2016年06月08日

新聞書評欄が日本をダメにする


 新聞にはたいてい書評欄がある。週刊誌や月刊誌にも。日にち毎日、夥しい数の書評が出る。
 こんな奇習があるのは日本だけだとか。
 新聞や雑誌に書評が載るのは、本好きな人がそのページを見ては、参考にして本を買うため、とは表向きの理由で、実は出版社の広告を書評の側に掲載して広告料を取るためである。

 毎日新聞でいうと、毎週日曜日に3ページも費やして書評が載るが、その1ページ目は必ず岩波書店の広告がドンと出る。つまり新聞は、岩波書店の広告欲しさに書評を載せる。 
 当然、書評で取り上げる本も、広告主の出版社の新刊が優先される。岩波の本が麗々しく書評に取り上げられる次第である。

 それならそれで、新聞・雑誌が書評欄は半分広告です、と断ればいいのに、ずるく、真面目に良書を取り上げて論じているかのような体裁をとるから、小賢しいったらない。
 ささいなことのようだが、こういうウソ、ごかましが、次第に社会に蔓延し、三菱自動車、タカタのエアバック、東亜建設の羽田空港滑走路データ不正、舛添の公金横領などの道義地を払う事態へとつながっている。

 もう30年も前のことだから、今はどうだかわからないが、都市で配られるタブロイド版夕刊紙にも書評欄があった。わずか百字か二百字でまとまっているものだったが、これはその夕刊紙の書評担当が選んで書いているのではない、と教えられたことがあった。
 本を出した出版社の編集者が、その夕刊紙向けに「書評」を書いて持って行き、掲載してもらっているのだった。

 あたかもその夕刊紙が評しているかのような原稿を書いて、ぴったりの字数で提出する。
 新聞には、「ラテ欄」と称して、ラジオ、テレビの番組表がたいていは最後のページに載っている。そこに、新番組の紹介が載る。あれも新聞社側が書いているのではなく、テレビ局か芸能プロが書いて、「載せてちょうだい」と持って行くにちがいない。絶対に新番組をけなさないから、それと知れる。

 評論家や大学教授らが書く書評は、一見すると真面目そうであるが、あれはいうなれば著述家たちの「帆待ち仕事」である。本業以外の小遣い稼ぎ。大学の給料だけでは贅沢ができないから、せっせとこの手の「帆待ち」で忙しい。読みもしないで本を論じる者もいるやに聞く。それは書評を読むとなんとなくわかる。書評のはずが、自分の意見ばかり書いてあるとか。

 著述家はどこの出版社とも知り合いだったり、友達の友達はみな友達だったりするから、書評を頼まれたらその本の版元に連絡して、梗概を見せてくれとおねだりして、それを入手しては、さも自分が書いたようにデッチあげる。いうなればもう軽業師の所業だ。

 それにこの業界では、批判的書評は好まれない。貶価はご法度。八分は誉めて、二分ほど書評者が著者へ注文をつける程度になる。気持ちが悪い美辞麗句が踊る。
 したがって、業界では売文業者同士の社交と化しているのが、わが国の伝統であるらしい。

 マスゴミは広告をくれる大企業の不祥事や、役所の怠慢などを絶対に報道しないのも、社交場にしているからである。根は同じ。そうやっておいて、新聞各社は「押し紙」という犯罪行為を平然とやってきて、互いに「おぬしも悪よのう、フフフ」と言いあっている。

 人様を貶したら、今度は自分の著作がその憂き目に合わないともかぎらないから、批判は避ける。自分の著作がボロクソに言われない「保険」として、当たり障りなく褒めておくわけだ。
 そのため、書評が批評よりも紹介に重点を置くことになっている。

 昔は平野謙とか谷沢永一のように、真面目に仕事をした人はいたけれど、今はどうか?
 朝日新聞の記者ではあったが、百目鬼恭三郎は筆名「風」で、長年「週刊文春」誌に『風の書評』を書いて、その博覧強記と歯に衣着せぬ舌鋒で、著述家たちを震えあがらせたが。その百目鬼も、朝日の書評で級友だった丸谷才一の小説を絶賛し、江藤淳から仲間褒めだと批判されたから、全面的には信用できなかった。

 先に言ったように、書評は本の紹介の役割を担っているのが実態だから、本を選ぶのに書評を利用しよう、偉い知識人が言うなら確かだろうと思う人は、考え直したほうがよい。
 谷沢永一は「率直でオープンな書評は日本ではほとんど期待できないと考えたほうがいいでしょう」と述べている。

 それにサヨク反日新聞は、左にバイアスが掛かっているから、例えば『余命三年時事日記』なんかはベストセラーになっていても、無視するのである。
 NHKテレビでも中江有里という女優兼作家が、今週の推薦図書なんてことをやっていたが、これも支那や韓国を批判したり、戦前を評価する本などは取り上げない。公器なのに勝手にタブーを作る。

 最後にひとこと。
 南ク継正が有名じゃない、マスゴミに取り上げられない、だから評価するに値しないと言うご仁がいるけれど、それはここまで書いてきたことをご理解いただければもうわかるだろう。
 恐くて新聞雑誌も、評者たちも手が出せないのである。学的レベルが高過ぎて歯がたたない。

 ジャーナリズムや書籍は、評する者と評される者が同業者という世界なので、真っ向勝負の批評などやったことがない、しょせんは「帆待ち仕事」でやっつけだ、でもある。
 南ク継正先生がマスゴミに出るのを避けておられることもあるが、マスゴミは大学や既存出版社などの徒弟制で成り立っているから、誰も取り上げようとは思っていない。

 吉本隆明氏も晩年は書評が良く出たが、若い頃はジャーナリズムから無視された。恐くて手がだせないからだ。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☔| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする