすると、ただちに国税庁が押し掛けて嫌がらせをやり、難癖つけて課徴金を科して恫喝する。一方で、新聞社にだけ情報を流してやって恩を売り、大学教授らには政府のなんとか委員会の委員なんかにそれとなく誘うのである。

 何度も本ブログで紹介してきたが、官僚は多くが世襲同然になっている。そのわけを評論家・広瀬隆氏が、東大とか国家公務員試験の問題を、官僚の子弟には裏で教えて、合格させているからだと暴露していた。
 それはそうだろう。日本の官僚は実質国を支配して好きなように税金をしゃぶれるのだ。採用自由にして、旨い汁を吸えるものを手放すはずがない。

 だから官僚にはごく一部に愛国者はいても、大半は国益なんかどうでも良いのである。自分が贅沢な暮らしを保証してくれる省益だけ。よく国会中継のテレビを見ていると、国会議員の席の後ろで(一見)小さくかしこまっている官僚どもが映っている。それらの顔つきの卑しいことといったらない。

 まずは官僚の世襲は禁止する法律を作ってほしいものだ。どうしても官僚の子や孫が国家公務員になりたければ、「持参金」1億円ほど積んでこいとしてはどうだろう。祖父母や父母が官僚でない人は持参金はいらない。特別会計の明朗化、廃止が行なわれれば、庶民の暮らしはもっと良くなる。
 役人は生涯賃金で割が合わなければ、悪徳官僚が減り、官災も減って行くのではないか…。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☔| Comment(7) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年06月01日

なぜ庶民の暮らしは貧寒になるのか(1/2)


《1》
 日本には1049兆円の国の借金がある(今年3月末時点)、と財務省はしかめ面で発表し、マスゴミ、その取り巻き御用経済研究者や評論家ども同調するけれど、真っ赤なウソである。
 昨日(5月31日)NHKの「シブ5時」でも、解説者が平然と国の借金は1000兆円もあるとデタラメをしゃべっていた。
 債務だけ見ればそうなっていても、国家財政のバランスシートで見れば、資産がまったく語られないなんてバカなことを、財務省やマスゴミは垂れ流して国民を騙しつづけている。

 資産から債務を引くと(連結ベースで)マイナス四五〇兆円ほどで、さらに日銀の資産(国債)を加えて引けば、せいぜい百兆円程度の借金だそうだ。
 こんな程度では、世界中のエコノミストは誰も問題にしない。当たり前だ、無借金で運営している国なんかどこにもない。

 今、連結ベースと言ったが、これは最近外圧で渋々財務省や経済界が採用した決算方法だが、日本はずっと単体ベースで決算を発表してきた。これは会計のごまかしである。
 財界用語で言うと、連結ベースとは親会社と子会社を合わせた業績のことで、反対に単体ベースは子会社を含めない親会社だけの業績である。

 親会社は子会社を自由に支配できる。親会社の売上が伸びなかった場合、親会社は子会社に自分の商品を、無理矢理、大量に売りつけることができる。新聞の押し紙もそれに似ている。JALが倒産したとき、全日空もピンチだったが子会社に赤字を押し付けて、親会社は健全であるかのように装ったと言われる。
 親会社の、ちょっと出世から外れた役員を子会社に天下りさせて(左遷させて)おいて、無理難題を押し付ける風習が続いた。

 親会社だけで見ると、業績は良好に見える。投資家等はそれを見て間違った判断してしまいかねない。株価も操作できることにもなる。だから、親会社と子会社を合わせたトータルで業績は判断しなければ、本当にその会社の業績が良いかどうかを判断できないので、最近は連結ベースが主流になってきた。

 財務省は逆で、単体ベースで決算をしていれば、国民には国家財政は大赤字だ、破綻する、だから税金を上げるしかない、もっと絞るぞ、と言える根拠ができる。実に陰険。やつらは景気や雇用なんかお構いなしで、ひたすら税金を取ることだけで頭が一杯なのだ。

 財務省は各省庁も含めて、多数の公益法人や特殊法人を税金で支えて抱え、さらにそれら法人が営利事業を行なうために株式会社を設立している。ざっと3000社とも言われる。仕事を与え、子弟を就職させ、報酬を上げ、配当を得ている。

 こういう実態が連結ベースで見られると、バレてくるから、単体決算でやってきたのだ。

 マスゴミも、やっぱりこういう裏事情なんかは決して報道しない。
 大衆は国家財政が連結ベースか単体ベースかなんて、知らないままだ。
 マスゴミではほとんど報道されないが、国にはシニョリッジ(貨幣発行益 通貨紙幣の額からコストを差し引いた分)が発生しているから、お金を刷るだけで儲かる仕組みになっている。日本の円は絶大な信用があるから、全然心配ない。刷ると言ったが、現代では実際に紙幣を印刷しなくても、コンピュータ上で増やしたり減らしたりしているそうだ。

 このことは、「経済コラムマガジン」で教えてもらった。新聞ではさっぱりわからない経済がこのサイトは分かりやすく説いてくれる。
 みなさんも毎週更新されるからご覧になると良いと思う。
http://adpweb.com/eco/
 このサイトでは「日本の『財政』に関わる話は嘘ばかりである」と断言している。

 財務省は「国債は暴落する」と、まことしやかにマスゴミを通じて国民に不安を煽っては、この莫大な資産を隠す。財政再建しないと外国人投資家が日本経済の先行きを不安視して国債を売るから、暴落だと言ったが、本当のところ、外人保有率はほんのわずか(10%弱)。
 大衆は、財務省の偉い方が言うんだから、国債も暴落するんじゃないかと怯え、消費マインドは起こさなくなる。萎縮する。
 
 だけど、ず〜〜〜っと「暴落する」と耳に吹き込まれながら、そうなっていない。国民は騙されたのに、もう忘れている。
 こうした経済の真実を知ることがネット社会で可能になって、哀れマスゴミもエコノミストもバカにされるようになった。

 そういう真相を新聞テレビしか見ないB層がまだたくさんいるから、騙されて、「消費税上げやむなし」などと、世論調査で答えるから、財務省はしてやったり、なのだ。

 安倍内閣は、現状、最もましな政権である。民主党政権のころは日本は尾羽打ちからしていて、G7でも首相は小さくなっていた。存在感なし。しかし今は安倍首相が活躍して、日本が主導権をとってくれないと困る情勢になっている。
 媚韓・舛添都知事のデタラメ外遊と違って、安倍首相の就任以来のたくさんの外遊は、実に日本の存在感を高め、日本人の気持ちをわずかながらも前向きにした功績は大きい。

 高山正之氏が語っていたが、民主党時代と比べて今は日本人が胸をはるようになってきた、と。その認識がおよぼす経済効果は計り知れない。
 このチャンスに消費税を5%に戻せば、ぐっと景気は持ち直してくるのではないか。来年には消費税をなにがなんでも10%に上げるぞと言われて、国民はもう怯えて物を買えない、自己投資もできないでいる。

 なのに、元民主党だの朝日新聞だのはアベノミクスは失敗だとヒステリーを起こしている。悪意むきだし。
 元民主党政権のころは失業率が悪化し安倍政権になって良くなった。今は人手不足とまで言われる。企業の倒産件数も民主党のころより減って、今は戦後で最も良い数字になった。GDPも安倍政権は良くなっていたのに、消費税を8%にして落ちてしまった(財務省の罪である)。民主党時代はデフレまっただ中だったが、安倍政権になって消費者物価指数は上昇に転じ、やはり消費税増税のせいでやや停滞。すべて財務官僚と元民主党が悪い。

 株価も民主党政権最後のころは日経平均8000円程度だったが、今は16000円前後で倍になっている。極端な円高も修正された。それでも、安倍政権もこの不可解な国家財政の実態を国民に知らせないから、私はどうしても信用できない。
 石川啄木じゃあないけれど、庶民は働けど働けど暮らしは楽にならなくて、じっと手をみるほかない。そこそこ潤っているのは役人だけであろう。

 国の資産は、多くは役人どもの天下り先だから、官僚どもは黙っている。追及されると具合が悪くなる。だからバランスシートは絶対に持ち出さずに、借金がこんなにあるから「財政再建しなければならない」ゆえに増税だ、と国民を脅す。財政が行き詰まれば、みなさんの福祉もやれなくなりますよ、いいんですか、と恫喝してくる。

 それはおかしい、財政に問題はないと真実を語ろうとする政治家や評論家は、国税庁を使っていらざる査察に押し入って、嫌がらせをやり黙らせる。
 特別会計の闇を追及しようとした石井紘基氏は、殺された。
 もし安倍首相が消費税を上げずに、5%に戻そうものなら、財務省は即刻福祉関連予算を大幅に減額する手を打ってくるに違いなく、総力を上げて安倍降ろしをやるだろう。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☔| Comment(3) | エッセイ | 更新情報をチェックする