2016年06月20日

たかが出汁、されど出汁(1/2)


《1》
 ある友人とお茶をしていたときに、それぞれ食事は自分でちゃんと玄米菜食中心につくっているという話になり、ついで出汁の取り方に及んだ。「出汁はどうとっているの?」との問いに、彼女は「顆粒だし」と答えた。
 ちょっと待て、と。昆布や鰹節じゃないのか? 「ええ、つい面倒で」と答える。
 さて、お立ち会い。そこから私の説教が始まった。

 出汁を化学調味料で済ませるって、それは日本が好きではないのだ。
 出汁こそ日本文化の粋。他国には「出汁」もなければ「旨み」という言葉もない。「おいしい」という形容詞はあっても。素材や調味料の味と香りはあっても、ひと手間かけた出汁の旨みと香りがないのが、外国の料理である。

 イギリスなんかその典型。旨みを味わう認識がないから、頭が良くならない。実際、イギリスは7つの海を馳せて世界帝国を一度は築いたが、植民地が独立していくと、収奪ができないために凋落の一途を辿った。もはやクルマも作れない。

 支那や東南アジアでは「味の素」がさかんに使われる。彼らも遅まきながら、化学薬品ではあるが出汁にちょっぴり気づいた。でもきちんと手間ひまかけて出汁をとらないから、永遠にアホ。
 日本では表だって「味の素」のような化学調味料は激減したことになっている。「味の素」を食べるとバカになると噂が出、舌がしびれるなどの症状が世間に伝わって、食卓からあの赤い小ビンがかなり消えた。

 しかし日本では化学調味料の消費量は減っていない。どこに隠れているかといえば、加工食品に、である。「グルタミン酸ナトリウム」では評判が悪くなったから、「調味料(アミノ酸等)」と表示されるように代わった。加工食品のほとんどにこの表示がある。「あしたのもと、味の素」などとCMを打っているが、よくも図々しく、である。「あしたの癌の素」じゃないのか。

 顆粒の出汁の素には「天然だし」と書いている商品もあるが、それはごく一部が天然というだけで、半分は化学調味料である。ちゃんと商品の裏側には「調味料(アミノ酸等)」と表記されている。
 そのくせ「純だし」「黄金だし」などの得手勝手な商品にして消費者を騙すのだから阿漕(あこぎ)である。
 「化学調味料無添加」もあるが、それでもこれは人工的に処理されている。「調味料(アミノ酸等)」がない分、割高な商品を作っているだけ。毒に変わりはない。

 なんもむずかしいことはない。
 例えば朝、鍋に水をいれて昆布と干し椎茸をぶち込んでおく。夕方それを火にかけて沸き立ってきたら鰹節を投入する。しばらく煮てから冷まし、昆布などを取り除いて、冷蔵庫に入れておくか、冷凍しておけば、すぐに味噌汁やおひたしやらに使える。

 出汁をとったあとの昆布は、自家製の昆布の煮〆にすればいい。干し椎茸は、吸い物にも煮物にも入れればいい。煮干しのカスは犬猫にくれてやってもいいが、私は食べる。
 作家で料理研究家だった丸元淑生は、野菜クズで出汁をとることを推奨した。ネギの根っこ、椎茸の石突き、ピーマンの種、蕪のヘタなど、簡単に捨てているものを、冷蔵冷凍して溜めておいてから、鍋で煮て、エキスを取る。

 こういう野菜から栄養素がたっぷり出ておいしい出汁(スープ)になる。とった出汁は小分けにして冷凍しておけば、味噌汁や煮物に加えられる。たいした手間ではあるまい。テレビやスマホをいじっている間にできてしまうほどだ。
 ついでに言うと、醤油も出汁の一種だが、私は醤油をつかうときに能登産の「いしり」や秋田の「しょっつる」をちょっと加える。そうすると良いコクが出る。「いしり(いしる、とも)」はイカとイワシがあるが、私はイカのほうがおいしいと思う。

 顆粒だしなら、スプーン1杯鍋に放り込むだけで簡単ではあろうが、これも弁証法性であって、プラスとマイナスが両方存在する。簡単ですむというプラスの面を得れば、栄養が不十分、人工添加物を摂取する、怠け者になるなどの多くのマイナスが生じる。

 その手間ひまを惜しまないこと、これが日本を愛することではないのか。私たちの先人は、とくに日本のお母さんたちが営々と手間をかけて出汁をとり、おいしい味噌汁や煮物を子供に食べさせてくれてきて、日本文化の優秀性が創られてきた。そのありがたい伝統を、忙しい? 怠けたい? それで放擲していいのか? 次代に引き継ぐ責任は考えないのか?

 また、こうも言った。あなたのお子さんにもきちんと出汁をとることは躾けないといけない。そうすれば子や孫が栄養の豊かな食事をして健康に頭がよくなり、認識が歪むこともない。
 出汁は面倒だというなら、それは子供の教育も面倒だからやらない、というに等しい。良い子に育つ努力がいやだって、どういうこと?

 先月半ばに、東京でアイドルをやっている女子大生が、ライブ会場の前でストーカーに刺される事件がおきた。あのストーカーをやった男は、まず絶対に母親が出汁をちゃんととった旨い味噌汁を飲ませていなかったに違いないのである。原因はそれだけではないにせよ。

 以前にも書いたことだが、世の中にはグズな人間がいる。たいていの人はそれは生まれつきグズなんだ、で済ませてしまうだろうが、それではいけない。
 なにが原因で(何とどう相互浸透して)、どのようにそれが量質転化したあげくの「グズ」になっているかを研究しなければならない。

 グズになる理由の一(いち)が、食事次第、これである。
 自分で食事を作らないことと、親が作った食事がダメな場合の二重構造である。
 まず母親が料理がへたで、つくってもまずいものしかできず、たいていは面倒がって出来合いの総菜や弁当だけ買って家族に食わせるようだと、子供はほとんど例外なく学校の成績は悪くなり、運動神経も悪くなり、ドンクサイ子になる。

 よしんば母親がちゃんと料理をつくって子供に食べさせる人であっても、子供本人(女でも男でも)が長じて自活しなければならなくなったときに、面倒がって料理を作れない生きざまを選択すれば、これまた愚鈍に転落していく。

 まともな出汁になる昆布、鰹節、干し椎茸、煮干しその他、みんな自分の家庭の食事になるまでは、多くの人の手で、手間暇かけて作られてくる。漁師が、お百姓が、苦労して育ててくれ、また尊い生命体の命をいただいて(奪って)くる過程がある。

 人工添加物みたいに、簡単に手に入るものではない。ややもすれば、子供は肉も野菜も海藻も、スーパにあるものと思ってしまうだろう。素材がなんだかも知らずに出来合いの総菜やコンビニ弁当で育てば、生き物への感謝、魚をとってくれ、野菜を栽培してくれ運んでくれた人たちへの感謝が生まれない。人の気持ちがわからない。殺される家畜の気持ちがわからない人間になる。

 以前のブログではピアニストだった中村紘子を取り上げた。彼女は、料理はいっさいしない女だったから、そんな炊事もできない女にピアノが上手になるわけがないと書いておいた。指の動きだけは達者になっても、手に心がこもらない。手に心がこもらないでピアノを叩いたって、人の琴線に触れる音は出せないのである。

 手に心がこもる、感情がこもるためには、料理をして、夫のため、子供のために健康になるように、おいしく食べてくれるようにと、心を込めて炊事することが肝心である。
 そうした基礎中の基礎を蔑ろにして、ピアノだけ弾いたって、若いうちは美人だとかなんだとかでチヤホヤされても、やがてキリギリスみたいに秋風が吹いてくればおしまいになる。

 私の知り合いにも、若い小説家志望の男がいるが、独身で食事はいつも外食だというから、「君には文学はできないよ」と言ってある。文章を書きつけるにしても、その指先に感情がこもる訓練を日常生活のなかでやらないでおいて、傑作は書けなくなるのである。

 食の乱れは家庭の乱れ、家庭の乱れは社会の、そして国の乱れになっていく。健全なる精神は、健全なる舌にあり、とも言えよう。
 母親が子供に、夫に、まともな食事を創らず、インスタントに堕ちれば、舌の味覚も香りを味わう嗅覚も育たない。五感の一つが鈍感なまま、それでみずみずしい感性が育つはずがない。

 出汁の取り方が人生を左右する!



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする