2016年06月07日

輝ける古墳造成時代(2/2)


《2》
 この四世紀間、日本人はせっせと土木工事に勤しみ、広大な田圃を造り、主食を増産して、人口を増やすことに成功した。土木工事の技術は、道路の建設や巨大王宮の建設に生かされていく。
 近畿地方から地方へ、大きな道路が敷かれていき、これによって中央政権が地方の支配をつつがなく遂行できるようになっていくのだ。

 地方の豪族にまつろわぬ動きがあれば、ただちに軍隊を差し向けることが出来るようにもなっていったろう。中央と地方の連絡も、整備された道路のお陰で早く確実にできるようになっていく。
 それは統一王朝の出現と維持を堅固なものにした。やがて飛鳥時代になって、日本独自の「文化」が花開くのである。仏教は6世紀前半に伝来したようだが、それが寺院や仏像をしっかり造るようになる。

 かねてよりの私の持論だけれど、日本人の脳細胞が幾たびかの戦乱を経ることで、飛翔したのである。例えば源平騒乱のあとの鎌倉時代の文化、南北朝戦乱後の室町文化、戦国時代後の江戸初期の元禄文化といったようにである。戦乱で日本人全体での体軀と認識がシビアな反映を強いられ、磨かれるからであり、戦乱が終息して平和になって、文化的な活動が落ち着いて出来るようになって、一気呵成に独自の文化が花開くのである。

 それにならえば、古墳がしきりに造成された時代、すなわち土木開墾が行なわれた時代は、人々はそれまでやったことのない運動を強いられたのである。強いられたといっても、奴隷の苦役ではなかったから、辛いには辛い労働だとしても、希望があった。これで飢餓に苦しまなくて良くなる、腹一杯飯が食える! との目的があった。

 だから開墾灌漑の工事をしながら、言うなれば楽しく、前向きに捉えながらの労働でもあったはずである。
 これは空手の修行でも言えることで、道場で厳しい練習をするにあたって、嫌々やれば上達はしないし、五感器官が鍛えられることでアタマは良くならない。
 よしんばどんなに肉体的にしんどい練習であっても、喜んでやれば、上達も早いし、アタマも良くなる。

 空手の達人になる修行では、たとえばモッコを担いで山を造り、足で踏み固め、さらに土を盛っていく。あるいは一抱えもあるような樹木を素手で引っこ抜く。巨木を担いで移動させる。こういう修練をわが流派が行なっていることは、学問誌『学城』をひもといている方なら、承知しておられるだろう。

 辛い労働でも夢をもって、前向きにやればすばらしい成果があがる。それまでやったことのない運動と、五感の反映で、人々は体力がつくだけでなく、アタマも飛躍的に良くなったのである。
 これは戦争とは違うけれど、それまでの日本人がやったことのない労働だったのである。人民が総動員されて、広大無辺の土地を、重機もないのに森の木を引き抜き、薮を払い、真っ平らにならし、モッコを担いで山を築いていく運動が、すさまじく手足の感覚器官を鍛え上げていった。

 神経は躍動的に動かされ、その元締めの脳も画期的に揺さぶられた。
 そのうえに、食事が充実していったから、実体への栄養も行き渡った。食事が重労働をも可能にした。
 認識は感情で創られるのである。感情(機能)をはぐくむためには、五感器官の実体が立派にならなければならない。五感器官を喜んで駆使する労働と、栄養がとれたことで、その感情のレベルが見事になっていった。

 さらに言えば、この土木工事によって、われらの先祖は、技術というものが生活を豊かにし、国を富ませ、強くすることを学習したはずである。
 例に挙げるのは悪いけれど、アフリカとか東南アジアとかでは、日本人のようないわば「技術信仰」とでもいうような、向上心はついに生まれなかった。後進国の奥地はまるで縄文時代が今日まで続いているような案配であったではないか。テレビのドキュメント番組で見たが、インドネシア奥地の山村では、カマドすら作る知恵が生まれなかったのだ。

 カマドと、ただ石ころを組んだだけの焚き火では、煮炊きするための火力に大きな差がでる。焚き火では火力が得られないから、いきおい森林から大量の薪を伐採してこなければならず、結局ハゲ山となり、砂漠化していく。人々の生活がいよいよ困窮していった。
 暗澹たる厭悪が何千年と続くまま。

 日本では技術が誕生したのである。今日も、「技術立国」とか「技術大国」と自他ともに許すこの実力は、世界を圧倒している。その曙がこの時代だったのではあるまいか。
 仁徳天皇一人の功績ではないけれど、彼が技術立国日本の礎を創ったと言っても良いのではなかろうか。

 国が富むことで、わが国は支那や朝鮮からの侵略にも耐える実力もいっそう付いたことだろう。開墾工事をみんなで力をあわせてやることで、団結力ができてきたこともあっただろう。
 もしかすると、みんなで力をあわせることの経験から、「和」の大事性が強く認識されるようになったのではなかったか。
 聖徳太子の「十七条憲法」ができるのは、ちょうど古墳の造成=開墾が終わりつつある頃だった。

 「和をもって尊しとする」とは聖徳太子一人の思いつきではなく、あの憲法が発想され、また受け入れることのできる「社会的共通認識」が育っていたから成立したのである。ここからも、どれほど日本人全体のアタマが良くなっていたかの証拠が見てとれる。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(3) | エッセイ | 更新情報をチェックする